(2021年7月4日)
陰鬱な雨の日曜日。耳にはいるのは熱海の土石流被害のニュースは。神奈川でも、千葉でも豪雨の被害が報じられている。気が滅入る。オリンピックどころではなかろうと呟かざるを得ない。
東京オリパラはきっぱりと中止したいもの。それだけでなく、今後もうオリパラは一切やめようではないか。今回、コロナ禍と重なってオリンピックの何たるか、IOCやJOCの何たるかを我々は知ってしまった。こんな愚劣な集団の愚劣な思惑に振り回されるのは、ごめんだ。この思いは、コロナ後も変わるばずがない。
コロナ禍が終われば、私的なスポーツの国際交流は復活するだろう。しかし、この肥大したオリパラは不要だ。いや、有害極まる。国威発揚と商業主義と売名とナショナリズムの醸成、こんなものに貴重な国費を投じてはならない。
私の手許に最新の、東京都の広報(7月号)と文京区報(6月25日号)がある。いずれも、オリパラ推進の立場での紙面作り。「いよいよ東京2020大会が始まります!」(都報)、「文京区で楽しむ東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」(区報)という見出しを付けている。
都報にも区報にも、表紙に市松模様の東京オリンピック2020のエンブレムが掲載されている。あれはどう見てもコロナマークだ。言うまでももなく、コロナとはクラウン(冠)のこと。電子顕微鏡写真のウィルスの形がクラウン(冠)に似ていたことからの命名。あのエンブレムは紛れもなくクラウン(冠)の形のコロナマーク。これを額に刻印したマスコットは、コロナ・ボーイと呼ぶべきだろう。このデザインはコロナ蔓延以前のものだが、芸術家の直感力の賜物というべきか、何らかの啓示があったのだろうか。今後、東京2020と新型コロナとの切っても切れない関係の象徴となるだろう。パンデミック下に強行されたオリンピックとなるにせよ、世論が止めたまぼろしのオリンピック大会となるにせよ。
確実なことは、この東京大会を機にオリンピックは急速にしぼんでいくことになる。国威発揚の舞台としても、ナショナリズム高揚の手段としても、ビッグなビジネスチャンスとしても、もう機能しない。指導者が笛を吹いても、もう人は踊らない。冷めた目で、笛を吹くひとの滑稽な姿を見つめるだけのことになるだろう。かつては祝祭のオリンピックに讃歌が献じられた。今、愚劣なオリンピックに挽歌を手向けなければならない。まずは、目前の東京オリパラ、そして来年の北京冬季オリンピックがオリンピック終焉の墓標となるだろう。
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再度、五輪開催中止を求める新ネット署名の紹介
「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」
著名13氏が呼びかけ人になっての新しいネット署名が始まった。その署名サイトへのアクセスは、「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」をキーワードとする検索で。
以下は、呼びかけ人の訴え
東京五輪開催の危険性がますます明らかになっています。私たちは五輪主催者が状況をしっかりと直視し、開催を中止することを緊急に求めます。
いよいよ五輪開催が予定される期日が迫ってきました。私たちは昨年の開催延期の決定以来、日本政府と五輪主催者が「安心安全」のスローガンをどのように実現するのか、国民に納得のいく説明を行うのを待ってきました。残念ながらそのような説明が行われていないどころか、逆に感染防止体制の様々な欠陥が明らかになってきました。また、現在首都圏ではコロナの感染者数が再拡大する傾向にあり、感染力の強いデルタ株の割合も増えています。高齢者以外の方々にあまねくワクチン接種をおこなうことも不可能であると報道されています。このように低いワクチン接種率で行うことになろうとは1年前に考えてもみませんでした。私たちの不安は急速に高まっています。
私たちの怒りも深くなっています。日常生活の抑制を求めながら、数限りないコロナクラスターを無数につくる可能性を秘めた五輪開催を強行しようとする不条理に、また子どもたちから運動会を奪いながら観戦を求めようとする大人の身勝手に怒っています。
このように1年前に延期を決めたときと現在では、開催をめぐる条件が変化しているにもかかわらず、IOCと日本政府は開催ありきで、市民の声を聞く気が全く無いようです。市民の間には今さら何を言ってもと無力感が拡がっていますが、それでもこの切迫した時期だからこそ、最後のチャンスと考え、あえて言うべきことを言っておきたいと、私たちもこの署名をもって、その隊列に加わります。
日本国民の健康と命、そして世界の人々の健康と命が守られなくてはならないと考え、政府に改めて訴えます。歴史的暴挙ともいうべきこの東京五輪が中止されることを求めます。
もはや残された時間は少なくなってきました。私たちは切羽詰まったお願いをしております。遅くなる前にこの暴挙を中止する決断をしていただきたいと。
(2021年7月3日)
明日が都議選投票日。地元文京区の福手ゆう子・共産党候補の街頭演説に出かけた。志位和夫党委員長が応援弁士を務めていた。
文京選挙区は定数2、自民、都ファと共産の3候補が争う分かりやすい構図。激戦・接戦・横一線というのは、誇張ではなかろう。自・都ファ・共の争いというのは、今の首都の政治状況を象徴する選挙戦。
4年前も同じ顔ぶれでの闘いだった。都ファの候補が当時吹いていた風に乗り、公明の支持まで取り付けて、トップ当選した。公明の支持のない自民候補が保守系組織を総動員して2位にすべり込み、共産福手候補はわずか215票差での次点となった。風が左右する首都の選挙の特徴がよく出た結果。
今回選挙では、自民は公明の支持を得ている。とはいうものの、前回は都ファにくっついた公明票、ホントに自民候補の得票に結びつくものだろうか。また、公明に自民支持の大義があるのだろうか。有権者に対する自民候補の魅力はさっぱり見えていない。それでも、政権との結びつきはそれだけで一定の票になる。
都ファの凋落は避けがたいところ。4年前の風は今はない。むしろ、逆風が吹いている。都ファは公明にも見離されている。この都ファ候補が、議員団の幹事長であり、連合の組織内候補なのだ。
福手ゆう子候補の訴えを聞くのは告示日以来だが、驚いた。わずか8日間で、候補者はこんなにも変わるものか。淀みのない、自信に満ちた話しぶり。メリハリの効いた話し方が分かり易い。聴衆に訴える言葉の力がある。余裕を表す身振り手振り。そして聴衆の共感と好感を誘う訴えの内容。気迫と熱意が伝わってくる。
党委員長の応援よりも立派な演説ではなかったか。この福手候補の演説のボルテージは、文京区内を駆け回っての手応えの反映なのだろう。まぎれもなく、ノッているのだ。
志位応援演説は、いつもながらのものだったが、菅義偉への評価が場を沸かせた。
「菅さんには答弁の能力がないんです。私が一問質問すると、さっとお付きの官僚から紙が出て来てこれを読む。次の質問をすると、また次の紙が出てきてこれを読む。国会での答弁くらいは、自助努力でお願いしたい。」
この党首の話に耳を傾けながら、つくづくと思う。志位和夫よ、習近平になる勿れ。日本共産党よ、中国共産党に似る勿れ。
さて、明日。賽の目は、吉と出るか凶と出るか。運次第ではなく、民意次第。
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五輪開催中止を求める新ネット署名
「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」
著名13氏が呼びかけ人になっての新しいネット署名が始まった。その署名サイトへのアクセスは、「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」をキーワードとする検索で。
署名の開始は、開催が目前に迫る中で、首都圏では新型コロナウイルスの感染が再拡大しつつあり、残された時間が少なくなっている切迫感に突き動かされてのことだという。インターネットサイト「Change.org」で昨日(2日)朝から開始。菅義偉首相、国際オリンピック委員会(IOC)、日本オリンピック委員会(JOC)、小池百合子都知事らに対し、五輪中止を求める内容。
要望書では、五輪の「安心安全」をどう実現するのかについて国民が納得いくような説明がされていないこと、首都圏でコロナの感染者数が再拡大する傾向にあること、ワクチン接種率が低いことなどを問題視。「日常生活の抑制を求めながら、コロナクラスターを無数に作る可能性を秘めた五輪開催を強行しようとする不条理」への怒りが深くなっている、と指摘する。
主催者が「開催ありきで、市民の間には今さら何を言っても無駄だと無力感が広がっている」なかで、「切迫した時期だからこそ、最後のチャンスと考え、あえて言うべきことを言っておきたい」として、「歴史的暴挙ともいうべき東京五輪が中止されること」を求めている。(朝日から)
署名の呼びかけ人と賛同者は以下の通り。(50音順)
◆呼びかけ人
浅倉むつ子さん(法学者)、飯村豊さん(元外交官)、上野千鶴子さん(社会学者)、内田樹さん(哲学者)、大沢真理さん(東京大学名誉教授)、落合恵子さん(作家)、三枝成彰さん(作曲家)、佐藤学(東京大学名誉教授)、澤地久枝さん(ノンフィクション作家)、田中優子さん(前法政大学総長)、春名幹男さん(ジャーナリスト)、樋口恵子さん(評論家)、深野紀之さん(著述家)
◆賛同者
高橋源一郎さん(作家)、三浦まりさん(政治学者)
(2021年7月2日)
7月4日都議選が目前である。前回選挙時には予想もできなかった、コロナ絡み、オリパラ絡みの、何とも形容しようのない絶妙な首都の議会選挙となっている。
コロナの蔓延はいったん収まるかにみえて、今、疑うべくもなくリバウンドの途上にある。この最悪の時期、しかも酷暑の東京でのオリパラ開催のデメリットは誰の目にも明らかである。一方、オリパラ開催のメリットや意義は霞の彼方、主催者の説明すら二転三転して定かではない。それでも、オリパラは強行されようとしている。そのオリパラ強行の是非についての民意を問う、はからずも絶好のタイミングでの都議選である。
国威発揚と商業主義と売名と、そして民衆を愚民化する意識操作と。オリンピックの本質が、これほどに深く鋭く問われ論議され断罪されたことはかつてなかった。権威を剥奪されたオリンピック開催とコロナの蔓延とが重なって、以前から日程が予定されていた選挙がはからずも命の重みを問う選択になっている。偶然とは言え、何という興味深い展開であろうか。
このような非常事態には、平時に用意された手垢のついた常套句は用をなさない。それぞれの政治グループや候補者がもっている、イデオロギーや基本姿勢が露骨にあぶり出されることになる。
こんにちは、kanrisha さん
「コロナとオリパラ」という組み合わせられた論点への解は、基本的には二つ。一つは「コロナ対策徹底のために、オリパラを中止せよ」であり、もう一つは、「オリパラ開催を前提に、必要なコロナ対策を」というものである。前者は、都民の命と健康を最優先する考え方であり、後者は国威発揚と商業主義と売名を優先させる考えである。
今、都議選は、「コロナとオリパラ」を巡って、基本的に3グループの争いになっている。一方に「オリパラを中止して、コロナ対策に専念せよ」という共産、その対極に「オリパラ開催を当然として、安全・安心な大会に」という自民。そしてその中間に、「無観客での開催」という都ファ。あとは、そのバリエーションである。
自民のいう「安全・安心」は、まったくの無内容である。具体性がない、科学的根拠がない。言わば、空念仏。それでも、オリパラ開催の方針だけが明瞭なのだ。最近になって、菅が、「(一部)無観客もあり得る」と言い始めた。
水際対策のダダ漏れ、穴だらけのバブル方式、ワクチン調達の挫折、変異株蔓延の恐怖、医療態勢の逼迫、世界各地での再拡大…。勝負に出たはずの菅が、明らかに躊躇し始めている。が、けっして中止とは言わない。
都ファが、「無観客開催」を言っているのが興味深い。前回選挙では吹いた追い風が、今回は期待できない。彼らは、生き残りのために、ひたすら都民の意向を探っている。その都ファが、小池百合子の方針に従っていたのでは全滅しかねない、という判断なのだ。オリパラ中止とは言えないが、「無観客開催」と言わねば生き残れないという結論。
共産の立場はシンプルで分かり易いだけでなく、一貫していてブレがない。これは、人権思想徹底の賜物と言うべきだろう。
都議選では、各党の各候補者が、「コロナとオリパラ」をテーマに政策を競い合っている。しかし、実のところ、「コロナとオリパラ」問題で問われているのは首都の選挙民の意識である。何よりも都民の命を大切にする政治を選択するのか、「安全・安心」の空念仏で「国威発揚と商業主義と売名」の場としてのオリパラ開催を優先させるのか。その中間で良しとするのか。その最悪の選択は、第5波の感染拡大をもたらし、多くの人命を奪うことにもなる。選択の間違いは恐ろしい。
重大な都議選である。選択の間違いは悔やみきれないことになる。
(2021年7月1日)
本日が、中国共産党創建100周年だという。残念ながら、とうてい祝意を表する気持ちにはなれない。
私が若かった頃、中国共産党こそは希望の星であった。社会主義は当然あるべき人類の未来図であり、そこに最初に到達する国が中国となるに違いない。当然の如く、そう考えていた。その社会主義中国を牽引する実績と能力と、人民からの信頼をも備えた中国共産党に尊敬の念を惜しまなかった。今は昔の話である。おそらくは、私が変わったのではない。中国共産党が、尊敬すべからざる存在に様変わりをしたのだ。
本日の創建100周年の記念式典で、習近平は灰色の人民服をまとい1時間強にわたって演説し、「経済発展を実現して中国から貧困をなくしたとする功績」を誇示したという。貧困をなくす…、それは確かに重要なことだ。
高校生の頃、漢文の授業で「鼓腹撃壌」という言葉を教えられた。聖帝・尭の時代には、こんなにも世の中がうまく治まっていたというエピソード。
老人有り、哺を含み腹を鼓し、壌を撃ちて歌ひて曰はく、
「日出でて作し、日入りて息ふ。
井を鑿ちて飲み、田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。」と。
農夫が腹鼓を打ち地を踏んで踊り、「帝の力なんてなくたって満足さ」と歌っている。「帝力何ぞ我に有らんや」は、「帝の力なぞ私にとってまったく関わりない」という意味だという。漢文の先生は、「これが、政治の理想だよ」「ところが、現実の政治はこうなっていないから、国民が苦労するわけだ」と言った…ように覚えている。
同じ頃、英語の演習で、リンカーンのゲティズバーグの演説を学んだ。その最終部分の、次の文章を初めて読んだ。
government of the people, by the people, for the people
尊敬する英語の先生は、このフレーズを「人民の人民による人民のための政治」と訳して、「これが、民主主義の神髄ですよね」と言った…ように記憶している。
私は、「by the people と for the people は分かります。でも、of the people というのがよく理解できません」と頼りない質問をした。これに対して、先生は至極真面目に、こう言われた…ように思う。今はもう、確かめようもないけれど。
「同格の of という使い方ですね。government と the people が同格ということですよ。でも、所有格の of と理解したってかまわないし、リンカーンもあんまり深くは考えずに、調子がよいからこう言ったのかも知れません。ともかく、政治は人民が自分たち自身で作るものっていうことですよね」
今日の習近平演説が、余りに「鼓腹撃壌」的で、「民主主義の神髄」的ではないことに驚かざるを得ない。中国共産党は、いまだに「民は由らしむべし、知らしむべからず」と考えているのではないか。
「鼓腹撃壌」は人民を被治者としか見ない政治観である。老農夫の腹をどう満たしてやろうかという発想は、古代の堯舜も、赤子を慈しむという天皇も、習近平も変わらない。ここには、上から目線の for the people だけがあり、by the people は欠けている。of the people に至っては、カケラほどもない。
そもそも、(仮に)共産党がどんなに立派であったとしても、飽くまで私的な組織であって、全人民を代表する正当性を持たない。憲法に書き込んだところで、事情は変わらない。
習は、本日の演説で、「中華民族の偉大な復興を実現させるため、中国共産党は人民を団結させて導いてきた」と何度も繰り返し、「中国の特色ある社会主義があってこそ中国は発展できる」と主張した。香港についても「国家安全を維持するための法律や組織を導入し、香港社会を安定させた」と自賛したという。
天安門事件以来、中国共産党の強権的体質は誰の目にも顕著ではないか。「人民を団結させて導いてきた」は、こじつけも甚だしい無理な主張というほかはない。「中国の特色ある社会主義」とはいったい何だろうか。あの安倍晋三のいう「積極的平和主義」を思い出させる。「積極的」という言葉をかぶせるだけで、「平和主義」の内容を反転させるマジック。習も、「中国の特色ある」という修飾語で「社会主義」を、格差容認社会に反転させてしまうのだ。
さらに問わねばならない。「香港社会は安定」しただろうか。香港も、ウイグルも、チベットも、内蒙古も、とうてい「安定」しているようには見えない。不満と不安定のマグマの噴出が、力で押さえつけられているだけではないか。
古代中国の皇帝も野蛮な天皇制もそして中国共産党も、鼓腹撃壌する人民には穏やかに接する。慈しみさえする。しかし、皇帝や天皇や党の権威に逆らう人民には徹底して非寛容なのだ。党を批判し、党とは異なる立場からの政治参加を求める人民には容赦のない弾圧を厭わない。これが、中国共産党100周年の姿である。人権と民主主義という、人類が獲得した普遍的な叡智を顧みず、野蛮な一党支配を続けるいびつな大国を作りあげた中国共産党。その100周年は祝福に値しない。
今日は、香港で、ウイグルで、チベットで、内蒙古で、そして中国本土で、中国共産党の弾圧と闘っている側の人々の困苦を思いやるべき日である。
(2021年6月30日)
毎日新聞に「追跡」と表題する、連載の調査報道欄がある。「ニュースの背景を解説、検証、深掘りリポート」というキャッチフレーズ。これが、誇大広告ではなく、充実した取材で読み応えがある。
昨日(6月29日)の毎日朝刊2面に、「追跡 自治体 次々DHC批判」「在日コリアン差別文章 連携協定解消相次ぐ」の記事。そのリードは、大要以下のとおり。
大手化粧品会社ディーエイチシー(DHC)のホームページで2020年11月以降、創業者の吉田嘉明会長名で在日コリアンを差別する内容の文章が複数掲載され、いずれも21年5月になって削除された。同社は取材にコメントを避け、削除の経緯や理由を明らかにしていない。住民の健康増進や産業振興などを目的にDHCと連携協定を結んでいた自治体や、取引先の企業はこの間、どう対応してきたのか。
DHC・吉田嘉明に染みついた唾棄すべきヘイト体質は、今さら説明するまでもない。問題は、このヘイト企業がなにゆえに今の日本の社会に存続し得ているか。いったい誰がこのヘイト企業の存続に手を貸しているのか、である。
まずは、消費者である。多くの消費者がDHC・吉田嘉明のヘイト体質を意識することなくその製品を購入している。この無知・無関心・無自覚はヘイトを野放しにする罪と言わざるを得ない。DHC・吉田嘉明のヘイト体質をよく知らねばならない。そして、DHCの製品を購入してはならない。DHC製品不買の消費行動を通じて、この社会における不当な差別解消に貢献することができる。
次いで小売店である。スーパー、コンビニ、ドラッグストアー、駅ビル、デパート等々の店舗が、ヘイト企業DHCとの取引を拒否すれば、DHCの体質を変えることができる。また、金融機関がヘイト企業DHCへの融資を止め、人材派遣業者がアルバイトの派遣を辞め、原料のサプライヤーが出荷を控え、広告業者がヘイトDHCの宣伝を拒否してもよい。DHCの経営を支えている取引業者が取引を停止することで、DHC・吉田嘉明に、「ヘイトは損だ」「ヘイトを慎まないとまともな経営は成り立たない」と思い知らせることができる。
とは言え、民間業者の対DHC自発的取引停止は、現実にはなかなかの難事であろう。世論がヘイト企業DHCとの取引を糾弾し、DHCとの取引によるイメージダウンのデメリットが顕著にならなければ容易なことではない。
しかし、地方自治体は別である。経済的合理性を行動原理としない自治体は、ヘイト企業と連携してはならない。躊躇なくヘイト解消に行動しなければならない。DHCのヘイト体質があからさまとなった今、DHCへの対応如何で、自治体の良識が計られる。「追跡」は、それを記事にしている。たとえば、高知県南国市。
同市は4月19日に電話と電子メールで(DHCに)文章削除を要請。「対応できない」とされたため同月23日に協定解消を通知した。「相手が誰でも差別的発言は良くない。市全体として差別をなくそうと動いている」と担当者は言う。また、神奈川県平塚市は「協働事業を展開してきた行政の責任」としてDHCに公式見解と再発防止策を示すよう要請。だが、公式謝罪や経緯説明は考えていないとの回答で、7月14日付の解消を決めたという。これらはヘイトを容認しない立派な自治体の例。
「追跡」が明らかにした、ヘイトを容認しない立派な自治体(☆)と、DHCのヘイトを容認した立派でない自治体(★)の色分けは以下のとおり。
☆DHCとの連携協定解消(方針や凍結含む)
宮城県石巻市 差別的な発言、掲載は遺憾
茨城県下妻市 外部の指摘を受けながらも掲載されてきたことは看過できない
千葉県横芝光町 差別を助長するような発言は容認できない
神奈川県平塚市 公式ウェブサイトに差別的な文章を掲載し続けたことは問題
神奈川県松田町 差別的な内容は遺憾。差別は許されるべきではない。
高知県南国市 差別的文章は不適切
高知県宿毛市 差別的な表現は不適切
熊本県合志市 人種差別につながる発言は容認できない。
※DHCとの連携協定解消を検討中
茨城県守谷市 企業としての主張と認識せざるを得ない。削除と見解を求めたが回答がなかった。
★DHCとの連携協定継続(方針含む)
北海道長沼町 差別を助長するような文章掲載は容認できない。削除と謝罪及 び再発防止の意思を確認した。
静岡県伊東市 差別的文章の公表は誠に残念。会長の発言と連携協定は直接関係していないと判断した
静岡県御殿場市 差別は断じて許されず、説明を求めた。謝罪と発言撤回を報告され、同様の行為を繰り返さないと誓約された。
佐賀県唐津市 一個人の発言であり、考えを述べる立場にない。協定の目的が達成されるなら解消する考えはない。
熊本県長洲町奥 差別的発言やヘイトスピーチは決して許されないが、おわびと発言撤回のメールを受けた
ヘイト容認派で最も挑戦的な態度だったのが、吉田嘉明の出身地で、系列ホテルがある佐賀県唐津市である。毎日の取材に対して、「(ヘイトコメントは)個人の発言であり、市として考えを述べる立場にない」と突っぱねている。DHCのオーナー会長である吉田嘉明のDHC公式ホームページにおけるコメントが「個人の発言」ではあり得ない。ヘイト発言を容認する唐津市のごとき態度こそが、日本社会にヘイトのウィルスを蔓延させているのだ。DHCのヘイトを容認する唐津市は、恥を知らねばならない。
また、DHCの工場などがある静岡県伊東市も、おかしい。「会長の発言と協定は直接関係していない」という。「直接関係していない」は、いかにも苦しい言い訳だが、問題は「直接関係の有無」ではない。問われているのは、自治体の側に企業のヘイト行動を許さないという断固たる意思があるか否かなのだ。伊東市のごとき姿勢が、ヘイト企業をのさばらせているのだ。伊東と言えば、著名な観光都市ではないか。観光都市としてのイメージを大切にすべきではないのか。DHCの汚れたブランドイメージを背負い込むことはあるまい。
(2021年6月29日)
今からちょうど50年前、私は2年間の司法修習の過程を終えて弁護士となった。その1971年の春4月は、「司法の嵐」が吹き荒れた季節であった。「司法の危機」の時代とも呼ばれた。「司法反動と闘う」ことが、民主主義や人権を大切に思う人々の共通の課題として意識され、当時民主的な運動に携わる人々は、それぞれの立場で「司法はこれでよいのか」と問いを発した。もちろん、「司法がこれでよいはずはない」との強い思いからである。
「司法の嵐」の震源は、おぞましいまでの天皇主義者でもあり、反共主義者でもあった司法官僚の首魁・石田和外が主導した青年法律家協会攻撃であった。彼は、公安と一体となった極右出版や自民党に与して、青法協を過激思想団体と決めつけ、裁判官会員には脱退を強要し、青法協会員裁判官の中心的存在とみなされた札幌地裁福島重雄裁判官を非難し、13期宮本康昭裁判官の再任を拒否した。そして、23期司法修習生の中の裁判官志望者にも、青法協を脱退するよう肩たたきが行われた。
青法協攻撃という外形の内実は、人権や民主主義や平和という憲法理念への排撃であり、憲法擁護運動への牽制であり、裁判官に対する思想統制であった。憲法の砦たるべき最高裁自らが思想差別を行い、裁判官の独立をないがしろにしているのだ。これから、法律家になろうとする司法修習生たちは、身近に起こっているこの異常な事態を看過してよいはずはないと考えた。
同期の裁判官志望者を思想信条や団体加入で差別してはならない。そのような運動が澎湃として盛り上がったが、結果は7人の裁判官志望者が任官を拒否された。
せめて、終了式の場で任官を拒否された彼らに、その思いの一端を発言する機会を与えてもらおうではないか。これが同期の総意となった。誰かが式の冒頭で、研修所長に同期の総意を伝えなければならない。その役割を担ったのが、クラス連絡会の阪口徳雄委員長だった。
阪口君は、修習修了式の冒頭、式辞を述べようとした研修所長に対して発言の許可を求めた。所長は明らかに黙認し制止をしなかった。所長からの許しを得たと思った阪口君が、マイクを取って「任官不採用者の話を聞いていただきたい」と話し始めた途端に、「終了式は終了いたしまーす」と宣告されて式は打ち切られた。開会から式の終了まで、わずか1分15秒の出来事。この行為をとらえて、最高裁はその日の内に阪口君を罷免処分とした。
この出来事は、権力機構としての司法府の本質を露わにするものとして強く世論を刺激し、前例のない司法の民主化を求める運動に火を付けることになった。その運動の高揚の中で阪口君の法曹資格は2年後の1973年4月に回復となる。
そして、半世紀が経過した今、あらためて、同じ問を発しなければならない。「司法はこれでよいのか」「本来、司法はどうあるべきなのか」「どうすれば、司法本来のあるべき姿を実現できるだろうか」と。
「司法の嵐」吹き荒れる中で実務法律家となった23期の集団は、その後の法律家としての職業人生において、それぞれに司法の在り方を問い続けてきた。そして、50年を記念して、同期の有志が一冊の書籍を刊行した。「司法はこれでいいのか―裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」(23期・弁護士ネットワーク著・現代書館)である。当時の司法状況についての資料というだけでなく、原体験を共有した23期群像のその後の生き方をも活写して読み応えのある労作となっている。
そして、この書籍の出版を記念した集会を開催した。「法と民主主義」6月号【559号】の特集は、4月24日「アルカディア市ヶ谷」において開催された出版記念集会の各発言をそれぞれの発言者が加筆し編集したものである。50年前の司法に、いったい何があったか。そのとき、司法は本来あるべき姿とどう変わってしまったのか。そして、50年後の今、どうしたら司法に希望を見出すことができるのか。その問題意識が凝縮した集会発言集になっている。内容は、下記のとおりである。
司法のあり方に関心をお持ちの方には、是非、ご購読いただきたい。
「法と民主主義」6月号内容紹介
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
リード
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202106_01.pdf
「法と民主主義」申込みフォーム(今号単独購入であれば、ナンバー欄に「559」と、定期購読ご希望であれば同欄に「0」と御記入を)
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
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法と民主主義2021年6月号【559号】(目次と記事)
特集●司法はこれでいいのか ── 「危機の時代」から50年
◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆出版と集会、その目的と思い … 村山 晃
◆50年前に何があったか、当事者としての感想と挨拶 … 阪口徳雄
◆23期の50周年を祝う ── 連帯のメッセージ … 宮本康昭
●パネルディスカッション冒頭発言●
◆司法の現状:制度と運用の実態をどう把握するか
──司法官僚制的人事慣行と石田和外裁判官 … 西川伸一
◆司法への絶望と希望
── 行政事件「鑑定意見書」執筆の経験から … 岡田正則
◆私たちの責任 ── 司法の希望への道筋をどう見い出すか … 伊藤 真
●具体的事件を通じて司法の希望を語る●
◆勝たなければならない裁判で勝てた理由
── 東海第二原発差止訴訟 … 丸山幸司
◆生活保護基準引下げ違憲大阪訴訟について … 小久保哲郎
◆「結婚の自由をすべての人に」北海道訴訟
── 違憲判決からみる司法の展望 … 皆川洋美
◆建設アスベスト訴訟を通して感じる司法 … 谷 文彰
◆東京大空襲訴訟を通じての問題提起 … 杉浦ひとみ
◆司法は厳しい、されど気概ある裁判官になお期待したい
──パネラーの各発言と弁護団報告に触発されて … 森野俊彦
◆司法の希望を切り拓くために── 報告のまとめとして … 豊川義明
◆青法協弁学合同部会議長 挨拶 … 上野 格
◆希望への道筋 ── 良心の力を信じて進む … 梓澤和幸
(2021年6月28日)
奸悪な指導者の政権は腐敗する。奸悪ならざる指導者の長期政権も腐敗する。ならば、安倍政権の腐敗は余りに当然のこと。そして今、後継の菅内閣が、安倍内閣の腐臭を承継している。
安倍政権腐敗の根源は、権力の過度の集中にあった。各省幹部官僚の人事権を掌握しただけでなく、警察、検察、司法、メディア、学術の支配をもたくらんだ。それぞれの対象領域のめぼしい人物に目を付けて、これを手なずけ子飼いにして、官邸の意思を貫徹しようとした。
どこの世界にも、権力に尻尾を振ることを潔しとしない気骨の人物はいるものである。しかしまた、どこの世界にも、自尊心に欠け、時の政権におもねることを躊躇しない人物もいる。官邸が「番犬」ないしは「守護神」を探すのに、手間はかからなかった。
このような人物としてよく知られているのが、杉田和博(警察)、北村滋(警察)、黒川弘務(検察)など。佐川宣壽(財務省)もその一人といってよいだろう。そして、メディアの部門では「ジャーナリストとしての良心を悪魔に売り渡した」とされる少なからぬ人物を数えることができるが、別格の存在なのがNHKの板野裕爾(専務理事)である。はやくから、安倍政権寄りのNHK幹部と目されてきたが、ここに至って菅政権が積極的にこれを使おうとして動いたとの報道である。
本日の毎日新聞朝刊2面に、「NHK異様な人事」「専務理事退任案 会長が土壇場撤回」「『政権寄り』 内部から疑問の声」という目立つ記事。さらに、社会面には、「板野氏再任『理由分からぬ』」「自民議員『官邸意向の可能性』」「『自主自律』に疑念」の大見出し。
渦中の人が、NHKの板野裕爾専務理事。安倍政権寄りとして知られ批判されてきた人物。本日の記事でも、「15年には…安全保障関連法案に関する複数の放送を見送るよう指示し、16年3月には政権の方針に疑問を投げかける『クローズアップ現代』の国谷裕子キャスターの降板も主導したとされる。NHK内では、いずれも当時の安倍政権の意向が背景にあったとみられている。」と紹介されている。
この禍々しい人物が、今年の4月に3期目の任期切れとともに当然退任のはずだったのが、直前に方針転換となって再任された。その不自然さは4月当時も報道されたが、今回はこの異様な人事の裏に、『官邸意向の可能性』というのが目玉の記事。それ故に、NHKに求められている「自主自律」に疑念が呈されている、という調査報道である。
長文の記事だが、ハイライトは以下のとおり。
NHKの前田晃伸会長(76)が4月、板野裕爾専務理事(67)を退任させる役員人事案を経営委員へいったん郵送させながら、同意を得る経営委員会の直前に撤回し、再任する案に差し替えていたことが毎日新聞の取材で判明した。経営委は賛成多数で再任案に同意したが、委員2人が反対した。送付された人事案の撤回は極めて異例で、人事案に反対が出るのも異例だ。NHK内部から、政権寄りとされる板野氏の再任の過程に疑問の声が上がっている。
複数のNHK関係者によると、当初は4月6日の経営委会合で板野氏の退任を含む理事らの役員人事が決められることになっており、前田会長は事務方を通じて4月2日に最初の人事案を各経営委員へ郵送させていた。しかし、6日の直前になって各委員に「なかったことにしてほしい」と事務方から連絡があり、6日の会合では理由の説明なしに人事案の文書は回収された。
放送行政に詳しい複数の自民党国会議員は「板野氏退任の人事案を知った首相官邸の幹部が、再任させるよう前田会長に強く迫ったと聞いている」と証言する。また、複数のNHK関係者は「前田会長は抵抗したが、断り切れずに翻意したと聞く」と話す。それは板野氏退任の人事案が経営委員に郵送された4月2日以降で、6日の経営委で回収されるまでの数日の間だったという。
放送行政に詳しい政府関係者は「安倍、菅の両政権が板野氏にこだわってきたのは、国民への影響力の大きいNHKの動向を監視し、政権批判をけん制したいからではないか」と指摘。ある自民党国会議員は「安倍政権の頃から、官邸は会長だけでなく専務理事などの役員人事にも目を光らせていた」と話す。
いうまでもなく、NHKは国営放送ではない。政権の広報担当ではないのだ。大本営発表を垂れ流した反省から公権力からの独立を謳って再出発した公共放送である。「自主自律」を標榜するNHKの人事に、官邸が干渉していたとなれば、大問題である。安倍政権の体質とその腐敗は、しっかりと菅政権に受け継がれている。
(2021年6月27日)
三題噺は即興で行われた寄席芸である。名人と言われた噺家は、客から三つのお題を頂戴して、即座に一席の噺をまとめオチまで作ったという。『鰍沢』や『芝浜』は、こうして作られた噺だと伝えられている。その名手として初代の可楽や圓朝の名が残るが、今、こんなことのできる芸人がいるのだろうか。
三題噺は、一見無関係なお題をどうつなげるかが腕の見せどころ、聴きどころである。「コロナと五輪とバブルと、そして都議選」は自分で選んだ四題、一見も二見も関係性十分で底が割れている。常識的なことしか語れない凡俗な話者の仕業。その四題の関連は、常識的にはこう語るしかなかろう。
「コロナ」感染の蔓延は人の生命と健康に関わり、社会に壊滅的な打撃を与えかねない。感染拡大防止は喫緊の重大事であって、そのために社会の総力を傾注しなければならない。これに比して、「五輪」の開催は明らかに些事である。金儲けやナショナリズム鼓吹の機会ではあっても、社会全体の要請ではない。コロナ拡大阻止にいささかなりとも支障をきたすのであれば、五輪開催を中止すべきが正常な判断である。
この判断を狂わせるために持ち出されたのが、「バブル」方式である。シャボン玉の泡の如くに、選手や関係者を包み込んで外部との接触を遮断する。だから、コロナ禍のさなかでも、安全・安心に五輪開催が可能だという。権力者と金の亡者の安全安心論を打破して、「五輪は中止、コロナ対策に集中を」という世論を示すことが、この「都議選」の主要な課題だ。
誰が名付けたか「バブル」方式。この命名がコロナ対策としての自信のなさを表している。バブルは脆弱さの象徴。実体なく膨らんで、容易にはじけるもの。薄く弱い頼りのないものである。外界との遮断の壁が、壊れて消えるシャボン玉では、「安全」でも、「安心」でも、「しっかり」でもあり得ない。
オリンピック選手や役員に籠城の真似はできない。兵糧米を蓄え、井戸を堀り、野菜も植えて、外部からの侵入を防御したその真剣さはない。従って、バブルはけっして完結し得ない。多くの人が、バブルの中の集団を生存させるために、壁の内外を行き来しなければならない。コロナは容易にバブルの中へ侵入もし、またバブルの中に発生したコロナの感染は外へも拡大する。形だけ、やってるフリだけの感染対策でしかない。
「無観客開催」にしても、選手を包んだバブルが抜け穴だらけなのだから事情は基本的に変わらない。海外からの選手と関係者の入国を一切拒絶した「無選手・無関係者開催」であって初めて、コロナ蔓延防止対策となるだろう。コロナ対策とオリンピック、本質的に相性が悪いということなのだ。
さて、四題噺の続きである。都議選の結果で、ストーリー展開は極端に分かれることになる。望むべくは、都議選で東京オリパラ反対の圧倒的民意が示され、オリンピックは中止、政府も都政もコロナ対策に専念しました、となって欲しいもの。しかし、その反展開展開も、ないではない。
政権と、IOC・JOC・組織委と都政は、「バブル」方式の有効性を徹底して宣伝した。オリンピックで金儲けをたくらんでいる連中がこれに呼応して、大宣伝がおこなわれた。シャボン玉の泡は強固でけっしてこわれるはずはないと言うのである。その結果、しっかりと安全・安心に「五輪」開催が可能だという気分が都民に横溢し、なんと、「都議選」では、五輪反対派が惨敗した。その結果、意気揚々と、東京五輪は開催となった。その結果として、オリンピック競技のさなかに、デルタ変異株を中心に東京を第5波のコロナ感染蔓延が襲うこととなった。
各国選手団に相次いでクラスターが発生したが、医療態勢はたちまち崩壊した。病床は不足し収容先の施設は溢れ患者は放置された。あらためて、「コロナ」感染の猛威を世界は知ることになった。日本社会の壊滅的な打撃を心配せざるを得ない事態に、人々はあらためて、「オリンピック開催は明らかに些事であった。金儲けやナショナリズム鼓吹のための東京オリパラを開催してコロナ拡大対策を疎かにしたことは愚策だった」と深く反省した。
このことが菅政権の大失態と意識され、目前の総選挙で自公政権崩壊に至ることを疑う者はいない。
(2021年6月26日)
信仰とは仲間内だけで通じるもの。「イワシの頭教」信者の信仰は、「サバの尻尾教」の信者には理解しようがない。ブードゥー教の信仰がその信者以外に受容されることは考え難い。天皇を神聖とする信仰もまったく同じことだ。醒めた目で天皇教を見つめれば、虚妄これに過ぎるものはない。
にもかかわらず、天皇教信者の横暴は甚だしい。仲間内でしか通じようのない天皇神聖信仰を社会全体に押し付けようとするからだ。この押しつけがましさは、過去の天皇教の歴史における赫々たる成功体験に基づくものである。「天皇は神聖にして侵すべからず」と憲法に書き込ませ、それを根拠に、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と政治権力を握った、あの体験である。
このいびつな「天皇教の宗教国家」は1945年に亡びた…はずだった。新生日本は、天皇教の残滓を払拭する努力を重ねた…はずだった。しかし、必ずしもそれに成功していない。天皇教信者の残党が、いまだに我がもの顔に振る舞っているのがこの国の現実である。これでよいのか、とあらためて問い質さなければならない。
国民の多くが、天皇教信者の暴力や社会的圧力を恐怖と感じている。大逆罪も不敬罪も治安維持法もなくなったが、この社会にはその残影が確実に存在している。人々の記憶の底に、天皇の神聖性を傷付ける言動に伴う権力的ないしは社会的な制裁への畏怖がある。多くの人が、天皇批判の言動に対する社会的圧力を恐れ、天皇に関する言動を躊躇せざるを得ないとする心性を捨てきれていない。
そんな事情を背景に、「宮内庁長官『陛下は五輪開催を懸念と拝察』」(毎日)との記事である。念のためだが、「陛下」とは天皇(徳仁)のこと。この見出しは、「宮内庁長官が、『天皇(徳仁)は東京五輪開催でコロナ感染が拡大しないか懸念している」ようだと私は思う、と発言した」というニュース。オリンピックとコロナ、誰もが思っていることだが、天皇の懸念となると大きなニュースになる。
天皇教やら天皇教信者やらへの阿りから、「開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されていると拝察している」などという、面倒極まりない言葉遣いになっている。世の中の天皇教への阿りが、天皇を特別の存在と思わせ、天皇発言の社会的影響力の源泉となっている。そのことこそが、天皇の存在を危険なものとしている。
西村長官は、こう述べたようだ。
「天皇陛下は現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変ご心配しておられます。国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています。」
このコメント、読みようによって、天皇(徳仁)の真意を、「心配だから、中止してはどうか」「心配だから、せめて無観客でやるべきだ」「感染の心配あるから、私は出席したくない」「国民の間に不安の声がある中で東京オリパラの名誉総裁など辞退したい」などと幾様にも解釈できる。しかし、天皇に確認しようはない。確認すべきでもない。
記者からは、「五輪について開会宣言する場合、その文言はオリンピック憲章で決まっていて、祝うという文言が入ることになる。中止論もある中で、陛下が大会開催を祝福するような文言を述べるのはどうか」という質問も出たという。
宮内庁長官が独断で、天皇の懸念を言えるはずはない。天皇がわざわざ言わせたと考えるのが常識というもの。とすれば、官邸や組織委員会など当事者やオリパラ推進派には、面白くない話だろう。東京オリパラ開催に対する天皇からのクレームなのだから。
しかし、オリパラ反対派が、「天皇まで懸念している」などと自説補強の論拠としてはならない。そもそも、天皇が口を出すべきことではない。天皇には、内閣の指示に従う以外の選択肢はない。オリンピック開催の是非について勝手な発言は許されない。天皇に意思表明の自由はないのだ。
天皇には、この原則を厳格に守らせなければならない。さもないと、再び天皇教信者の跳梁跋扈を招きかねない。
そして今、東京と大阪で企画されている「表現の不自由展」が、ともに天皇(裕仁)への不敬を根拠に、妨害に遭っている。天皇教信者による、実力での表現の自由侵害である。天皇は憲法上の存在ではある。しかし、明らかに憲法体系の中での異物である。いま、象徴天皇制に対する根底的な批判が必要になっていると思う。
(2021年6月25日)
本日、東京都議選の告示。7月4日(日)の投開票日まで、9日間の選挙戦である。
私は、選挙となれば日本共産党を支持し応援してきた。人権や民主主義を擁護するその姿勢を評価してのことである。そしてもう一つ、権力の集中を危険だとする基本的立場から、どの政党への支援が権力の抑制に最も効果があるかと考えてのことでもある。
権力を握っている自民党を応援してはならない。それは、愚かなことであるというよりは危険な行為である。自民党に擦り寄る姿勢を見せている諸政党についても同様である。自民党と政権を争う野党第一党をこそ支援すべきという意見もあろうが、かつての民主党や、今の立憲民主党が自民党の権力を抑制するに足りる存在とは到底思えない。衆院に共産党100議席。そのくらいが、私の理想とする国会の勢力図である。
本日は、本郷三丁目交差点での福手ゆう子候補の街頭演説に足を運んだ。コロナ禍の中での選挙戦。いつもとは様変わりの風景。聴衆は皆マスクで、密にならないよう距離をとっている。いつの日か、あんな選挙もあったっけと、回想する日が来るのだろうか。
それでも、それぞれの陣営が、それぞれの意見を訴える選挙の本質に変わりはない。自由な言論による選挙戦が可能なこの日本の社会、それだけでもなかなかのものではないか。香港の報道に接して、改めてそう思う。
福手ゆう子候補の演説は、気合いが入っていた。
オリンピックの中止を求めコロナ対策に全力を傾注しようという訴えには、説得力があった。文京区内12000人の小中学生がオリンピックに観客として動員される計画だったが、区長への申し入れで、取りやめになったと報告された。そして、地元都立病院の独法化の動きの危険や都内の急性期病牀数の削減問題に触れ、ジェンダー平等の問題に切り込んだ。
そしていつになくボルテージを上げて、「前回選挙では215票差の次点に終わりました。あの無念を繰り返したくはありません。今度こそ、是が非でも、私を押し上げてください」として訴えを締めくくった。
その前座を務めたのが、清水忠史衆院議員だった。私は初めてこの人の話を聞いた。話の初めから、押しつけがましさのない柔らかい話しぶりだとは思ったが、だんだんと演説に心地よいリズムがあることに気が付いた。
そして、「政治には、腹が立つことばかりではありませんか。公文書にしてもそうです。偽造、捏造、安倍晋三(ギゾウ、ネツゾウ、アベシンゾウ)」と続けて、聴衆を引きつけたのに感心した。言葉が流暢で耳に快く、目線が同じで感じよく、面白くて分かり易い話だった。
大阪市議から衆院議員になった人だが、この人の前歴は「お笑い芸人」だという。なるほど、年期の入ったプロの話芸だ。そして、自分自身の言葉で、聞く人を楽しませようと語っていることがよく分かる。学ぶべきところが多い。
彼の本日のツイッター3通を引用させていただく。
@tadashishimizu
福手ゆう子 都議選出発式 https://youtu.be/uyp4tUMCSyw @YouTubeより
まもなく始まります。#福手ゆう子 #文京区 #都議選は日本共産党
【都議を選ぶ3つの基準】
?五輪開催強行、カジノ誘致など間違った政治にキッパリ反対できるひと
?都立駒込病院、大塚病院を都の直営として守る等、都民の願い実現へトコトン頑張るひと
?金権腐敗にメス、清潔な力でジェンダー平等都政を目指すひと
出発式で訴えました。#福手ゆう子 #文京区
先程、後楽園駅近くで告示日の活動を終えました。命よりも五輪を優先させる都政にキッパリものが言えるのが、市民と野党の共同候補 #福手ゆう子 さんです。福手候補や区議のみなさんと今日一日で12ヶ所で支持を訴えました。反応は上々。明日からも勝利を目指して頑張りましょう。#都議選は日本共産党
なお、東京オリンピック開催是か非かを問う都議選告示の日に、東京はリバウンドの徴候と報道されている。7月4日、さてどうなるか。