澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「弾圧を受けた弁護士の弁護士が有罪とされ、そのまた弁護士までが資格剥奪の通告を受けた」

(2021年10月25日)
 今は昔のこと。中国司法制度調査団などというツァーに参加して、何度か彼の地の法律家と交流したことがある。

 そのとき、裁判官の独立も、弁護士の在野性も、検察官の罪刑法定主義もほとんど感じることはできなかった。日本の司法には大いに不満をもっていたが、彼の地の司法はとうていその比ではなかった。

 改革開放政策に踏み切った中国が経済発展を遂げるには、近代的な法制度をつくり、その法制度を運用する厖大な法律家の創出が必要になるという時期。みごとな通訳を介して、私は遠慮なくものを言った。

 「中国共産党の専横を抑制するには、法の支配を徹底するしかない。厖大な数の法律家が育てばその役割を果たしてくれるのではないか」「とりわけ、人権意識の鋭い弁護士が多数輩出することが中国の社会を民主化するきっかけになるのではないか」「権力の横暴が被害者を生み、その被害者が弁護士を頼らざるを得ないのだから、反権力の弁護士が育たないはずがない」「そのような弁護士の輩出による中国共産党の一党独裁の弊害への歯止めを期待したい」

 私の言葉は、ほとんど無視された。せいぜいが、「あなたは中国共産党のなんたるかを知らない」「そんな甘いものじゃない」「まったくの部外者だから、勝手なことを言える」という言葉が返ってきた程度。

 今、中国の人権派弁護士が孤立して、中国共産党の暴虐に蹂躙されている模様が報道されている。「中国で人権派弁護士は、権力の監視役として一定の役割を果たしてきた。習近平指導部は、党の一党独裁体制を脅かす存在として抑圧を続けている」と共同記事。昔中国で聞かされた「中国共産党はそんな甘いものではない」という言葉を思い出す。なるほど、これが現実なのだ。

 かつての天皇制権力の暴虐も、弁護士の人権活動を蹂躙した。はなはだしきは、国賊共産党員の弁護活動従事を治安維持法違反に当たるとして検挙した。当時司法の独立はなく、当然の如く有罪が宣告され、弁護士資格は剥奪された。当時弁護士の自治はなく、弁護士会も天皇制権力に毅然とした姿勢をとることはできなかった。同じことが、いま中国で起こっているのだ。

 2015年7月9日、約300人の弁護士・人権活動家が一斉拘束された。「709事件」としてよく知られている。しかも、拘束された人権派弁護士たちは苛酷な拷問を受けたとされる。多くの弁護士が、この弾圧で投獄され資格を失った。それだけではなく、この事件で起訴された弁護士の弁護を務めた弁護士が弾圧されている。

 「709事件」の被害者として著名な人権派弁護士王全璋は、服役して刑期を終えた。ところが、王全璋の弁護を担当した余文生弁護士は18年1月からの拘束が続いているという。その余弁護士の弁護を引き受けたのが、盧思位弁護士。余弁護士は苛酷な拷問のうえ有罪判決を受けて下獄し、廬弁護士は香港の事件受任で資格剥奪の通告を受けているという。

 余弁護士の妻、許艶氏は夫の拷問を告発するとともに、「(一斉拘束事件では)弁護士の弁護士の弁護士まで圧力を受けた」と憤っていると報じられている。ああ、中国には人権はなく、刑事司法もない。あるのは、お白州レベルの糾問手続だけなのだ。

 これは、社会主義とも共産主義とも無縁な現象。野蛮な権力の容認は、未開社会の文化度・文明度を物語るものである。

岸田流 「分配重視」の竜頭蛇尾

(2021年10月24日)
 第49回総選挙まで、あと1週間。選挙情勢は混沌としてよく見えない。各政党の政策もよく見えてこない。最大の論争テーマして、岸田さんが設定した「新しい資本主義」「いわゆる新しい日本型資本主義」なるものがよく分からない。正確には、さっぱり分からない。

 「ネオリベ」も「ネオコン」も、頗るイメージは悪い。「新自由主義経済」ではなく、「新しい資本主義」とは、いったい何なのだ。これまでのどのような資本主義に比較して、どこがどう「新しい」と言うのだろうか。分かりにくさの原因はいくつもあるが、何よりも、岸田さん自身がはっきりものを言えない立場にあることが根本原因と言ってよいのだろう。

 アベノミクスの9年は、成長重視で格差貧困をほったらかしの「新自由主義経済政策」であり、その惨憺たる失敗であった。結局、成長もできず格差貧困を大きく拡大しただけ。一方に極端な富裕層を更に肥大化させ、他方で実質賃金を減じてしまった。安倍や麻生の失政に対して、国民的な怨嗟の声が巻きおこらないのが不思議でならない。

 アベノミクスの失敗を素直に認めて、「アベノミクス=新自由主義政策」からの脱却を目指すとすれば、岸田政策はとても分かり易いものになる。アベノミクスの成長重視政策から、格差貧困をなくす経済政策に転換するのだと明言すればよいだけのことだ。だが、ご存知の事情あって、それができない。

 「成長と分配」にかかわる論争を「卵が先かニワトリが先か」論争と同視して、どっちもどっちなどとしてはならない。また、「生産と分配」の論争と混同させてもならない。「成長と分配の好循環」と言っても、あるいは「官民協働で成長も分配も」と唱えても、具体的なイメージは湧かず、何を言っているのか、さっぱり分からない。

 アベノミクスを転換して、「まず配分」を重視の政策でなくてはならない。所得の再分配も、富の再分配も必要なのだ。具体的には、消費税を撤廃ないし半減する。金融所得の分離課税方式を撤廃する。所得税の累進化率を高める。新たな富裕税を創設する。そして、最低賃金を底上げする。具体的にやるべきことはいくつもある。野党が政権を取れば、その格差と貧困の解消が現実化される。

 しかし、岸田さんは、そんなことは言えないのだ。本日(10月24日)の毎日朝刊に、興味深い記事がある。「岸田氏演説、消えた『分配』 野党と差別化『成長』重視」というタイトル。

 「岸田文雄首相が衆院選の街頭演説で「経済成長」に軸足を置いた訴えを続けている。一方で、自身が掲げる「新しい資本主義」で重視する「分配」への言及は抑制気味だ。野党との差別化を狙う自民党が「成長」を前面に出すよう要請したためだが、野党は「アベノミクスと何ら変わらない」などと批判している。

 首相は23日、佐賀県武雄市の街頭演説で「成長」という表現を7回使いつつ、…「分配」の文言は、現地での第一声としては選挙戦5日目にして初めて消え、力点の違いは明らかだった。

 首相は9月の自民党総裁選で格差是正に取り組む考えを強調し、成長重視のアベノミクスの修正とも受け取れる「新しい資本主義」を掲げた。8日に衆参の本会議で行われた所信表明演説では「新しい資本主義」への言及は7回に達した。「成長」(15回)と「分配」(12回)をほぼ同じ回数使った。

 だが衆院選に入りこのバランスが崩れている。19日の福島市の街頭演説で「成長」は8回に対し、「分配」は3回にとどまった。20日以降は「成長」への偏重が加速し、「分配」の文言を使わない演説も増えた。「新しい資本主義」に触れるのも0回か1回が続いている。」

 「首相周辺は「首相の主張が変わったわけではない。自民党側から選挙戦術の進言があった」と明かす。

 やっぱり、「岸田自民党」ではなく、「安倍・麻生・甘利・高市 自民党」なのだ。来週日曜(10月31日)の投票日には、「安倍・甘利 自民党」に大敗北の審判を下さなければならない。 

総選挙と国民審査を間近にして、本日は悪名高き「10・23通達」発出の日

(2021年10月23日)
 「3・11」「1・17」「3・10」「6・23」「8・6」「9・1」…。人は、それぞれに、月と日を記憶する。私にとっては「10・23」が忘れてはならぬ日となっている。2003年以来、今日まで。

 18年前のこの日、東京都教育委員会が悪名高い「10・23通達」を発出した。東京都教育委員会とは、石原慎太郎教育委員会と言って間違いではない。この通達は、極右の政治家による国家主義的教育介入なのだ。学校儀式における国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明、つまり「国旗(「日の丸」)に向かって起立し国歌(「君が代」)を斉唱せよ」という職務命令を全教職員に徹底せよと強制する内容。

 形式は、東京都内の公立校の全ての校長に対する命令だが、各校長に所管の教職員に対して、入学式・卒業式等の儀式的行事において、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」よう職務命令を発令せよ、職務命令違反には処分がともなうことを周知徹底せよというもののだ。実質的に知事が、校長を介して、都内の全公立校の教職員に、起立斉唱命令を発したに等しい。教育法体系が想定するところではない。

 あの当時、元気だった次弟の言葉を思い出す。「都民がアホや。石原慎太郎なんかを知事にするセンスが信じられん」。そりゃそのとおりだ。私もそう思った。こんなバカげたことは石原慎太郎が知事なればこその事態、石原が知事の座から去れば、「10・23通達」は撤回されるだろう、としか考えられなかった。

 しかし、今や石原慎太郎は知事の座になく、悪名高い横山洋吉教育長もその任にない。石原の盟友として当時の教育委員を務めた米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員は内舘牧子を最後にすべて入れ替わっている。教育庁(教育委員会事務局)の幹部職員も一人として、当時の在籍者はない。しかし、「10・23通達」は亡霊の如く、いまだにその存在を誇示し続け、教育現場を支配している。

 この間、いくつもの訴訟が提起され、「10・23通達」ないしはこれに基づく職務命令の効力、職務命令違反を理由とする懲戒処分の違法性が争われてきた。

最高裁が、
 秩序ではなく人権の側に立っていれば、
 国家ではなく個人の尊厳を尊重すれば、
 教育に対する行政権力の介入を許さないとする立場を貫けば、
 思想・良心・信教の自由こそが近代憲法の根源的価値だと理解してくれさえすれば、
 真面目な教員の教員としての良心を鞭打ってはならないと考えさえすれば、
 そして、憲法学の教科書が教える厳格な人権制約の理論を実践さえすれば、

「10・23通達」違憲の判決を出していたはずなのだ。そうすれば、東京の教育現場は、今のように沈滞したものとなってはいなかった。まったく様相を異にし、活気あるのになっていたはずでなのだ。

 10月31日、総選挙の投票日には、公立校に国家主義を持ち込もうという現政権を批判して、立憲野党4党(立民・共産・社民・れいわ)の候補に投票しよう。そして、最高裁裁判官の国民審査においては、最高裁を総体として批判する意味において、遠慮なく審査対象11人の全員に「×」をつけていただきたい。

 全裁判官に「×」はやや無責任に思える、比較的マシな裁判官には、「×」をつけたくない、とおっしゃる方は、宇賀克也裁判官にだけは「×」を付けずに投票されたい。
 
 その理由については、下記のURLを参照願いたい。

国民審査リーフレット
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf

第25回最高裁国民審査に当たっての声明
https://www.jdla.jp/shiryou/seimei/211020.html

祝、自由法曹団創立100周年。

(2021年10月22日)
 本日、自由法曹団の創立100周年記念集会が開催された。
 団の結成は、1921年。大戦前における最大規模と言われる、神戸の川崎・三菱両造船所争議をきっかけにするものだった。当時、友愛会神戸連合会の指導のもとに、神戸の川崎・三菱の全工場がストライキにはいったが、軍隊の出動にまで及んだ弾圧によって争議は鎮圧された。このときに、調査にはいった弁護士団を核に自由法曹団は結成されている。その出自から、「闘う弁護士」の組織であった。

 広辞苑に、「大衆運動と結びつき、労働者・農民・勤労市民の権利の擁護伸張を旗じるしとする」と解説されているが、これでは不十分な紹介でしかない。何よりも、法的手段を駆使して権力と大資本に真っ向から闘うことをもって真骨頂としてきたのが自由法曹団なのだ。

 団は、戦前においては、天皇制権力の暴虐と闘った。多くの団員が治安維持法で弾圧された共産党員を弁護し、そのゆえに自らも治安維持法の弾圧に遭い、弁護士資格を剥奪されてもいる。この困難な、戦前の先輩団員弁護士として、山崎今朝弥・布施辰治・上村進・古屋貞雄・小岩井浄・近内金光・神道寛次・天野末治・桜井紀などの名を挙げることができる。

 大戦の進行とともに団は活動の逼塞を余儀なくされたが、戦後直ちに新生自由法曹団として復活した。以来、団は「あらゆる悪法とたたかい、人民の権利が侵害される場合には、その信条・政派の如何にかかわらず、ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう」(規約2条)ことをスローガンとし実践してきた。

 戦後の団は、平和、民主主義と人民の生活と権利を守るため、憲法改悪、自衛隊の海外派兵、有事法制、教育基本法改悪、小選挙区制、労働法制改悪などに反対する活動を行ってきた。

 現代的な課題として、戦争法制(安保法制)など戦争する国づくりに反対する活動、秘密保護法に反対する活動、米軍普天間基地撤去を求め、辺野古新基地建設に反対する活動、議員定数削減に反対し、民意の反映する選挙制度を目指す活動、労働法制改悪に反対する活動、盗聴法の拡大と司法取引の導入に反対する活動、裁判員制度の改善と捜査の全面可視化を実現する活動、政教分離を確立する運動、思想・良心の自由を擁護する取り組み、東日本大震災と福島第一原発事故による被害者支援の取り組み、脱原発へ向けたとりくみなどを行っている。

 さらに団と団員は、松川事件を典型とする刑事弾圧事件とも闘ってきた。その流れは、布川事件、足利事件、袴田事件などのえん罪裁判に及んで成果を挙げている。

 そして今、団員の派遣労働者の派遣先企業への正社員化を求める裁判などの数々の労働裁判、生活保護受給を援助する取組、嘉手納爆音裁判などの基地訴訟、環境・公害裁判、税金裁判、消費者裁判などの様々な権利擁護闘争に取り組んでいる。日の丸・君が代強制反対のまた、国際的な法律家の連帯と交流の活動も行っている。

 現在、団員弁護士数は約2100名。全国すべての都道府県で活動しており、全国に41の団支部がある。現在の役員は、団長・吉田健一(32期)、幹事長・小賀坂徹(43期)、事務局長・平松真二郎(59期)である。

 青年法律家協会結成が戦後の1954年。日本民主法律家協会は1961年。当然のことだが、それぞれに結成の由来があり、それぞれに構成メンバーの属性も違う。一番老舗で、しかも闘う弁護士集団を標榜する自由法曹団の結成100年を祝したい。

 なお、日本民主法律家協会も今年が結成60周年となる。こちらは来月、祝賀集会を開催し、「法と民主主義」の特別号を発行する。

老子も呟いた、岸田のブレと安倍菅政権の異常と。

(2021年10月21日)
ご隠居、これさっぱり分からねえ。なんだか教えてくんないかな。

おや八つぁん、どれ見せてみな。ああ老子だな。

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

おれにゃチンプンカンブンだね。いったいどう読むんだい。

たやすいことだ。普通はこう読む。

道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無し、天地の始めには。名有り万物の母には。故に常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。この両者は同じく出でて名を異にし、同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。

なおのことさっぱり分からん。老子ってお人は、いったい何についてしゃべくっているのかね。

これはな、八つぁん。実はだな、自民党岸田文雄総裁の総選挙における姿勢を厳しく批判しておる。

ムチャを言っちゃいけねぇ。ここには、岸田も、選挙も、一言もこざいませんぜ。

そこが、素人のあさはかさ。読む人が読めば、自ずからこの裏に隠された意味が浮かび上がってくるな。

へ?、読む人はいったいどう読むんですかね。

たとえば、こう読む。

岸田の岸田たるは、常の岸田に非ず。政権の政権たるは、常の政権に非ず。岸田無きは天地の始め、政権有るは万物の母。故に常にその自説を放棄してその地位を保ち、自説にこだわれば破滅を観る。岸田と政権と、この両者は同く出でて、しかもハトとタカと名を異にす。この両者同じきを保守と謂い、保守も自民も玄にしてさらに玄、衆妙の門なり。

ご隠居、相当に無理をしちぁいませんかね。それでも、やっぱりわからない。私にも分かるように、噛み砕いてくださいな。

噛み砕くと面白みはなくなるが、まずは、こんなところだ。

岸田さんてのはそれなりのイメージを持った政治家だろう。保守本流の宏池会の主宰者で、決して改憲派でもなければ、安倍晋三のような好戦派でもないし、歴史修正主義とも政治の私物化とも無縁だ。話しぶりだって、安倍や菅と較べれば、ずっと穏やかで品がよい。

そりゃ違えねえ。なんたって、安倍晋三というのが、あんまりひどかったからね。ようやく、ちゃんとした人が自民党のトップになった。

そこが、素人のあさましさ。そういうふうに簡単に騙されてはいけないというのが、老子の教えだな。

あら、今度は「あさましさ」。どう騙されてはならないってんですかね。

これまでの岸田が総裁になったと思ってはならない、今、総選挙に臨んでいる岸田はイメージどおりのいつもの岸田ではない、とまあ警告を発しておる。

実は、あっしもそういう了見なんだ。新聞で、「ブレブレ岸田」と言ってるとおりだ。「自民党の政権公約で鮮明なのはアベ後継の甘利と高市のカラーばかり」って、あれだろう。

そうさぁ、そのとおり。そして、老子は続けている。

安倍菅政権というものは、民主主義の常識に照らせば政権の名に値するものではない。しかし、岸田は実力で今あるわけではなく、安倍菅政権を母体として自民党総裁になった。だから、自分のカラーを消して初めてその地位を保つことができるが、反対に自説にこだわればあっさりと破滅してしまう。

少し分かったよ。普通の政権なら、政権投げ出しゃそれでお終いだ。とこが、安倍菅政権って代物は、いつまでも裏で糸を引こうという魂胆なんだ。岸田は、実力ないから安倍菅とその一味に、糸で引かれっぱなしというわけなんだ。

よくお分かりじゃないか。まったくそのとおりだ。老子は、最後をこう締め括っておるな。

岸田と安倍と、この両者は出所は同じだが、ハト派とタカ派に名を分けた。この同じ出所を保守と言い自民党とも言うが、ハトもタカも一緒というごちゃごちゃはコマッタもんだ、とな。

へ?え、「衆妙の門」というのが、「自民党はごちゃごちゃでこまったモンだ」という意味ですかね。

あんまり細かいことにまでこだわらんでもよい。要は、岸田をハトのイメージで見ていては間違える。ありゃあ、実は安倍晋三そのままのタカだという教えなんじゃ。

見かけはハトで中身はタカ、看板は岸田で売ってる品物は安倍製品、表紙は岸田で中身は安倍、顔は岸田で身体は安倍ってわけか。

もっとも、鳩は軍記物では戦での勝運を呼ぶ鳥じゃ。軍神である八幡神の使いとしても知られておる。そもそもの岸田のハト派イメージも、そのホンモノ度を、よく吟味しなければならん。

なるほど、言われてみればそのとおりだ。ハトの目タカの目でね。

第25回国民審査リーフレット発表の記者会見で

(2021年10月20日)
 弁護士の澤藤です。
 弁護士生活50年、憲法を携えて仕事ができることを誇りにしていますが、必ずしも憲法に忠実ではない裁判所に不満を持ち続けて来ました。ですから、国民審査の際には、厳しい目で審判を、と訴えてきました。

 これまでも、国民審査のたびごとにリーフレットは作成されてきましたが、今回のリーフはよく出来ていると思います。よくできているの意味は、どの裁判官に、どんな理由で「×」をつけるべきかを明示していることです。読む人に親切な内容とも言えると思います。

 国民審査は、個々の裁判官の適不適を審査する制度となっています。しかし、私はむしろ、これを最高裁のあり方を問う制度として活用すべきだと思っています。

 日本国憲法には、美しい理想が掲げられています。その理想を実現する役割を担うのが裁判所であり裁判官です。その頂点に位置する最高裁の裁判官に限って国民審査の対象になります。主権者である私たち国民は、国民審査の機会に最高裁のあり方を可とするか不可とするかの審判を行うことで、最高裁だけでなく、全国の裁判所をより良い方向に変えていくことができます。

 まずは、最高裁はその判決や決定において、憲法に忠実に人権を擁護してきたか。結論から言えば、判決内容に関しては、以下のとおり不十分と言わねばなりません。

?選択的夫婦別姓に反対した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、岡村和美、長嶺安政の各裁判官)に「×」を!
?正規・非正規の格差是正に反対した裁判官(林道晴裁判官)に「×」を!
?冤罪の救済に背を向けた裁判官(深山卓也裁判官)に「×」を!
?一票の格差を放置した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、草野耕一岡村和美各裁判官)に「×」を!

 最高裁は二面の性格をもっています。その一面は、全国唯一の最上級審として判決や決定を統一する裁判体としての性格ですが、実はもう一つ、司法行政の主体としての性格も併せ持っています。
 
 国民審査においては、最高裁の判決の内容が国民の目からみて、憲法の番人にふさわしいか、というだけでなく、司法行政の主体として憲法が想定している裁判所を構成しているかという視点をもつべきだと思うのです。

 すべての裁判官にとって、その独立こそが生命です。政治権力にも、いかなる社会的な権力や権威にも揺らぐことなく、自らの良心と法にのみに従った裁判をすることによってこそ、法の正義を貫き国民の人権を擁護することが可能となります。

 ところが最高裁で司法行政を司る「司法官僚」はその人事権を梃子に、全国の裁判官を内部的に統制し、この50年にわたって裁判官の独立をないがしろにしてきたと指摘せざるを得ません。判決内容だけでなく、この点についての国民的批判も重大だと考え、その観点から

?裁判と裁判官を統制してきた司法官僚(林道晴、安浪亮介各裁判官)に、「?」を!
と訴えます。

 なお、このリーフレットの作成には、「日本民主法律家協会」の会員とともに、「23期弁護士有志ネットワーク」の弁護士が参加しました。23期弁護士は、50年前の1971年4月「司法の嵐」と言われた時代に、弁護士となりました。当時、石田和外最高裁長官(退官後、「英霊にこたえる会」の初代会長)を典型とする司法官僚と鋭く対峙してきました。そのテーマは、裁判官の思想・良心の自由であり、裁判官と司法の独立をめぐってのものでした。

 憲法や司法の独立を大切にする法律家としての立場から、国民の皆様に、最高裁裁判官国民審査を大切な機会として生かしていただくよう訴えます。

 以上の件に関して、詳しくは、下記URLをご参照ください。

国民審査リーフレット
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf

第25回最高裁国民審査に当たっての声明
https://www.jdla.jp/shiryou/seimei/211020.html

今、国民すべてが主権者としての自覚に目覚めるべきとき。

(2021年10月19日)
 いよいよ総選挙だ。
 本日、第49回衆議院選挙の公示。選挙区に857人、比例代表に194人(重複立候補者を除く)の計1051人が立候補を届け出、各党の党首がそれぞれの第一声を上げた。この選挙で求められているのは、9年間に及ぶ腐りきった安倍・菅政権への主権者からの審判であり、その継続を断ち切っての政権の転換である。

 主権者のはずの国民だが、普段はなかなかその実感をもちにくい。安倍菅政権下ではなおさらのことだった。今こそ、すべての国民が主権者としての自覚に目覚めなければならない。でなければ、また、これまでと同じような、腐敗した政権の支配に屈し続けなければならない。

 理想的とは言えないにせよ、野党の共闘態勢は大きく前進している。289の小選挙区のうち、213選挙区で立民、共産、れ新、社民の野党共闘候補が自公の候補者と対決する。議会制民主主義の基本の通りに、選挙を通じての民意を反映した政治の前進を期待したい。そして、望むべくは、政権の転換である。

 「1強」とも、「官邸支配」とも、「国会軽視」とも、「官僚の私兵化」とも呼ばれた安倍・菅政権であった。官僚に忖度を余儀なくさせ、国政を私物化し、公文書を隠匿し改竄し廃棄する官僚文化を醸成し、嘘とゴマカシの羅列で、国民の信頼を喪失してきたこの腐敗の政権。それが、いまだに実質的に継続しているのだ。これに「NO!」を突きつけなければならない。

 具体的な政策の問題点は、野党間共通政策となった「6本の柱・20項目」に網羅されているが、私は、強調すべきは以下の3点だと思う。

 第1は、経済政策である。アベノミクスの評価と絡んで、「成長と分配」の論争。
岸田文雄は、自民党総裁選では明らかに分配重視の見解を述べていたのに、ブレて後退し「まず成長、その果実を配分にまわす」に立ち位置を変えた。これでは、アベノミクスと変わらない、9年間の格差拡大と停滞とを継続するだけのことになる。

 適切な所得と富の再分配あってこその国民の福利である。社会の極端な経済格差と貧困を解決するための政権交代が必要なのだ。そのために、消費税の撤廃ないし半減、法人税の増税・累進化、富裕税の創設、所得税の累進性の強化、金融所得への課税強化が不可欠である。

 「新自由主義」を否定しつつ、「新しい資本主義」を唱える岸田だが、だんだんと自分でも何を言っているのか分からなくなってしまっているのではないか。

 第2は、政治姿勢の抜本的転換である。嘘とゴマカシのない、説明責任と透明性を確保した政治と行政が行われなければならない。そのために、安倍菅政権下の、モリ・カケ・サクラ・河井等々の徹底調査を選挙の争点としなければならない。

 そして第3点は多様な生き方を保障する人権の確立である。端的には、ジェンダーがテーマとなっている。中でも、選択的夫婦別姓制度採択への賛否が分水嶺になろう。今や、頑固な家族制度墨守派に占拠されている自民党だけが少数反対派となってミジメな孤立をしている状況ではないか。

 ところで、本日午前10時15分と16分、総選挙の第一声に国民が湧いている時刻に、北朝鮮が弾道ミサイルを「東の方向に発射し、日本海上に落下したものと推定される」との政府発表があった。これが、騒ぐほどの規模や態様のものであるか否かはまだ分からない。が、たいへん不愉快な北朝鮮の行動である。

 このような一国のパフォーマンスが、各国にどのような影響を与えるかの分析なしに行われるはずはない。このミサイル発射は、明らかに、日本の総選挙を意識した挑発であると考えざるを得ない。日本を挑発して北朝鮮の存在を誇示して、軍事的な緊張を高めようとしているのだ。

 言うまでもなく、この北朝鮮の狙いは自民党の好戦勢力の歓迎するところ。そのことがよく分かったうえでの、選挙に際しての毎度の礼砲なのだ。

 自己目的化している北朝鮮の先軍政治を堅持し、引き締めるためには、常時の軍事緊張が必要なのだ。折々に、ミサイルも発射しなくてはならない。事情は、日本の軍産複合体や自民党の鷹派にとっても同じことだ。お互いに、相手を敵視し挑発し合うことで、持ちつ持たれつ軍備の増強をはかっているのだ。

主権者として最高裁に合否の審判を

(2021年10月18日)

 最高裁裁判官国民審査に当たって訴えます

 10月31日第49回総選挙投票の際に、「もう一つの総選挙」である最高裁裁判官の国民審査が行われます。主権者である国民が、最高裁のありかたの適不適を判断する大切な機会です。確かな判断材料に基づいて、曇りのない確かな目で、審査対象の各裁判官と最高裁のあり方を判断されるよう、法律家の立場から訴えます。
 
 日本国憲法には、美しい理想が掲げられています。その理想を実現する役割を担うのが裁判所であり裁判官です。その頂点に位置する最高裁の裁判官に限って国民審査の対象になります。主権者である私たち国民は、国民審査の機会に最高裁のあり方を可とするか不可とするかの審判を行うことで、最高裁だけでなく、全国の裁判所をより良い方向に変えていくことができます。

 今回審査対象となるのは、安倍晋三内閣任命の裁判官が6名、菅義偉内閣任命が5名の計11名。この裁判官たちは憲法の理想を実現する役割を果たしたと言えるでしょうか。政府広報だけでは分からないこの問題について、的確な情報を提供する「パンフレット」を作りました。ぜひ、ご参照され活用していただくよう希望いたします。その結論を申し上げれば、以下のとおりです。

 選択的夫婦別姓に反対した裁判官(林道晴、深山拓也、三浦守、岡村知美、長嶺安政の各裁判官)に?を!
 正規・非正規の格差是正に反対した裁判官(林道晴裁判官)に?を!
 冤罪の救済に背を向けた裁判官(深山拓也裁判官)に?を!
 一票の格差を放置した裁判官(林道晴、深山拓也、三浦守、草野耕一岡村知美各裁判官)に?を!

なお、すべての裁判官にとって、その独立こそが生命です。政治権力にも、いかなる社会的な権力や権威にも揺らぐことなく、自らの良心と法にのみに従った裁判をすることによってこそ、法の正義を貫き国民の人権を擁護することが可能となります。
 ところが最高裁で司法行政を司る「司法官僚」はその人事権を梃子に、全国の裁判官を内部的に統制し、この50年にわたって裁判官の独立をないがしろにしてきたと指摘せざるを得ません。判決内容だけでなく、この点についての国民的批判も重大だと考え、その観点から訴えます。

 裁判と裁判官を統制してきた司法官僚(林道晴、安浪亮介各裁判官)に、?を!

 なお、国民投票運動は、公職選挙法の縛りを受けません。このパンフは、どこでも、いつでも、自由に配布することができます。
  

スラップ訴訟の今昔 ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第196弾

(2021年10月17日)
 かつて、武富士こそがスラップ常習企業の雄として君臨していた。知られたくないその業務の実態を報道したメディアやジャーナリストを被告として、名誉毀損訴訟を濫発したのだ。2002年から03年にかけてのこと。
 標的になったのは、日経ビジネス・サンデー毎日・週刊金曜日・週刊プレイボーイ・月刊ベルタ・月刊創など。記事を書いた記者も、被告とされた。

 そのうちの一件に、「同時代社」(代表・川上徹)を被告とした訴訟があった。同社が出版した「武富士の闇を暴く」の記事によって、武富士に対する名誉と信用が毀損されたとするもの。この件で被告にされたのは、同社だけでなく、記事の執筆を担当した消費者問題専門弁護士3名。そのとき、私は被告代理人を買って出て弁護団長となった。

 この訴訟では、消費者問題に取り組む全国の弁護士が総力をあげて、武富士と闘い、その請求を棄却させるだけでなく、提訴を違法とする反訴にも認容判決を得る成果を挙げた。

 しかし、当時、「スラップ訴訟」という言葉がなかった。あったのかも知れないが知られていなかった。この言葉が知られていれば、労せずして武富士側の提訴のねらいを明確にして、裁判所に正確な理解を得ることが容易であったろう。世論の理解と支援を得るためにも便宜であったと思う。

 さて、時は移って2014年。既に武富士は世になく、スラップ常習企業としての地位を継いだのがDHCである。武富士とDHCとスラップ。よくお似合いではないか。スラップ常習弁護士も代わった。

 DHC・吉田は、「8億円裏金授受問題」批判の記事を嫌って、時期を接しての10件の同種事件を提訴している。高額の訴訟費用・弁護士費用の支出をまったく問題にせずに、である。

 私もそのうちの1件の被告とされた。他には、私のようなブロガーや評論家、出版社など。最低請求額は2000万円から最高は2億円の巨額である。

 損害賠償請求の形態をとる典型的なスラップは、市民運動や言論を恫喝して萎縮の効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできるのだ。

私は、自分がスラップの被告とされて以来、同じ境遇の何人かの経験を直接に聞いた。皆、高額請求訴訟の被告とされたときの驚愕、胸の動悸と足の震えを異口同音に語っている。そして、その後に続く心理的な負担の大きさ重苦しさを。被告とされた者に、萎縮するなと言うのが無理な話なのだ。自分の体験を通じて、そのことがよく理解できる。このような訴権の濫用には、歯止めが必要なのだ。

 DHC・吉田嘉明から、直接に口封じ狙いの対象とされ、応訴を余儀なくされたのはこの10件の被告である。しかし、恫喝の対象はこの被告らだけではない。広く社会に、「DHCを批判すると面倒なことになるぞ」と警告を発して、批判の言論についての萎縮効果を狙ったのだ。

 自らもスラップの被害者となり、先駆的にスラップの害悪を訴えたジャーナリストである烏賀陽弘道さんがこう語っている。
 「一人のジャーナリストを血祭りにあげれば、残りの99人は沈黙する。訴える側は、『コイツを黙らせれば、あとは全員黙る』という人を選んで提訴している。炭坑が酸素不足になると、まずカナリヤがコロンと落ちる…。カナリヤが落ちれば、炭坑夫全部が仕事を続けられなくなる」

 なるほど、私もカナリアの一羽となったわけだ。美しい声は出ないが、鳴き止むことは許されない。ましてや落ちてはならない。DHC・吉田嘉明からスラップを掛けられて以来、私はことあるごとに、DHC・吉田嘉明の批判を広言し、DHC製品の不買を呼びかけてきた。これに対して、「そんなことを言って大丈夫なんですか」「営業妨害になりませんか」「DHCから訴えられたりしませんか」という反応に接してきた。DHCのブランドイメージは、確実にスラップと結びついている。

 スラップが横行している現在、その用語と概念の浸透のための努力が一層必要なことは言うまでもない。スラップの害悪を社会に浸透することも、である。

 そして、DHCに対しては、デマとヘイトとステマとスラップに反省を求めて、その反省が目に見えるようになるまで、こう言い続けなければならない。
 「DHCの製品、私は買いません」
 「DHCの製品、私の親類縁者には買わせません」
 「DHCの製品を使っているホテルには泊まりません」
 「DHC提供の番組は観ません」
 「DHCのコマーシャルが流れたら、スイッチを切ります」

さあ選挙 共闘候補に声援を とは云ふものの お前ではなし

(2021年10月16日)
江戸の狂歌師・蜀山人の作が、
 『世の中に 人の来るこそ うるさけれ とは云ふものの お前ではなし』

内田百?がそのパロディをつくって、両作とも人口に膾炙するところとなった。
 『世の中に 人の来るこそ うれしけれ とは云ふものの お前ではなし』

ともに人情の機微に触れて、実によくできている。いずれも総論と各論の対比ではあるが、目の前の「お前」にとっては、本歌では婉曲に、パロディでは直接に、否定の評価をされて辛いところ。

総選挙を目前にした巷では、安倍菅路線からの脱却こそが天の声であり、民の声でもある。その実現のためには、野党共闘が必要で、選挙協力が望ましいことは誰にも分かる理屈。しかし、大所高所からの総論だけでは選挙はできない。現場は動かない。

総論は正論で反対しがたいが、現場の活動家も選挙民も将棋の駒ではない。自分の支持政党とは異なる候補者への投票を依頼するのだ。簡単にできることではない。選挙活動の担い手を納得させる手続や具体策が不可欠ではないか。

 ちなみに、私の地元の「有力野党共闘候補者」(現職)のビラが甚だしく無内容。これまでの安倍菅政権への批判の気迫が感じられない。念のためにホームページを覗いてもみた。
 9月8日に合意した「衆議院総選挙における野党共通政策」についての言及はまったくない。むしろ、憲法については、こんな具合だ。

「憲法を尊重し、21世紀の日本にふさわしい憲法について広く議論を進めます。従前の司法手続きで解決できない憲法上の問題(自衛権、解散権、1票の格差等)について、国民とともに積極的に議論します。」

 これは、明らかに改憲派の言い回しである。共通政策は、この点を次のように言っており、懸隔は大きい。

 「安保法制、特定秘密保護法、共謀罪法などの法律の違憲部分を廃止し、コロナ禍に乗じた憲法改悪に反対する」「核兵器禁止条約の批准をめざし、まずは締約国会議へのオブザーバー参加に向け努力する」「地元合意もなく、環境を破壊する沖縄辺野古での新基地建設を中止する」

 外にも、共通政策にあって、この予定候補者の政策にない主なものは、「原発のない脱炭素社会」「最低賃金の引き上げ」「富裕層の負担強化」「日本学術会議の会員を同会議の推薦通りに任命する」などなど。

 野党の共通政策は、とてもよくできている。よくできているという意味はいろいろあるが、何よりも安倍菅政権9年の負の実績への対抗軸を設定するものであり、自公政権の継続を断ち切りたいとする選挙民の期待を集約するものである。野党共闘の候補者は、これこそが選挙民からの付託された基本政策と厳粛に受けとめていただきたい。

 その上で、各選挙区ごとに、共闘候補者と各政党や選挙母体が、この共通政策を有権者に訴えることを再確認する手続ないしはセレモニーが欲しい。そうでなければ、野党共闘は現場を盛り上げる力をもちえない。絵に描いた餅におわる恐れさえある。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2021. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.