(2020年11月5日)
アメリカ大統領選が気になってならない。本日早朝に、朝日デジタルが未確定5州を残して、「バイデン264選挙人を獲得」「ペンシルベニア、ジョージア、ノースカロライナ、ネバダのどれか一つを獲得すれば過半数の270人に達する」「勝利に王手」と報道してから随分経つが、次の動きがない。最終的には、バイデン勝利となるのだろうが、トランプの「善戦」に背筋が寒い。
全米にトランプの嵐が吹き荒れている。非理性、非寛容の穏やかならざる嵐。アメリカだけでなく全世界にトランプ的な風が渦巻いている。その風の激しさは民主主義を薙ぎ倒さんばかり。ポスト・トゥルースという言葉を世界に流行らせたのがトランプだ。その反知性ぶり、あからさまにホンネを語って恥じない野蛮な姿勢に、全米の半数が喝采を送っているのだ。これは、驚くべき風景ではないか。
「トランプの嵐」は、トランプ一人では起こせない。これを熱狂的に支持する多くの人々があってこその激しい嵐。この社会には、人のたしなみを重んじる風潮があったはず。これをかなぐり捨てた、嘘とごまかし、相手陣営への罵倒、対立を煽る言動に人々が熱狂する図が恐怖を呼ぶ。
私が、物心ついて以来ごく最近まで、「進歩史観」が社会に浸透していたと思う。道は曲がりくねり、ジグザクも障碍もあれども、長い目で見れば社会は進歩する。民主主義や人権や平和、人の平等や友愛の関係は深まり堅固になっていくだろう、という人間信頼の社会観である。今、それが揺らいでいる。アメリカ、中国、ロシア、中東、そして日本。なんという指導者ばかり。そして、そんな指導者を支持する民衆のありかた。世は、むくつけきエゴの衝突の場でしかない。
思いたいのだ。共和党とは、決してトランプの私党ではなかろう。民主主義の理性に支えられた、矜持をもった共和党員もいるに違いない。言わば、「非トランプ流良心的共和党」が。
たまたま、ネットでそのような人の話を見つけた。COURRiER Japon(クーリエ・ジャポン)というメディアに、大要次のような話が掲載されている。トランプの言動にウンザリしていたところだが、これに、救われた思いである。誰よりも、トランプにこの話を聞かせたい。
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トランプ支持者がご近所のバイデン支持者をリスペクト ─ 「言論の自由」の尊さを息子に示した父
米ウィスコンシン州のワシントン郡、先月末、バイデン氏を支持するティム・プレースという男性の自宅の前に立てられていた看板が、何者かによって盗まれた。被害に遭ったプレースは、看板を再び立てられるようになるのだが、意外な人物の助けによってそれが実現した。
プレースに手を差し伸べたのは、ドナルド・トランプ氏を支持するジョシュ・シューマンという男性だった。シューマンは、選挙によって選ばれたワシントン郡の行政府の長だ。その彼が、言うならば敵対候補を支持する市民のために動いた理由は、民主主義国家で重んじられている言論の自由を守るため、そして政治という枠組みを超えた人間関係の尊さを子供たちに教えるためだった。
ある晩、12歳の息子からバイデン氏を支持している隣人宅の庭にあった看板が盗まれたことを聞いたシューマンは、16歳の長男も含め、共和党支持の一家に生まれた2人の息子たちにとっても良い学びの機会になると思い、行動を開始した。
彼は民主党の事務所を訪ね、バイデン氏、副大統領候補のカマラ・ハリス氏支持者用の看板をもらえるか聞いたという。民主党員かどうかを確認されたシューマンは、正直にトランプ支持者であることを明かした。当然ながら民主党関係者は目を丸くさせたが、事情を説明すると納得してもらえ、無事に看板の入手に成功。帰宅後、次男を車に乗せて看板盗難の被害に遭った隣人宅に向かい、ドアベルを鳴らした。
車中、シューマンは次男に言論の自由の大切さを説いた。たとえ支持する候補者が違っていても、恫喝、破壊行動、盗みなどで自分の主張を通すような真似はしてはならないと説明したという。
シューマンの突然の訪問に驚いたプレースだったが、彼の善意に感動した。そして、もしシューマン家が同じような被害に遭ったら、同様の形でサポートすると伝えた。(以下略)
(2020年11月4日)
明治政府はすべての国民を把握し管理するために「戸籍」を作った。国民の福祉のためではなく国民支配の道具として。その眼目は、「臣民の三大義務」とされた徴税と徴兵と義務教育実施を徹底するためにである。そして、徴兵された兵士については、各個人ごとに「兵籍簿」というものを作った。兵の移動や昇進を把握し、軍の編成のために不可欠なものとして。
「兵籍簿」には、旧陸海軍に軍人・軍属として徴兵された者についての、徴兵から召集解除(あるいは戦死)までの軍隊における記録が記載されている。現在、旧陸軍については本籍地の都道府県、海軍なら厚生労働省に問い合わせれば、その写の請求ができる。三親等以内の遺族が請求権者と定められている。
私の父は澤藤盛祐という。1914年1月1日に岩手縣和賀郡黒澤尻町に生まれ、この時代の人の避けがたい成り行きとして徴兵された。弘前聯隊に入営し、関東軍の兵士となって極寒のソ満国境、愛琿(アイグン)に駐屯している。幸い、一度の実戦の経験もなく帰還しているが、その遺族として「陸軍兵籍簿」というものの写を請求して、この度はじめて亡き父の軍歴を見た。
予想に反して、実に詳細な記述。なるほど、戦争をするということは、事務的にもたいへんなことなのだと実感する。手書きの文字が判読できないところも多少あるが、次のような軍歴が父の人生の一部である。天皇からどんなタバコをもらったのだろうか。いったいどんな味がしただろうか。もはや聞く術もないが、確かに、この国はかつて戦争をしたのだ。
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兵種 歩兵
本籍 岩手縣和賀郡黒澤尻町大字…
氏名 澤藤盛祐 大正参年壹月壹日生
出身別 幹部候補生(抹消)
第二補充兵(抹消)
予備役 (抹消)
服役区分 現役 昭和十四年八月一日
予備役 昭和十五年六月三十日
第二補充兵役 昭和九年十二月一日
位階 勲等功級 (記載なし)
特業及特有ノ技能 小
官等級 昭和一四・五・三 歩兵二等兵
昭和一四・八・一 歩兵一等兵
昭和一四・一〇・一 歩兵上等兵(乙幹)
昭和一五・二・一 歩兵伍長(乙幹)
昭和一五・五・一 歩兵軍曹(乙幹)
昭和一五・六・三〇 歩兵軍曹
同 一五・九・一五 軍曹(勅令第五百八十號ニ依リ)
賞典 昭和一七年一月二十七日
天皇・皇后両陛下ヨリ特別ノ思召ヲ以テ御莨ヲ賜フ
履歴 高等小学校卒業(抹消)
昭和五年三月九日黒澤尻中学校卒業。
昭和五年三月九日同校ニ於テ配属将校ノ行フ教練検定ニ合格。
昭和九年 一二月一日第二補充兵××(2字判読不能)ス。
昭和十四年 五月三日臨時招集ノタメ
歩兵第三十一聯隊留守隊ニ應召。
同日第七中隊編入。
八月一日幹部候補生ニ採用ス。
八月八日第四中隊ニ編入。
九月二十日歩兵乙種幹部候補生ヲ命ズ。
十月一日歩兵上等兵ノ階級ニ進ム。
十二月一日第七中隊ニ編入。
昭和十五年 二月一日歩兵伍長ノ階級ニ進メラル。
五月一日軍曹ノ階級ニ進メラル。
六月三十日昭和一五年陸支密第五九五號
ニ依リ満期除隊。
同月同日任歩兵軍曹
六月一日臨時招集ノタメ歩兵第三一聯隊
留守隊ニ応召入隊。
同日第七中隊附。
軍令乙第二十二號ニ依リ七月十日
軍備改変編成下令。
八月七日歩兵第五十二聯隊第九中隊附。
同月二十七日編成完結
昭和十六年 七月十七日臨時編成(甲)下令。
同年七月二十九日歩兵第五十二聯隊第九中隊附。
八月六日編成(甲)完結。
八月十三日弘前出発。
八月十六日大阪港出帆。
八月十九日釜山港上陸。
八月二十三日朝鮮国境通過。
同日関東軍司令官の隷下ニ入ル。
八月二十五日黒河省愛琿着。
同日ヨリ同地警備。
同年九月三十日給三等給。
十二月八日ヨリ引続き同地国境警備。
昭和十七年 三月五日軍令陸甲第十八号ニ依リ編成改正下令。
六月七日編成(甲)完結。
七月一日陸達第四十二号ニヨリ給二等給。
十一月三日内地帰還ノタメ愛琿出発。
同日愛琿縣境を通過。
同日国境警備勤務を離ル。
十一月六日鮮満国境通過。
同月九日釜山港出帆。
同日下関上陸同月十二日弘前着。
同日第五十二聯隊補充隊第九中隊ニ臨時配属。
昭和十五年陸支機密第二五四号及ビ
八月二十一日弘動第一二四五号ニ依リ
十一月十八日召集解除。
昭和十九年 昭和十九年六月二十九日動員下令。
七月十一日充員招集歩兵第百二十一聯隊ニ応召。
同日歩兵第五十二聯隊連隊本部附。
七月十五日動員完結。同日第一中隊附。
八月十五日第十三国境守備隊補充要員引率官
トシテ弘前出発。
同月十八日下関港出帆。同日釜山上陸。
同月二十日鮮満国境(安東)通過。
同月二十三日愛琿縣境通過。
同日愛琿県詰別拉着。同月二十五日詰別拉出発。
同月二十六日愛琿縣境通過。
同月二十八日鮮満国境(安東)通過。
同月三十日釜山港出帆。同日下関港上陸。
九月三日弘前着。
十二月一日任陸軍曹長。
十二月八日連隊本部附。
昭和二十年 軍令陸甲第三十四號ニ據リ
昭和二十年二月二十八日臨時動員(復員)下令。
同年四月三日歩兵第四百六十聯隊に轉属。
同月同日連隊本部附。五月十日動員完結。
同月十三日移駐ノタメ弘前出發。
同月十四日青森縣上北郡藤坂村着。
六月一日給三等給。
昭和二十年八月十八日
軍令陸甲第一一六號ニ依リ九月十二日召集解除。
(2020年11月3日)
11月3日、憲法公布記念日。1946年11月3日に日本国憲法は公布され、6か月を経た翌47年5月3日が憲法施行の記念日となった。74年目の記念日に、思いがけなくも学問の自由を保障した憲法23条が注目されている。
私の手許に、「はじめて学ぶ日本国憲法」(2005年3月1日)がある。スガ政権によって、学術会議会員に推薦を受けながら任命を拒否された小澤隆一さん(慈恵医科大学教授)の著作。題名ほどには読み易い書物ではない。憲法条文の解説書ではなく、「憲法を学ぶことを、社会科学を学ぶことのなかに自覚的に位置づけようという」試みとしての体系書なのだ。なるほど、政権におもねる姿勢はいささかもない。忖度期待の輩には、耳が痛い内容。
その第2章「日本・日本人と憲法ー明治憲法を通じて考える」に「5. 明治憲法体制の崩壊」という項がある。その一部を紹介させていただく。
(1)天皇制のファシズム化と天皇機関説事件
……1932年5月15日、犬養毅(1855-1932年)首相が海軍の青年将校らに暗殺され(5・15事件)、いわゆる政党内閣の時代が幕を閉じます。その前年には、満州事変が始まり、日本は急速に軍事体制を固めていきました。すなわち、対外的には侵略体制を強めると同時に、国内では、強権的な戦時動員体制が、思想や言論統制、弾圧もまじえながら構築されていきました。…
1930年代から敗戦にいたる日本の政治体制を、「天皇制ファシズム」と呼ぶことがあります。…こうした「天皇制フアシズム」の特徴を象徴的に示す事件として、1935年の天皇機関説事件があります。この事件は、それ以前の時代に支配的な憲法学説であった美濃部達吉の天皇機関説が、議会での糾弾と「国体明徴決議」、在郷軍人会などが主体となった「国体明徴運動」、政府による「国体明徴声明」などを通じて排撃され、美濃部は、最終的に大学で機関説の講義ができず、著書を絶版にするところまで追い込まれます。
1937年に文部省が編纂し、全国の学校に配布したパンフレツト「国体の本義」では、明治憲法によれば、「天皇は統治権の主体である」こと、その根本原則は「天皇の御親政である」こと、三権の分立は「統治権の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎ」ないことなどをうたっており、天皇機関説は、「西洋国家学説の無批判(な)踏襲」として完全に否定されました。
(2) 総動員体制と敗戦
日本の戦争は、中国大陸への侵略から、アメリカ・イギリスなどとの東南アジア・太平洋を舞台としたものへと展開していきます。そうしたなかで、政治、経済、社会、文化のすべてを戦争に動員する「総力戦体制」がしかれ、憲法にもとづく統治は、いっそう破壊されていきます。1938年には、「国家総動員法」が制定され、国民の経済、生活が政府の一元的統制の下に置かれ、統制に関する権限は政府に白紙委任されます。1940年には、当時の議会内政党が解散し大政翼賛会に合流します。また翌年に、治安維持法が改正され(処罰対象の拡大、予防拘禁制度の新設など)、政治弾圧法規としての機能が強化されました。
このようにして、日本が、1941年にアメリカやイギリスなどとの戦争を開始する頃には、明治憲法体制は、その立憲主義的要素はほとんど残さないような状態にまでなっていました。明治憲法の体制が最終的に崩壊するのは、敗戦を待つことになりますが、「政治を規律する法」という憲法本来の役割を、明治憲法は、すでに敗戦以前に失っていたといえるでしょう。
戦前の天皇制政府による学問の自由弾圧が戦争準備と一体であったことを簡潔に解説したものである。天皇機関説事件に代表される歴史的体験が、戦後の制憲国会において憲法23条「学問の自由は、これを保障する」に結実した。この著作を上梓した当時、小澤さんご自身が美濃部と同じ立場に立つことになるとは夢にも思わなかったに違いない。その意味では、今、非常に危険な時代を迎えていることを、74年後の憲法公布記念日に噛みしめなければならない。
しかし、学者もいろいろだ。『御用』と冠を付けた「学者」も、一人前に発言の場が与えられている。NHK(デジタル)が「【学術会議】憲法専門の百地氏『首相の任命権 自由裁量ある』」と掲載している(10月29日 21時08分)。
「日本学術会議」の会員候補6人が任命されなかったことについて、憲法が専門の百地章国士舘大学特任教授は、「総理大臣の任命権は、ある程度の自由裁量はある」などと述べ、政府の対応に理解を示しました。
この中で、百地特任教授は、「私は結論的には任命拒否はあり得ると考えている。菅総理大臣はいろいろなバランスとか総合的に考えたと言っており、総理大臣の任命権は、学術会議の推薦に拘束されるものではなく、ある程度の自由裁量はある。法律の解釈は変わらない。運用で少し変化が出たと私は理解している」と述べ、政府の対応に理解を示しました。
その上で百地氏は、「学術会議そのものにも問題があるようだと考える人たちも増えている。本来のあり方に持っていこうということで、改革の動きが出てきているのは当然ではないか」と述べました。
また、百地氏は、「学問の自由を侵し、萎縮を招く」といった批判が野党などから出ていることについて、「私から言わせるとナンセンスだ。学術会議の会員になれなかったからと言って、学問の自由は侵害されないのではないか」と述べました。
以上の叙述に強烈な違和感を禁じえないが、とりわけ、「『学問の自由を侵し、萎縮を招く』といった批判が野党などから出ていることについて、『私から言わせるとナンセンス』」は、法を学んだ人の言ではない。少なくも、法の神髄を知らず、法を社会科学として把握する姿勢に欠け、法の歴史も法の機能も法常識の弁えもなく、ひたすらに権力へのへつらいに徹した人の言でしかない。
NHKは、いったいどんな思惑あって、こんなコメンテーターを取りあげたのだろうか。社会は、74年前に公布された憲法が想定しているようには動いていない。時代は危ういといわなければならない。
(2020年11月2日)
昨日(11月1日)投開票の「大阪市廃止」住民投票。1万7000票余の僅差ではあったが否決された。欣快の至りというしかない。
それにしても、仕掛ける側が「絶対に勝てる」という確信があっての住民投票実施である。維新は、このタイミングなら絶対勝てるとの判断で賭に出た…はず。5年前の投票では1万票差の否決だった。今回は、公明党を賛成派に抱き込んでの再提案。必ず勝てると思い上がっていたに違いない。それでも負けたのだ。この衝撃と影響は前回にもまして大きい。
「大阪都構想」は、維新にとっては「1丁目1番地の看板政策」である。それに固執して2度までも負けたのだ。一説では100億円という府・市の予算を投じ、コロナ対策そっちのけでの住民投票対策。住民を敵味方に2分しての宣伝戦は、大山鳴動したのみでネズミ一匹出てこなかった。当然のことながら、維新のこの責任は大きい。
維新の打撃について、時事はこう報じている。
「大阪都構想」が1日、否決された。実現を目指した日本維新の会にとって打撃だ。看板政策が地元の理解を得られず、次期衆院選で狙う全国展開の推進力を失った形で、今後は国政で厳しい立場に立たされそうだ。松井一郎代表(大阪市長)は否決を受け、市長の任期満了後の政界引退を表明。将来的に党が維持されるかも見通せない。
また、政治状況に影響が大きい。維新とは、与党でも野党でもない「ゆ党」だと揶揄される立ち位置。その実態は政権の補完勢力である。いざというときに政権に自らの存在を高く売りこもうという意味での改憲別働隊でもある。こんな輩に勢いづかせてはならない。
ところで、「15年の住民投票に続く2度目の否決で、維新代表の松井一郎大阪市長は23年4月の市長任期満了での政界引退を表明した」と報じられている。意味不明というしかない。任期満了までの在職継続宣言が、どうしてケジメをつけることになるのか、責任を取ることになるのか理解しかねる。
自分に市長としての適格性のないことを自覚したからこそのケジメではないか。重要政策に市民の信頼を得られなかったことに関する責任を取ろうということでもある。速やかに職を辞するのがスジというものであろう。なにゆえ、あと2年半も、のうのうと市長として録を食むと言えるのだろうか。
10月26日に、「大阪市廃止なら年間218億円分の財政コスト増」との試算をメディアに提供した大阪市の財政局長は、事態をどう見ているだろうか。速やかに市長が引責辞任してくれれば今後の軋轢は防げるのだが、あと2年半もの市長在任となれば、その間戦々恐々と報復を恐れなければならない。
また、大阪維新の会の代表代行を務めるという、大阪府知事の吉村洋文である。敗北後の記者会見で、「進退についてだが、今回、1丁目1番地の都構想が否決された。重く受け止め、僕自身が都構想について再挑戦することはない」と述べたという。重くは受け止めたが、責任を取ることまでは考えていないというわけだ。この姿勢もいただけない。
ところで、前回5年前の敗北と同様、確実に維新の存在感に陰りが生じることになる。次の衆院選戦略にも影響を与えるとの観測記事が多い。松井と菅とが親しいことは知られており、「次期衆院選で自民、公明両党の議席が減った場合は「自公維政権を作ればいい」(自民関係者)との声もあるほど」(毎日)だという。ここでの松井のレームダック化は、首相の政権運営に影響を及ぼしそうだ。それ故に、昨日の住民投票の結果が「欣快の至り」なのだ。
なお、偶然なのか必然なのかはわからないが、昨日今日の大阪府と東京都とのコロナ感染者数の比較は以下のとおりである。人口比から見て、大阪の感染蔓延は相当なものだ。
11月 1日 大阪 123人 東京 116人
11月 2日 大阪 74人 東京 87人
大阪都構想などにかまけている余裕なんぞははなかったのだ。
(2020年11月1日)
私は時代の子である。戦後民主主義という時代の嫡子であったと思う。特定の誰かから思想的な影響を受けた覚えはなく、ごく自然に、自由や平等、反権力・反権威の姿勢を身につけた。そういう自分を意識したのは学生時代、昔々の駒場のキャンパスにおいてのことだった。
1963年に私は東京大学に入学した。1・2年生は、全員が駒場の教養学部キャンパスで授業を受ける。文科は?(法学部進学コース)類・?(経済学部)類・?(文学部・教育学部)類に分かれ、さらに第2外国語の科目でクラス編成をされた。
語学のクラスは、A(ドイツ語既習)、B(ドイツ語未習)、C(フランス語既修)、D(フランス語未修)、E(中国語)に分類されていた。当時、スペイン語もロシア語もなかった。当然のことながら、圧倒的にBとDのクラスか多人数で各類毎に複数のクラスが編成された。これに対して、A、C、Eは少数で、?・?・?類をまたぐ形で各1クラス編成となっていた。私は、中国語のEクラスに属して、たいへん居心地がよかった。
授業が始まって間もない頃、誰が企画したか、A、C、Eの少数派で合同の懇親会をもったことがある。A(ドイツ語)、C(フランス語)、E(中国語)、各語学を選んだそれぞれの学生の個性が見えて面白かったという記憶がある。
そのとき、各グループで何か演し物をという話になり、まずEクラスの私たちが、中国語で「中国国歌」を歌った。あの、勇壮な「立て、奴隷となるな人民」という歌い出しの「義勇軍進行曲」である。抗日戦争のさなかにできた抵抗の歌。
Eクラスは、伝統的に、各年次の連携が密だった。授業が始まる前に、キャンパス内の同窓会館で2年生の世話でオリエンテーション合宿があり、この歌の歌詞や曲はその合宿で覚えたものだった。当時、国交のない中国だったが、その国の国歌を歌うことに何の抵抗感もなかった。
続いて、C(フランス語)クラスが、フランス国歌「ラマルセイエーズ」をフランス語で歌った。これも、義勇軍の歌だ。この歌を口にすることに、何の抵抗もあろうはずもない。
最後に、A(ドイツ語)クラスが、多少の協議の時間があって「ボクたちも国歌を歌います」と、立ち上がった。ドイツといえば西ドイツのことだろうが、その国歌は知らない。いったいどんな曲かと聞き耳を立てたら…、彼らは厳かに「キミガァーヨォワ…」と唱い始めた。真面目くさっての君が代斉唱の一くさり。満場大爆笑で、これが当日のハイライト。一番ウケた演し物となった。
随分昔のことだが、なぜ、みんなあんなに笑ったろう。あんなにウケたろう。当時の学生にとって、君が代は、大学や学生生活に、あまりにも不釣り合いで、表に出てくるものではなかったのだ。そんなものが突然出てきた意外性が、洒落にもなり、ユーモアとも感じられたのだ。少しでも、君が代を神聖な歌とする雰囲気があれば、爆笑にはならなかっただろう。何の存在感もない、何の肯定的評価もありえない「君が代」であればこそ、真面目くさって唱ってみせることが、その落差ゆえに爆笑を誘った。
中国国歌、フランス国歌は、真面目に歌い聞く雰囲気。「君が代」は不真面目にしか唱いようがなかったということなのだ。それが、当たり前の時代だった。
さて、今、あの頃の気持ちで「起来! 不愿做奴隶的人?!」「前?! 前?! ?!」と唱う気持には到底なれない。あの頃の仲間が集まっても唱うことはないだろう。洒落にもならない。もちろん、「君が代」も同様である。
いま、国旗・国歌(日の丸・君が代)を強制される都立校の教員の訴訟を担当して、17年に及ぶ。唱いたくない歌を、むりやりに唱えと命令される不条理をあらためて噛みしめる。
(2020年10月31日)
本日の東京新聞「こちら特報部」の記事が、実によくできている。説得力十分。明日(11月1日)の「大阪市廃止の住民投票」の重要な資料だ。惜しむらくは、投票までに、この記事に目を通す大阪市民がどのくらいいるだろうか。
見出しだけでも、この迫力。ほぼ事態を把握できる。
大阪都住民投票ギリギリでゴタゴタ
維新流不穏な火消し
「行政コスト218億円増」市試算に「捏造」
市長指摘で財政局長が謝罪
職員、報道に責任すり替え
国会代表質問でも筋違いの反論
専門家冷ややか「情報開示を怠った市長こそ問題」
リードは下記のとおり。
大阪市を廃止し四特別区を設置することの是非を問う住民投票は一日投開票される。だが、直前になってドタバタが。市当局が出した「廃止なら年間200億円分の財政コスト増」との試算に松井一郎大阪市長が激怒。市財政局長が「捏造だった」と謝罪会見をしたのだ。維新側は、国会の代表質問まで利用して火消しに必死だが、この不穏すぎる状況の背景には何があるのか。
以上の見出しとリードで、何が問題となっているかがわかるだろう。そして結論が、以下の「デスクメモ」だ。
「松井市長は特別区の収支は黒字になるとしてきた。それだけに、年二百億円もコスト増になるという試算は、許せなかったのだろう。だからこそ、市財政局長に「捏造」とまで言わせて謝罪させたということか。だが世間には、その強列な火消しぶりの方が目に焼き付いたはずだろう。」
つまりは、仮に住民投票の結果、大阪市廃止が実現するようなことがあれば、財政コスト増が生じる。その額は現状に比較して年間218億にも達するというのだ。素人の算定ではない。プロ中のプロと言ってよい大阪市財政局の試算なのだ。この試算が絶対ではないことも、記事には書き込まれているが、「有力な試算」であることには疑問の余地がない。
問題は二つある。一つは、このような有力な「大阪市廃止のデメリット」に関して、提案側が責任ある説明を回避していること。【専門家冷ややか「情報開示を怠った市長こそ問題」】という見出し。大阪市民に、「大阪市廃止の是非判断に関する情報」が提供されていないのだ。市民は、「廃止のメリットとデメリット」の両者を比較して賛否を決める。ところが、市長から市民へは、「メリット情報だけが伝えられ、デメリット情報は隠匿されているのだ」。住民投票の主役は、投票する市民でなければならないが、実態は市長が諮問を操作しているのだ。東京新聞の記事は、そのことをよく抉り出している。
問題のもう一つは、「維新流不穏な火消し」の見出しに見られる、情報操作の強引なやり方である。なりふり構わぬ手口に。局長を恫喝して試算を撤回して謝罪させ、国会代表質問でも筋違いの反論をぶち上げる。その体質を問題としている。
不利な情報の隠匿・改ざんは、まるでアベ政権なみだ。その点では同様の体質。しかし、アベは、下僚に忖度をさせた。ところが維新には、下僚が忖度してくれない。そこで、強権発動となる。東京新聞の記事は、これに怒っている。怒りが、立派な記事の原動力だ。
「一般的に、住民が多ければ多いほど行政の仕事は効率が上がり、一人当たりのコストが割安になる。大阪都構想は現在の市を四つの特別区に分割する。では、現在の人口を四分割して試算するとどうなるのかー。毎日新聞記者のそんな取材に応じ、市が『スケールメリツトを端的に表し、意味があると思って出した数字』(東山局長)だった。」が、同局長は松井市長の逆鱗に触れ「あり得ない数字だろ、虚偽だろ」と指摘されて、メディアに対して「捏造だった」とまで言わせられたのだ。
記事中のコメンテーターの言が良い。
政治評論家の森田実氏は「国民の負託を受けた国会議員が大阪の問題を(代表質問で)長々と弁ずるのはナンセンス」とばっさり。馬場氏が毎日新聞批判をしたことも「住民投票で形勢が悪くなりそうだとなると、維新の延命のために国会でデタラメをいう。国会議員としての誇りも品もない。辞職すべきだ」と痛烈に批判する。
都構想問題に詳しい立命館大学の森裕之教授(地方財政学)は「四特別区への分割は例えるなら、一家四人の暮らしから、一人一人が家を持つようなもの。教育や福祉などの標準的な住民サービスを維持するためのコストは増えるが、増加分に対する国の補助はない。それで二百億円増加というわけだ。当局の試算も毎日の報道もその限りでは間違っておらず、松井氏の印象操作ははなはだしい」と憤る。森氏も同様の試算を他の研究者ど進めており「政令市でなくなることで減るコストも数十億円分あり、それを合算するとコスト増は二百億円を下回りそうだ」という。だが、「そもそも財政状況がどう変わるかきちんと試算するのは市長の責任。それを怠った松井氏の怠慢こそが問題だ」と話す。
「維新側のなりふり構わない姿勢は異様だ。東山局長の謝罪会見を聞いたジャーナリストの吉富有治氏は「森友学園」をめぐる公文書改ざん問題が重なったという。「松井市長の言い分が正しいと仮定するなら、職員の過ちの責任は松井氏にあり、市民への背信として松井氏がまず謝罪すべきなのに、部下をねじふせて『誤った考えに基づき試算した』とまで言わせた。メディアや職員に責任をすり替え、都合の悪い情報はうそをついてもつぶす。自らを責任のらち外に置き、敵をつくって批判しては勢力を広げてきたのが維新のやり方。今回も賛成多数となれば『勝利』と、なりふりかまわぬその手ロが国政に広がる可能性がある。まゆにつばをつけて警戒すべきです」
厳しいが、全て同感である。明日の投票の結果に期待したい。
(2020年10月30日)
私の母方の祖父は赤羽幹という人だった。南部盛岡は八幡町の人。2男4女をもうけたが、早くに妻を亡くし、子のうち2人を養子にやって、男手で4人の子を育てたと聞いている。
その祖父が晩年に、大阪の郊外に住んでいた次女(私の母・光子)の家族を訪ねてきたことがある。2週間も逗留したろうか。当時、私は中学生だった。私も盛岡生まれだが、5歳のときには盛岡を出ているから、祖父とは初対面といってよい。このときの祖父との会話を、ときどき懐かしく思い出す。
父が祖父を歓待した。祖父が一番喜んだのが、大相撲大阪場所の見物。吉葉山・栃錦・鏡里という人気力士の時代。祖父は、「オレはハア、もうすぐ死ぬんだ。冥土の土産だ」と口にした。
若い頃は気性の激しい人だと聞かされたが、80に近くなった当時、そんなふうには見えなかった。あまり自分を語らず、少年だった私の話を面白そうによく聞いてくれた。当時、私は地元中学校の生徒会長で、学校新聞を作って、学校放送を担当して、相撲部で活躍もしていた。話のタネは無数にあった。
何が切っ掛けだったか、私はテンノーについてしゃべった。当時私は特に天皇について関心が深かったわけではない。私の身近には天皇を犯罪者と呪詛する人も、その反対に天皇を崇拝する人もいなかった。敗戦以来10年余という当時の時代の空気に染まっていただけであったろう。
私はテンノー(裕仁)とは、「あっ、そう」としか話のできない人だと思っていた。テンノーと言えば、まず連想するのは「あっ、そう」であった。これは、活字の情報ではない。誰か年長者から教えられたことだと思う。そして、「戦争に負ける前は、あの猫背のおっさんが神さんだったんやて」という遠慮のない揶揄。当時の中学生の目には、天皇の神聖性などカケラも感じられなかった。
私がなんとしゃべったかはよく覚えていない。しかし、当時私の口はよく回った。こざかしくテンノーの愚かさを嘲笑し、テンノーが多くの人を不幸にした敗戦の責任を取ろうとしない卑怯を責め、今の世の人がそれを許していることの不条理を嘆いて見せた、のだと思う。
私は、得意になって正論を吐いたつもりだった。ところが、祖父は驚くべき反応を示した。目にいっぱい涙を溜めて、中学生の私を見つめ、悲しげに呟いたのだ。「天皇陛下のお蔭で、日本人は戦後も生き残った。」「天皇陛下のお力がなければ、みんな殺されていたか、みんな奴隷だ」
そのとき私は初めて、テンノーというものの不気味さと恐ろしさを実感した。以来、私はテンノーを語ることにこだわりと躊躇を感じるようになった。今、整理すれば、そのテンノーの不気味さと恐ろしさは、身近な人々一人ひとりの精神の中にもぐり込み、長く巣くって宿主を支配しているという感覚であったろう。
学生時代にマーク・ゲイン『ニッポン日記』で、民衆に囲まれた天皇の「あ、そう」の叙述を印象深く読んだ。天皇(裕仁)の口癖というようなものではなく、天皇が民衆にどう口を利けばよいのかわからなかったことが、こういう発語になったのだ。
必ずしも正確ではないが、私の記憶では、マークゲインが見たとして叙述されているものは次のような風景である。
行幸先の天皇を囲んだ物見高い群衆の何人かが何かを語りかけると、天皇は判で押したように「あっ、そう」としか言葉を返さない。どんな切実な語りかけに対しても、「あっ、そう」ばかり。甲高い声で「あっ、そう」が繰り返される度に、次第に緊張していた群衆の雰囲気が変わる。人々が「あっ、そう」と口ずさんで天皇を嘲笑の対象にするようになったというのだ。
私は、憲法を学ぶようになってから、民主主義や平等原理に照らして、天皇について考えるようになった。そして、中学生の頃の天皇観をあらためて正しいものと再確認した。それとともに祖父のことを思い出す。天皇制とは恐るべきものだ。私の祖父の精神にも、潜り込み、巣くって、蝕んで、害を及ぼしていたのだから。
(2020年10月29日)
本日の衆議院本会議。共産党の志位和夫が代表質問に立った。日本学術会議会員任命拒否問題での切り込みは実にみごとだった。誰が起案するのかは知らないが、分かり易く具体的に問題点を浮かび上がらせた質問内容は秀逸。志位の気合いも十分だった。
これに対して、スガ答弁のお粗末はこの上ない。誰が起案するのかは知らないが、よくもまあ、こんな支離滅裂な情けない原稿を作るものだと呆れる。その説得力のなさが志位質問における任命拒否違法の指摘を際立たせることとなった。もしかしたら、スガ答弁の起案者はスガに、ひそかな怨みをもつ人物ではないかとさえ思わせる。
国民の誰もが、この質疑答弁をじっくりと視聴すべきだと思う。スガの言い分の破綻は、誰の目にも明白ではないか。こんな、いいかげんな人物に国政を任せておくことはできない。そう、みんなが思うだろう。
お粗末な原稿を棒読みして恥じないことで、「菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見した」と言ってよい。川勝平太静岡県知事が言ったとおりだ。
もっとも、「教養」も「教養のレベル」も、突き詰めて考えればその定義は難しい。もちろん、教養とは学歴でも知識の量でもない。人間の生き方や精神の在り方の問題である。人類が積み上げてきた叡智に謙虚な態度とでもいうべきであろうか。
「思想・良心の自由」、「表現の自由」や「学問の自由」が、どのように個人や社会に必要なもので、どのような運動を経て獲得されてきたのか。学術会議の独立や自由がなぜかくも重要なのか、スガ答弁にはその理解が欠けているのだ。これをもって、「菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見した」と私も思う。川勝平太はこの言を撤回したようだが、本日のスガ答弁はあらためて、スガの教養のレベルを露わにした。
昨日の衆院本会議では、スガに対して「独裁者」という野次が飛んだ。「独裁」「強権」「説明拒否」「支離滅裂」「答弁原稿棒読み」は、教養とは正反対の姿勢であり評価である。また、川勝は、こうも言っている。
「ともかく、おかしなことをしたと思うが、周りにアドバイザーはいるはず、こういうことをすると、自らの教養が露見しますと、教養の無さが、ということについて、言う人がいなかったのも、本当に残念です」
「本当に残念です」を除いて、まったく同感である。まずは任命拒否が「やってはならない、おかしなこと」なのだ。その認識を欠いたスガに、「周りにいるはずのアドバイザー」たちは、なぜ適切なアドバイスをしなかったのだろう。そして、本日のお粗末なスガ答弁の原稿。これが、「優秀な官僚」たちが鳩首相談して練り上げたものだろうか。結果として、国民にはスガの、精神的自由に関する理解の欠如、「教養の無さ」が強く印象づけられた。
早くも、「菅義偉という人物像」が露呈している。菅義偉、こんな人物を我が国の首相にしておいてよいものだろうか。
(2020年10月28日)
臨時国会は、本日からスガ総理に対する代表質問の始まりである。これを報じる主要各紙の見出しは、首相答弁が学術会議新会員任命拒否の理由を説明していないことに、最大の関心を寄せている。もっとも、何かしら理由を語ったとの印象を与える見出しの記事もある。
首相、学術会議の任命理由「答え差し控える」 代表質問(朝日)
学術会議、人選見直し必要=任命拒否の理由明かさず―代表質問で菅首相(時事)
菅首相、任命拒否「私が判断 変更しない」 学術会議問題で初論戦(東京)
菅首相、就任後初の代表質問 学術会議「多様性確保で判断」(産経)
代表質問トップバッター、立憲・枝野幸男の質問は気合い十分だった。学術会議問題だけでなく、スガの貧弱な国家観を衝いて、自らの政治の理想を語った。明確に「新自由主義」を非難して、「共生」の理念を語ったことが印象的だった。これに対するスガの答弁の貧しさは、これが我が国の首相の言かと恥ずかしいほどに貧相なものだった。与党の議員は、スガ答弁を何と聞いたろう。
枝野は、任命を拒否された学術会議会員候補6名について、「総理自身の判断ではないのか。誰がどんな資料や基準をもとに判断したのか。任命しなかった理由は何なのか」と切り込み、その上で「一刻も早く6名を任命して、違法状態を解消する以外、この問題の解決はあり得ません」と強調した。
これに対するスガ答弁に新しいものはなかった。
A まずは、「憲法第15条第1項は公務員の選定は国民固有の権利と規定している」「だから、必ず推薦通りに任命しなければならないわけではない」。これが「内閣法制局の了解を得た政府としての一貫した考え」。
B その上で、「個々人の任命の理由については人事に関することで答えを差し控える」と改めて説明拒否を正当化した。
C さらに、任命にあたり「総合的・俯瞰的な活動、すなわち、専門分野にとらわれない広い視野にたってバランスのとれた活動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきということ、さらにいえば、たとえば若手が少なく、出身や大学にも偏らないことも踏まえて多様性を念頭に、私が任命権者として判断を行ったものだ」とした。
詰まるところは、任命拒否の理由は以下のA・B・Cである。
A(憲法15条1項を論拠とする任命義務否定論)
B(人事問題だからとする、説明責任免責論)
C(総合的・俯瞰的な諸理由)
この問題が表面化したのは10月1日。以来、官邸官僚は、どう辻褄を合わせるか知恵を絞ってきたはずである。そして、最も注目される場で、この程度のことしか言えなかった。おそらく今後は、このABCをめぐる論争に集約されることになる。注意すべきは、このABCとも、スガ側の防御線だということだ。防御線には後がない、破られれば総崩れだ。
A(憲法15条1項を論拠とする任命義務否定論)は、「全ての公務員人事には、内閣総理大臣の任命諾否の自由な裁量にまかされている」という、粗雑で幼稚な議論である。「国民固有の権利」は、決して、そのままに「内閣総理大臣固有の権利」ではないのだ。法が定めるそれぞれの公務員の在り方によって、総理大臣の裁量がある場合もあればない場合もある。当然のことだ。スガは「内閣法制局の了解」があると言い添えたが、片腹痛い。アベ政権下で、トップの人事を入れ替えられて、集団的自衛権を合憲化する解釈変更を容認した、あの醜態を天下にさらした内閣法制局である。今や、何の権威付けにもならない。
B(人事問題だからとする、説明責任免責論)は、実は何の根拠もない。床屋談義のレベルの主張と言って差し支えない。曲がりなりにも、Aについては、憲法15条が引用されていたが、Bについては、憲法や法律上の根拠として示されていいるものはない。「個々人の任命拒否の理由」について、「人事に関することだから説明責任は免除」という理屈はあり得ないのだ。公務員人事が、政権の恣意に任されてよいはずはない。しかも、これまでの法解釈を一方的に変更しての任命拒否である。説明責任を負うべきが当然である。仮に、プライバシーに関する理由があるとすれば、少なくも本人には説明しなければならない。民主主義の根幹を揺るがすほどの行政の行為に説明責任の放棄を許してはならない。
C(総合的・俯瞰的な諸理由)とは、いずれも、取って付けたごとくの枝葉の議論に過ぎない。
C1 「国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべき」とは、なんたる傲慢、なんたる屁理屈。むしろ、「法にもとづいて国の予算を投じる機関の任命人事には、法の趣旨を正確に生かして恣意を許さず、透明性を確保することを通じて、国民に理解される政権であるべき」と反省するべきなのだ。
C2 「たとえば若手が少なく、出身や大学にも偏らないことも踏まえて多様性を念頭に判断」は、任命拒否に論理的に結びつかない。理由らしい理由となっていないのだ。後付けの理屈だが、この程度のことしか言えないと言うことに意味がある。また、この理由を朗読したスガは明らかに法に目を通していない。日本学術会議法17条は、「日本学術会議は、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考…」と明記する。会員候補の選考基準は、「優れた研究又は業績がある科学者」のみであってほかはない。スガは、敢えて違法な選考基準を持ち出している。何かしゃべれば、違法を積み重ねることになるのだ。
(2020年10月27日)
A この8年近く、アベ政権の愚劣さ醜悪さにはほとほとウンザリだった。8月末にようやく幕引きとなって、少しはまともな新政権誕生かと期待したが、結局はアベ承継内閣の成立だという。なんということだ。
B まったく同感だ。これまでの自民党政権は、振り子のように政策の交替を繰り返してきた。ダーティ極まるアベ政権が終わったらクリーンなイメージに転換するかと思いきや、これまでアベ政権を動かしてきたスガが首相とは驚いた。操り人形が捨てられて、人形使いが表舞台に姿を現したという印象。「アベ・スガ政権」と一体のものとして捉えるしかないね。
A しかも、政権発足直後に、早くも日本学術会議人事に対する介入事件。これは、ひどいね。この強引さ、この説明拒否の頑なさは、アベ以上のものではなかろうか。
B スガはアベ承継内閣と自称しているが、強権性やあくどさはスガの方が強いのかも知れない。「スガはアベより出でてアベよりも奸佞」な印象をもたざるを得ない。
A スガが敢えてした学術会議の推薦会員任命拒否、この事態の重大さをいったいどう捉えたらいいのだろうかね。
B いったい、今の時代にあることなのかという、とても不気味な感じがする。
1925年の治安維持法制定以来、国体思想・皇国史観は異論を許さないものとなっていった。1930年代には、さらに極端な思想弾圧事件が続いた。一口に言えば、中国への侵略戦争の深刻化とともに、国家が国民にたいする思想統制を深化し、さらに大きな戦争の準備をした。スガ政権のこの強引な権力的やり口に、当時を想起せざるをえない。
A 天皇制政府が、国体思想・皇国史観で国民精神を一色に染め上げるために、教育もメディアも宗教も支配したことは周知の事実だ。それとならんで、科学や学問の統制にも異常に熱心だった。主なものだけでも、京大の滝川事件、東大美濃部達吉の天皇機関説事件、そのあとの矢内原事件、河合栄治郎事件、津田左右吉事件などと続く。あの時代のことは現代とは断絶した過去のもので、繰り返されることなどあり得ないと思っていたけどね。
B いずれの事件も、他の研究者に対する恫喝効果は十分で、官許の学問しか許さないという天皇制政府の思想統制は成功したと言ってよいだろう。津田左右吉の古代史に関する著作4冊が発売禁止となったのが、1941年の2月。津田と出版元の岩波茂雄が、出版法違反で起訴されたのが3月だ。出版物が「皇室ノ尊厳冒瀆」に当たるということでの起訴だった。この辺りで、思想統制は完成し、この年の12月に太平洋戦争が始められている。研究者も戦争協力を強制された。
A 今、そんな時代の再来を心配をしなければならないのだろうか。
B もちろん、すぐにそうなるとは思わない。しかしね。日本は天皇制権力による思想統制を反省して戦前を清算したはずだった。戦後日本の政権は権力行使に謙抑的でなくてはならず、国民の思想・信条・良心に踏み込んではならない。それが当たり前のことだった。その当たり前が、当たり前ではなくなったことに衝撃を受けざるを得ない。戦後民主主義が崩れていく、という不気味さだ。
A そうだね。学術会議は戦前を反省して1949年に、政府からの「独立」を金看板に設立された。学術会議法にも「独立して職務を行う」と明記され、設立総会では、当時の吉田茂首相が、学術会議を「国の機関ではありますが、その使命達成のためには、時々の政治的便宜のための制肘を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておる」と祝辞を寄せているそうだ。政府の意のままになる機関としてなら、存在意義はない。
B 学術会議法の前文には、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」とある。学術会議は「平和のための学術」を目指した組織であって、「平和のための学術」には「政府からの独立」が不可欠と考えられていたわけだ。
A そうか。吉田茂の言質は投げ捨てられて、スガは学術会議の「政府からの独立」を崩壊させようとしている。それは、「平和のための学術」が邪魔になったからだというわけか。
B 法的には、思想・良心の自由や、学問の自由の侵害が問題にされるが、実は「平和のための学術の独立」が標的とされているということが、問題の本質ではないかと思うんだ。
A なるほど、10月23日に、櫻井よしこら右翼が、産経・読売に掲載した意見広告がこう言っている。
「学術会議は、連合国軍総司令部(GHQ)統治下の昭和24年に誕生しました。…日本弱体化を目指した当時のGHQは学術会議にも憲法と同様の役割を期待したのでしょう。会議はこれに応えるように「軍事目的の科学研究は絶対に行わない」との声明を何度も出してきました。憲法も学術会議も国家・国民の足枷と化したのです。」
学術会議は、「軍事目的の科学研究は絶対に行わない」という、その姿勢が、政権や右翼から叩かれているということなんだ。
B そもそもこんな露骨なことを、政権が表立ってできる時代になってしまったかと慨嘆せざるを得ない。こんなことが2度とないようにという戦後民主主義だったはずだが、アベ・スガ政権がこれを骨抜きにしようとしている。
A 右翼の意見広告も、「日本を否定することが正義であるとする戦後レジームの「遺物」は、即刻廃止すべきです。国家機関である日本学術会議は、その代表格です。」と言っている。人権も民主主義も平和も、右翼や政権から見れば「日本を否定すること」で、戦後レジームの「遺物」なのだ。いま、この問題を機に、政権と右翼が日本国憲法体制を押し潰そうとしているのではないか。
B こんな政権の理不尽を許す世の中の雰囲気が心配だ。戦前においても、決して裸の権力が暴走して左翼やリベラルを弾圧したというわけではない。むしろ、右翼の跳梁や、新聞論調に煽動された民衆の声に乗せられた形で官憲が動くという構図の方が一般的だった。今、学術会議に対する政権の攻撃に呼応した、右翼メディアや右翼言論人による、デマ宣伝や論点すり替えの発言が目に余る。この景色が、薄ら寒い。
A 確かに、真っ当な言論と政権ゴマすり言論との、分断と角逐が激しい状況になってきているね。政権寄りの意見を言うのは安全だけど、政権批判の発言には覚悟が必要な時代になっているという印象は僕にもある。
B 今、マルティン・ニーメラーの詩を引用する人が増えている。アベスガ政権のやり口にナチスにも似た不気味さを感じているからだ。
A ナチスとたたかった、あの牧師の詩だね。今、噛みしめてみる必要がありそうだ。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった