今週の木曜日19日に、「授業してたのに処分」事件訴訟の東京地裁判決が言い渡される。「授業してたのに処分」事件とは、まことに言い得て妙なネーミング。言うまでもなく、教員の本分は授業をすることにある。都立福生高校教員であった福嶋常光さんは、誠心誠意その本分を尽くしていたがために減給6か月の処分を受けた。「授業してたから処分」と言ってもよい。
経緯はこうだ。2005年3月の卒業式において、福島さんは2回目の不起立で減給1か月の処分を受けた。処分を受けると、引き続いて嫌がらせの服務事故再発防止研修の受講を義務づけられる。明らかな思想良心に対する追い打ちの侵害行為だとは思いつつも、これを拒否すればさらなる「職務命令違反」となりかねないのだから、受講せざるを得ない。この再発防止研修は戒告処分者に対しては一般研修で終わるが、減給以上処分を受けた者に対しては、追加して専門研修の受講を命じられる。
福島さんは、滞りなく一般研修は受けたが、専門研修として通知された当日には5時間の授業があった。しかも、どうしても他の教員に代わってもらうことができない。当然の処置として、福嶋さんは都教委に研修の日程変更を申し出た。しかし、都教委は日程変更が可能であったのに、何の理由もなく変更を拒否した。都教委にとって、生徒の授業を受ける権利も、教員がその本分を尽くしたいとする情熱も、何の関心の対象でもなかった。ひたすらに、「日の丸・君が代」強制に抵抗した怪しからん教員に対する徹底した嫌がらせの貫徹だけが関心のすべてであった。
福嶋さんは、戸惑ったが、結局は生徒に対する授業を優先した。こうして、普段通りの授業をしていたことが、減給6月の重い処分となったのである。これが、石原・猪瀬教育行政の実態である。信じられることだろうか。
19日、福嶋さんは必ず勝訴判決を得ることになる。理由を説明するのは煩瑣だが、訴訟の過程が福嶋さんの勝訴が100%確実であることを物語るものとなっている。
予め申し上げておきたい。こんな事件のこんな判決に都教委は控訴してはならない。恥の上塗りをするだけになるのだから。誠実に福嶋さんと生徒や父母たちに謝罪し、こういう馬鹿げた処分をした責任を明確にして、再発防止策を講じなければならない。
ところで同じ19日には、都教委の委員会定期会合が行われる。この席で、7名の教員への再処分が行われる可能性がある。しかし、「授業してたのに処分」事件の如く、都教委の処分はめちゃくちゃであり、既にぽろぽろなのだ。残念ながら、東京地裁判決が13時15分言い渡しであるが、教育委員会は午前10時開催である。だから、よく言っておきたい。その日の午後に、あなた方は全面敗訴の判決を受けることを肝に銘じなければならない。それでも、再処分ができますか。
最高裁で減給処分を取り消された現職の都立高校教員は7名。10月25日、この人たち全員に、改めての戒告処分発令を前提とした「事情聴取」が強行されている。これまで、「再処分をするな」と都教委に申し入れをしてきた。日本共産党東京都議団も都教委第19回定例委員会開催の前日11月27日に「再処分を行わないよう」都教委に申し入れている。
都教委は、最高裁から、違法な行為をした旨断罪された。よくよくのことと、恥じ入らねばならない。謂わば、最高裁からブラック官庁の烙印を押されたに等しい。まずは謝罪し、二度と同じ過ちを繰り返さぬようしっかり反省し、責任者を明確にして、再び違法な処分をすることのないよう再発防止策を講じて公表すべきである。それを、あろうことか居丈高に居直って、再処分とはなんという破廉恥。
よく知られているとおり、憲法39条は、「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない」と定める。前段が「遡及処罰の禁止」、後段が「一事不再理」ないしは「二重の危険の禁止」と言われる原則である。後段が本件に直接関わるの問題となる。当然に、本件へのこの条項の適用ないし準用の可否が問題となる。
憲法は、公権力が捜査権や刑罰権という形で発動される刑事事件について定めているが、科刑に類する公権力の発動の場合にも、準用すべきだというのが有力な学説。懲戒処分は当然に含まれると解すべきである。再処分がなされれば、当然にこの点だけで最高裁まで争う大きな裁判になる。
一般職公務員の懲戒処分についての適切な裁判例は見つからない。しかし、「地方公共団体の議会の会議規則中議員懲罰に関する実体規定を、規則制定前の議員の行為に適用し懲罰議決をすることは違法である」とする、1951年4月28日最高裁第3小法廷の除名決議取消請求事件判決(民集第5巻5号336頁)があり、また、1958年9月30日福岡地裁の「地方公共団体の議員に対する議会の懲罰については、刑罰とは異なるけれども、一種の制裁という意味において、同一事実に対し重ねて懲罰を科し得ないという一事不再理の原則が導かれる」としているという判決がある。したがって、すくなくとも、地方公共団体の議員に対する懲罰については、遡及処罰の禁止及び一事不再理という憲法39条の前段後段ともに準用が認められていると言えそうである(「論点体系判例憲法2」など)。
高度な自律権を有している議会の議決において、39条の準用が認められているのであれば、一般職の公務員にたいする自治体の処分についてはなおさら、というべきである。
予め都教委に警告しておきたい。法律論を云々するまでもなく、再処分などはおやめなさい。最高裁裁判官多数の補足意見に耳を傾け、良識ある都民の共感を得る教育行政に姿勢を戻していただきたい。石原後継の猪瀬都政も、この先短いことが明らかではありませんか。 ********************************************************************
人はそれぞれに、独自の関心領域をもっている。関心が人と共通することはなかなかにない。だから、自分の関心事を勢い込んでお話ししても、「それがどうした?」「それって、何か大切なことなんですの?」と言われることがオチ。今日の話題は、典型的なその類のオハナシ。
グーグルの検索サイトで、「憲法」というキーワードを打ち込むと、700万件を超えるサイトの標題が紹介される。どのような基準でその順位が付けられるかについては何の知識もないが、700万件のトップテンとなって、冒頭のページに掲載されるとすれば凄いこと、だろうな。そう、思っていた。凄いことではあろうが、できっこないとも。
それが、できたのである。当ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」が、グーグル「憲法」検索サイトで776万件のトップページに掲載された。これは事件だ。但し、極めて個人的なレベルでの「事件」。そして、どう凄いんだか、説明のしようもない。
たまたま、一昨日にトップページ入りに気がついた。本日午前中には、「澤藤統一郎の憲法日記ーarticle9.jp」が第6位。そして、「澤藤統一郎の憲法日記ー日本民主法律家協会」が第7位である。「瞬間最高地位」である可能性が高い。記念に、プリントアウトして保管しておこう。これまで、私のブログをお読みいただいた方には、心から感謝申し上げる。
もし、フロックな順位ではないとなれば、もっと順位が上がる可能性もないではない。ちなみに、不動のトップは「e-gov」の「日本国憲法」。2位が、ウィキペディアの「憲法」。3位が同じくウィキペディアの「日本国憲法」、4位が沖縄タイムスの「憲法講座が花盛り」の記事。そして5位に「憲法条文・重要文書ー国立国会図書館」がある。政府のオフィッシャルな憲法条文提供サイトには勝てそうな気はしないが、もしかしたらウィキペディアを抜くことなら…。今後はウィキペディアがライバルだ、と意気軒昂…。
なのだが、「それがどうした?」「そんなことが、なにか?」と言われれば、「いや、別に。なんということも…」と口ごもるしかないのだが…。
(2013年12月15日)
1702(元禄15)年12月14日深夜、元赤穂藩士47名が本所松坂町吉良邸を武装襲撃し、高家筆頭吉良上野介義央と警護者16人を惨殺した。負傷者は23名とされている。
この徒党を組んでの大量殺傷事件に対して、切腹の刑が内示されたのは翌年2月3日。翌4日に、犯罪者らが預けられていた細川(熊本)・松平(伊予松山)・毛利(長門長府)・水野(三河岡崎)の各藩邸で、46人の切腹実施となった(1人足りないのは、寺坂吉右衛門が討ち入りの顛末を各方面に報告の任務を帯びて逃げ延びたため)。
前年3月14日赤穂藩主浅野内匠頭長矩が殿中松の廊下で吉良に斬りつけた殺人未遂事件への裁断が「即日の切腹」だったことに比較して、科刑の判断が年を越して、事件から50日後と大きく遅れたのは、助命嘆願の運動が大きかったことと、江戸市民の世論動向に幕府も神経質になって迷いがあったからである。将軍綱吉自身が迷いを見せていたことが記録(「徳川実紀」)に残っているという。
47人の行為は、明らかな集団犯罪。しかも、幕府の秩序に対するあからさまな擾乱行為として、取り締まり当局としては到底看過し得ない。一方、支配階級である武士のイデオロギーにおいては、「忠」こそ最高道徳。死を覚悟して主君の仇を討った「義士」の刑死は封建道徳への侮蔑ともとらえられかねない。
秩序維持のための処罰要請と、封建道徳称揚のための助命の要請との矛盾をどう解決すべきか。
構成要件該当性は明確だが武士の徳目の追求という高次の正義実現という行為の目的によって違法性が阻却されて無罪とはできないか。あるいは、有罪はやむを得ないとしても、恩赦はあり得ないか。との考慮の期間として1か月余を要した。理屈もさることながら、おそらくは各方面の意見分布や処分に対するリアクションを探っていたということなのだろう。
結論は、「義士と賞しつつの処罰」。名誉刑としての「切腹申しつけ」を科することで、法治主義の要請と封建道徳(武士道)称揚の要請を不十分ながら折衷させた。荻生徂徠の建言によるところが大きかったとも伝えられている。さらに、被害者側にも知行地没収という制裁が科せられている。明らかな市民感情への配慮であったろう。
この問題は、「秩序優先か道徳優先か」と問題を整理することもできるし、「武士階級社会の道徳において、幕府への忠誠と藩主への忠誠といずれが優先するか」とも、「法治主義において復讐が容認しうるか」とも考えられる。幕政と言えども、法は整備されていた。いかに世人からの喝采があつたにせよ、陰惨な復讐劇が許容される余地はない。にもかかわらず、浪士らの襲撃行為を「義挙」とする江戸市民の「市民感情」が存在した。幕政への批判の空気の反映と見るべきだろうが、「犯罪」か「義挙」か幕政も迷った難しさがあった。
現代人の眼からは、奇妙奇天烈な「事件」と言わざるを得ない。播州赤穂の地に、正社員300人余。非正規や系列を含めば、おそらく3000人規模を誇る地元随一の大企業が社長の不祥事で一夜にして倒産したという、大量の雇用喪失事件だ。責任は、明らかに雇主の側にある。
失業社員の怒りが、思慮のない軽率な社長に向かわず、社長とのトラブルで斬りつけられ負傷した被害者側に向けられた。「君が君たらずとも、臣は臣たれ」という、支配者に好都合な特殊な道徳観念が社会に蔓延していた。これが、浪士らの犯罪に対する処罰の判断を難しいものとさせていたのだ。
このことに関して、「福翁自伝」の一節を思い出す。緒方洪庵塾の熟生時代の叙述として次のくだりがある。
「例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私は『どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする、君が不義士と言えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦しくない』と言って、敵になり味方になり、さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな、毒のない議論は毎度大声でやっていたが、本当に顔を赧らめて如何(どう)あっても是非を分ってしまわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。」
ずいぶんと昔にこの文章に接して、福沢諭吉という人物のイメージを固めてしまった。これが彼の本性なのだと、今でも思い込んでいる。彼にとっては、諸事万端が「本当に顔を赧らめてどうあっても是非を分ってしまわなければならぬという実の入った議論」の対象ではないのだ。「どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする、君が不義士と言えば僕は義士にして見せよう、サア来い。さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白い」というくらいな議論でしかないのだ。
こういう人の言っていることは怪しい。言ってることは本音ではない。ホンネは計り知れない。ホンネが分からないから、言っていることに信が措けない。そう思って以来、諭吉の言っていることすべてが、信用できないつまらない義論ではないか。
そんな議論のひとつとして、彼は、脱亜入欧を説き、中国・朝鮮の人民に対する差別意識を露骨に語ったのだ。彼こそは、ヘイトスピーチの元祖であり、本家でもある。
意見とは、「どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在」であってはならない。迷うことは当然。そのときは真摯に「ここまで考えているが、その先は分からない」というべきだ。「口の先で自由自在」に、浪士討ち入りからヘイトスピーチまで論じられたのでは、不愉快千万。
(2013年12月14日)
特定秘密保護法成立の6日から1週間。まだ、憤懣が治まらない。
本郷三丁目交差点の昼休み街宣行動は、一応今日で区切りを付けることになった。誰の指示によるでもなく、自発的に集まった人々が寒風の中で手作りのビラを撒き、みんなが交替でマイクを握った。出来合いのメッセージではなく、それぞれが自分で用意した原稿で自分の思いの丈を訴えた。参加者の意気は軒高、充実感が高い。今日は、私の出番はない。
さらにひとまわり多くの人に参加を呼び掛けて、年明けから、新しい形で定期的に街宣活動を続けようということになっている。特定秘密保護法に限らず、憲法問題で訴えなければならないことは、文字通り山積している。
名簿の作成もないが、これまで一度でも街宣活動に参加してくれた方の実数は40人近くになろう。70代が多い。身体の無理は利かないが、気持のボルテージは高い。安倍自民への怒りは心頭。今こそ何かをしなければならない、という突き上げるような共通の思い。これこそ、「前夜」の意識ではないか。
今ならまだ間に合う。明日では遅くなってしまうかも知れない。だから、今、声を上げなければならない。これが、今を「前夜」と把握する意識だ。
本日の「朝日」声欄の4投書すべてが、特定秘密保護法に関するもの。
「安倍政権に異を唱え続けよう」
「首相は、国民を軽んじたのです」
「自由を脅かす時代の再来か」
「暴挙国会 与党終わりの始まり」
「異を唱え続けよう」と言う埼玉の会社員58歳氏が、次のように綴っている。
「私の父は戦争に駆り出され、ニューギニア方面に送られて…傷痍軍人となって帰ってきた。私は大人になったある日、父に尋ねた。『なぜ当時戦争に異を唱えなかったのか』。答は、『そんなことできる時代ではなくなっていた』だった」「ここで安倍政権に異を唱えなければ、再び暗いあの時代に戻り、子や孫を苦しめるだろう。私はこれからいくらでも、特定秘密保護法に反対していく」
この人も、明確に「前夜」を意識している。
今日の「朝日」「毎日」「東京」の3紙が、いずれも社説で石破発言を取りあげている。
石破は成立した法律を読んでいない。国民や野党の批判を恐れて、さすがに報道の自由については「配慮」したはずが、彼のアタマには抜けている。ホンネを語って、報道機関に「特定秘密」についての報道の自制を求めている。要するに、「政府が秘密と指定した以上は、国民に知らせるべきではないのだから、メディアもこれに協力せよ」というのだ。
「東京」の社説が鋭く批判している。
「特定秘密を報道することに重ねて疑問を呈し、自制を求めているのだ。秘密保護法は情報統制色を帯びているが、報道をも統制する意思が潜むのだろう。
仮に他国が日本に核ミサイルを撃ち込もうとしている秘密情報を得れば、早く国民に知らせる。日本政府が極秘に核武装計画を進める情報を入手すれば公表し、国民の議論に付す?。報道機関として当然ではないか。
政府が秘密だとしても、報道機関は『報道に値する』と判断すれば、公表する。それが報道の使命である。石破氏は報道機関を政府の宣伝機関と勘違いしていないか」
まことにそのとおり。表現の自由、報道の自由、国民の知る権利に対するあからさまな敵意の表明と言ってよい。政権も与党も、ここまで来ているのだ。
さらに、である。自民党の高市早苗政調会長は12日の記者会見で、またぞろ共謀罪の創設について、「安全な社会をつくるためにたいへん重要」と発言をしている。
本当に与党と安倍政権は危ない。これをチェックすべき議会がグズグズだ。今は、誇張でなく「前夜」だと感じざるを得ない。
(2013年12月13日)
今朝、知人から、標題の書籍を書店でお買い求めいただいた旨の電話があった。今日が発売初日なのだ。せっかく出版していただいた出版社に赤字にならないような売れ行きを期待したい。
現代書館のホームページを開いてみた。
「前夜――日本国憲法と自民党改憲案を読み解く」
装丁 中山銀士
岩上安身・梓澤和幸・澤藤統一郎 著
12月12日発売!
A5判 並製 336ページ
定価 2500円+税
「日本国憲法と自民党改憲草案を序文から補則まで、延べ40時間にわたり逐条解釈し、現在の世界状況を鑑み、両憲法(案)の根本的相違を検討した画期的憲法論。細かいことばの解釈、250項目にわたる詳細な注釈で、高校生でも、分かりやすい本。」
と惹句があった。
http://www.gendaishokan.co.jp/new01.htm
初めから出版の予定があったわけではない。逐条解説のつもりもなかった。自民党の改憲草案にアタマにきた状態で、喋っているうちに、次回も、次々回もと、結局は12回のロングインタビューとなり、これを活字にしていただいた。
読み直して不足なところは多々ある。しかし、満足な物を作ろうと思っている内に、時は遷ろう。生きのよさが失われる。なによりも、しゃべりを起こしたものだから、私の発言も、梓澤君の力説にも、勢いがある。けっして解説に終始しているのではない。怒りがほとばしっているのだ。これはこれで、出版に値するものではないだろうか。読み物としても面白いのではなかろうか。
「前夜」という書名の提案があったときには、少し大袈裟じゃないかなとの印象をもった。前夜とは、「改憲」の前夜でもあり、再びの開戦の前夜であり、あるいは現行憲法の理念が投げ捨てられた「軍国主義国家」「全体主義国家」成立の前夜との意味であろう。既に、「Point of No Return」(後戻り不能点)一歩手前の状況にあることの警告の意が込められている。いま、そこまで行っているのかなとの思いはあった。しかし、一番熱心な読者である編集者が、この書物を通じてそのような危機感を持ったというのであれば、「前夜」というタイトルもふさわしいのだろうと、承諾した。
ところが、その後の特定秘密保護法審議の状況はいったい何ということだ。紛れもなく「前夜」にふさわしいのではないか。あっという間に、状況がこの書名に追いついてしまった。戦前、議会制民主々義の危機は、軍国主義の進展と裏腹だった。この185臨時国会の55日は、議員がその職責を放棄した過程だった。しかも、広範な国民の良識ある声に、敢えて背を向けてのことである。これは、ただ事ではない。
それだけではない。
自民党の石破茂幹事長は、会期中に自身のブログで、市民団体のデモを「テロ行為」と同一視したホンネを露わにして、抗議で撤回していた。特定秘密保護法成立後の11日の記者会見では、秘密情報の報道が場合によっては処罰対象となり得るとの見解を示し、これも直後に訂正した。ところが、本日ニッポン放送の番組で、再び元に戻った。特定秘密保護法で指定された特定秘密について、やっぱり報道の自制が必要だと訴えたのだ。こういう人物が、今時代を動かしている。
また、安倍内閣が来週始めて「国家安全保障戦略」(NSS)を決定する。明らかな、「米国とともに戦争できる国」づくりの第一歩。防衛大綱・中期防も、今後はNSSを指針とすることになる。貫かれるのは、「積極的平和主義」。集団的自衛権の行使や、多国籍軍への参加、「海兵隊」機能の強化、敵基地先制攻撃などが示唆されている。「武器輸出三原則」撤廃、愛国心の盛り込み、過剰な中国敵視が問題視されている。
「前夜」は大袈裟ではないか、そんな印象をもった私の感性が鈍いのだ。特定秘密保護法は明らかな軍事立法である。石破の論理なら、国家の安全保障はすべてに優先する。これから先、国家安全保障基本法を中核とする諸軍事立法の予定が、目白押しである。民主々義も人権も平和も極めて危うい。
「前夜」はけっして的外れでも誇張でもない。この時代に、警鐘を鳴らし続けなくてはならない。「前夜」の講読を伏してお願い申し上げる。
(2013年12月12日)
「誰も聞いていないだろうな。壁に耳ありだからな」
「おまえさん、そんなに慌ててどうしたの」
「先日ボスが紹介してくれた大旦那に会ってきた話はしたろう。今日、そこの若旦那から電話があってな、5000万円用立ててやるので、明日の夕方事務所へとりに来いというんだ」
「あらまあ、5000万円。すごいじゃない。ずいぶん親切な人がいるものね。」
「そりゃおまえ、親切ったって、5000万円だ。大旦那の方にだって、いろいろ思惑はあらあな」
「大旦那の方には、足を向けては寝られないわね」
「そりゃそうよ。このご恩にはきっちり報いなければ、人の道に反するというものさ」
「それにしても、有るところには有るものね。」
「それもこれもボスのお陰だ。これでオレも転職の決心がついたよ。これだけ大口のスポンサーがつけば、転職費用がいくらかかっても心配は無いというものだ」
「これまで、ボスは大旦那からどのぐらいもらっていたのかしらね。今度はあなたが、ボスの立ち場を引き継いで、同じようにもらえるのかしら」
「ボスはおれとは格が違う。金の額も桁違いだろう。今まで苦労をかけたけど、これからは大船に乗った気でいてくれ。」
「まさか、そのお金、あとで返せっていうんじゃないでしょうね。そういわれたら、転職費用に使っちゃってスッカラカンだって言えばいいんじゃないかしら。お金に色がついているわけじゃなし。」
「ところで、その金、表には出すわけにはいかない。もちろん預金はできないが、家に寝かせておいても不用心だ。銀行の貸金庫に入れておくことにしよう。オレの名義じゃあ、ちょっとヤバイ。今日のうちに、銀行に行ってお前の名義で貸金庫を借りてきてくれ。」
「そうするわ。でも聞くところによると、貸金庫は大きいのと小さいのがあるそうよ。小さい方で、5000万円入るでしょうかって銀行の人に聞くわけにもいかないしね。」
「5000万円はどうやって運ぼうか。紙袋やビニール袋だと破けたら困るし。」
「あんた気が小さいから頑張ってね。5000万円に腰抜かしそうになっても、そんなことおくびにも出しちゃダメよ。いつも扱いなれてる顔をするんだよ。」
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「芝浜」という人情噺があって、暮れになるとくり返し演じられる。名人圓朝が即興でつくった三題噺のひとつだという。
飲んだくれの魚屋が「芝浜」で、重たいほどの一分金が入った皮財布を拾う。魚屋はその金で浴びるほど酒を飲んで、寝てしまう。その間に、しっかり者の女房がその金を、貸金庫にではなく、お上に届け出る。寝て起きた魚屋は「何を夢見ているんだね」と女房に言いくるめられ、まじめに酒を断って家業に精を出す。
3年目の大晦日、奉公人を置くような店を持つまでになった魚屋に、女房は「お前さん、嘘をついて悪かった」、実はこれこれでしたと事情を話して、お上から下げ渡された金を渡す。そのうえで、「よく働いてくれました。もう大丈夫。」といって用意した酒をすすめる。
魚屋は酒を口まで持っていって、「よそう。また夢になっちゃいけない」と落ちる。
「芝浜」は、拾った金を届け出てハッピーエンドとなる。上で会話を交わしたご夫婦の場合は、金を隠して、「只より高いものはない」「天網恢々疎にしてもらさず」の例えとなる。日頃から落語に親しみ、「芝浜」をよく聞いておけば、こんな年の瀬を過ごさなくてもよござんしたのに。
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本日もお昼休みの本郷三丁目交差点街宣行動。手作りのビラが2種類。そして、特定秘密保護法の撤廃を求める署名運動。
「特定秘密保護法は形の上では成立しました。しかし、その内容は、憲法違反ではありませんか。民主々義を破壊し、人権を侵害し、平和を損なう。そんな違憲の法律は無効だ。しかも、手続も強行採決に次ぐ強行採決。議事録にすら、採決のあとが残らない。こんな法律を認めることはできない。過半数の議員の賛成で、この法律は廃止できます。怒りの世論で、特定秘密保護法を廃止しましょう」という呼びかけ。街宣行動参加者は15人ほど。通行人のビラの受け取りが、これまでで一番よかったというのが、参加者の感想。
(2013年12月11日)
しばらくぶりで、師走の上野「鈴本」に。トリは、五街道雲助の「二番煎じ」をたっぷり。みごとな話芸を堪能したという満腹感に浸った。客の入りはまことに閑散。それでも、色物を含むすべての出演者が熱演。まったく手抜きがない。これが、プロのプロたる凄さ。感心しきりである。
印象に残ったのは、2人の演者がマクラで猪瀬の醜態に触れたこと。1人は、「猪瀬さん、目が泳いでいますね。あんなに目が泳いでいる人を見たことがない」と、嘲笑気味。もう1人は、「今、みんなで楽屋のテレビを観ていたんですがね。猪瀬さん、たいへんですね。あの人は、オリンピックまでは自信ありげだったんですがね」と、ややマイルドながら、突き放した語調。
猪瀬の政治生命は既に終わっているというほかはない。すっかり、「金に汚い」「人に厳しく自分に甘い」「潔さがない」「嘘つき」「打たれ弱い」「やましさを隠せない」というイメージが定着した。どこに行っても、このイメージがつきまとう。これでは都知事は務まらない。いや、普通の社会生活も無理だろう。
私の関心は、猪瀬の政治生命よりは、犯罪の立証如何にある。
本日付の赤旗が、「市民・学者ら31人 猪瀬都知事を告発」の記事を掲載している。告発は、「徳洲会提供の5000万円はヤミ献金」として、「公職選挙法(選挙運動費用収支報告書への虚偽記入)や政治資金規正法(規正法の上限額を超える寄付の受領)に違反する」という内容。
告発状は、猪瀬都知事が「個人的な借入金」などとの弁明は到底信用できないとして、「選挙運動費用収支報告書や政治資金収支報告書、資産報告書のいずれにも「借入金」の記載が一切ない」ことを重要な問題と指摘している。
そのうえで、「当時、副知事で知事候補者でありながら、ヤミ献金を受け取り、徳洲会の捜索がなければ秘密裏に巨額の金を受領したままであったはずであった。疑惑を報道されて以降、説明を二転三転させており、罰則のない『個人的な借入金』で終わらせようとしている。責任回避態度も悪質である」と批判。事件の真相解明のために東京地検に徹底した捜査を求めている、という。
公職選挙法や政治資金規正法違反の確実なところから捜査を開始して、徹底して「真相解明」を望むという趣旨と解される。徹底した真相解明とは、収賄罪の成立を意味するものであろう。
猪瀬5000万円収受問題が、かくも世人の関心を惹いているのは、けっして「公職選挙法(選挙運動費用収支報告書への虚偽記入)や政治資金規正法(規正法の上限額を超える寄付の受領)に違反する」からではない。「副知事だからこその5000万円の提供であり収受であったはず」、あるいは「都知事になろうとする人物であったからこその金のやり取りだったはず」という、職務に金が絡んでいる疑惑が問題とされているのだ。
賄賂罪の保護法益は、一般に「公務員の職務の公正とこれに対する社会一般の信頼」と解されている。既に、職務の公正に対する社会的信頼は深く傷ついている。猪瀬の行為は、収賄罪成立の有無を徹底して追及しなければならない疑惑となっている。
5000万円の金は猪瀬がもらったもので、徳洲会に捜査の手が伸びてやばくなってから返した、と見るのが常識的な線だろう。しかし、仮に借りたものとしても、無利息での融資の利益は賄賂に当たる。「賄賂」性の充足は問題がない。
問題は、この5000万円が職務に絡んだ金と言えるかどうか(職務関連性の有無)ということ。当時、副知事であった猪瀬の5000万円収受が単純収賄罪(刑法197条1項前段)になるかは、5000万円の授受と副知事の職務との関連性の一点につきる。
同条は「公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、5年以下の懲役に処する」というもの。単純収賄には「請託」も不要。加重要件としての「不正行為」(「徳洲会への便宜供与」)も不要。「職務関連性」だけがあればよい。
ちなみに、請託を受けて、徳洲会への便宜供与があった場合には、197条の3の1項あるいは2項によって、「1年以上の有期懲役」と法定刑が格段に重くなる。
また、猪瀬が知事として賄賂を収受したとの構成だと、知事になる以前のことだから事前収賄罪(197条2項)となる。職務関連性の認定は容易だが、これには請託の要件が必要となる。現在報じられている範囲での情報では、請託は出てきていない。
既に報じられているとおり、徳洲会が2010年に西東京市に開設した介護老人保健施設「武蔵野徳洲苑」の建設に当たり、都は7億2300万円の補助金を支出。昭島市の「東京西徳洲会病院」にも1億3400万円を出している。徳洲会は15年2月に、武蔵野徳洲苑の隣接地に「武蔵野徳洲会病院」を開院予定で、同院も夜間救急患者の受け入れなどで補助対象となり得る。以上の許認可や補助金支出が、副知事としての猪瀬の職務に関連するかどうか、ここがポイント。この視点から、この件に関心を持ち続けたい。
それにしても、選挙は徹底してクリーンでなくてはならない。候補者も選対もである。選挙に関して、運動員に金を渡したり、つまらぬ金を受けとったりしてはならない。この教訓を噛みしめなくてはならない。
(2013年12月10日)
「日の丸・君が代」強制問題の院内集会に、多数ご参集いただきありがとうございます。「国旗国歌強制は、秘密保護法問題と根は一つ」。その根とは、主権者である国民が、あたかも行政の僕のごとくに扱われてはならない、ということだと思います。
特定秘密保護法は、行政の思惑一つで情報を規制することができる仕組みです。国民には、当然国会にも、行政が許容する範囲の情報を提供することで十分だという、国民主権原理を蹂躙する基本思想で成り立っています。行政の情報操作は、国民と政府、国家と行政との力関係を根底から覆すものとなります。
国旗国歌強制の問題も、国が国民に対して「国への敬意の表明を強要する」ことを意味します。本来、行政が主権者に対して、国への敬意表明の強制などできることでははない。ここにも、主権者国民と行政との関係において発想の逆転があります。
石原慎太郎教育行政が、10・23通達を発して教職員に対する「日の丸・君が代」強制を始めて以来10年。法廷闘争の弁護団に参加してまいりました。当初、「日の丸・君が代」強制を違憲という根拠の柱の一つとして、国民の思想良心の自由侵害、つまりは憲法19条違反を立て、最初の事件の地裁段階では違憲判決を勝ち取りました。当然のことと胸を張ったものです。
ところが、その後間もなく言い渡しになった最高裁ピアノ判決がこれをひっくり返しました。以来、憲法19条論では、1件も違憲判断が出ていません。最高裁で二人の裁判官が少数意見として違憲論を述べているにとどまっています。そのお二人も、今は退官しました。
もちろん、19条違反の主張を撤回はしませんが、実務家としては、勝ち目のないことを繰り返しても能のない話し。そこで考え出したのが、国旗国歌強制は立憲主義違反だ、というよりラジカルな論法です。日の丸・君が代という固有の歴史をもった旗や歌に着目するのではなく、国旗・国歌という「国の象徴」への敬意の表明強制は、とりもなおさず、国家という存在を、主権者たる国民の上位に位置づけるものとして、価値倒錯であり背理であって、その強制は憲法上許容されない。というものです。憲法19条論については、最高裁は一応の理屈を付けてこれを斥けいますが、立憲主義違反の方には、何の応答もないままです。
そこに、自民党の改憲草案が発表されました。その草案3条は、国民に国旗国歌尊重義務を課しています。この自民党案は、まさしく現行憲法の構造を根底から覆すもの。近代立憲主義の大原則に挑戦するものにほかなりません。
近代立憲主義について述べておきたいと思います。
近代憲法は市民革命の所産です。近代憲法の骨格は、市民革命の精神に則った、次の2点にあります。
(1) 個人の尊厳を至高の価値とすること(基本的人権の尊重)
(2) この価値を侵すことのないよう国家機構を整備すること
これを1789年フランス人権宣言(「人と市民の権利の宣言」)16条は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定式化しています。
つまりは、「個人主義」(国家や集団ではなく、個人にこそ価値の源泉がある)と、「自由主義」(国家の干渉から国民の自由は保護されねばならない)の政治原理を基調として、「主権者(憲法制定権力)としての国民が、国民の基本権を擁護する目的で、国家の権力を制約すべく国家に対する命令の体系としての憲法を制定する」という法原理が「立憲主義」と言って良いと思います。
当然に、「日本国憲法」も近代憲法の正統の系譜に連なっています。我が憲法が最も関心をもつテーマは、「国民」と「国家」との関係であって、その関係あり方は国家が国民の人権を侵害してはならないこと、最大限擁護し国民に奉仕すべきとするものにほかなりません。
あくまで「主」は国民。国家は「従」の地位にあるのです。そもそも、国家は国民が、その便宜のために拵えたもので、国民が創造主、国家は被造物でしかありません。
「日本国憲法」においては、国民からの国家(ないしはこれを司る公務員)に対する命令の体系という構造が貫かれています。このことを端的に表現しているのが、99条の公務員の憲法遵守義務です。
自民党の「日本国憲法改正草案」は、「国民に対する憲法遵守義務」を課する点で、近代憲法の立憲主義を放棄するもの。つまりは、「憲法が憲法でなくなる」事態をもたらすものと言わざるを得ません。
自民党改憲草案第3条の国旗国歌条項もこのことと軌を一にしています。
「第3条1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。」
この1項は、憲法に定める必要のないことです。憲法にこう書いてはいけないというものでもありませんが、本来の憲法事項ではありません。
問題は2項です。これは、明らかに憲法にこう定めてはならないことです。憲法の基本原則に反する規定として「違憲の憲法条項」と言わざるを得ません。この「改正」は、憲法96条の改正手続の限界を超えて許されないものと言うべき代物です。
国旗国歌は国家の象徴であり、「国旗国歌=国家」の等価関係が成り立ちます。
国旗国歌の尊重義務とは、国民に対して国家を尊重すべき義務を設定するもの。これは、立憲主義の構造からの主従の逆転であり、憲法価値の倒錯というほかありません。個よりも集団を、国民よりも国家を重要視するイデオロギーとして、国家主義・ファシズムの思想と言って差し支えありません。日本国憲法が、絶対に認めることのできない思想です。
1999年制定の「国旗国歌法」は、国民に国旗国歌の尊重義務を課してはいません。したがって、違憲の問題が起きませんが、それでも、その政治的効果は甚大です。万が一にも、自民党改憲草案が実現した場合には、その影響には恐るべきものがあると考えなければなりません。
戦前、国民の思想統制に猛威を振るったのが治安維持法。治安維持法の法文では、取り締まりの対象は「国体を変革し、私有財産制を否定する目的の結社」でした。つまりは、天皇制否定思想と共産主義を弾圧対象としたのです。しかし、弾圧されたのは共産主義・共産党だけではありませんでした。社会民主主義も、自由主義も、反戦平和の運動も、宗教団体も、天皇制ファシズムに邪魔な存在は根こそぎ弾圧の対象になったのです。
特定秘密保護法も同じ。秘密の範囲は、際限なく広がることを防げません。私たちは、権力や政権を信用してはならないのです。ましてや、好戦的な安倍政権。国防軍をもつための改憲をたくらむ安倍政権ではありませんか。こんな最悪政権に、最悪の法律を持たせてはなりません。
「戦争は秘密から始まる」。「戦争準備には軍事秘密保護法が必要」なのです。軍国建設のために必要な秘密保護の法律を与えてはならない。同様に、国旗国歌の尊重義務も、軍国主義建設に不可欠のものと指摘せざるを得ません。
特定秘密保護法の制定も、国旗国歌尊重の設定も根は一つ。立憲主義からの逸脱であり、その強行の影響は、いずれも軍国主義をもたらすものと考えなければならないと思います。
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さて、本日(12月9日)は、特定秘密保護法成立後初めての「本郷三丁目交差点・昼休み街宣行動」。およそ20人ほどの人が参加して、怒りを燃やしてマイクを握り、新しいビラを撒いた。通行人に、あきらめないで怒りを持続させようとの訴え。
ところで、特筆すべきは、本日の行動に、2人の方が飛び入り参加をしてくれたこと。「ツィッターを見ての参加」だという。お二人とも、マイクを握って訴えた。ツィッターって凄いんだ。
なお、本郷三丁目交差点の昼休み行動は、今週は11日(水)と13日(金)で、一応締める予定。その後、おそらくは「本郷・湯島九条の会」の活動として、特定秘密保護法に限らない諸課題での、定期的な行動を継続することになるはず。地元の町内会長さんが、「九条の会」の会長さん。今日も、街宣行動にお顔をみせていました。こうでなくっちゃ。
(2013年12月9日)
昨日の「朝日川柳」に「秘密成っていよいよ8日真珠湾」という秀逸句が掲載されている。12月6日深夜に特定秘密保護法が成立し、その憤激治まらぬうちに太平洋戦争開戦の日を迎えた。1941年12月8日未明(現地時間7日・日曜日)帝国海軍は、宣戦布告ないままに、ハワイ・真珠湾を奇襲して「赫々たる戦果」をあげた。アメリカ国民は、「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉に、リベンジを誓った。
我々も、「リメンバー・秘密保護法」を合い言葉にしよう。安倍政権と自・公の与党が攻撃したものは、国民の知る権利であり、議会制民主々義であり、国民生活の平穏であり、平和である。彼らは、主権者国民に奇襲をかけ、国民の権利侵害に「赫々たる戦果」をあげた。
奇襲を受けたアメリカが復讐を遂げるまでには3年8月を要した。我々が安倍政権へのリベンジをなし遂げるには、それほどの年月は要らない。最も遅くても、3年後の12月には総選挙がある。その前に、参院選も統一地方選挙もある。衆議院の解散だって大いにあり得る。安倍政権が抱えるアキレス腱は、多様なのだ。
昨日から本日にかけて、各紙の見出しに躍る文字に、記者の怒りが込められている。
「拙速」「愚挙」「暴挙」「暴走」「強引・独断」「数の傲り」「追随」「欠陥法案」「悪法」「欠陥審議」「議会の劣化」「安倍ファシズム」「いつかきた道」「危機」「監視社会」「実質改憲」「戦前ほうふつ」「戦争する国へ」。そして「怒り」「許さない」「忘れない」「あきらめない」「撤廃」「連帯」「法廃止へ」「広がる反対」「声をあげ続けよう」である。
この国民の怒りは75日では鎮まらない。特定秘密保護法問題に続いて安倍政権が強行しようとしていることは、まずは集団的自衛権行使容認や、国家安全保障基本法提案、普天間の辺野古移設、防衛大綱、オスプレイなどの安全保障問題がひしめいている。それだけではない。TPP問題があり、消費増税があり、原発再稼動や原発輸出があり、教育書検定の強化があり、そしてアベノミクス崩壊の危機がある。
既にあちこちから、「特定秘密保護法廃止に向けた運動に取り組もう」という積極的な提案がなされている。久しぶりの国民運動の盛り上がりは、容易に退きそうにはない。新たな運動として持続しそうな心強さがある。
ところで、「この悪法廃棄のために広範な市民が原告となって大規模な訴訟を提起してはどうか」「裁判所で違憲判決をとれないものだろうか」という質問を受ける。さて、どうだろうか。
質問者のイメージは、多くの市民が原告となって、裁判所に「特定秘密保護法第○条の無効を確認する」という判決を求めて訴えを起こそう、というもののようだ。憲法21条の表現の自由を圧殺する特定秘密保護法の条項は明らかに憲法違反なのだから、そのような判決を言い渡すのが違憲立法審査権を与えられた裁判所の使命ではないか、という言い分。
しかし、訴訟の提起には、原告に具体的な権利侵害があったこと(あるいはその恐れがあること)を必要とする。具体的な権利侵害なくして、「特定秘密保護法は違憲」と主張し、「それゆえの無効確認」を求める請求は不適法で訴訟として成立しえない。簡単に却下されてしまう。
一般市民が、特定秘密保護法の違憲性を争う行政訴訟や国家賠償請求訴訟を提起することは、通常の法律家の感覚からは「到底不可能」というしかない。しかし、どうしても「広範な市民を原告とする違憲訴訟」を構想するとなれば、まったく策がないわけでもなかろう。
まずは集団で情報公開請求をする。この情報公開請求が、特定秘密保護法上の特定秘密に該当することを理由として「不開示決定」あるいは、情報公開審査会での「不開示裁決」となった場合に、この不開示の処分や裁決の取り消しを求める行政訴訟の提起は可能である。その訴訟では、不開示の理由となっている秘密指定の根拠法である特定秘密保護法の違憲を争うことが可能である。
訴訟を起こせるのは情報公開請求者に限られるが、多くの人が共同で情報公開請求をすることによって、「広範な市民を原告とする違憲訴訟」を構想することが不可能ではない。もっとも、どのような情報公開請求をするかが、最大のポイントになる。そのような秘密の材料を探り当てるのはたやすいことではなく、平和的生存権の侵害を根拠として集団で国家賠償請求訴訟を提起するような分かりやすいものにはならない。
特定秘密保護法廃棄を求める運動の手段として裁判所の利用も一つの可能性としてはありうるということ。しかし、民意を選挙に結実させることが運動の本筋だろう。これだけの悪法。本筋が通らぬはずはない。
(2013年12月8日)
稀代の悪法「特定秘密保護法」が成立となった。
憤懣やるかたない。改めて安倍政権の暴挙に怒りをぶつけたい。安倍晋三も、森雅子も、この悪法とともに歴史に悪名を残すことになろう。
実のところは、落胆もしている。この国は、本当におかしくなってしまったのではないか。これから先を考えると暗澹たる思いを拭えない。
啄木の歌が思い起こされる。
「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ秋風を聴く」
1910年、この年の5月から大逆事件の逮捕が始まり、8月29日に日韓併合となっている。その年のもの。時代の暗さを受けとめた詩人の心象風景が、今日は良く分かる。
しかし、啄木自身の時代への抵抗は精神的なものにとどまった。組織に属することはなく、社会に影響する行動もしていない。彼自身が、「ヴ・ナロード」と叫んではいないのだ。100年後の我々は、啄木とは異なる。多くの人とともに、デモをし、シュプレヒコールをあげ、街頭で訴えてきた。なによりも、志を同じくする議員を国会に送ってもいる。そして、これで終わりではない。運動は明日も続くのだ。啄木の感傷に同感してばかりはいられない。
客観的に冷静に事態を振り返れば、法案に反対する勢力は敗れはしたがよく闘った。意義のある闘いに、実のある成果すらあげた。安倍政権と自・公の両党は、法案をゴリ押しして成立させはしたが、深手を負ってのこと。国民に、彼らの危険な本性を見せつけたではないか。ありとあらゆる各界の広範な人士から非難囂々の醜態をさらしたではないか。法案の内容の危険だけでなく、この理不尽なゴリ押しの過程が政権の反憲法的な危険性を露わにした。自・公という政党の体質の非民主主義的な体質の危険までが明瞭となった。政権と与党に、法案成立のプラスと、世論から指弾のマイナスとを計算すれば、損得勘定の帳尻があったはずはない。
第1次安倍政権の歴史を思い起こそう。高支持率で調子に乗って、教育基本法改悪や改憲手続き法制定などに「安倍カラー」を発揮して、急速に国民からの支持を失ったではないか。そして2007年参院選で歴史的大敗を喫して政権を投げ出し、史上最高の「みっともない退陣」劇を演じたのが安倍晋三だったではないか。
今回、安倍政権は、真っ当なジャーナリズム、心あるジャーナリスト、およそ真面目なすべての表現者を敵に追いやった。おそらくは彼の計算にはなかった想定外のこと。コントロールもブロックもできなかった。これは、第2次安倍内閣の、「終わりの始まり」と言ってよい。
実は、特定秘密保護法は、安倍内閣がたくらむ「悪法パッケージ」の一つである。主要な一つではあるが、これからもぞろぞろと「悪法」の提出が続く。特定秘密保護法反対運動で築いた抵抗運動の陣地を固めて、ここから新たな運動を始めることができるのであれば、次は法案を阻止することができる。それだけではない。安倍内閣そのものを倒して、もっとマシな政権にすげ替えることも可能になる。
日本版NSC設置法と特定秘密保護法に続いて提案が予定されている「悪法」のパッケージとは、
*集団的自衛権行使容認の解釈変更
*国家安全保障基本法の制定
*防衛計画の大綱の改定
*日米ガイドラインの改定
などである。
とりわけ、国家安全保障基本法は事実上憲法9条を直接に蝕む危険な戦争準備立法である。まだ条文化されて法案とはなっていないが、昨年7月に「概要」12か条が公表されている。
改めて、自分に言い聞かせている。
「落胆などしている閑はない。さらに怒りを燃やそう。この怒りを持続させよう」
成立した特定秘密保護法については、施行まで一年の政権の動きを監視しよう。そして、果敢に情報公開を求めよう。情報の公開を通じて、行政の透明性と説明責任の確立を求めよう。
さらに、特定秘密保護法反対に立ち上がった多くの人々との連帯を固くし、次の安倍政権のたくらみを阻止しよう。次は、「国家安全保障基本法」の制定と「集団的自衛権行使容認の解釈変更」とを阻止する課題に取り組もう。
その運動の先に、かくも危険な安倍政権打倒の展望が開けるはずだ。
(2013年12月7日)
12月6日は、もうすぐ終わろうとしているが、特定秘密保護法はまだ成立していない。多くの国民の院外での声を背景に、参議院では野党が奮闘している。この抵抗の精神の持続が必要だと思う。
今日も道行く人に語りかけた。反応は様々。街宣活動参加者の怒りのボルテージと、道行く人の心境とは明らかに隔たりがある。その温度差は当然といえば当然なのだが、昨日の特別委員会強行採決への怒りが治まらない。自ずから、マイクの声にもトゲが混じる。
「ご通行中の皆様、私たちは今参議院で審議中の特定秘密保護法案の廃案を求める宣伝活動を行っています。昨日の特別委員会強行採決には怒りを禁じ得ません。ぜひ、ビラをお読みください。
皆さん、『自分には関係ない』とおっしゃっても、この法案の方は、あなたに無関係と放っておいてはくれません。この法案が通れば、必ず、あなたの権利や自由に影響が及ぶことになる。少なくとも、確実にジャーナリズムは萎縮する。私たちは知る権利を害される。
それだけではない。昔、軍機保護法という法律がありました。陸海軍大臣が思いのとおりに、軍事秘密を指定します。すると、飛行場も、港湾も、気象も、地震の被害も、空襲被害も一切秘密。写真も禁止、スケッチも禁止、喋ってもならない。うっかり喋るとスパイにされたのです。気象は軍事秘密でしたから、天気予報はなくなります。台風の予報もされなくなる。戦時中は、そのような時代でした。特定秘密保護法はこれと同じ構造の法律です。『大本営発表の時代』が到来しかねません。
今日は平和なようですが、この平和がいつまで続くことになるか。私たちが、大事なことを、他人任せ、安倍晋三任せにしていますと、『こんなはずではなかった。あのとききちんと反対しておけばよかった』となりかねません。今ならまだ、声を出せる。反対の声をあげられる。皆さん、ぜひ、特定秘密保護法に反対を…」
帰宅したら、「前夜」という書籍が届いていた。
私と、梓澤和幸弁護士と岩上安身さんとの鼎談を書籍にしたもの。330頁を超えるボリューム。
その帯が、
「There is still time.
もう間に合わない時に、こんな悲しい言葉を口にしないために、
Point of No Return(帰還不能点)を越える前、今なら戻れる!!」
「二つの憲法(「現行日本国憲法」と「自民党改憲草案」)を徹底解剖し比較しながら、ギリギリまで来た、前夜、日本の状況を読み解く。」
というもの。そういう意味の「前夜」なのだ、うかうかしていると再びの戦前の「前夜」になるぞ、という警告。
惹句は、
「日本国憲法と自民党改憲案を読み解く
12月11日発売!
岩上安身+梓澤和幸+澤藤統一郎
A5判並製 336頁
定価2500円+税
日本国憲法と自民党改憲草案を序文から補則まで、延べ40時間にわたり逐条解釈し、現在の世界状況を鑑み、両憲法(案)の根本的相違を検討した画期的憲法論。細かいことばの解釈、250項目にわたる詳細な注釈で、高校生でも、分かりやすい本」なのです。
ご一読いただくよう、お願い申しあげたい。
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「デモ」があるからデモクラシー
デモを禁じて「テロ」クラシー
情報操作で「デマ」クラシー
ヒミツだらけの真ん中に
鎮座まします「アベ」クラシー
A級戦犯生き延びて、満州国の夢の中
祖父なる「キシ」の遺志受けて
執念燃やす「アベ」クラシー
真理も歴史も自分流
右の耳だけよく聞いて
左の方は聞こえない
有象無象の取り巻きの
コントロールとブロックで
聞きたくないことシャットアウト
明るい顔して朗らかに
「美しい国日本」を
ヒミツの渦に投げ込んで
してやったりと高笑い
憲法9条目の敵
デモクラシーは大嫌い
「靖国」大好き、
参拝したくて気がはやる
平和憲法投げ捨てて、
持ちたき物は国防軍
「アベ」クラシーには「デモ」がない
「デモ」は大衆、主権者だ。
「デモ」の怒りは沸騰寸前
「奢れる者は久しからず」
これが、「美しい国日本」の
歴史・伝統・文化なり
そっ首洗って、待ちおろう