個人を根本から支え勇気を与える「不壊の理念」としての日本国憲法
刈部直の「丸山眞男?リベラリストの肖像」(岩波新書)は丸山眞男が論じたところをコンパクトに紹介している。多くの人にとって、直接に丸山の著作の一部を読むよりは、刈部の新書を読む方が、丸山をはるかによく理解できるのではないだろうか。その丸山眞男論は多様な問題点を投げかけているが、そのなかの一つとして、「個人を根本から支え勇気の源泉となる思想」という問題提起がある。
「ノンポリ」学生だった丸山眞男だが、治安維持法違反容疑で特高警察に捉えられ、元富士署で尋問を受けた経験をもつ。1933年4月旧制高校3年生の時のこと。1か月前に多喜二が虐殺されている、その時代のことだ。丸山だけでなく、クラス40人のうち8人が在学中の逮捕を経験しているという。
丸山は、このとき「俺はだらしない人間だ。いざとなると、平常、読書力などを誇っていたのが、ちっとも自分の支えになっていない」と、大きな挫折感を覚えたことを回想している。大した考えもなく講演会に足を運び、うかつにも逮捕されてしまうことで、国家権力の発する暴力を、突然に体感することになった。留置場で涙を流してしまったことは、そうしたこれまでの自分が、実は浮薄きわまりない、たしかな核を欠いた人間であることを、重く自覚させたのである。その思いは、「本物」の思想犯でありながら、むしろそうであるがゆえ同じ房内で毅然としていた戸谷敏之(一中・一高で一級上の学生、放校となる)に涙を見られた、恥の感覚とも重なっていた。権力による弾圧という運命に屈し、不安に怯えてしまう自分が、ここにいる。これに対して、外からどのような苦難にさらされようとも、誇りを保ち平然としていられる主体性を、どうすれば心の内に確立できるのか。これを意識しはじめたのが、十九歳の青年丸山における、自我の目ざめと言ってもよいだろう。
この点で丸山に手本となる感銘を与えたのが、マルクス主義者ではなく、自由主義者・河合栄治郎と、ドイツ社会民主党のオットー・ウェルスであったというのが興味深い。
丸山は(旧制)大学一、二年と河合栄治郎の講義を聴き、経済学部の親睦組織「経友会」が開いた「自由主義批判講演会」での討論で、河合が左右からのリベラリズム批判の論客に対して、毅然と応戦する姿を目にしている。そして、総合雑誌にファシズム批判を書き続け、二・二六事件に際しても、『帝国大学新聞』と『中央公論』に論説をよせ、「ファッシスト青年将校」たちを放置してきた軍部当局の責任をきびしく追及した河合について、その評価を百八十度変えることになった。丸山は、西欧近代のリベラリズムが唱えてきた、自由や人権の理念への強い帰依が、個人を根本から支え、どんな圧力にも屈しない勇気を与える例に接し、深い感銘をうけていたのである。
一九三三年三月、ドイツの帝国議会で、首相アドルフ・ヒトラーに立法の大権を譲りわたす全権委任法が審議されていた。これに対して、議事堂の外も傍聴席も、ナチ党員がとりまき、罵声がとびかう中で、社会民主党の議員、オットー・ウェルスが、青ざめながら敢然と異を唱えたのである。その演説を、丸山は大学時代にドイツ語の原文で読み、のちまでその言葉を記億に刻みつけることになる。
丸山の座談会における回想が紹介されている。
「『この歴史的瞬間において、私は自由と平和と正義の理念への帰依を告白する』。『いかなる授権法もこの永遠にして不壊なる理念を破壊することはできない……』。そのあとに、『全国で迫害されている勇敢な同志に挨拶を送る』云々とつづくんです。』ここで彼(ウェルス)はいかなる歴史的現実も永遠不壊の理念を破壊しえない、という信仰告白をしている。この瞬間での自由と社会主義への帰依は、歴史的現実へのもたれかかりからは絶対に出てこないし、学問的結論でもない。ギリギリのところでは「原理」というのはそういうものでしょう。」
国家権力が極大化し、抵抗者が暴力によって抹殺されてゆく危機にあって、あえてその理念が「永遠にして不壊」であることを強調し、それに対する帰依を宣言しながら、世の大勢に抗したのである。この演説を読んでいらい、「歴史をこえた何ものかへの帰依なしに、個人が「周囲」の動向に抗して立ちつづけられるだろうか」という問題が、頭を離れなくなったという。この回想の言葉は、丸山自身の信仰告白でもあろう。
時代の変化はあるにしても、人聞が人間として、社会を営もうとするかぎり、決して失なってはならない原理。そうした理念への帰依こそが、個人が「歴史的現実」に対して、一人で抗してゆく強靭さをもたらすのである。…そうした問題関心はむしろ、ウェルスの演説にふれることで、はっきりと抱かれるようになったのではないか。
河合栄治郎に関して、「自由や人権の理念への強い帰依が、個人を根本から支え、どんな圧力にも屈しない勇気を与える例」とし、ウェルスについては、「自由と平和と正義」を「永遠不壊の理念」あるいは「決して失なってはならない原理」として、それへの帰依が語られている。
おそらく日本国憲法は、そのような「永遠不壊の理念」を内包しているものと読み取るべきであろう。日本国憲法を学ぶとは、そのような「永遠不壊の理念」を血肉化することなのだ。
(2016年1月12日)