澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「国を愛する心を養うべき日」に、「国を愛する心」の危険を訴える。

(2021年2月11日)
光の春のううらかな日和。ときおり吹く風にも冷たさはない。空は青く、梅が開き、寒桜も目にこころよい。ところが、えっ交番に「日の丸」? 警察署にも消防署にも「日の丸」である。あの、右翼や暴力団とお似合いの、白地に赤い丸の旗。都バスにも「日の丸」の小旗が何とも不粋。さすがに民家に「日の丸」は一本も見なかったが、上野の料亭「伊豆栄・本店」には、この不快なデザインの旗が掲げられていた。

本日は、「建国記念の日」とされている日。祝日法では、「建国をしのび、国を愛する心を養う」べき日という位置づけ。しかし、私には「建国をしのぶ」気持も、「国を愛する心」も持ち合わせていない。愛国心の押し売りはまっぴらご免だし、愛国心を安売りする人物は軽蔑に値すると信じて疑わない。だから、本日を祝うべき日とする気分はさらさらにない。

時折、「浅薄な愛国心」を排撃して、「真の愛国者の言動ではない」などと批判する言説にお目にかかる。が、私は、「真」でも「偽」でも、愛国や愛国心を価値あるものとは認めない。実は、「真の愛国心」「本当の愛国者」ほど厄介なものはないのだ。

もちろん必要悪としての「国家」の存在は容認せざるを得ない。しかし、その国家は愛すべき対象ではなく、厳格に管理すべき警戒の対象と考えなければならない。

組織としての国家ではなく、国家を形成する「国民」もまた、個人にとって愛すべき対象ではない。個人は、常に「国家を形成する集団としての国民」の圧力との対峙を余儀なくされ、ときにはその強大な同調圧力と闘わねばならない。「愛国心とは日本の国民を愛すること」なら、愛国心は、個人の主体性を奪う邪悪なものにほかならない。

愛国心とは我が国の風土や歴史や伝統を愛すること、とも説かれる。そのような心情をもっている人、もちたい人がいることは当然だろう。そのパーセンテージがどうであっても、さしたる問題ではない。問題は、価値的に「愛国」「愛国心」が説かれることだ。

「愛国心」を美徳とするイデオロギーが諸悪の根源である。美徳であるからとして「愛国心強制」を当然とする圧力が、個人の人格の尊厳を侵し、思想・良心の自由を侵害する。このような、愛国心をダシにした強権の発動は、実は他の奸悪な意図をもってのことである。

ところで、周知のとおり、本日2月11日は旧紀元節。天皇制イデオロギーによって、何の根拠もなく初代天皇の就位があったとされた日。日本書紀における〈辛酉年春正月庚辰朔,天皇即帝位於橿原宮〉という記述だけに基づいて、2700年以前もの太古に、天皇の治世が始まり、これが万世一系連綿と続いているという神話の小道具の一つとされた。

強行された事実上の紀元節復活のこの日、つまりは天皇制始まりの日との象徴的な意味をもつこの日が、「建国をしのび」だけでなく、「国を愛する心を養う」とされていることに注目せざるを得ない。つまり、愛国心が、天皇制国家と連動しているのだ。

明治の初めに小川為治『開化問答』という書物が刊行されている。その中に、旧平という名で庶民の立場から、紀元節や「日の丸」についての率直な見解が示されていて、興味深い。

「改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄のふたの開く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟や提灯を出さするは、なおなお聞こえぬ理屈でござる。元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます。」(梅田正己・「明治維新の歴史」より)

ここに、「赤丸を売る看板のごとき幟」とあるは、「日の丸」のことである。こんなものの強制は「なおなお聞こえぬ理屈」と、理不尽を述べている。

それだけでなく。「紀元節や天長節」について、「元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」とは、まことに至言である。

「天皇制と関連付けられた愛国心」ほど、恐ろしいものはない。今日「建国記念の日」は、そのことをじっくりと考えるべき日である。

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