(2022年5月14日)
平和の問題を論じるときに、「外国の軍隊から攻め込まれたらどうする」と言い募る向きがある。「攻め込まれたときには、防衛の軍事力が必要だろう」という含みを持つ質問。かつては、ソ連が「攻め込む外国」として想定され、次いで北朝鮮、そして中国に移り、いままたウクライナに侵攻したロシアも加えられている。
この問に端的に答えれば、「攻め込まれたら、時既に遅しだ。どうしようもない」と答えざるを得ない。もしかしたら、侵略者に抵抗の方法はあるのかも知れないが、想定するに値しない。当然のことながら、「どうすれば、攻め込むことも、攻め込まれることもない、国際平和を築くことができるか」「戦争の原因を取り除く外交努力はいかにあるべきか」と問うべきで、問の建て方がまちがっているのだ。
しかし、そう言われても納得せずに、「それでも、攻め込まれたら」「外交が失敗して攻め込まれたら」「さあ、どうする、どうする」と繰り返して言い募る人もいるだろう。そういう人には、「ミサイルが飛んできてそれを防げる原発はない。世界に1基もない」という言葉を噛みしめてもらいたい。
山口壮原子力防災相(兼環境相)の昨日の閣議後会見での発言である。この問題での国政の最高責任者が、ミサイルからの原発の防衛は「これからもできない」と言明しているのだ。
日本には、54基の原発がある。攻め込んだ外国軍隊からの攻撃を防ぐ手立ては今もできないし、これからも無理なのだ。この一つでも攻撃されればいったいどうなるか。これについては、同じ山口壮原子力防災相の3月11日閣議後会見での下記の発言がある。
「日本の原発の安全規制は他国からの武力攻撃などを想定していない」「(ミサイルなどの攻撃を受けた場合の被害想定について)チェルノブイリの時よりも、もっとすさまじい。町が消えていくような話だ」(朝日)
ロシア軍がウクライナの原発を攻撃した事態を受け、自民党や自治体などから原発の防衛力強化を求める意見が出ている。全国知事会は3月、ミサイル攻撃に対し自衛隊の迎撃態勢に万全を期すよう要請をした。が、担当相として甘い見通しを語ることはできないのだ。
また、同日の会見で、山口防災相は、「原子力規制委員会による安全審査では、原発への他国からの武力攻撃を想定していない。(仮に原発が武力攻撃を受けた場合には)そういうこと(武力攻撃)を認めるようなことで、やりだしたら話はもう大変だ」とした上で、「今ある枠組みで、どう対応するのかを検討する」と語っている(朝日)。要するに、原発に対する武力攻撃への対応など、しようもないということなのだ。
原発への武力攻撃については、原子力規制委の更田豊志委員長が3月9日、衆院経済産業委員会で「審査等において想定していないので、対策として要求していない」と答弁。武力攻撃を受けた場合には、「放射性物質が攻撃自体によってまき散らされてしまう。現在の設備で避けられるものとは考えていない。(中央制御室が)占拠された場合は、どのような事態も避けられるものではない」などと語っていた。更田氏の発言について、山口氏は「同じ意見だ」と述べている。(朝日)
原発だけではない。太平洋沿岸に連なるコンビナートへの攻撃も、防ぎようはない。戦争が始まってしまえば、国土や国民の防衛など絵空事とならざるをえない。では、仮想敵国の軍事侵攻を事前に防止する軍備を整えるか。あるいは、先制攻撃を敢行するか。いずれも、とうていリアリティあることではない。
「ミサイル攻撃を避けるために敵基地攻撃も先制攻撃も必要」といえば、相手国に日本に対する侵攻の口実を与えることにもなろう。平和を大切にする諸国民や国際世論とともに、常に敵を作らず、戦争を起こすことのない外交努力を重ねること、それ以外に国民の生活を守る術はない。敵基地攻撃能力の整備やら、軍備増強やら、核武装などもってのほかというしかない。
(2022年5月13日)
本日の毎日新聞朝刊・トップに「配給所 屈辱の露国歌」という大きな主見出し。これに「避難 命懸けのマリウポリ」という横見出しが付けられている。
この記事は、マリウポリから西に200キロのサポロジェでの毎日記者による取材記事。取材対象は、マリウポリの住民だった母子。4月10日にロシア軍占領下のマリウポリから徒歩で脱出し、1か月近くの逃避行を続けてサポロジェで保護されたという。マリウポリへの砲撃と、露軍占領下の街の様子が生々しく語られている。その街の様子として次の一節がある。
「露軍による占領後、ロシア側が開いた人道支援物資の配給所へ何度か足を運んだ。午前11時の開始を目がけ、腹をすかせた人々が早朝から列を作る。屈辱的だったのは、配給時にロシア国歌が流されることだった。『(露軍の攻撃で)家も日常生活も失った中で、悔しくて涙が出た』と唇をかみ締めた。」
このマリウポリの女性にとってロシア国歌を聴かされることは、「悔しくて涙が出る」ほどの屈辱なのだ。その歌は、ロシアという国家の存在と、その国家による理不尽な支配を誇示するものなのだ。
特定のデザインの旗が国旗となり、特定の歌詞とメロディーの曲が国歌となる。国旗国歌は、特定の国家のシンボルとなって、国家の存在に代わる意味づけを持つ。
チャイコフスキーの序曲『1812年』では、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の旋律をもって侵略軍の激しい咆哮とし、やがてこれを撃退して祖国に平和が戻ったことを高らかな唱ってロシア帝国国歌が奏でられる。
また、映画「カサブランカ」には、独仏の「歌合わせ」の有名な場面がある。酒場でドイツ兵たちが「ラインの守り」を高唱していると、レジスタンスのリーダーが客たちと歌う「ラ・マルセイエーズ」に圧倒されて、かき消されてしまう。
旗も歌(あるいは曲)も、ときにその意味するところは大きい。マリウポリの街のロシア国歌は、この街の主人がロシアであることを我がもの顔に語っているのだ。
同様に、卒業式での「国旗・国歌」への、起立・斉唱は国家への忠誠の象徴的行為である。「日の丸」への叩頭・「君が代」の高唱は、「日の丸・君が代」と一体となった神権天皇制や軍国主義の歴史受容の象徴的行為にほかならない。
少なくとも、そのような理解は、思想・良心の自由として保障されなければならない。ロシア国歌を聴かざるを得ないことが、「悔しくて涙が出る」ほどの精神的苦痛であるなら、国旗・国歌(日の丸・君が代)を受容しがたい人に、起立・斉唱を強制することも同様の苦痛を伴う行為なのだ。精神的自由の根幹に関わる問題として、そのような強制は許されない。
あらためて、象徴(シンボル)というものに対峙する精神のあり方について、理解を得たいと思う。聖なる画像を踏まざるを得ない信仰者の心の痛みを。他国の国旗国歌であろうと、自国の国旗国歌(日の丸君が代)であろうと、その思想や良心において受容しがたいものを強制される精神の苦痛を。
「愛国心涵養のために国旗国歌(日の丸君が代)の掲揚斉唱が必要」などという暴言は、個人を尊重する憲法原則の最も忌むべき謬論である。
(2022年5月12日)
憂鬱である。まさかと思っていた戦争が勃発した。核兵器廃絶どころか、戦術核の使用がチラつかされる恐ろしさ。中国には強権政治が横行し、その改善の萌しも見えない。ウィグルや香港の情勢に胸が痛む。ミャンマーのクーデターは結局成功してしまうのか。そして、なんということだろう、フィリピンに「マルコス政権」の悪夢。日本の国内では、右翼・歴史修正主義者やポピュリストたちが我がもの顔ではないか。
私は、生来が楽観主義者である。だから、歴史を見る姿勢は「進歩史観」の立場であった。私がいう「歴史の進歩」とは、全ての人に自由と平等と豊かさを実現する方向への「進歩」である。行きつ戻りつのジグザグはあるにせよ、他者との共生の知恵ある人類である。その人類の社会が進歩し発展する方向に向かわないはずはない。全ての人にとって生きるに値する社会を形成する方向に「進歩」していくだろう。そういう楽観である。
私がイメージする進歩の指標軸は3本、人権・民主主義・平和である。この3本は、関連しながらも独立している。
「人権」擁護の進歩とは、公権力や社会的・経済的強者に対峙した個人の尊厳が花開いていくだろうということ。
「民主主義」の進歩とは、独裁や専制から、民主制・共和制への移行である。
そして「平和」の進歩。戦争の原因を排除し、戦争を違法化し、軍縮を進め、やがては武器をなくする。
ところがこの頃、本当に歴史は進歩するのだろうか、人類は進歩する知恵を持っているのだろうか。もしかしたら、退歩して亡びてしまうのではないか。そう、考え込まざるを得ない。
本日の朝日の社説が、「フィリピン 強権を引き継ぐ危うさ」と表題したもので、その中に、「勝ち取ったはずの民主主義が後退し、権威主義的な体制に変質する。東南アジアで憂慮すべき動きが広がっている。」という一節がある。憂慮すべき事態は、東南アジアにとどまらない。
歴史の進歩に抗しているのは、プーチンだけではない。天安門事件以後の中国こそ本家というべきであろう。もちろん、これまでのアメリカの諸悪の積み重ねも見逃してはならない。軍事クーデターを経たタイやミャンマー、そして一党支配のベトナム・カンボジア・ラオス。さらにそれらに加えてのフィリピンの新事態なのだ。
大統領選挙で圧勝したのが、フェルディナンド・マルコス。かつて独裁体制を恣にした悪名高い故フェルディナンド・エドラリン・マルコスと、その妻で3000足の靴を残したことで有名になったイメルダの長男である。
同国の大統領府を「マラカニアン宮殿」と呼ぶ。まだ生存しているイメルダは、同宮殿に『凱旋』することになると報じられている。そして、36年前に残していった自分の靴を取り戻すことになるのだろう。
独裁者マルコスは、1965年から20年余り政権を維持した。戒厳令を布告し、民主化を求める活動家らを容赦なく弾圧した。戒厳令のもとで1万人以上の市民が殺害・拷問などの被害を受けたとされる。アムネスティ・インターナショナルは、3200人以上が殺害されたと発表している。
この独裁者夫妻の不正蓄財は凄まじい。後に最高裁判所は「推計50億?100億ドル(約6600億?1兆3100億円)」と認定しているという。この、絵に描いたような独裁政権が、圧政に耐えかねた民衆によるデモによって倒された。歴史が進歩を見せた一コマである。ところが、再び「マルコス大統領」が誕生する。しかも、副大統領が、あの野蛮なドゥテルテ前大統領の長女なのだ。これは、悪夢以外のなにものでもない。
これがクーデターによる軍事独裁政権の誕生であれば、問題は分かり易い。しかし、新大統領は選挙という民主主義の手続によってその正統性を獲得しているのだ。この問題はより複雑で深刻である。いったい民主主義とはなんだろうか。
今回選挙では、マルコスの選挙運動手法に大きな問題がある。自分に批判的なメディアの取材には一切応じず、候補者討論会にも参加しなかった。もっぱら一方通行のSNSでの発信による選挙運動であったという。そのような候補者を国民は選任したのだ。
国民の主権者としての意識が成熟しなければ、民主主義は形骸化するばかり。歴史の進歩とは、実は、人の意識の進歩なのだ。人が進歩することに、楽観的でいられるか。平和も民主主義も自由も平等も、百年河清を待たねばならないのだろうか。憂鬱は続きそうだ。
(2022年5月11日)
なんということだ。本当の戦争が始まっている。自分の国の戦争ではないが、砲弾が飛び交い、街が焼かれている。人が人を殺し、建物を壊し、略奪もしている。多くの人が難民となって逃げている。この時代に、信じられないなんという野蛮な出来事。
戦争、こんなに罪なものはない。侵攻したロシアが優勢となれば、ウクライナの人々が殺される。ウクライナが押し戻せば、ロシアの若者が死ぬ。人の血が流れれば、その家族の涙が溢れる。戦争が長引けば、人々の不幸も積み重なる。どちらかの勝利で決着すれば、敗戦国の被害が甚大となる。
どうしたら、この戦争をこれ以上の被害なく止めさせることができるだろうか。なにか、自分のできることはないか。そう考えていたところに、「救援新聞」(5月15日号)に、「プーチン大統領に 抗議ハガキを出そう」という呼びかけ。なるほど、戦いを始めたのがプーチンなのだから、戦いを終わらせることだってできないはずはない。宛先は、「在日本・ロシア大使館」である。これなら、私にもできる。
ウクライナヘの侵略は中止を
プーチン大統領に抗議ハガキを出そう
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ウラジーミル・プーチン大統領 殿
国連憲章に違反するウクライナヘの侵略に抗議します。
人を殺さないでください。
戦争に反対する人を逮捕しないでください。
逮捕した人は釈放してください。
核兵器は使わないでください。
話し合いで解決する努力をしてください。
もうこれ以上、血を流さないでください。
住所
氏名
私のひとこと
*上記のハガキ案も活用して、抗議の声をとどけましょう。
【要請先】
〒106?0041 東京都港区麻布台2丁目1?1
駐日ロシア連邦大使館
ウラジーミル・プーチン大統領 殿
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この案文はよくできている。それに、救援会らしさもよく出ている。「人を殺さないでください」が最重要の一文だろうが、私も幾つかの「案文」を考えて見た。
☆人を殺さないでください。人を殺させないでください。
☆どんな理由があっても、軍事侵略は許されません。
☆直ちに、戦闘を停止してください。
☆直ちに、軍隊をロシアに返してください。
☆終戦処理を国連の安保理事会で話し合ってください。
☆このままでは、あなたがヒトラー。
☆絶対に核兵器を使ってはなりません。
☆あなたが始めた戦争です。あなたの責任で終わらせなさい。
(2022年5月10日)
ご近所にお住まいの皆様、ご通行中の皆様。しばらく、お耳を拝借いたします。こちらは「本郷・湯島九条の会」です。私たちは、日本国憲法の徹底した平和主義をこよなく大切なものと考え、長く「九条守れ」の活動を続けてまいりました。
そして今、ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始したという深刻な事態の中で、常にも増して、今こそ「九条を守れ」「九条による平和を」と、声を挙げなければならないと決意を固めています。
皆さん、戦争とはいったいなんでしょうか。それは、大量の殺人行為です。大規模な強盗です。放火でもあり、建造物損壊でもあります。これ以上なく多くの人に不幸をもたらす野蛮な犯罪と言わねばなりません。歴史上、権力を手にした多くの為政者が、罪のない多くの人の不幸を無視して、より大きな権力と富を求めて戦争を繰り返してきました。しかし同時に、文明は何とかして戦争を止めさせたいと願い続け考えつづけてもきました。
そして、19世紀から20世紀にかけて、人類は戦争を違法なものと確認する営みを継続してきました。最初は捕虜に対する非人道的な行為や残虐な武器の使用を禁じ、やがて侵略戦争を違法とし、第二次大戦のあとには国連憲章が、例外を残しながらも戦争一般を違法なものとして禁止しました。
その流れをさらに一歩進めて、日本国憲法九条は、例外のない全ての戦争を放棄し、その保障として戦力の不保持を宣言しました。人類の叡智の貴重な到達点と言わねばなりません。
ウクライナに侵略した現在のロシアは、軍国主義・侵略主義をひた走った戦前の日本の姿です。日本は、侵略戦争を繰り返す中で、台湾・朝鮮を自国の領土とし、さらには満州を占領し、国際連盟で孤立しました。それでも中国にまで侵略の手を伸ばして泥沼に陥いり、世界から経済制裁を受けて行き詰まるや、米・英・蘭にも戦争を仕掛け…、そして壊滅的な敗戦を迎えました。
それが内外にどんな悲惨な災禍をもたらしたか、ご存じのとおりです。これを身に沁みた日本国民は、平和憲法を制定し、二度と戦争はしない、いかなる名目でも戦争は絶対にしないこと、そしてその保障として戦力を持たないことを憲法に明記したのです。これは、日本が世界に向かってした誓約にほかなりません。
しかし、今、ことさらに「九条は無力だ」「敵基地攻撃能力が大切だ」「非核三原則を見直そう」と、声高に語る人がいます。予てから、戦争の準備が必要だと発言していた人たちです。火事場泥棒同然にこの機会に乗じた、「防衛力を増強しよう」「軍事予算を増やそう」などという煽動に乗せられてはなりません。ましてや、「九条改憲」「核共有」などもってのほか、危険極まりないといわねばなりません。
憲法9条本来の理念は、他国を武力によって威嚇する防衛思想を放棄し、国際的な信頼関係を醸成することによって、平和を築き戦争を予防しようということです。単に戦争を予防するだけでなく、信頼と協調で結ばれた平和な世界を創ろうということにほかなりません。本来、日本はそのような外交努力に邁進すべきなのです。
そのとき、なによりも大切なものは、信頼の獲得です。強大な武力を持つ国ではなく、戦争を放棄し戦力を持たない平和主義に徹した国であればこそ、世界のどの国からも、誰からも信頼してもらえます。その信頼に基づいた平和外交が可能となるのです。
戦争の原因となる相互不信の原因や、国際的な格差や飢餓や、搾取や不平等を解きほぐし信頼関係を構築するには、九条というソフトパワーは、強力なツールであり権威の源泉というべきです。
残念ながら今、日本は世界有数の軍事力を持ち、アメリカとの軍事同盟に縛られている現状で、九条はその力を十分に発揮してはいません。それでも、九条は、少なくとも専守防衛に徹することの歯止めとしての役割を果たしています。この歯止めがはずれた場合の恐るべき事態を防止しなければなりません。
これ以上、自衛隊を強化し、防衛予算を増やし、米軍の基地を増強し、さらには核共有までの議論を始めるとなれば、日本は、平和を望む諸国と人々に対する、国際的な信頼と権威をさらに失墜し、却って危険を招くことになるでしょう。
そうならないように、火事場泥棒に警戒を怠らず、ともに「今こそ九条を守れ」と声を挙げていただくよう、お願いいたします。日本と世界の平和のために。
(2022年5月9日)
本日の毎日新聞夕刊に、「『共食い』はごめんだ」という永山悦子論説委員の、IRに関する解説記事。『共食い』=「カリバニズム」は、まことに嫌な語感。指摘されてみると、賭博・博打・カジノは、まさしく『共食い』=「カリバニズム」そのものではないか。イヤーな語感も共通だ。さらに、IRは別の意味の深刻な「共食い」の舞台にもなるという。
「カリバニズム」と言わずに、「カニバリゼーション」というと、語感が変わるようだ。マーケッティング業界のテクニカルタームとして定着しているらしい。同じ企業の似たような製品同士が、購買層を「喰い合う」現象などをさすのだという。
永山の解説では、「米国では、カジノの経済的影響の一つに『カニバリゼーション』が挙げられる。日本語で共食いの意味だ。カジノへの支出が増えると、その分、同じ地域内の経済活動や消費への支出が減る。『カジノの繁栄はその周辺の経済活動を犠牲にしたもの』(鳥畑与一「カジノ幻想」)」という。カジノが、参加者同士の「共食い」であるだけでなく、地域経済における「共食い」でもあるという指摘なのだ。
大阪府・市が手を挙げた、人工島「夢洲」に計画されているカジノを含む統合型リゾート(IR)。このIRの経済的効果については、これまでは「こんな根拠薄弱な収支計画は絵に描いた餅、うまく行くはずがない」「破綻して、府民・市民に大きな負担をかけることになる」という悲観論の批判が強かった。
ところが、「仮に、こんな杜撰な収支計画が絵に描いた餅とならず、破綻なく順調に経営されてしまった場合」には、もっと大きな問題が出てくると言うのだ。それが、囲い込まれた夢洲IRが近隣の大阪商圏を喰ってしまうという「カニバリゼーション」。そのカラクリがこう説明されている。
「IRは、カジノだけでなく、エンタメ施設、ホテル、レストラン、国際会議場などを複合する巨大施設を指す。そこを訪れれば、だれもが仕事も娯楽も満足できるというコンセプトだ」「IRでは、カジノが利益の約8割を担う。カジノへ落とされるカネが経営を支えるから、IR側はカジノで長い時間を過ごさせたい。海外のカジノには『コンプ』という仕組みがある。コンプは、カジノのもうけを利用し、カジノを使う人にホテルや飲食などを格安で提供するサービスだ」「ただでさえIR内で用事が済むところ、コンプのようなサービスがあると、訪問者はIRに囲い込まれてしまう。施設外のホテルなどよりも安かったり、便利なサービスがあったりすれば、IRを選ぶ人も増える。地域産業は、とても太刀打ちできまい」
なるほど。これは、説得力がある。IRというビジネスモデルが成立するのは、収益の核としての大規模な「カジノ=賭場」があるからなのだ。健全な経済社会には存在し得ない「カジノ=賭場」とセットになっていればこそ、併設されているホテルも食堂も格安にできる。経営者はそのカジノの付属設備の魅力で客を吸収し、囲い込もうとする。真っ当な経済社会にある地域産業はとても太刀打ちできない。つまりは、客層はIRに吸い寄せられ囲い込まれて、喰われてしまうことになる。
現実に、「米国では、あちこちでカジノ周辺の産業が衰退に追い込まれている。『カジノは地域を壊す』と言われるゆえんだ。それは、誘致自治体が思い描く『地域の経済振興』とは正反対の姿」だという。大阪市民よ、府民よ。本当にこのままでよいのか。
永山は、この現象を、「人間同士の『共食い』」と表現して、「国や自治体が、『共食い』を推進するのは、どう考えてもおかしい」「立ち止まるのは、今からでも遅くない」と締めくくっている。
毎日だけではない。大阪府と「包括連携協定」を結んだ読売新聞までが、5月4日の社説で、「カジノ誘致 収益に頼る地域振興は適切か」と疑問を投げかけている。もちろん、「適切ではない」と言いたいのだ。但し、理由は少し違う角度。
「大阪府と大阪市は開業後、カジノの売り上げや入場料から、それぞれ年500億円以上が入ると見込んでいる。しかし、訪日客が順調に回復するとは限らず、過大な期待だと言わざるを得ない。
そもそも、来場者がカジノで失った賭け金を地域振興に使う成長戦略は適切なのか。国や自治体はギャンブル依存症の対策を進めるとしながら、カジノの収益に期待する姿勢は矛盾している。
当初は認定を最大3か所と定め、地域間で競わせる想定だったが、その思惑はすでに外れている。国や自治体は、IR事業の実現ありきではなく、その必要性を再検討する時期ではないか。」
もっとはっきり言うべきだろう。読売は大阪に、「カジノはもう止めた方がよい」と言いたいのだ。
この点は、朝日も同様である。
4月28日付の社説が「カジノ計画 このまま走る気なのか」という表題。「まさか、このまま突っ走る気ではないだろうね」という含意。
「今後、巨額の建設費が住民負担となってはね返る恐れはないか、仮に事業者が撤退した場合、誰がどう責任をとるのかなど、納税者の視点からの慎重な吟味が必要だ。
既にパチンコや競輪、競馬などの公営賭博があり、カジノ解禁がギャンブル依存症の患者をさらに増やすとの懸念は強い。地域の活性化とは何か。そのためにどんな施策を講じるべきか。腰を据えて考えるよう、社説は繰り返し訴えてきた。」
そして最後は大阪府・市に、こううながしている。
「『求められるのは、立ち止まり、引き返す勇気だ』。和歌山県が3月に開いたIRに関する公聴会で、公述人の一人はそう述べた。政府がいま、耳を傾けるべき至言である」
そう。今なら、まだ浅い傷で引き返せる。松井も、吉村も、取り返しがつかなくなる前に、「引き返す勇気」を持て。
(2022年5月8日)
本日、香港の次期行政長官が決まった。就任は7月1日だという。
この人事、形式は選挙だが実質は中国共産党の任命である。任命された李家超(ジョン・リー)とは、「北京への忠誠」故に取り立てられ、共産党支配の手駒となった人物。これまでもこれからも、露骨に民意を抑圧しようという姿勢を隠そうともしない。
選挙とは、民意が権力を構成する作用をいう。民意のあるところを見定め、民意が選任する人物に権力を託す手続である。残念ながら、香港では、徹底して民意が押さえ込まれてしまっている。選挙の条件が破壊されているのだ。国外からの武力侵略を受けて傀儡政権が作られたのとまったく同じ構図である。
民意を反映する公正な選挙の実現のためには、公正な普通選挙制度のみならず、政治的言論の自由、政治活動の自由、政治的結社の自由、報道の自由、教育の自由、等々の諸条件の整備が必要である。その総体を民主主義と呼ぶ。香港にはこの諸条件が備わっていたが、残念ながら野蛮な暴力によってこれを奪い取られたのだ。
その民主主義諸条件強奪の尖兵となったのが李家超にほかならない。200万人のデモを鎮圧したと言われる。こんな人物を行政トップに据える手続を選挙というのは、ひどいブラックジョークというほかはない。こんな手続が選挙の名に値するものではありえない。
この人、本日の記者会見で、「内外の脅威から香港を守る」と語ったと報じられている。聞いてみたい。あなたのいう守られるべき香港とは、いったいその実体は何なのか。そして、いったい誰から守ろうというのだ。
伝えられるこれまでの彼の言動からすれば、「内外の脅威」とは、「これまで香港に根強く育ってきた民主主義と、それを支援する民主的な国際世論」である。強権的な為政者にとっては、香港に民主主義が育つことが脅威なのだ。だから、「守られるべき香港」とは、民主主義の対立物としての一党専制ないしは個人独裁以外にはない。
香港の民意を制圧しての安定的な中国共産党支配の確立、これこそが北京の意を受けた警察トップ・李家超の役割である。これまでも、そのために民主派弾圧の先頭に立ってきた。北京に抜擢されて行政トップの地位を得た以上は、今後その期待に応えて、なお一層、民主派と民主主義の弾圧に精を出すことにならざるを得ない。
新行政長官は何をしようとしているのか。まずは、「フェイクニュース法」の制定を目指しているという。これまでも、李家超は、民主主義を奉じジャーナリズムの矜持を貫いたメデイアに対する弾圧を敢行してきた。だから、李が「フェイク」を取り締まるといえば、当局に不都合なニュースは全て「フェイク」とされるだろうと考えるべきが当然なのだ。合わせて、記者の個人情報を登録させ、政府が管理することも検討されていると報じられている。目指すは、報道管制社会である。
のみならず、国安法を上回る弾圧を可能とする、「国家安全条例」の制定について「必ずやる、迅速に制定する」とも述べているという。そこには、「反逆罪」や「国家機密窃取罪」などの創設も含まれているとか。民主主義の香港は、弾圧の香港に様変わりしつつあるようだ。
ロシアといい、中国といい、革命を成し遂げた大国の末路に唖然とするしかない。
(2022年5月7日)
5月15日沖縄「返還」50周年を目前に、あらためて沖縄が注目されている。沖縄の歴史と歴史を引き摺っての現状に関して。何人かの著名人がその思いや見解を発信しているが、知花昌一さんもそのうちの一人。彼は、戦後1948年の生まれで、沖縄中部読谷の出身。読谷は、米軍の沖縄本島の上陸地である。
1945年4月1日、米軍は、北谷、読谷に上陸した。この頃、現地のチビチリガマで「集団自決」が発生している。この米軍の上陸地点から、首里城の軍司令部までの戦闘地域を「中部戦線」と呼ぶ。日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場である。
米軍は上陸地点である北谷・読谷から首里城までの10キロの進軍に、ほぼ50日を要している。沖縄守備軍は この間の兵力10万を投入して、7万4千人(主戦力のほぼ7割)を失っている。1日あたり千人以上の死者を出していたことになる。太平洋戦争での唯一の本土地上戦であり、もっとも激しい戦いともいわれる。
その読谷で生まれ育った彼も、高校生だった64年、沖縄にやってきた東京五輪の聖火ランナーを日の丸を振って迎えた。その日の丸は今も大切にとってあるという。「平和憲法があって、基本的人権がある。沖縄にないものが日本には全部あると思った」(以下、朝日)
その彼が、87年、読谷村の国体会場での日の丸を引き下ろして燃やした。なにが、そうさせたのか。
生まれ育った集落のはずれにある「チビチリガマ」が83年、本格的に調査された。スーパーを経営し、顔が広かった知花さんも参加。住民たちは少しずつ重い口を開き、沖縄戦で住民約140人が避難し、うち83人が「集団自決」した事実が初めてわかった。
近所の遠縁の女性は6歳の長男を亡くしていた。いつも酔っ払っているオジイは、家族5人を手にかけた苦しみを紛らわすために酒を飲んでいた。「たくさんの人が、語れない過去を抱えて生きてきたことを知ったのです」
72年に復帰が実現しても、米軍基地はなくならなかった。有事の核兵器の持ち込みを認めるなど、日米間の「密約」も次々と判明する。79年には、昭和天皇が終戦直後、沖縄の長期占領を望むとのメッセージを米国に伝えていたことも明らかになった。日本側の狙いについてはいくつかの解釈があるが、「沖縄は戦後も天皇に切り捨てられた」と映った。
沖縄で国体が開かれた87年、知花さんは、掲げられた日の丸を引き降ろし、燃やした。「差別され、差別から逃れようと『天皇の国家』を信じ過ぎてしまったのが沖縄。その後悔と痛みを抱えて生きる人たちに対して、また天皇を象徴する旗が押しつけられたから、降ろすしかなかった」
周知のとおり、刑法には「国旗損壊罪」などはない。それに代わるものとして、建造物侵入・器物損壊・威力業務妨害の3罪での起訴がなされ、有罪となった。量刑は、懲役1年・執行猶予3年。
合衆国連邦最高裁の判例では、思想上の信念から国旗を焼却する行為は、「象徴的表現行為」の法理に基づいて、無罪となり得る。当然、弁護側はそのような弁論もしたが、判決(控訴審判決。最高裁への上告はなかった)は、「事案を異にする」として逃げた。けっして、「象徴的表現行為の法理」を否定してはいない。
今、知花さんはこう言う。
「沖縄戦24万人の犠牲の上に残された教訓はたった二つです。
一つは、軍隊は住民を守らなかった。守らない。
二つは、教育の恐ろしさ、大切さです。」
今、ロシアのウクライナ侵攻を機に、「国民の安全のためにもっと強い軍隊を」と望む声が一部にある。もう一度、沖縄戦を思い起こしたい。
なお、私的なことだが、私と知花さんとは袖擦り合っている。
1997年4月、地位協定に基づく《米軍用地特措法》という悪法の、その《再改悪》法が、国会通過の運びとなった。要するに住民の意思にかかわらず、軍用地の拡張を可能とする立法。これに沖縄が猛反対し、反戦地主会がその闘いの先頭に立った。知花さんを含む反戦地主21名が国会の本会議を傍聴して、悪法成立の瞬間に、一斉に抗議の声をあげた。これが議員運営委員会には不快と映り、21名全員警察署送りというたいへんな事態になった。
自由法曹団からの連絡で、20名を超す弁護士が国会に駆けつけた(あるいは麹町署だったかも知れない)が、釈放ないまま身柄は分散留置ということになった。その留置先の一つに本富士署があり、そこに留置される被疑者については、私が弁護を引き受けることとした。私の事務所から、徒歩5分もかからない。たまたま、その本富士署に留置されたのが知花さんだった。
もう一人の弁護士と、深夜、大声で、接見させろ、釈放しろと要求を重ね、弁護人選人届をとった。4月17日午後の逮捕で、翌18日朝検察官と交渉し、19日朝になって勾留請求ないまま釈放が決まった。釈放指揮のあった正午頃、私は知花さんの身柄を引き取って、タクシーに乗せ、江戸東京博物館ホールでの集会に送り届けた。
幸い不起訴で事件は終了した。当時、私は多忙を極めていた。知花さんとの会話は、本郷から両国までのタクシーの中だけでのこと。あれから、知花さんと会う機会はない。私が「日の丸・君が代」強制問題と取り組むようになったのは、それからしばらくしてのことである。
(2022年5月6日)
「法と民主主義」2022年5月号【568号】が、連休にはいる前の4月27日に発刊になっている。特集は、「ロシア―ウクライナ問題」だが、メインタイトルは、「ロシアのウクライナ侵略に抗議する」。そして、副題が「9条徹底の立場から」。拠って立つ立場を明確にしての、平和論であり、9条改憲反対論の特集である。いずれも、時宜にかなった力作。掛け値なく読み応えは十分。学習(会)資料としても使える。ぜひ、ご購読だけでなく、熟読いただきたい。
特集・ロシアのウクライナ侵略に抗議する ― 9条徹底の立場から
◆戦争はやめろ! 絶対に殺すな! ── 特集にあたって … 新倉 修
◆巻頭論文●ウクライナ危機における国際法と国連の役割 … 松井芳郎
◆インタビュー●軍事侵攻の根本原因と市民社会の役割を考える … 君島東彦
◆ウクライナ戦争と日本政府の責任、そしてわれわれは … 和田春樹
◆歴史の針を巻き戻すプーチンの戦争 … 木畑洋一
◆軍事侵攻を契機とする反9条論と改憲論 … 清水雅彦
◆台湾有事の発生を阻止するための外交力こそ … 猿田佐世
◆ウクライナ侵攻を考える ── イラク訴訟の経験から … 川口 創
◆そして、誰もいなくなる前に ── 核兵器による威嚇を許さない … 和田征子
◆ロシアにおける「言論抑圧」 … 竹森正孝
◆ロシアの軍事侵攻に抗議する各地の運動 … 大山勇一
◆【資料】
・ウクライナ侵略をめぐる動き
・ロシアのウクライナへの軍事侵攻に対する平和を求める声明等を発出した団体
◆連続企画・憲法9条実現のために(37)
「核共有論」の非現実性 … 前田哲男
◆司法をめぐる動き〈73〉
・旧優生保護法国賠訴訟 大阪高裁判決の意義 … 安枝伸雄
・3月の動き … 司法制度委員会
◆メディアウオッチ2022●《「核時代の戦争」と世論・情報・メディア その2》
君は「核戦争」を想定するのか? テレビ、新聞での議論を考える … 丸山重威
◆とっておきの一枚 ─シリーズ?─〈№12〉
明るいリアリスト … 松井繁明先生×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈№40〉
敵基地攻撃能力について「〔基地だけでなく〕中枢を攻撃することも含むべき」と
主張する安倍晋三元首相 … 飯島滋明
◆インフォメーション
あらためて緊急事態条項創設改憲案に反対する法律家団体の緊急声明/
「改憲ありき」の拙速な憲法論議に異議あり(いま、憲法審査会は?4・7院内集会)
◆時評●プーチンによるウクライナ侵略 … 大久保賢一
◆ひろば●司法の限界? ── 一部に停止命令、一方で工事進行 … 丸山重威
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202205_01.pdf
松井芳郎巻頭論文が必読であることは当然として、君島東彦インタビューが短いながらも印象的である。ウクライナ国内にも、ウクライナの軍事行動を批判する平和運動があることを紹介したあとに、次の言葉がある。
「日本国憲法の平和原理の核心は、安全を確保するために軍事力依存を極小化し(軍事主権の放棄)、他国との信頼関係を構築するというもの(共通の安全保障)です。安全保障のためにはなによりも武力紛争を「予防」するために積極的に行動することが大切です。21世紀に入って、『受け身の応答から積極的な予防へ』と言われるようになりました」
そして、「積極的な武力紛争予防」のキーワードが「信頼関係」の構築であるという。「市民に求められているのは、軍事力を使えない環境―信頼関係―を作る努力です」「国境を越えて連帯する市民、越境的市民の連帯が東アジアにおいて平和を構築する努力をしているのです」
また、清水雅彦論稿が、こういう比喩を述べている。耳を傾けたいと思う。
「人が強盗にあったとき、
? 強盗が刃物を持っていようが闘う
? その場から逃げる
? 強盗の要求通り財布を差し出す
という選択肢が考えられるが、?や?の選択を責めることはない。
しかし、これが国家による戦争だと、なぜ戦うことが当然かの議論になるのだろうか」
「今回の件でも、ウクライナ国民が
? ロシア軍と戦う
? 国内外に逃げる
? 降伏する
という選択肢から自身の判断で選択できるのが望ましく、兵役の拒否も保障されるべきである。特に?は屈辱的なことではあるが、犠牲者を最小限にする。時間がかかっても国際世論を背景にした非軍事・不服従等で抵抗するという選択肢もあるはずだ。単純に「非武装」「非戦」(無抵抗ではない)がダメとはならない」
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
そして、お申し込みは下記URLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
なお、「『維新』とは何か」を特集した「法と民主主義」4月号【567号】の売れ行きが好調で、在庫が枯渇しそうとの報告。ぜひ、こちらも、お早めの申し込みを。
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/202204.html
(2022年5月5日)
連休はありがたい。散歩ができる、本も読める。そして、DHCスラップ訴訟の顛末について出版予定本の校正作業の時間もとれる。
この本の原稿の第一稿、身内の評価はさんざんだった。「こんな漢字ばかりが詰まった文章、読む気にもならない」「せっかく出版するんだから、予備知識なしにすらすら読める本でなくちゃ」「分かり易く書く能力に欠けているんじゃないの」などという無遠慮な。これは罵倒か、はたまた励ましなのか。
めげずに書き直して、出版社側は「一応これでよいでしょう」となり、第二校のゲラができた段階。だが、校正の筆を入れ始めると実は際限がない。どこかで妥協するしかない。それでも、読んでいただけるだけの水準のものはできそうではある。完成したら、ぜひお読みいただくようお願いしたい。
《DHCスラップとの闘いの記》の中心テーマは、「表現の自由」である。実質的には「言論の自由」。教科書に書かれた「言論の自由」の解説ではなく、この現実の社会における「言論の自由」を実現するための闘いの記録。誰もが、「言論の自由こそは、民主主義の基盤をなす重要な基本権だ」という。が、実はその自由を獲得するのは容易なことではない。「言論の自由」に敵対しこれを潰そうとするものとの闘いの覚悟が求められる。
私は、「言論の自由」の主要な敵は以下の5者であると思っている。
(1) 公権力
(2) 社会的権威
(3) 経済的強者
(4) 右翼暴力
(5) 社会的同調圧力
「言論の自由」の敵とは、要するに社会の強者であり、多数派なのだ。この社会の強者・多数派に抗い、これを批判する言論が保障されなければならない。このような保障に値する言論は、宿命的に強力な対抗圧力との軋轢を伴う。論者にはこの軋轢に怯まない覚悟が必要なのだ。
DHC・吉田嘉明は、典型的な経済的強者としての「言論の自由の敵」となった。自らは差別的言論を恣にしながら、カネに糸目を付けずに、自分を批判する言論は許さないとするスラップ訴訟をかけまくった。これに加担する弁護士もいたのだ。出版予定の本は、この点をめぐっての記述となっている。
ところで、「言論の自由の保障」というときの「言論」は内容を捨象した言論一般を指しているが、現実の「言論」は常に具体的な内容を伴っている。DHC・吉田嘉明が攻撃した私の「言論」の内容の一つに、《消費者問題としての行政規制緩和》というテーマがあった。
みんなの党の渡辺喜美への8億円提供を自ら暴露した、「吉田嘉明手記」(週刊新潮・2014年3月27日発売号に掲載)を批判して私は同月31日に、ブログに下記のとおり記載した。これが、2000万円スラップの対象となった最初の記述。後に、損害賠償請求額は、合計5本のブロクに対して6000万円請求に拡張された。
「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。DHCの吉田は、その手記で『私の経営する会社にとって、厚生労働行政における規制が桎梏だから、この規制を取っ払ってくれる渡辺に期待して金を渡した』旨を無邪気に書いている。刑事事件として立件できるかどうかはともかく、金で政治を買おうというこの行動、とりわけ大金持ちがさらなる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない。」
私が批判の対象とした吉田嘉明の手記の中に、次の一節がある。
「私の経営する会社(DHC)は、主に化粧品とサプリメントを取り扱っています。その主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけて来ます。天下りを一人も受け入れていない弊社のような会社には、特別厳しいのかと勘繰ったりするくらいです。いずれにせよ、50年近くもリアルな経営に従事してきた私から見れば、厚労省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっているように思います。つまり霞が関・官僚機構の打破こそが、今の日本に求められる改革であり、それを託せる人こそが、私の求める政治家でした。ですから、声高に“脱官僚”を主張していた渡辺喜美さんに興味を持つのは自然なこと。」
さて、この言。なにか思い当たることはないだろうか。次のようにも言えるのだ。
「私の経営する会社(「知床遊覧船」)は、主に知床観光の遊覧船の運航をしています。遊覧船で旅客運送を行う場合は、海上運送法における「旅客不定期航路事業」又は「人の運送をする内航不定期航路事業」の許可・届出が必要となり、その主務官庁は国交省・運輸局です。その規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけて来ます。天下りを一人も受け入れていない弊社のような会社には、特別厳しいのかと勘繰ったりするくらいです。いずれにせよ、リアルな経営に従事してきた私から見れば、国交省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっているように思います。つまり霞が関・官僚機構の打破こそが、今の日本に求められる改革であり、それを託せる人こそが、私の求める政治家でした。ですから、声高に“脱官僚”を主張していた政治家を応援したくなるのは、自然なこと。少なくとも、本件重大事故を起こす前はそうでした」
こう並べれば、DHC・吉田嘉明の妄言の本質も本音もよく分かろうというもの。