亡父が残した軍隊生活メモ
(2021年11月23日)
私の父は、2度の徴兵を受けて、軍隊生活を送った。
その兵営、主としては満州の地から、妻に軍事郵便のハガキを送り続けた。そのいずれにも、満州の風物のスケッチが画かれている。中には、軍隊生活の様子も。幾つかの版画もある。
父は、戦後そのハガキを一冊のアルバムにまとめて保管していた。父の没後には長く次弟の明が所持していたが、先日明の葬儀の際に、明の妻に乞うて私が預かることにした。
このアルバム、葉書を納めるサイズにできている。「昭和16年(1941年)7月 支那事變第4周年記念」に、陸軍恤兵部が制作した「繪葉書帖」とされている。表紙に、「囘顧」と標題があり、銃剣を携えた兵と中国風の城門が描かれている。父は、戦後、このアルバムに妻に宛てた葉書を納め、さらに、軍隊生活を中心に幾つかの自分の来歴についてのメモを残している。
その一部を紹介したい。何らかの意味あるものと思う。なお、メモに出てくる光子は、私の母である。
昭和5年から12年まで仙台市芭蕉辻近藤槙三郎商店(株式賣売)に勤務
9?12年は樺太支店、
同店倒産、帰仙。
自営を試みるが失敗。
13年4月盛岡市助役村田幸之助先生(黒沢尻中学時代に法政経済を教わる)を頼って盛岡市へ行く。市雇員に採用してもらって商工課勤務、商工業組合の係となる。
肴町に数組合の合同事務所があり、そこの主任に迎えられることになった直前ー
召集令状をもらい昭和14年5月3日北部第16部隊(歩兵第31聯隊のこと)第7中隊に入隊。
弘前は桜の真っ盛りだった。
一期検閲の後、幹部候補生を志願して幸いにもバス。
教官は松田正勝中尉
助手 鳥居 軍曹
佐藤昇治上等兵
乙種幹部候補生(下士官適任)となり
軍曹任官
中隊長に千葉徳郎中尉が着任してから特に目をかけてもらい、戦地へ行く新しい部隊が編成されること度々であったが、その都度留守隊に残された。
昭和15年夏
仙台から父重助中風で倒れるとの電報をもらって帰仙の途中盛岡に降り、赤羽光子に求婚。数日間父を看病して帰隊。
その後光子は仙台に行き職を得て家計を助け、父の看病にあたる。
父10月7日没
行軍は弱いし銃剣術は下手。衛兵司令は逃げたがる。決して優秀な下士官ではない。
好きなのは週番下士官(演習に出ないですむし、命令受領が苦にならない)。
それに得意なのが演芸会での“蟇の膏“軍旗祭に出演して連続一等を取ったのでその後は特別出演。
聯隊長はずっと板津中佐であったが、蟇の軍曹に毎回酒数本を下さった。
昭和16年夏関特演(関東特別演習)という動員あり。
部隊をあげて満州にわたることになる。
聯隊長は板津中佐。千葉徳朗中隊長は、私を指揮班長として編成してくれた。
8月10日頃出発して下旬に満州国黒河省愛琿に到着し、満州国第7202部隊として翌17年11月まで警備にあたる。
―― ―― ―― ――
盛岡に出す手紙はがきに一連の番号をつけた。
軍曹をもじって“具運莊”と号した。武運長久の祈りを篭めて。
渡満の時の輸送船では秋田の聯隊と一緒だった。
船長が演芸会を催してくれ秋田からは専門家らしい浪曲が出たりしたが、私の蟇一等。商品は我が中隊の下士官を喜ばすに充分だった。
―― ―― ―― ――
満州は広い広い。
有蓋貨車で運ばれたので便所がない。田舎の駅に着いて、鉄路(単線)の遥か彼方に対抗の列車が見えたら全員下車で用を足す。
大の用を足して貨車に乗っても対向車はまだ着かない。
(昭和17年)11月招集解除雪の満州を後に3年7か月の軍隊生活を終えた。
千葉中隊長が士官適任証をつけてくれた。
昭和18年8月29日統一郎誕生。その1ヶ月後に横須賀海軍工廠造兵部に徴用される。
▽浦郷寄宿舎の寮長
▽第1回の胃潰瘍で海軍病院に入院
▽4月3日神武天皇祭の弁論大会で優勝。翌4日工廠15万人が聞く有線で放送する
▽寮生(15歳山形県出身)が流行性脳脊髄膜炎にかかったのを救う
昭和19年7月7日、横須賀で第2回の召集令状を受け、弘前東部第57部隊(隊長中村覚之助中佐)に入る。
曹長に進級。号を“息吹”とする。新しい時代の息吹を吸う男の意。
聯隊本部付きとなる。勤務年が短いので営外居住とならず、ただ一人の営内曹長だったので酒保にも顔がきいた。(続く)