澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

大統領令拒否のイェーツの良心と、「日の丸・君が代強制」を拒否する教師の良心と。

サリー・クイリアン・イェーツ。オバマが任命し、トランプが解任したアメリカの司法副長官である。一昨日までは、まったく知らなかったその人が、昨日から今日(1月31日)にかけて、世界の注目を浴びる存在となった。

この人は、弁護士から検察官となり、連邦検事からオバマ政権で司法副長官に指名され連邦上院で承認を受けた。2015年5月のこと。その票決は84対12であったという。その1年半後に政権が交代したが、トランプ任命の司法長官に対する議会の承認が遅れる事態において、その空位を埋めるために、トランプの要請を受けて司法長官代行を引き受けた。暫定措置ではあるが、司法省のトップとなったわけだ。

こともあろうに、ならず者トランプは、イスラム教徒の多い中東・アフリカ7カ国(シリア・イラク・イラン・リビア・ソマリア・イエメン・スーダン)からの難民・移民の入国を一律制限する大統領令を発して、世界を混乱におとしいれた。米国内にもこの無謀な措置を違憲とする動きが澎湃として湧き起こった。違憲訴訟が起こされたら、政権側の法律家がこれに対応する。イェーツは、その元締めの立場に立たされた。

世界に衝撃が走った。「イェーツ米司法長官代行は30日、『大統領令は、合法であるとの確信が持てない』として、司法省は政権を擁護しないとの見解を明らかにした」というのだ。「この大統領令を法廷で弁護しないよう省内に指示した」「大統領令の合法性や政策としての有効性に疑問があると述べた」という表現の報道もある。

イェーツの決意は徹底していた。同省の弁護士らに、こう述べたという「大統領令が『常に正義を追求し真実を支持するという司法省の厳粛な義務と合致している』とは考えない」。

トランプ政権はただちに長官代行を解任し、後任を任命した。この間、わずか1時間であった。ホワイトハウスの声明は、イェーツ氏が「米国の市民を守るために作られた法律命令の執行を拒否し、司法省を裏切った」と言っている。

イェーツは、政権の上級法律顧問への書簡でこう言っているそうだ。
「(司法長官代行としての)私の責任は、司法省の立場が法的に正当化できると同時に、法律の最も正しい解釈に裏付けられいるよう、保障することです」、「私たちが法廷でとる立場は、常に正義を追求し、正しいことを支持するというこの機関の、厳粛な責務に常に一致していなければならない。」

本来、行政は上命下服の関係が貫かれた一体性を保持しなくてはならない。大統領令に公然と叛旗を翻したイェーツの行為には、当然に批判の立場もあろう。しかし、彼女の職責に関わる良心からは、やむにやまれぬ行為であったことが推察される。

行政の一体性だけでなく、そもそも政権の存立自体も、結局は国民の福利のために憲法が定めた制度である。違憲の大統領令の執行が国民の福利に反するこのときに、無難に大統領令に従うべきか、それとも、憲法の理念を遵守すべしという法律家の良心が命じるところに従うべきか。

彼女の立場や気持は、日の丸に正対して起立し君が代を斉唱するよう命じられた教員によく似ている。公務員としては職務命令に従うべきとされても、教育者の良心が命じるところにおいては起立してはならないのだ。国家は、国民に価値観を強制してはならない。ましてや教育の場で、国家主義を子どもたちに刷り込むことは許されない。教師として、そのような行為に加担してはならないとして不起立を貫いた延べ500人に近い教師が懲戒処分を受けているのだ。

どう考えても、人種・国籍・民族・宗教による差別意識丸出しの、違憲明白な大統領令が間違っている。多くの抗議によるその撤回あるいは是正が望まれる。日の丸・君が代も同様だ。石原慎太郎アンシャンレジーム都政が作りあげた、国家主義丸出しの「日の丸・君が代強制」が間違っているのだ。そして、その強制を支持しているアベ政権の歴史修正主義が間違っているのだ。

いま、世界の世論は、トランプを責めてイェーツを称賛している。これこそが歴史の求める健全な状況だ。日の丸・君が代強制も同じこと。良心に基づく不起立の教員を責めてはならない。強制と処分を繰り返している都教委をこそ、そしてその背後にあるアベ政権をこそ批判し責めるべきなのだ。
(2017年1月31日)

「国旗国歌(日の丸・君が代)とは何か」

東京都(教育委員会)を被告とする、第4次・東京「君が代」裁判(「君が代」斉唱職務命令違反による懲戒処分取消訴訟)は、証拠調べが終了し次回が結審となる。「第13準備書面」となる最終準備書面を弁護団で分担して執筆中だが、さて何を書くべきか。これまでの繰りかえしではなく、裁判官に説得力をもつ論旨をどう組み立てるべきか。

私が分担する幾つかのパートの中に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」という標題の章がある。国旗・国歌についても、また「日の丸・君が代」についても、これまでも幾度となく書面を作成してきた。とりわけ、戦前と戦後における日の丸・君が代の歴史について。これまでとは違った切り口で、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」を、どう描くことができるだろうか。

これまでは、国旗国歌への敬意表明の強制が、思想・良心の自由や信仰の自由という基本的人権を侵害するという枠組みの主張を主としてきた。「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」の内容も、それに整合する叙述となっていた。

第4次訴訟では、これを「主観的アプローチ」として、「客観的アプローチ」と名付けたもう一つの枠組みをも重視する方針としている。主観的アプローチが、特定の人の人権に対する関係で違憲違法の問題を生じるのに対し、客観的アプローチは権力の発動自体を違憲違法とするもので、だれに対する関係でも許容されないことになる。

「客観的アプローチ」の一つは、国家と国民の関係についての原理論的な立論である。国旗国歌が国家象徴であることから、主権者である国民と国家との関係が、国旗国歌の取り扱いに投影されることになる。そのことから、国旗国歌の取り扱いに関する公権力の発動には自ずから限界が画されることになる。

「客観的アプローチ」のもう一つは、問題の起きているのが教育の場であることからの教育法理による権力への制約である。公権力は、原則として教育内容に介入することはできない。

また、教員は、その職責において、生徒にあるべき教育を受けさせなければならない。多様な価値観が併存することがノーマルな社会で、多様な価値観に寛容でなければならない。国家と個人との関わりを、国家主義的な立ち場のみを是として、国旗国歌(日の丸・君が代)尊重だけが唯一の正しい立場だとしてはならず、そのような職責全うのための行為は許容されなければならない。

以上のような立場からの論述なのだが、さて具体的にはどうなるだろうか。

そもそも国家とは国民の被造物にすぎない。国民によってつくられた被造物である国家が、造物主である国民に向かって、「我を敬せよ」と強制することは、背理であり倒錯である。国旗国歌への敬意表明の強制とは、このようなものとして公権力が原理的になしうるものではない。

国旗国歌は、国家象徴として国家と等価である。国民に国旗国歌への敬意表明を強制できるとすることは、国家に国民を凌駕する価値を認めるということにほかならない。近代憲法をもつ国において、本来なし得ることではない。

国旗国歌は、原理的な意味づけをもつだけではない。歴史的な意味を付与されることになる。ハーケンクロイツは、ナチスの全体主義、民族的排外主義、優生思想等々との結びつきによって戦後廃された。「日の丸・君が代」はどうだ。天皇主権、軍国主義・植民地主義・人権弾圧の大日本帝国とあまりに深く結びついたが、この旗と歌は、日本国憲法下に生き延びた。

「日の丸・君が代」を、日本国憲法尊重の立場から、反価値の象徴と考えることには合理的根拠があり、反憲法価値の象徴への敬意表明の強制は、思想良心の自由の侵害(憲法19条)として許されない。

それだけでなく、「日の丸・君が代」は、天皇を神とし祭司ともする天皇教(国家神道)とあまりに深く結びついた、宗教国家の象徴であった。天皇教以外の信仰をもつ者にとって、「日の丸・君が代」の強制は異教の神への崇拝を強制するものとして受け入れがたく、憲法20条(信仰の自由)に抵触する。

原告らは、教員として、日本国憲法が想定する国家からの自由と自主性を確立した明日の主権者を育成する任務を有している。子どもに寄り添う立場から、国旗国歌・「日の丸君が代」尊重が唯一の「正しい」考え方であるとの一方的な押しつけを容認し得ない。

憲法とは、究極的には国家と国民の関係の規律である。国家と国民の関係については、憲法が最大の関心をもつところである。国旗国歌が国家象徴である以上は、国旗国歌の取り扱いは、憲法の最大関心事と言ってよい。

国家が、すべての国民にとって親和的であろうはずはない。国家にまつろわぬマイノリティーとしての国民は必ず存在する。すべての国民に、国家象徴への敬意表明を強制することは、必然的に少なからぬ国民にとって、自らの内面に反する行為を強制されることになる。そして、真面目な教員ほど、国家主義による生徒への思想動員に加担できないのだ。

私たちは、戦前をどのように反省したのだろうか。

集団の象徴として意味づけられた「旗」(デザイン)や「歌」(歌詞+メロディ)は、対外的には他の集団との識別機能をもち、対内的には集団の成員を統合する機能をもつとされる。国家あるいは国民の象徴と位置づけられた国旗・国歌も同様に、対外的には他国との識別機能をもち、対内的には国民の統合作用を発揮する。

そのことは、国旗国歌がナショナリズムと結合し、ナショナリズムの鼓吹の道具にされていると言うことにほかならない。国旗国歌が歴史的にもつ理念とその理念に基づく統合機能は結局はマジョリティの支配の道具にほかならない。

そのマジョリティの要望を教育の場に持ち込んではならない。教育とは、多様性を重んじつつ、それぞれの選択による人格の完成を目指すものではないか。「みんな違って、みんないい」のだ。型にはめ、同じ価値観で、同じ行動をとらせるように訓練することは、教育の場には馴染まないのだ。
(2017年1月12日)

アメリカ国民には、星条旗を焼却する「表現の自由」の保障がある。

一昨日(11月30日)の、【ワシントン=時事】配信記事が目を引く。
「トランプ次期米大統領は29日、国旗を燃やす抗議行動に対し、市民権剥奪か禁錮を刑罰として科すべきだという考えを示した。米国では党派を問わず、憲法で保障された言論の自由を軽視していると批判が広がっている。」という内容。

この2文の前半。反知性・差別主義のトランプが、「国旗を燃やす抗議行動に対し、市民権剥奪か禁錮を刑罰として科すべきだという考えを示した」では、犬が人に噛みついた程度のニュースで、目を引くほどのものではない。しかし、後半の「米国では党派を問わず、憲法で保障された言論の自由を軽視していると批判が広がっている」というのは、人が犬に噛みついたほどのニュースバリューのある記事ではないか。

「トランプ氏は29日朝、ツイッターに『国旗を燃やす行為は、許されるべきではない』と投稿。『燃やした場合は結果が伴わなければならない。市民権剥奪か刑務所行きだ』と書き込んだ。トランプ氏の大統領選勝利に抗議して国旗が燃やされたというニュースに、触発されたとみられている。」
こここまでが、「犬が人に噛みついた」ニュースバリューのない記事。

しかし、ここからが「人が犬に噛みついた」ニュースバリュー満点の記事となっている。
「米メディアによれば、連邦最高裁は過去の判決で市民権を奪う刑罰を禁じている上、国旗を燃やす行為を憲法上の権利と認めている。
 アーネスト大統領報道官は、記者会見で『国民の多くが国旗を燃やすのは不快だと感じるが、私たちには権利を守る責任がある』とトランプ氏を批判。共和党のマコネル上院院内総務も『米国には不快な言論を尊重する長い伝統がある』と異論を唱えた。
 米メディアの間では『トランプ氏が反対論をどのように弾圧するかを示す恐ろしい証拠』などと非難する声が強まっており、トランプ氏を支えてきたギングリッチ元下院議長は『誰からもチェックを受けず(ツイッターで)つぶやくべきではない』とたしなめた。」

トランプは、刺激的なポピュリズムの言動で大統領選に勝利した。ナショナリズムこそは、古典的にポピュリズムの典型テーマ。調子に乗って「国旗を燃やす奴は刑務所行きだ」と愛国者ぶりを発揮して見せたのだ。ところが、この発言は良識派から強くたしなめられての失点になったという構図だ。アメリカはポピュリズム一辺倒ではない。共和党内からの批判も出ているというのが心強い。

ところで、国旗(星条旗)の焼却は犯罪となるだろうか。トランプ政権は、国旗(星条旗)の焼却者を「刑務所行き」にできるだろうか。

アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの統合作用なくして国民の一体感形成は困難だという事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、合衆国全土の2州を除く各州において国旗焼却を処罰する州法が制定された。その法の適用において、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。

著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。

連邦法は、68年「国旗冒涜処罰」法では足りないとして、89年「国旗保護」法では、アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までを構成要件に取り入れた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を獲得した。

アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている自由、そして尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」
なんと含蓄に富む言葉だろうか。(以上の出典は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟における土屋英雄筑波大学大学院教授の意見書から)

わが国の刑法には、外国国旗損壊罪(92条)はあっても、自国の国旗(日の丸)損壊罪はない。この点、アメリカよりはわが国の文明度が高いと誇ることができよう。しかし、これも現行憲法が健全なうちのこと。自民党の改憲草案には、国民の国旗国歌尊重義務が明記されている(3条2項)。こんな憲法になれば国旗(日の丸)損壊罪や国旗侮辱罪が成立するだろう。全国民が一糸乱れず国旗を仰ぎ見る、これは全体主義の悪夢ではないか。

トランプを当選させたアメリカだが、けっして全体主義化しているのではないと知って、やや安堵の思いである。
(2016年12月2日)

あらためて「薄皮まんじゅう理論」にご理解を

2003年10月、東京都の石原教育行政が、悪名高い「10・23通達」を発令して以来、予防訴訟を皮切りに、都(教委)を被告とする数多くの訴訟が提起されました。その訴訟の支援を軸として、日の丸・君が代への起立斉唱の強制に象徴される「教育の自由剥奪」に反対する運動が組み立てられています。

多くの「10・23通達」関係訴訟支援運動を糾合する組織として結成されたものが、「教育の自由裁判をすすめる会」。その<共同代表>が、下記の9人です。
  市川須美子(獨協大学、日本教育法学会会長)
  大田 尭(東京大学名誉教授)          
  尾山 宏(東京・教育の自由裁判弁護団長)    
  小森陽一(東京大学大学院教授)         
  斎藤貴男(ジャーナリスト)           
  醍醐 聰(東京大学名誉教授)          
  俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
  野田正彰(関西学院大学教授)          
  堀尾輝久(東京大学名誉教授)    

訴訟を担当する者の一人として、物心両面において訴訟を支えていただいていることに厚く感謝申しあげます。

その「会」の定期総会も回を重ねて今年は第12回。下記の要領で開催されます。
 日 時 12 月3 日(土) 13:30 ~
 会 場 東京・渋谷区立勤労福祉会館
(渋谷駅下車徒歩7 分)
 第1部 総会行事
  弁護団挨拶 加藤 文也弁護士
  原告団報告
  すすめる会活動報告・方針 人事等
 第2部 記念講演
   講 師 木村 草太(首都大学東京教授)
       「君が代不起立問題の視点―なぜ式典で国歌を斉唱するのか?」

会は、「どなたでもご参加いただけます。」「会員以外の方も大歓迎です!」と呼びかけています。是非、木村草太さんの記念講演に耳を傾けてください。

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ところで、共同代表のお一人である醍醐聰さんが、定期総会にメッセージを送られ、これをご自分のブログに掲載されています。タイトルが、「『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』を」というもの。いつもながら、示唆に富む内容だと思います。
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d56e.html正確には、ブログで醍醐さんのメッセージの全文をお読みいただくとして、タイトルと3本の小見出しをつなぐことで、大意と問題提起の把握は可能です。

☆『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』を
☆「内心の自由」は個人の尊厳を守る最後の砦
☆意見の違いは「認め合う」だけでよいのか?
☆「日の丸・君が代」強制に対する「攻めの運動」を

今、運動のスローガンとなっている「思想・良心の自由」擁護とは、外的な行為とは切り離された「内心レベルの自由」を権力の侵害から護ること。これは、個人の尊厳を守る最後の砦ではあるが、いま、これだけではなくもっと能動的な「攻めの運動」の必要があるのではないか。社会や権力に、各個人の意見の相違を認めさせるだけにとどまらず、活発に表明された意見の交換を通じて、公権力の政策を変更するよう働きかける権利を確立することを目的とすべきではないだろうか。つまり、獲得すべき目標は、『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』であるべきと問題提起したい。

弁護団の一員として訴訟実務を担っている立場から、この問題を受け止めて、以下のとおり、多少の釈明を申しあげます。

13年前この事件に取り組んで以来、「教育の自由」と「精神的自由」の二つの分野の問題として考え続けてきました。「教育の自由」は制度の問題です。憲法26条(国民の教育を受ける権利)に支えられ、教育基本法に明記されている、教育行政は教育の内容に不当な支配を及ぼしてはならない、とする大原則。そして「精神的自由」は、19条(思想・良心の自由)、20条(信仰の自由)、そして21条(表現の自由)の内心のあり方とその表現の人権問題です。

「君が代」不起立を、19条違反の問題として構成するか。21条問題として把握するか。実務的な感覚からすれば、ハードル低い19条問題とすることは当然でした。19条で保障された各人の思想・良心が外部に表出したものが表現ですから、21条で保障された表現行為は必ず他者と関わりを持ちます。それだけに、19条よりは21条の保障の意味が大きく、要件のハードルが高くなります。

憲法の標準的な教科書には、19条の権利保障は絶対的なもので制約はできないとするものが多いのですが、これは19条の権利性を厳格に内心に限定していささかの外部的行為も伴わないことを前提としてのことです。「君が代」不起立は、受動的なものではありますが、「不起立」という不作為の外部的行為を伴います。しかし、これは21条の表現の自由の問題ではない。19条の思想・良心の保障に不可避的に付随する態様のもので、これも19条の絶対的な権利保障の範疇に入るものとして考えるべきだと主張したのです。これが、アンコをごく薄い皮一重で包み込んだ「薄皮まんじゅう」をイメージしての「薄皮まんじゅう理論」。アンコが「(内面の)思想・良心」、その自由を護るために不可欠の薄皮一枚が「不起立」という受動的な身体的所作。薄皮一枚を被せたところで、アンコはアンコ。これを被せた途端に19条の権利性が失われるのは不合理きわまるという理屈です。

不起立を、積極的に思想や良心を外部に表出する表現行為と構成すれば、たちまちに他の法的な価値、生徒やその父母や行政裁量などとの調整の問題が生じてきます。憲法の用語で言えば「公共の福祉」による制約の問題です。

「内心の自由」とそれを表現する「外的行為の自由」は、ご指摘のとおり、本来切断のしようがありません。11月11日のブログで紹介した、クリスチャンである原告のお一人が、こう言っています。
「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。」「「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。」

人の心と身体を切り離して、「『起立・斉唱・ピアノ伴奏』という『外部的行為』は、どのような思想・良心をもとうとも、その内容とは関わりなく、誰にもできるはず」というのが、都教委の「理屈」となっています。「起立して斉唱する」という、日の丸・君が代への敬意表明の身体的動作は、挨拶や会釈と同じ程度のものという感覚なのです。

醍醐さんのメッセージの中に、「『沈黙する自由』は人間としての尊厳を守る最後の砦」という一文があります。まことにそのとおりなのですが、今、教育公務員について問題にされているのは、「不起立の自由」の有無です。積極的に抗議する自由ではなく、意見を述べる自由ですらなく、権力の作為命令に人間としての尊厳をかけての抵抗が権利として認められるか否かのぎりぎりの瀬戸際。

これが教育の場での現実です。明日の主権者を育てる教育現場のうそ寒いこの実態をご理解いただき、まずは「公権力の干渉からの自由」を確立することに集中し、その成果の上に、さらなる「国家への干渉の自由」獲得を展望したいと思います。そのための息の長い運動に引き続いてのご支援をよろしくお願いします。
(2016年11月13日)

信仰者への君が代斉唱は、心と体を壊す「踏み絵」だ。

本日(11月11日)、東京都(教育委員会)を被告とする「東京『君が代』裁判」4次訴訟の原告本人尋問。前回10月14日と同様に、午前9時55分から午後4時30分まで。起立斉唱命令に違反として懲戒処分を受け、その取消を求める教員6名が胸を張ってその思いの丈を語った。

前回の7人に続いて、本日で合計13人の原告尋問が終了した。閉廷後の報告集会で、原告団の世話人のお一人は、これを「13人がタスキをつないで、最後のアンカーまで走り抜いた」と駅伝にたとえた。私はオーケストラにたとえたい。それぞれが、個性的な演奏をしながら、全体が美しいハーモニーを響かせた。素晴らしい法廷だった。

「国旗・国歌」、あるいは「日の丸・君が代」に敬意の表明を強制されて受け入れがたいとするそれぞれの教員の理由は各々異なって多彩である。本日法廷に立った原告6名は、それぞれの教育実践を語り、生徒に寄り添ったよりよい教師であろうとすれば、何よりも生徒を中心とした教育の場を作らねばならならず、「国旗国歌」あるいは「日の丸・君が代」を主人公とするごとき儀式を受け容れることが出来ないことを語った。

また、自らの歴史観、倫理観を語り、公権力が国家主義的価値観を全生徒と教職員に強制して、多様な価値観の共存を容認しない思想統制の不当を訴えた。

6人のうち、2人が信仰をもつ者(いずれもキリスト教徒)で、信仰者であることを公表し、信仰ゆえに国歌斉唱時に起立できないとした。

ひとりの原告はこう語っている。
自分は、35年の教員生活で、君が代斉唱時に起立したことは一度もない。自分の信仰が許さないからだ。自分には、「日の丸」はアマテラスという国家神道のシンボルみえるし、「君が代」は神なる天皇の永遠性を願う祝祭歌と思える。

ところが、やむにやまれぬ理由から、卒業式の予行の際に一度だけ、起立してしまったことがある。それが9年前のことだが、「いまだに心の傷となって癒えていない」「このことを思い出すと、いまも涙が出て平静ではいられない」という。

「神に背いてしまったという心の痛み」「自分の精神生活の土台となっている信仰を自ら裏切ったという自責の念」は、自分でも予想しなかったほど、苦しいものだったという。そして、「私はどうしても「日の丸」に向かって「君が代」を斉唱するための起立はできません。体を壊すほどの苦痛となることを実感した」と述べた。

その上で、裁判所にこう訴えた。
「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体から心を切り離そうとしても、できないのです。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。
「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。キリスト者にとっては、これは自分の信仰とは異なる宗教的儀礼の所作を強制されることなのです。踏み絵と同様に、どうしてもできないということをご理解いただきたいと思います。」

また、次のような質問と回答があった。
問 最高裁判決は、「卒業式等における起立斉唱等の行為は、一般的、客観的に見て、儀式的行事における儀礼的所作であるから、これを強制しても直ちに思想や良心を侵害することにはならない」と言っています。キリスト者として、あなたはこの最高裁の考え方をどう思いますか。
答 儀式的行事における儀礼的所作だから、宗教とも思想良心とも無関係というのは、間違っていると思います。宗教は儀式や儀礼的所作と大いに関係します。先ほど申しあげたとおり、「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱する行為は、宗教的な意味を持つ儀式での儀礼的所作だと思います。

これは、示唆に富むところが大きく深い。宗教と儀式・儀礼は切り離せないものではないか。「儀礼的所作だから宗教性がない」などと言えないことは自明ではないか。キリスト者である原告から見れば、「日の丸」も「君が代」も国家神道のシンボルであって、その強制は、都教委の思惑如何にかかわらず、キリスト者である原告の信仰や宗教的信念を圧迫し侵害している。

宗教は、何ゆえに儀式や儀礼と結びついたのか。身体的な所作が、精神の内面に及ぼす影響あればこそである。それぞれの宗教に、それぞれ特有の礼拝の方式があり、特有の身体的な所作による宗教行事がある。宗教結社ができてからは、特有の宗教的なシンボルとしてのハタやウタが作られ、集団的な儀式や儀礼を共同することによって、共通の信仰を確認し合うことになった。

このことは、実は宗教に限らない。政治結社や思想団体にも、あるいは軍隊や国家の統治にも通底するものである。ナチスは、ヒトラーへの個人崇拝や第三帝国に対する忠誠心を涵養する手段として、非宗教的な儀式的行事を繰り返した。マスゲームや合唱や聖火行列や制服着用や独特のポーズ等々の身体的な所作を共通にすることが、集団的一体感や忠誠心を高揚させる手段として意識的に使われた。

日の丸・君が代、また然りであって、その役割は戦前戦後を通じて基本的に変わらない。とりわけ、集団的な式典において、「日の丸」を掲揚して全員でこれに正対し、「君が代」を合唱する行為は、信仰を持つ者にとっては明らかな宗教的儀式における宗教的儀礼としての集団的な所作である。その宗教性を捨象しても、「起立・斉唱」という身体的な所作を集団的に強制することによって、日の丸・君が代が象徴するものへの帰依や忠誠の心情を強制することにほかならない。

また、宗教者に対する「日の丸・君が代」強制は、神戸高専剣道受講強制事件の構造と酷似している。
この事件では、学校側は「生徒に剣道の授業を受けさせることが、特定の宗教性を持つ行為の強制とは考えられない」と主張した。しかし、「自分の信仰は人と争う技を身につける授業の受講を許さない」という生徒との関係においては、剣道の受講を強制してはならないと最高裁が認めたのだ。

「「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。キリスト者にとっては、これは自分の信仰とは異なる宗教的儀礼の所作を強制されることなのです。踏み絵と同様に、どうしてもできないということをご理解いただきたいと思います。」という原告の心の叫びに、最高裁はもう一度耳を傾けなければならない。

なお、同じ原告はこうも言っている。
「卒業式は最後の授業です。そして、門出です。生徒を主人公として、さまざまな工夫の積み重ねがされてきました。それを「10・23通達」が破壊しました。通達後、学校の主人公は、一人ひとりの生徒ではなく、日の丸・君が代になってしまいました。つまりは国家が主人公ということです。」
「そのことを象徴する、こんな事例がありますか。ある養護学校で、筋ジストロフィー症の生徒の呼吸器に不具合が生じて、「君が代」斉唱時に緊急を知らせる「ピーピー」というアラームが鳴ったという事件がありました。看護師が走り寄ってかがみこんで処置をしている最中に、副校長がそばに来て『起立しなさい』と命じたのです。『大丈夫ですか』と生徒を気遣うのではなく、『起立しなさい』なのです。「10・23通達」以前には、まったく考えられなかったことです。生徒の命よりも、君が代を大事にするという恐ろしいことになったと思いました。」

分かり易い。これが今の都教委の姿勢だ。「10・23通達」の精神の表れなのだ。
(2016年11月11日)

「押しつけられた憲法」ではない。「守り抜いた憲法」だ。

ご近所の皆さま、ご通行中の皆さま。こちらは「本郷湯島九条の会」です。「平和憲法を守ろう」、「平和を守ろう」、「日本を、再び戦争する国にしてはならない」。そのような思いで、活動している小さなグループです。小さなグループですが、同じ思いの「九条の会」は全国に7500もあります。

安倍内閣の改憲策動を許さない。平和憲法を壊してはならない。政策の選択肢として戦争をなし得る国にしてはならない。全国津々浦々で、7500の「九条の会」が声を上げています。しばらくご静聴ください。

日本国憲法は、70年前に公布されました。言わば、今年が古稀の歳。人間と違って、年老いるということはありません。ますます元気。ますます、役に立つ憲法です。私たちは、これを使いこなさなくてはなりません。

しかし、この憲法が嫌いな人がいます。なんとかしてこの憲法を壊したい。別のものに変えてしまいたい。その筆頭が、今の総理大臣。最も熱心に、最も真面目に、憲法を守らなければならない立場の人が、日本中で一番の憲法嫌い、最も熱心に日本国憲法を亡き者にしようと虎視眈々という、ブラックジョークみたいな日本になっています。

皆さまご存じのとおり、この人は「戦後レジームから脱却」して、「日本を取り戻す」と叫んでいます。「戦後レジーム」とは、日本国憲法の理念による社会のあり方のこと。日本国憲法の理念とは、国際協調による平和、民主主義、そして一人ひとりがかけ替えのない個人として人格を尊ばれる人権擁護のこと。

総理大臣殿は、そんな社会が大嫌いなのです。そのホンネが、2012年4月に自民党が公式に発表した「日本国憲法改正草案」に生々しく書かれています。

この改憲草案は、102条1項に、「すべて国民はこの憲法を尊重しなければならない」と書き込みました。これはおかしい。憲法とは、本来主権者である国民が権力を預けた者に対する命令の文書です。だから現行憲法は、「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に憲法を尊重し擁護する義務を課しています。「国民に対する憲法尊重義務」を書き込むことは、憲法の体系を壊すこと、憲法を憲法でなくしてしまうことにほかなりません。

そして、自民党改憲草案は、現行憲法の「第2章 戦争の放棄」を、「第2章 安全保障」と標題を変えます。これは極めて示唆的です。日本は、戦争を放棄した国ではなくなるということです。今の自衛隊では戦争ができない。戦争するために差し支えのない国防軍を作ろうというのです。軍法会議も憲法に明記しようというのです。こうして、戦争を国の政策の選択肢のひとつとして持ちうる、戦争のできる国に変えようというのです。

もちろん、政権は、国民の権利も自由も大嫌いです。言論の自由をはじめとする国民の権利は大幅に切り下げられます。国民の自由に代わって、責任と義務が強調されることになります。「公益と公の秩序」尊重の名の下に国家・社会の利益が幅を利かせることになります。

それだけではありません。緊急事態条項というとんでもない条文まで紛れ込ませました。日本国憲法制定のための議会の審議では「権力に調法だが、それだけに危険だから憲法には置かないことにした」という代物です。戦争・内乱・自然災害などの「緊急事態」においては、国会を停止させようというのです。その代わりを内閣がする。法律でなければできないことを政令でできるようにする。予算措置も、内閣だけで可能というのです。

そして、自民党改憲草案の前文は、日本を「天皇を戴く国」とし、天皇を元首としています。憲法に、国旗国歌条項を書き入れるだけではもの足りないと、国民に国旗国歌尊重義務を課するという徹底ぶり。これが、安倍晋三が称える、「日本を取り戻す」というものの正体ではありませんか。

元首たる天皇が権威を持ち、国防軍が意のままに行動でき、反戦平和の運動や政府批判の言論が弾圧される。個人主義などもってのほか、人権ではなくお国のために尽くしなさいと教育がなされる国。それが、自民党・安倍政権が目指す「取り戻すべき日本」というほかはありません。

政権や自民党は、「憲法は外国から押しつけられたものだから変えましょう」という。これもおかしい。この70年の歴史を曇りない目で見つめれば、アメリカと日本の軍国主義者たち、日本国憲法は邪魔だという権力者たちが、日本国民からこの憲法を奪い取ろうとしてきた70年であったというべきではありませんか。

私たち国民にとっては、押しつけられたのではなく、守り抜いた日本国憲法ではありませんか。このことを私たちは、誇りにしてよいと思います。

憲法への評価は、立場によって違うのが当然のこと。一握りの権力に近い立場にいる者、経済的な強者には、邪魔で迷惑な押しつけかも知れません。しかし、大部分の国民にとっては、嫌なものの押しつけではなく、素敵なプレゼントだったのです。

もし、仮に日本国憲法を押しつけというのなら、押しつけられたものは、実は日本国憲法だけではありません。財閥解体も、農地解放も、政治活動の自由も、言論の自由も、労働運動の自由も、政教分離も、教育への国家介入禁止も、みんなみんな「押しつけられた」ことになるではありませんか。「押しつけられたものだから、ともかくいったんは、ご破算にしてしまえ」ということになりますか。

今年は、女性参政権が実現してから70年でもあります。46年4月の歴史的な衆議院議員選挙で、はじめて女性が選挙に参加しました。憲法を押しつけというなら、男女平等も押しつけられたもの。「外国から押しつけられた女性の参政権は、日本の醇風美俗を失わしるもの。だからご破算にして元に戻せ」などというおつもりですか。日本国憲法押しつけ論は、もうバカバカしくて何の説得力もありません。

憲法の制定にも携わった憲法学者である佐藤功が、こう言っています。
「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」

ここでいう「君たち」とは私たち、一般国民です。政治権力も経済権力もない圧倒的多数の相対的弱者のこと。「憲法は弱い立場の国民を守る」からこそ、国民にとって守るに値する日本国憲法なのです。だから「弱い立場にある私たち国民が憲法を守ってきた」のです。憲法を都合よく変えたいとする強い立場にある人たちとのせめぎあいを凌いでのことなのです。

これまで、日本国憲法を守り抜いて、自分たちのものにしてきたからこそ、憲法の古稀を目出度いものとしてお祝いしようではありませんか。

なお、一点付け加えます。日本国憲法は、国家よりも個人を大切にしています。ところが、今東京都の教育現場では、都教委が教員に国旗国歌(日の丸・君が代)に敬意を表するよう「起立・斉唱」の職務命令を発し、これに従わなかった教員に懲戒処分を濫発しています。これは、個人よりも国家を貴しとする思想にもとづくもの。しかも、教員の思想良心の自由を侵害する権力の行使であり、教育の内容に公権力が介入してはならないとする教育基本法が定める大原則の侵害でもあります。これではまるで戦前の日本。あるいは、まるでどこかの独裁国家のよう。到底自由な国日本の現象ではありません。

このことについては、幾つもの訴訟が提起されていますが、今最も大きな規模の「東京「君が代」裁判・4次訴訟」での原告本人尋問が、11月11日(金)に行われます。どなたでも、98席が満席になるまで、手続不要で傍聴できますので、ぜひお越しください。
 時 11月11日(金)午前9時55分~午後4時30分
所 東京地裁103号法廷

6人の原告の皆さんが、いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が生々しく語られます。きっと、感動的な法廷になります。そして、石原都政以来の憲法蹂躙の都政と東京都の教育行政に、ご一緒に怒ってください。よろしくお願いします。

ご静聴ありがとうございました。
(2016年11月8日)

11月11日(金)午前9時55分開廷 東京地裁103号での法廷傍聴を

来週の金曜日(11月11日)午前9時55分から午後4時30分まで、東京「君が代」裁判(第4次処分取消請求訴訟)の原告本人尋問が行われる。傍聴席数は98席。満席になるまで、何の手続もなくどなたでも入廷して傍聴が可能だ。きっと、感動的な法廷となる。いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が語られる。貴重な体験となると思う。

とりわけ、「日の丸・君が代強制」がもつ憲法問題に関心のある方、思想・良心の自由に関心のある方、信教の自由に関心のある方、そして公権力の支配から教育は独立していなければならないとお考えの方。それだけでなく、どうも今の世の中の動きが戦前と似てきたのではないか。時代の主権者を育てる教育の現場はどうなっているのだろうと危惧をお持ちの皆さま方、是非法廷に足を運んでいただきたい。

10・23通達関連の訴訟は数多いが、そのメインとなっているのが、起立斉唱命令違反による懲戒処分取消を求める「東京『君が代』裁判」。172名の1次訴訟から始まって、現在一審東京地裁民事第11部に係属しているのが4次訴訟。

2010年から2013年までの間に、17名に対して懲戒処分22件が発せられた。その内の14名が原告となって、19件の処分取消を求めている。なお、処分内容の内訳は、「戒告」12件、「減給1月」4件、「減給6月」2件、「停職6月」1件である。

前回(10月14日)の原告7名の尋問に続いて、今回は6名の原告が証言する。午前中に2名、午後4名の予定。いずれも卒業式・入学式における国歌斉唱時に起立斉唱しなかったとして、懲戒処分になった教員の方々。どうして起立できないのか、しなかったのか。起立斉唱は、自分の思想や教員としての良心にどのように抵触することになるのか。起立することの心の痛み。そして、起立しないことによる具体的な不利益の数々。

多くの教員が、真摯に教員としての職責を全うしようとの姿勢を貫こうとし、それゆえに日の丸・君が代強制を受け入れがたいという。

いうまでもなく、学校の主人公は生徒である。主人公たる生徒の権利を全うするために、教育を行う専門職としての教員がいて、教育行政が教育条件整備の義務を負う。ところが、公立校の卒業式を見れば視覚的に明らかとなる。学校の主人公とは、実は「日の丸・君が代が象徴する国家」なのだ。式典に参列する誰もが「日の丸」に敬礼する。国歌斉唱時には、全員が起立して「君が代」を斉唱しなければならない。

心ある教員は、唯々諾々とこれを受け容れることが出来ない。このハタ、このウタは、かつては神権天皇制政府のシンボルであり、侵略戦争と植民地支配のシンボルでもあった。それはとりもなおさず、忠良なる臣民を育成する軍国主義教育のシンボルではないか。これに敬意を表することを強制する教育に加担することはできない。教育者としてのあり方を真摯に追及すれば、「40秒間だけ黙って我慢してやり過ごせばよい」とは考えることができない。このような都教委のやり方や、全国的なの教育統制の流れに異議を申し立て、できればそのような流れを押しとどめたい。こうして、処分覚悟で不起立という教員が少なからず存在するのだ。

注目すべきは、この日(11月11日)証言予定の原告6名のうち、2人が信仰者(いずれもキリスト教徒)であることだ。信仰者であることを公表し、起立できない理由として自らの信仰との抵触を挙げている。

我が国の支配者は、踏み絵(正確には絵踏み)という禍々しい宗教弾圧の手法を発明したことで、世界に名高い。キリスト教徒をあぶり出すために、信仰者にとっての聖なる絵を踏めと命じるのだ。「踏み絵」を前に信仰者は悩むことになる。「聖なる絵を踏むことは、信仰者としてあるまじき恥ずべきこと」。しかし「信仰を貫いて、聖なる絵を踏むことを拒否すれば、拷問による死を覚悟しなければならない」。「棄教か、死か」という、いずれにしても受け入れがたい結果をもたらすものが、踏み絵であった。

私は、「10・23通達」による「日の丸・君が代強制」は、現代の踏み絵だとの思いを強くしている。信仰者にとって、国家神道のシンボルであった日の丸・君が代への敬意表明のために、「起立斉唱することは、信仰者としてあってはならない恥ずべきこと」なのだ。しかし「信仰を貫いて、起立斉唱を拒否すれば、懲戒処分や生涯賃金の減額を覚悟しなければならない」。どちらも、「信仰を貫くために高い代償を甘受しなければならない」という点で共通している。

「思想・良心の自由についての保障」や、「教員としての責務」は、なかなか理解に難しいが、宗教弾圧は、極めてわかりやすい。東京オリンピックを機に日本を訪問する外国人観光客が年間2000万人のペースだという。この人たちにも、訴えやすい。「東京は信仰の自由を認めない野蛮都市」であると。

法廷終了後に、下記の報告集会も用意されている。こちらにも是非参加されたい。
 東京弁護士会 5階 502EF
 名称:東京「君が代」裁判報告集会
(2016年11月4日)

日の丸・君が代強制から見えてくる神聖国家の思想(再論)

東京「君が代裁判」弁護団会議の都度、議論が繰り返される。入学式・卒業式での国旗国歌強制を違憲とは言えないとする最高裁判決の論理を覆すヒントがほしい。裁判官に頭を切り換えてもらう法律分野以外での学問的成果の教示を得たい。

我々の前に立ちはだかっている最高裁判決の「壁」となっているのは、次の文章である。

「本件各職務命令の発出当時,公立高等学校における卒業式等の式典において,国旗としての『日の丸』の掲揚及び国歌としての『君が代』の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって,学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人らに対して上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。
 また,上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反対する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件各職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反対する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると,本件各職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。
」(2011年6月6日第一小法廷)

もっとも、このあとには最高裁の弁明めいた文章が続き、「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」とは言うのだ。しかし、飽くまで、「(国旗国歌に対する起立斉唱を強制する)本件各職務命令は,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできない」という原則が後生大事に貫かれている。

最高裁の「論理」におけるキーワードは、「儀式的行事」における「儀礼的所作」である。最高裁は、入学式・卒業式を「儀式的行事」と言い、その式次第の中の国歌斉唱を「(慣例上の)儀礼的所作」という。最高裁は、何の説明もないまま、自明のこととして、「『儀式的行事』における『儀礼的所作』」だから、思想・信条とは無関係だという。最高裁の言葉をそのまま使えば、「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものである。したがって,国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,各教員の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえ(ない)」というのだ。

この最高裁の「論理」は、「儀式的行事」「儀礼的所作」という必ずしも明確ではない概念を介在させることによって、学校儀式での日の丸・君が代強制を、思想・良心の問題と切離そうというものである。

「日の丸」と「君が代」。そのいずれも、歴史的な負の遺産としての側面を否定しようのない存在である。また、国旗国歌(国家象徴)としては、その取り扱いにおいて、個人と国家との関係についての価値観が直截に表現されるものでもある。「日の丸」と「君が代」、これほど歴史観、国家観に関わるシンボルはない。この歌や旗にどう向かい合うかが、思想・良心に無関係なはずはない。

ところが、最高裁は、「日の丸に向かって起立し君が代を斉唱する行為」と、日の丸・君が代が象徴した「天皇制国家の侵略戦争・植民地支配・国家主義・軍国主義・人権否定・差別肯定等々の負の側面」(負とは、日本国憲法の理念に相反することをいう)とを切り離したのだ。その道具が、両者に介在させられた「儀式的行事」と「儀礼的所作」のキーワードである。

さすがの最高裁も直接に「国旗国歌(日の丸・君が代)の強制は、思想良心に無関係」とは言えない。そこで持ち出された策が、こういう「論理」だ。「日の丸・君が代への起立斉唱は『儀式的行事における儀礼的所作』に過ぎない」。「『儀式的行事における儀礼的所作』であるから思想良心には無関係」「だから、『儀式的行事における儀礼的所作』に過ぎない日の丸・君が代を強制しても、思想・良心を侵害したことにはならない」

このような最高裁の「論理」は、到底理性ある国民を納得させるものではありえない。

この論理の核心をなすものは、『儀式的行事における儀礼的所作だから、特定の思想や良心(歴史観ないし世界観)を否定することと不可分に結び付くものとはいえ(ない)」という部分である。「儀式的行事における儀礼的所作だから思想的には無色」というドグマ。これを徹底して批判しなければならない。

私は、「儀式的行事における儀礼的所作」とは、世俗性よりは宗教性に馴染むものと思う。著名な宗教学者の示唆によってこのことを確信するようになった。儀式・儀礼は宗教行事の重要な要素である。儀式の参加者総員が、日の丸に向かって起立し君が代を斉唱する図は、まさしく「宗教儀式における各信仰者の宗教儀礼たる所作」である。

また、問題はさらに根深い。仮に、国家神道のシンボルであった「日の丸・君が代」の宗教性が客観的に払拭されているにせよ、問題は幾つも残ることになる。

まず、日の丸・君が代の強制を自己の信仰に対する侵害と観念し、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」という憲法20条2項の抵触が生じる。

また、宗教儀式や儀礼の強制(あるいは禁止)が、なぜ個人の信仰や宗教上の信念を侵害するものとされているかを把握しなければならない。特定の宗教における儀式や儀礼という身体的な所作と、その宗教の教義や帰依の信念とが、密接に結びついているからである。

ことは、20条の信仰の自由にとどまらない。19条が保障の対象としている思想・良心の自由においても同様に身体的な強制(禁止)が思想良心を直接に侵害することになる。むしろ、思想・良心に反する行為の強制こそは、思想・良心に対する侵害の典型的なあり方というべきなのである。

その意味では、国家神道(天皇教)を国教とした旧憲法時代には、権力が宗教の自由を徹底して抑圧しただけでなく、宗教に無関係な世俗的思想・良心も徹底して押さえ込んだ。

その明治維新を準備した思想の源流として著名なものが水戸学、とりわけ尊皇攘夷思想の代表作といわれる会沢正志斉の「新論」であるという。

「『新論』は、対外関係の切迫のもとで国体論による人心統合の必要を強調し、そのための具体的方策を国家的規模での祭祀に求め、祭・政・教の一体化を主張した。『億兆心を一にして』というような用語法や忠孝一致の主張にもあらわれているように、のちの教育勅語や修身教育の淵源となる性格の強い書物である。ところで、『新論』がこうした人心統合に対立させているのは『邪説の害』であるが、それはより具体的には、さまざまの淫祀、邪教、キリスト教なども含めた、ひろい意味での宗教のことにほかならない。」(安丸良夫「神々の明治維新」岩波新書)という。

「新論」以来、国体論による人心統合の必要が強調されていたのだ。これを採用した天皇制政府は、具体的方策を「国家的規模での国家神道祭祀に求め」た。ここでは、「祭・政・教の一体化」がはかられたのだ。「祭」は宗教的儀礼で、「政」が軍事を含む政治、「教」は天皇を神とする信仰を意味するものだろう。教育の場と軍隊で、その浸透がはかられた。

ここから、過日伺った宗教学者の説示とつながる。私が理解した限りでのことだから、正確性は期しがたいことを、再度お断りしておく。

「文科省の調査で、卒業式に国旗国歌を持ち込んでいるのは、中国と韓国と日本だけ。これは東アジア文化圏特有の現象。儒教文化の影響と考えてよい。

儒教の宗教性をめぐっては肯定説・否定説の論争があるが、儒教の中心をなす概念「孝」とは直接の親を対象とするものではなく祖先崇拝のことで、祖先の霊を神聖なものとして祀るのだから宗教性を認めるべきだろう。

その儒教では、天と一体をなす国家を聖なるものとみる。国家は宗教性をもつ神聖国家なのだから、国旗を掲げて国歌を奏することは、神聖国家の宗教儀式にほかならない。これが、中国の影響下の儒教文化圏の諸国だけで、教育現場に国旗国歌が持ち込まれる理由だと思われる。

宗教には、幾つかのファクターがある。「律法・戒律」「教義」「帰依の信念」などとならんで、「儀礼」は重要なファクターである。祭りという神事も典型的な儀式・儀礼であって、神道は儀礼を重視する宗教である。儀礼だから宗教性がない、などとは言えない。

儀礼には宗教的なものと世俗的なものがあり、その境界は微妙である。ハーバート・フィンガレットという宗教学者が、直訳すれば「孔子ー世俗と聖」という書物を著している。邦訳では、「孔子 聖としての世俗者」となっているようだ。この書に、儒教における神聖な国家像が描かれている。

日の丸・君が代の強制は、儒教圏文化の所産である神権的天皇制国家の制度として作られた儀礼。とりわけ、参列者が声を合わせて一斉に聖なる国家を讃えて唱うという行為は宗教儀式性が高い。同調して唱うことに抑圧を感じる人にまで強制することが神聖国家を支える重要なシステムとなっている。

明治維新を準備した思想の柱は、国学ではなく儒学だと考えられる。その中でも水戸学といわれるもの、典型は会沢正志斎の「新論」だが、ここで國體が語られている。國體とは神なる天皇を戴く神聖国家思想にほかならない。これが、明治体制の学校教育と軍隊内教育のバックボーンとなった。戦後なお、今もこれが尾を引きずっているということだ。」

さらに伺いたいのは、宗教儀式や「儀礼」がどのように「教義」や「信念」と結びついているのか。身体性や共同性のもつ信仰への関わりである。そして、他の信仰を持つ者、信仰を持たない者に対する「儀礼」の強制がいかなる心理的な葛藤をもたらすことになるのか。さらには、その「儀礼」強制による軋轢や葛藤の構造は、宗教を離れた思想や信念に関しても、同じものと言えるのではないのだろうか。

ここまで聞ければ、これをどう咀嚼し肉付けして、憲法論とし、裁判所を説得する論理として具体的に使えるものとするか。それが、私たち実務法律家の仕事になる。これが成功すれば、最高裁判例の「論理」の土台を掘り崩すことができるのではないだろうか。
(2016年11月1日)

リメンバー「10・23通達」

悪名高い「10・23通達」が発出されて今日が13年目となる。これまでの長い闘いを振り返り、これからを展望して「学校に自由と人権を!」集会が開かれた。「日の丸・君が代」関連の裁判の原告団ら14団体でつくる実行委員会が主催したもの。盛会だった。

今年の集会には、情勢を反映して「憲法を変えさせない! 誰も戦場に送らせない!」という副題がついた。メインの講演は青井美帆学習院大学教授。「戦争できる国と教育」の演題。そして、私が特別報告「『君が代』訴訟の新しい動きと勝利への展望」。
以下に、私のレポートのレジメを掲載して、集会の報告とする。

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  『君が代』訴訟の新しい動きと勝利への展望
はじめにーWe Shall Overcome
  あの日から13年 今も闘い続けていることの意味を再確認しよう
    I do believe That we shall overcome some day.
  Somedayではあるが、勝利を展望して闘い続けよう。

第1 「10・23通達」関連訴訟全体の流れ
 1 高揚期(予防訴訟の提訴~難波判決)
  ※再発防止研修執行停止申立⇒須藤決定(04年7月)研修内容に歯止め
  ※予防訴訟一審判決(難波判決)の全面勝訴(06年9月)
 2 受難期(最高裁ピアノ判決~)
 ※ピアノ伴奏強制事件の合憲最高裁判決(07年2月)
   ⇒これに続く下級裁判所のヒラメ判決・コピペ判決
  ※「君が代」解雇裁判・一審佐村浩之判決(07年6月)が嚆矢
   取消訴訟一審判決(09年3月)も敗訴。
   難波判決 高裁逆転敗訴(11年1月)まで。
 3 回復・安定期(大橋判決~)
  ※取り消し訴訟(第1次訴訟)に東京高裁大橋判決(11年3月)
    全原告(162名)について裁量権濫用として違法・処分取消
  ※君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)
   河原井さん・根津さん処分取消訴訟最高裁判決(12年1月)
   君が代裁判2次訴訟最高裁判決(13年9月)
    間接制約論(その積極面と消極面) 累積加重システムの破綻
    原則・減給以上は裁量権濫用として違法取消の定着
 4 再高揚期(福島判決~)
  ※いま確実に新しい下級審判決の動向
  ※最高裁判例の枠の中で可能な限り憲法に忠実な判断を。
   10・23通達関連だけでなく、都教委の受難・権威失墜の時代

第2 最近の諸判決と、その要因
   13年12月 「授業をしていたのに処分」福島さん東京地裁勝訴・確定
  14年10月 再任用拒否(杉浦さん)事件 東京高裁勝訴・確定
  14年12月 条件付き採用免職事件 東京地裁勝訴 復職
 (15年1月 東京君が代第3次訴訟地裁判決 減給以上取消)一部確定
  15年 2月 分限免職処分事件 東京地裁執行停止決定
  15年 5月 再雇用拒否第2次訴訟 東京地裁勝訴判決
  15年 5月 根津・河原井さん(07年)停職処分取消訴訟 東京高裁逆転勝訴
  15年10月 岸田さん(ピアノ)減給(修正裁決)処分取消 東京地裁勝訴
  〈16年 4月 再雇用拒否東京地裁判決(請求棄却)→控訴審継続中〉
  15年12月 再雇用拒否第2次訴訟 東京高裁勝訴判決
 (15年12月 東京君が代第3次訴訟高裁判決 控訴棄却)
 (16年 7月 最高裁三小 東京君が代第3次訴訟で上告棄却・不受理)
   16年 7月 岸田さんの高裁判決(都教委の控訴棄却)
 ※基調は、最高裁判例にしたがった下級審の姿勢だが、
 ※最高裁判決法廷意見と補足意見の積極面が生きてきている。
 ※また、都教委の暴走を看過できないとする裁判所の姿勢が見て取れる。
 ※各原告団・弁護団による総力の努力が相乗効果を産んでいる。
 ※粘り強く闘い続けたことの(一定の)成果というべきではないか。

第3 訴訟での勝利への展望
 1 最高裁判決における到達点の確認
  *「間接」にもせよ、思想・良心に対する制約と認めたこと
  *2名の裁判官の反対意見(違憲判断) とりわけ宮川意見の存在
  *多数裁判官の補足意見における都教委批判
 2 最高裁判決が語ったことに対する反論ー正面突破作戦
  *最高裁の「論理」の構造そのものを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求める。裁判所の説得方法は、「大法廷判例違反」「学界の通説に背馳」「米連邦最高裁の判例に齟齬」などにある。
  *職務命令違反による懲戒処分が戒告にとどまる限りは、懲戒権の濫用にあたらない。⇒すべての懲戒が権利濫用として違法になる。
 3 最高裁判決が語っていないことでの説得ー迂回作戦
  *最高裁は、権利侵害論については語ったが、制度論については語っていない。
  *「主権者である国民に対して、国家象徴である国旗・国歌への敬意を表明せよと強制することは、立憲主義の大原則に違反して許容されない」という意を尽くした主張に、判決は応えていない。
  *手厚く述べた憲法20条違反(信仰の自由侵害)の主張にも、憲法26・13条・23条を根拠とする「教育の自由」侵害の主張にも、また、子どもの権利条約や国際人権規約(自由権規約)違反の主張についても、最高裁は頑なに無視したままである。

第4 勝利への展望を切り開くもの
  ※法廷内の訴訟活動と、現場と支援の運動の連携。
   そして、司法の体質を変える運動と。司法だけが「民主化」することの困難さ。
  ※都政を変える運動と展望を。
  ※文科省の教育政策を弾劾する運動を
  *国際人権論からの政治的追求など

We shall overcome some day.(闘いを継続することなしに勝利は得られない)

(2016年10月23日)

日の丸・君が代強制から見えてくる神聖国家の思想

過日、ある著名な宗教学者をお訪ねして、お話しを伺う機会を得た。
当方の思惑は、入学式・卒業式での国旗国歌強制を必ずしも違憲とは言えないとする最高裁判決の論理を覆す材料がほしい。憲法学や教育学以外の分野での学問的成果の教示を得たいということである。

キーワードは、「『儀式的行事』における『儀礼的所作』」。最高裁判例は、入学式・卒業式を「儀式的行事」と言い、その式次第の中の国歌斉唱を「(慣例上の)儀礼的所作」という。

判決の当該個所の要旨は、次のようなもの。
「(国旗国歌についての)起立斉唱行為は、学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作として外部からも認識されるものであって、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、上記職務命令は、当該教諭に特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものともいえない。」

最高裁は、何の説明もないまま自明のこととして、「起立斉唱行為=儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」とし、それゆえ、「特定の思想とは関係性をもたない」というのだ。本当だろうか。これでよいのか。

もちろん、多くの教員が「そんなはずはない。自分にとって国旗国歌(あるいは日の丸・君が代)は、自らの思想・良心に照らして受け入れがたい。とりわけ、教員である身であればこそ、児童・生徒の前での起立斉唱はなしがたい」という。しかし、最高裁は、これを主観的なものに過ぎないとして結局は切り捨てる。思想・良心は、すべからく主観的なものである。これを「主観的なものに過ぎない」と軽く見て、ごく形式的な基準で切り捨てられては、日本国憲法が思想・良心の自由を保障した意味がなくなる。

が、いま問題にしているのは、その前のこと。「儀式」・「儀礼」とは何を意味するのだろうか。「儀式・儀礼だから、これを強制しても、思想・良心とは関わりない」などと言えるものだろうか。

「儀式」・「儀礼」といえば、宗教と密接に関連するものではないか。宗教学者から意見を聞きたい、予てからそう考えていた。

悪名高い「自民党改憲草案」の第20条3項(政教分離条項)は、次のとおりである。
「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」

自民党は、20条3項に但書きを付することで、政教分離の壁に大穴を開けようとしている。その穴は、「社会的儀礼又は習俗的行為」である。おそらくは、神社参拝も玉串料や真榊奉納も、あるいは大嘗祭や即位の礼関連行事への参加も「社会的儀礼又は習俗的行為」としたいのだ。

自民党の「社会的儀礼又は習俗的行為」、最高裁の「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」。前者は20条(政教分離)の問題、後者は19条(思想・良心の自由)の問題として語られているが、さて、両者はどう関わるのだろう。

こんな問題意識で伺った宗教学者のお話しは、歯切れよくたいへん有益だった。幾つも、知らないことを教えていただいた。まとめると以下のとおりだ。もっとも、私が理解した限りでのことだから、正確性は期しがたいことをお断りしておく。

「文科省の調査で、卒業式に国旗国歌を持ち込んでいるのは、中国と韓国と日本だけ。これは東アジア文化圏特有の現象。儒教文化の影響と考えてよい。

儒教の宗教性をめぐっては肯定説・否定説の論争があるが、儒教の中心をなす概念「孝」とは直接の親を対象とするものではなく祖先崇拝のことで、祖先の霊を神聖なものとして祀るのだから宗教性を認めるべきだろう。

その儒教では、天と一体をなす国家を聖なるものとみる。国家は宗教性をもつ神聖国家なのだから、国旗を掲げて国歌を奏することは、神聖国家の宗教儀式にほかならない。これが、中国の影響下の儒教文化圏の諸国だけで、教育現場に国旗国歌が持ち込まれる理由だと思われる。

宗教には、幾つかのファクターがある。「律法・戒律」「教義」「帰依の信念」などとならんで、「儀礼」は重要なファクターである。祭りという神事も典型的な儀式・儀礼であって、神道は儀礼を重視する宗教である。儀礼だから宗教性がない、などとは言えない。

儀礼には宗教的なものと世俗的なものがあり、その境界は微妙である。ハーバート・フィンガレットという宗教学者が、直訳すれば「孔子ー世俗と聖」という書物を著している。邦訳では、「孔子 聖としての世俗者」となっているようだ。この書に、儒教における神聖な国家像が描かれている。

日の丸・君が代の強制は、儒教圏文化の所産である神権的天皇制国家の制度として作られた儀礼。とりわけ、参列者が声を合わせて一斉に聖なる国家を讃えて唱うという行為は宗教儀式性が高い。同調して唱うことに抑圧を感じる人にまで強制することが神聖国家を支える重要なシステムとなっている。

明治維新を準備した思想の柱は、国学ではなく儒学だと考えられる。その中でも水戸学といわれるもの、典型は会沢正志斎の「新論」だが、ここで國體が語られている。國體とは神なる天皇を戴く神聖国家思想にほかならない。これが、明治体制の学校教育と軍隊内教育のバックボーンとなった。戦後なお、今もこれが尾を引きずっているということだ。」

なるほど、骨格としてはよく分かる。これをどう咀嚼し、肉付けして、憲法論とし、裁判所を説得する論理として具体的に使えるものとするか。それが、私たち実務法律家の仕事になる。
(2016年10月20日)

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