澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

防衛大綱「中間報告」は改憲策動の先取り

7月26日に、防衛省の「検討委員会」が「防衛力の在り方検討に関する中間報告」を発表した。6月末までに公表となるとされていたものだが、参院選が終わるまで時期をずらしたとの印象を免れない。さっそく、防衛省のホームページでプリントアウトして読んでみた。表紙を含めて12頁、さほどの分量ではない。北朝鮮と中国とが、我が国を取り巻く安全保障環境の不安定要因とされている。いつものことながら、敵の脅威が存在するから防衛力が必要なのか、防衛力がある以上は敵の脅威をあげつらわねばならないのか、奇妙な印象を払拭し得ない。

各紙が注目し問題としているのは、「専守防衛路線を踏み外し、日本の軍事政策の重大な転換となる」のではないかという重大な懸念。具体的には、「敵基地攻撃能力の保有を検討課題とする考え方を示した」「自衛隊の海兵隊的機能の整備を明記」の2点。

まずは、「敵基地攻撃能力の保有検討」の件。
中間報告の記載は、「北朝鮮による弾道ミサイルの能力向上を踏まえ、我が国の弾道ミサイル対処態勢の総合的な対応能力を充実させる必要がある」というもの。これを「北朝鮮を念頭に置いた『弾道ミサイル対処強化』の一環として『総合的な対応能力を充実させる必要がある』と明記することで、敵基地攻撃能力の保有が検討課題との考え方を示した(日経)」と読まねばならない。

赤旗は、もう少し丁寧に、「北朝鮮を念頭に『弾道ミサイル攻撃への総合的な対応能力を充実させる必要がある』と強調。この記述について同省は『打撃力も検討の対象に入っている』と説明し、戦闘機やミサイルなどで敵の発射基地をたたく『敵基地攻撃能力』の保有を検討する姿勢を示しました」と報道している。

なるほど、能力向上した弾道ミサイルへの「対処態勢の総合的な対応能力を充実」策としては、ミサイル基地の攻撃が最も手っ取り早く確実な方法に違いない。しかし、このことは、「専守防衛」という概念の成立に根本的な疑念を投げかける。「自衛」とは、相手国からの攻撃あって初めて成立する。相手国の攻撃がないうちの「自衛行為」はありえない。ところが、「相手国の攻撃能力が迅速で強大だから、攻撃を待ってからの自衛権の行使は手遅れで成立し得ない」となれば、先制的な武力攻撃が自衛の名において実行されることになる。双方が、「武力の保持は自衛のため」「先制攻撃はしない」との誓約のもと、武力対峙の中の「平和」が保たれるはずが、「自衛的先制攻撃」あるいは「先制的自衛権行使」を認めた途端に、「先にボタンを押した者が勝ち」となる。今回の中間報告は、世論の顔色を窺いながら、そのような危険水域に踏み込もうというのだ。

次いで、「自衛隊の海兵隊的機能の整備」である。こちらは、明記されている。
中国からの島嶼部への攻撃を想定して、「島嶼部への攻撃にたいして実効的に対応するためには、あらゆる局面において、航空優勢及び海上優勢を確実に維持することが不可欠である。また、事態の推移に応じ、部隊を迅速に展開するため、機動展開能力や水陸両用機能(海兵隊的機能)を確保することが重要となる」「事態の迅速な対応に資する機動展開能力や水陸両用機能(海兵隊的機能)の着実な整備のため、…水陸両用部隊の充実・強化等について検討する」という。

「水陸両用機能(海兵隊的機能)」は敵国上陸を任務とする外征専門部隊である。これまで、専守防衛に徹する自衛隊にはふさわしくないとされてきた。「島嶼防衛」を口実として、それを持とうという。「自衛」隊の性格や国際的なイメージを転換することになるだろう。

自衛隊の9条合憲性は、「自衛のための最小限の実力」であることによって、かろうじて保たれている。だからこそ、日本は弾道ミサイルも持たず、空母も、戦略爆撃機も、原子力潜水艦も持たない。当然のことながら、9条2項の存在は、外国基地攻撃能力や外征部隊の保持を許さない。憲法を改悪して、9条2項を削除し、自衛隊ではなく国防軍を持とうという安倍自民党にとっては、この「中間報告」は実質的な改憲の先取りにほかならない。

参院選が終わって、しばらくは選挙がない。傲った自民党はこれから本性を表してくる。秘密保全法案の議会提案もしかり。集団的自衛権についての解釈の変更もしかり。そして、「中間報告」で世論の動向を窺いつつ、今年暮れの「防衛大綱」の策定もしかりである。声を上げねばならない。
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  『上野動物園のイクメン・ゴリラ』
上野動物園では、パンダ舎は素通りしてゴリラ舎に直行するという熱心なファンが大勢いる。そのゴリラ舎では、母親モモコが生後三ヶ月の女の子モモカを片時も離さず、幸せそうに育児に励んでいる。ファミリーは威厳にみちみちた父親ハオコと母親のモモコ、三歳のお姉ちゃんのコモモ、赤ちゃんのモモカ、面倒みが良すぎるおばさん(といっても血は繋がっていない)のトトとナナの6人で構成されている。

動物園の動物飼育に感情移入はいけないというコンセプトもあるが、ファンが自分の人生に引きつけて物語を作るのを止めるわけにはいかない。父親のハオコがシルバーバックの大きな背中を観客に見せて、どっしりと座っているのを見れば、「うちのお父さんより、頼りになるわ」とうっとり。モモコが、いとおしそうにモモカにおっぱいをやって抱きしめているのを見れば、立派なお母さんぶりだと感心しきり。モモカがお母さんの腕の中からキラキラ輝く目つきでまわりを見回したり、生後3月なのに移動するお母さんの腕にしっかりと「だっこちゃん」のようにしがみついているのを見れば、「まあ、ずいぶん賢こそうで、すばらしい運動能力をお持ちですこと」とうらやましくもなる。

檻のこちら側ではなく、内側にはいって、あれこれ話してみたい気分。「こんな狭い檻の中に閉じ込めて申し訳ない」と謝罪したり、「お国では軍事紛争があって、生活が大変そうですよ」と世間話もしてみたい。それを実践してしまったのが「霧の中のゴリラ」(早川書房)という著書のあるダイアン・フォッシーさん。シガニー・ウィルバー主演の映画は好評だった。

今、話題の中心は、父親ハオコの「イクメン」ぶり。やんちゃ盛りの長女のコモモの育児を一手に引き受けている。1歳ぐらいまで、体のでかい、強面の父親が近づくと、怖がっていたコモモも今ではお父さんべったり。友達のいないコモモのわがままをトトとナナがあやして、ゆったりと仲良く暮らしている。ファンにとっては心が慰められる風景である。

それに引き替え、人間社会は格段に厳しさを増している。厚労省の2012年度調査によると、男性の育休取得率は1.89%、女性は83.6%となっている。お父さんの育休取得者は50人に1人、しかもほんの短期間。41.3%が5日未満だという。お母さんも12ヶ月未満が33.8%、12ヶ月?18ヶ月未満が22.4%。安倍首相がノーテンキに「赤ちゃん抱き放題3年」といったけれど、そんな幸せな母親はわずか0.7%。出産前にやむを得ず退職した人は数に入れていない。育休後退職した人も10%いる。派遣社員の取得率は71.4%と低くなっている。

なぜ育休をとる人が少ないかは、分かりきったこと。収入が少なくなるから。そのうえ、へたをすれば、職自体を失う恐れがあるからだ。子どもが1歳になるまで、「育児休業給付金」として、休業前の賃金の5割が、雇用保険から出るだけだからだ。上限は21万円。これでは母親は、ましてや父親も、おちおち休んでなどいられない。

誰だって赤ちゃんはかわいい。ゆっくりと「抱き放題」していたい。それができるのは、安倍首相とハオコ・ファミリーに代表される特権階級だけなのかもしれない。
(2013年7月28日)

コタキナバルから情報なし

1941年に太平洋戦争開戦直後に日本軍は当時英領だったボルネオ島に上陸、1942年から1645年まで北ボルネオに軍政を敷いて占領軍として現地を支配した。その中心の街が当時の名称でアピ、現在のコタキナバルである。日本軍占領の記憶の残る街がTPP交渉の開催地となり、初めて日本が参加した。

日本の参加は、23日から25日まで、わずか3日間。この間何が行われ、交渉がどう進展したか、皆目分からない。日本代表団がどう発言したかすら、秘密のベールに包まれている。確かな情報は、交渉団の情報隠しの姿勢のみ。

いつもは歯切れの良い赤旗の特派員もお手上げの体だ。
【26日付赤旗】マレーシアのコタキナバルで15日から行われていた環太平洋連携協定(TPP)第18回交渉は25日、日本向けの説明会である2日目の「日本セッション」を開いて閉幕しました。次回の第19回交渉は8月22日から30日までブルネイで開かれます。
鶴岡公二首席交渉官ら日本政府関係者は、交渉参加時に署名した「守秘契約」を理由に、日本が主張した内容をいっさい明かしませんでした。
12カ国の首席交渉官は会合終了後、共同記者会見を開きました。日本がコメなどの関税撤廃除外を主張したかについて、鶴岡氏は「何を言ったかを明らかにすることは適切ではない」と言及を回避。一方、主催国マレーシアのジャヤシリ首席交渉官は「包括的な自由化が目標だ」と言明しました。
日本政府は25日も、利害関係団体に対する説明会を開催。しかし、「日本政府が何を主張したかを明らかにすることも、交渉内容を話すことになる」の一点張り。農業団体代表は「対策の立てようがない」と途方に暮れたようすでした。

「こんなの有りかよ」というのが偽らざる感想。なにゆえ、こうまで守秘の殻にこもらねばならないのか。本来行政には透明性が確保されなければならない。よほど、都合の悪いことが進行しているのだと推察せざるを得ない。100人の交渉団の中に、一人のスノーデンもいないのか。

TPPによる「包括的な自由化」は、けっして国民全体の利益にはならない。むしろ、国際的大企業の利益のための開国となることが目に見えている。あらゆる部門で関税障壁のみならず、「非関税障壁」の撤廃が求められる。これまで労働者や消費者の利益を擁護するためとして設けられた社会的規制のすべてが、外国資本からのクレームの対象となる。農業は壊滅的打撃を受け、医療保険は崩壊し、雇用の不安はいっそう促進し、消費生活の安全も環境行政も大きな後退を余儀なくされる。それでもなお、いったいなにを求めてのTPP参加なのだろうか。まったく理解に苦しむ。

とりわけ、司法に携わるものにとっての関心事は、TPPに付随することが確実なISD条項である。日本国内に投資した外国企業の法的権利として、実体法的な権利と、国内の裁判所をスルーして国際仲裁に付する手続的権利とが保障されている。そして、この仲裁の裁定がどのような結論となるかは予想がつかない。これは大ごとだ。

仮にの話し。自民党大勝で原発再稼動有りと読んだ海外投資家が、日本国内の原発に投資したとする。しばらくは、投資が実を結んで利益を出していたが、自民党の正体ばれて政権がひっくり返り、新政府が「即時原発ゼロ政策」をとったとした場合の問題。常識的には、その海外投資家は、「投資にはリスクが付きもの」と己の不明を恥じて出資の回収を諦めることになる。ところが、ISD条項は、この海外投資家が日本国に損害賠償を請求できるとするのだ。投資資金の元本だけでなく、期待した利益の回収もあり得る。国に、政策を転換して投資家の利益ないしは期待を侵害した責任をとれというコンセプトである。ISD条項とは、「これあるから、安心して遠慮なく他国に投資をしなさい」という投資誘導策として機能する。原発政策だけではない、消費者保護も、環境保全も、実例があるから恐ろしい。

そのようなときに、「TPPに反対する全国の弁護士のネットワーク」が作られることになったという呼び掛けが回ってきた。7月29日付で、「TPP交渉参加からの撤退を求める弁護士の要望書」への署名の要請もある。

呼びかけ人の筆頭に、宇都宮健児君の名があるが、要望書の起案者は愛知の岩月浩二さんだろう。これまでのISD条項を中心とするTPP問題での岩月さんの発言には刮目してきた。岩月さんの論文で多くのことを学んだ。論文の完成度が高いと評価もしてきた。TPP参加を鋭く糾弾する岩月説には最大限の敬意を評する。その方向に賛意を惜しまない。しかし、岩月説そのままの要望書に賛同の署名を求められると躊躇せざるを得ない。

他の弁護士が起草した案文に、賛同を求められることの機会は多々ある。しかし、私は軽々には賛同署名はしない。内容に責任が持てると確信した場合にだけ、賛同し署名に応じる。その事情は、他の弁護士も同様だ。弁護士だけでなく市民運動全体の常識でもあろう。私自身が起草して、他の弁護士への賛同を求めることも少なくないが、簡単に賛同署名は得られない。

昨年暮れの都知事選では、私が起案した宇都宮君推薦を内容とする「在京弁護士共同アピール」に賛同署名を求めたが、賛同者は400人に達しなかった。まことに難しいものだ。

岩月さんなどの先進的啓蒙活動の成果として、多くの弁護士がISD条項を中心とするTPP協定を、究極の新自由主義的政策の表れと理解している。消費者問題・労働問題などに携わる弁護士として、「TPP交渉参加反対」あるいは「TPP交渉からの即時撤退」のレベルであれば、多くの賛同者を得ることができよう。しかし、呼び掛けられた要望書の内容は、ISD条項を、憲法76条1項(「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」)に違反すると断定し、憲法41条(「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」)に違反する疑いがある、ことの論証に紙幅が費やされている。そこまでの合意を求めるのは、賛同者が少なくても内容のインパクトを求めるものであろう。

TPP問題は年内勝負。弁護士の世界にもようやく巻き起こった反対運動に期待したい。呼びかけ人の皆様に、お骨折りをお願いしたい。

安倍首相の靖国神社参拝への執念

7月までのネコが、8月にはオオカミになる。選挙後の自民党の変身が心配される。まずTPP交渉であり、原発再稼動であり、そして集団的自衛権の解釈変更である。中でも焦眉の急の問題として、8月15日の靖国参拝問題が懸念される。

本日、複数のメディアが「安倍首相 終戦記念日の靖国参拝見送りへ」「中・韓に配慮」と報道している。参院選での圧勝による政権基盤強化の余裕なのかも知れないが、取りあえずは結構なこと。

たまたま本日、〔ソウルー時事〕が次の記事を配信している。
「27日の朝鮮戦争休戦60周年を前に、北朝鮮・平壌で25日、朝鮮戦争に参戦した兵士の墓地『祖国解放戦争参戦烈士墓』が完成し、竣工(しゅんこう)式が行われた。金正恩第1書記がテープカットを行い、黙とうをささげた。朝鮮中央通信など北朝鮮メディアが伝えた。」

日本の靖国神社と、北の「祖国解放戦争参戦烈士墓」。似ているようでもあり、ちがうようでもある。

安倍晋三と金正恩とは、ともに「国のために戦った方々に敬意と尊崇の念を表し、冥福を祈るのは当然だ」と考えている似たもの同士。「お国ための戦死者を国が祀らないで、誰が国に命を捧げるか」という点でも、「これから兵士には危ないことをさせるのだから、安心して死ねるよう死後の安住の設備を整えておかなくては」という思いでも、きっと意気投合の間柄。この点は瓜二つのそっくりさん。

しかし、靖国と烈士墓とは、神社と墓地という決定的な違いがある。いうまでもなく靖国神社は特定の宗教施設だが、墓地は宗教宗派を超えた存在で、必ずしも宗教と結びつかない。

我が日本国憲法の厳格な政教分離原則は、戦前の国家神道が国民の精神支配の道具となった点の反省から生まれている。とりわけ、「天皇への忠死者を神として祀る」という軍国主義的信仰を廃絶するための憲法原則である。だから、首相の靖国神社参拝は、「外交上賢明な対応として避けるべき」という筋合いのものではない。我が国の根本規範としての憲法が、「国の代表者が公的資格において靖国神社を参拝することを許さない」としているのだ。参拝の対象が、神社ではなく、一切の宗教色を排した墓地となるとずいぶん話しが違ってくる。

では、北の烈士墓には宗教性がない(あるいは希薄)から問題はないのか。報道の画像を見る限り違和感を禁じ得ない。まるで、天皇の行幸の雰囲気。墓地の竣工式は戦前の臨時大祭に相当するのだろう。墓地といえども、あれはやはり事実上の「ヤスクニ」だ。

おそらく問題の本質は、戦死という国民個人の悲劇を、個人次元のものから国家が取りあげて、国家目的遂行に適合するよう再構成してしまうところにある。「戦死者の魂の国家管理」と言ってもよい。戦死は個人的に悼むべきものではなく、お国のための名誉の戦死と意味づけられる。戦死がもたらす死者の周囲への反戦・厭戦の心理は払拭される。戦争の悲惨さ、戦争の犯罪性は捨象され、聖戦における皇軍兵士の忠死として、戦争への批判を許さない。

そのような戦死者の取扱いとしては、かつての日本では神道形式による「魂の管理」が国民心理に適合的であった。今、北では「将軍様にお参りいただける烈士墓」の形式が適合しているのだろう。いずれも、これから戦没者となりうる兵士やその家族に、死を公的なものとして覚悟させ、戦死を意義あるものとして受容させる国家的心理装置なのだ。

安倍首相の靖国神社公式参拝が実現すれば、それは過去の戦没者たる祭神に対する礼拝の要素は希薄である。むしろ、これからの戦没者を意識してのものといわねばならない。国防軍を作り集団的自衛権を認めて、専守防衛を超えた戦争をする国としようという安倍にとっては、新たな戦争による新たな戦没者を合祀する施設としての靖国が不可欠であり、その靖国への国家的な権威付けが必要なのだ。当然のことながら、天皇の利用も念頭にあるに違いない。

改憲・国防軍・戦争、その三題噺を見据えての靖国神社公式参拝への執念なのだ。
(2013年7月25日)

サンオノフレ原発廃炉と三菱重工の損害賠償責任

本年6月にサンオノフレ原発(カリフォルニア)が廃炉になった。それに伴う三菱重工の賠償責任問題に関心を持たざるを得ない。原発輸出リスク顕在化の実例としてである。

7月19日付で、三菱重工のホームページ「株主・投資家の皆様へ」欄に、「米国サザンカリフォルニアエジソン社・サンオノフレ原子力発電所廃炉について」と題する記事が掲載された。要約すると以下のとおりである。

「2013年7月18日、米国サザンカリフォルニアエジソン社(SCE)は、サンオノフレ原子力発電所(SONGS)の取替用蒸気発生器の供給契約上の責任上限を超えて多額の損害賠償を請求する意思を記載した紛争通知を、三菱重工業に送付した旨発表しました。
SONGS 2号機と3号機は、(三菱重工が納入した)蒸気発生器の冷却水が漏えいした2012年1月から運転を停止しており、2013年6月7日、SCEは2号機、3号機の廃炉を決定しました。漏えいの直接的原因となった事故は、これまで発生したことのないものです。
SCEが紛争通知の中で述べている主張および要求は、交渉の経緯、契約履行の事実を正確に反映していない不適切な内容であり、根拠のないものです。
契約上の当社の責任上限は約1億3,700万米ドルであり、間接損害は排除されています。現時点で当社業績への影響はないと考えております。」

これだけだと分かりにくいが、今朝の毎日の「米電力会社 三菱重工に全額賠償請求」という見出しの記事が要領よく事情を伝えている。
『廃炉が決まった米カリフォルニア州のサンオノフレ原発を運営する電力会社のサザン・カリフォルニア・エジソン社(SCE)が、トラブルを起こした蒸気発生器を納入した三菱重工業に対し、原発停止で生じた損害全額を賠償するよう求めている。三菱重工側は「責任上限額を超える賠償責任はない」と反論しているが、米国では「懲罰的賠償のリスク」(業界筋)もあるだけに事態の行方は予断を許さない。事故発生時に巨額賠償を迫られることになれば、原発輸出を推進する日本政府や三菱重工など大手メーカーに冷や水を浴びせそうだ。
SCEは今月18日、「蒸気発生器の欠陥は基本的かつ広範。三菱重工はSCEや顧客が被った損害全額の責任を負うべきだ」とする文書を三菱重工宛てに送付したと発表。賠償請求額は明らかにしていないが、SCEは原発停止中の代替電力確保に関わる費用の支払いなども求めている模様。現地メディアでは請求額は数十億ドル規模とも報道されている。SCEと三菱重工が機器納入時に結んだ責任上限額(約1億3700万ドル)を上回るのは確実だ。協議で90日以内に解決できなければ、SCEは裁判所に仲裁手続きを求める意向だ。
これに対し、三菱重工は19日「SCEの主張は不適切で根拠がない」とのコメントを発表。原発停止に伴う代替電源確保などの間接的な損害は請求されない契約だとして、全面的に争う構えを示す。三菱重工は責任上限額分は業績に織り込んでいるが、それを大幅に上回る賠償を迫られれば、業績への打撃は必至だからだ。
東京電力福島第1原発事故後、国内で原発新増設が困難となる中、三菱重工や東芝、日立製作所など原発メーカーは政府の後押しを受けて海外ビジネスに活路を求める。ただ、原発需要が高まるアジアでは、インドのように事故の際、メーカーが巨額の製造物責任を問われかねない国もある。今回は契約で責任が明記された米国で多額の賠償を求められかねない事態で、業界には波紋が広がる。大手メーカー幹部は「電力会社側の保守や運用にも問題があるはず。メーカーだけに事故責任を負わされてはたまらない」と話すが、原発輸出のリスクが浮き彫りになった形だ。』

またまた、原発に関して「想定外の事故」が起こって、廃炉を余儀なくされた。想定外の事故の原因となったのは、三菱重工の納入部品。想定外の事故だから、あるいは予見不可能な事故だから免責されるなどということはありえない。同社は、損害賠償の責めを負う。ここまでは当然のこと。問題は、賠償損害の範囲と金額である。

米国サザンカリフォルニアエジソン社(SCE)も三菱重工も、幾らの賠償請求をしたのか明らかにしていない。毎日の報道では、「損害全額」「現地メディアでは請求額は数十億ドル規模」という。三菱重工はこれを不当として、「契約上の当社の責任上限は約1億3,700万ドル」と主張している。

この事件はいろんなことを考えさせる。
まず、地震や津波、テロ、戦争などの「異常」に起因しない平常時にも原発事故は起こりうるということ。文字通り、「想定外の事故」とは、どんな想定をも易々と乗り越える。ネズミ一匹での大惨事も現実にあり得るのだ。

原発というシステムの脆さ危うさは、物理的なものだけでなく、社会的ないしは社会心理的な要因を考慮せざるを得ない。三菱重工は「冷却水漏れは微量」とコメントしている。もしかしたら、同社が言うように火力発電設備であれば許容範囲といえる程度のものであるのかも知れない。しかし、スリーマイル島や福島の事故を経験している社会は、「微量」を絶対に許容し得ない。

今回の事故は、現実の災害にまで至らずに済んだが、廃炉による損害賠償債務というリスクをクローズアップさせた。「契約上の賠償額の限定」の主張が認められるかは定かでない。場合によれば、とてつもない巨額の賠償義務もあり得る。

アベノミクス「3本目の毒矢」である成長戦略には「原子力規制委員会の規制基準で安全性が確認された原発の再稼働を進める」とされている。安倍首相がトップセールスで売り込んでいる先は、ベトナムだけでなく、トルコ・アラブ首長国連邦、サウジアラビア・インド・ポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリーなどに及ぶ。「日本は世界一安全な原発の技術を提供できる」というブラックジョークを武器にしてのこと。

しかし、原発輸出は、道義的にあってはならないというだけでなく、あらゆる意味でリスクが大き過ぎる。そのリスクは、サンオノフレの廃炉と、三菱重工が受けている賠償請求によって既に現実のものとなっている。国家が原発輸出セールスをするということは、国家がそのリスクを引き受けるということでもある。とんでもない。直ちにやめていただきたい。
(2013年7月24日)

参院選の開票結果から、革新都政の選挙共闘を展望する。

参院選の東京の票を出方を見ておどろいた。
各党の比例代表の獲得票は以下のとおり(万未満四捨五入)。
 1 自民党 180万
 2 共産党  77万
 3 みんな  71万
 4 公明党  69万
 5 維新    64万
 6 民主党  59万
 7 生活    12万
 8 社民党  12万

共産党が第2党の座を占めている。その得票率は13.71%。既に、政策内容だけでなく獲得票数の上でも自共対決時代の幕が開いている。これまで自民党と対抗してきた民主党は、第6党に凋落した。おそらく、回復の目はない。

回復の目があるまいという理由の一つが、民主党比例代表当選者7名のうちのたったひとり(大島九州男)を除く、下記6名の顔ぶれである(括弧内は主たる経歴)。
 磯崎哲史 (自動車総連特別中央執行委員)
 浜野喜史 (電力総連会長代理)
 相原久美子(自治労組織局次長)
 神本美恵子(日教組教育文化局長)
 吉川沙織 (NTT労組特別中央執行委員)
 石上俊雄 (東芝グループ労組連合会副会長)
この当選者たちは連合の組織内候補。要するに、自動車総連・電力総連・自治労・日教組・情報労連・電機連合等々の幹部なのだ。それぞれの業界の利益代表でもある。圧力団体としての連合や単産はあれども、民主党という政党がはたして存在していると言える状態なのだろうか。

東京選挙区から出馬して落選した鈴木寛候補も電力総連との因縁が深い。前回選挙の際に鈴木寛候補の選対本部長を務めたのは小林正夫(電力総連副委員長)だった。それあらんか、鈴木寛の4本の重要政策のうち3本は、「現実的な卒原発」「TPP賛成。超党派で経済成長」「必ず、オリンピック招致」というもの。もう1本の「自民党の戦前に戻る憲法草案を止める」が取って付けたよう。これが民主党の政策のレベルなのだ。

参院選の開票を終えたいま、改めて革新の共闘(あるいは共同行動)の成立条件を考える。
共闘は、アプリオリに重要でも必要でもない。政党や民主団体単独では力量が不足し、達成し難い課題について共闘の必要が生じる。脱原発・消費増税反対・秘密保全法成立阻止・雇傭規制緩和反対・教科書検定強化反対等々のシングルイシュー共闘と、首長選挙のごとき包括的な共闘、そして改憲阻止・安保廃棄共闘のごときその中間的なものが考えられる。シングルイシュー共闘は比較的成立が容易であるが、包括的な共闘は信頼関係の醸成なくして成立が格段に困難となる。取りあえずは、もっとも困難な首都の知事選の共闘を念頭に置くこととする。

革新共闘の主体についてはどう考えるべきだろうか。政治を動かすに足りる規模の「革新共闘」には、共産党の参加が不可欠となっている。好むと好まざるとにかかわらず、共産党を除いた革新的な共同の事業の成功はおぼつかないし、おそらくは意味がない。

改めて東京選挙区の「非保守系」候補の得票は以下のとおり。
 吉良佳子(共・当選)70万票
 山本太郎(無・当選)67万票
 鈴木 寛(民・落選) 55万票
 大河原雅子(無・落)24万票

これを見る限り、今後の革新共闘の主体は、共産党と無党派市民運動の共闘を軸にするものとなるのだろう。山本太郎の脱原発シングルイシュー票の中に、社民支持票も生活支持票も、そして緑の党も埋没した。各政党とも主体となって、総合的に選挙戦を戦うという構図を描く力量を失っていることを意味する。

これまで、共闘の成立を最優先の課題とする傾向があった。どんな形でも、だれが主導するものにせよ、「とにもかくにも共闘が成立したことそれ自体」を貴重なものとして評価するという傾向である。市民運動が先行して走り出し、各政党に共闘参加を呼び掛ける「この指とまれ」方式しか、共闘成立はないという現実も否定しえなかった。しかし、今、客観状況は変化している。

共闘の成立を真摯に望む関係当事者間において、透明性の高い協議を尽くして共闘の合意に達するという本来のあり方が可能となっている。正攻法を尽くすことなく無理な形での共闘を作りあげる必要に乏しく、成果も期待しがたい。

2016年に猪瀬知事の任期が切れ、次の都知事選を闘う時期がやって来る。12年東京都知事選のような惨敗を繰り返してはならない。泥縄選挙の無力は体験済みである。今回の吉良選挙・山本選挙を見ていると、熱気の度合いにおいて次元が異なることを痛感する。付け焼き刃ではない都政の分析と選挙政策の策定、革新の要にふさわしい候補者の選定、そして戦略や戦術を描くことのできる有能な選対スタッフを、可及的早期につくる努力に着手しなければならない。そして、革新都政実現を願う広範な人々の熱意を生かしきって、革新共闘にふさわしい相乗効果をもたらす都知事選を期待したい。
(2013年7月23日)

「自民圧勝」に危機感と決意と

昨日の投票の結果、予想がほぼそのまま現実になった。改憲(壊憲)政党・自民党の「大勝」である。改めてたいへんな事態になったと思う。まことに気が重い。

不戦兵士・市民の会の機関誌に、「オオカミが七月まではネコかぶり」(極楽とんぼ)という川柳が掲載されている。衆参のねじれが解消して、いよいよネコはオオカミの正体を現すことになろう。勝ちに傲った政権与党が、数の力で原発再稼動・TPP・辺野古移転・福祉切り下げ・消費増税・教育制度改悪、そして国家安全保障基本法・秘密保全法の制定に邁進することになるだろう。さらに、問題は改憲の発議にある。

衆議院480議席総数の3分の2は320。自・み・維改憲3党の議席合計は366で、既に3分の2ラインを上回っている。参議院242議席総数の3分の2は162であるが、新議席の配分では、自・み・維3党の議席合計は142、新党改革(非改選の荒井広幸)を加えても143で届かない。但し、「加憲」派公明の議席20を加えると163となって、かろうじて発議要件に届くことになる。

今回改選の議員総数121のうち、3分の2は81であるがそのうち自・み・維3党の議員数はちょうど81、これに公明の11を加えれば92となって、3分の2のハードルを十分に超える数になる。今後の衆参両院の憲法審査会の審議と、集団的自衛権をめぐる安保法制懇の答申から目を離せない。防衛大綱もだ。しっかりと監視し、しっかりと批判しなければならない。

それにしても、本当に自民は民意をつかんだのだろうか。自民党の最近の国政選挙における比例得票数の推移は以下のとおりである。
2100万票(衆院2005年)→1650万票(参院2007年)→1900万票(衆院2009年)→1400万票(参院2010年)→1700万票(衆院回2012年)→1800万票(参院2013年・今回)。
歴史的大敗といわれた、第一次安倍内閣時代の2007年参院選でも、自民党は1650万票を獲得していた。今回の1800万票は、それと比較して大差のある得票ではない。「大勝」の要因は、得票増によるものであるよりも、対立政党が多数分立したことによる議席増の要素が強い。

今回選挙の一服の清涼剤は、共産党の8議席獲得である。非改選と合わせての11議席は、自民暴走への強力な歯止めとして期待しうる。個人的には、弁護士出身の共産党国会議員として仁比聡平さんの当選を祝し活躍を大いに期待したい。

比例区共産党515万票は、自民党1846万票に堂々対抗しうる票数である。今後の議会内論戦において、院内外の運動において、この票数は劇的に変化しうる。自民党の構造改革政策で潤う国民は本来一握りしかないはずなのだから。自民党の数を恃んでの暴走は、たちまち民意を失うことになるだろう。そして、自民党から離れた有権者の票の受け皿が共産党となる。それが、自共対決時代の対抗関係なのだ。
(2013年7月22日)

「日の丸」この厄介なるもの

富士には月見草がよく似合う。
さて、日本には何が似合うだろうか。
富士・さくら・白砂青松・琴の音・かな文字・和歌俳句・鮮やかな四季のうつろい、そして日本国憲法…。断じて「日の丸」ではない。

「日の丸」は、かつては特攻と武運長久の願いとによく似合った。いまは、右翼街宣車と安倍自民とによく似合っている。

参院選運動期間最終日の昨夕、安倍自民の「最後の訴え」は秋葉原だった。そこに集まった群衆が日の丸を打ち振っている姿をネットの動画が映し出している。まことに異様な光景ではあるが、安倍と右翼と日の丸、実はとてもお似合いなのだ。かつての保守本流が、こうなってはならないと距離を置いていたものに、安倍自民党はどっぷりと浸かっている。なるほど、安倍が言う「取り戻したい日本」とは、群衆が日の丸を打ち振るあの時代の日本のことなのだ。

各国の国旗は、それぞれにその国家の基本理念となるメッセージを持っている。自由や平等や博愛、あるいは民族の団結や労働者の権力の正統性等々。戦前のドイツは、ナチスの党旗であったハーケンクロイツを国旗とした。この旗のデザインが、国家社会主義とアーリア人優越のメッセージを象徴するものとされた。敗戦後、国家の体制が根本から変わったときに国旗国歌の変更はごく自然な成り行きとなった。ドイツもイタリアも新国旗を採用したが、第2次大戦の敗戦国のうち、ひとり日本だけが、戦前と同じ国旗国歌を採用している。これも歴史認識を問われる大きな問題。

日の丸・君が代は大日本帝国と余りにも緊密に結びついた。天皇を神とする宗教国家の象徴でもあり、天皇主権・軍国主義・民族優越思想・排外主義、そして侵略主義・権威主義・人権軽視の象徴でもあった。敗戦と新憲法制定によって、国が真に生まれ変わったとするのであれば、国旗国歌も変更すべきが当然であった。

敗戦を挟んで、新旧二つの日本について、その連続性を重視する立ち場と、断絶性を重視する立ち場が相克している。日本国憲法は、断絶の立場をとりつつも象徴天皇という曖昧模糊なるものを制度として残した。そして、日本人自身の手による、旧体制への徹底した弾劾も、戦争責任の追求も行われなかった。その不徹底の憾みが、今日、政権与党の街頭選挙演説に「日の丸」を打ち振る愚かな群衆を生み出している。

日の丸が、全国民から等しく受容されるシンボルであれば、自民党支持者がこれを打ち振る理由はない。明らかに、他党支持者には受容しがたいシンボルだという認識があればこその「特定陣営の選挙運動の道具として有効な日の丸」なのだ。しかも、自民党支持者全体ではなく、安倍晋三に体現される排外主義・軍国主義・国体思想のシンボルとして意識されている。

つまり、日の丸はタテマエとしては、国民全体のシンボルなのだが、その現実において右翼勢力のシンボルとなっている。この二重性が、「安倍自民に限って支持者が日の丸を打ち振る」理由となっている。日の丸の現実は、国民全体を統合する役割ではなく、分裂を演出しているのだ。右翼が安倍を支え、安倍が右翼を鼓舞している。ヘイトスピーチの横行は紛れもなく、安倍政権が生み出したもの。

本日の選挙結果の如何にかかわらず、既に状況は深刻である。長期保守政権がつくりだした格差と貧困そして社会不安が、鬱屈した民衆を育てている。民衆の鬱屈が政権批判に向かわず、まだ一部ではあるが日の丸を打ち振る排外主義的な心理を醸成している。

日の丸・君が代強制を許さない運動と訴訟とは、益々その意義を大きくしている。
(2013年7月21日)

明日は参院選の投票日ー大切な「国の基本設計」の擁護を訴える

いよいよ明日が、第23回参議院通常選挙の投票日。国の進路を決める意味において重要でない国政選挙はあり得ないが、今回選挙は格別の重要性を持っている。昨年総選挙の結果、衆院においては改憲勢力が3分の2を超える議席を有しているからだ。今回参院選での「ねじれの解消」とは、両院における改憲発議可能な状態をつくりうることを意味する。日本国憲法を価値あるものと考える立ち場からは、今回選挙のもつ意味は重い。

憲法は、日本という国の基本設計図である。設計図を書いた施主は主権者としての国民、その指図で設計図どおりの建築をする立ち場にある大工が政権である。首相が棟梁にあたると言えよう。施主の指示のとおりに設計図どおりの建築を完成することがその任務で、設計図を無視した勝手は許されない。

設計図の変更は通常想定されていない。設計図はそのままに、棟梁を変え、棟梁の技量の信任を問うことが国政選挙なのだが、今、棟梁が暴走して「俺は設計図を書き変える」と広言しているのだ。「自民党・日本国憲法改正草案」という無茶苦茶な新しい設計図に。それでも、この棟梁を信任するのかどうか、それが今回の参院選を重要なものにしている。

憲法は設計図だから、既に建物が完成しているわけではない。平和も、人権保障も、民主々義も、あくまで設計図に書かれたものとしての理念であって、社会の現実となっているわけではない。男女の平等が、設計図としての憲法に書かれているが、社会の現実となっているわけではない、という比喩が分かりやすい。設計図に合わせて、理想の建築を進めなければならないのだ。司法の独立も、地方自治の本旨も、労働基本権の尊重も、生存権の保障も、教育を受ける権利も、デュープロセスの保障もすべてが同じこと。

我が国の基本設計図である「日本国憲法」は、世界の最高水準にあるよくできたものである。主権者国民が国家権力を掣肘するという立憲主義の土台の上に、3本の太い柱を建てる。その中心の芯柱として国民の人権尊重を据えられ、他の2本が国民主権と恒久平和主義である。この柱が、国民の福利の増進を支える。

ところが、今、自民党はまことに乱暴に、国の基本設計を書き換えてしまおうとしている。立憲主義の土台を崩し、3本の柱とも細く削り曲げてしまう。施主を無視した棟梁の暴走である。今なら、国民としては施主の立ち場として、棟梁に「設計図とおりにきちんと家を建てろ」と要求ができる。しかし、設計図そのものが変えられてしまえば話は別。結局は国民の人権も福利も失われる。隣近所との友好な関係も壊される。できあがった建築物は、要塞となりかねない。

明日の投票は、政権選択にとどまらず、国の基本構造、国の進むべき理念・理想の選択を迫る意味をもっている。人類の叡智の結晶としての日本国憲法の擁護のために、憲法が理想としている、人権・民主々義・平和のために、賢明な選択をお願いしたい。「新たな戦前が投票所から始まった」と、あとで臍を噛むようなことにはなりたくない。

自・み・維の積極改憲3派には投票をすべきではない。それは、多くの国民にとっては自らの首を絞めることなのだから。公明という自民の同盟者への投票も同様だ。

大切な一票を最有効に活用して、憲法の理念が生きる国民すべてにとって生きやすい社会をつくるために、今、憲法を擁護し憲法を暮らしに活かすという視点において最も信頼にたりる日本共産党へのご支援を訴える。
(2013年7月20日)

参院選・投票日は明後日ー平和を願う有権者の皆様に

戦争こそ最大の悲劇、戦争こそ最大の犯罪、戦争こそ最大の人権侵害。そして、戦争こそ、人類の生存の基盤を根こそぎ奪う最悪の環境破壊。とりわけ、核兵器とハイテクノジーのこの時代において、戦争は人類の生存そのものを脅かす。

我が日本国憲法9条は、人類の非戦思想を徹底して、戦争放棄を宣言しただけでなく、その保障として「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と明記した。人類の悲願が一国の実定憲法に結実した、歴史的な偉業と言ってよい。紛れもなく、「日本国憲法9条は世界文化遺産」に相当する。

当然に、反対の意見がある。9条改憲派の中心には好戦派が位置している。まずは、「戦争こそ、この上ないビジネスチャンス」ととらえる勢力。その周囲に「戦争こそ国威発揚のチャンス」「戦争こそ不況脱出の切り札」「戦争こそ、閉塞状況の中でのうっぷん晴らし」という積極支持派があり、これと距離を置いて「戦争はしたくないが丸腰は不安」「武器を持たなくては外交交渉もうまく行かないのではないか」という消極支持派までバラエティはさまざま。

1950年、日本はアメリカから命じられて急遽「警察予備隊」を作った。「押し付け憲法」ではなく、「押し付けられた軍備」である。9条支持派と9条改憲派との対峙の歴史の中で、警察予備隊は保安隊となり、さらに自衛隊となって今日に至っている。自衛隊という武力組織が存在することで9条は死文化したのか、実はそうではない。戦後長く続いた保守政治と言えども、さすがに憲法無視の態度はとれない。自衛隊を合憲と解する理論として、国家の自衛権を持ち出した。

「もとより、わが国が独立国である以上、この規定(憲法9条)は主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えの下に、わが国は、日本国憲法の下、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として、実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。」と言わざるを得ない。したがって、「自衛のための必要最小限度の実力」を超えれば、9条違反となる。「専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針」とせざるを得ないのだ。

いま、安倍自民党は、この政府解釈を桎梏として、「自衛のための必要最小限度を超える実力」を備え、「専守防衛のくびきから解き放された」軍事力を持つことを広言している。その軍事力こそが、もはや「自衛隊」ではない、「国防軍」なのだ。そうでなくては9条改憲の必要はない。また、自民党改憲草案は、開けっぴろげにそのような意図を隠そうともしていない。

今、9条をめぐる問題の焦点は、憲法の文言を厳密に実行して自衛隊を解散するか否かにあるわけではない。安倍自民党の改憲案は、「自衛のための必要最小限度を超える実力」を蓄え、「専守防衛などと縮こまっていないで」日本の領土外での戦闘行為を可能とする軍隊を持つという方針を明示している。

まやかしのアベノミクスに幻惑された国民の自民党への一票は、海外で戦争のできる軍隊を持つことへの賛同票と数えられる危険性を孕んでいる。平和を愛する有権者よ、自民党に投票してはならない。

自民党の改憲草案は、「自衛隊」を「国防軍」と名称を変えるだけのものではない。日本が本気で戦争をするために、戦争をする国家機構に作りかえるものとなっている。憲法に、国家への忠誠(国民の領土保全義務、日の丸・君が代尊重義務)、軍事機密保護、軍法会議(国防軍の審判所)設置までを書き込んでいる。

本日の赤旗にも掲載されているとおり、自民党の石破茂幹事長は、「国防軍」命令に従わなければ軍法会議で「死刑」と発言している。この石破発言は4月21日放映の「週刊BS―TBS報道部」でのもの。

「自衛隊が軍でない何よりの証拠は軍法裁判所が無いことである」という説があって、それは今の自衛隊員の方々が「私はそんな命令は聞きたくないのであります」「私は今日かぎりで自衛隊をやめるのであります」と言われたら、「ああそうですか」という話になるわけです。「私はそのような命令にはとてもではないが従えないのであります」といったら、(今の法律では)目いっぱいいって懲役7年です。
これは気をつけてモノを言わなければいけないけれど、人間ってやっぱり死にたくないし、けがもしたくない。「これは国家の独立を守るためだ」「出動せよ」って言われた時、「死ぬかもしれないし、行きたくないな」と思う人がいないという保証はどこにもない。
だからその時に、それに従え、それに従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国なら死刑、無期懲役なら無期懲役、懲役300年なら300年(を科す)。「そんな目にあうぐらいだったら出動命令に従おう」っていうことになる。
「お前は人を信じないのか」って言われるけど、やっぱり人間性の本質から目をそむけちゃいけないと思う。今の自衛官たちは服務の宣誓というのをして、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえる」っていう誓いをして、自衛官になっているんです。でも、彼らのその誓いだけがよすがなんです。本当にそれでいいですかっていうのは問わねばならない。軍事法廷っていうのは何なのかっていうと、すべては軍の規律を維持するためのものです。(赤旗から引用)

今の国家機構は戦争をしない原則でつくられている。ところが、これを戦争のできる国家機構に変えるためには、最低限軍事機密法制を整備し、軍法会議を整備しなければならない。石破発言は、ここまでを露骨に口にしている。それだけではない。教育の統制も、マスコミの統制も、スポーツ行政も、文化政策も、そして経済政策も、外交も、地方自治も…。戦争のできる国家作りのためには、あらゆる部門で基本政策が転換が必要である。一言で言えば、全面的な軍国主義国家の創造である。

「戦争は教場から始まった」という戦前教育への反省の名言がある。しかし、学校教育だけが、戦争の始まりではなかった。「戦争は新聞社と放送局から始まった」とも言えようし、「戦争は神社参拝から始まった」「戦争は不況脱出を願う民衆の声から始まった」「戦争は近隣諸国民への差別意識と行動から始まった」「戦争は民主々義政党への弾圧から始まった」「戦争は天皇への非合理な崇敬から始まった」などとも言えよう。

戦前と現在と、似ているところもあり、明らかに相違するところもある。今ならまだ、主権者の意思で「9条改憲から戦争のできる国家へ」の道を投票で確実に阻止できる。「自民党圧勝」「改憲勢力3分の2超」などという危険な事態を回避しなければならない。

平和を愛する有権者に心から訴えたい。
自民党への投票は、戦争に通じる危険な一票となりかねない。
ぜひとも、その対極に位置する政党、日本共産党への支援をお願いしたい。
まだ、今なら間に合うのだから。

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   『若者よ、軍法会議まで考えている自民党に投票してはいけない』
さすがの軍事オタクの石破さんでも、「国家の独立を守るため」に、戦場へ死にに行く若者がいるとは、とうてい思えないらしい。その認識は、なかなかに正確だ。体を傾けて、三白眼でねめつけながら、いまいましそうにネチネチ語る石破さんの姿が目に浮かぶ。「だから軍法会議が必要だ」という石破さんも、すぐにはそんな法律を作ることができない。まずは憲法を改正してからの話しとなる。

若者よ、騙されるな。愛や恋や美や生命を生き生きと語って、軍事オタクのオッサンの世迷い言など、鼻の先で笑ってやれ。母さんはお前を、恋愛したり、唄を歌ったり、おいしいものを腹一杯食べたり、美しいものをみて感動し、珍しいものを見てびっくりするように、心から願って育てたんだ。「国家」や「国益」や「天皇」のためになんぞ、その命を捧げてはいけない。絶対に、そんなもののために死んではいけない。

お前は、「ことに臨んでは、危険を顧みず・・国民の負託にこたえる」誓いをたてた自衛隊員だろうといわれたら、「そんな給料もらっていません。そこまでの義理はありません。」と堂々と言ってやれ。「戦場へ行ってけがしてこい。死んでこい。」と言われたら、「冗談も休み休み言ってください。マジッスか。」と丁寧に言ってやろう。

憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される」とし、「生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利」が保障されている。憲法は自衛隊法より上位にあるのだ。

だから、若者よ、自民党に投票するな。
憲法を変えたい自民党に。若者を軍法会議にかけたい自民党に。
若者よ、自分で自分の首を絞めてはいけない。
(2013年7月19日)

参院選・投票日まであと3日ー脱原発を願う有権者の皆様に

3・11の福島第1原発事故以来、脱原発・原発廃棄・廃炉は日本社会に突きつけられた大きな課題となった。人類史的な課題と言って過言でない。実はもっと以前から問題は存在していたのだが、長く顕在化しなかっただけなのだ。人それぞれに、脱原発問題の捉え方があろうが、私は、人類と核兵器の共存の可否が問われた時代から、人類が原発を含む核と共存可能かを問われる時代となったと考える。

私は、経済問題として原発を論じることに違和感を禁じ得ない。エネルギーコスト問題としてではなく、多種のエネルギー選択の問題としてでもなく、人類と共存できない危険物として、あるいは人類が管理不可能なものとして原発をとらえるべきだと思う。どんなに小さな確率でも、長い年月にはリスクは確実に顕在化する。顕在化したその災禍が、修復不可能で人類に耐えがたいものである場合には、敢えてリスクを抱える選択をすべきではない。10万年もの長期間にわたる核廃棄物管理が不可能であることだけでも、到るべき結論は自ずから明らかである。我が国特有の地震・津波・噴火・台風の頻度を考慮すればなおさらのことではないか。

そのような観点から、「原発即時ゼロ」という標語で、脱原発に徹底した政策を掲げているのは日本共産党である。少なくとも、3・11以後この姿勢に揺るぎがない。「何年かの期間をおいて」「老朽化施設から順次廃炉にして」「経済的にペイしないようにして」ではなく、即時・全面のゼロ化。そして、破廉恥な原発の輸出セールスも止めさせる。これは経済合理性の問題ではない。人類の生存のための選択なのだ。

首都圏反原発連合が作成した、脱原発候補への投票を呼び掛けるポスターやフライヤーの類でも、日本共産党の徹底した姿勢が評価されている。そのような運動の先頭に、かつては吉井英勝さんがおり、今は笠井亮さん、小池晃さん、そして吉良よし子さんがいる。

その吉良よし子さん(東京選挙区の共産党公認候補)について、本日の赤旗社会面に、宇都宮健児君が推薦の弁を述べている。おざなりの内容ではなく、きちんとした推薦の理由が具体的に述べられており、「一貫して、脱原発、脱貧困、憲法擁護を貫いている吉良さんを私は応援します」と結んでいる。宇都宮君が吉良候補事務所開きで挨拶したことも赤旗には報じられていた。革新の共闘で知事選候補となった人の言動として、当然のことながら結構なこと。この姿勢を貫いて欲しい。

宇都宮君は、上原公子さんと並んで「緑茶会」という脱原発市民運動団体の結成呼びかけ人となっている。この「和製ティーパーティー」は、参院選で脱原発の候補者を選別し調整して、当選可能性の高い候補者を支援することが目的だという。

この会のホームページで、上原さんは、設立呼びかけのメッセージとして、「国民の不幸は2つある。国民を守るべき政府が、国民を置き去りにしていること。選ぶべき信頼(に)堪えうる政党がないことである」と言い放っている。この人、社民党から参院選に立候補して落選した経験があるはずだが、社民だけでなく、共産・みどり・生活・緑の党まで含めて、すべての政党を「信頼に堪えうる」ものでないというのだ。この人の頭の中では、「政党」と「市民」とは水と油のごとく親和せざるものとなっているのだろう。

もちろん、政治信条は人それぞれに自由、表現も自由だ。上原さんの言動を怪しからんというつもりはない。しかし、言論には責任が伴う。この人は革新陣営の共同行動を呼び掛けるにふさわしい人ではなく、この人の呼びかけによる運動に信を措くことはできない。「信頼に堪えうる」政党がないという人の呼び掛けに、のこのこ応じる政党人の見識も問われることになるだろう。

緑茶会は「脱原発候補が複数立候補する選挙区においては、当選確率がより高いと客観的に判断できる候補を推薦する」として、東京選挙区では、大河原まさこ候補(無所属)だけを推薦している。吉良よし子候補はもちろん、その他の「脱原発・原発ゼロ」を掲げる候補の推薦はない。端的に言えば、有権者の脱原発票を大河原候補に集中しようとしているのだから、排他性の高い運動となっている。大河原候補を推薦したければ、その実績や政策を訴えればよいこと。同候補を「当選確率がより高いと客観的に判断できる」などとまで根拠のないことを言って、脱原発志向の有権者を惑わせるのは罪が深い。

宇都宮健児君も緑茶会設立呼びかけ人の一人である。東京選挙区では、「当選確率がより高いと客観的に判断できる」大河原候補に脱原発票を集中するように呼び掛けている立ち場にある。この排他性の高い運動の呼びかけは、吉良候補への応援とは両立しない。敢えて吉良候補への支援の弁を赤旗に掲載したことを評価するとして、緑茶会呼びかけ人としての立ち場は放棄したのか、そうでないのか気にかかるところ。革新共闘の要に位置した人として、排他性の高い運動に加担してはならない。その辺のケジメを大切にしていただきたい。

脱原発志向の有権者には、宇都宮君の推薦の弁のとおり、是非とも、吉良よし子さんと日本共産党へのご支援をお願いしたい。

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  『ヤマユリ』
切ったヤマユリを飾ったら、部屋が急に狭くなった。この大きさ、この形、この色、この香り、なんという存在感。一つ一つの花が、大人の掌にあまるほどの大きさがある。白い花びらに散らばる薄赤色の斑点と、六枚の花びらの花芯から外に流れる六筋のレモン色が、宇宙に拡がる光と星のようだ。そのうえ、むせかえるような香りがする。空気が重くなって、息苦しいほど。

  百合の香に全身投げて眠りけり(北島俊明)
これは健康にあふれた若者ならではのことで、羨ましいかぎりである。病人や老人は香りに負けて、眠るどころではない。

日本は百合の宝庫で、シーボルトがスカシユリやカノコユリをオランダに持ち帰って大いに注目を集めた。1862年ジョン・ベイナがヤマユリをロンドンに紹介し、熱狂的に迎えられた。それから明治・大正時代を通じて、球根の流出が始まった。大正元年には、2000万球も輸出されたという。日本の山里を華麗に飾っていたヤマユリは掘り尽くされてしまった。咲けば遠くからも目立つ大きさと白さ、そしてあたりにただよう香りが災いして、我が身を滅ぼしたようだ。種はたくさんできるけれど、芽生える数は百に一つ、球根が大きくなって花を持つまでは4、5年はかかる。現在、球根の生産が始まっているが、園芸店で、一球1000円以上する。まさに高嶺の花である。

  山百合を捧げて泳ぎ来る子あり(富安風生)
山里の渓谷に、こんな風景は遠い昔話になってしまった。
ヤマユリは神奈川県の県花となっている。横横道路(横浜と横須賀を結ぶ高速道路)から鎌倉へはいる途中の朝比奈峠の道路脇の崖に、以前はブランブランとヤマユリが揺れていた。残念ながら、この頃はとんと見えなくなってしまった。春先に崖の草刈りをするときに、みさかいなく刈り倒されてしまうようだ。ヤマユリ姫はその場所が御意に召せば、種ではなく、球根の子玉ができて殖える。半日陰で、根元に草などが生えて、適度な湿り気が保たれ、木陰からチラチラと朝日がさすような場所であれば、けっこうらしい(ずいぶんな我が儘)。

今回の参議院選挙で神奈川選挙区の畑野君枝さんが当落線上にあると報道されている。ヤマユリ姫には是非とも当選してもらって、横須賀から原子力空母を追い出してもらいたいと思う。美しく華麗なヤマユリの里に米軍基地はまつたくふさわしくない。
(2013年7月18日)

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