ウソつき百合子の「災害死と虐殺死を同列に置く詭弁」を許してはならない。
(2024年9月1日)
経歴詐称のウソつきとして天下に知らぬ者とてない小池百合子。本来、立候補の資格すらないこんなウソつきが平然と首都の知事の座に納まっている不思議、不気味、そして不合理。こんな事態を許してしまった都民の一人として、恥ずかしい限り。
そのウソつきが、毎年9月1日には見えすいた詭弁を弄して、排外主義者の正体を露呈している。この事態は、「恥ずかしい」では済まない、危険極まりないと言うしかない。本気になって、このレイシストを弾劾しなければならないと思う。
事件から50年に当たる1973年以来、東京・横網町公園で毎年行われている「関東大震災 朝鮮人犠牲者追悼式典」。実行委員会の呼び掛け文には、「虐殺された犠牲者 朝鮮の人、中国の人、日本の社会運動家を追悼します」と記載されている。台風の余波の中で、参加者数を絞って今年も行われた。同公園に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼碑があること、その碑の前で毎年継続して追悼式がおこなれることの意味は、とても大きい。まずはそのことを確認しておきたい。
関東大震災時の、朝鮮人・中国人・社会主義者らの虐殺は、震災に伴って必然的に生じたものでは決してない。震災をきっかけにして起こった虐殺は、当時の帝国日本が基本国策としていた、近隣諸国に対する侵略戦争と植民地支配の副産物であった。帝国日本の膨張主義の所産と言ってもよい。関東大震災は自然災害としての大事件である。その際に生じた、朝鮮人・中国人に対する虐殺は、別の大事件なのだ。対処や反省の仕方、再発防止のあり方、教訓の捉え方はまったく異なる。この点を曖昧にしてはならない。
膨張主義の国策を持つ国家は、侵略や植民地支配を正当化すべく国民心理を操作する。そのために、自国を賛美し対象国を侮蔑して排外主義を煽動する。根拠のない自国民の選民思想を吹聴し、近隣諸国の国民を故なく差別する。我が国の近代においては、そのための小道具として荒唐無稽な国体思想が一役も二役も果たしている。国民の大多数が、この天皇制国家の洗脳と煽動に乗せられた。本気になって、「日本は神国」で、近隣諸国は隷属すべきだと思い込んだ。国家が主導する教育の恐ろしさの実例である。
遅れた帝国主義国としての日本が、朝鮮・中国に侵略を開始して以後、その国の民衆からの抵抗を受けたのは当然のことである。それを苛酷に弾圧し、弾圧にさらなる反発があり…、という過程を経て、日本国民の心理に、中国人・朝鮮人に対する、潜在的な敵愾心や憎悪や恐怖が醸成されていった。
朝鮮全土での「3・1独立万歳運動」も、中国の「五四運動」も1919年に起きている。そのような緊張関係の中で、きっかけとなる大震災が起きたのだ。虐殺の本質的原因は、日本の侵略政策にあった。しかし、事件後100年に至るも、国はそのことを絶対に認めようとはしない。レイシストである東京都知事はなおさらのことなのだ。その状況の中での追悼式の継続は、日本と近隣諸国民の民衆間の友好と平和を築く礎としての高い意義を有している。この追悼の輪が国内に広がれば、平和と国際協調主義の基礎がそれだけ強固なものになる。
今や、排外主義をめぐってのせめぎ合いは、この追悼文送付をめぐる攻防に集約した感がある。
せめぎ合いの一方は、歴史的事実を直視して朝鮮人・中国人虐殺の事実を謙虚に認め、真摯に謝罪のうえ、今からでも真実を掘り起こす調査を開始し、その調査結果を各国で共有するとともに、その原因を国際的な叡智をもって究明して、絶対に同様の事態を繰り返さぬ再発防止の策を定めることを要求する。そして、それがアジアの平和につながるものと考える。
他方は、歴史的事実を無視し、あるいは偽造し、隠蔽して、朝鮮人・中国人虐殺の事実はなかったとし、あるいは正当防衛として、謝罪も調査も必要ないとする。排外主義と民族差別を肯定して、憎悪を煽る。保守陣営の中に、このような勢力が確かに存在する。いまや、小池百合子がその勢力の代表者となりつつある。
小池百合子は、毎年9月1日に横網町公園で開かれている朝鮮人犠牲者追悼式典に2017年以降、追悼文を送っていない。日朝協会など市民団体でつくる式典実行委員会は追悼文の送付を小池百合子に求めたが、「都慰霊協会が営む大法要で、関東大震災のすべての犠牲者に哀悼の意を表している」との理由で拒否し続けている。
本日、追悼式典の宮川泰彦実行委員長は小池都知事の姿勢を念頭に「過去の悲惨な歴史は恥ずかしいことだが、そこから逃げ回ることはもっと恥ずかしい。過ちを繰り返さないために子や孫、周りの人に語り継ぐことが我々の責務ではないか」とあいさつしている。そのとおりではないか。
「都慰霊協会が営む大法要で、関東大震災のすべての犠牲者に哀悼の意を表している」は、ウソつき百合子の詭弁に過ぎない。
虐殺犠牲者は震災で亡くなったのではない。震災の被害を免れて生き延びたのに殺害されたのである。災害死ではなく、無惨な虐殺死を遂げたのだ。人が人に対して加えたこれ以上はない残酷さで。その悲惨さ、無念さを同一に捉えることはできない。
人の死は哲学的にはすべて同じかも知れない。しかし、社会的、政治的、法的には、死は一様ではない。冤罪による刑死と、家庭内虐待死と、イジメによる自殺と、交通事故死とは、明らかに違う。最も異なるのは、原因と責任と社会としての対策の点である。ことさらに、すべてを同一の死と見ることは、それぞれの死の原因と責任を曖昧にすることを狙ってのこと以外にはない。
災害死には加害者が考えられないが、虐殺死は集団での殺人罪該当行為である。必ず、犯人がいる。文明社会では、責任の所在を明確にしなければならない。恥ずべき犯罪を煽動した国家と、軍と警察と、国家の煽動に乗せられた国民の、それぞれの責任を。
だから、災害死と虐殺死を同一視して「関東大震災のすべての犠牲者に哀悼の意を表している」と言うのは、ことさらに虐殺者の加害責任を隠蔽しようという、ウソつき百合子の姑息な詭弁と言わざるを得ないのだ。
また、これまでの歴代知事(あの石原慎太郎でさえも)が送付を続けてきた知事としての追悼文を突然中断したことについて、小池百合子は本当のところを説明しなければならない。右翼のデマ宣伝を根拠としていること、自分を支持する政治勢力の中心に歴史修正主義者がいること、実は自分は排外主義者だということ、などなどを。
真実を語ることができないウソつきだから、災害死と虐殺死を同列に置く詭弁を弄せざるを得ないのだ。このことは、何度でも繰り返さなければならない。