澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

軍政のミャンマーで蹂躙されている人権と民主主義

(2021年3月16日)
昨日(3月15日)の記者会見で、国連のドゥジャリク事務総長報道官は、クーデターへの抗議デモが続くミャンマーで治安部隊の弾圧により「これまでに女性や子どもを含む少なくとも138人の平和的なデモ参加者が殺害された」と述べた。グテレス事務総長は同日の声明で、国軍による弾圧激化について「がくぜんとしている」「デモ参加者の殺害や恣意的な拘束は基本的人権を侵害しており、自制や対話を求める国連安全保障理事会の呼び掛けにも反している」と批判した。

ミャンマーの人口は5000万人余。その9割が仏教徒だという。仏教徒の戒律として、出家には十戒、在家信者にも五戒が課せられる。五戒とは、不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒。その筆頭が《不殺生戒》。生きとし生けるものの命を奪ってはならないとする戒めだというが、もちろん「人を殺してはならない」がメインである。

漢の高祖は、法は三章のみと言った。「人を殺す」「人を傷つる」「人の物を盗む」を罪とする。モーゼの十戒も、「汝、人を殺す勿れ」と言う。古今東西を通じて、「殺人」は社会が許さない違法な行為であり、「殺してはならない」という規範は、人の倫理として深く心に刻まれている。

ミャンマーの治安部隊や国軍の兵士とて、人である。その多くは、仏教徒でもあろう。どうして、平和なデモ隊に銃を向け、実弾を発射できるのだろうか。命じられたからとしても、どうして人殺しができるのだろうか。どうして、圧倒的な民衆の側に敵対し、殺人までできるのだろうか。

今、ヤンゴンで、マンダレーで、白昼路上での大規模な集団殺人が行われている。殺す側と殺される側が対峙しているとき、「その等距離の位置を堅持する」「両者の言い分を聞こう」などと

人権を語るべき国も個人も、ともかく「殺人をやめよ」と声を発しなければならない。

ヤンゴン市内在住のジャーナリストからのこんな報道に接すると胸が痛む。

 SNS上には、国軍が民間人に発砲する「蛮行」の様子を示すさまざまな動画がアップされている。中でもひどいのは「発砲を嫌がる警官を軍人が脅して、民間人を撃つよう命令する」様子を映したものだ。BBCが3月15日に伝えたところによると、抗議デモ開始以降、ミャンマー全土で少なくとも120人以上が死亡したという。

 見せしめ的な殺害行為もある。かねて「何体の遺体が集まったら国連は行動を起こすんですか?」と書いた紙を持ち、孤軍奮闘している姿が各国のニュースサイトに報じられた男性、ニーニーアウンテッナインさん(23)は2月28日、ヤンゴン市内のデモの主要スポット・レーダンで当局により射殺された。国際社会に向け、メディアに発信する人間は消される状況にある。(さかい もとみ)

 軍政は戒厳令を発している。ミャンマーでは、法の支配が停止され、軍が権力を掌握しているということである。軍政の最高意思決定機関「国家統治評議会」は、昨日(3月16日)付の国営紙で、ヤンゴン6地区に発令した戒厳令の詳細を公表した。軍法会議を設置し、政府や国民の不信、恐怖をあおる行為や政府職員の規律に悪影響を与える行為、偽情報の流布など23項目を犯罪とした。最高刑は死刑、上訴は認めないなどとする内容。デモ参加者らへの弾圧をさらに強める可能性が高いと報じられている。

人権と民主主義とはセットになっている。目的的な価値である人権を擁護するために手段的な価値としての民主主義が重要なのだ。民主主義が崩壊するとき、人権も失われる。民主主義の崩壊を象徴するものが戒厳令にほかならない。自民党改憲案(2012年)は、戒厳令と紙一重の詳細な緊急事態条項が提案されている。ミャンマーの出来事は、けっして対岸の火事ではない。

人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止宣言

(2021年3月15日)
余、コロナ蔓延の猖獗に際して、世界の大勢と日本国の現状とに鑑み、非常の措置を以って事態を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝ら一般国民に告ぐ。

余は、日本国と国民の名において、新型コロナウイルスとの闘いにこれ以上打つ手のないことを世界各国に対し率直に明らかにして敗北を宣するとともに、その敗北の証しとして東京五輪を返上する旨通告せしめたり。

そもそも、日本国民に対して健康で文化的な生活を保障し、世界各国の人民との共存共栄をはかることは、余の一貫した重要政策としてきたところ。新型コロナに対する殲滅の戦いもまた、実に日本国の自存と国民の繁栄を願ってのことで、望むべくんば「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしての完全な形での東京五輪開催」こそが余の昨日までの努力傾注の目標であった。

しかるにコロナとの交戰すでに1年と3か月になんなんとして、これを撲滅することを得ず、一億国民各々と医療従事者が最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず、しかのみならず敵コロナは頻りに新たな変異株となって無辜の国民を殺傷に及ぶ。

余はこの事態においても、これまでは東京五輪の開催にこだわり続けてきた。五輪の成功こそが唯一の政権浮揚策であり、東京五輪の開催失敗は解散の時期を失し、追い込まれ解散による2021年総選挙の与党大敗を招きかねないからである。

しかし、このまま東京五輪開催実現前提でコロナとの交戦を継続すれば、ついに日本と日本国民に取り返しのつかない災厄を招来するのみならず、延いては人類の文明をも破却することが予測されるに至った。

とすれば、これまでコロナ蔓延対策の明らかな障碍と認識されていた東京五輪を返上せざるを得ない。これは自明の理である。「人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止」と揶揄されようとも、やむを得ざるところ。

そして、他には既に打つべき手もなければ、非常事態宣言を解除して成り行きに任せるに如くはなしとの判断。是れが、余の敗北宣言の所以なり。

余は時運の趨くところ、堪えがきを堪え、忍びがたきを忍び、以って万世のために東京五輪を返上せんとする。汝ら一般国民、余のために泣け。そして余の意を体せよ。

署名  捺印

権力者が「愛国」を口にするとき ー 民主主義は危機のさなかにある。

(2021年3月14日)
全人代が終わった。中国当局は、もっぱらコロナを抑え込んだ実績を強調し、引き続いての経済発展の喧伝にこれ努めているが、日本の各紙は香港問題に関心を寄せて報道している。

この全人代が採択した「決定」は、賛成2895票、反対0票、棄権1票であった。恐るべき、中国共産党の中央集権体制である。この国に異論の存在は許されない。ということは民主主義は存在しないのだ。

朝日は、北京からの特派員記事に、「香港の選挙制度改変採択して閉幕 民主派排除へ」と見出しを打っている。リードは、「中国の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)は11日、香港の選挙制度改変に関する決定などを採択し閉幕した。「愛国者による香港統治」の名の下、香港民主化の柱だった選挙から民主派が排除されることで「一国二制度」の形骸化は一層深まることになる。」としている。

また、読売の報道は、「香港の選挙制度見直し採択、中国全人代閉幕…李首相「愛国者による香港統治を堅持するため」と題して、「中国の国会にあたる全国人民代表大会(全人代)は11日、香港の選挙制度の見直しなどを採択して閉幕した。習近平シージンピン政権が掲げる「愛国者による香港統治」に基づき、中国共産党・政府に批判的な民主派を香港政界から排除するのが狙いだ。香港に高度な自治を認めた「一国二制度」は空文化する。」と報じている。他紙も大同小異。

新制度では、立法会(議会)選挙など各種選挙の立候補者を「愛国者」かどうかで事前に選別する「資格審査委員会」を新たに設けるという。それだけではなく、大多数が親中派で構成されるとみられる「選挙委員会」に立法会選の立候補者指名の職権を与えるともいう。

一昨年(19年)の香港区議会(地方議会)選挙では民主派が議席の8割超を獲得して圧勝した。これを香港の民意と見るべきが常識的な態度。しかし、中央政府に不都合な民意は認められないのだ。だから「愛国者」排除となる。共産党の指導に従う者だけが「愛国者」と認められて立候補可能となり、共産党の指導に従うことに疑念を持たれれば、「非愛国者」として立候補はできないのだ。我が国敗戦前の「非国民」という言葉を思い出させる。

全人代閉幕直後、李克強首相が記者会見をした。これが、「愛国者による香港統治を堅持する」方針を語っている。以下が、その該当部分。但し、On-lineアプリを使っての翻訳で、日本語の出来は悪い。

われわれは、引き続き「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治方針を全面的かつ正確に貫徹し、憲法と基本法に厳格に基づいて事を運び、特別行政区が国家の安全を守る法律制度と執行メカニズムをしっかりと実行し、特区政府と行政長官が法に基づいて施政することを全力で支持することを明確に提起した。

先ほど、全人代が香港の選挙制度の充実について決定を下したとお聞きになりましたが、決定は非常に明確で、「一国二制度」の制度体系を堅持し、充実させ、終始「愛国者による香港統治」を堅持することであり、「一国二制度」の長期的な安定を確保するためでもあります。

昨年、香港は多くの衝撃を受けましたが、香港各界が手を携えてできるだけ早く疫病の発生状況に打ち勝ち、経済の回復的成長を実現し、民生を改善し、香港の長期的な繁栄と安定を保つことを希望します。中央政府は引き続き全力で支援していきます。

愛国とは、おぞましくも危険な言葉だ。とりわけ、権力者が使う「愛国」は国民欺罔の手段として警戒しなければならない。李克強がいう「愛国」とは、中国共産党の指導に従順であることに過ぎない。「愛国者による香港統治」とは、「中国共産党の指導が貫徹した香港統治」というだけのことであって、民主主義とは縁もゆかりもない。

民主主義の政治過程では、国民が国家を作るのであって、その反対ではない。国民が国を作る手段が選挙であって、《全ての国民が選挙に参加して国を作る》のである。国家が国民に選挙参加の資格を選別することはあり得ない。

だから、「愛国者による香港統治を堅持する」とは、香港の民主主義を根絶やしにするという宣言なのである。《「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治方針を全面的かつ正確に貫徹し、憲法と基本法に厳格に基づいて事を運び》とは、《「一国二制度」は形だけのものにする、「党中央による香港管理」を徹底する、「北京が支配する香港の自治」方針を全面的かつ正確に貫徹し、厳格に中華人民共和国憲法をに基づいて事を運ぶ結果として香港基本法を空文とする》ということなのだ。

政治腐敗の治療と予防に、市民の告発は有効なのだ。

(2021年3月13日)
忘れてはならない、安倍晋三政権という7年8か月の悪夢を。国政私物化と、ウソとゴマカシで塗り固めた汚れた政権運営を。その汚れた政権が、2020年を「改憲施行の年に」と叫んでいたことを。

心に留めておこう、安倍政権不祥事の数々を。最低限下記の呪文だけは記憶にとどめて、事件を覚えておこう。

モリ・カケ・さくら、タマゴにカジノ、クロカワイ。

森友学園事件・加計学園事件・桜を見る会私物化・鶏卵大手アキタフーズ農水大臣贈収賄事件、秋元司カジノ収賄事件・官邸の守護神黒川弘務事件・河井夫妻公選法起訴事件…。数え切れない、覚えきれない…。この政権は、アベノマスクに象徴される「無能政権」であったばかりではない。腐敗の政権、改憲指向の政権だった。この政権が国内の右翼を勢いづけ、民主主義や人権を脅かしたことを忘れまい。

「忘れまい」と力まずとも、折々、事件の方から国民に挨拶がある。たまたま昨日(3月12日)には、菅原一秀(元経済産業大臣)議員が話題の人となり、記者のマイクとカメラの標的となった。秘書が選挙区内の有権者に香典などを渡していた、あの香典政治家である。「モリ・カケ・さくら、卵にカジノ、クロカワイ」のどこにも入っていない。脇役でしかないが、歴とした安倍腐敗政権の有力大臣であった人。さすがに安倍政権、腐敗の裾野は広い。

この人、市民から刑事告発されたが、地検は起訴猶予とした。しかし、告発した市民はこの処分に納得せず、検察審査会に審査請求をしていたところ、「起訴相当」の議決となった。この議決のインパクトは大きい。告発人にも、検察審査員にも敬意を表したい。こうして、少しずつでも、政治の腐敗は正されていくのだ。

この人、2019年10月、選挙区内の有権者に、秘書が香典を渡してまわったことが明らかになって、公職選挙法違反の疑いで告発状が提出された。公選法は、「政治家がみずから葬儀や通夜に出席する場合を除いて選挙区内の人に香典を渡すこと」を禁じている。「政治家が選挙区内の人にむやみに香典を渡す名目で票を買う行為を防止するために、みずから葬儀や通夜に出席する場合以外の香典交付が禁じられた」と解すべきだろう。

東京地検特捜部は、捜査の結果、この人が「選挙区内の18人に総額17万5千円相当の枕花を寄付していた」「みずから弔問せずに選挙区内の9人にあわせて12万5千円の香典を寄付していた」と認定したうえで、「法を無視する姿勢が顕著とはいえない」として、起訴猶予処分とした。

しかし、審査請求を受けた東京第4検察審査会(東京には、第1?第6審査会まである)が本年2月24日付で「起訴相当」と議決した。その理由を「香典は個人的な関係だけで渡したものではなく、将来における選挙も念頭に置いたものと考えるのが自然だ。公職選挙法は金がかからない選挙を目指していて、検察は、国会議員はクリーンであってほしいという国民の切なる願いにも十分配慮すべき」と指摘していると報道されている。

「起訴相当」であるから、これを受けて地検は再び捜査を行うことになる。仮に、検察が再び不起訴にした場合には、検察審査会の再度の「起訴相当」議決によって強制起訴となりうる。「起訴相当」の議決には11人中8人以上の賛成が必要なのだから、地検は、国民目線の厳しさを心すべきである。

また、たまたま時を同じくして、話題の主となったのが、元東京高検検事長の黒川弘務。世が世であれば、検事総長として政権の守護神となっていたはずのお人。在職中に担当の新聞記者らと点ピンの賭けマージャンをしていた問題で告発され、この人も不起訴処分となったが、第6検察審査会が「起訴相当」と議決し、再捜査が進行していた。

各紙が一斉に報じている。東京地検は、賭博罪で黒川を略式起訴する方針を固めたという。「取材で分かった」との報道だが、リークがあったのだろう。地検は判断を一転させたことになる。略式ではあっても起訴は起訴。元検事長の起訴なのだから、インパクトは大きい。

実は、これまで表面化しなかったが、官僚や政治家に対する接待疑惑が噴出している。これも、安倍政権腐敗の膿である。「ソンタク」とならぶ「セッタイ」が流行語となりそうな雲行き。

あとからあとから切りがないとあきらめることなく、政治浄化の努力を続けよう。「どうせ告発などしたところで、まともに取りあげてはもらえない」と決めつけていては、事態は変わらない。現実に告発が実を結ぶこともあるのだ。

「広島・長崎の火」から、「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ『非核の火』」に。

(2021年3月12日)
気が滅入ってばかりの3・11報道の中で、たった一つの明るいニュース。東京・上野で30年間灯され続けた「広島・長崎の火」が、昨日(3月11日)原発事故の被災地フクシマ楢葉町に「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ『非核の火』」として継承され、再点火された。新たな核廃絶の希望の火がともった。

「広島・長崎の火」から、「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ『非核の火』」へというコンセプトは、「原子爆弾投下による核爆発被害」だけでなく、「ビキニ被曝や原発事故の放射線被害」をも人類に対する核の脅威と捉える姿勢を示している。この火は、核の脅威を警告するとともに、『非核』を目指す運動の希望の火となって輝き続ける。まことにフクシマの地にあることがふさわしい。

「上野東照宮の『広島・長崎の火』が今はない」という記事を本年2月21日の当ブログに掲載した。上野東照宮の『広島・長崎の火』の由来については、下記のURLをご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=16358

嵯峨敞全という名物宮司の厚志で実現した上野東照宮敷地の「広島・長崎の火」だったが、時代が遷って今度は、早川篤雄という住職の賛同を得て、楢葉町「宝鏡寺」境内に新たな火が灯されたのだ。

2月21日ブログで紹介したとおり、「上野の森に「広島・長崎の火」を永遠に灯す会」は、昨日2021年3月11日をもって解散した。しかし、上野東照宮境内の『広島・長崎の火』が消えたわけではない。ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ『非核の火』として、福島県楢葉町の宝鏡寺の境内に建設されるモニュメントに再点火された。「非核」の思いも受け継がれた。

前回ブログは、「火」が上野からなくなることを惜しむニュアンスの記事になったが、フクシマでの再点火を積極的に評価したい。宝鏡寺の早川篤雄住職は、反原発運動のリーダーとして知られた方。原発避難者訴訟の原告団長でもある。

昨日(3月11日)「宝鏡寺」での「非核の火」をともす式典には130人以上が参加した。新たに立ち上げられた「『非核の火』を灯す会」共同代表の伊東達也氏は「核兵器も原発も人間がつくったもので、人間の力でなくせる。『これ以上ヒバクシャをつくるな』『二度と原発事故を起こすな』の声を日本と世界に伝える決意だ」とあいさつした。
早川篤雄住職は、原発事故で「豊かな自然、平和な暮らし、地域が奪われた」と述べ、「人類の幸福と進歩は平和なくして不可能」と強調した。

東京新聞は、この件を取材して、《福島にともる「非核の火」 原爆、ビキニの資料館も―東日本大震災10年》という記事を掲載している。

移設を機に「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ『非核の火』」と名を変えるのは、「環境や命、ふるさとを奪う核被害は許さない」という早川篤雄さんの思いからだという。新たな「火」のモニュメントの近くには、「原発悔恨・伝言の碑」が建てられ、「平和な未来は歴史を知ることから始まる」と、資料館も併設される。原発事故の教訓を中心に、原爆被害や第五福竜丸などが被ばくしたビキニ環礁での水爆実験の資料などを展示する予定と報道されている。

フクシマにこそふさわしい「非核の火」。原子炉という地獄で燃える核の劫火ではなく、人類の希望として輝く「非核の火」。2021年3月11日を第1日として、この先ずっと輝き続けていただきたい。

まやかしの「復興五輪」はいらない。東北復興の実現を。

(2021年3月11日)
あの日から10回目の3月11日。岩手を故郷とする私にとっては心痛む日。この日は、この世に神のないことをあらためて確認すべき日となった。もし神ありとせば、冷酷な神、無慈悲な神、気まぐれな神、人に対する配慮のカケラもない神、なくもがなの神でしかない。

あの大惨事を「天罰」と言ってのけた恐るべき政治家がいた。その名を石原慎太郎という。冷酷な男、無慈悲な右翼、気まぐれな愚物、人に対する配慮のカケラもない都知事、なくもがなの存在でしかない。

私は、彼のこの一言に心底怒った。これは失言ではない、彼の本性の暴露なのだ。その視点から石原慎太郎糾弾のブログを書いた。その記事をまとめたものが、「3・11から4年。『石原慎太郎天罰発言』批判のアーカイブ」である。
https://article9.jp/wordpress/?p=4563

私は、「この一言で石原慎太郎の政治生命は終わった」と思った。が、そうはならなかった。この明らかな政治家失格人間がその後も細々ながらも命脈を保っている。一部にもせよ、こんな政治家を支持する都民がいるからなのだ。

また私は、被災した東北の復興を心から願った。震災・津波だけでなく原発事故被害。天災と人災の複合被害からの回復は現実には困難だった。それでもの復興の努力に水を差したのが、東京五輪である。しかも、東北復興が東京五輪招致のダシに使われた。「復興五輪」のネーミングが虚しく、腹立たしい。これを主導した人物の名を安倍晋三という。

私は安倍晋三にも復興五輪にも腹を立てたが、安倍晋三も復興五輪も、しぶとくその後相当期間にわたって生き延びた。こんな政治家、こんな五輪を支持する国民がいたからなのだ。

世界を欺して東京五輪を誘致した張本人・安倍晋三が昨夏ようやく首相の座を下り、「復興五輪」もなくなったようだ。

安倍政権の継承者である菅義偉は、本日の「東日本大震災10周年追悼式」での式辞で、「復興五輪」に言及しなかった。昨年の3月11日には、安倍は「追悼の言葉」の中で、こう言ったという。

「復興五輪と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたい」

また、本日、加藤官房長官は会見で、なぜ「復興五輪」という言葉がなくなったかについてこう答えたという。(朝日.com)

「これは毎年の言葉を、なども踏まえつつ、作成されているものと承知をしておりまして、政府として、今後も、えー、しているものであり、ですね……」と5秒近く沈黙。「まさにそれに尽きるということであります」と続け、理由を説明することはなかった。

「復興五輪」に代わっての流行りが、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしての完全な形での東京五輪」なのだが、「人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止」となりそうな雲行きではないか。

毎日新聞の世論調査の結果は、「五輪開催『復興の後押しにならない』61% 被災3県・世論調査」と報道されている。

被災3県の調査で、「復興五輪」を掲げた東京オリンピック・パラリンピックの開催が「復興の後押しにはならない」と答えた人が61%に達し、「後押しになる」の24%を大きく上回った。「わからない」は14%だった。大会組織委員会は3月25日に福島県内で聖火リレーをスタートさせるなど、東京五輪を復興のシンボルとする方針を打ち出してきたが、被災地でその効果が否定的に見られている現状が浮かんだ。開催理念や復興への効果を疑問視する声は根強くある。

東京五輪はなくてもいっこうにかまわない。しかし、東北復興はなくてはならない。東北復興をダシにした東京五輪などもってのほか。東京五輪の経費を全てコロナ対策と東北復興にまわしていただきたい。そして、いつの日か語りたい。

国民が東京五輪という愚策の誘惑に打ち克った理性の証しとして実現した東北復興、と。

王毅外相の記者会見の記録 ー 中国は、虐げられた人民の味方であろうとする姿勢を捨てたのか。

(2021年3月10日)
中国の全人代の様子について胸ふたがれる気持で報道に目を凝らしている。中国のかくまで強権的な政治姿勢がにわかに信じがたい。取材記者の思い込みが過ぎて、報道が不正確なのではないかとの思いを捨てきれない。

ところに、中国語に堪能で中国政治の内情に詳しい友人が、中国・王毅外相の3月7日記者会見の全文を送ってくれた。「翻訳は『小牛』(翻訳ソフト)に働いてもらいました。」ということだが、正確なものだと思う。

翻訳の和文は、A4・26頁にも及ぶ長大なものだが、そのうち、香港・台湾・ミャンマーに関する記者の質問に対する回答だけを引用して紹介する。

感想を一言に集約すれば、「この体制は恐ろしい」というしかない。冒頭の王毅コメントの中に、「われわれは歴史の流れに順応し、新型国際関係の構築を積極的に推進し、平和、発展、公平、正義、民主、自由という全人類共通の価値を発揚し、各国と手を携えて人類運命共同体を構築していく」とある。 しかし、香港・台湾・ミャンマーに関する質疑応答を読む限り、「全人類共通の価値を発揚し」が何とも虚しい。

香港中評社記者
 国際社会は全人代が香港特区の選挙制度の改善について決定を下すことに高い関心を寄せており、一部の国政府は中国側の関連行動が「一国二制度」に違反し、香港の民主的発展を損なうと批判しているが、中国側はこれについてどのようにコメントするのか。

王毅
 まず強調したいのは、香港特区の選挙制度を充実させ、「愛国者による香港統治」を実行に移すことは、「一国二制度」事業を推進し、香港の長期安定を保つための実際の必要であるだけでなく、憲法が全人代に与えた権力と責任でもあり、完全に合憲合法であり、正当かつ合理的であるということである。
 世界に目を向ければ、どの国でも祖国に忠誠を尽くすことは、公職者や公職に立候補する人が守らなければならない基本的な政治倫理だ。香港でも同じです。香港は中国の特別行政区であり、中華人民共和国の一部である。国を愛さなければ、港を愛することはできない。香港愛と愛国は完全に一致している。
 香港は植民地支配時代に民主主義を持っていませんでした。復帰24年来、中央政府ほど香港民主の発展に関心を持ち、香港の繁栄と安定を望んでいる人はいない。香港は乱から治へと変化し、各方面の利益に完全に合致し、香港住民の各種権利と外国投資家の合法的利益を守るためにより堅固な保障を提供する。われわれには引き続き「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治を堅持する決意があり、香港の明日をますます良くする自信もある。

古代ギリシャの市民は、他民族をバルバロイ《訳のわからない言葉を話す者という意》と呼んだという。強大なペルシャは恐るべき国であり民族だが、「理念も言葉も通じない、訳のわからない人々》であったろう。王毅外相の強弁を聞かされると、古代ギリシャ人の気持ちがよく分かる。

フェニックステレビ記者
われわれはこれまでトランプ米政権が米台交際制限を解除したことに注目している。台湾問題における中米の危機勃発を世界最高の潜在的衝突とするシンクタンクもある。中国側はアメリカの対台湾政策をどのように見ていますか。

王毅
 台湾問題については、次の3点を強調したいと思います
まず、世界には中国は一つしかなく、台湾は中国領土の不可分の一部である。これは歴史的・法理的事実であり、国際社会の普遍的共通認識でもある。
 第二に、海峡両岸は必ず統一しなければならず、必然的に統一しなければならない。これは大勢の赴くところであり、中華民族の集団意志であり、変えることはできないし、変えることもできない。国家主権と領土保全を守る中国政府の決意は揺るぎなく、われわれにはいかなる形の「台湾独立」分裂行為をも挫折させる能力がある。
 第三に、一つの中国原則は中米関係の政治的基礎であり、越えてはならないレッドラインである。中国政府は台湾問題で妥協の余地はなく、譲歩の余地もない。われわれは米国の新政府が台湾問題の高い敏感性を十分に認識し、一つの中国の原則と中米の三つの共同コミュニケを確実に厳守し、前回政府の「線を越える」、「火遊び」の危険なやり方を徹底的に改め、台湾にかかわる問題を慎重かつ適切に処理するよう促す。

この回答は分かり易い。要するに、問答無用というのだ。問題解決には力だけが有用であり、自分たちにはその力がある、というアピール。そして、中台問題などは存在しない。あるのは、中米問題だけだ。アメリカよ、心せよ、というわけだ。

澎湃新聞記者
中国はかつて、ミャンマーの現在の情勢はミャンマーの内政であると表明した。現在、ミャンマー軍が政権を接収して国の非常事態を宣言してから1ヶ月余りが経ちましたが、中国側の立場は変わっているのでしょうか。また、中国側はASEAN諸国とともにミャンマーの緊張緩和のために建設的な役割を果たす用意があると表明していますが、中国側は次の段階でこの問題についてどのような措置をとるのでしょうか。

王毅
 ミャンマー情勢について、私は中国側の3つの主張を提起したい。
 第一に、平和と安定は国の発展の前提である。ミャンマーの各方面が冷静自制を保ち、ミャンマー人民の根本的利益から出発し、対話と協議を通じて、憲法と法律の枠組みの下で矛盾と意見の相違を解決することを堅持し、国内民主のモデルチェンジのプロセスを引き続き推進することを希望する。当面の急務は新たな流血衝突の発生を防ぎ、情勢の緩和と冷え込みを早急に実現することである。
 第二に、ミャンマーはASEANの大家族の構成員であり、中国側はASEANが内政不干渉と協議一致の原則を堅持し、「ASEAN方式」でその中から仲裁し、共通認識を求めることを支持する。中国側もミャンマーの主権と人民の意思を尊重した上で、各方面と接触・意思疎通し、緊張緩和のために建設的な役割を果たすことを願っている。
 第三に、ミャンマーと中国は山水が連なる「胞波」兄弟であり、苦楽を共にする運命共同体である。中国の対ミャンマー友好政策は全ミャンマー人民に向けられている。中国側は民盟を含むミャンマー各党各派と長期にわたる友好交流を持っており、対中友好も終始ミャンマー各界の共通認識である。ミャンマー情勢がどのように変化しても、中国が中国とミャンマー関係を推進する決意は揺るがず、中国が中国とミャンマーの友好協力を促進する方向も変わらない。

「胞波」「民盟」など理解できない用語もあるが、文意はつかめる。明らかなのは、民主的に成立した政府を武力で転覆した国軍の軍事クーデターに対する批判がないことだ。民政を支持して国軍の横暴に抗議する人民の切実な叫びに耳を傾けようとはしないのだ。

中国共産党は、世界の虐げられた人民の味方であろうとする姿勢を捨てたのだろうか。それでなお、共産党を名乗り続けているのはなぜなのだろうか。残念なことだが、中国が「平和、発展、公平、正義、民主、自由という全人類共通の価値」を尊重しているようには、とうてい見えない。

本郷三丁目の街角で ー 憲法9条の理念を訴える。

(2021年3月9日)
皆さま、明日が3月10日です。あの東京大空襲の日。76年前の3月10日、東京下町は252機のB29による空襲で一面の火の海となりました。一夜にして10万の人々が殺戮され、100万人が焼け出されたのです。私たちは、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下とならぶ東京大空襲の被害を忘れることができません。また、けっして忘れてはならないと思います。

この日の未明、わずか3時間の間にB29の大編隊は低高度から1665トンに及ぶ大量の焼夷弾を投下しました。折からの強風に煽られた火は、たちまち大火災となって、東京の半分を焼き尽くしたのです。

この日、空襲が始まるまで空襲警報は鳴りませんでした。防空法という法律が、人々を逃げずに現場で消火にあたれと足を止めて被害を広げました。何よりも、首都の防空態勢は無力でした。グアム・サイパン・テニアンの各基地から飛び立った機の、長距離爆撃を防ぐ手立ては日本にはなかったのです。

1945年3月、首都を焼かれ100万の被災者を出して、日本の敗戦は誰の目にも明らかとなりました。それでも、この国は戦争をやめようとはしませんでした。今では知られているとおり、政権が国体の護持にこだわってのことです。国民の命よりも、天皇制の存続が大事と本気になって考えていたからなのです。

国民の戦争犠牲は、東京大空襲被害のあともとどまることなく、日本の都市のほとんどが焼け野原となり、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキの悲劇と続きます。敗戦は8月となりましたが、国民は文字通り、塗炭の苦しみにあえいだのです。

でも、戦争の被害は日本国内だけのものではありませんでした。日本が仕掛けた戦争でしたから、主たる戦場となったのはアジア・太平洋の各地でした。そこでは、戦闘員でない一般市民が、天皇の軍隊によって理不尽な殺戮の対象となりました。

たとえば、重慶大空襲。1938年末から1941年にかけて、日本軍は当時中国蔣介石政権の臨時首都とされた重慶市に無差別爆撃をくり返し多くの人々を殺傷しました。中国側の資料によると、その爆撃回数は218次に及び、死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸の被害を出しています。戦争末期に、日本はそれ以上の規模での報復を受けたことになります。

日本国憲法は戦争の惨禍を再び繰り返してはならないという日本国民の切実な願いを結実したものとして生まれました。その第9条は、再び戦争をしないという不戦の誓いを条文にしたものです。

戦争の惨禍は、加害によるものと、被害としてのものと両者があります。日本は近隣諸国の人々に筆舌に尽くせない、甚大な被害を与えました。その死者の数だけでも2000万人を下らないと考えられています。そして、自国民の被害も310万人に上っています。

二度と愚かな戦争を繰り返してはなりません。平和憲法を守り9条を守り、この9条を活かして崩れぬ平和を守り抜こうではありませんか。近隣の諸国を敵視し、あるいは威嚇するのではなく、お互いに敬意をもって接し友好を深め、民間交流も活発化して、国際紛争は誠実で真摯な外交交渉によって解決すべきです。それが、日本国憲法の示すところです。

以上で、「本郷湯島9条の会」からの今月の訴えを終わります。耳をお貸しくださりありがとうございました。

「婦人」という言葉の生成・発展・衰退と、その必然。

(2021年3月8日)
本日は「国際女性デー」。森喜朗という功労者のおかげで社会の関心が高い。ところで、かつては「国際婦人デー」と言っていたはず。いったいいつころから、「女性デー」となったのだろうか。「婦人」から「女性」へ。その変化は、何を物語るのだろうか。

ネットを検索していたら、たまたま広井多鶴子(実践女子大学教授)の《「婦人」と「女性」?ことばの歴史社会学?》という論文に出会った。これが、すてきに面白い。いろんなことを教えてくれる。
http://hiroitz.sakura.ne.jp/resources/%E8%AB%96%E6%96%87/woman.pdf

この論文を読んでなるほどと思う。「婦人」という言葉の使われ方は、時代の社会意識を映してきたのだ。納得できる内容だし、何よりも「ことばの歴史社会学」というタイトルがピッタリではないか。

以下に、A4・8枚のこの論文の一部を引用させていただき、「婦人」という語彙の生成・発展・衰退の経過を追ってみたい。やや荒い整理とはなることはお許しいただきたい。

明治以前、「女性」の一般呼称としての語彙は、「女」であった。「長幼の序、男女の別」が道徳の基本とされ、「女三界に家なし」「三従の教え」を女性の処世訓と教え込まれ、「男尊女卑」を疑うべくもない身分制秩序の時代。その中では、「男」に対する「女」は、差別にまみれた社会意識を表現する言葉でしかなかった。

近代以後、自我に目覚めた女性を語る文脈で「婦人」が登場する。1885年に初めて「婦人」をタイトルとする書籍が登場したという。この時代を、広井論文はこう説明している。

「一婦一夫制や男女同権、女子教育の振興を主張した明治初期の啓蒙思想家の言論では、女よりも女子や婦人が好まれたものと考えられる。それは、言論・評論の場が公共空間として形成されていくにつれて、女ということばの持つ日常性や蔑視、さらには性的な意味合いが忌避されたからではないだろうか。」

こうして、「婦人」は、主として運動の用語として市民権を獲得してゆく。

「木下尚江『社会主義と婦人』(1903 年)、平民社同人『革命婦人』(1905年)、堺利彦『婦人問題』(1907年)、山川菊栄『婦人の勝利』(1919年)のように、社会主義関係の著書が好んで婦人を用いるようになる。」「平民社の西川文子らによる『真新婦人会』(1913年)、平塚らいてうの『新婦人協会』(1920 年)、市川房枝らの『婦人参政権獲得期成同盟』(1924年)といった社会改良を目指す婦人団体も結成される」

一方、『帝国婦人協会』、『愛国婦人会』『国防婦人会』『愛国婦人会』『大日本婦人会』など体制的な女性団体名も「婦人」を冠した。「女性の団体は運動や思想の内容を問わず、その多くが婦人を名乗ったのであり、こうして婦人は、婦人団体や婦人運動の用語ともなったのである。」

しかし、「婦人」は廃れて「女性」にその地位を譲ることになる。この点について、広井論文は、「婦人」の持つ言葉としてのイメージの限界を以下のように明晰に指摘する。

婦人はまた、男-女、男子-女子という対義語を持たず、妻という原義を払拭しえないために、女や女子という言葉以上に、女としての特殊性や独自性を強調することばである。戦前、婦人記者、婦人運動、婦人参政権といったことばが次々に作られていったが、女性の社会的な活動を意味するこれらの言葉ですら、結婚や家庭、妻、母、主婦といったイメージを拭い去れなかった。婦人は外で活躍しつつも、常にどこか家庭に拘束されている存在なのである。おそらく、婦人の持つこうした限界ゆえに、新たに「女性」という言葉が普及したのだろう。

「おわりに」として、広井教授はこう語っている。なるほど、なるほどと頷くしかない。

 婦人は、結婚や家庭での女性の新たな役割と尊厳を模索した明治啓蒙思想の中で使われ始め、そうした言論や運動の中で広がっていった新しいことばであった。既婚女性を意味した婦人は、娘を意味した女や女子よりも、結婚生活における女性の地位を高め、女性に対する社会的・公的敬意を得るための用語としてふさわしいものだったにちがいない。1880 年代から1920年代は、婦人ということばが最も精彩を放ち、その力を発揮した時期であった。

 しかし、婦人はまた、ようやく獲得した社会的・公的な敬意と裏腹に、女性を家庭や結婚に拘束し、よき妻、よき母たることを女性に求めることばでもあった。だからこそ言論や運動の用語として、さらには行政の用語として広く普及することになるのだが、そのことが逆に、婦人ということばの一般性・普遍性を喪失させることにもなった。一方、より客観的・普遍的な女性-男性ということばが創出され、1930年代になると、女性の代表的な呼称は、婦人から女性に移っていく。

 戦後、経済成長とともに専業主婦が一般化する中で、婦人は『婦人画報』や『婦人公論』の読者層が示すように、中流階層の主婦をイメージさせる言葉として生き延びる。だが、このことは、婦人が女性の一般呼称としても、また言論や批判の言葉としても、すでにその力を減じていたことを意味する。…そして、性別役割分業自体を批判する1970年代の女性解放運動では、もはや婦人を名乗ることはなかったのである。

言葉は社会的存在である。社会が言葉の意味とイメージを作る。旧時代の「女」の意味は、「差別に甘んじる性」であったろう。これを克服すべきとする社会意識の形成の中で、「女」は嫌われ「婦人」が用いられた。しかし「婦人」は、女性の権利獲得運動が進展して、性別役割分業自体を否定すると、たちまち限界を露呈する。新たに形成された社会意識は、良妻賢母型女性像と離れがたいイメージの「婦人」を嫌って「女性」を選択することになる。

運動が社会意識を変え、変えられた社会意識による取捨選択によって、言葉が変遷していくのだ。「国際婦人デー」って、いつころまで言っていただろうか。そりゃ大昔のことなのだ。

東京オリンピック憲章(最新改訂版) ー 政権浮揚と国威発揚と金儲けとを求めて

(2021年3月6日)

 東京2021オリンピズムの根本原則

1 東京オリンピズムは、政権浮揚と国威発揚とカネのすべてのレベルを、かつ高め、かつバランスよく結合させることを目指す、我が国の国民精神総動員とスポーツの政治利用の哲学である。スポーツを、政治と経済とに融合させ、より巧妙な民衆支配の方法と、より大きな儲け方とを創造し探求するものでもある。東京オリンピズムを成功に導く民衆の生き方は、政治的、経済的、社会的に、伝統的秩序と権威に従順で支配者の提示する倫理規範を尊重し、東京五輪主催者の提供するスポーツ観戦に没我し感動することが望まれる。

2 東京オリンピズムの直接の目的は、時の菅義偉政権と小池百合子都政の数々の不祥事を国民・都民の眼から覆い隠し忘却させることで政治的安定をもたらすとともに、この社会の基本的な支配構造である資本主義の欠陥を民衆の熱狂をもって糊塗することで、現体制の尊厳の保持と市場原理の調和のとれた発展に、スポーツを役立てることである。

3 東京オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの政治的かつ経済的な価値に鼓舞された国家と資本とによる協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進める領袖は「とにかく開催」「7月に開幕しないと信じる理由は何もない。だからプランBはない」「ワクチンが間に合わなくともオリンピックの開催は可能」と述べて中止や再延期の可能性を否定する、野蛮・無謀・無責任のトーマス・バッハである。その領袖の下での周到な準備活動は5大陸にまたがるが、東京の偉大な競技大会に世界中の選手が集まるとき、頂点に達する。そのシンボルは、「カネ」と「不正」と「権力」と「環境破壊」と「反知性」の、5つの結び合う輪である。

4 スポーツイベントを経済的な利潤獲得手段とすることは、侵してはならない神聖な権利の1つである。また、政治的な国民統合の手段とし、あるいは対外的な国威発揚手段として利用することも同様である。
すべての個人は、権力機構としての組織委員会のいかなる種類の差別も甘受して、東京オリンピックの成功のために心身ともに動員されなければならない。そのためには、盲目的従順、権威主義的心情、自己犠牲の精神とともに忖度と迎合の姿勢が求められる。

5 東京オリンピック・ムーブメントは、その成功のために、大和魂と必勝の精神を最大限動員する。とりわけ、権力と金力には卑屈となり、長幼の序と男女の別を弁え、国民一丸となって竹槍を持ち、早朝宮城に向かって遙拝し、「鬼畜コロナには決して負けない!」「東京オリンピックは必ず開催するぞ!」「中止も再延期も考えない!」「無観客もないぞー!」「天佑は我にあり!」と唱和する。断じて行えば鬼神もこれを避く。大和魂は、コロナに打ち克って、五族協和・八紘一宇の東京オリンピック開催に道を拓く。

そのとき必ずや妙なる鐘が鳴り、人類が新型コロナに打ち克った証しとしての東京オリパラが成就する。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2021. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.