60年前の伊達判決に、独立した裁判官像の原型を見る。
60年前の今日、1960年1月19日に「新」日米安保条約が調印された。この条約批准に反対する国民的大運動が「安保闘争」である。高揚した国民運動に岸信介政権と自民党は議会の数の力で対抗した。
5月19日衆議院での会期延長強行採決が国民に大きな衝撃を与え、翌20日衆院での条約批准の単独採決が火に油を注いだ。対米従属拒否の安保闘争は、議会制民主主義擁護の運動ともなった。同年6月が、「安保の季節」となって、全国の津々浦々に「アンポ・ハンタイ」「キシヲ・タオセ」の声がこだました。参院での議決ないままの6月19日自然承認で新安保条約成立となったが、国民的なひろがりをもった大運動が遺したものは大きかった。私は、安保後の世代として学生生活を送り、学生運動や労働運動の熱冷めやらぬ70年代初頭に弁護士となった。
よく知られているとおり、60年安保闘争には、その前哨戦として砂川基地建設反対闘争があり、裁判闘争としての砂川刑特法刑事事件があった。59年12月の最高裁砂川大法廷判決が、安保条約を合憲として在日米軍駐留を認め、同時に司法のあり方についての基本枠組みを決めることにもなった。
砂川大法廷判決と、この判決を支えた司法の枠組みは、日本の対米従属という政治的な基本構造の憲法解釈と司法のありかたへの反映である。そのような事情から、政治的基本構造における「安保後60年」は、安保が憲法を凌駕する「二つの法体系」の60年でもあり、「日本型司法消極主義」の60年ともなった。
言うまでもなく、主権国家の憲法は、最高法規として一国の法体系の頂点に位置する。敗戦以来占領下にあった日本は、1952年4月28日の独立をもって主権を回復した。これに伴い、日本国憲法は、施行後5年を経て占領軍政の軛から脱して最高法規となった。しかし、日本国憲法の最高法規性は形だけのものに過ぎなかった。そのことを深く自覚させられたのが、砂川事件における最高裁大法廷判決であった。
「憲法 ― 法律 ― 命令 ― 具体的処分」という憲法を頂点とする法体系のヒエラルヒーに対峙して、「安保条約 ― 行政協定(現・地位協定) ― 特別法」という矛盾する別系統の安保法体系があって、この両者が激しく拮抗しており、事実上安保法体系は憲法体系を凌駕し、あるいは侵蝕していると認識せざるを得ない。これが、主唱者長谷川正安の名とともに知られた「二つの法体系論」である。
この二つの法体系論は、砂川基地反対闘争におけるデモ隊の米軍基地への立ち入りを、「刑事特別法」(「日米安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法」)違反として起訴したことによって、あぶり出された。
砂川闘争は北多摩郡砂川町(現・立川市)付近にあった在日米軍立川飛行場の拡張反対を巡っての平和運動である。闘争のバックボーンには、憲法9条の平和主義があった。再び、あの戦争の惨禍を繰り返してはならない。そのためには、軍事力の有効性も存在も否定しなくてはならない。日本国憲法が日本の戦力を保持しないとしながら、軍事超大国アメリカの軍隊の駐留を認めるはずはなく、その軍事基地の拡張などあってはならない。これが当時の国民的常識であったろう。
57年7月8日、東京調達局が基地拡張のための測量を強行した際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入った。このことをとらえて、デモ隊のうちの7名が刑事特別法違反として起訴された。
こうなれば、当然に刑特法の有効性が争われることになる。行政協定(現・地位協定)と安保条約そのものの違憲性も問われることになる。それを承知での強気の起訴だった。徹底した平和主義を理念とし、戦力を持たないと宣言した9条をもつ日本に、安保条約に基づく米軍が存在している。誰の目にも、違憲の疑いあることは当然であった。
それでも検察は、安保合憲・米軍駐留合憲を当然の前提として、敢えて刑特法違反での強気の起訴をしたのだ。その法理論の主柱は、憲法9条2項が禁止する「陸海空軍その他の戦力」とは、日本政府に指揮権がある実力部隊に限られ、米駐留軍は含まない、とする解釈論だった。
この刑事被告事件には、対照的な2件の著名判決がある。東京地裁の伊達判決(59年3月30日)と、跳躍上告審における最高裁大法廷砂川判決(同年12月16日・裁判長田中耕太郎)とである。
一審東京地裁では、検察の強気は裏目に出た。主権国家における日本国憲法の最高法規性を当然の前提として、日本国憲法体系の論理を貫徹したのが、砂川事件一審伊達判決であった。59年3月30日、伊達裁判長は、起訴された被告人全員の無罪を宣告する。その理由の眼目である憲法解釈は以下のとおり、分かりやすいものである。
「わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無、合衆国軍隊の出動義務の有無に拘らず、日本国憲法第9条第2項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるを得ない.」「合衆国軍隊の駐留が憲法に違反し許すべからざるものである以上、刑事特別法第2条の規定は、何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第31条に違反し無効なものといわなければならない。」
これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告し、舞台は東京高裁の控訴審を抜きにして最高裁に移った。そうしたのは、日米両政府に、急ぐ理由があったからだ。60年初頭には、新安保条約の調印が予定されていた。安保条約を違憲とする伊達判決は、なんとしても59年の内に否定しておかねばならなかったのだ。こうして、最高裁大法廷は同年12月16日判決で、米軍駐留合憲論と、統治行為論を判示した上で、事件を東京地裁に差し戻す。
最高裁では破棄されたが、伊達判決こそは、政治支配からも立法権・行政権からも、そして最高裁の司法行政による支配からも独立した下級審裁判官による判決であった。
憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定める。伊達判決を言い渡した3人の裁判官は、まさしく憲法のいう独立した裁判官であった。「法と良心」に従って忖度なしの判決を言い渡したのだ。このような硬骨な裁判官の存在は、政権にも最高裁上層部にも衝撃だった。望ましからざることこの上ない。
以後、最高裁は下級審裁判官の統制を課題として意識し、国民運動のスローガンは、「裁判官の独立を守れ」というものとなった。昨日のブログで取りあげた、伊方原発運転を差し止めた広島高裁の3裁判官も、60年前における伊達コートの後輩である。最高裁司法行政からの統制圧力と、国民運動による裁判官独立激励の狭間にあって、呻吟しつつ良心を擁護してきたのだ。
(2020年1月19日)