澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

東大構内にトンボの出入りは自由だが、特別扱いで天皇の甥を招き入れてはならない。

(2024年8月17日)
野分のあしたである。東京の空は、早朝より常ならぬ抜けるような青さ。散歩コースにしている東大の構内に、今年初めてギンナンが落ちていた。そして、安田講堂を背景に、けっこうな数のトンボが往き来している。珍しいほどの景色ではないが、今年、東大で見るトンボには、格別の趣きがある。

皇位継承権を持つ高校生(天皇の甥)が、トンボの研究で東大に入学するかも知れないと話題になっている。もちろん、この研究は高校生一人でのものではない。その道の大家との「共同研究」の成果だという。どうでもよい、くだらぬことのようでもあり、見過ごせないことのようでもある。その捉え方の分岐は、東大、あるいは東大が象徴するものをどう理解するかにかかっている。

東大を学歴社会や権威主義の象徴と見て、くだらぬ存在と否定的に評価すれば、「トンボを介在しての天皇制と東大」は、愚と愚、俗物と俗物の、釣り合いの取れたお似合い同士。冷笑して見ているだけでよい。

しかし、多少なりとも東大や大学の存在意義を認める立場からは、「学問の府に天皇制を持ち込むな」「東大構内にトンボの出入りは自由だか、皇族を入れるな」「皇位継承権者に入学の特権を与えてはならない」ということになろう。

言うまでもないことだが、東大が象徴する学歴社会には負の側面が大きい。多くの人が18歳で輪切りにされ、ランクづけられる。その不合理の克服は、常に社会の課題としてある。

しかし、学歴社会は、身分社会よりはずっとマシである。経済的格差や社会の階層固定を攪拌し流動化する役割も果たている。万人に開かれた機会均等の教育制度と、厳格に平等な入学試験制度は、民主主義社会に適合的な制度と言えるだろう。

今、大きな問題となっているのは、大学、とりわけ東大の入学者が富裕層に偏っていることである。正規教育機関以外の塾や家庭教師などへの「経済的投資」能力に恵まれた者だけが東大に入学している現実が克服すべき課題とされている。その現状の問題性に加えて、東大の学費値上げが目論まれている。これでは、社会階層の流動化という高等教育の社会的機能が果たせない。

私は、60年前の4月、19歳で東大に入学した。親からの仕送りを一切期待できない立場で、入学金はアルバイトで調達し、年1万2000円の学費は免除の扱いとされた。当時、私のような苦学生はさほど珍しくはなかった。私にとって、学費の安い東大と生活費の安い駒場寮のセットは、まことにありがたい存在だった。その後卒業はせず中退しているから、学士でもなく、東大卒のレッテルもない。が、自に学ぶ機会を与えてくれた東大という存在には感謝している。

高等教育についての課題は種々目につくが、まずは形式的にではなく、もっと実質的な教育の機会均等を実現しなければならない。活力ある社会を築くために、そのような工夫と努力を怠ってはならない。富裕層に大学を占領させてはならないのだ。

ましてや、権門や出自や家柄や血統で、教育の機会均等をないがしろにしてはならない。トンボの研究を口実に、天皇の甥を東大に招き寄せる愚はやめたがよい。確実に、東大の存在意義を減殺させ、東大の社会的評価を落とすことになる。

もちろん、天皇の甥が実力で東大入試に挑戦し堂々と入学を果たすのなら、トンボと一緒にこの構内で学ぶ資格を与えられる。そのときには、どの分野を選ぶにせよ、本格的に学問を修めていただきたい。どんな学問も普遍性を追及することになる。民主主義社会に普遍ならざる天皇制というものをいかにして超克すべきかを研究対象とされるよう期待したい。

Comments are closed.

澤藤統一郎の憲法日記 © 2024. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.