澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

元日は亡き父の誕生日、この日に父と母を想う。

(2026年1月1日)
 元日には父と母のことを語っておきたい。最近、その思いが強い。
 私の父・澤藤盛徳(本名盛祐)は、1914年1月1日に岩手県黒沢尻に生まれた。亡くなったのは1997年8月16日、没年は83歳であった。
 母・光子(戸籍上はミツ子・旧姓赤羽)は盛岡の人。1915年7月2日生まれで、亡くなったのは1998年1月11日。父の生年の翌年に生まれて、父の死亡の翌年に没している。
 その長男である私が今年の8月に83歳になろうとしている。父の没年に達するのだ。時の流れに感慨が深い。

 私の父は、戦前ひとのみち教団の熱心な信者だった。この教団は、天皇制政府から不敬罪を口実とした大弾圧を受けて、教祖は投獄、教団は解散の憂き目を見たが、戦後PL教団として復活している。父は戦後間もない時期に宗教的な体験を経て、この教団の布教師になった。母が賛成だったか反対だったかその心情はよく分からないが、結局これを受け容れた。

 そんなことから、兄弟4人が「宗教二世」として育つことになった。私は、教団の経典を読むことから文字を覚えた。父が教団の職員となってからは、その任地を転々とした。盛岡→沼津→静岡→広島→高松→再度広島と転居して、1949年4月に爆心地に近い広島市立幟町小学校に入学した。折り鶴の少女、佐々木禎子さんと同じ学校。次いで、広島市内の牛田小学校、三篠小学校を経て、宇部の小学校にも通っている。小学一年生で4校の転校は、父が教団の各教会を転々としていたから。

 人は生まれる場所を選べない。父が教会にいたころ、毎朝「朝詣り」を欠かさなかった。早朝、信者が教会に集い、まずは清掃をし、教団の歌を唱って礼拝をし、教話があって信者の体験談があって、時間のある者は朝食を共にした。父も母も、終日訪れる信者への対応に忙しかった。幼い私は、それ以外の生活を知らなかった。

 小学2年生以後は、親元を離れて清水市内にあった教団の寮に入り、そこから近くの駒越小学校に通った。次いで、教団の寮は大阪府の富田林に移り、地元の小学校・中学校に通った。どこでも、私たちは「ピーエルの子」と呼ばれていた。

 私にとって好運だったことは、父の信じた宗教が、狂信的なものではなく、俗世との絶断を要求するものではなかったことだ。私は、ものごころついたころから、「父の信じた宗教」を受け容れたが、それは理性を犠牲にしなければならない体のものではなかった。やがて、この「生まれ育った世界」からの脱出を夢見るようになり、教団が経営する私立高校の卒業とともに、私の「宗教二世」としての精神生活は完全に終わる。

 今振り返って、教団の居心地は悪くなかった。温かな人々の振れ合いが懐かしい。ここで育ったことをどう評価すべきか。思いは複雑である。 

 私は、穏やかで正直で真面目で人に対する思いやりのある父と母の間に生まれ育てられたことを好運だと思っている。その父と母は、果たして私が教団に残って信仰を続けることを望んでいたのだろうか。今となっては知る由もないが、18歳の私が、あの「世界」から離脱して自立する覚悟を示したとき、少なくとも反対はしなかった父と母に感謝している。

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