澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

十五の春の悲哀。逃れようのない監視圧力の脅威。

(2022年2月17日)
 「志学」と言えば、15歳。学問を志す15歳は稀少でも、誰もが高校入試の試練を受けなければならない歳。かつて、高校全入をスローガンに「15の春は泣かせない」と言ったのは、京都の蜷川虎三革新府政だった。が、現実には、当時も今も15の春は悲喜こもごもである。

 悲喜こもごもは切実で、入試の選考には厳格な公平性が求められる。カネやコネでの入学には社会の拒否感が高い。「裏口入学」という言葉には、許されざる悪事というニュアンスが感じられる。また、カネやコネで合格した当人のプライドが傷つくことにもなろうし、周囲の目が弾劾し軽蔑し続けることにもなろう。

 のみならず、高等教育や後期中等教育を受ける権利についての公正の確保は、この社会の階層の固定化防止の基本である。金持ちやコネのある者の子女には高等教育を受ける道が広く開かれ、カネやコネのない者には障壁が高いということになれば、この社会の階層の流動化が阻害され、社会の不公平な構成を固定化することになる。
 
 秋篠宮の長男が15歳である。宮内庁は昨日(2月16日)、お茶の水女子大付属中学に在籍している彼が、筑波大付属高(東京都文京区)に合格し、4月に入学すると公表した。注目されるこの「合格」、果たして公正であろうか。疑問なしとしない。

 彼の筑波大付属高への「進学」は、お茶の水・筑波両校間の「提携校進学制度」を利用したものと公表されている。一般受験での合格ではない。しかも、この「提携校進学制度」は、彼の高校卒業時までの時限的なものだという。万人の見るところ、この「天皇職就位予定者」のために特別に作られた制度と言わざるを得ない。

 宮内庁の発表では、「成績などの条件を満たしたことから「提携校進学制度」を使って出願し、学力検査を受けた上で16日に合格が確定した」となっている。しかし、「提携校進学制度」を利用しての出願の要件は明確にされていないし、彼の受けた学力検査成績が一般入試の合格水準に達しているかどうかについての言及もない。彼のために特別に作られた制度を利用しての「合格」であった可能性を認める内容の発表なのだ。つまり、彼は「皇族というコネで国立校に入学」という疑惑を生涯抱え込んだことになる。

 いま、彼の義兄がニューヨーク州の司法試験に挑戦している。誰も、そこに「皇室関係者特別優遇枠」があろうとは思わない。だから、実力をもってするその挑戦はすがすがしい。すがすがしさは、リスクと裏腹である。それに比較して、15歳の挑戦はすがすがしさに欠けるのだ。

 折も折、同日(2月16日)宮内庁は、秋篠宮家の長男のコンクール入選作文の一部が、「他の文献の表現と酷似していた」「引用元を明記せず、不十分だった」と明らかにした。このことについて、意地悪く「盗用」「剽窃」という報道も見受けられる。これは、15歳には厳しい指弾であろう。

 問題が指摘された作文は、昨年3月に北九州市主催の「第12回子どもノンフィクション文学賞」中学生の部で第2位の佳作に選ばれた「小笠原諸島を訪ねて」と題した旅行記、だという。選考委員だった那須正幹が「紀行文のお手本のような作品」と言っており、最相葉月も褒めているのだから出来はよいのだろう。だが、これも、「ほんとに自分で書いた?」「どこまで自分で書いた?」という疑惑に晒されることになった。

 この15歳、出自によって良質の教育を受ける機会に恵まれ、同時に出自によって国民からの厳しい疑惑の目に晒されることになった。意地の悪い監視圧力の脅威と言ってよい。皇族として生まれることは、実は辛いのだ。

 同じ日、同じ15歳が、北京で涙を流した。ドーピング問題の渦中にある、カミラ・ワリエワ。2か月前彼女の検体から検出された薬物は、禁止物質トリメタジジンだけでなく、禁止薬物には指定されていない「ハイポキセン」と「L―カルニチン」を含む、いずれも強心効果をもつ3種類の薬物であったという。

 反ドーピング機構は、「3種類を組み合わせた服用の利点として『持久力の向上、疲労の軽減、酸素の消費効率を高める』ようだ」と指摘しているという。複数の医師による「いずれも15歳が常用しないもの」「3種組み合わせで競技力向上につながる」とのコメントが報道されている。常識的には、ロシアのスポーツ界が、いまだにドーピングの悪弊を払拭し得ていないものと見られる。

 もちろん、秋篠宮家15歳の脱法合格も、ロシア選手15歳のドーピングも、飽くまで疑惑である。しかし、疑惑を招いたことに、いずれも無責ではない。本人も周囲も、敢えて瓜田に沓を入れ、李下に冠を正したことを重く受けとめなければならない。 付言すれば、ワリエワはこの立場から逃れる術をもっている。選手をやめて他の道を選択することは自由だ。この若さである、人生の再出発が十分に可能なのだ。それに比較して憐れむべきは秋篠宮家15歳である。彼には、当面この境遇から逃れる術が見出し難い。二人の姉とは立場が違うのだ。痛ましい悲劇というしかない。

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