司法の現状を改革する「希望への道筋」はどうしたら見えてくるのか。
(2021年4月25日)
昨日の「司法はこれでいいのか」の集会。テーマの一つが「希望への道筋」であった。司法の現状を「これでいいはずはない」との認識を前提に、いったいいかにすれば司法を真っ当な存在に糺すことが可能なのか。
今さら言うまでもなく、日本国憲法は人権保障の体系である。この憲法が妥当する域内において人権が侵害されるとき、被害者は司法に救済を求めることができる。司法は、侵害された人権を救済する実効性をもたなければならない。
とりわけ、人権侵害の被害が強大な国家権力によるものであった場合にも、民主主義的基礎をもつ議会によるものであった場合にも、司法は躊躇することなく、人権を回復してその使命をまっとうしなければならない。しかし、50年前石田和外(5代目長官)の時代から、あるいは田中耕太郎(3代目長官)の時代から、司法は憲法が想定する存在ではない。
大日本帝国憲法57条は、「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」と定めていた。戦前の司法は、天皇制の秩序を擁護することがその基本的任務であったと言ってよい。戦後の司法は、この体質を引き継ぎ、清算し切れていない。司法官僚制がこの体質を再生産して今日に至っているのだ。
そのような現状においても、個別の訴訟における原告や代理人弁護士、あるいは支援団体の工夫や努力によって担当裁判官の共感を得て、勝訴を勝ち取る。その積み重ねによって「希望への道筋」を見出すことができるのではないか。これが、一つの立場である。
この立場においては、人権擁護を目指す弁護士たる者、石にかじりついても個別事件に勝訴する工夫と努力をしなければならない。他の訴訟からそのノウハウを学ばねばならない。そのことによって、裁判官の心情を変え、その積み重ねで司法全体を変えていく展望も開ける、と考える。
昨日の集会のディスカッションの中で、ある弁護士からこんな意見が出た。
「裁判官を説得するとは、裁判官の共感を得ること。その共感とは、原告の立場を理解するとか、同情するとか、たいへんだなと思ってもらう程度では足りない。裁判官としての自分がこの境遇から原告を救済しなければならない、と決意させることでなくてはならない。」
このように発言できる弁護士は立派だと思う。心からの敬意を表せざるを得ない。できれば自分もそのような熱意と力量を身につけたいものとは思う。しかし、この意見には、賛否があってしかるべきだろう。弁護士の多くに、このような水準の法廷活動を求めることは非現実的ではないか。むしろ、平均的な能力の弁護士による平均的な時間と労力を使っての法廷活動で、なぜ裁判官の説得ができないのかが問われねばならない。
また、工夫と努力次第で本当に裁判所を説得できるものだろうか。厚いバリヤーがあるのではないか。天井のガラスは堅固なのではないだろうか。
また、弁護士が、専門家としての職業倫理として、個別訴訟において人権擁護の努力を傾注すべきことは当然としても、そのことによって「希望への道筋」が開けると短絡してはならないのではないか。個別の訴訟の努力と成果が、そのまま司法制度の改善につながるとすることは楽観に過ぎるというべきで、司法の制度やその運用における問題点を改善する課題を忘れてはならないと思う。
法教育、学部教育、法律家養成制度、裁判官の人事や処遇、裁判官統制の撤廃等々の課題が山積している。中でも、政権与党や、行政権から、真に独立した司法を作らねばならない。
人事権をもつ司法官僚に睨まれる判決を書くには覚悟が必要だという。その司法官僚の背後には、政権や保守陣営や財界などの現行秩序を形作っている諸勢力が控えている。この現在の司法の在り方を強く批判することも、人権を擁護しようという市民や法律家の責務にほかならない。