私が出会った弁護士(その4) ― 戸田謙
戸田謙さんは、私が師事した弁護士である。本当にお世話になった。
私は1968年の司法試験に合格した。あれから、ちょうど50年になる。翌69年3月末に在学満6年の大学を中退して、翌4月最高裁司法研修所に第23期司法修習生として採用され、71年3月まで2年間の司法修習を受けた。そして、いわゆる「司法反動」真っ盛りの71年4月に司法研修を終了して弁護士になっている。
当時の司法修習は有給で、修習専念義務は当然のことと受け入れた。カリキュラムの過密を意識することはなく、現役の裁判官・検察官・弁護士から成る教官たちは、真摯で至極真っ当な法感覚の持ち主だった。その人たちが、後輩法曹をあるべき姿に育てるようとしている情熱に敬意をもった。
当時各年500人の司法修習生は、2年間の修習期間中に、どの分野に進むかどのような法曹になるかを十分に考る機会を与えられ、自主活動も活発で余裕のある2年間だった。
司法修習は、司法研修所に集合しての前期研修から始まり、その後1年6か月全国各地に分散しての実務修習を経て、再び司法研修所での後期研修で終了する。最後に、卒業試験に相当する「二回試験」の合格をもって、弁護士・裁判官・検察官の法曹資格を得ることになる。
私の実務修習地は東京だった。配属弁護士会は第二東京弁護士会。このとき、その後二弁会長となる戸田謙弁護士が私の修習指導担当となり、4か月間西新宿の戸田謙法律事務所に通った。たまたま、戸田さんも私も西武新宿線野方駅の近くに住んでいて、よくご自宅にお邪魔もした。
戸田さんを語るには、その容貌に触れざるを得ない。顔面に大きく痛々しいケロイドあった。右手も左手も火傷の跡、指が十分に動くはずはなかった。大きな事故に遭遇した人であることが、一目瞭然であった。戦時、戸田さんは陸軍機のパイロットだった。浜松の陸軍飛行場で、終戦間際に乗機ごと炎上の事故に遭い、当然に死亡したものとして死体置き場に安置されて一晩を過ごしたという。翌日、息のあることが判明して治療を受け、一命を取り留めたと聞かされた。乗機の炎上が、戦闘による被弾だったか訓練中の事故によるものか、聞いたはずだが失念している。なにせ50年前のことだ。
奥様が、昔の写真を取り出して「事故の前は美男子だったのよ」と言っておられた。なるほど、そのとおりだった。戦後、復員した戸田さんは、東京帝大法学部に入学する。一見して負傷兵と分かる風貌は学内で目立つものだったようだ。ある授業の時に、教授が講義を中断して、戸田さんに負傷したときの様子を語らせた。そして、「将来は新生日本のために働きたい」という戸田さんの言に感動して、「今大学は、君のような学生が学問をするためにこそある」と言ってくれたという。
戸田さんは、卒業後弁護士となって、日教組弁護団員として活躍する。地方公務員労働組合のストライキに対する刑事罰からの解放や、教育権をめぐる訴訟にスポットライトが当たっていた時代のことだ。また、青年法律家協会の設立メンバーの一人にもなった。思想的には、日本社会党左派の支持者だった。そのせいもあってか、自由法曹団には縁がなかった。
労働事件だけでなく、行政事件も多く手がけておられたようだった。日教組弁護団員として各地の事件を受任していたのだから、当然に関連した依頼があったのだろう。何がきっかけだったか、「澤藤君、地方自治法の住民訴訟に、『怠りたる違法の確認』という訴訟形態があることを知っているかね」ときかれた。「いやまったく存じません。そもそも住民訴訟について殆ど何も知りません」。「地方自治法242条の住民訴訟の類型の中に、『怠りたる違法の確認』というものがある。めったに使われないが、おそらく私が始めて実務で使った。盛岡地裁でのことだ」と、楽しそうに話しをしてくれた。戸田さんの話は、いかにも受任事件を楽しんでいるという雰囲気に満ちていた。後年私は盛岡地裁で、岩手靖国訴訟を住民訴訟として闘うことになる。
戸田さんは、他のだれよりも早い時間に事務所に出て、独り起案をしていた。その訴状や準備書面・弁論要旨などは、独特の文体だった。「キミ、この件書いてみないかね」と言われて、いくつか書面の起案をしている。毎回、「キミは若いのに、えらく堅苦しい文章を書くんだね。研修所はそんな文章の書き方を教えているのかい」と、ご自分で書き直していた。戸田さんの文章は、自由闊達なのだ。「どうしたら、裁判官を説得できるか」だけが問題なのだという。
一度だけ褒められたことがある。戸田さんは、著名なペット雑誌の「ペットにまつわる法律相談」欄の連載を執筆していた。「こんな質問がある。澤藤君、書いてみないか」と言われて2編ほど書いた。私は学生時代に、原稿リライトのアルバイトを長くやっていた。依頼主の要望に沿った文章を所定の字数で書くことは苦にならなかった。私が書き上げた原稿は、ほぼそのまま雑誌の活字になった。「キミ、裁判所に出す文書以外なら、よいものを書けるじゃないか」というのが、お褒めの言葉だった。
その戸田さんが、1956年2月10日に、衆議院で参考人として意見を述べている。「公職選挙法改正に関する調査特別委員会」で、選挙運動の公正と自由について語っているのだ。肩書は、「日本教職員組合顧問・弁護士」である。その長い意見の冒頭だけを引用しておきたい。戸田さんらしい、明晰で分かり易い語り口の一端。
私は弁護士の戸田謙と申します。…日ごろわれわれ若い者が考えておる選挙というものに対する考え方を若干述べさせていただきまして、あと、そういう観点から、今日の改正案に対する部分的な意見を述べさせていただきたいと思います。
近年、金のかからない選挙とか、あるいは政界の浄化、腐敗の防止、こういうことが盛んに叫ばれ、これは国民の全世論であろうと私は考えております。しかし、それに沿った選挙法の改正というものがいつできるであろうか、私はいつもそういう観点からながめておりますが、今回の改正案を拝見させていただきますならば、それに一歩近づいたと見られる点もございますけれども、逆行したと思われる点もあると思うのであります。私が申すまでもなく、選挙というものは公正が第一の眼目でなければならないと思います。そのためには、選挙の運動その他の選挙の要素というものは、言論闘争一本、これに徹底できるような選挙法でなければならない。これが本来の理念であろうと思います。しかし、にわかにその段階に達し得ないといたしましても、その根本的な理念に沿った法律改正が進められるべきものであると考えます。民主主義を根本原則とする憲法、その憲法に基いて保障された政治に参加する権利、代表を選ぶ権利、こういうものを行使する権利並びに義務を持っている国民が、また憲法で保障しているところの言論の自由、表現の自由、思想の自由、そういう最大の基本的人権を駆使して、言論闘争一本によって選挙が完遂される、こういう時代が来ること、われわれとしては望んでおるわけであります。
そういう精神から考えますならば、選挙の手段としましては、言論闘争以外の要素は極力排除すべし、すなわち金力による選挙が行われやすいような法規は改正すべし、そういう基本理念によって法律が変えていかれなければ、いつまでたっても進歩はないと思います。そういう私の考え方を貫くならば、本来選挙の完全公営ということが理想であることは言うまでもありません。しかし、それは現段階では無理なのでありましょうが、そういう理念から考えますと、今回の細部の改正案を拝見しまして、いろいろ問題点があろうかと思います。…
私は本郷に転居して以来、近所の歯医者さんにお世話になっている。ある日、その歯医者さんが、「澤藤さん、戸田謙先生とお知り合いだそうですね」と言う。やや驚いたが、「戸田先生とは、同じカントリークラブでよく、一緒にコースをまわる仲なんですよ。」とのこと。そういえば、修習中に、「キミはゴルフをやらんのかね」と聞かれたことがある。「私はゴルフは嫌いです。自然破壊の最たるものですし、キャデイにバッグをかつがせて歩くという文化にもなじめない」と答えると、「そう、杓子定規に考えなくてもいいんじゃないか。ゴルフは面白いよ」とおっしゃる。
戸田謙さんは工夫と修練を重ね、あの障害を克服してゴルフを楽しんでおられた。ボウリングにも挑戦されていたという。脱帽するしかない。
いつか訪ねていかなくてはと思いつつ、その歯医者さんから、「実は、先日戸田先生が亡くなられました」と教えられた。逝去の日は、2005年3月26日。その後、その歯医者さんも亡くなられ、今はお嬢さんが跡を嗣いでいる。
戸田謙さんは私が師事した弁護士である。お世話になりながら、生前十分に御礼を述べる機会を失ったことか悔やまれてならない。
(2018年10月3日)