天皇教信者におもねってはならない。天皇教信者の横暴を許してはならない。
(2021年6月26日)
信仰とは仲間内だけで通じるもの。「イワシの頭教」信者の信仰は、「サバの尻尾教」の信者には理解しようがない。ブードゥー教の信仰がその信者以外に受容されることは考え難い。天皇を神聖とする信仰もまったく同じことだ。醒めた目で天皇教を見つめれば、虚妄これに過ぎるものはない。
にもかかわらず、天皇教信者の横暴は甚だしい。仲間内でしか通じようのない天皇神聖信仰を社会全体に押し付けようとするからだ。この押しつけがましさは、過去の天皇教の歴史における赫々たる成功体験に基づくものである。「天皇は神聖にして侵すべからず」と憲法に書き込ませ、それを根拠に、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と政治権力を握った、あの体験である。
このいびつな「天皇教の宗教国家」は1945年に亡びた…はずだった。新生日本は、天皇教の残滓を払拭する努力を重ねた…はずだった。しかし、必ずしもそれに成功していない。天皇教信者の残党が、いまだに我がもの顔に振る舞っているのがこの国の現実である。これでよいのか、とあらためて問い質さなければならない。
国民の多くが、天皇教信者の暴力や社会的圧力を恐怖と感じている。大逆罪も不敬罪も治安維持法もなくなったが、この社会にはその残影が確実に存在している。人々の記憶の底に、天皇の神聖性を傷付ける言動に伴う権力的ないしは社会的な制裁への畏怖がある。多くの人が、天皇批判の言動に対する社会的圧力を恐れ、天皇に関する言動を躊躇せざるを得ないとする心性を捨てきれていない。
そんな事情を背景に、「宮内庁長官『陛下は五輪開催を懸念と拝察』」(毎日)との記事である。念のためだが、「陛下」とは天皇(徳仁)のこと。この見出しは、「宮内庁長官が、『天皇(徳仁)は東京五輪開催でコロナ感染が拡大しないか懸念している」ようだと私は思う、と発言した」というニュース。オリンピックとコロナ、誰もが思っていることだが、天皇の懸念となると大きなニュースになる。
天皇教やら天皇教信者やらへの阿りから、「開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されていると拝察している」などという、面倒極まりない言葉遣いになっている。世の中の天皇教への阿りが、天皇を特別の存在と思わせ、天皇発言の社会的影響力の源泉となっている。そのことこそが、天皇の存在を危険なものとしている。
西村長官は、こう述べたようだ。
「天皇陛下は現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変ご心配しておられます。国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています。」
このコメント、読みようによって、天皇(徳仁)の真意を、「心配だから、中止してはどうか」「心配だから、せめて無観客でやるべきだ」「感染の心配あるから、私は出席したくない」「国民の間に不安の声がある中で東京オリパラの名誉総裁など辞退したい」などと幾様にも解釈できる。しかし、天皇に確認しようはない。確認すべきでもない。
記者からは、「五輪について開会宣言する場合、その文言はオリンピック憲章で決まっていて、祝うという文言が入ることになる。中止論もある中で、陛下が大会開催を祝福するような文言を述べるのはどうか」という質問も出たという。
宮内庁長官が独断で、天皇の懸念を言えるはずはない。天皇がわざわざ言わせたと考えるのが常識というもの。とすれば、官邸や組織委員会など当事者やオリパラ推進派には、面白くない話だろう。東京オリパラ開催に対する天皇からのクレームなのだから。
しかし、オリパラ反対派が、「天皇まで懸念している」などと自説補強の論拠としてはならない。そもそも、天皇が口を出すべきことではない。天皇には、内閣の指示に従う以外の選択肢はない。オリンピック開催の是非について勝手な発言は許されない。天皇に意思表明の自由はないのだ。
天皇には、この原則を厳格に守らせなければならない。さもないと、再び天皇教信者の跳梁跋扈を招きかねない。
そして今、東京と大阪で企画されている「表現の不自由展」が、ともに天皇(裕仁)への不敬を根拠に、妨害に遭っている。天皇教信者による、実力での表現の自由侵害である。天皇は憲法上の存在ではある。しかし、明らかに憲法体系の中での異物である。いま、象徴天皇制に対する根底的な批判が必要になっていると思う。