平和を祈念する「8月15日式典」にヒロヒトの孫の出席は、どうしても違和感を否めない。ドイツの「5月8日記念式典」にヒトラーの孫が招かれているようなものではないだろうか。
(2024年8月15日)
本日「敗戦の日」。非戦を誓うべき日である。また、忘れてならないことは、旧国家体制が瓦解して新生日本が誕生した記念の日でもある。「戦前」が終わって「戦後」が始まった、その節目の日。天皇の時代から国民の時代に。国家の時代から個人の時代に。戦争と軍国主義の時代から平和と国際協調の時代に。そして、野蛮な専制の時代から人権と民主主義の時代に…。
この時代の転換は、多大な犠牲によって購われた。その犠牲を悼み、平和の尊さを確認することが、歴史の歯車を逆転させてはならないとする決意につながる。
8月15日にはポツダム宣言(13か条)を読み直そう。せめて、下記の抜粋くらいは。
アメリカ合衆国、中華民国及びイギリスの首脳による宣言
1 我ら合衆国大統領、中華民国政府主席及びイギリス国総理大臣は、我らの数億の国民を代表して協議の上、日本国に対し、現在の戦争を終結する機会を与えることで意見が一致した。
5 我らの(戦争終結の)条件は次のとおりである。我らは、この条件を逸脱することはない。これに代る条件は存在しない。我らは、遅延を認めない。
6 我らは、無責任な軍国主義が世界より駆逐されるのでなければ、平和、安全及び司法の新秩序が生じ得ないことを主張しているから、日本国国民を欺瞞して道を誤らせ、世界征服に乗り出させた者の権力及び勢力は、完全に除去されなければならない。
9 日本国軍隊は武装を完全に解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることができなければならない。
10 我らは日本人民族を奴隷化したり、国家を滅亡させる意図は有さないが、我らの俘虜を虐待する者を含む一切の戦争犯罪人は、厳格な司法手続に附されなければならない。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義指向の再生及び強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想の自由、並びに基本的人権の尊重は確立されなければならない。
11 日本国は、その産業の維持を許され、公正な現物賠償の要求を受けなければならない。ただし、日本国をして戦争のために再軍備を行うことを可能とするような産業は、この限りでない。この目的のため、支配とは異なる形で原材料の入手を許されなければならない。将来的には日本国は、世界貿易関係への参加を許されなければならない。
13 我らは、日本国政府に対し、直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ、この行動における同政府の信頼性に関し、適切かつ充分な保障を提供するよう要求する。日本国に採り得る対策は、これ以外の場合には、迅速かつ完全な破壊となる。
この「日本への降伏要求の最終宣言」が発せられたのは、1945年7月26日。当初は、「米・英・支」3国の宣言だったが、後にソ連も加わった。日本政府は、広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦の事態に、8月14日にこの宣言を受諾し、翌15日に天皇のラジオ放送で国民に敗戦を告げ、組織的戦闘行為はこの日に終熄した。法的には、9月2日ミズーリ船上で日本国政府の全権代表が降伏文書調印して太平洋戦争が終結している。
あれから79年目の8月15日。政府が言う「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に、「全国戦没者追悼式」が行われた。その主催者である内閣総理大臣の式辞を点検しておきたい。
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天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。
「天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ」は余計。抹消してしかるべきだ。天皇こそは、ポツダム宣言第6条が言う「無責任な軍国主義」の首魁であり、「日本国国民を欺瞞して道を誤らせ、世界征服に乗り出させた者」にほかならない。したがって、民主主義的な秩序からは「完全に除去されなければならない」存在であって、このような式典出席にふさわしくない。しかも、「ご臨席」「仰ぎ」との歯の浮く敬語も見過ごせない。
先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄での地上戦などにより犠牲となられた方々。今、すべての御霊の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
失われたのは、「300万余の同胞の命」だけではない。2000万人と言われる加害責任の犠牲者に言及しないのは、片手落ちではないか。また、「祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら」の順は逆だろう。「家族の幸せを願いながら」を最優先にしなければ、軍国主義礼賛の愚を繰り返すことになる。兵士として余儀なくくされた死は、君のためでも、国のためでもない。自分の身のまわりの愛する者のための死以外のなにものでもない。
今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。
なんという、傍観者的な物言い。いやしくも、国家を代表としての言葉であれば、深甚の謝罪と反省と平和への決意がなければならない。「戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史」は、誤った国策の結果ではないか。
未だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として、ご遺骨の収集を集中的に実施してまいります。
この点だけは、具体性ある提言として評価に値する。後は、次の政権担当者に予算措置と実行を期待したい。
戦後、我が国は一貫して、平和国家として、その歩みを進めてまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。
そりゃウソだろう。「戦後、我が国の保守政権は一貫して平和憲法を敵視し、9条をないがしろにして、軍事大国化をはかってきました。しかし、平和と国際協調を願う国民の声に押されて憲法には手つかずのまま、せめぎ合いの中で今日に至っています」が本当のところ。
戦争の惨禍を二度と繰り返さない。戦後79年が経ちますが、歳月がいかに流れても、この決然たる誓いを、世代を超えて継承し、貫いてまいります。未だ悲惨な争いが絶えることのない世界にあって、我が国は、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化を進め、「人間の尊厳」を中心に据えながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組み、国の未来を切り拓いてまいります。
この部分は、8月8日に9条改憲のスケジュールにまで踏み込んだ岸田文雄の言とは思えない。が、「人の将に死なんとする其の言や善し」なのかも知れない。もう、党内右派や国内右翼におもねる必要もなくなった「レイムダック・岸田」の本音だとしたら言うことはない。
終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。
えっ? なんと? 戦没者とは、戦争で死亡した軍人や軍属・準軍属のことではないか。゜戦傷病者戦没者遺族等援護法」での用語法もそうなっている。「300万余の同胞の命」と語り始めながら、結局は民間人犠牲者を外して軍人や軍属の死没者だけの霊に平安を祈っているということなのか。
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ところで、この式典には天皇(徳仁)が参加して、ものを言っている。国民を戦争に動員するために、聖なる天皇とはまことに便利な道具であった。神なる天皇の戦争が万が一にも不正義であるはずはなく、敗北に至るはずもない。日本男児として、天皇の命じる招集を拒否するなど非国民たる振る舞いのできようはずもない、上官の命令を陛下の命令と心得て死をも恐れず勇敢に闘おう。ひとえに君のため国のために。天皇制政府はこのように国民をマインドコントロールすることに成功していたのだ。
だから、そもそも戦没者追悼式典に天皇の出席はふさわしくない。何をどう言いつくろっても、その存在自体が、式典の趣旨にそぐわないというしかない。それでも、現実になされた徳仁発言を点検しておきたい。こんなものをありがたがったり、崇めたりしてはならないという戒めのために。
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本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
「深い悲しみ」とは、なんという軽い言葉だろうか。「かけがえのない命」が失われたのは、天皇の名による戦争でのこと。天皇が起こした戦争に、天皇の命令によって兵士とされ、天皇の令命によって戦地に赴き、天皇の命令によって戦闘に従事し、戦闘に敗れても決して捕虜になるなとの天皇の命令によってジャングルを敗走し、あるいは海を漂い、餓え、病を得、苦しみながら、家族を思いつつ無惨な死を迎えたのだ。天皇に殺されたといっても過言ではない。天皇は、臣民の死を思いやる心根をもっていたか。どれだけの責任を感じていたのか。そして、戦後も生き延びた天皇は。
終戦以来79年、人々のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
苦難に満ちた歩みの経験のない人物が「苦難に満ちた国民の歩み」に言及しても、真実味はさらさらにない。「誠に感慨深いもの」との言に共感はありようもない。
これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
こなれない拙い文章だから、この部分は官僚ではなく、自分で書いたのかも知れない。もしかしたらこの人、今の世が「平和で人々が幸せ」なよい時代だと思い込んでいるのかも知れない。いずれにせよ、毒にも薬にもならない一文。
ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。
最後は、一転して官僚の作文調。「深い反省の上に立って」が、よく言ったという評価のネタとされる。が、何をどのように「深く反省している」というのか、この人に尋ねてみたい。反省の主語は、国家か、当時の天皇か、あるいは軍部か、国民か。祖父ヒロヒトの責任と、自分の立場をどう重ねているのか、あるいは重なるものとは考えていないのかについても。
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それにしても、平和を祈念する「8月15日式典」にヒロヒトの孫の天皇としての出席は、どうしても違和感を否めない。ドイツの「5月8日記念式典」にヒトラーの孫が招かれているようなものではないか。
戦争にまつわる式典への天皇の出席は、天皇の戦争責任を思い出させるだけである。もう来年からの天皇の出席はやめたがよい。