《日の丸を踏め》と命じることが日本への忠誠心を量る「踏み絵」とされたという。同様に《日の丸に正対して起立せよ》と命じることもまた、人の内心をあぶり出す「踏み絵」になる。
(2024年7月26日)
一昨日(7月24日)の朝日.comの記事の表題に、「《踏め》と命じられた昭和天皇の写真 移民たちは拒否し収監された」「迫害された日系移民 ブラジルで何が起きたか」。
ブラジルの日系人社会には、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏戦した後もなお、皇国の敗戦を受け入れられずに「帝国が連合国に勝った」と信じ込んでいた人々がいた。これが、「勝ち組」である。その勝ち組をあぶり出すための方策として、ブラジル当局は、踏み絵を使ったという。
周知のとおり、踏み絵は江戸幕府の官僚の考案で、世界に名だたる日本の発明である。ブラジル当局は、400年前の日本の発明技術を日本人に向けて用いた。さあ、この絵を踏め、踏めなければ「勝ち組」と見なして拘束する、と。使われた絵は、キリストやマリアの聖画ではなく、天皇(ヒロヒト)の写真と「日の丸」だったという。記事の概要は以下のとおり。
終戦直前、勝ち組は「臣道連盟」という団体を結成。日本が戦争で勝ったことを信じて疑わなかった。「大本営発表しか聞いていないから当然だった。日本が日露戦争や第1次大戦で勝ち、『負けるはずがない』という思いもあったのだろう」。
46年3?7月、勝ち組は負け組らに対する複数の殺人事件を起こし、日系社会は混乱した。日本の特高警察にあたるブラジルの政治警察は、各地の臣道連盟幹部ら1200人を拘束。警察署では日の丸か昭和天皇の写真を床に置き、踏むように命じた。多くが従ったが、拒んだ150人超はアンシエッタ島の施設に送られて監禁されたという。
「日本人として天皇の御写真を踏むなど絶対に出来る事ではないのである」という勝ち組幹部の言葉が、紹介されている。
注目すべきは、天皇の写真だけでなく、「日の丸」も踏み絵に使われたということ。おそらくは、「日本人として「日の丸」を踏むなど絶対に出来る事ではないのである」という勝ち組もいたということなのだ。
人の内心は普段は伺うことができない。が、特定の状況で、特定の行為を強いることによって、人の内面をあぶり出し弾圧することができる。踏み絵は、そのために開発された技術であって、偉大な日本の発明なのだ。「日の丸」も、内心のあぶり出し道具として有用だった。
「「日の丸」を踏め」と命じることで、日本への忠誠心の有無を量ることができるのと同様、「「日の丸」に敬意を表して起立せよ」と命じることもまた、人の内心をあぶり出すことになる。起立できるか、できないか。その態度を見ることによって、踏み絵と同じ役割と効果を目論むことができる。
7月18日(木)、東京地裁101号法廷で、東京「君が代」訴訟(第5次訴訟)での5名の原告本人尋問が行われた。感動に満ちた素晴らしい法廷だったと思う。その中のお一人が、クリスチャンの教員で、自分の教員としての良心は信仰に根差したものであることを語った上で、信仰ゆえに起立斉唱ができないことを訴えた。尋問の担当は私だったが、中に次のような質問と回答があった。
質問 あなたの陳述書に、「踏み絵」という言葉が何度か出てきます。「10・23通達」やこれに基づく起立斉唱の職務命令を「踏み絵」とお考えでしょうか。
回答 この職務命令は、上司という《人の命令》に従うのか、信仰を持ち続け《神に従うのか》と私に迫ります。踏み絵と同じだと感じます。
質問 「聖なる絵を踏め」という強制が信仰を持つ者の心情に耐え難いことは分かり易いのですが、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱せよ」という命令が同じような苦痛をもたらすものでしょうか。
回答 キリスト教では、神の前に立つときは、人はみな限りある一つの命を生きているかけがえのない存在で、そこに特別な一人はいないと考えます。天皇という特別な人を讃える「君が代」を国歌として歌うことに強い違和感を覚えます。君が代斉唱命令は、クリスチャンの信仰とあいいれません。
質問 「日の丸」に正対して起立する行為については、いかがですか。
回答 学校儀式における日の丸の取り扱いには偶像崇拝的な印象を持ちます。特に旗に向かって起立や敬礼を強制されるようなときには、強い抵抗を覚えます。
質問 「踏み絵」は信仰者をどのように傷つけるのでしょうか。
回答 「踏み絵」は信仰者を見つけ出し、弾圧する手段です。
踏み絵を踏むことを拒否すれば、キリシタンというレッテルを貼られて拷問や処刑など弾圧の対象になります。やむなく、多くのキリスト者は心ならずも踏み絵を踏んで、信仰を捨てざるを得ませんでした。踏み絵を踏めば、家に帰ることができたとしても、その後の人生は本当に生きづらいものになったでしょう。
質問 日の丸・君が代に対する起立斉唱命令も同じなのでしょうか。
回答 起立しなければ処分される。起立すれば、自ら信仰を手放して大きな苦しみを負うことになる。踏み絵と変わりません。
また、第4次訴訟の原告のお一人は、こう語っている。
「自分は、35年の教員生活で、君が代斉唱時に起立したことは一度もない。自分の信仰が許さないからだ。自分には、「日の丸」はアマテラスという国家神道のシンボルみえるし、「君が代」は神なる天皇の永遠性を願う祝祭歌と思える。
ところが、やむにやまれぬ理由から、卒業式の予行の際に一度だけ、起立してしまったことがある。それが9年前のことなのだが、いまだに心の傷となって癒えていない。このことを思い出すと、いまも涙が出て平静ではいられない。
「神に背いてしまったという心の痛み」「自分の精神生活の土台となっている信仰を自ら裏切ったという自責の念」は、自分でも予想しなかったほど、苦しいものだった。そして、「私はどうしても「日の丸」に向かって「君が代」を斉唱するための起立はできません。体を壊すほどの苦痛となることを実感した。
その上で、この教員は、裁判所にこう訴えた。
「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体から心を切り離そうとしても、できないのです。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。
「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。キリスト者にとっては、これは自分の信仰とは異なる宗教的儀礼の所作を強制されることなのです。踏み絵と同様に、どうしてもできないということをご理解いただきたいと思います。」
幕府のキリシタン弾圧の手段として踏み絵が開発されたのは400年前のこと。ブラジルの政治警察が勝ち組をあぶり出すためにその真似をしたのが80年ほど前のこと、そして石原慎太郎とその徒党が教員の国家や東京都への忠誠心の有無をあぶり出そうとして「10・23通達」を発出したのが20年ほど以前のことなのだ。
日の丸・君が代の強制に悩むのは、真面目で良質な教師、教職をこの上なく大切に思う教師、全身全霊をかけて生徒に向き合おうとする教師らしい教師たちである。都教委は、このような本来の教員を排斥して、もっぱら支配しやすい教員ばかりを増殖している。なんとも、もったいないことではないか。その被害者は明日の主権者であり、日本の人権や民主主義の未来である。