昭和天皇実録問題?琉球新報社説の迫力に感動
一昨日(9月9日)、昭和天皇実録とジャーナリズムの関係について当ブログで取りあげた。中央各紙の社説を紹介したが、その後気になって、いくつかの地方紙の社説にも目を通した。さすがに、中央各紙よりは地方紙の社説の水準が高く、姿勢もよい。
中でも琉球新報9月10日付社説が出色である。これに比べてのことだが、沖縄タイムスの10日付社説「[昭和天皇実録]戦後史の理不尽を正せ」はやや歯切れが悪く影が薄い。
琉球新報社説のタイトルは、「昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ」というもの。二つの責任とは、「戦争責任」と「戦後責任」のこと。沖縄県民の立場からの視点を明確にして、天皇の戦時中の戦争遂行についての責任と、戦後の戦争処理についての責任を、ともに明確にせよという迫力十分な内容。
同社説は、「昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている」という。内2回が「戦争責任」、1回が「戦後責任」に当たる。
「最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が『国体護持』の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は『今一度戦果を挙げなければ実現は困難』との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の『捨て石』にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。」
戦況を把握している者にとって、1945年2月には日本の敗戦は必至であった。国民の犠牲を少なくするには早期に戦争を終結すべきが明らかであった。しかし、天皇は『今一度戦果を挙げなければ実現は困難』と言い続けたのだ。この天皇の姿勢は、同年8月12日午後の皇族会議での発言(「国体護持ができなければ戦争を継続するのか」と聞かれ、天皇は「勿論だ」と答えている)まで一貫して確認されている。
この間に、東京大空襲があり、沖縄戦地上戦があり、各地の空襲が続き、広島・長崎の惨劇があり、そしてソ連参戦による悲劇が続いた。外地でも、多くの兵と非戦闘員が亡くなり、生き残ったものも塗炭の辛酸を味わった。天皇一人の責任ではないにせよ、天皇の責任は限りなく大きい。
「二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された『和平交渉の要綱』は、日本の領土について『沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする』として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から『捨てる』選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。」
国民を赤子として慈しむ、天皇のイメージ作りの演出が行われたが、実は、国体護持のためには「臣民」を「捨てる」ことにためらいはなかったのだ。沖縄県には、天皇の責任を徹底して追求する資格がある。
そして、最後が沖縄の現状に今も影響をもたらしている戦後責任。「天皇メッセージ」としてよく知られた事件だ。
「三つ目が沖縄の軍事占領を希望した『天皇メッセージ』だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り『25年から50年、あるいはそれ以上』沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。『天皇メッセージ』から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して『軍事植民地』状態が続く。『象徴天皇』でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。」
社説は次のように結ばれている。
「私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して『贖罪意識』を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には『戦争責任』と『戦後責任』がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。」
この社説が求めていることは、歴史の要所において、沖縄県民の命を奪い、あるいは不幸をもたらした国家の政策に、昭和天皇(裕仁)個人がどのように関わっていたかを明確にすることだ。未曾有の大戦争に天皇はどう関わり、戦後はどう振る舞ったのか。無数の人々の不幸に、どのような責任をもつべきなのかを明確にせよ、との要求なのだ。
私は、感動をもってこの社説を読んだ。ジャーナリズムは、この国の中央では瀕死の状態にあるものの、沖縄で健全な姿を示している。
(2014年9月11日)