澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「生徒への人権侵害に加担できない」「自由闊達な議論の場を取り戻したい」「アイヒマン的人間を作らないための教育を」 ー 私の不起立の理由

(2021年11月8日)
 通常の民事訴訟では、法廷での発言は訴訟代理人の弁護士が行う。訴訟手続を身につけた弁護士の発言が的確で当事者本人の利益に適うからだ。忙しい裁判所にしてみれば、要領を得ない当事者の発言に耳を傾ける余裕はなく、代理人弁護士の整理された発言だけを聞こうとする。

 しかし、「通常ならざる民事訴訟や行政訴訟」においては、当事者本人が直接裁判所(裁判官)に発言を希望し、裁判所にその発言を聞いてもらうべき場合が少なからずある。

 弁護士は当事者の求めに応じた法的論理を組み立て、その論理に沿った事実を、当事者に代わって論述することはできる。通常の法廷で求められているのはそこまでである。しかし、当事者のもつ怒りや悲しみ、悩みや苦しみ、理想や情熱、あるいは気迫を裁判所に伝えたいという当事者や事件も少なくない。そのことの代弁は弁護士にはできない。

 そういう事件の当事者の姿を、その振る舞いや物腰を裁判官には直接に見てもらいたい。その訴えの声に耳を傾けていただきたい。そのことを通じて、当事者本人の人格や真摯さに触れていただきたい。そして、その人の要求の切実さや要求を求める心情の真っ当さに共感していただきたい。

 「聞くまでのこともない、紙に書いた文字を読めば分かる」というものではない。法廷での発言する当事者本人の息遣いを感じて欲しい。発言する側も、裁判所の態度を見守っている。真摯に聞いていただけたら、裁判所に対する信頼が増す。相互の信頼関係を形成し継続する過程として訴訟は進行しなければならない。

 本日、東京「君が代」裁判・第五次訴訟の第2回口頭弁論期日であった。裁判所は、事前には原告本人の意見陳述には難色を示していた。しかし、口頭弁論直前の進行協議の場で当方の要望を容れて、原告本人2名、代理人弁護士1名の意見陳述を認めた。裁判所の柔軟な姿勢が好印象だった。

 この訴訟の原告となつている教員の皆さんは、それぞれに実に多様なのだ。どなたのお話を聞いても、個性に溢れている。本日の原告本人の陳述内容をご紹介したい。

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 意見陳述を認めていただきありがとうございます。Iと申します。36年間都立高校で英語の教員を務めて一昨年定年退職し、現在は非常勤教員として勤務しています。

 私は卒業式の国歌斉唱時に起立しなかったために3回処分を受けました。そのうちの2回の減給処分は裁判により取り消していただきましたが、いずれも取消された直後に改めて戒告処分を受けました。都教委はこの2回に渡る再処分について「」判決に沿って処分の出し直しをした」と主張していますが、どの様な議論を経てどの様な根拠で前例のない再処分を出したかを全く明らかにしていません。また、懲戒処分に不可欠としてきた再発防止研修をこの再処分については実施しませんでした。つまりこの再処分は、私にボーナス減額などの経済的不利益を再度与えることが目的だったのです。このような執拗ないじめのような処分が一体合法なのか、裁判官の皆さまには私の身になってお考えいただきたいのです。

 私が君が代斉唱時に起立できない理由は二つあります。一つは、都立高校が生徒に国歌斉唱を強制し生徒の人権を侵害しているから、そして私が起立して歌えばその人権侵害に加担することになると思うからです。日本は少数派に対する想像力が低い国だと思います。

 2003年の10.23通達発出以前は、私たち教員は入学式・卒業式の前に「国旗国歌に対してはいろいろな考えかありますから、生徒のみなさんは自分の考えに従って行動して下さい」と説明することができました。生徒の中には外国にルーツを持つ生徒や様々な背景を持つ生徒がいて、君が代を歌うのが本当に辛い生徒や歌いたくないと考える生徒がいることを私たちは知っています。そういう生徒の心を守りたい、多様な意見が尊重されることを生徒に伝えたいと心から願っていました。

 しかし、10.23通達後この説明は禁止されました。現在都教委の指示で作成される式の進行表には「起立しない生徒がいる場合は起立を促す」と書かれています。生徒に起立しない自由はありません。立ちたくない、歌いたくない生徒たちはどんな思いで立っているのでしょう。どうして彼らの人権を踏みにじって許されるのでしょう。生徒に国歌斉唱を強制する目的は一体何でしょう。

 反対意見はロにするな、権威や常識は疑うなと教えるためでしょうか。もし私が処分を恐れて起立斉唱したら、権威には逆らえないと生徒に教えることになります。圧倒的な同調圧力に屈して立って歌えと強制する側に回ってしまいます。それだけはできないとの必死の思いで、私は強制に反対してきました。

 起立斉唱できないもう一つの理由は、都立高校に自由闊達な議論の場を取り戻したいからです。10.23通達後の都立高校では、教員が徹底的に議論して合意形成するという文化がなくなってしまいました。学校運営については管理職と主幹や主任などが企画会議で決め、一般教員はそれに従うというシステムです。そして職員会議でも教員は意見を言わなくなりました。もはや上層部の決定に疑問すら持たなくなっていると感じます。

 私の勤務校でこの春、卒業式に関する包括的職務命令を校長が出した際、「職務命令」という耳慣れない言葉の意味を知らない教員は多いはずなのに誰一人質問すらしませんでした。私は慌てて挙手し「なぜ職務命令を出すのか、若い教員にも分かるように説明してください」とお願いしました。

 「言われた通りに仕事をするだけ」「どうせ校長が決めるのだから」。職員室ではこういう声が聞かれます。校長に反論すると自分に不利になることを、教員は私たちの処分を見て感じ取っています。教員が疑問を持たない、議論もしない学校で、生徒に自由闊達な議論の場を作ってやれるでしょうか。疑問を持ち自分で考えることの重要性を教えられるでしょうか。自分たちが世の中を変えていくのだと思う生徒を育てられるでしょうか。

 裁判所におかれては、今度こそ生徒を人権侵害から守るために、都立高校に自由闊達な教育を取り戻すために、10.23通達は違法であると判断を下してくださるようお願いいたします。

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 原告のNと申します。私は、これまで不起立は3回ですが、2度の再処分があるため5回の処分を受けています。2回目、3回目で減給処分をされ、この処分を最高裁は2013年9月に取り消しました。ところが、東京都は、取り消しの連絡をしないまま、最高裁が減給処分を取り消した現職の教員全員に再度の処分を出しました。また、以降の不起立者にも減給処分を出し続けています。

 日の丸・君が代の強制は、その価値への賛否以前に、それについて考察すること自体を封じるもので、反対や賛成の意志を持たず、与えられた形式の通りに機械的に行動することを求めています。しかしながら、我々人類はかつてのナチスの興隆や日本の軍部の暴走を教訓として共有しています。

 その反省の結果として、個々が深く考えることを重視し平和を志向する教育が世界各地で広まってきています。それに逆行する東京都教育委員会の形式的愛国強制は、戦前の亡国教育の再現に他ならず、加担できないと考えて、不起立を選択しました。 東京都教育委員会の姿勢には、役所がやることは自動的に「公共の正義」であるかのような錯覚・誤認があります。しかし、歴史上、官公庁の命令に従わなかったことが正義であった例は枚挙にいとまがありません。ナチス支配下でアンネ・フランクの一家を支えていたミープさんたちは、ュダヤ人迫害の命令に従いませんでした。杉原千畝も本国政府の意向に反してビザを出し続けました。逆に、命令に唯々諾々と従ったアイヒマンは、ュダヤ人大量虐殺の一翼を担いました。強制収容所への移送の中心的役割を果たしていながら、己の罪を理解せず、命令を無謬の存在と位置づけ、自らの思考は停止することで、公共の正義とは正反対の不道徳行為を行いました。

 戦後の世界は、全体主義の下でアイヒマン的人物が多数存在したことを反省し、また倫理的に誤った指示に強制力を持たせうることの非を理解して、以下のような人が育つ教育はやめようと考えました。
  ・トップダウンの命令に、善悪を考えず従う人
  ・少数者の排除に加わる人
  ・自分の行為に責任感を抱かない人
  ・式典等の形式が人の内面と不可分なことを無視する人
 以上のような全体主義下で望まれる人物像を平和に反するものと考え、そうならないための教育を目指すのが世界の教育の大きな流れです。

 そのような世界の動向に逆行し、形式の強制と処分による統制を行う10・23通達は、再びアイヒマン的公務員・教員を作ろうとする企てであり、我々教員は倫理上の危機にさらされています。その先にあるのは、子どもたちの思考停止、そして論理・倫理的価値判断力を行政府に奪われた国民の増加です。しかし、私たちは公共の善という視点から行政の過ちを正すべきであり、アイヒマン的人間を作らないための教育こそ目指すべきものです。

 日の丸・君が代の強制は、戦中の「国民儀礼」の強制にならっています。明治憲法第28条の拡大解釈で、安寧秩序の意味する範囲が広げられ、1939年3月に成立した「宗教団体法」で、法制上、神社神道は宗教ではなく、宗教に優越する存在であり、それゆえに、どのような宗教を信じる人にも、法的には「国民儀礼」として神社参拝と天皇崇拝を強制しうるという詭弁を弄しました。それは従えない人の存在を最初から想定した上で、その人々を明らかにし、処罰して見せしめとする予定で作られた法でもありました。

 私は、戦前の全体主義や、その表れである「国民儀礼」の復活や「宗教団体法」の再生に反対します。この点では、最高裁判断とも国民の一般常識とも一致していると信じています。それゆえに、国旗国歌に対する正しい認識とは、本来はそれらが全体主義の為に悪用されることを許さないことだと考え、都教委の起立命令に従いませんでした。

 今回の裁判でお願いしたいのは、東京都は全体主義を肯定している、という認識の下に判決文を書いていただきたいということです。世間一般とは善悪の価値観が逆転している東京都に逃げ道の余地を残さず、全体主義を不正義と考えて起立しなかった者への処分は一切認めない、と明確にしてくださることを願っています。

維新「八策」は、自民右派のパクリではないか。

(2021年11月6日)
 この度の総選挙では維新が、大阪を中心に大幅に議席を増やした。維新は、自民党の補完勢力である以上に積極改憲派である。私には不愉快で嘆かわしいことだが、これが悪夢ではなく痛い現実なのだ。

 私は、政策以前にこの政党がかもし出す空気に嫌悪感を募らせてきた。公立学校での「日の丸・君が代」強制の徹底ぶりや、自治体労働者の団結権の侵害など、なんという人権や民主主義への配慮を欠いた傲慢で高圧的な強権体質。

 しかし、吉村知事のイソジン推奨会見や、コロナ対策の致命的失敗で、府民からの目は厳しいものと思い込んでいた。それが、総選挙の日程が近づくにつれて、票を取りそうだ、議席を増やしそうだという報道である。そして蓋を開けて驚愕ということになった。

 私の周りに維新の風は吹いていない。「イソジン吉村が、なぜ選挙の顔に」という疑問ばかり。いったい大阪はどうなつているのか実態がつかみがたい。選挙後に冷静な維新票の分析がなされ始めており、いくつかに目を通したが、よく分からない。「維新支持者の中核は保守派の安倍菅路線批判層」「維新支持の有権者は決して熱狂的な支持者ではなく支持の熱は低い」「恒久的な支持者ではなく選挙の度ごとにブレは大きい」「ポピュリズム政党と一刀両断するのは不正確」「全国政党にはならないだろう」などと言われているが、簡単に納得はしがたい。

 そこで、維新の政策を初めて読んでみた。「政策提言 維新八策2021」としてまとめられているもの。無理に「八策」にまとめられた政策の柱は、以下のとおりである。

  1. 「身を切る改革」と徹底した透明化・国会改革で、政治に信頼を取り戻す
  2. 減税と規制改革、日本をダイナミックに飛躍させる成長戦略
  3. 「チャレンジのためのセーフティネット」大胆な労働市場・社会保障制度改革
  4. 多様性を支える教育・社会政策、将来世代への徹底投資
  5. 強く靭やかに国土と国民を守る危機管理改革
  6. 中央集権の限界を突破する、地方分権と地方の自立
  7. 現実に立脚し、世界に貢献する外交・安全保障
  8. 憲法改正に正面から挑み、時代に適した「今の憲法」へ

 この政党には核になる思想がない。原理原則となる政治理念もなければ、独自の国家観も社会観も歴史観も示すことができない。だから、八策が体系になっていない。どこかの政策のつまみ食いを寄せ集めたという印象でしかない。なぜ、これで選挙に勝てるのだろうか。

 ホームページには、「八策」に関連付けた、「日本維新の会の目指すところ」という文章が掲載されている。その全文が以下のとおりである。

旧態依然とした政治。増え続ける国民の税負担。
この国の政治は、戦後の古い体質のままあり続けています。
真の改革を進めなければ、この国に未来はありません。
政治家のための政治をなくす。
本当に支援を必要としている人のための、
国民の皆さまのための政治に変えなければなりません。
私たちには、大阪で改革してきた実績があります

 ここに掲げられているキーワードは「真の(政治)改革」だが、その中身はよく分からない。「政治家のための政治」を否定した「国民の皆さまのための政治」だけでは、当たり前に過ぎてキャッチフレーズにはならない。

むしろ気になるのは、「この国の政治は、戦後の古い体質のままあり続けています。」というフレーズ。明らかに、中曽根康弘の「戦後政治の総決算」、あるいは安倍晋三の「戦後レジームからの脱却」からのパクリである。言葉だけではなく、政策の中身もパクリと解せざるを得ない。保守に親和性強く、戦後民主主義には相性が悪いのだ。

 この政党の立ち位置をよく表しているのが、下記の「選択的夫婦別姓」に関しての政策である。これも、自民右派のパクリ。

選択的夫婦別姓
226.戸籍制度を維持しながら実現可能な夫婦別姓制度の導入を目指します。具体的には、同一戸籍・同一氏の原則を維持しながら、旧姓使用にも一般的な法的効力を与える選択的夫婦別姓制度を創設し、結婚後も旧姓を用いて社会経済活動が行える仕組みを整備します。

 少し言葉をいじってはいるが、「同一戸籍・同一氏の原則を維持」である。「旧姓を(通称として)使用することを容認でよい派」。「維新」(これ新たなり)とは看板倒れ、守旧の「維持」派に過ぎないのだ。

8本の柱の最後だけを見てみよう。(⇒は、私のコメントである)

8 憲法改正に正面から挑み、時代に適した「今の憲法」へ
★教育無償化
(1)総論
337.すべての国民は経済的理由によって教育を受ける機会を奪われないことを憲法に明文化します。
338.機会平等社会実現のため、保育を含む幼児教育から高等教育(高校、大学、大学院、専門学校等)についても、法律の定めるところにより無償とします。
⇒憲法26条1項を変える必要はまったくない。多様性尊重社会実現のためには教育の自由こそが死活的に重要なのだが、そこに触れるところはない。

★道州制(略)

★憲法裁判所
(1)総論(法の支配の徹底)
342.政治、行政による恣意的憲法解釈を許さないよう、法令又は処分その他の行為が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する第一審にして終審の裁判所である憲法裁判所を設置します。
343.憲法裁判所の判決で違憲とされた法令、処分などは、その効力を失うこととし、判決は全ての公権力を拘束する効力を持たせます。
⇒憲法裁判所は、簡便な法令・処分の合憲お墨付き付与機関になりかねない。こんなもののために改憲をしてはならない。

★その他
(1)憲法審査会・9 条
344.国民に選択肢を示すため、各党に具体的改正項目を速やかに提案することを促し、衆参両院の憲法審査会をリードします。憲法9条についても、平和主義・戦争放棄は堅持した上で、正面から改正議論を行います。
⇒憲法改正こそ、究極の不要不急課題。憲法審査会の議論リードなど余計なこと。

(2)国民投票
345.憲法改正国民投票を行うことにより、現行憲法が未だに国民投票を経ていない等の問題点を解消します。
⇒どうして「問題点」なのか、理解不能。

(3)緊急事態条項
346.新型コロナウイルス感染症対策を受けて必要性が議論されている「緊急事態条項」について、憲法に緊急事態条項のある国や法律で対応している国など、さまざまな国の状況を参考に積極的な議論と検討を行います。
⇒コロナ対策の名を借りた改憲策動には要注意。断固反対。

(4)皇室
347.皇室制度については、古来例外なく男系継承が維持されてきたことの重みを踏まえた上で、安定的な皇位継承に向け旧宮家の皇籍復帰等を選択肢に含めて、国民的理解を広く醸成しつつ丁寧な議論を率先します。
⇒典型的な極右の路線に国民を誘導しようというパクリ「政策」。なるほど、維新とは「明治維新」時代の感覚なのだ。

「反共」という共闘阻害の劇薬

(2021年11月5日)
 政党間の共闘が成立するのは、それぞれが共闘によるメリットを確信するからだ。小選挙区制を前提とする限り、4野党がバラバラでは議席を獲得することができないのは理の当然。共闘によって候補者を調整し、一本化された共闘候補者への投票の集中が議席の獲得を可能とする。だから共闘は必然である、とも言える。

 しかし、各政党はそれぞれに理念も信条も異なり、活動の歴史も人脈も別である。本来はむしろ激しく競い合うべき間柄で、信頼関係の形成は難しく、その共闘は至難の技。政策協定も、候補者調整も、共闘候補者の議会活動も、実はとてつもない難事というほかはない。

 だから、安易な共闘に走ることなく、それぞれが自党の党勢の拡大をはかることに専念すべきだという意見も、当然に根強くある。永年のうちには、政党の消長が進行して、自党こそが単独で政権を担うことになり得るという期待を込めてのもの。

 とは言え、百年河清を待つ余裕はない。格差貧困問題解決も、労働条件の改善も、社会保障の充実も、税負担不公平の是正も、改憲阻止も、ジェンダー不平等の解消も喫緊の課題ではないか。野党の共闘を求める声の高まりが、時の氏神の采配宜しきを得て、野党の共通政策となった。そして、実務的な候補者調整の作業が進行して今回の総選挙を迎えた。

 野党共闘の成果はどうであったか。議席獲得に成功した例あり、善戦したが議席獲得に至らなかった例あり、また明らかに失敗した例もある。そして、全体としては、共闘参加の野党の議席を減らした。元気の出ない野党共闘の結果である。

 現実には期待された結果を出せなかった野党共闘だが、野党共闘あったがゆえのこの結果であったのだろうか。むしろ、野党共闘あったにもかかわらずの結果と言うべきではないだろうか。もっと早い段階で、もっと深い信頼関係を築き、もっと共通政策を選挙民に訴え切ることができていたら、事態は変わっていたかも知れない。

 企業社会では、「シナジー効果」が語られる。企業の提携や合併による収益の向上の相乗効果を語る言葉。1+1が2で終わらず、3にも4にもなることをいう。政党間の共闘でも、シナジー効果(相乗効果)が大いに期待されるのだが、今回、それは部分的な効果に留まった。

 野党間の共闘は総論的には不可避だが、共闘による相乗効果の発揮は容易なものではない。その難しさは内部的な問題にあるだけでなく、外部からの悪意のトゲにも留意が必要である。

 野党共闘成立以来、「反共」という悪罵の嵐が吹き荒れ、いまだに終熄しない。国民意識の中に潜在する反共意識を煽り、これに付け込んで悪用しようという言動が一定の効果を発揮しているのだ。

 反共意識は、支配の側が作り出して民衆に刷り込んだもの。古くは、「天子に弓引く不忠不義の共産党」であり、「私有財産を否定して社会を紊乱する共産党」であった。また、天皇が唱道する戦争に反対して平和を唱えるという、「とんでもない非国民・共産党」でもあった。

治安維持法は何よりも共産党弾圧を主たる目的として立法された。天皇制政府の弾圧の対象となった共産党は支配者からみて「恐るべき政党」であるだけでなく、民衆の側にも「共産党との関わりを疑われると恐ろしい」存在になったのだ。この残滓が今も残っている。企業社会でも政治社会でも有用なものとして使われる。

こうしてつくられ今なお残っている社会の反共意識を、ライバル政党は徹底して煽り利用した。中国共産党のイメージの悪さも、大いに悪宣伝に使われた。4野党の共闘が期待したほどの進展を見せなかった大きな原因が、いまだにこの世にはびこっている反共意識の所為のように見える。

「反共意識」の蔓延は、民主主義の未成熟度を表すもので、「共産党を支持しない」見解とは大きく異なる。議会制民主主義と政党政治の健全な発展のために、「反共意識」の克服は重大な課題だと思う。

「日本の有権者の選択はかなり愚か」ではあったろう。さはさりながら…。

(2021年11月4日)
 前川喜平(右傾化を深く憂慮する一市民)の、今回総選挙結果の評価に関する2本のツィートが話題を呼んでいる。とは言え、予想される人々からの予想される反応以上のものではない。もう少し、賛否両論がヒートアップしても良さそうなもの。

 前川ツィートのその一本は、「人権感覚が欠如し、排外主義に染まった集団が維新。この政党に投票した有権者は猛反省するべきだ」という、維新とその支持者に対する批判。理由や根拠についての言及はないが、極めて常識的な意見の表明と言ってよい。

 前川は、今回の選挙結果が出た直後には「日本が辻元清美代議士を失った損失は計り知れない。大阪10区の有権者にはよくよく考えてもらいたい」と投稿している。「大阪10区の有権者」批判では足りず、「維新に投票した有権者全員」に猛省を迫ったのだ。

 当然のことだが、政党の支持も批判も、支持者に対する批判も、タブーにしてはならない。堂々と発言してしかるべきである。私も、前川意見にまったく同感だ。維新に投票した有権者諸君に、その軽率さ、思慮の足りなさを猛省していただきたい。

 維新当選者の酷さについては、リテラの記事が詳細である。下記をお読みいただきたい。
 https://lite-ra.com/2021/11/post-6065.html

 もう一本の前川ツィートは、「政治家には言えないから僕が言うが、日本の有権者はかなり愚かだ。」というもの。こちらは、維新支持者に留まらない有権者一般に対して、今回総選挙の結果をもたらしたことに対する批判。このツィッターに対しては、リベラル陣営からも批判が寄せられているようだ。「民主主義を否定する謬論」「愚民観と選良意識の表れ」…。果たしてそうだろうか。

 橋下徹は、相変わらずのものの言い方で、こう毒づいている。
 「元官僚にはこの手の勘違い野郎が多い。自分の考えこそが絶対に正しいと信じて疑わない。古賀茂明も。だから選挙が必要で、政治家が官僚を統制しなければならない。選挙の結果を否定したら民主主義など成り立たない。」
 悪意と悪罵は伝わるが、論理の切れ味は鈍く、説得力はない。

 果たして前川は、「選挙の結果を《否定》している」のか。選挙の結果を批判してはならないのか。この選挙結果をもって「日本の有権者はかなり愚か」と言ってはならないのか。そもそも有権者に対する批判はタブーなのか。

 橋下の「選挙の結果を否定したら民主主義など成り立たない」は大いなる勘違い。有権者の選択が常に正しいとは限らない。選挙の結果を大いに批判してよいのだ。選挙の結果は暫定的な民意の確認であって神判ではない。今回の選挙結果には次の選挙まで誰もが従わざるを得ないが、次回選挙ではどうにでも変わり得る。次回選挙のための言論戦は、既に始まっている。選挙結果への批判は大いにあってしかるべきなのだ。

 普通、選挙に関わろうとする者が有権者を愚かと言うことはない。有権者を味方に付けなくては選挙に勝てないからだ。それでも、維新の議席を伸ばし、自公与党に過半数を与えた今回総選挙の有権者の投票行動を「愚か」と言わざるを得なかったのが前川の心情。その気持ちはよく分かる。私も同じだ。

 しかし、橋下と同レベルでの悪罵の交換と思われるのは不本意極まる。今回、維新に投票した有権者の耳に届く言葉で、語りかけなければならない。面倒なことだし容易なことではないが、それが民主主義の政治過程というものなのだろう。

老子も呟いた、岸田のブレと安倍菅政権の異常と。

(2021年10月21日)
ご隠居、これさっぱり分からねえ。なんだか教えてくんないかな。

おや八つぁん、どれ見せてみな。ああ老子だな。

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

おれにゃチンプンカンブンだね。いったいどう読むんだい。

たやすいことだ。普通はこう読む。

道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無し、天地の始めには。名有り万物の母には。故に常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。この両者は同じく出でて名を異にし、同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。

なおのことさっぱり分からん。老子ってお人は、いったい何についてしゃべくっているのかね。

これはな、八つぁん。実はだな、自民党岸田文雄総裁の総選挙における姿勢を厳しく批判しておる。

ムチャを言っちゃいけねぇ。ここには、岸田も、選挙も、一言もこざいませんぜ。

そこが、素人のあさはかさ。読む人が読めば、自ずからこの裏に隠された意味が浮かび上がってくるな。

へ?、読む人はいったいどう読むんですかね。

たとえば、こう読む。

岸田の岸田たるは、常の岸田に非ず。政権の政権たるは、常の政権に非ず。岸田無きは天地の始め、政権有るは万物の母。故に常にその自説を放棄してその地位を保ち、自説にこだわれば破滅を観る。岸田と政権と、この両者は同く出でて、しかもハトとタカと名を異にす。この両者同じきを保守と謂い、保守も自民も玄にしてさらに玄、衆妙の門なり。

ご隠居、相当に無理をしちぁいませんかね。それでも、やっぱりわからない。私にも分かるように、噛み砕いてくださいな。

噛み砕くと面白みはなくなるが、まずは、こんなところだ。

岸田さんてのはそれなりのイメージを持った政治家だろう。保守本流の宏池会の主宰者で、決して改憲派でもなければ、安倍晋三のような好戦派でもないし、歴史修正主義とも政治の私物化とも無縁だ。話しぶりだって、安倍や菅と較べれば、ずっと穏やかで品がよい。

そりゃ違えねえ。なんたって、安倍晋三というのが、あんまりひどかったからね。ようやく、ちゃんとした人が自民党のトップになった。

そこが、素人のあさましさ。そういうふうに簡単に騙されてはいけないというのが、老子の教えだな。

あら、今度は「あさましさ」。どう騙されてはならないってんですかね。

これまでの岸田が総裁になったと思ってはならない、今、総選挙に臨んでいる岸田はイメージどおりのいつもの岸田ではない、とまあ警告を発しておる。

実は、あっしもそういう了見なんだ。新聞で、「ブレブレ岸田」と言ってるとおりだ。「自民党の政権公約で鮮明なのはアベ後継の甘利と高市のカラーばかり」って、あれだろう。

そうさぁ、そのとおり。そして、老子は続けている。

安倍菅政権というものは、民主主義の常識に照らせば政権の名に値するものではない。しかし、岸田は実力で今あるわけではなく、安倍菅政権を母体として自民党総裁になった。だから、自分のカラーを消して初めてその地位を保つことができるが、反対に自説にこだわればあっさりと破滅してしまう。

少し分かったよ。普通の政権なら、政権投げ出しゃそれでお終いだ。とこが、安倍菅政権って代物は、いつまでも裏で糸を引こうという魂胆なんだ。岸田は、実力ないから安倍菅とその一味に、糸で引かれっぱなしというわけなんだ。

よくお分かりじゃないか。まったくそのとおりだ。老子は、最後をこう締め括っておるな。

岸田と安倍と、この両者は出所は同じだが、ハト派とタカ派に名を分けた。この同じ出所を保守と言い自民党とも言うが、ハトもタカも一緒というごちゃごちゃはコマッタもんだ、とな。

へ?え、「衆妙の門」というのが、「自民党はごちゃごちゃでこまったモンだ」という意味ですかね。

あんまり細かいことにまでこだわらんでもよい。要は、岸田をハトのイメージで見ていては間違える。ありゃあ、実は安倍晋三そのままのタカだという教えなんじゃ。

見かけはハトで中身はタカ、看板は岸田で売ってる品物は安倍製品、表紙は岸田で中身は安倍、顔は岸田で身体は安倍ってわけか。

もっとも、鳩は軍記物では戦での勝運を呼ぶ鳥じゃ。軍神である八幡神の使いとしても知られておる。そもそもの岸田のハト派イメージも、そのホンモノ度を、よく吟味しなければならん。

なるほど、言われてみればそのとおりだ。ハトの目タカの目でね。

主権者として最高裁に合否の審判を

(2021年10月18日)

 最高裁裁判官国民審査に当たって訴えます

 10月31日第49回総選挙投票の際に、「もう一つの総選挙」である最高裁裁判官の国民審査が行われます。主権者である国民が、最高裁のありかたの適不適を判断する大切な機会です。確かな判断材料に基づいて、曇りのない確かな目で、審査対象の各裁判官と最高裁のあり方を判断されるよう、法律家の立場から訴えます。
 
 日本国憲法には、美しい理想が掲げられています。その理想を実現する役割を担うのが裁判所であり裁判官です。その頂点に位置する最高裁の裁判官に限って国民審査の対象になります。主権者である私たち国民は、国民審査の機会に最高裁のあり方を可とするか不可とするかの審判を行うことで、最高裁だけでなく、全国の裁判所をより良い方向に変えていくことができます。

 今回審査対象となるのは、安倍晋三内閣任命の裁判官が6名、菅義偉内閣任命が5名の計11名。この裁判官たちは憲法の理想を実現する役割を果たしたと言えるでしょうか。政府広報だけでは分からないこの問題について、的確な情報を提供する「パンフレット」を作りました。ぜひ、ご参照され活用していただくよう希望いたします。その結論を申し上げれば、以下のとおりです。

 選択的夫婦別姓に反対した裁判官(林道晴、深山拓也、三浦守、岡村知美、長嶺安政の各裁判官)に?を!
 正規・非正規の格差是正に反対した裁判官(林道晴裁判官)に?を!
 冤罪の救済に背を向けた裁判官(深山拓也裁判官)に?を!
 一票の格差を放置した裁判官(林道晴、深山拓也、三浦守、草野耕一岡村知美各裁判官)に?を!

なお、すべての裁判官にとって、その独立こそが生命です。政治権力にも、いかなる社会的な権力や権威にも揺らぐことなく、自らの良心と法にのみに従った裁判をすることによってこそ、法の正義を貫き国民の人権を擁護することが可能となります。
 ところが最高裁で司法行政を司る「司法官僚」はその人事権を梃子に、全国の裁判官を内部的に統制し、この50年にわたって裁判官の独立をないがしろにしてきたと指摘せざるを得ません。判決内容だけでなく、この点についての国民的批判も重大だと考え、その観点から訴えます。

 裁判と裁判官を統制してきた司法官僚(林道晴、安浪亮介各裁判官)に、?を!

 なお、国民投票運動は、公職選挙法の縛りを受けません。このパンフは、どこでも、いつでも、自由に配布することができます。
  

さあ選挙 共闘候補に声援を とは云ふものの お前ではなし

(2021年10月16日)
江戸の狂歌師・蜀山人の作が、
 『世の中に 人の来るこそ うるさけれ とは云ふものの お前ではなし』

内田百?がそのパロディをつくって、両作とも人口に膾炙するところとなった。
 『世の中に 人の来るこそ うれしけれ とは云ふものの お前ではなし』

ともに人情の機微に触れて、実によくできている。いずれも総論と各論の対比ではあるが、目の前の「お前」にとっては、本歌では婉曲に、パロディでは直接に、否定の評価をされて辛いところ。

総選挙を目前にした巷では、安倍菅路線からの脱却こそが天の声であり、民の声でもある。その実現のためには、野党共闘が必要で、選挙協力が望ましいことは誰にも分かる理屈。しかし、大所高所からの総論だけでは選挙はできない。現場は動かない。

総論は正論で反対しがたいが、現場の活動家も選挙民も将棋の駒ではない。自分の支持政党とは異なる候補者への投票を依頼するのだ。簡単にできることではない。選挙活動の担い手を納得させる手続や具体策が不可欠ではないか。

 ちなみに、私の地元の「有力野党共闘候補者」(現職)のビラが甚だしく無内容。これまでの安倍菅政権への批判の気迫が感じられない。念のためにホームページを覗いてもみた。
 9月8日に合意した「衆議院総選挙における野党共通政策」についての言及はまったくない。むしろ、憲法については、こんな具合だ。

「憲法を尊重し、21世紀の日本にふさわしい憲法について広く議論を進めます。従前の司法手続きで解決できない憲法上の問題(自衛権、解散権、1票の格差等)について、国民とともに積極的に議論します。」

 これは、明らかに改憲派の言い回しである。共通政策は、この点を次のように言っており、懸隔は大きい。

 「安保法制、特定秘密保護法、共謀罪法などの法律の違憲部分を廃止し、コロナ禍に乗じた憲法改悪に反対する」「核兵器禁止条約の批准をめざし、まずは締約国会議へのオブザーバー参加に向け努力する」「地元合意もなく、環境を破壊する沖縄辺野古での新基地建設を中止する」

 外にも、共通政策にあって、この予定候補者の政策にない主なものは、「原発のない脱炭素社会」「最低賃金の引き上げ」「富裕層の負担強化」「日本学術会議の会員を同会議の推薦通りに任命する」などなど。

 野党の共通政策は、とてもよくできている。よくできているという意味はいろいろあるが、何よりも安倍菅政権9年の負の実績への対抗軸を設定するものであり、自公政権の継続を断ち切りたいとする選挙民の期待を集約するものである。野党共闘の候補者は、これこそが選挙民からの付託された基本政策と厳粛に受けとめていただきたい。

 その上で、各選挙区ごとに、共闘候補者と各政党や選挙母体が、この共通政策を有権者に訴えることを再確認する手続ないしはセレモニーが欲しい。そうでなければ、野党共闘は現場を盛り上げる力をもちえない。絵に描いた餅におわる恐れさえある。

小三治の思い出

(2021年10月15日)
 小三治が亡くなった。10月7日のことだったという。
 私は、小さん(5代目)を面白いと思ったことはなかったが、小三治の噺は誰よりも面白いと思って聴いてきた。私は、談志は嫌いだったが、小三治は大好きだった。

 盛岡に居たころ小朝が県民会館のホールを満席に埋めて何席かやった。演し物は「たらちね」と「紀州」だけは覚えている。少し際どい皇室ネタで笑いを誘っていた。最後は大きなネタをやったはずだが記憶にない。さすがに巧みな語り口で感心はしたが印象に深くはない。

 そのあと、小三治を聞いた。場所は、街中のそば屋の二階座敷だった。即席の高座を囲んで座布団を並べた客席。オートバイで東京から乗り付けた小三治ともう一人の噺家が熱演した。なんとも贅沢な一晩。

 小三治のマクラの長いのは有名だが、この日もたっぷり。聴衆が聞き上手だった。マクラへの聴衆の反応に、小三治が乗ってくる手応えを感じた。だんだんと、江戸の火事の話から、当時の商家のこと、ゼニとカネとは違うという話。ああ今日のネタは「鼠穴」か。

 端折るところのない完璧な「鼠穴」。この噺、こんなに濃厚で、こんなに長編だったか。改めてそう思わせられた、満腹感たっぷりの熱演。人の運命の有為転変、兄弟の愛憎の微妙。そして親子の情愛、さらに人生への絶望の描写…。終了予定時間をはるかに超えた至福のひとときだった。当時小学生の息子も、小朝よりは小三治のファンになった。

 その後、「赤旗祭」で小三治を聞いた。これも贅沢な話。そば屋の二階の感動はなかったが、やはり楽しかった。「私は何党であろうが呼んでいただけたら、そこに落語を聞いてくれる人がいるんだったら喜んで行きますよ。こんなに面白くていいものはないんですから。ええ。」と、妙に力んでしゃべったことが耳に残っている。何かあったのかと思わせた語り口。

 飄々とした独特の語り口は、「名人」とか「人間国宝」などという肩書には不釣り合いだった。ともかく、聴いていると楽しいし、面白い。この人が出るというので何度か鈴本にも足を運んだが、結局は行列に並ぶのがイヤだし、満席だしで、しばらく聞く機会がなく、そのうちにと思っているうちの訃報となった。亡くなる前の最後の公演は10月2日、府中の森芸術劇場での『猫の皿』だったそうだ。マクラもしっかり振り、声も大きく出ていたという。ああ、それを聞けた人がうらやましい。

 手許にある、講談社文庫の「ま・く・ら」「もひとつ ま・く・ら」を読み直してみる。やはり、無性に面白い。その中の一節をご紹介する。長い長い「ま・く・ら」のごく一部の切り取りである。

 あたくしの親父がね、終戦のとき小学校の校長をしてまして、むかしは『教育勅語』なんてのを読まされたんですよ、校長先生は。
 毎朝、朝礼のときにね、紫の袱紗(ふくさ)からうやうやしく『教育勅語』ってのを、紙を取り出してね。「朕思うに、わがコーソコーソー(皇祖皇宗)」なんてね。なんかまじないの文句かしらと思うようなことを言うんですよ。つまり教育ってのはこういうふうでなくちゃいけないってぇんですね。大まかの内容はとてもよいものなんですよ。
 で、あたしの親父はね、朝起きるとね、宮城遙拝なんて懐かしい言葉がありましてね、宮城遥拝。どういうのかっていうと、宮城のほうに向かって手を合わせるんです。
 キュウジョウっつったって後楽園球場じゃありませんよ(笑)。皇居のある宮城へ向ってね、朝、柏手打って、パンパンッ、はーっ、なんて拝んでンですよ、庭へ出て。
 何してンの? っつったら、天皇陛下を拝んでるっていうんです。
 なんで拝むんだってったら、天皇陛下は神様だって言うんですよね。
 正直言って、子供心に納得いきません。天皇陛下が神さん? だって写真で見ると人の形してますからね。神様ってなんか形があるような、ないような、もし人間の形してとしたら、腰から下は幽霊のようにフワァ〜と何だかわかんなくなってる、そうぃうよなもんじやないかというような頭を持ってましたからね。
 神様だったんですよ。毎日毎日やってるから不思議でしたね。
 ある日、親父がこうやって目ぇつぶってこうやって拝んでるとこへ行って、
 「ねえ、おとうちやん、天皇陛下はウンコするの?」
 っつったら、いきなりバッカーンと殴られた(笑)。

「岸田総理大臣、第三者による再調査で森友事件の真相を明らかにしてください」

(2021年10月13日)
 一昨日(10月11日)の立憲民主党・枝野幸男、辻元清美両議院の衆議院本会議における代表質問は、いずれも立派な聞かせる内容であった。論点を明確にし、よく練られた質問は、心ある国民の胸に響く内容であった。これに対する首相答弁は、逃げとはぐらかしに終始して、確実に政権与党の票を減らしたと思う。なるほど、総選挙の実施を急いだわけだ。予算委員会開催も拒否したわけだ。議論をすればするほど、議論が深まれば深まるほど、ボロが出て来る。化けの皮が剥がれてくるからだ。

 とりわけ、辻本議員の、森友事件再調査を求める質問は胸を打つものだった。総記録から、抜粋して採録し、若干のコメントを付しておきたい。

《辻本議員質問》 さて、先週、私は、森友公文書改ざん問題で自殺に追い込まれた赤木俊夫さんの妻、雅子さんにお目にかかりました。岸田総理にお手紙を出されたと報道され、直接お話をお聞きしたいと人づてに申し出て、お受けいただいたのです。どんな思いでお手紙を出したのですかとお聞きすると、岸田総理は人の話を聞くのが得意とおっしゃっていたので、私の話も聞いてくれるかと思い、お手紙を出しましたとおっしゃっておりました。
 総理、このお手紙、お読みになりましたか。お返事はされるのでしょうか。お答えいただきたいと思います。そのときに手紙の複写をいただきました。ちょっと読ませていただきます。皆さん、お聞きください。

 「内閣総理大臣岸田文雄様。私の話を聞いてください。
 私の夫は、3年半前に、自宅で首をつり、亡くなりました。亡くなる1年前、公文書の改ざんをしたときから、体調を崩し、体も心も崩れ、最後は、自ら命を絶ってしまいました。夫の死は、公務労災が認められたので、職場に原因があることは、間違いありません。財務省の調査は行われましたが、夫が改ざんを苦に亡くなったことは、書かれていません。なぜ、書かれていないのですか。赤木ファイルの中で夫は、改ざんや書換えをやるべきではないと本省に訴えています。それに、どのような返事があったのか、まだ分かっておりません。夫が正しいことをし、それに対して、財務省がどのように対応したのか、調査してください。そして、新たな調査報告書には、夫が亡くなったいきさつをきちんと書いてください。
 正しいことが正しいと言えない社会は、おかしいと思います。
 岸田総理大臣なら、分かってくださると思います。第三者による再調査で真相を明らかにしてください。
  赤木雅子。」

 総理は、このお手紙、どのように受け止められたんでしょう。赤木さんの死も、赤木さんが改ざんに異議を唱えたことも、そして、どんなプロセスだったのか、一切、財務省の報告にはありません。これで正当な報告書と言えるんでしょうか。皆さん、いかがですか。皆さんも、御家族がこのような目に遭わされたら、はい、そうですかと納得はできないんじゃないですか。総理、このお手紙で求めていらっしゃる第三者による再調査、実行されますか。
 赤木雅子さんは、この代表質問を見ますと私におっしゃっておりました。先ほどはちょっと冷たい答弁でした。雅子さんに語りかけるおつもりで、御自分の言葉で誠実にお答えください。
 臭い物に蓋をして、その上に新しい家を建てようとしても、すぐに柱が腐ってしまいます。長期政権でたまったうみを岸田政権で出すことができないのであれば、国民の皆さんの手で政権を替えていただいて、私たちが大掃除するしかありません。

《総理答弁》森友学園問題の再調査についてお尋ねがありました。
 近畿財務局の職員の方がお亡くなりになったことは、誠に悲しいことであり、残された家族の皆様方のお気持ちを思うと言葉もなく、静かに、そして慎んで御冥福をお祈り申し上げたいと思います。
 御指摘の手紙は拝読いたしました。その内容につきましては、しっかりと受け止めさせていただきたいと思います。
 そして、本件については、現在、民事訴訟において法的プロセスに委ねられております。今現在、原告と被告の立場にありますので、このお返事等については慎重に対応したいと思っています。この裁判の過程において、まずは裁判所の訴訟指揮に従いつつ丁寧に対応するよう、財務省に対して指示を行ったところであります。
 いずれにせよ、森友学園問題に係る決裁文書の改ざんについては、財務省において、捜査当局の協力も得て、事実を徹底的に調査し、そして、自らの非をしっかり認めた調査報告書、これを取りまとめております。
 さらには、第三者である検察の捜査も行われ、結論が出ております。会計検査院においても、2度のこの調査を行っている、こうしたことです。
 その上で、本件については、これまでも国会などにおいて、様々なお尋ねに対し説明を行ってきたところであると承知をしており、今後も必要に応じてしっかり説明をしてまいります。
 大事なことは、今後、行政において、こうした国民の疑惑を招くような事態を2度と起こさないということであり、今後も国民の信頼に応えるために、公文書管理法に基づいて、文書管理を徹底してまいりたいと存じます

《澤藤コメント》岸田さん、そりゃオカシイ。もっと真面目に答弁しなければダメだ。アベ・スガ政治に対する国民の批判が高じた原因の一つが、トップの国会答弁の姿勢にあった。野党を敵とみる。「あんな人たち」とみて、その意見を国民の声とはみない。だから、野党議員の質疑をはぐらかし、真面目な答弁をしない。その姿勢に、野党支持者だけでなく、与党の支持者もこれは危うい、これではやっていけない、こんなトップは取り替えなきゃダメだと考えたのだ。取り替えられた新トップのあなたが、国民の大きな関心事での答弁においてこの姿勢では、岸田政権のお先は真っ暗だ。

 赤木雅子さんからの手紙を、「どのように受け止められたんでしょう」「お返事はされるのでしょうか」と聞かれている。「しっかりと受け止めさせていただきたい」では回答になっていない。「どのように受けとめたか」を真面目に答えなければダメなんだ。「しっかりと受け止め」は、はぐらかしているだけ。そして返事は書くのか書かないのか。はっきりしなければ、聞かされている国民には、イライラが募るばかり。

 「本件については、現在、民事訴訟において法的プロセスに委ねられております。今現在、原告と被告の立場にありますので、このお返事等については慎重に対応したいと思っています。」が、一番ひどい。これは、安倍晋三なら「向こうから裁判をかけられたんですから、徹底して争うしかないじゃないですか」と言うところ。岸田流に言葉を丁寧にしても結局は同じことだ。改めての政権の法廷闘争宣告でしかない。

 「この裁判の過程において、まずは裁判所の訴訟指揮に従いつつ丁寧に対応するよう、財務省に対して指示を行ったところであります」がおかしい。民事訴訟とは、当事者の合意次第で、いつでも和解もできるし、終結もできる。雅子さんと国と、争いが続く限り、裁判所の訴訟指揮に従わざるを得ないのだ。「訴訟指揮に従う」のは当たり前。「丁寧に対応する」とは、「しっかりと争って、原告の請求を排斥する勝訴を目指す」というだけのことだ。

 「森友学園問題に係る決裁文書の改ざんについては、財務省において、捜査当局の協力も得て、事実を徹底的に調査し、そして、自らの非をしっかり認めた調査報告書、これを取りまとめております」だと? 何を言っているんだ。はぐらかしも好い加減にしろ。
 雅子さんはこう言っているじゃないか。「財務省の調査は行われましたが、夫が改ざんを苦に亡くなったことは、書かれていません。なぜ、書かれていないのですか」「赤木ファイルの中で夫は、改ざんや書換えをやるべきではないと本省に訴えています。それにどのような返事があったのか、まだ分かっておりません」「夫がした正しいことに対して、財務省がどのように対応したのか、調査してください」
 これまでの調査は、このことにまったく答えていない。検察の捜査も会計検査院の調査も、それぞれの目的で行われる。雅子さんの関心に応えるものであるはずはない。

 「大事なことは、今後、行政において、こうした国民の疑惑を招くような事態を2度と起こさないということ」ではない。「最も大事なことは、現実に行政において行われた国民の疑惑を招く重大な不祥事を徹底して明確にすること」「とりわけ不祥事に携わった人物の、意図、動機を把握すること」「そして、トップに責任をとられること」だ。それがなければ、今後とも、同様なことが繰り返されることになるのだから。

323号の「たより」に、「定例デモ574回」の記事。

(2021年10月7日)
 「非核市民宣言運動・ヨコスカ」という運動体がある。その月刊の機関誌が「たより」という。堂々20ページの立派なもの。最近号が、「たより323」である。ほぼ30年続いているということだ。

 その「あとがき」にこう書いてある。「求む!定期購読」「『たより』を定期購読しませんか?」「格調高い論文はありませんが、運動する人の息づかいを伝えようとするニュースです。」「年間購読は郵送料込みで2000円。毎月発行の24頁。ぜひお読みください。」
非核市民宣言運動・ヨコスカ
横須賀市本町3?14 山本ビル2F
046-825?0157 FAXも同じです。  
ホームページは以下のとおり。
http://itsuharu-world.la.coocan.jp/

なお、この「たより」の巻末に、主宰者の新倉裕史さんが、逗子の『無言のデモ』への参加の記事を書いている。このデモの雰囲気が、文句なく素晴らしいと思う。なお、21年8月8日のことだそうだ。添えられた写真には『米軍基地撤去・池子の森全面返還を』の横断幕が写っている。

「30数年ぶりに参加した逗子『無言のデモ』は

なんと574回目だった」

 篠田健三さんから、「今月のデモは2人だった」と聞いたとき、反射的に「来月必ず行きます」と言ってしまった。その時の篠田さんの返事が、今も忘れられない。
 「いいよ、来なくて(笑)。2人だから目立つんだから…」。
 当時横須賀の月例デモはひと桁が続いていて、「2人」は人ごとではなかった。だからの「必ず行きます」。篠田さんの「来なくていいよ」に、うなった。

 その逗子の「無言のデモ」に、30年ぶり(いや35年ぶりか)に参加した。玉栄さんのインタビューで、「無言のデモ」が今も続いていることを知り、台風の大雨の中、JR逗子駅に向かった。
 11時集合。駅前にそれらしき人。近づくと「逗子定例デモ574回」のプラカード。やがて玉栄さんも加わり総勢6名。
 11時15分、出発直前に警官2名が駆けつけて、「無言のデモ」は県道42号を東逗子まで南下する。

 2人の警官は「無言のデモ」の前と後についた。
 県道24号線は一車線だから、6人を追い抜く車は、上り車線に膨らんで追い抜く。6人の後に複数の車が並ぶと、後方の警官が、20mほど前を行く警官に、通過させる台数と車のナンバーを無線で伝える。前方の警官が上りの車を止めると、後方の警官は「規制解除」と言いながら、後ろに並んだ車に、6人を追い越すように指示する。  たった2人で、上下線の車をさばきながら、車道のデモを確保する手際の良さから、デモヘの「敬意」が伝わってくる。
 「たいへんですね」
 6人のすぐ後方についた警官に声をかける。
 「ええ、雨の日はとくに気を使います」
 春からデモ警備の担当になったという警官は、話しながらも警棒を振り、後続の車に指示を出し続ける。
 
 デモコースの途中に京急逗子線の踏切があって、赤い列車が6人の前を走る。
 京急は毎年沿線写真を募集している。応募作品はどれも独自のアングルを探し出し、京急線の魅力を表現する。
 「デモと京急」
は、まだ誰も作品化していないぞ、と思いながらシャッターを切る  「無言のデモ」は随分早足だった。途中で1人が合流して7人どなり、ほぽ30分で東逗子駅に到着した。
 「今日は雨だから、ちょっと早足になりました。いつもはもっとゆっくりです」と聞いて安心する(笑)。
 デモが終了すると、双方から「ありがとうございました」。
 いつものことらしい。一緒に歩いた私も同じ気持ちだ。
 解敵地でお話を聞く。
 「ひとり、という時はありましたが、中止したことは一度もありません」 「コロナでも逗子署と相談して、無言だし、参加者も少ないから、まあいいでしょうということで、休みなしでずっと続けています」
 スタート時から参加されている方はいらっしやいますか。
 「いません」
 デモ申請を担当されている方は、「僕は中学生でした」。

 コロナ禍でも、「無言」と「少人数」が思わぬ力を発揮した。
 スタート時のひとが「いない」と伺って、考えた。それって、スタート時のひとがいなくてもデモは続く、ということだよね。ずぶ濡れになったが、心は充分に温まる、「無言のデモ」だった。

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