1972年5月15日、それまで沖縄復帰運動のシンボルだった「日の丸」が、「軍国主義」の象徴となった。
(2022年5月16日)
私の手許に、B4版で500ページに近い重量感十分の写真記録集がある。おそらくは3?の重さ、内容もずっしりとこの上なく重い。
「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」という、1995年に沖縄県が編纂し発行したもの。毎年6月23日には開いて読むことにしている。
構成は、序章を「大琉球の時代」とし、本章は下記のとおりである。
第1章 廃墟のなかから
第2章 基地の中の沖縄
第3章 ドルと高等弁務官の時代
第4章 ベトナム戦争と復帰運動
第5章 アメリカ世からヤマト世へ
第6章 21世紀に向けて
416ページ以後が資料編で、衣・食・住・教育・スポーツ・芸能・美術・女性…たばこ・泡盛・映画等々、興味は尽きない。
いうまでもなく、「第5章 アメリカ世からヤマト世へ」が、1972年5月の「本土復帰」の記述の表題である。この「世」は「ゆ」と読まねばならない。「アメリカ世(ゆ)は、アメリカ支配の『世の中』」あるいは『時代』を表す。この表題の付け方が意味深なのだ。「本土復帰」とは言わない。「復帰」も「返還」も、もちろん「祖国」の語もない。「アメリカ世からヤマト世へ」は、読み方によっては、「沖縄の支配者がアメリカからヤマトに替わっただけ」「他者の沖縄支配であることに変わりはない」と主張しているように読めなくもない。
この第5章第1節の解説には、「世替わり」と小見出しが付けられている。その冒頭部分が下記のとおりである。
「世替わり」の日、1972年5月15日午前零時には、汽笛が鳴り車からは一斉にクラクションが響いた。抗議と歓迎の交錯した複雑な県民感情の中、「世替り」は訪れた。27年間の米軍支配に終止符を打ったこの日は、県全体が大雨になり「県民要求を無視した返還に天も怒った」と評する人、「歓喜の涙」と5.15を迎えた人など世論は分かれた。1945年の敗戦以来、県民の圧倒的多数が望んでいたはずの復帰なのに、素直に喜べない気にさせたのは何と言っても返還の内容であった。
1969年11月22日、佐藤ニクソン会談で72年沖縄返還を合意、共同声明を発表。71年6月17日、マイヤー駐日大使と愛知外相が返還協定に調印。72年1月8日、佐藤ニクソン会談で沖縄返還を72年5月15日と決定するなど、沖縄の復帰スケジュールは決まったのに、その中身は県民の要求する即時無条件返還ではなかった。
日米間で合意したのは、「72年・核抜き・本土並み」という触れ込みだったが、その公約も実体の伴わないものだった。復帰後も米軍基地の自由使用が認められたことがその証拠であろう。全国の75%を占める米軍専用基地はベトナム戦争の泥沼化に連れて強化こそすれ、撤去には結びつかなかった。政府の公約した「本土並み」が虚像だったと実感した県民は多かったはずである。「第三の琉球処分」と言われても仕方のない返還のあり方だったと言える。だが基地の存続を希望した人たちがいたことも否定し得ない事実である。
新生沖縄が誕生したその日は、賛否の声を反映したかのように祝賀と抗議の大会が相次いだ。保守的な人たちは復帰祝賀県民大会を、革新的な人々は5・15を「屈辱の日」として、決議大会とデモ行進を決行、県内を二分した。
この日をもって、復帰運動のシンボルとして扱われた「日の丸」が逆に「軍国主義」の象徴ととらえられたのは歴史の皮肉であった。
これが、50年前の5月15日「沖縄の本土復帰」をめぐる県民意識であった。「革新的な人々は5・15を『屈辱の日』と捉えた」という厳しい表現が眼に突き刺さる。それゆえに、その日以来「日の丸」の意味づけが変わったのだ。「復帰運動のシンボル」から、「軍国主義の象徴」に。そして50年、今もなお「日の丸」は「軍国主義の象徴」であり続けている。