あらためて国民主権を確認しよう。天皇生前退位の可否は、主権者の意思次第なのだ。
言うまでもないことだが、国民が主権者。その主権者の意思に基づいて天皇という公務員の職種が設けられている。天皇は、憲法遵守義務を負う公務員の筆頭に挙げられ、他の公務員と同様に国民全体に奉仕の義務を負う。その天皇は、日本国憲法においては、日本国と日本国民統合の象徴とされている。日本国憲法は、明治憲法とは明らかに異なる新たな象徴天皇の地位を創設した。たまたま、その「初代象徴天皇」に、人間宣言を経た旧憲法時代の天皇が引き続き就任し、現天皇は2代目である。
その2代目天皇が、高齢を理由とする生前退位の意向を表明した。「既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。」と自ら語っている。
現行皇室典範には天皇の生前退位の制度はない。しかし、憲法には、退位禁止も容認も書いていないのだから、国会で議論して皇室典範(法形式は国会で改廃できる「法律」)の規定を変えれば可能となる。どちらでもよいことで、天下の一大事ではない。天皇の生前退位が認められようと否定されようと、国民生活になんの影響もない。
高齢の天皇が、現行の国事行為に関する執務の作業量が膨大でできないというのなら、作業を最小限にしぼればよい。象徴とは存在するだけのもの。象徴であることから、なんら法的効果が導かれることはない。象徴が何らかの権利の根拠になるわけでもなく、象徴だからこれだけの執務をしなければならない義務が生じるわけでもない。象徴としての天皇は、どこに出向く必要もなく身体的動作も必要ない。国会の開会式出席などは不要だし、皇室外交も象徴と結びつくものではない。全部辞めてもよいのだ。
天皇は、「憲法が定める国事に関する行為のみを行う」とされる。そのほとんどは、書面に署名をする能力で足りる。「外国の大使・公使の接受」くらいが高齢で差し支えることになるだろうか。その場合は摂政を置くことになる。あるいは、国事行為の臨時代行者選任という制度もある。それでなんの不都合もない。
しかし、高齢の天皇が生身の人間として、天皇という職に束縛された境遇からの解放を望み、世人の注目から逃れて晩年を自由に過ごしたいというのであれば、国民の代表が国会で議論してその可否を決すればよい。
憲法22条1項は、「何人」にも職業選択の自由を保障しているが、天皇だけは「何人」の中にはいらない。天皇は憲法上の自由を行使できない。その結果、高齢の天皇は自らの意思だけでは、その地位から解放されない。国会の議論と決議に委ねられているのだ。私は、天皇が退位したいという希望なら、敢えて、その意に反する義務を押しつけ続ける必要があるとは思わない。
天皇の生前退位を認めないというのは、明治維新以後の新制度だ。象徴天皇となってからは、現天皇はまだ2代目。どんな制度設計も主権者の意思次第。伝統だの歴史だのと考慮すべきほどのものはない。
繰り返すが、「天皇の生前退位など、多くの国民にとっては子どもの保育園問題や親の介護問題ほどの重大事ではない」「天皇の願望を叶えるか否決するかは、すべて主権者国民の意思による」ことを自覚することだ。メディアにつられて大騒ぎするのは、愚の骨頂というほかはない。
但し、天皇の生前退位を認めるか否かの問題を通じて、天皇の存在や天皇のあり方が、すべて主権者国民の意思によるものであることを確認する好機ではある。これを機に、天皇制を廃止する議論が大いに巻きおこってもよいのだ。
(2016年8月8日)