澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

旧優生保護法は、「君のため国のために、身を捨つることこそ臣民の道」と教え込まれた教育勅語世代の議員による全会一致の立法だった。ようやくにして、個人の尊厳を立脚点にこの法律を違憲・違法とする大法廷判決が出て、国家も社会もこれを受け入れる時代となった。76年かけてのことである。

(2024年7月30日)
 2024年7月がもうすぐ終わる。ひたすらに暑いというだけの7月ではなかった。我が国の人権と司法にとって、珍しく明るい話題が提供された7月であった。

 7月3日、最高裁大法廷は、旧優生保護法を違憲とし、同法に基づいて特定の障害に不妊手術を強制した国に賠償を命じる判決を言い渡した。

 判決は、旧優生保護法の当該条項を「個人の尊厳と人格の尊重の精神に著しく反する」とし、「国会議員の立法行為は、国家賠償法1条1項の適用上違法」と断じた。優生保護法を成立させた議員の立法行為を違法と明言した点で、画期的な判決と言ってよい。

 7月17日、岸田文雄首相は原告の障害者ら130人と首相官邸で面会し、「政府の責任は極めて重大。心から申し訳なく思っており、政府を代表して謝罪を申し上げる」と、障害者らに直接謝罪した。
 また、確定していない他の関連訴訟において、20年たつと賠償請求できない「除斥期間」の主張を撤回する方針を表明。「和解による解決を速やかに目指す」とし、新たな補償制度の創設については本人と配偶者も含めて幅広く対象とする考えも示した。

 7月24日には超党派の議員連盟プロジェクトチームが発足し、次の国会に向けての新たな補償制度などに関する議論が始まった。
 
 そして昨日(7月29日)、政府は全閣僚で構成する「障害者に対する偏見や差別のない共生社会の実現に向けた対策推進本部」の初会合を首相官邸で開いた。3日の最高裁判決を踏まえて、本部長の岸田文雄首相は、「障害者への社会的障壁を取り除くのは社会の責務であり、社会全体が変わらなければならない。偏見・差別の根絶に向け、政府一丸となって取り組む」と強調したと報じられている。遅きに失したとは言え、その姿勢は評価に値する。

 ところで、旧優生保護法が成立したのは1948年6月。超党派議員の議員提案の法案審議ののち、衆参両院とも全会一致での立法であった。日本国憲法の施行が47年5月のこと、基本的人権という概念すらなかった天皇制国家からの脱却不十分な時期とは言え、全会一致には驚くしかない。

 立法府の議員たちは、皇国思想に親和性の高い優生思想に取り憑かれていた。内心まで汚染されていたと言っても、マインドコントロールから抜け切れていなかったと言ってもよい。民族や国家のための個人、社会や国家あっての個人、という固定観念から逃れ切っていないのだ。「君のため国のために、身を捨つることこそ臣民の道」と叩き込まれた人々である。人の成長のすべてを、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に収斂させる教育勅語で育てられた世代である。「障害者に生きる価値はない」と公言することはないにせよ、「国家社会の見地からは、重度の障害者は生まれてこなくてもよい」「生まないようにした方がよい」との思いから抜けきれなかった。新米主権者としての議員の、そのような思いが残酷な立法を可能にした。

 石原慎太郎という、いたって口の軽い、その意味では分かり易い、極右の政治家がいた。今、小池百合子を知事にしている都民は、かつてはこの石原を都知事にした。1999年9月、就任早々の石原は、重度障害者療育施設である府中療育センターを視察して、こう発言した。「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。みなさんどう思うかな。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」「ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」

 実に分かり易く、優生思想のなんたるかを語っている。1948年における「無数の石原慎太郎」が旧優生保護法を立法し、よにしてにして2024年7月の最高裁が、優生思想による立法を違憲違法と断じたのだ。

 憲法13条に「個人の尊重」、24条2項に「個人の尊厳」という言葉が出てくる。これが、近代憲法のヘソだ。手段的な価値ではない、目的的な憲法価値。「個人の尊重」「個人の尊厳」こそが、公理である。

 国家に有用だから、社会に有益だから、人は尊ばれるのではない。人は人であるだけで、人は人であればこそ、尊厳を有し尊重されなければならない。いかなる人も、人である限り、分け隔てなく等しく、その人格の尊厳を重んじられなければならない。

 人は平等である。「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」その他一切の理由で差別されることはない。もちろん、身体的知的な障害の有無や程度によって差別されることはない。

 基本的人権の帰属主体である個人は、国家や、社会や、経済力や、同調圧力等々と対峙する存在である。国家や社会や経済力や同調圧力や、つまりは多数派の側からものを見るのではなく、基本的人権の側から、つまりは個人の尊厳を出発点にしてものを考える立場に立てば、7月3日大法廷判決となるのだ。

 憲法施行からそろそろ80年。ようやくにして、教育勅語の残り滓の腐敗臭を脱した大法廷判決が言い渡されて、政治も社会もこれを受け容れる素地ができたように見える。感慨一入である。

《日の丸を踏め》と命じることが日本への忠誠心を量る「踏み絵」とされたという。同様に《日の丸に正対して起立せよ》と命じることもまた、人の内心をあぶり出す「踏み絵」になる。

(2024年7月26日)
一昨日(7月24日)の朝日.comの記事の表題に、「《踏め》と命じられた昭和天皇の写真 移民たちは拒否し収監された」「迫害された日系移民 ブラジルで何が起きたか」。

 ブラジルの日系人社会には、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏戦した後もなお、皇国の敗戦を受け入れられずに「帝国が連合国に勝った」と信じ込んでいた人々がいた。これが、「勝ち組」である。その勝ち組をあぶり出すための方策として、ブラジル当局は、踏み絵を使ったという。

 周知のとおり、踏み絵は江戸幕府の官僚の考案で、世界に名だたる日本の発明である。ブラジル当局は、400年前の日本の発明技術を日本人に向けて用いた。さあ、この絵を踏め、踏めなければ「勝ち組」と見なして拘束する、と。使われた絵は、キリストやマリアの聖画ではなく、天皇(ヒロヒト)の写真と「日の丸」だったという。記事の概要は以下のとおり。

 終戦直前、勝ち組は「臣道連盟」という団体を結成。日本が戦争で勝ったことを信じて疑わなかった。「大本営発表しか聞いていないから当然だった。日本が日露戦争や第1次大戦で勝ち、『負けるはずがない』という思いもあったのだろう」。
 46年3?7月、勝ち組は負け組らに対する複数の殺人事件を起こし、日系社会は混乱した。日本の特高警察にあたるブラジルの政治警察は、各地の臣道連盟幹部ら1200人を拘束。警察署では日の丸か昭和天皇の写真を床に置き、踏むように命じた。多くが従ったが、拒んだ150人超はアンシエッタ島の施設に送られて監禁されたという。

 「日本人として天皇の御写真を踏むなど絶対に出来る事ではないのである」という勝ち組幹部の言葉が、紹介されている。

 注目すべきは、天皇の写真だけでなく、「日の丸」も踏み絵に使われたということ。おそらくは、「日本人として「日の丸」を踏むなど絶対に出来る事ではないのである」という勝ち組もいたということなのだ。

 人の内心は普段は伺うことができない。が、特定の状況で、特定の行為を強いることによって、人の内面をあぶり出し弾圧することができる。踏み絵は、そのために開発された技術であって、偉大な日本の発明なのだ。「日の丸」も、内心のあぶり出し道具として有用だった。

 「「日の丸」を踏め」と命じることで、日本への忠誠心の有無を量ることができるのと同様、「「日の丸」に敬意を表して起立せよ」と命じることもまた、人の内心をあぶり出すことになる。起立できるか、できないか。その態度を見ることによって、踏み絵と同じ役割と効果を目論むことができる。

 7月18日(木)、東京地裁101号法廷で、東京「君が代」訴訟(第5次訴訟)での5名の原告本人尋問が行われた。感動に満ちた素晴らしい法廷だったと思う。その中のお一人が、クリスチャンの教員で、自分の教員としての良心は信仰に根差したものであることを語った上で、信仰ゆえに起立斉唱ができないことを訴えた。尋問の担当は私だったが、中に次のような質問と回答があった。

質問 あなたの陳述書に、「踏み絵」という言葉が何度か出てきます。「10・23通達」やこれに基づく起立斉唱の職務命令を「踏み絵」とお考えでしょうか。
回答 この職務命令は、上司という《人の命令》に従うのか、信仰を持ち続け《神に従うのか》と私に迫ります。踏み絵と同じだと感じます。

質問 「聖なる絵を踏め」という強制が信仰を持つ者の心情に耐え難いことは分かり易いのですが、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱せよ」という命令が同じような苦痛をもたらすものでしょうか。
回答 キリスト教では、神の前に立つときは、人はみな限りある一つの命を生きているかけがえのない存在で、そこに特別な一人はいないと考えます。天皇という特別な人を讃える「君が代」を国歌として歌うことに強い違和感を覚えます。君が代斉唱命令は、クリスチャンの信仰とあいいれません。

質問 「日の丸」に正対して起立する行為については、いかがですか。
回答 学校儀式における日の丸の取り扱いには偶像崇拝的な印象を持ちます。特に旗に向かって起立や敬礼を強制されるようなときには、強い抵抗を覚えます。

質問 「踏み絵」は信仰者をどのように傷つけるのでしょうか。
回答 「踏み絵」は信仰者を見つけ出し、弾圧する手段です。
  踏み絵を踏むことを拒否すれば、キリシタンというレッテルを貼られて拷問や処刑など弾圧の対象になります。やむなく、多くのキリスト者は心ならずも踏み絵を踏んで、信仰を捨てざるを得ませんでした。踏み絵を踏めば、家に帰ることができたとしても、その後の人生は本当に生きづらいものになったでしょう。

質問 日の丸・君が代に対する起立斉唱命令も同じなのでしょうか。
回答 起立しなければ処分される。起立すれば、自ら信仰を手放して大きな苦しみを負うことになる。踏み絵と変わりません。

 また、第4次訴訟の原告のお一人は、こう語っている。
 「自分は、35年の教員生活で、君が代斉唱時に起立したことは一度もない。自分の信仰が許さないからだ。自分には、「日の丸」はアマテラスという国家神道のシンボルみえるし、「君が代」は神なる天皇の永遠性を願う祝祭歌と思える。
 ところが、やむにやまれぬ理由から、卒業式の予行の際に一度だけ、起立してしまったことがある。それが9年前のことなのだが、いまだに心の傷となって癒えていない。このことを思い出すと、いまも涙が出て平静ではいられない。

 「神に背いてしまったという心の痛み」「自分の精神生活の土台となっている信仰を自ら裏切ったという自責の念」は、自分でも予想しなかったほど、苦しいものだった。そして、「私はどうしても「日の丸」に向かって「君が代」を斉唱するための起立はできません。体を壊すほどの苦痛となることを実感した。

 その上で、この教員は、裁判所にこう訴えた。
 「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体から心を切り離そうとしても、できないのです。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。
 「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。キリスト者にとっては、これは自分の信仰とは異なる宗教的儀礼の所作を強制されることなのです。踏み絵と同様に、どうしてもできないということをご理解いただきたいと思います。」

 幕府のキリシタン弾圧の手段として踏み絵が開発されたのは400年前のこと。ブラジルの政治警察が勝ち組をあぶり出すためにその真似をしたのが80年ほど前のこと、そして石原慎太郎とその徒党が教員の国家や東京都への忠誠心の有無をあぶり出そうとして「10・23通達」を発出したのが20年ほど以前のことなのだ。

 日の丸・君が代の強制に悩むのは、真面目で良質な教師、教職をこの上なく大切に思う教師、全身全霊をかけて生徒に向き合おうとする教師らしい教師たちである。都教委は、このような本来の教員を排斥して、もっぱら支配しやすい教員ばかりを増殖している。なんとも、もったいないことではないか。その被害者は明日の主権者であり、日本の人権や民主主義の未来である。

統一教会は、本件放送における有田の意見や解説の中から、前後の文脈を意識的に切り取ったわずか8秒の発言を名誉毀損であるとして本件訴訟を提起した。原判決は、この発言を前後の文脈との関係で捉え直し、そもそも統一教会の社会的評価を低下させるものではないと、統一教会の主張を一蹴した。本訴訟は、典型的なスラップ訴訟である。スラップの被害者は、応訴の負担を強いられる被告だけではない。類似の言論、類似のメディアが、訴訟の煩わしさを避けようと、統一教会批判の言論に躊躇し萎縮を余儀なくされる。スラップの真の被害者は、表現の自由そのものであり、国民の知る権利なのだ。一刻も早い控訴棄却の判決を求める。

(2024年7月25日)
本日、統一教会スラップ有田訴訟の控訴審第1回法廷。本日結審となったが、判決言い渡し期日は決まらず、追って指定とされた。
 本件訴訟は、単なる名誉毀損事件ではなく、また典型的なスラップ訴訟の一事例というだけのものでもない。被告とされた有田側において、原告統一教会の反社会的集団と言うにふさわしいその根拠の立証を積み上げた点で注目に値する事件となった。
 統一教会は、有田芳生の口を封じようと、このスラップ訴訟を提起したが、原告側の目論見に反して「統一教会は反社会的集団である」ことが被告の主要な立証対象となり、その立証のために統一教会の違法を認めた民事・刑事の裁判例が積み上げられた。この立証活動は、統一教会に対する解散命令請求での「悪質性・組織性・継続性の立証」にそのまま重なる。
 こうして、はからずも本件有田訴訟は、文科大臣による統一教会に対する「解散命令請求事件の前哨戦」となり、一審判決は「解散命令先取り判決」「統一教会解散パイロット判決」となるはずであった。
 ところが、一審判決は、そもそも本件有田発言は、統一教会の名誉を毀損する表現ではないとして、統一教会の反社会性の判断に立ち入るまでもないと判断した。本件訴えのスラップ性を認めたに等しいというべきであろう。

 2022年8月19日、日本テレビの情報番組「スッキリ」に、解説者として出演した有田芳生さんは、およそ40分間に及ぶ番組のなかの一言(8秒)で、統一教会から訴えられました。
有田芳生さんは、統一教会との深い関係を断ち切れない萩生田光一議員を批判する文脈で「(統一教会は)霊感商法をやってきた反社会的集団だってのは警察庁も、もう認めている」(「だから、萩生田議員は統一教会ときっぱり手を切るべきだ」)と発言したところ、統一教会は、これを名誉毀損だとして、有田さんと日本テレビを訴えました。その請求額2200万円。
 その結果、「統一教会は反社会的集団である」という事実の『真実性』、あるいは「統一教会は反社会的集団である」という意見の前提事実の『真実性』が、被告側の主要な立証対象となり、有田訴訟が、統一教会の解散命令請求裁判と同様に、統一教会の「悪質性・組織性・継続性」についての司法判断を求める訴訟となったものです。
 東京地裁民事第7部合議B係(荒谷謙介裁判長)
   R4ヮ第27243号名誉毀損事件
   原告 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)
   被告 日本テレビ放送網株式会社・有田芳生
(以下、※裁判所、◆原告、◎被告有田、☆被告日テレ、★訴訟外事件)
★22・07・08 安倍元首相銃撃事件
★22・08・19 日テレ「スッキリ」番組放映(萩生田光一議員批判がテーマ)
◆22・10・27 提訴 訴状と甲1?6
 請求の趣旨
  (1) 被告らは連帯して2200万円(名誉毀損慰謝料と弁護士費用)を支払え
  (2) 日テレは番組で、有田はツィッターで、謝罪せよ
 請求原因 名誉毀損文言を、有田の番組内発言における「(統一教会は)霊感商法をやってきた反社会的集団だって言うのは、警察庁ももう認めているわけですから」と特定している。
※22・11・10 被告有田宛訴状送達(第1回期日未指定のまま)
※23・01・23 On-line 進行協議
◎23・02・27 被告有田・答弁書提出 証拠説明書(1) 丙1?7提出
  (本件発言は、一般視聴者の認識において全て意見であり、当該意見が原告の社会的評価を低下させるものではない。仮に社会的評価を低下させるものであったにせよ、その前提事実は真実である)
☆23・02・27 被告日テレ・答弁書提出 乙1(番組の反訳書)提出  
◆23・03・07 原告準備書面(1) (被告日テレの求釈明に対する回答)提出
◆23・03・14 原告準備書面(2) (被告有田に対する反論) 甲7?12提出
◎23・05・09 被告有田準備書面1 提出
☆23・05・09 被告日テレ・第1準備書面
◎23・05・12 被告有田準備書面2 証拠説明書(2) 丙8?13 提出
※23・05・16 第1回口頭弁論期日(103号法廷) 閉廷後報告集会
   島薗進氏の記念講演、望月衣塑子・佐高信・鈴木エイト各氏らの発言
◆23・06・26 原告準備書面(3) (有田準備書面1に対する反論) 甲13?25
◆23・06・26 原告準備書面(4) (有田準備書面2に対する反論)
◆23・06・26 原告準備書面(5) (日テレに対する反論)
◎23・07・17 被告有田準備書面3 提出
※23・07・18 On-line 進行協議
◆23・07・20 原告甲26(番組全体の録画データ)提出
◎23・08・31 被告有田 証拠説明書(3) 丙14?19
証拠説明書(4) 丙20?23
証拠説明書(5) 丙24?27
証拠説明書(6) 丙28?43
☆23・09・15 被告日テレ・第2準備書面 証拠説明書(2) 乙2?7
◎23・09・22 被告有田準備書面4
  (甲26ビデオを通覧すれば、「警察庁ももう認めているわけですから」は、一般視聴者の印象に残る表現ではない。早期の結審を求める)
◆23・09・22 原告証拠説明書 甲27?29
※23・09・26 第2回口頭弁論期日(103号法廷)
   裁判所 「双方なお主張あれば、10月30日までに」
◎23・10・27 被告有田「早期結審を求める意見」書を提出
       (主張は尽くされた。次回結審を求める)
◆23・10・30 原告準備書面(6)提出 内容は横田陳述書(甲30)を援用するもの
   証拠申出・証人横田一芳(国際勝共連合) 甲30・横田陳述書提出
◎23・10・31 被告有田、証人(横田)申請を却下し重ねて次回結審を求める意見。
※23・11・07 On-line 進行協議 原告の証人申請却下
        次回結審とし、法廷では15分の被告有田側の意見陳述を認める。
※23・11・28 第3回口頭弁論期日(103号法廷) 結審  閉廷後報告集会 
※24・3・12 15時30分 判決言い渡し(103号法廷) 請求全部棄却
       16時 報告集会   16時30分 記者会見

              

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控訴審裁判所 東京高等裁判所 第14民事部(裁判長は太田晃詳(39期))
事件名 名誉棄損控訴事件 令和6年(ネ)第1772号
◆24・3・25 統一教会控訴状提出
◆24・3・15 控訴答弁書・甲31?48提出
◎24・7・18 被控訴人有田 控訴答弁書提出
☆24・7・18 被控訴人日テレ 控訴答弁書提出
※24・7・25 14時 控訴審第1回口頭弁論期日(101号法廷)
  控訴状、控訴理由書、控訴答弁書の各陳述
  甲31?48(いずれも写)の取り調べのあと
  被控訴人本人有田さんと、代理人澤藤大河の意見陳述があって、
  結審となった。但し、判決言い渡し日は、追って指定。
 なお、太田晃詳裁判長は、大阪高裁民事部勤務時代の2022年2月22日、旧優生保護法を違憲とし、初の賠償命令判決を言い渡した裁判長として知られる。

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統一教会スラップ有田事件控訴審意見陳述

被控訴人 有田芳生

 被控訴人有田芳生より控訴審第1回期日において、当事者として意見を述べます。
 朝日ジャーナル」や「朝日新聞」が統一教会や霊感商法を批判した1980年代。信者たちは上司(アベル)の指示に従って、朝日新聞社に抗議電話を殺到させ、そのため周辺のがんセンターや築地市場の電話回線までパンクする事態が生じました。
 また記者の自宅に対する深夜の嫌がらせ電話もありました。1992年の国際合同結婚式のときにはテレビ局に3万回を超える抗議電話が組織的にかけられ、ある弁護士宅には頼みもしない寿司上6人前など商品の注文、ハワイ往復旅行の予約、引っ越し業者の派遣などだけでなく、霊柩車まで来るほどでした。
 当時は私の自宅への抗議電話、尾行、脅迫状とカッターナイフの刃が入った封書、渋谷駅頭での左肩への殴打などがありました。こうした組織的な暴力行為が報道され、教団への批判が起きたからでしょう。それから30年。こんどは裁判に訴えることで私たちの言論を封じ込める手法に出たのです。その手段は功を奏し、私については、統一教会に訴えられた翌日からいまに至るまで、テレビ出演はいっさいありません。民主主義社会の基盤を破壊するスラップ訴訟は法を悪用した言論封殺であり断じて許されません。
 原判決は私の発言が名誉毀損に当たらないと判断しました。世間の合理的かつ常識的感覚に沿ったものだと私は考えています。控訴審でも同様の判断がなされるものと確信し、意見陳述を終わります。

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統一教会スラップ有田事件控訴審意見陳述

被控訴人 有田芳生代理人 弁護士 澤藤大河

本件訴えは、形の上でこそ名誉毀損訴訟ですが、その実態は、典型的なスラップ訴訟にほかなりません。その訴訟提起の目的は、統一教会に対する批判の言論を封じようという一点にあります。最も効果的なスラップとするために被告とされたのが、?く統一教会批判の第一人者とされてきたジャーナリストの有田芳生と、影響力が大きいテレビメディア・日本テレビとです。勝訴の可能性は皆無であるにもかかわらず、統一教会の狙いは半ば成功しています。本件提訴以来、被控訴人有田に対するテレビ出演の依頼は一切なくなり、マスコミ全般に統一教会批判報道の萎縮効果が発生しています。
 スラップの被害者は、応訴の負担を強いられる被告だけではありません。類似の言論、類似のメディアが、訴訟の煩わしさを避けようと、統一教会批判の言論に躊躇し萎縮を余儀なくされます。その意味でスラップの真の被害者は、表現の自由そのものであり、国民の知る権利なのです。
 統一教会は、本件放送における被控訴人有田の意見や解説の中から、前後の文脈を意識的に切り取ったわずか8秒の発言を名誉毀損であるとして本件訴訟を提起しました。原審判決は、この発言を前後の文脈との関係で捉え直し、そもそも統一教会の社会的評価を低下させるものではなく名誉毀損に当たる表現ではないと、統一教会の主張を一蹴しました。これは、本件をスラップ訴訟と認めたに等しい判断です。
原判決を不服とする統一教会の控訴理由は、原審判決に「印象論」とのレッテルを貼って攻撃するものです。この「印象論」以外は、本件に関連性のない、解散命令請求を不当とするイデオロギー主張に過ぎません。
 「印象論」は、原判決を貶めるための「印象操作」を意図したもので、「厳密な根拠にもとづく事実認定」や「緻密で正確な法的判断」の反対概念として用いられています。しかし、「印象論」という言葉の使い方も、原判決の判断の構造の見方も明らかに誤っています。
 原判決は最高裁判決に倣って、「印象」という言葉を「強くあるいは深く、心に刻みこまれて忘れられないこと」という本来の意味に用いています。英語ではimpressionであり、記憶に強く残ることを意味します。
 それに対して統一教会の「印象」は、「客観性を欠いた主観的な認識あるいは感覚」という意味合いでの用いられ方です。英語ではfeelingでしょうか。
ダイオキシン報道事件最高裁判決及びこれに従った原判決は、「テレビジョン放送において、人の客観的な社会的評価を低下させるものがあるか否かの判断においては、『一般の視聴者の普通の注意と視聴の仕方とを基準として』『文字や発言からだけでなく、放送内容全体から受ける印象等を総合的に考慮して判断すべきである』」としています。放送内容を把握する判断において、一般視聴者の受け取る印象を考慮に入れるべきは当然で、「印象論」と非難される言われはありません。
また原判決は、最高裁判例が示した法的な判断枠組みに、厳密な認定事実を当て嵌めた堅実で論理性の高いものであって、非難の余地はありません。
 統一教会の本件控訴理由には、新たな事実主張は一切なく、新たに検討を要する法的な問題提起もありません。原審判決を容認できるのか否かを判断するだけですから、控訴審において、これ以上の弁論の応酬は全く不必要です。控訴人有田の必要な反論は、控訴答弁書で既に行いました。これ以上の再反論や再々反論の必要はまったく考えられません。
 スラップ訴訟である本件は、審理が?引いていることそれ自体が、スラップを仕掛けた統一教会の利益なのです。被控訴人両名と表現の自由とそして国民の知る権利は、本件の審理が?引けば、それだけ被害が継続し、損害が拡大することになります。本日の結審と、すみやかな判決によって、被控訴人両名をスラップ訴訟に対応を強制される負担から解放されるよう、強く要請いたします。



本郷湯島の皆様、少しだけ耳をお貸しください。都知事選が終わりました。残念な開票結果でしたが、それだけではない終始釈然としない、モヤモヤとしたヘンな印象が拭えない後味の悪い選挙でした。

(2024年7月12日)
 これまで経験したことのない、いくつものヘンなことが重なったヘンな選挙。日本の民度の低下を見せつけられるような、民主主義の衰退を確認しなければならないような不快感がまとわりついたヘンな選挙。本当にこれが選挙と呼べるものなのでしょうか。

 ヘンな選挙でしたから、当選したのはヘンな人。次点になった人まで、とてつもないヘンな人。真っ当な候補者は3番手に沈みました。「ハテ?」「なぜ?」と、問わずにはおられません。

 それでも、選挙は選挙。開票結果は厳粛に受けとめざるを得ません。トランプのように、「選挙結果は間違っている。都庁を襲撃せよ」などと言ってはなりません。300万に近い東京都の有権者が、稀代のウソつきの都知事三選を容認しました。これが今回投票に表れた、取りあえずの都民の民意です。あと4年、都民は「ウソつき知事」で我慢しなければなりません。4年の我慢…。なんとも長い期間ですが。

 本来、選挙とは、有権者の民意を問うべきもの。候補者間の政策論争がなくてはなりません。そのための主要候補者の討論会。これまでの都知事選では、当然のこととしてNHKや民放のテレビ討論会が行われてきました。しかし、今回は一度も実現しなかった。ネットでの討論会がたった一度ありましたが、極めて不十分。消化不良が否めません。

 なぜ、討論会が実現しなかったか。ウソつき百合子が論戦を不利と見て、逃げたからです。こんな人物を是として、多数の都民が投票しました。なぜ? 民主主義衰弱の病根は根が深いと思わざるを得ません。

 バイデンは不利を承知で論戦に臨みました。論戦を逃げなかった。それだけで、民主主義国のリーダーとしての資質を認めなければなりません。が、ウソつき百合子は論戦を逃げまくり、逃げ通しました。

 ウソつき百合子が論戦を不利と見て逃げた最大の原因は、学歴詐称問題です。学歴など取りに足りない問題です。しかし、ことさらのウソは大きな問題です。彼女は、小さなウソを隠すために、ウソを重ねてきました。ウソで塗り固められた哀しい人生。ですが、そのウソは、彼女一人の哀れだけにとどまらない、大きな影響を及ぼすものとなっています。

 いまや、彼女のカイロ大学卒業という看板を真実と信じる人が存在するとは思えません。それでも、討論の場で公然と学歴詐称を論じられることには耐えられなかったのでしょう。学歴詐称を誤魔化す工作のために、エジプト軍事政権に大きな借りを作り、その国と政権に操られる存在になっているとの指摘を避けたかったのです。

 こうしてウソつき百合子は論戦を避けて逃げ切り、三度目の知事戦に当選しました。8年前は、自民党を攻撃して民意を掠めとり、今回は表立たないように自民党の応援を受けてのことです。「勝てば官軍」です。「選挙に勝てば、ウソつきも知事」なのです。

 しかし、選挙によって百合子のウソが真実に変わったわけではありません。神宮外苑間の再開発も、築地市場跡地も、五輪選手村も、三井不動産ファーストも、電通との腐れ縁も、関連企業への天下りも、在日ヘイトの体質も、歴史修正主義も、議会での答弁拒否の姿勢も、何もかも旧態依然のまま。

 このウソつき百合子に対する制裁の一つは、刑事告発です。公選法235条の虚偽事項公表罪は最高刑禁錮2年。有罪になれば、公民権停止となって知事の資格を失います。しかし、民主主義の本道は広範な世論の声を糾合して、ウソつき百合子を政治的に追い詰めること。

 「あと4年は、ウソつき知事で我慢」は、決して「4年間は知事のなすがままににお任せ」と同義ではありません。ウソつき知事を監視し、批判し、批判の声を挙げ、行動すること。それこそが民主主義の下での有権者のあり方です。

 情報を集め、真偽を判断し、そして「ウソつきは我が国の首都の知事にふさわしくない」「退陣せよ」との声を上げ続けましょう。その声を糾合しましょう。民主主義のために。地方自治のために。私たちの住む東京のために。

6月4日に思う。かつての「人民に依拠した中華人民共和国」と「国民党による強権支配の台湾」という関係は完全に逆転した。いまや、「一党独裁個人崇拝の専制国家・中国」と、「人権と民主主義の先進社会・台湾」との対比の構図である。これは、野蛮と文明の対比ではないか。

(2024年6月4日)
 6月4日、忘れてはならぬ日であるが、到底忘れられぬ日でもある。
 あの日、私の中で崩壊したものは、中国共産党や中華人民共和国への期待や肯定的な評価だけではない。人類の進歩への楽観や希望も崩れたのだ。あれから35年、中国共産党の野蛮と危険は、さらに深刻化している。彼の地に、人権と民主主義が根付くには、百年河清を俟つがごとき感を拭えないが、やむを得ない。百年を俟つ覚悟をしようではないか。そう、百年批判の声を挙げ続ける覚悟を。

 例年6月4日には、弾圧されて声を失った中国本土の民主勢力に代わって、香港の市民が大規模な追悼と抗議の集会を続け、亡き人たちの志を継いできた。が、今や、香港の文明は中国の野蛮に完全に呑み込まれ、いまこの志を継いでいるのは台湾である。

 かつての「人民に依拠した中華人民共和国」と「国民党による強権支配の台湾」という関係は完全に逆転した。いまや、「一党独裁個人崇拝の専制国家・中国」と、「人権と民主主義の先進社会・台湾」との対比の構図である。

 さらに深刻なことは、野蛮の側が腕力において圧倒的に強盛なことである。文明の側、人権や民主主義の旗を掲げる側は、軍事力において劣勢を免れない。

 その台湾では、就任まもない頼清徳総統が、本日「天安門事件の記憶は歴史の奔流の中で消えることはない」と発言した。さらに、「(天安門事件は)民主主義と自由が簡単には手に入らないことを思い知らせてくれる。私たちは、自由によって独裁政治に対応し、勇気をもって権威主義の拡大に立ち向かわなければならない」「民主や自由があってこそ人民を守ることができる」とも述べたという。そして、台北市内では民主団体によって天安門事件犠牲者を追悼する集会が開催された。

 習近平共産党指導部は、事件を「動乱」と認定して民主化要求運動を武力で抑え込んだ対応をいまだに正当化し、さらに国内民主化運動をおさえこもうと躍起である。4日早朝、天安門広場やその周辺には制服姿の警察官や武装警察官が多数配備された。厳戒態勢を敷き、市民の追悼や抗議活動を監視しているという。強権を発動しなければ、治安を維持することのできない脆弱さを抱えているのだ。

 一見、中国と台湾が対立しているように見えるが、実は、民主主義を求める勢力と、これと敵対し弾圧する勢力とが対立している。民主主義を求める勢力は中国本土では劣勢で弾圧されている。台湾では、民主主義を求める健全な勢力が多数派を占めており、虐げられている中国の民主主義勢力に手を差しのべているのだ。

 周知のとおり、中国指導部の頼総統に対する非難のボルテージは高い。先月の総統就任時には祝辞を送らず、《台湾に『戦争と衰退』をもたらす『危険な分離主義者』》との物騒なメッセージを送って、台湾周辺をぐるりと取り囲む形での軍事演習の実施で威嚇をしている。《中国に逆らうと『戦争と衰退』が待っているぞ、中国からの台湾分離など唱えることの『危険』を知れ》と恫喝しているのだ。これこそ、野蛮な反社の姿勢ではないか。

 「天安門」から、「08憲章」・「チベット・ウイグル」・「香港」、そして台湾と矛先は広がっている。自由に発言のできる立場にある者は、「天安門の母」や香港の市民に代わって民主勢力を弾圧する野蛮な中国共産党を批判しなければならない。小さな声も、無数に集まれば力になる。そうすれば、百年待たずして河清を実現できるかも知れない。

《政治とカネ》の関わりは現時点での喫緊の課題である。また同時に、民主主義の理念の根本問題でもある。「法と民主主義」今月号の特集は、眼前にあるカネにまみれた政治腐敗の現象を、あるべき理念に照らしてどう理解しどう改革すべきかの示唆を提供するものである。ぜひご購読いただきたい。

(2024年5月12日)
「法と民主主義」2024年5月号【588号】は連休前に発刊されたが、このブログでの紹介が遅れた。本号の特集タイトルは、以下のとおり熱い。

●あらためて問う《政治とカネ》― その理念と規制改革の方向

時宜に適った充実した内容であり、只野雅人・石村修両氏をはじめとする適材の執筆陣の力のはいった論稿が揃っている。

◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆政治資金と民主主義 … 只野雅人
◆会社による政党への寄附 ── 八幡製鉄事件最高裁判決・再読 … 石村 修
◆政治資金の統制の論理 ── 政治資金規正法の盲点 … 加藤一彦
◆政党もコンプライアンスの導入急務── 自民党各派の政治資金パーティー問題の経過と現状 … 栗原 猛
◆政治資金パーティーという「企業献金の抜け道」を塞げ … 立岩陽一郎
◆民主主義の理念貫徹のための選挙制度改革── 小選挙区制の弊害と改革の方向 … 小松 浩
◆政治資金と納税義務 ―― 自民党キックバック、裏金への課税 … 岡田俊明
◆政治資金と納税義務 ―― 納税者の怒りと運動の視点 … 浦野広明
◆主要各国における政治寄付関連制度(国会図書館作成資料)

私のリードは、下記のURLでお読みいただきたい。
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202405_01.pdf

民主主義の理念に敵対するものとして、資本の論理がある。利潤の追求をその本質とする企業は、儲けのためにはなんでも買う。カネは票を買い、政策を買い、政治を買うのだ。かくて、放置されている限り、カネは強力な武器となって民主主義の理念を侵蝕する。民主主義は、このカネの力を徹底して規制しなければならない。

同時に、政治資金の流れは、徹底して可視化されなければならない。政治資金収支報告の内容を透明化するとともに、有権者が関心をもって監視し意見を表明することが必要である。政治家の腐敗の程度は、有権者全体の民主化度の反映なのだ。

特集以外の記事は、以下のとおりで。

◆緊急掲載
 岡口基一弾劾裁判の手続と判決の問題点 … 児玉晃一
◆司法をめぐる動き〈93〉
 ・NHK情報公開訴訟での一審判決報告 … 澤藤大河
 ・3月の動き … 司法制度委員会・町田伸一
◆連続企画・憲法9条実現のために(51)
 岸田改憲と憲法審査会の動向 ── 「戦争への道」=改憲を葬り去る時 … 高田 健
◆メディアウオッチ2024●《グローバルパートナーって何だ?》
 「裏金」問題の陰で「戦争国家」への道 円安、生活苦、この国をどうする? … 丸山重威
◆改憲動向レポート〈№58〉
 憲法改正問題とは「関係のない自民党派閥による裏金問題」と発言した
 馬場伸幸日本維新の会代表 … 飯島滋明
◆インフォメーション
 ・ブックレット「『国会議員の任期延長改憲』その危険な本質?軍事大国化の中での憲法審査会の動向?」のご案内
  ・国の指示権を拡大する「地方自治法の一部を改正する法律案」の廃案を求める法律家団体の声明
◆時評●平和的共存への道に希望を … 松田幸子
◆ひろば●改憲問題対策法律家6団体連絡会議事録整理班の活動 … 久保木太一

お申し込みは、ぜひ下記の「法と民主主義」ホームページから

 「法と民主主義」(略称「法民」)は、日民協の活動の基幹となる月刊の法律雑誌です(2/3月号と8/9月号は合併号なので発行は年10回)。毎月、編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、人権、平和、司法、原発、ジェンダー、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入(1冊1000円)も可能です。よろしくお願いします。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html

皇室の血統が途絶えたところで、憲法の本質的理念である人権・民主主義・平和に何の影響もない。当然のことながら、天皇がいなくなっても日はまた東から昇るのだ。

(2024年5月4日)
 産経の社説は「主張」という。産経自らが、「憲法改正、靖国神社参拝、領土問題などについて、日本の国益のもとにハッキリとした論説を展開しています」と、その姿勢を説明している。「日本の国益のもとにハッキリとした論説」とは、「真正右翼の言説」という意味。「これがハッキリとした右翼の主張」なのだ。ときおりこれを見ていれば、いま右翼が何を問題とし何を言いたいのか、ほぼ見当がつく。その意味で便利で存在価値ありなのだが、カネを払って読むほどの内容はない。ネットで斜め読みするだけで十分である。

最近、産経らしい「主張」のタイトルが以下のように続いている。安倍なきあとの右翼の危機感の表れなのかも知れない。
(4月27日)皇位継承と皇族数 「正統の流れ」確認された
(4月29日)昭和100年式典 日本を挙げて開催したい
(5月1日)天皇陛下即位5年 重きお務めに感謝したい 伝統守り男系継承を確実に
(5月3日)憲法施行77年 国会は条文案の起草急げ 内閣に改憲専門機関が必要だ

内容はタイトルだけで推察されるとおり。基本姿勢の一つは「国体思想」であり、もう一つが「軍事大国化」。両々相俟って「国益論」となり、「改憲・靖国・領土」という具体的トピックに盛り込まれる。

「国体思想」とは、愚にもつかない天皇崇拝のこと。「思想」というほどの論理性も体系性もなく、今の世にはアナクロニズムというしかない代物。天皇教というべき蒙昧なかるとに過ぎず、統一教会の原理講論と五十歩百歩というところ。

天皇とは、調和のとれた美しい憲法体系中に埋め込まれた、本来あってはならない異物である。体系に馴染みようがない。憲法体系を人体になぞらえば、盲腸か腫瘍にあたると言えよう。憲法体系の調和を撹乱し、この異物を摘出しない限りは憲法の体系性が完成しないのだ。

憲法は、すべての人の生まれながらの平等を基本原理として体系化されている。しかし、天皇は生まれだけでその地位に就く。人の平等性という原理を破壊する存在なのだ。天皇を貴しとするところから、相対的な賤なる存在が生まれる。その意味で天皇制は差別の根源である。あらゆる差別の廃絶のために、天皇制を廃棄しなければならない。

「軍事大国化」は、富国強兵のスローガンをもって語られた大日本帝国の国是であった。大日本帝国は、「軍事大国化」の大方針を掲げて、台湾・朝鮮・満州へと侵略を重ねた。平然と、他国の領土を「日本の生命線」とうそぶいて恥じなかった。対中戦争の膠着を打開するとして対英米蘭にまで戦争を仕掛けて、壮大な失敗を犯した。日本国憲法はその失敗の教訓から生まれ、徹底した平和主義・国際協調主義を採用した。これを再び戦前に戻してはならない。

ところで、最近の産経社説の中で、最もあからさまに国体思想の臭みを放っているのが、5月1日掲載の「天皇陛下即位5年 重きお務めに感謝したい 伝統守り男系継承を確実に」である。

産経は天皇を、あたかも主権者の如く、またあたかも聖なる存在の如く、崇め奉っている。これは、危険な兆候と言わねばならない。

産経は、「天皇は、憲法第1条で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定める日本の立憲君主の立場である。国と国民の安寧を祈り、さまざまなお務めに励まれてきた陛下に深く感謝申し上げたい」と言う。ことさらに、憲法第1条の後段、「この(象徴たる)地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」を引用から省いての作文が解せない。天皇の地位は、飽くまで主権者である国民の意思にもとづく限りもので、言うまでもなく天皇制廃絶の憲法改正は可能である。このような政体をことさらに「君主制」という必要はない。

産経社説から伺える右翼の問題意識は、男系男子としての天皇の「正統性」への固執と、血統の断絶に対する恐れとである。つまらぬことではないか。天皇は、人権と民主主義、そして平和と国際協調を調和のとれた体系とする憲法に必然の存在ではない。天皇の血統が途絶えて天皇制がなくなっても、憲法の人権も民主主義も平和主義も、何の影響も受けることはない。当然のことながら、日はまた東から昇り、季節はめぐる。稲も枯れることはなく、鳥もさえずり続けるのだ。

めでたさも中くらいなり憲法の喜寿

(2024年5月3日)
本日、77回目の憲法記念日。擬人化すれば、日本国憲法は77歳となった。この間、部分的にも明文改憲はなかった。誕生以来本日まで、1字の損傷もなく、憲法は擁護された。これは、主権者である国民の憲法を支える強い意思が保守勢力の改憲策動を阻止したことを意味する。その意味では日本国憲法の喜寿を祝い喜ぶべきではあろう。本日は、めでたい日である。

 とは言うものの、手放しで喜んでよい憲法状況ではない。確実に解釈改憲の策動が進行している。憲法の空洞化といってもよい。とりわけ、憲法の平和主義への攻撃と侵蝕は看過しがたい。9条は危殆に瀕している。安倍政権の集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更以来今日まで、政府の憲法無視は甚だしい。就任前はハトと思われていた岸田が今はタカの本領を発揮している。安保3文書の閣議決定、敵基地攻撃能力保有、軍事費倍増、戦闘機まで含む殺傷兵器の輸出解禁、日米軍事同盟の質的強化等々、明らかに憲法の平和主義をないがしろにする大軍拡路線が進行中である。

 憲法とは、主権者から為政者に対する命令である。権力行使を有効に制約しなければ憲法の存在意義はない。いま、政権には憲法遵守の誠実さはなく、邪魔な存在として解釈を変更して違憲な権力行使を行い、さらには明文改憲の意図を隠そうともしていない。

 かくして、憲法に従うべき義務を負う権力者が、憲法改正を唱える異常事態が常態化するに至っている。さらに憂うべきは、自・公の与党勢力だけでなく、維新や国民という一部野党までもが、改憲勢力の一翼を担っている。喜寿の憲法は必ずしも安泰ではない。

 喜寿を迎えた日本国憲法について、もう一つの感想がある。今日まで明文改憲を阻止し得たと言うことは、その反面、より良い憲法改正をなし得なかったということでもある。憲法は保守勢力と進歩勢力との、暫定休戦協定という政治的意味をもっている。進歩の勢力が強くなれば、憲法は大いに改正を重ねてしかるべきものなのだ。

 日本国憲法は立派な憲法ではあるが理想の憲法ではない。当然のことながら、不磨の大典でもあり得ない。人権・民主主義・平和という理念を充実し実質化する方向に、真の意味での「憲法改正」を進展させなくてはならない。にもかかわらず、日本国憲法は、人権にも民主主義にも敵対し平和主義にも危険な「天皇制という異物」を抱えたまま喜寿を迎えた。憲法制定以来今日までの長きにわたって、日本の主権者はこの憲法上の異物を摘出できていない。

 日本国憲法の喜寿は、まずはその無事を確認して祝したいが、それだけでは足りない。明文改憲と解釈改憲の両者を最大限警戒するとともに、より良い憲法へ向けての「真の改正」の必要を確認する日としたい。異物を摘出し、部分的な治療を重ねることによって、日本国憲法は大いに若返り活性化するに違いない。

「虎に翼」にご用心。桂場等一郎の美化にご用心。この人物のモデルは、憎むべき石田和外。

(2024年4月30日)
新聞とネットで拝見する限りだが、NHKの朝ドラ「虎に翼」の好評が続いているようだ。結構なことである。だが、喜べないこともある。このドラマがとんでもない反動裁判官の実像隠蔽や美化になりかねないことだ。ドラマと史実を混同してはならないという当然の警告が必要であって、今後何度もこの点を繰り返さねばならないことになろうかと思う。

このドラマに、桂場等一郎なる人物が出てくる。このドラマのある紹介記事では統一郎という私の同名となっており、なんとなくその人物像に親しみを感じてしまいそう。これがくせもの。くわせもの。

桂場等一郎は、このドラマの第1話から登場するのだという。戦後、新憲法制定の直後に、主人公猪爪寅子が「憲法14条に基づき、女性にも裁判官任官の道が拓けた」と考えて、当時の司法省に採用願いを提出する。その際の面談の相手となった人事課長が桂場等一郎。つまり、人事行政を行う官僚としての裁判官という立場。これが、ドラマではモノの分かった好人物に描かれている模様なのだ。

この桂場等一郎のモデルが、石田和外と聞いて驚いた。石田和外とは、本来がパージとなるべき戦前の亡霊のごとき思想判事だったが、戦後典型的な司法官僚として出世し5代目の最高裁長官となった男。疑う余地とてなき反動として知られた人物である。

任期中に名を馳せたのは、民主的な若手裁判官の自主的集団であった青年法律家協会裁判官部会を弾圧したこと。当時は、ブルーパージと呼ばれた。その高圧的な姿勢に接して、私は反権力に生きることを決めた。私にとっての、忘れることのできない憎むべき「反面教師」である。

定年退官後は「英霊にこたえる会」の初代会長となった。さらに「元号法制化実現国民会議」の議長ともなる。これが、「日本を守る国民会議」に改称し、現在の「日本会議」となっている。右翼の親玉となった元最高裁長官なのだ。

寅子のモデルである三淵嘉子(当時は和田姓)が新憲法制定後に、任官資格が「大日本帝国男子に限る」とされていた裁判官の採用願いを提出したこと、当時の司法省人事課長が石田和外だったことはおそらく史実なのだろう。しかし、石田の姿勢がどうだったかは分からない。桂場等一郎の人物像は、飽くまでドラマでの設定に過ぎない。

現在ドラマでは、寅子の父が大規模な疑獄に巻き込まれて逮捕され起訴されるという大事件に遭遇している。この疑獄のモデルが帝人(帝国人造絹絲)事件で、政争に絡んだでっち上げとして知られた事件。16名の被告人全員が一審無罪で、検事控訴なく確定している。その無罪の判決書を左陪席として起案したのが石田和外。

ハテ? 三淵嘉子の父の経歴には逮捕も起訴もないというから、ドラマはことさらに桂場等一郎の出番を作ったことになる。おそらくは、これから等一郎裁判官の善玉としての活躍を描くことになるのだろうが、この等一郎の美化には、警戒を要する。ドラマの等一郎の美化が、右翼反動の石田和外美化につながりかねないのだから。「寅に翼」全面礼賛というわけにはまいらぬ。

宮沢博行と木原誠二、この上なくみっともない相似た政治家二人はともに東大法学部卒の自民党議員。

(2024年4月26日)
 宮沢博行という衆議院議員が議員バッジを外して辞職願を申し出、昨日(4月25日)の衆議院本会議で許可となった。この辞職は、週刊文春に「妻子がありながら別の女性と金銭的援助を伴う同居をしていた」と報じられてのこと。これをメディアは、「パパ活辞任」と言っている。自民党全体が裏金まみれの疑惑を抱えているこの時期の「パパ活」スキャンダルとして目を惹かざるを得ない。

 この人、コロナ禍の緊急事態宣言下での「パパ活」同棲の事実があったことを認め、さらにコロナ禍が明けると出会い系サイトに「ひろゆき 49歳 東京都 自営業」のプロフィールで登録して露骨な書き込みで女性を物色していことも認めた。デリヘル嬢が連夜宮澤の自宅を訪ねている写真も掲載されたという。

 ハテ? 既視感のある報道ではないか。2023年8月の「週刊文春」に踊ったタイトルが「オレはエッチをガマンできない」「木原誠二官房副長官は違法風俗の常連だった!」というもの。木原は「ナカキタ」という偽名を名乗って違法デリヘル(事実上の売春)に浸っていた。文春記者が木原氏の写真を見せたところ、複数のデリヘル嬢が「接客したことがある」と認めたという。

 その一人の証言が、木原の「世の中、コロナ下なんだけど、俺はエッチを我慢できないからさぁ」(同誌2023年8月10日号)

 さすが、同窓の先輩。宮沢博行に比較して、みっともなさでは、木原誠二に一日の長がある。先輩と比較すれば、宮沢の醜行ぶりも、その規模イマイチというところ。しかも、宮沢には木原のように権力を振りかざして捜査に介入などという悪質さにも欠ける。

 にもかかわらず、宮沢は辞職を余儀なくされ、木原は議員として生き延び今なお党の要職に就いてさえいる。この差はどうしてなのだろうか。

 私が宮沢博行という政治家の存在を知ったのは、一連の裏金問題が話題となって以来のこと。2023年に防衛副大臣に就任するも、安倍派による組織的な裏金作りが発覚して副大臣を辞任。2023年12月、政治資金パーティーのキックバックに関して以下のように公然と派閥幹部を批判して注目を集めた。

 「派閥の方から、かつて収支報告書に記載しなくて良いと指示がございました。3年間で140万円(その後の党の調査で132万円と判明)です。はっきり申し上げます。しゃべるな! しゃべるな! これですよ」

 さらに、2024年1月には、「清和政策研究会(安倍派)は、解散すべきである。わたしは派閥に残り、派閥を介錯(かいしゃく)する。安倍派を介錯する」と安倍派の解散を求める声を上げていた。

 党や派閥の幹部の不興を買うことを覚悟しての発言だが、悲しいかな、彼には有力な庇護者がいなかった。確証はないが、スキャンダル報道の情報源にもその辺の事情が絡んでいて実は潰されたのかも知れない。一方、自民党の木原誠二・幹事長代理は、よろけつつも命脈を保っている岸田首相の側近として知られる。この差は大きい。

 ところで、宮沢も木原も、同じ自民党議員で東大法学部の卒業。宮沢が97年卒で、木原は4年先輩の93年だという。だから、何と言えるだろうか。

 「東大法卒の品性とは、こんなみっともないもの」「東大出ってホントにみっともないやつばかり」「政治家の一皮剥いた本性をあらわしている」「自民党議員のレベルはこの程度」「男なんてみんなこんなもの」

 少ないサンプル数で全体を決めつけることは間違いだが、このような印象は拭えない。少なくとも、「東大法卒だから品性立派とは限らない」「みっともない東大出も珍しくはない」「一皮剥いたらこんな本性の政治家もいる」「自民党にはこんな低レベルの議員も複数いる」「こんな男性も少なくない」とは言えるのだ。選挙では、人物をよく見極めよう。もうすぐ衆院議員の補選だし、都知事選も近い。

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