国葬での弔意強制も、学校での国旗国歌の強制も、国家主義というカルトのなせる業なのだ。
(2022年10月15日)
赤旗一面の下段に「潮流」という連載コラムが掲載されている。朝日の「天声人語」や、毎日新聞の「余録」に当たる、赤旗の看板である。
本日の「潮流」が、「日の丸・君が代」強制問題を取りあげてくれた。なるほど、タイムリーなのだ。
書き出しはこうである。
「反対の声が大きく広がるもとで強行された安倍晋三元首相の「国葬」。「弔意」を強制し、憲法が保障する思想・良心の自由を侵害する政府の行為はもう一つの「強制」を思い出させます。教育現場における「日の丸・君が代」の強制です」
安倍国葬を経て、特定政治家への弔意の強制をあってはならないとする国民的合意が形成されたと言ってよい。では、「日の丸・君が代」への敬意の強制はどうか、というタイムリーな問題提起。
実は、いずれも個人の価値感に任せられるべき領域の問題なのだ。国家が、国民に特定の価値観を押し付けてはならない。安倍晋三に対する弔意は近親者や政治的立場を同じくする人々には自然なことでも、それ以外の人々には他人事である。飽くまで個人の心情が尊重されるべきで、国家が弔意を表明せよといういう筋合いはない。国旗・国歌(日の丸・君が代)についても同様に、国家は、国民個人の国家観や歴史観に寛容でなければならない。国家中心主義の立場から、愛国心を押し付けたり、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明すべきことを強制するなど、もってのほかなのだ。
このことを「潮流」は、「国旗・国歌に対する態度はそれぞれの考えにもとづいて自由に判断するべきなのに、教職員には卒業式・入学式などで起立・斉唱することが強要されています。東京都では起立・斉唱の職務命令に従わなかったなどとして約20年間にのべ約500人が処分されました」と述べている。そのとおりなのだ。
そして、もう一つタイムリーな出来事を紹介している。「先日、この問題をめぐって強制に反対する市民らが文部科学省と交渉しました。ILO(国際労働機関)とユネスコ(国連教育科学文化機関)が日本政府に出した勧告を実施することを求めたものです」。よくぞ取りあげてくれた。
「ILOとユネスコの勧告は『起立や斉唱を静かに拒否することは…教員の権利に含まれる』とした上で、卒業式などの『式典に関する規則』について教員団体と対話する機会を設けることを求めています。『国旗掲揚・国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるような』合意をつくることが目的です」
よくぞ、内容がお分かり。まるで、私が起案したみたい。
「しかし、日本政府は勧告を事実上、無視したままです。市民らとの交渉でも文科省は終始、消極的な姿勢だったといいます。教職員の思想・良心の自由が奪われた学校で、子どもたちが本当の意味で憲法や自由について学べるのか。政府は国際的にも問題が指摘されていることを真摯に受け止めて、直ちに勧告に沿った対応をするべきです」
さすがによくできた練れた文章。文科大臣にも、東京都知事にも、大阪府知事にも、そして東京都と大阪府の各教育委員にもよく読ませたい。
ところで、弔意の強制と国旗国歌の強制、カルト(ないしはセクト)をキーワードとすると共通点が見えてくる。
フランスの反セクト法(2001年)では、「著しい、あるいは繰り返される心理的・身体的圧力、若しくはその判断力を侵害する技術により生じた心理的・身体的な隷属状態」に乗じて、「その無知あるいは脆弱な状態を不当に濫用する行為」が処罰対象とされるという。日本では考えられないところだが。
この条文だと国旗国歌の強制は、カルトのやることだ。東京都教育委員会も、香港を蹂躙した中国共産党も、反セクト法では犯罪者たりうる。国家主義者が権力を握ると、愛国心の高揚だの、国旗国歌の強制だのをしたくてならないのだ。
個人よりも国家大事とする倒錯した心理が、愛国主義であり国家主義である。全体主義と言ってもよい。国葬だからとして被葬者への弔意を強制するのも、学校儀式で国旗国歌を強制するのも、国家主義というカルトのなせる業なのだ。