澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「日の丸・君が代」強制拒絶の憲法論

いかなるもの、いかなることについても、好悪や意味づけは人それぞれに自由である。貴重なものとして価値を認めるか否か、神聖なものとして尊ぶか否か、敬意を表すべきものとして畏れいるか否か、その判断や選択は完全に個人の自由の問題であって、これを何人からも強制される筋合いはない。スカル・アンド・クロスボーンズの海賊旗が好きでも嫌いでもよい。ワグナーがお気に入りでもよし、あれだけは勘弁してくれと言ってもよい。まったく同様に、日の丸のデザインも、君が代の歌詞やメロディも、大好きであってもかまわないし、虫酸が走るくらいに大嫌いであってもけっこうなのだ。

ところが、自分の好悪や価値観を他人に押しつけようというお節介な圧力が、やっかいな問題を引き起こす。「日の丸・君が代は、すべての日本国民が敬愛すべきもの」とするお節介族こそが問題の元凶なのだ。

このお節介族は、二種類に分かれる。確信犯派と付和雷同派とである。

この社会において、国家的秩序の構築に利益を見だしている体制派にとっては、「日の丸・君が代」は国民統合の機能をもつ重要なシンボルである。天皇や元号とセットになって、国家や国民の一体感を形成し、アイデンティティー形成のための重要な小道具としての役割が期待されている。その考えからは、すべての国民に「日の丸・君が代」を尊重すべきものと刷り込んでおかなくてはならないことになる。自民党改憲草案などには、その方向が色濃く出ている。

もう一つは、付和雷同派である。この人たちにさしたる「考え」があるわけではない。しかし、「感性」のレベルでのナショナリズムを前提とした国旗国歌への愛着があり、マナーとしての「日の丸・君が代」尊重姿勢をもっている。この人たちには、「良識ある国民は『国旗国歌=日の丸・君が代』に敬意を表すべきだ」という観念が刷り込まれている。これがやっかいなのだ。

確信犯派は一握りに過ぎない。それが、付和雷同派をリードしている。その結果、この世の多数派には、「日の丸・君が代」は日本という国のシンボルとして敬意を表されてしかるべきだ、という抜きがたい先入観念がある。マインドコントロール後遺症である。これが社会的同調圧力を形成している。

この多数派の社会的同調圧力が基礎にあって、これに乗っかるかたちで国旗国歌法というものが成立した。1999年小渕内閣が野中官房長官主導で国旗国歌法案を国会提案したとき、私は共産党が組織を上げて徹底抗戦するかと思ったが、それはなかった。社共が反対し、民主党が完全に半々に割れて半分は反対したが、粛々と審議は進行し法案は成立した。「一般国民に国旗国歌が強制されることはない」と、審議の過程では首相も文相も繰り返したが、教育現場に「日の丸・君が代」が浸透してくるだろうとは誰もが予想し、予想は当たった。

かくして、社会的同調圧力は法律上の根拠を得て、行政通達や職務命令と懲戒処分を通じて教員への権力的強制の手段を獲得した。公教育を通じて、全国民への「日の丸・君が代敬愛刷り込み」の道が拓かれたことになる。国民の自由の幅が切り縮められたのだ。

その先頭に立ったのが、右翼石原慎太郎都政下の東京都教委であった。10・23通達と附属の「卒業式等の実施指針」を出した。これにもとづく起立・斉唱・ピアノ伴奏の職務命令と、その違反を根拠とする懲戒処分の濫発とで、公立校の教員に対する「国旗国歌への敬意表明の強制」が実行されて10年となった。

「日の丸・君が代」への好悪と、「日の丸・君が代」強制の是非に関する見解とは、まったく別の問題である。「日の丸・君が代」好悪の感情分布如何はさしたる大事ではない。教育の場に「日の丸・君が代」の強制は相応しくないという意見が圧倒的多数であったことが重要である。東京の教員の総意が10・23通達には反対だったと言って間違いではない。

当時東京新聞が都民にアンケート調査をしている。学校での「日の丸・君が代」強制には反対という意見は実に都民の7割に近い数字だった。しかし、石原都政とその提灯持ちとなった都教委のメンバーは、異様な情熱を傾けて、「日の丸・君が代」強制を実行し徹底した。

それでも、「自分が自分であるためには、日の丸・君が代の強制にはどうしても服することができない」という人たちがいる。また、「自分が選択した教師という職責を真摯に果たすためには、どうしても日の丸・君が代強制に屈することはできない」とする人々もいる。
 
不服従を貫いて懲戒処分を受けた教員は、これまで延べ463名に上っている。実は、不服従を貫いた人はこれよりも遙かに多い。また、このような学校の状況に絶望して職を辞した人も少なくない。この人たちは、真面目に思想や良心、あるいは信仰ということを考えた人、教育者としての使命を真摯に考え抜いた人々である。教育委員会だけを見ると日本の教育には絶望せざるを得ない。しかし、処分された教員を見ていると、日本の教育にも希望が見えてくる。

「日の丸・君が代」強制拒否の理由は実に多岐に及ぶ。本来は類型化に馴染まないのであろうが、敢えて典型的なものを挙げれば次のようなものと言えようか。

まずは、日の丸・君が代ではなく、国家のシンボルとしての国旗国歌に着目して、国家シンボルへの敬意の表明の強制があってはならない、との見解は多くの人に見られる。国旗が日の丸ではなく、国歌が君が代でなくなっても、起立も斉唱も強制されてはならないとの考えである。国家が個人を凌駕する地位をもってはならないとする、個人主義思想の表れである。

そして、「日の丸・君が代」の歴史性を問題にする人はもっと多い。「日の丸・君が代」は、まぎれもなく旧天皇制日本のシンボルとして、旧体制の理念と余りに深く結びついた。天皇主権、国民の軽視、軍国主義、排外主義、侵略主義、非知性、差別と監視の社会、思想弾圧、宗教弾圧。「日の丸・君が代」は、まぎれもなく「日本国憲法へのアンチテーゼ」と余りに緊密に結びついている。

日本の現代史は、敗戦と日本国憲法の制定によって断絶し、新たな原理の社会が再生したはずなのだ。ところが、この社会は旧悪を引きずっている。天皇制の残滓や元号の使用、そして「日の丸・君が代」である。自民党改憲草案のごとき先祖返りがたくらまれたり、政権にある人物が「戦後レジームを払拭して」「日本を取り戻す」などと叫んでいる現実がある。国も社会も本当には、生まれ変わってはいないのではないか。多くの日本人が自分の意識のなかで旧天皇制社会の名残としての「日の丸・君が代」を払拭し清算し切れていないのだ。主権を天皇から奪い取ったはずの国民が、抵抗感なく「天皇の御代の栄えいつまでも」と口を揃えて唱って怪しまれない、生ぬるい空気に満たされた社会なのだ。

戦前の日本は奇妙な宗教国家であった。明治維新を推進した政治家のプランニングによって、意識的に天皇の宗教的権威が再構成され誇張された。この天皇教は全国津々浦々の小学校を布教所として臣民をマインドコントロールし、恐るべき軍国主義的宗教国家を誕生させた。「日の丸・君が代」は、その宗教国家の生成過程で作られた宗教的シンボルでもある。日の丸とは、天皇の祖先神である日の神・アマテラスの象形、君が代とは、現人神である天皇の御代の永続を寿ぐ頌歌である。信仰を持つ者の視点からは、自らの信仰と相容れない強い宗教的シンボルである。無神論者からも到底受け入れられる余地はない。

問題は、以上のごとき思想・良心・信仰上の理由が、公務員である教員に対する「日の丸・君が代」への起立斉唱命令を拒否する理由となりうるかである。

この理は3局面において考えられる。
公権力行使の矢印を頭に浮かべていただきたい。その根元が教育委員会から発して、その先端が教員に到達する矢印を。この矢印は、職務命令と懲戒処分のセットで出来ている。もっとも、職務命令は形式的には校長が発するものだが、実質的には教委が通達に基づいて校長に強制している。この「日の丸君が代の起立・斉唱・伴奏強制」を矢印でイメージしていただけたら、その矢印の先端が鋭く教員の思想・良心に突き刺さっていることがおわかりいただけるだろう。

第一の局面はその「矢印の先」、人権が具体的に侵害されている局面である。誰もが想定する局面で、誰にも分かり易い。「日の丸・君が代」強制拒否訴訟では、最初から現在に至るまで、主要な論争局面である。

教委と教員とは、上級と下級の公務員関係にある。一般論としては、上級が下級に職務命令を発し、それに従わなければ懲戒処分を発することが可能である。それなくして、効率的な公務員秩序の形成と運用はあり得ない。しかし、矢印の先にある公務員とは実は生身の人間である。公務員という属性をもった人権主体なのであって、公務員という属性に向けられた公権力の行使が、不可避的に人権を侵害する場合には、公権力の行使が違法となり得る。具体的には公務員としての属性に対する「日の丸・君が代」強制が、人権主体である当該公務員の思想・良心・信仰の自由を侵害することになる。このような場合には、人権侵害から当該公務員を防御するために当該の公権力の行使の効果は抑制されなればならない。あるいは、公務員として上級の指示に従う義務が免除されなければならない。

これがこの局面での私たちの主張の概要だが、最高裁は結論としてこれをどうしても認めない。「日の丸・君が代」強制の公権力行使は、当該教員の思想良心の自由に対する「間接的な制約にはなる」ことまでは認めた。しかし「間接的な制約にしか過ぎない」から、厳格な違憲審査基準の適用は必要がない。「公権力の行使に一応の合理性・必要性があれば強制を認めてよい」と大きくハードルを下げて、違憲・違法の主張を斥けている。もちろん、反論が積みかさねられ、論争は継続している。

第二の局面は「矢印の根元」、そもそもそのような公権力を発することができるのだろうか、という問題設定である。

第一の局面では、個別的なそれぞれの公務員の具体的な思想・良心・信仰の内容が問題となり、これと抵触する限りにおいて公権力が制約されることになるが、第二の局面では、公権力の行使それ自体が無効にならないかという問題設定なのだから、誰に対する関係でも、その公務員の思想や良心の如何にかかわらず、違法あるいは無効となる。

第二の局面における「公権力の発動そのものが違憲・違法」だという根拠は、まさしく国旗国歌という国家シンボルを、国民の上に置くところにある。本来、国民の意思によって、便宜こしらえられている立場にあるに過ぎない国家が、国民に対して「我に敬意を表明せよ」と強制することを認めるのは、立憲主義の大原則からは倒錯であり背理であるということなのだ。

また、第二の局面の重要な柱として、教育行政は教育の内容に原則として介入してはならないとする近代憲法の大原則に依拠した主張が積み重ねられてもいる。

しかし、これに対して、まだ最高裁はなんとも答がない。

そして、今、第三の局面の議論を始めている。矢印の先にある人権侵害を問題とするのではなく、また、矢印の根元で発令を認めないとするものでもない。謂わば矢印の全体を考察の対象とし、総合的な全体像を考慮することによる違憲の根拠を構成しようという発想。

たとえば、「教員の職責」論を取り入れようという提案が検討されている。教員の職責は、主観的に決まるものではない。子どもの教育を受ける権利に奉仕するための職責として客観的に内容が決まるものであろう。その職責の中には、無批判に「日の丸・君が代」への敬意表明を肯定することに疑問を呈するべきことも含まれているはずではないか。

関連して、専門職としての教員の矜持の侵害という側面の強調すべきではないかという研究者の提言もある。

またたとえば、思想統制あるいは管理体制強化という「教育委員会の真の目的」をあぶり出す議論なども憲法論に取り込むべきではないか。

最高裁は、「判例変更」には抵抗感が強い。しかし、局面を変え、視点を変え、まだ判断していないことについての新たな問題提起としてであれば、最高裁も耳を傾けやすいのではないか。あらゆる方法を考えてみたい。
(2015年1月17日)

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Published in 土曜日, 1月 17th, 2015, at 23:57, and filed under ナショナリズム, 教育, 日の丸君が代, 立憲主義.

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