宗教活動とマインドコントロール、いったいどう違うのだろうか。
(2022年11月21日)
統一教会問題を契機に、ことあるごとに宗教が話題となる。が、宗教問題は難しい。そもそも、宗教とはなんぞやが皆目分からない。分かっているのは、宗教とは論理で説明できる領域にはなく、論理での説明を越えた世界に宗教があり信仰があるということ。だから、言語や論理での説明ができようはずもない。従って、「我が教えこそ正しい」と人に説得することは原理的にできることではない。
人がなぜ、それぞれの信仰をもつのか、おそらくは自身も分からず、他人に分かるはずもない。他人の信仰への理解も共感も難しい。尊重や敬意はさらに困難である。
しかし、確実に信仰は深く強く人を捉える。場合によっては熱狂的にである。歴史的に、多くの権力が民衆の宗教的情熱を一面では恐れ、また一面ではその利用を画策した。宗教は、権力によって弾圧もされ、権力と一体となって権力者を支えもした。いまなお、そのような現実がある。
さて、民主主義の時代の、社会のマナーやルールとして、宗教をどう取り扱うか。間違うと危険な、重要課題となっている。結論は、人は相互に他人の信仰への不介入を心得るしかない。他人の信仰を邪魔してはならない、自分の信仰を他人から邪魔されることがあってはならない、という社会合意を作るしかない。信仰をもつ人も、もたざる人も。
とは言え、宗教の多くは自己増殖の衝動をもっている。それ自体を非難することはできないが、布教活動名目のマインドコントロールによって対象者の自己決定権を侵害してはならない。この点に警戒を要するのだが、憲法で保障されている信教の自由と、唾棄すべきマインドコントロールの本質的な違いがよく分からない。信教の自由の一分枝である「宗教教義の教化伝道の自由」とマインドコントロールの差異はどこにあるのか。
本日の「毎日デジタル・政治プレミア」に、釈徹宗の「宗教者が問う 旧統一教会問題の本質」という論稿。この人、本願寺派の僧侶だという。「旧統一教会問題の本質」という表題に惹かれて、読んではみたものの、やはり、門外漢には分かりにくい話。「旧統一教会問題の本質」を解明し得ていない。混沌は深まるばかり、という印象。
文中に、「信仰とマインドコントロールは違う」という小見出しがある。どう違うんだろう。この違いを宗教者がどう説明しているのだろう。興味津々で注意深く読んではみたが、どう違うかはやっぱり分からない。分かるようには語られていないということか、あるいは分かりようもないテーマということなのだろうか。
この小見出しでの解説の最後が次の文章で締めくくられている。
「信仰心とマインドコントロールは、一見よく似ている。ただし、一方は個人が自らの生きる道筋を定めてゆく歩みで、他方は個人を支配する手段だ。」
「一見よく似ている。」は分かり易い。どちらも、人の精神に働きかけて、特定の価値観を植え付け、あるいは精神構造を形作ろうという営為である。一方、両者の違いは分かりにくい。本当に、「信仰とは、個人が自らの生きる道筋を定めてゆく歩み」なのだろうか。個人の自立を求めず、「自らの生きる道筋を宗教指導者に委ねよ」と説く宗教は巷に溢れているのではないだろうか。宗教ないし信仰に、支配・被支配の関係はないだろうか。マインドコントロールに、限りなく近似しているのではないか。
この僧侶はこうも言っている。
「カルトには、「熱狂的に信じる」という意味がある。熱狂的な反社会集団を規制するのは、社会の維持にとって当然だと思う。ただし、宗教一般にも熱狂はつきものだ。つまり、カルト性をハナから欠く宗教もない。」
カルトと宗教、マインドコントロールと布教活動、截然と分離することは難しかろう。論者は、こう言う。
「問題を根本から解くには、社会を構成する個々人が、宗教についてしっかりと考察すべきなのである」
また、こうも言う。
「宗教は人を救う力をもつが、あっさりと日常を破壊する力にもなる。今回を機にしっかり宗教について取り組むことが肝要だ。スキャンダラスなトピックだけに目を奪われていては、単に消費されていく話題のひとつになってしまう。問われているのは、この社会の宗教観なのである。」
この頃、はやりの「しっかり」だが、どうしっかり考えて、どのような結論に至らねばならないというのか、さっぱり分からない。
おぼろげながら分かることは、巨大宗教団体の信者や民衆に対する精神的支配力には警戒を要するということである。個人の自立と宗教的帰依とは両立しがたいのではないか。ましてや、意識的に人の精神を支配しようとたくらむ『宗教』や『擬似宗教』に対する批判を躊躇してはならない。