イナダ防衛大臣の靖國神社参拝は、公的参拝として違憲である
本日(12月29日)午前、イナダ防衛相は靖国神社を参拝した。防衛省によると、2007年1月の省昇格後、防衛相の靖国参拝は初めてだという。防衛庁時代からだと、2002年8月15日の中谷元・防衛庁長官の参拝以来のこと。言うまでもなく靖國神社は戦前の国家神道における軍国主義の側面を代表する軍事的宗教施設である。その宗教施設への防衛相の参拝が、近隣諸国の国民の神経を刺激することになるのは当然のことだ。
多くのメディアが、「中国、韓国両政府は稲田氏の対応を批判。北朝鮮の核・ミサイル開発をにらんだ韓国との防衛協力や、中国との防衛交流にも影響」と報道している。共同通信に至っては、「稲田朋美防衛相による靖国神社参拝について、オバマ米政権は公式な反応を示していないが、日米首脳が連れ立って真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する歴史的なハワイ・真珠湾訪問の直後に、中韓などが軍国主義礼賛の象徴と見なす靖国を重要閣僚が訪問したことに、強い不快感を抱いているとみられる」「稲田氏の参拝は米国側には、両首脳の真珠湾訪問に冷や水を浴びせる行為と映りかねない」と配信している。
参拝後、イナダは記者団に「今の平和な日本は祖国のために命をささげられた方々の尊い命の積み重ねの上にある。未来志向に立ってしっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」「家族とふるさとと国を守るために出撃した人々の命の積み重ねのうえに今の平和な日本があるということを忘れてはならないし、忘恩の徒にはなりたくないと思っています」などと語っている。
自衛隊員からも公然と、「少々頼りない」と言われるイナダである。国会で野党議員からの追及にべそをかく醜態も演じている。「少々頼りない」の批判に過剰に反応して、「強い防衛大臣」という姿勢を見せようと、結局暴走してしまったようだ。記者団へのコメントも、ナショナリズムの感情だけは語られているが、そのことがなぜ靖国参拝に結びつくかの論理に欠け、説得力も迫力もない。
それより問題は、違憲・違法の点にこそある。イナダは弁護士だというではないか。自分の行為が違憲でも違法でもないことをきちんと説明すべきだろうが、情緒的な語り口に終始して、違憲を回避する法的根拠を語りえていない。
イナダが玉串料を私費で支払ったと言っていることからすると、参拝は私的なもので、閣僚としての公的な資格に基づくものではない、と主張したい如くである。
しかし、記者団が確認したところでは、「防衛大臣 稲田朋美」と記帳がなされているというではないか。これは、イナダが「防衛大臣」という公的資格をもって靖國神社に参拝したことにほかならない。肩書記帳とは、そのようなものだ。
人は、私人であるだけでなく、幾つもの立場をもっている。肩書の記帳とは、参拝を受け入れる側である宗教法人靖國神社に対して、参拝者の立場を明示するものだ。私人としての参拝であれば、氏名だけでよい。私人としてでなく、特定の団体のメンバーとしての立場であれば、その団体名を書くことなる。公的な資格での参拝であれば、その資格を明記する。靖國神社はその肩書きにしたがった参拝として遇することになる。宗教的な意味合いからは、靖國神社の祭神にどのような立場、資格でまみえるかは、肩書き記帳以外にはないのだ。
イナダは、「防衛大臣」の肩書を記帳することで、「防衛大臣」の公的資格をもって参拝することを靖國神社に伝えたのだ。私的な参拝であれば、肩書は不要である。この一事で、私的参拝でないことは明らかと言ってよい。
イナダは、「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝したということだ」と弁明したそうだが、姑息千万。「防衛大臣である稲田朋美」は私人でない。「一国民としての私的な」立場であるためには、「防衛大臣」という肩書を外すことが必要条件である。もちろん、肩書を外せば私的参拝になるわけではないが、「防衛大臣」の肩書を記帳して、「実は私人としての参拝」とは、見苦しいにもほどがある。通用する言い訳になっていないではないか。自分を支援する右翼団体に向けて、涙を浮かべた今夏の醜態を挽回のつもりだろうが、かえって恥の上塗りだ。「頼りない」レベルではない。「到底信用のおけない卑怯な振る舞い」と言わねばならない。
かつて、自民党内閣は、「私的参拝4条件」を明確にしていた。政教分離に違反した違憲の公的参拝であるとの批判を避けるためには、「公用車不使用」「玉串料を私費で支出」「一切の肩書きを付けない」「職員を随行させない」の全部が必要というものであった。不十分ではあれ、それなりに真面目に違憲を避けようとの配慮が感じられる。今の政権には、このような真面目さがない。とりわけ、今回のイナダの参拝はひどい。
総理や閣僚の靖國神社公式参拝について、その合違憲判断の基準に関する最高裁判決はまだない。高裁レベルでは、1991年1月10日の岩手靖国違憲訴訟控訴審判決が詳細な検討の結果、違憲と断じている。長大な判決理由の、結論部分だけを引用する。
靖國神社の宗教性
「靖国神社は明らかに宗教法人法における宗教団体であり、また、憲法上の宗教団体である。そして、神社は神祇(神霊あるいは祭神)を奉祀し、祭典を執行して、公衆の参拝に供するものである。また、祭神は神社の主体、根本をなす中心的要素であって、祭神に対する拝礼は、神の存在を認め、神に対する畏敬崇拝の念を表す行為であるというべきである。靖国神社の祭神は、多数にのぼること前記のとおりであるが、それは、靖国神社が戦時事変の殉難戦死者を祭神としているからであって、そのことによって、靖国神社の宗教団体性が他の神社と区別されるいわれはない」
参拝行為の宗教性
「参拝の宗教的意義ないし宗教性について考えてみるに、神社参拝という行為は、祭神を奉斎した神社に赴いて、祭神に対して拝礼することを意味する行為であるから、まさに、宗教的行為そのものというべきである。」
私的参拝は自由だが、公的参拝は許されない
「参拝は、祭神に対する拝礼であるから、もともと参拝者の内心に属する宗教的行為というべきであり、したがって、それが私的なものとして行われる限り、何人もこれに容喙することは許されないが、右参拝が公的資格において行われる場合には、右参拝によって招来されるであろう国家社会への波及的効果を考慮しなければならないから、憲法20条3項の規定する宗教的活動の該当性が吟味されるべきものと考える。」
追悼又は慰霊を目的とする公式参拝も許されない
「追悼又は慰霊を目的とする公式参拝は非宗教的行為といえるかどうかについて検討することとする。内閣総理大臣等が公的資格において参拝することは、その主観的意図ないし目的が戦没者に対する追悼(それ自体は非宗教的なものとして世俗的なものと評価されよう。)であっても、これを客観的に観察するならば、右追悼の面とともに、特定の宗教法人である靖国神社の祭神に対する拝礼という面をも有していると考えざるをえない。(略)公式参拝については、その主観的意図が追悼の目的であっても、参拝のもつ宗教性を排除ないし希薄化するものということはできないといわざるをえない。」
結論
「天皇、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、右公式参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
イナダは、謙虚に、心してこの判決を熟読せねばならない。この判決は、天皇と内閣総理大臣の公式参拝について触れているが、閣僚についてもまったく同様である。以下のとおりに読み替えができるのだ。
「防衛大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国の機関として、特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、イナダ防衛大臣の防衛大臣として肩書を付した靖國神社参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
(2016年12月29日)