中国共産党の民主主義論は、神権天皇を寿ぐ無内容な美文によく似ている。
(2021年12月13日)
アメリカのバイデン政権が、「価値観を共有する」友好国を招いて「民主主義サミット」を開催し、これに中・露など「価値観を共有せざる」諸国が反発している。連合国対枢軸諸国の対立を再現するようなことがあってはならないが、人権や民主主義の蹂躙に対する必要な批判を遠慮してはならない。
色をなした体で中国が反論を試みていることが興味深い。さすがに、批判は身にこたえるのだ。「民主主義なんぞ何の価値があるものか」と開き直ることはできない。「偉大な習近平の指導に従うことこそが、人民の利益に適うのだ」と言いたいところだが、そのような言葉は呑み込まざるを得ない。そして、おっしゃることは、「結党以来100年、中国共産党は民主を貫いてきた」である。へ?え、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。
思い起こせば、孫文「三民主義」に「民権主義」があり、毛沢東に「新民主主義論」(1940年)がある。民主主義をないがしろにするとは言えないのだ。とは言え、革命中国においても、党の支配を制約する「民権」「民主」を貫いてきたとは、意外も意外。
中国に民主主義があるのか、固唾を飲んで見守ったのは1989年6月天安門事件のときだった。その後、中国に民主主義の片鱗でも残されていないか、固唾を飲んで見守ったのは2020年香港の事態である。1989年に絶望し、2020年には、その絶望を確認するしかなかった。
にもかかわらず、中国はこう言っている。「中国にも民主主義はある。但し、それは英米流のものではない」「中国の近代化では、西洋の民主主義モデルをそのまま模倣するのではなく中国式民主主義を創造した」「中国は独自に質の高い民主主義を実践してきた」。
要するにに、「民主主義」に「中国式の」という修飾を付加すると、別物になってしまうのだ。
昨年(2020年)6月、国連の人権理事会でカナダなど40か国余が共同して、「中国に対して、国連高等弁務官の新疆入りの容認を求める共同声明」を発表した。その共同声明は新疆での人権弾圧問題でけでなく、「国家安全維持法(国安法)下での香港の基本的自由悪化とチベットでの人権状況を引き続き深く懸念している」とも指摘していた。
これに対して、ジュネーブの中国国連代表部の上級外交官Jiang Yingfengは、共同声明が指摘した問題の存在を否定して「政治的な動機」に基づいた干渉だと非難し、香港問題については、「国安法制定以降、香港では混乱から法の支配への変化が見られている」と述べた。(ロイター)
https://jp.reuters.com/article/china-rights-un-idJPKCN2DY137
香港では、権力が市民の言論の自由を奪い、出版の自由を妨害し、権力を批判する新聞を廃刊に追い込み、中国共産党の統制に服さない結社を解散させ、デモさえ許さず、恣に活動家を逮捕し起訴し有罪判決を言い渡している。この事態を中国共産党は、「混乱から法の支配への変化」というのだ。
中国共産党にとっては、民主主義とは「望ましからざる混乱」に過ぎない。民主主義が必然とする市民の自由な諸活動を徹底して弾圧し、押さえ込むことこそが「あるべき法の支配」だというのだ。中国共産党の恐るべき本心、そして恐るべき詭弁である。
最近中国の民主主義に関する論説を読んでいると、なんとなく既視感を禁じえない。戦前の神権天皇制政府を持ち上げた、あの恐るべき無内容ながらも、延々たる美文によく似ているのだ。
あのバカげた神権天皇制の権威主義的政治体制についてさえ、「五箇条のご誓文を淵源とする民主主義の精神で貫かれている」と持ち上げる倒錯した論説もある。また、万世一系の天皇は「臣民を赤子としてこの上なくお慈しみあそばされた」という愚論もある。これが、中国共産党の民主主義論によく似ているのだ。
万世一系を中国共産党の無謬性に置き換え、天皇を習近平に、臣民を人民に読み替えれば、実はたいして変わらない。両体制とも、これこそが臣民(人民)の利益を擁護するための最高の政治体制であることを疑っていない。民主主義なんぞは非効率であるばかりでなく間違ってばかり。そう言えば、八紘一宇の思想は一帯一路に似ているではないか。
民主主義が、画一化され定型化された政治理念でないことは当然である。しかし、「文化は多様」「文明は多様」「それぞれの国や民族の歴史や伝統は多様」というレベルで「民主主義も多様」と言えば、明らかに民主主義否定の詭弁でしかない。重要なことは、民主主義を支えている具体的な諸制度や自由の検証である。「中国的民主主義」は、とうていそのような検証に耐え得る代物ではない。