(2022年4月24日)
本日でロシアのウクライナ侵略開始から2か月となった。この2か月間、戦争というものの悲惨さ、愚かさを噛みしめ続けてきた。いま、停戦への光明はまったく見えていない。この理不尽は、いったいいつまで続くのだろうか。
憎しみ合い、殺し合い、奪い合い、破壊し合い、欺し合い、環境を汚染するのが戦争である。どうしてこんなことが起きるのか。どうしたら、この不幸の源を世界から駆逐することができるのだろうか。
この戦争は明らかにロシアの側から仕掛けられたものである。軍事大国ロシアの大義のない隣国への侵略戦争。ロシア国内の開戦批判世論が、侵略に踏み切った政権を揺さぶることになるだろう、私は期待も込めて当初はそう考えた。
ところが、これまでのところそうなっていない。ロシア国民の政権支持率は、開戦後大きく上昇したという。政府系の世論調査機関の調査だけでなく、独立系の世論調査機関レバダ・センターの調査結果も、3月の支持率は83%を記録し、2月の71%から12ポイントも上昇したという。
そもそも戦争とはナショナリズムを高揚させ、政権の求心力を高めるものだからなのか。あるいはプーチン政権が国内向けプロバガンダに成功しているということなのだろうか。
だが、大局を眺めればロシアの軍事的な思惑は大きく挫折している。当初はウクライナの首都占領を目指した進軍は思わぬ反撃を受けて撤退を余儀なくされ、兵力を東部への侵攻に集中させてはいるが作戦の進展は思うとおりにはなっていない。制空権を掌握できないことは、侵攻当初から指摘されてきた。黒海艦隊の旗艦『モスクワ』の沈没もあり、兵の士気は低いと報じられてもいる。さらには国際世論の厳しい批判は身にこたえているに違いなく、国際的な経済制裁もこれから効果を発揮してくるだろう。軍事費浪費の負担に財政がどこまでもつのかという問題もある。
そんな状況で迎えた開戦2か月目の報道の中に、「侵攻継続以外の選択肢なし=支持率の低下懸念―プーチン政権」という〈リビウ発時事配信〉記事に目がとまった。
ロシアの独立系メディア「メドゥーザ」が22日、ロシア大統領府に近い複数の関係者の話として報じたところによると、政権内では数週間前から戦闘終結に関するシナリオが検討され始めた。しかし、プーチン氏の支持率低下を避ける「出口戦略」を見いだせず、停戦交渉のための世論づくりを放棄し「すべて成り行きに任せる」ことになった、という。
この報道だけではその真偽を判断しがたいが、こうした方針に至ったことについて、以下のようにプーチン政権の判断理由が述べられている。一言で言えば、ロシアの中産階級の間では侵攻を支持する割合が高く、中途半端な形での幕引きで不満が高まることを警戒したからだというのだ。
「メドゥーザが引用した、13?16日にモスクワ市民1000人を対象に行われた世論調査結果によると、「実質的に何でも買える」収入を得ている層では、「軍事作戦の継続に賛成」が62%で、「停戦交渉に賛成」の29%を大きく上回った。収入的にその一つ下の層でも、作戦継続賛成が54%で、交渉支持は37%。これが「食費も十分でない」層になると、停戦派が53%と作戦継続派(40%)を上回った。
社会学者グリゴリー・ユジン氏はメドゥーザに対し、「ロシアの中産階級のかなりの部分が治安・国防関係者と中堅の官吏」であり、「政権の直接的な受益者」だと分析。大統領府に近い関係者も、米欧が厳しい経済制裁を科し、食品を中心に国内の物価が上昇する中でも、こうした層はそこまで影響を受けていないと指摘した。」
つまり、戦争継続には低所得層の賛意が得られないのだが、停戦には高所得層の反発が強く、停戦に踏み切る決断はしがたいというのだ。しかし、このままでは、確実に国民生活への戦争の影響は深刻化することにならざるをえない。戦争継続反対の世論が、政権批判の世論となって、停戦せざるを得なくなるに違いない。私は、再び期待を込めて、そう思い始めている。プーチン政権の国民的な支持基盤は、けっして盤石ではなさそうなのだ。
(2022年4月23日)
火事場泥棒という言葉がある。普段できないことを、どさくさに紛れて性急にやってしまおうという、姑息でみっともないやりくちへの非難として使われる。今、自民党がやろうとしている「敵基地攻撃能力」整備論が、まったくその卑劣な手口である。
一国の安全保障政策の基本を転換するについても、憲法解釈の明らかな変更に関しても、落ちついた国民的議論を尽くさなくてはならない。浮き足立つごとき火急のさなかに、これをチャンスと普段やりたくてやれないことをやってしまえという、防衛政策の大転換。これを「卑劣な悪乗り」と言わざるを得ない。
まさか、まさかと思っている内に、自民党内の「敵基地攻撃能力」整備論が、自民党安全保障調査会で党内意見として採用となった。本年暮れに政府の「国家安全保障戦略」(2013年制定)が改定の予定。その新たな「戦略」への正式な「提言」として、その反映を目指すことになるという。4月21日の同調査会全体会合でのこと。これは、「泥縄」ではない。プーチン・ロシアの侵攻を利用した「悪乗り」というほかはない。
評判の悪かった「敵基地攻撃能力」のネーミングは、「反撃能力」に変更された。しかし、その内容がマイルドになったわけではない。もっと露骨な「敵基地だけでなく基地を維持するためのその周辺機能」をも攻撃対象とし、「先制も辞さない攻撃」をも認容する恐れを内包している。さらには防衛予算の増額までが盛り込まれた。
まず、攻撃対象には「指揮統制機能等」が追加された。「指揮統制機能」の限定性は薄弱で、「等」は無限に拡散する。先制攻撃への歯止めはない。
防衛費は、国内総生産(GDP)比2%以上を念頭に、5年以内の増額を提言した。
他国への武器供与に関する防衛装備移転3原則(旧「武器輸出3原則」)も、緩和の方向で見直すという。「侵略を受けている国に幅広い分野の装備移転を可能とする制度を検討」と踏み込んでいる。
いずれも、憲法の平和主義に対する挑戦的な内容。武力によらない平和の理念に逆行した、「武力の威嚇」による安全保障政策。これでは、近隣諸国の警戒心を高め、戦争への危険を招くことにならざるを得ない。
この「提言案」は、中国と北朝鮮、ロシアの軍事動向を問題視し、安全保障環境が「加速度的に厳しさを増している」と指摘し、他国の武力を牽制する武力の整備を強調する。
産経新聞が、高市早苗政調会長の記者会見発言を報じている。
『攻撃対象を「指揮統制系統を含む」としたことに関し、「かねてより相手の指揮統制機能を無力化することについては、非常に有効な手段であると私も考えていた」と語った』という。
正確な報道であるかは疑問だが、単純に軍事的な有効性だけを考えれば、「提言」も、これを支持する高市も正しい。が、もっと広い視野で、平和を維持するために有効か否かは、別問題である。外交には、明らかにマイナスでしかない。こういう「安全保障調査会」と「政調会長」をもつ自民党の防衛政策は危うい。
この自民党の「安保提言」に抗議する【平和構想研究会】(川崎哲代表)は、「憲法の平和主義の原則を逸脱」するものと厳しく批判している。その中に、次の一節がある。まったく同感、というほかはない。
「日本がこのような攻撃態勢をとれば、相手国も当然同様に反応をするだろう。いたずらに地域の軍事的緊張を高め、日本が攻撃される可能性をむしろ高めるものである。
こうした軍拡政策を、ロシアによるウクライナへの侵略戦争で人々が不安を抱いているのに乗じて提案することは、きわめて扇動的で挑発的な行為である。抑止力の強化という名目でとられるこうした政策は、実際には、日本の平和主義に対する不信を生み、周辺国を軍事的に刺激し、結果として戦争の危険性をむしろ高めるものである。」
(2022年4月22日)
ロシアの軍事侵攻によるウクライナの悲惨な事態に胸が痛む。これまで、その名さえ知らなかったマリウポリという都市の存在が、ここ数日特別の意味をもって脳裏を離れない。その市民の深刻な苦悩や恐怖を思わずにはいられない。
4月17日以来、マリウポリのアゾフスターリ製鉄所に立て籠もる守備軍と市民にに対する時間を切った降伏勧告が繰り返され、その都度胸が締めつけられる思いを余儀なくされてきた。いまもなお、その巨大な製鉄所の地下に、砲撃の恐怖と飢餓とに苛まれている多くの人々が身をひそめているという。
ところが、昨21日突然に様相が変わった。プーチンが、唐突に作戦変更を指示したようなのだ。報道では、プーチンはショイグ国防相にこう述べたという。
「工業地帯への強襲は、得策とは思えない。中止を命じる。兵士と将校の命と健康を守ることを考えなければならない。地下墓地のようなところをはいずり回る必要はない。ハエ1匹通れないよう、工業地帯を封鎖せよ」「“マリウポリ解放作戦”の完了を祝福する。感謝の意を隊員に伝えてほしい。南部の重要な拠点を制圧したことは成功だ。おめでとう」
なんというプーチンの言いぐさだろう。「マリウポリ全体では、約10万人が地下シェルターに隠れており、製鉄所地下には2000人が救出不可能な状況」と報じられている。息をひそめて「地下墓地のようなところをはいずり回る」10万の人々を、プーチンは「ハエ」にたとえたのだ。生死の境をさまよっている人々に対して、「ハエ1匹通れないよう封鎖せよ」と言った。それが、プーチンなのだ。
戦争だから仕方がない、とは言わせない。戦争を起こしたのもプーチンではないか。やむにやまれず起こした戦争だとも、言わせない。プーチンには、自らが起こした戦争での死者や戦争に苦しむ人に対する畏敬の念も、遺憾の気持ちも、憐憫も呵責も何もない。侵略戦争を起こし戦争犯罪を犯す人物とは、このような神経の持ち主なのだ。
確認しておこう。プーチン・ロシアの侵略行為は、国連憲章に違反の違法行為である以前に、明らかな大量殺戮であり、大規模強盗である。都市と建造物の破壊犯罪であり、放火犯でもある。さらに、おびただしい死体損壊、死体遺棄でもある。これに関しての、いかなる口実も言い訳も許してはならない。
また、改めて思う。プーチン・ロシアと同様に、これまでのあらゆる侵略も違法である。皇軍の侵略も、ベトナム戦争も、アフガン戦争も、イラク戦争も、イスラエルも…も。「どっちもどっち」で許すのではなく、「どっちも、けっして許してはならない」。アメリカもロシアも、ヒトラーもヒロヒトも、侵略戦争を起こし、戦争犯罪を重ねた国とその指導者は、徹底して断罪されなければならない。
私に分かることは、侵略者の違法とその悪辣さであって、しかるべき制裁が必要だということである。私に分からないのは、悪辣な侵略行為にどう対処すればよいのかということ。英雄的な徹底抗戦が正義なのか、交渉に妥協してでも停戦して人命を尊重すべきが正義なのか。あるいは、そのような問題の設定自体が間違っているのか。果たして、このような問に正しい解があるのだろうか。
分からぬままに、ひたすらに胸が痛む。これもプーチンの仕業である。
(2022年4月21日)
NHKと森下俊三(NHK経営委員長)の両名を被告として、NHKの姿勢を問う《NHK文書開示請求訴訟》。その第3回口頭弁論期日が、4月27日(水)14時から東京地裁103号法廷で開かれる。
この訴訟は、興味津々の進行となっている。これまで意図的に公表を避けられていた問題の経営委員会議事録だが、もしかしたら、この法廷の進行次第で、てNHKのホームページへの公表が実現することになるかも知れない。それが実現すれば、大きな提訴の成果である。この法廷にご注目いただきたい。
それだけでなく、放送法で義務付けられている経営委員会議事録の公表がなぜ実現しないのか。その責任は、NHK執行部にあるのではなく、もっぱら被告森下俊三ら経営委員会側にある。経営委員会が、禁じられている番組編成に対する露骨な介入の違法を隠蔽しようとしていたことが、ほぼ明らかになっていると言ってよい。
法廷では、この点をパワーポイントを使って、原告代理人が説明する。ぜひ傍聴をお願いしたい。傍聴券の配布は1時20分からとされている。
「クローズアップ現代+」の「かんぽ保険違法勧誘問題」報道に端を発した「会長厳重注意の議事録」隠蔽は、放送法違反の違法行為を重ねた本件被告森下俊三の責任だけでなく、これを選任した政権の責任問題を浮かび上がらせている。
なお、報告集会を参議院議員会館102会議室にて15時30分ごろより開催する。こちらにもぜひご参加をお願いしたい。
簡単に、これまでの経緯を確認しておきたい。
本件原告らNHKの報道姿勢を正す市民運動に参加してきた者として、「かんぽ保険違法勧誘問題」報道に対する日本郵政グループ幹部からの介入とこれに呼応した経営委員会の動きにを重大視し、先行する経営委員会議事録開示請求に対するNHKの不開示決定を許せないと考えた。
そのため、「もしまた、NHKが議事録を不開示とするときには文書開示請求の訴訟を提起する」ことを広言して、「文書開示の求め」の手続に及び、所定の期間内に開示に至らなかったため、21年6月14日に本件文書開示請求訴訟を提起した。その結果、ようやく同年7月9日に至って「議事録と思しき文書」(被告NHKはこれを「議事録草案」と呼ぶ)が開示されたのだ。
おそらくは、これだけで大きな成果である。この「議事録草案」では、森下らが、日本郵政の上級副社長鈴木康雄と意を通じて、「クローズアップ現代+」の《かんぽ生命保険不正販売問題報道》を妨害しようとたくらんだことが明確になったからだ。この局面では明らかに、経営委員会の無法にNHK執行部と番組作成現場が蹂躙されている構図である。結局は安倍政権以来、政権が関わる人事の全てがおかしいのだ。
もっとも、この「議事録と思しき文書」は、所定の手続を経て作成されるべき「議事録」ではない。放送法41条で、「経営委員会委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない」とされている、適式の「議事録」については、いまだに不開示ということになる。真実、放送法の規定に反して、いまだに適式の議事録が作成されておらず、公表もされていないとすれば、森下の責任は重大である。その理由はどこにあるのか。森下主導の経営委員会が、放送法(32条)に違反して、番組(「クローズアップ現代+」)制作に介入していることが明らかになることを恐れたからである。
責任は、経営委員会、なかんづく委員長・森下俊三にある。無法・横暴な経営委員会とその委員長によって、NHK執行部と番組制作現場の報道の自由が蹂躙されている構図である。NHKは、乙1号証として「放送法逐条解説・29条部分」を提出して、文中の「経営委員会は、協会(NHK)の最高意思決定機関として設置したものである」という記述にマーカーを付けている。「NHK執行部が、経営委員会にもの申すなどできようもない」という内心の溜息が聞こえる。
NHKが暴走することのないよう、放送法は、NHKの最高意思決定機関として経営委員会を置き、その重責を担う経営委員12名を「国民の代表である衆・参両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」という制度設計をした。当然に良識を備えた経営委員の選任を想定してのことである。ところが、この経営委員会が、とりわけその委員長が、政権の思惑で送り込まれ、明らかな違法をして恥じない。この事態に、内閣と国会とはどう責任をとろうというのだ。
この訴訟は、その問題に切り込んでいる。ご注目いただきたい。
(2022年4月20日)
いつからだろうか、何を切っ掛けにしてのことかの覚えはない。私のメールボックスに「産経ニュースメールマガジン」が送信されてくる。ときにその論説に目を通すが、愉快な気分になることはなく、なるほどと感心させられることも一切ない。とは言え、怪しからんと思うことも、黙らせたいと思うことも通常はない。そもそも思想信条も言論も自由なのだから。
しかし、昨日送信を受けた「榊原 智コラム・一筆多論」には、看過し得ない危険を感じる。一言なりとも批判をしておかねばならない。ことは、自衛隊という軍事力=組織的暴力装置の取り扱いに関わるもの。この危険物の取り扱いに失敗すると、軍国主義復活につながりかねない。維新と産経がその先導役を買って出ているような臭いがするのだ。なお、榊原智とは産経の論説副委員長だという。
論説の内容は、共産党委員長志位和夫の「新・綱領教室」出版発表会見での言説に対する批判である。「ロシアのウクライナ侵略があっても目が覚めないのか―」「日本の政党の防衛政策は合格点にあるとはいえないが、共産党と立憲民主党という左派政党の姿勢はとりわけ嘆かわしい」という調子。こういう批判・非難はいつものことで、とるに足りない。
産経が問題にしたのは、志位委員長が言ったという「急迫不正の主権侵害には、自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守り抜く」という発言。
産経は非難がましく、《共産は綱領で、「憲法9条の完全実施(自衛隊の解消)」「日米安保条約の廃棄」を目指している。一方、2000(平成12)年の党大会で、自衛隊の段階的解消を掲げつつ、侵略があれば自衛隊を「活用」すると打ち出した》と解説している。誰が見ても、共産党の綱領は憲法に忠実な姿勢であろう。産経の批判は、「共産党は憲法遵守の姿勢を貫いて怪しからん」と聞こえる。
また産経は《日本維新の会の馬場伸幸共同代表が14日、「国防という崇高な任務に就く自衛隊を綱領で『違憲だ』と虐げつつ、都合のいい時だけ頼るとはあきれる」と批判したのはもっともだ」と言う。フーン、維新と産経、話が合うんだ。ここまでは、聞き流してもよい。問題は次の一文である。
《自衛隊は政治の命に服すべき組織だが、政治家も含め国民は、諸外国の人々が軍人に対するのと同様に、自衛隊員に敬意を払い、支えるべきだろう。命がけで日本を守る決意をしてくれた人たちだ。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め」ると宣誓している。》《共産は自衛隊攻撃を自衛隊と隊員に謝罪し、敬意を払うのが先だ。それなしに自衛隊「活用」を唱えても真剣に防衛を考えているとは思えない。参院選対策の戦術的擬態だと国民に見透かされるのがオチだろう。》
国民に《自衛隊員に対する敬意》を要求し、共産党には《自衛隊と隊員に謝罪せよ》と言うのが産経の態度なのだ。
ことさら確認するまでもなく、《平和を望むのなら、さらなる防衛力の増強と軍事同盟の強化に邁進せよ》というのが、自民・維新・産経の立場である。このことについては、論争あってしかるべきである。しかし、《自衛隊員に敬意を持て》《自衛隊と隊員に非礼を謝罪せよ》と言い募る産経の論調は、それ自体厳しく批判されなければならない。これは、危険な言説である。
軍事力とは厄介なもの、日本国憲法はこれを保持しないと定めたが、現実には自衛隊という「軍事力」がある。暴走すれば、国民の人権も民主主義も破壊する。このような組織的暴力装置は、徹底した文民(主権者国民)の管理下に置かねばならない。だから、自衛隊について、「存在自体が危険」とも、「違憲であるが故に存在してはならない」とも、「直ちに廃止すべき」とも、「段階的に縮小すべき」とも、意見を言うことにいささかの遠慮もあってはならない。この点についての国民の批判の言論は、その自由が徹底して保障されなければならない。
「国防という崇高な任務にまず敬意を」「命がけで国を守る人に批判とは何ごとぞ」という論説は、けっしてあってはならない言論封殺である。権力者にも、権威にも、そして危険物である自衛隊についての論議においても、国民の意見表明の権利は徹底して保障されなくてはならない。
自衛隊のあり方に対する批判に躊躇せざるを得ない空気が社会に蔓延したときには、軍国主義という病が相当に進行していると考えざるを得ない。その病は、国民にこの上ない不幸をもたらす業病である。軽症のうちに適切な診察と治療とが必要なのだ。産経のように、これを煽ってはならない。
(2022年4月19日)
来月15日で、沖縄の本土復帰から50年となる。その企画記事が目に付くようになったが、毎日の「沖縄の人々は日の丸の向こうに何を見ていたのか」という連載に注目したい。「沖縄の人々が日の丸を通して見ていたもの」は、時代によって違うのだ。そのことのレポートとなっている。
昨日の記事のタイトルは、「基地の街に並んだ日の丸 あれから半世紀『沖縄の真の復帰まだ』」という、複雑なニュアンス。
「その数日間は戦後の沖縄で日の丸が最も盛んに振られた日々だったのかもしれない。1964年9月、日本本土に先駆けて沖縄に到着した東京オリンピックの聖火は、日の丸の小旗で熱烈に迎えられた。そこは当時、米国が統治する島だったのに、だ。」
取材対象となったのは、当時大学2年生だった岸本義弘さん(77)。「沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)のセンター通りで聖火を引き継いだ。沿道に詰めかけた観衆から拍手と「頑張れー」の声援が湧いた。米兵相手の飲食店が建ち並ぶコザ。そんな基地の街にも日の丸が等間隔で並び、小学生たちも竹ざおに日の丸の旗を付けて振った。
岸本さんは太平洋戦争の末期、米軍が沖縄に上陸する直前の45年2月に生まれた。生後まもなく、父は戦場で、母は空襲で亡くなった。戦後、島を占領統治したのは両親の命を奪った米軍だった。「ほとんど植民地扱いでしょ。米軍が憎たらしかった」。だからこそ、聖火を囲む無数の日の丸に感激した。「これで日本国民になったと思った。復帰はもう間近だと」
その岸本さんが今はこう呟く。「沖縄の人がいくら反対しても基地は県内に押しつけられる。沖縄は日本になりきれていない。本土の人ももう少し一緒になって考えてほしい。それが本当の意味での復帰ではないか」
そして、本日は、もう少し遡った時代についての記事。「日の丸、御真影がよりどころ 士気高揚、皇民化…結末は沖縄戦」というおどろおどろしいタイトル。
「戦後27年間の米国統治下の一時期、沖縄で「祖国復帰」への願いを込めて盛んに振られた日の丸。だが、時代をさかのぼると、その旗は県民を巻き込んだ太平洋戦争末期の沖縄戦に至る経過の中で、重要な役割を担ったものでもあった。」
1879年のいわゆる「琉球処分」で、約450年にわたる琉球王国が廃止され、県が設置された沖縄。約20年後には沖縄でも徴兵制が始まり、日中戦争(1937年開戦)では沖縄からも兵士が前線に派遣された。集落の人々は日の丸の小旗を振って兵士たちを見送った。
1941年12月、日本軍による米ハワイの真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争。當真嗣長(とうましちょう)さん(91)が通っていた国民学校の教室には世界地図が貼られ、日本軍が南方の地域を占領する度に、子供たちが紙に描いた日の丸を貼り付けていった。當真さんの心は高揚した。
子供たちの心を震わせたのは日の丸だけではなかった。1887年以降、沖縄の学校には順次、天皇の写真「御真影」が配られ、奉安殿と呼ばれた建物などに納められた。現在の那覇市にあった沖縄師範学校女子部の生徒だった黒島奈江子さん(98)は「絶対的なものだった。恐れ多くて、奉安殿の前ではせきさえできなかった」と証言する。祝日は奉安殿に日の丸が掲げられ、生徒たちは敬礼を求められた。
沖縄では、日本との同化を図るため、学校を拠点に皇民化が強力に推し進められた。日本は天皇を中心とする国家体制を造り上げ、大陸へと進出していった。その結末が沖縄戦だった。
沖縄では、時代によって「日の丸」のもつ意味が変わってきたのだ。かつては、新興天皇制政府の専制のシンボルであり、皇国にまつろわぬ人々への弾圧のシンボルであった。やがては県民がこれに服属を表明するシンボルとなり、本土から捨て石とされた沖縄戦では皇国に対する忠誠心のシンボルとなった。
新憲法制定後に、まだ主権者気取りだった天皇(裕仁)から捨てられた沖縄は日本が独立したあとも、米軍の統治下におかれた。このような事態において、「日の丸」はその意味を変えた。横暴な占領者アメリカに対する抵抗のシンボルとなり、当時の沖縄における本土復帰運動のシンボルともなった。
私は、66年暮れの1か月余復帰前の沖縄に滞在する機会を得てそのことを実感している。64年東京オリンピックの「日の丸」を打ち振った沖縄の人々の思いが痛いほど分かる。が、琉球処分やその後の沖縄の歴史を思えば、「日の丸」を打ち振った人々の胸の底にある切なさも思わずにはおられない。
「本当の意味での復帰」は、まだない。そもそも、沖縄が「復帰」を求めた日本とはどんな国あるいは社会だったのだろうか。そして、これから沖縄にとって、「日の丸」とはどんな意味をもつことになるのだろうか。復帰50年、答は見えてこない。
(2022年4月18日)
ロシア国防省は、17日包囲攻撃を続けるウクライナ南東部の要衝マリウポリで、製鉄所構内に立てこもったウクライナ部隊に降伏を勧告し、ゼレンスキーはこれを拒否した。局地的には絶望的な戦況での、部隊の殲滅を覚悟しての降伏拒絶である。本日夕刊の報道では「マリウポリ抵抗続く」とされてはいるが、希望は見えない。胸が痛む。
全軍の士気高揚のために、また国民の戦意を持続するためにも、徹底抗戦あるべきだろうか。あるいは人命尊重の見地からは降伏を受容すべきか。どちらが正しい選択なのだろうか。
旧帝国には大元帥である天皇が兵に与えた心得である『軍人勅諭』が、「死は鴻毛より軽しと心得よ」と教えた。さらに、陸軍大臣東條英機が示達した『戦陣訓』は、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」として、「降伏よりは死を」強要した。
盛岡で親しくした柳館与吉さんを思いだす。私の父と同世代で、私が盛岡で法律事務所を開設したとき、「あんたが盛祐さんの長男か」と手を握ってくれた人。戦後最初の統一地方選挙で、柳館さんも私の父・澤藤盛祐も、盛岡市議に立候補した間柄。二人とも落選はしたが善戦だったと聞かされている。もっとも、柳館さんは共産党公認で、私の父は社会党だった。
柳館さんは、旧制盛岡中学在学の時代にマルクス主義に触れて、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてフィリピンの激戦地ネグロス島に送られた。絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。
戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。
戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながらの投降は可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。
しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1947年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸・海軍刑法第7章「逃亡罪」は、敵前逃亡を死刑としていた。「出て来い。ニミッツ、マッカーサー」と叫んでいた時代に、当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、自ら投降して生き延びた。見つかれば、確実に銃殺となることを覚悟しての、文字通り決死行だった。「予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものでしたよ」「おかげで生きて帰ることができました」と言った柳館さんの温和な微笑が忘れられない。
ロシア軍の占領地での蛮行がなければ、ウクライナ軍司令部も降伏勧告受容の選択が可能であったかもしれない。投降しても、捕虜に対するロシア軍の苛酷な扱いは避けられないという判断もあるのだろう。暴力に対する憎悪と不信のエスカレートが、ウクライナ軍兵士の投降を阻んで、戦争をさらに凄惨なものにしている。
戦争になれば、戦闘も降伏も、敵も味方も、兵も民間も、勝利も敗北も、何もかもが悲惨極まりない。戦争を避けるあらゆる努力を惜しんではならない。
(2022年4月17日)
本日の赤旗社会面に、要旨以下の記事が掲載されている。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-04-17/2022041713_01_0.html
《元社員向け広報に「国民」参院候補チラシ同封》
東電が元社員に定期的に郵送している社内報(『TEPCOmmunity(テプコミュ)』)に、7月の参院選に国民民主党から比例代表で立候補する竹詰ひとし・東京電力労働組合委員長への支援を求めるチラシが同封されていた。
チラシには、「先輩の皆さまへ」として、「東京電力労働組合は『竹詰ひとし』を電力の代表として国政へ送り出すため、組織の総力を挙げて取り組んでまいります」と書かれている。
竹詰は自身のツイッターで原発について、「日本もより安全性や信頼性等に優れる革新的な炉へのリプレース・新増設や研究開発等の必要性をエネルギー政策に明確に位置づけるなど、原子力の将来ビジョンを国の意思として打ち出すべき」だと述べ、原発推進を訴えている。国民民主党も原発の早期再稼働を主張。2022年度政府予算に賛成し、事実上の与党となっている。
赤旗は、「東電は福島第1原発事故後、実質国有化されている。公的性格がきわめて強い企業が、事実上の与党となった政党の候補を支援する」ことへの批判を紹介している。が、それだけが問題なのではない。
東電労組の「『竹詰ひとし』を電力の代表として国政へ送り出す」という一文が衝撃である。「電力の代表」とは、電力業界の代表の謂いである。労働者・労働組合の代表でも、労働界・労働運動の代表でもなく、電力業界の代表だというのだ。
労働組合が臆面もなく企業・業界代表の姿勢を公言し、だからこそ企業が選挙に協力する。いや、実のところは、企業の代表者が労組の仮面を被って選挙に出馬しているとみるべきだろう。
この竹詰という候補者のホームページには、こんな政策の訴えがある。
??「環境と経済の両立」に向けた現実的な政策を政治へ?
「S+3E」を基本とした現実的なエネルギー・環境政策の実現
資源に恵まれない日本の「エネルギー安全保障」を確保するため「S+3E」の考えのもと、再エネや原子力・火力等、既存の人材や技術を最大限活用した現実的なエネルギー・環境政策の実現に取り組みます。
「S+3E」とは、2021年10月に閣議決定された第6次エネルギー基本計画での基本コンセプト。安全性(Safety)を前提としつつ、安定供給(Energy Security)を確保し、経済性向上(Economic Efficiency)と、環境への配慮(Environment)を図るとする。要するに、「S+3E」は原発再稼働容認とセットになって使われ、原発推進OKというお札となっている。
福島第1原発事故の責任者である東電自身が言いにくい原発再稼働推進を、東電労組と、候補者竹詰に言わせている図である。東電は労使協調を旗印とする典型的な御用組合である。だから、東電労組委員長が立候補する選挙は、企業ぐるみ選挙であり、業界ぐるみ選挙であり、労使渾然一体ベッタリ選挙とならざるをえない。
この予定候補者の最近のツィッターにも、「法令に基づく安全基準を満たした原子力の早期再稼働が必要! (午前8:58?2022年4月15日)」と露骨である。
ところで、この人の肩書は、「東電労組・中央執行委員長、関東電力総連・会長、全国電力総連・副会長」であるという。言うまでもなく、電力総連は連合の有力単産である。この電力総連の姿勢は、連合の姿勢でもある。
こうして、企業に支配された労使協調の労働運動は連合に束ねられ、さらに国民民主党をパイプとして保守政権につながり、飲み込まれている。
資本主義社会においては、使用者と労働者の対峙という基本構造がある。真に労働者の利益を守ろうという労組・労働運動は、使用者から独立していなければならない。これが、労働運動の大前提であり、労働法のキホンのキである。ところが、連合・電力総連の「労働運動」は、資本や使用者と対峙する姿勢をもたなない。むしろ企業や財界の意を忖度して、その代弁者として活動する。
東電労組委員長で「電力代表」という、国民民主の予定候補者・竹詰よ。君はいったい、誰のために、誰と闘おうというのか。本来は、労働者のために、東電や財界や、財界の意を政策としている政権と闘わねばならない。しかし、現実にはそうなっていない。
君は、東電と電力業界の利益のために、連合や国民民主の一部隊として闘おうというのだ。君が闘う相手は、立憲民主党であり、日本共産党である。そして、その政党を支えている、資本から独立した自覚的労運動であり、中小零細の未組織労働者であり、厖大な非正規労働者である。君の当選は財界には歓迎されるが、今の世に苦しんでいる弱い立場の人々をさらに不幸にするだけだ。君の落選を願ってやまない。
(2022年4月16日)
一般には、「現状」の墨守は革新への妨げである。とりわけ、「不合理な現状」であれば変更して悪かろうはずはない。だが、どんな方法を用いてでも「現状」を変えてよいことにはならない。むしろ、実力による現状の変更は、通常は違法となる。また、現状が変更を合理化するほど不合理であるか否かの判断は難しい。間違いのないことは、力の強い者が一方的に決めてよいことではないということ。
国家が力づくで不満とする現状を変えようとすれば侵略戦争になる。かつて、旧日本帝国は朝鮮を侵略し、続いて満州を占領して中国に攻め入り、遂には真珠湾を攻撃して太平洋戦争の引き金を引いた。そして今、現状を不満とするプーチンのロシアが、隣国ウクライナの主権を侵している。
どの戦争についても言えることだが、開戦を合理化する理屈はどうにでも拵え上げることができる。戦争を起こした側の国民の大多数はその理屈を受け入れて、圧倒的に戦争を支持する。自国に正義があると思い込みたいのだ。その基礎をなす愛国心だの祖国の栄光を讃える心情などほど危険なものはない。
さて、香港である。「一国二制度」とは、中国自身が受容した「現状」であったはず。これが、一方では中国の独裁体制が深刻化し、もう一方では香港の民主化の進展が著しく、「二制度」の乖離が大きくなった。この「現状」を容認しがたいとする中国共産党が実力で「変更」に乗りだした。相手が独立国ではないから、戦争にはならない。野蛮な弾圧となっている。
権力とは人民から委託され、人民に奉仕すべきものという文明世界の共通原理はここでは通用しない。剥き出しの暴力と、暴力による威嚇が、文明社会では大切にされる言論の自由、政治活動の自由を遠慮なく蹂躙する。蛮族の支配さながらに、全ては実力を掌握した一党の幹部の思いのままである。
香港には人民の意思を政治に反映するシステムとしての三権分立の制度が整備されており、近年まで立派に機能していた。その文明が、無惨にも野蛮の暴力に屈せざるを得ない。中国共産党は、香港議会の選挙に介入し、司法に圧力をかけ、民主主義を支える言論の自由を古典的な手口で弾圧した。そして今、総仕上げとして、行政のトップを意のままになる人物に変更しようとしている。
香港政府トップの行政長官選挙は5年に1度行われる。新型コロナの感染拡大の影響で延期されたが、5月8日予定となり、立候補の受け付け期間は4月3日から2週間とされ、14日夕に締め切られた。立候補は、党の眼鏡にかなった李家超ただ一人。既に「当選確実」である。その去就が注目された現職の林鄭月娥も立候補しなかった。
この選挙の投票権は、一般の市民にはなく、親中派が99・9%を占める1500人の選挙委員が投票して選ぶ仕組みだという。しかも、立候補には188人以上の選挙委員の推薦を受けることが必要とされ、李は13日に届け出をした際、半数を超える786人の推薦者名簿を提出している。
李家超(ジョン・リー、64)とは、警察出身で現政府ナンバー2だった人物。民主派に対する「弾圧の急先鋒」「強硬派」として知られ、「選挙の形骸化も決定的」と報じられている。
香港メディアによると、「中国政府は、李氏が唯一の候補者だと選挙委員に伝えて結束を求めており、投票前から当選者が事実上、決まったも同然」だという。
さらに朝日が伝えるところでは、李は、「香港の治安機関トップとして、2019年の逃亡犯条例改正案をめぐる反政府デモの後、民主活動家らに催涙弾を使って取り締まりを指揮。中国共産党に批判的だった香港紙「リンゴ日報」を廃刊に追い込んだ強硬派として知られる。こうした中国政府の方針に忠実な態度が評価され、昨年6月に政府ナンバー2の政務長官に抜擢されていた」とのこと。なるほど、さもありなん。
プーチンはウクライナに侵攻し、習近平は香港の民主主義を蹂躙した。ともに、文明社会のルールを無視して、現状を実力で変更した。いつの日か、歴史の審判を受けるであろうか。
(2022年4月15日)
ウクライナ戦争のさなか、情報戦も熾烈である。何が真実か、真実をどう見極めるべきか、そもそも真実とはいったい何だろうか。錯綜する情報にどう向き合うべきか。多くの人の悩みを反映して、アンヌ・モレリ著「戦争プロパガンダ 10の法則」(草思社・永田千奈訳、初版2002年3月刊)が話題となっている。この「10の法則」を岩月浩二さんが、メーリングリストに次のとおり紹介してくれた。
1 われわれは戦争をしたくはない
2 しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3 敵の指導者は悪魔のような人間だ
4 われわれは領土や覇権のためにではなく、偉大な使命のために戦う
5 われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる
6 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7 われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
8 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
9 われわれの大義は神聖なものである
10 この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である
この法則は、イギリスの軍人でもあり政治家でもあったアーサー・ポンソンビー著の「Falsehood in Wartime(戦時の嘘)・1928」に出てくる、第一次世界大戦当時のプロパガンダを分析したもの。アンヌ・モレリは、その後に起こった第二次世界大戦やさまざまな戦争の情報を盛り込んで、1法則1章の章立で解説している。なお、モレリの肩書は、ブリュッセル自由大学歴史批評学教授となっている。
そして、モレリは11番目の法則を付け加えている。
「新たにもうひとつ法則を追加しよう。
『たしかに一度は騙された。だが、今度こそ、心に誓って、本当に重要な大義があって、本当に悪魔のような敵が攻めてきて、われわれはまったくの潔白なのだし、相手が先に始めたことなのだ。今度こそ本当だ』」
この本については、NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」4月8日の「ヒミツの本棚」でも取りあげられている。その最後の部分の高橋の解説が興味深い。
モレリさんは書いています。「戦争プロパガンダの法則について考えてゆくと、最後には次のような根本的な疑問にたどりつく」「真実は重要だろうか。」
本当のことって分かんないんだから、もうどうでもいいみたいになるのか、それでも本当の事を探すべきなのか。
何が本当かわからなくなってくるっていうときに、我々はどうしたらいいのか。「なにもかも疑うのもまた危険なことではないだろうか」
これメディアリテラシーの話なんですよね。いま皆さんもいろんなメディアの情報にさらされてて、そういう時にどうしたらいいのかと。「これまでの歴史のなかで、戦況を左右した「情報」が、その後あっさりと否定され、しかもその否認が何の反響も引き起こさないとなると、真実には何の価値もないのだろうかという疑問がうかぶ」
モレリさんはこういうふうに言ってます。
「行き過ぎた懐疑主義が危険であるとしても」、「盲目的な信頼に比べれば、悲劇的な結果につながる可能性は低いと私は考える。メディアは日常的にわれわれを取り囲み、ひとたび国際紛争や、イデオロギーの対立、社会的な対立が起こると、戦いに賛同させようと家庭のなかまで迫ってくる。こうした毒に対しては、とりあえず何もかも疑ってみるのが一番だろう。」
モレリさんの最後の結論は最後の1行に出てきます。
「疑うのがわれわれの役目だ。武力戦のときも、冷戦のときも、漠とした対立が続くときも。」
今の目の前の戦争もそうだけれども、こういったことは戦争だけじゃないよね。だから本当にいま困難な中で、明せきでいられるにはどうするか。絶えず自分で注意して、でも自分が取っている情報が本当かどうかもわからない中で、どうしたらいいのか、っていうときに、こういうプロパガンダの法則があるというのを知っていると、ちょっと我に返るためには、僕はすごくいいことだと思いました。
戦争目的の聖化や敵の悪魔化は、皇軍やナチスの専売特許ではない。そして、過去のことでもなく、戦争遂行に限られたことでもない。リテラシーを研ぎ澄まして、プロバガンダに対する強い免疫を獲得せねばならない。