澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

参院選・投票日まであと4日ー「民主党」この曖昧にして不明確なるもの

民主党を、自民や維新・みんなと同類というつもりはない。そのような悪罵は、不正確でもあり、失礼なことでもある。2009年夏の選挙で、民主党が劇的な勝利をおさめたあのとき、鮮やかでさわやかな一陣の風が確かに吹きぬけた。「政治は、民意によって変わりうるのだ」という感慨を抱いたことが、印象に深い。

あのとき、民意は紛れもなく「格差・貧困をつくりだした自民党の政治」にノーを突きつけ、そのアンチテーゼを提示したものとして民主党を政権に押し上げた。自民党による格差・貧困作出の政治を抜本的に解決するという民主党のマニフェストは、戦後長く続いた保守政治への根源的な批判を含むものであった。「コンクリートから人へ」というスローガンは、生活重視の基本政策としても、自民党の利益誘導型政治批判としても、民意をつかんだ。

しかし、それから3年。民意は、完全に民主党を離れた。マニフェストが間違っていたのではない。民主党はその実行をできなかったのだ。沖縄問題、消費増税、雇用政策、福祉政策等々で後退を重ねた。「税と社会保障の一体改革」という3党合意がその象徴。結局は自民回帰に等しくなってしまったからだ。2009年総選挙で民主党(比例区)に期待を込めて投票した3000万人のうち、1000万人は2012年暮れの総選挙では棄権した。そして、1000万人が維新・みんななどの「第3極」にまわった。歴史的惨敗である。

敗北には厳しい総括が必要だ。民主党にそれができているとは思えない。今回参院選での重要争点である、雇傭・福祉・憲法・原発・沖縄・TPPなどに歯切れの良い政策提言ができていない。自民や維新・みんなと同類ではないが、積極改憲派3党との対決姿勢が曖昧で、対案が不明確なのだ。

同党のホームページで、「参議院選挙重点政策」(マニフェスト完全版)をみる限り、明確な「原発ゼロ」は政策に盛り込まれていない。原発輸出反対もない。「2030年代に原発稼働ゼロを可能にするよう、あらゆる政策資源を投入します」というのみである。改憲阻止もない。96条先行改憲反対だけは明確だが、その余のことは政策化されていない。むしろ、「民主党は日本国憲法の基本精神を守ります」「未来志向の憲法を構想する」に伴って、「国民とともに憲法対話を進め、補うべき点、改めるべき点への議論を深め…」と改憲志向とも読める。TPP参加の事前交渉も、もとはといえば民主党政権時代に始まったこと。TPP参加反対の政策はない。「国益を確保するために脱退も辞さない厳しい姿勢で臨みます」というだけ。普天間基地の辺野古移設問題についても、オスプレイ配備についても、まったく言及がない。

自民に愛想をつかして、民主に期待した民意は急速にしぼんだ。とはいえ、けっして自民に回帰したわけではない。民主に不満を持ちながらも、自民や「第3極」よりは、ずいぶんマシだろうとの意見も多かろうと思われる。しかし、民主党のこの曖昧さ、自民への対決姿勢の甘さは、覆うべくもない。

せっかくの大切な一票。もっとスッキリ、もっとハッキリ、明確でブレない政党への投票で活かすことが賢い選択ではないか。
(2013年7月17日)

参院選・投票日まであと5日       ー「みんな」は脱原発政党ではない

「みんなの党」では、公約なんて古くさい用語は使わない。「アジェンダ」っていうんだ。おどろかない? カタカナにしたら、新鮮な響きと、何とはないありがたさがあるだろう。えっ? 問題は中身だろうって? そりゃまあ、そうだがね。

1990年代以降、自民党は確実にジリ貧状態に陥った。対抗勢力として民主党が勢いを増しつつあるとき、沈みそうな舟にいつまでもしがみついてはいられない。自民党には飽き飽きしたという保守層の受け皿たらんとして、2009年に飛び出して新党結成となったのが「みんなの党」。

だから、基本は骨の髄まで保守。もちろん、憲法改正大賛成。労働者や消費者の利益ではなく、企業の立場にしっかりと立っている。ただ、これまでの自民とちがって、徹底した新自由主義を信奉する保守の立場。この点、維新の会と同じ。独自性を出さなきゃならないから、極端なことを言う点でも同じ。内部で内紛を抱えている点でもよく似ている。

「自民には愛想が尽きたでしょう。さりとて、民主のふがいなさもよくお分りのとおり。だから「第3極」の我が党に」というわけだが、おっと待った。自民が国民から見放されてジリ貧となったのは、新自由主義がもたらした、雇用不安、格差・貧困の蔓延が目にあまるものとなったからではないか。それを、弱肉強食の市場原理主義徹底の立ち場では、保守の受け皿としては失格ではないか。さらには、民主党が信頼を失ったのも、雇用不安、格差・貧困解消の政策を実行できずに、自民政策へ回帰してしまったからではないか。いまさら、徹底した新自由主義の旗では、自民・民主の二大政党に愛想をつかした国民の受け皿とはなり得ない。

しかし、「みんな」の政策の柱は「経済成長」にある。経済成長こそ価値の根源、成長こそ達成目標。賃金も福祉も生活の質も福祉の財源も、すべては成長なくしてあり得ない。成長さえ達成できればすべてはあとからついてくる。この徹底した「経済成長」至上主義は、ここまで来ると信仰の域に近い。薬害反対運動で生命の価値を訴えていたはずの河田龍平が、何を考えて「みんな」に参加したか。不可解というほかはない。

アジェンダ8項目のトップが、「成長戦略は徹底した規制改革で!」というもの。成長を達成するためにはなによりも規制をなくすることだという。その勇ましい既得権益の打破が、みんなの党の真骨頂だ。「そのために必要なのが、2年で2%以上の物価安定目標に加え、既得権益に切り込んだ大胆な規制改革。みんなの党は、電力・医療・農業の3分野で闘う改革を進めます。電事連・医師会・農協の既得権3兄弟は「岩盤規制」を下支えしています。これらの団体とのしがらみのないみんなの党だからこそできる改革です。」とされている。

成長至上主義の立場だから、この党はTPP参加にはことのほか熱心だ。財界本体の既得権益に切り込むことはせずに、医療や農業など、国民の命にかかわる分野まで、国内外の資本に売り渡そうという魂胆は、維新と異心同体というところ。

これ以上、みんなの党について多くを語る必要はないが、原発問題についてだけは一言しておきたい。
「みんなの党は、原発ゼロと経済成長を両立させる確かな答えを持っています。2020年代には原発による発電はゼロにいたします。」と大見得を切っている。ところが、「2030年までの原発ゼロ」を実現する具体的方策については、「社会的コストを精査すれば、原発は市場原理よって淘汰されます。」と、いかにも新自由主義者らしい発想が語られるのみ。電力自由化を徹底すれば、市場原理によって原発はなくなるという楽観。政策を論じていると言うよりは、感想を述べているという印象でしかない。

根源的な問題は、経済活動の自由がすべてを解決するという迷妄にある。資本主義の矛盾に目をつぶって、すべてを見えざる神の手に委ねるべきとする思想は、現実としての労働者の困窮と、その事態を不正義とする運動によって歴史的に克服された。ところがいま、克服されたはずの思想が、再び新しい形で復活しようとしている。万能の市場原理に任せるべきだというのだ。そうすれば、原発問題も解決できるという。

健全な社会を形成するためには、公正な競争を確保することが必要だが、すべてを経済原則だけに任せてよかろうはずはない。政治的民主々義とは、経済的な現実に対しても強制力を行使しなければならない。「次元の異なる危険な存在」である原発への対応を、経済合理性や市場原理で済まそうというのは、政治の無力を宣言することに等しい。

原発は、その存在そのものの危険性と、核兵器転換への潜在能力の2点において、即時廃炉の決断をしなければならない。コスト如何にかかわらず、経済合理性がどうであろうと、経済市場がどう判断しようとも、である。

また、原発稼働を市場原理に任せたままでのTPP参加は、外国資本の国内原発新設や再稼動の経済活動参加に道を開く。しかも、その後に政策の転換はできない。ISD条項によって我が国が莫大な金額の訴訟リスクを負わねばならなくなる。

「みんなの党」を脱原発政党のうちに数える向きがあるが、とんでもない。原発再稼動認可反対も廃炉も明確にしていない市場原理任せのこの党に、しかも、TPP参加執心のこの党に、脱原発派有権者からの一票も投じさせてはならない。この党の推薦するすべての候補者にも、である。
(2013年7月16日)

参院選・投票日まであと6日       ーこれが維新の「公約」だ

ねえ、維新の「参院選公約」って読んでくれた?
よくできているって思わない?

ボクたち、寄り合い所帯だし、主義主張なんて持ち合わせていない。だから、格好だけでもつくるのたいへんだったんだ。結局できあがったのが、ホンネとウソのベストミックス。そんな人の苦労も知らないで、「底が浅い」「整合性に欠ける」「財界べったり」「労働者・農民切り捨て」なんて批判するのはやめてほしい。いちいちもっともで、的を射ているから腹が立つ。また、「誤解だ」「誤報だ」って騒いじゃうよ。

総論が、「維新の挑戦。逃げずに真正面から」というタイトル。わざわざ、「逃げずに」って書いたのは、ほんとはもう逃げ出したいからなんだよ。でも、いま逃げちゃうと、次の顧問先もままならないから、選挙が終わるまでは「挑戦」するつもり。

えっ? 何から逃げずに、何に挑戦するのかって? あんまり考えていない。問題はイメージなんだよ。なんだか、調子よくって勇ましいフレーズだからタイトルに使ってみただけ。「維新」とか、「挑戦」とか、「逃げない」とか、みんな格好だけ、中身なんてないの。中身なんてどうでもよいの。しょせん、選挙って、大衆の感性に訴えるイベントだろう。視聴率獲得とおんなじさ。

「日本維新の会は、選挙目当てでものを言う政党ではありません。」
これは半分本当で半分はウソ。選挙って、本筋では多くの国民の利益になる政策を出し合って、国民からの支持の獲得を競うことでしょう。ボクたちは、本当のところ国民の利益なんか考えていない。だから、選挙目当てでものを言うことはない。その意味では本当。
だけど、ボクたち、結局は「ふわっとした風みたいなもの」に頼って、政界進出を試みている。何てったって、ポピュリズムなんだもん。だから、選挙の票は喉から手が出るほど欲しい。去年の衆院選の公約問題、まだ覚えている? 「最低賃金制を廃止して市場原理の貫徹」と打ち出したんだけど、すっごく評判が悪かったからすぐに変えちゃった。「市場メカニズムを重視した最低賃金制度への改革」ってね。だって、票が大事だもんね。だから、いまさら、「選挙目当てでものを言うことはない」って言っても、記憶力のよい人には信用されるのは無理なことはよく分かっている。でも、すぐ忘れちゃう人って少なくないじゃない。そういう人が頼りなの。
だから、選挙目当てではないというのは、その意味ではウソ。
だけど、選挙民に利益を与えるって絶対言わないし言えない。労働・福祉・税・医療・農業‥‥。国民に不利益な辛口なことを意識的に言うんだ。そうすると、かえって、魅力に感じる人たちがいるんだ。きっといじめられるのが好きな人たち。この人たちの票を当てにしている。

「日本の未来にとって、いま必要な改革に真正面から取組みます。」
これも本当。ボクたちの関心は、「日本の未来」だけなんだ。国民の今の生活なんかどうでもよい。日本の未来に必要な改革って、簡単なこと。結局、自由競争の徹底による経済成長の促進のことなんだよ。それ以外に何もないし、考えたこともない。
弱肉強食の市場原理って、とてもわかりやすい。「競争を徹底することによって、成長を達成する」って、こんな単純なことをくり返し言ってりゃ良いのだから楽な話し。経済の停滞の原因を、抵抗勢力と規制のせいにして、抵抗勢力っていうものをつくりだして、徹底していじめる。これ、ボクの得意の手法。

「批判や反対論から逃げずに必要な改革を断行します。」
主張は極端に、徹底した姿勢を見せること。批判も反対論も、まともなことが多いから、きちんと受けとめようとするとたいへんなんだ。だから、批判には耳を貸さない。逃げ腰にならずに「批判も反対論も断固拒否する」ことにする。そして、勇ましく、「改革断行」と言い続ける。これしかないんだよ。

「この改革は、既得権益に支持された政党には絶対できません。抵抗勢力と闘い、日本の未来を切り拓くことができるのは、しがらみのない日本維新の会だけです。」
ここが、維新の会の真骨頂。よく理解して欲しい。
ボクたち、市場原理万能・競争至上主義って考え方しかできないから、結局、安倍さんの自民党と大して変わりはないんだ。だから、「企業べったり・弱者切り捨て」って言われるんだけど、それじゃ今の自民党と変わりがない。どこかで、独自色を出さなくては、選挙にならない。どうすりゃいいんだ。考えた挙げ句が、結局極端なことを勇ましく言うしか、方法がなくなっちゃったんだ。
自民党と共産党を両端とする対抗軸のうえに、公明・民主・社民・みどりなどの各政党が並ぶだろう。それぞれ、ある程度の政策の独自性を持っている。僕たちには、自民党とちがうところが、なんにもない。それで、独自性を出すために、自民党より右に出て、もっと極端なことを言うことにした。そうしないことには、存在価値がなくなる。
だから、結局は財界の意を受けた主張とならざるを得ない。道州制も、社会保障の切り下げも、地方の自立も、法人税の引き下げも、財界様のご負担軽減のためなんだ。

「既得権益」攻撃と言っても、大企業や日米の権力などエスタブリッシュメントを擁護する制度には最初から触るつもりがない。結局、攻撃するのは弱者を保護するための制度のことなんだ。社会的規制と言われる消費者や生活者、弱者保護のための規制を「既得権益」として徹底的につぶそうというのが、ボクたちのウリ。農民の自助組織である農協をぶっ潰して農業を資本に明け渡せ。医療を利潤追求の道具として資本に明け渡せ。こういう荒っぽい極端なことは、自民党じゃ言えない。みんなの党と張り合って、財界支援の尻尾を振っているんだ。

憲法改正には熱心なんだよ。競争至上主義を実現しようとするとき、人権とか福祉とか邪魔だものね。ボクたち、ひやひやしながら、「解雇規制の緩和」「TPP参加」「カジノ開放」「社会保険は保険料アップ給付減」なんて公約を出しているんだけど、財界のお歴々ではない、生活に苦しそうな一般庶民が結構僕たちを支持してくれているのが、楽しい。やはり、ボクたちには、存在価値があるんだ。

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  「ハスの話」つづき
ハスの花の美しさと荘厳さをたたえたのは、古代インド神話。紀元前1500年ごろにつくられたヴェーダ神話、ウパニシャット神話などに、大地創造と神々の誕生に欠かせぬ存在としてハスが語られている。「原初に存在したのはただ水だけであった。そしてその水の中から蓮の葉が浮かび上がってきた。神の、生命のもとがまさに世界を生み出そうとしたとき、その宇宙の水は、太陽のように金色に光り輝く千の花弁をもつハスの花をのばした。これは宇宙の扉、開いた口、または子宮であると受けとめられる」。(ブラーフマナ神話)
漢字の蓮という字も、実がたくさん連なる、豊饒な母性を象徴する植物を意味している。
ハスの花は夜明けとともに開き、日が傾くと閉じるので、太陽になぞられる。卑しく汚れた地面ではなく、涼やかな水のうえに葉を拡げ、花を開く。葉も花も、その形は掌を拡げて、全てを受けとめてくれる姿。人の心の憧れや祈りを呼び覚ますにふさわしい。
ハスについての神話はバラモン教から、ヒンドゥー教に、そして仏教に伝わり、ヒーローやヒロインの荘厳に寄り添ってきた。釈尊は生まれたときハスの花の上を七歩あるいたとされ、如来も菩薩もハスの蕾を持って、ハスの花の上にまします。我々も極楽にいけば(いければ)、妙なる楽の音がただよう、ハスの花の咲き乱れる池の畔で、永遠の生を楽しむことになる。
ハスの花にはそんな、気高く神々しいイメージがつきまとう。清々しい朝に咲く花は開くとき、かすかなポンという音を響かせるという話など聞けば、ますますありがたみが増してくる。
ハスの茎からとった繊維で織り上げた布で作られた曼荼羅絵図もある。根茎は煮たり、きんぴらにしたりして、おいしくいただくレンコンだ。葉も花も根茎も種子も漢方薬として、解熱、止血、利尿、去痰、消化不良、下痢止めなど万能薬となっている。ハスは生命力あふれたパワフルな有用植物なのだ。
猛暑つづきで、熱中症のニュースでうんざりするような暑い夏。たっぷりとしたハスの大きな葉とこぼれそうに咲く花のうえを吹き渡る風が、参議院選挙に吹いて、爽やかで風通しのいい世の中に生まれ変わりますように。
(2013年7月15日)

参院選・投票日まであと7日       ーこれが自民党の「公約」だ

「日本を、取り戻す。」
残念ながら、いま日本は我が手にない。奪われた日本を取り戻さなければならない。
日本を奪ったのは、戦後民主々義という迷妄を信じた勢力。奪われたのは、「天皇を戴く」単一民族国家・日本。
今こそ、国民が主人公という迷信を本気にしたサヨクやリベラルから、真正の日本を取り戻そう。国民の手から国家の手に、人民の手から天皇の手に、貧しき者の手から一握りの富める者の手に、この金鵄に輝く日本の弥栄を取り戻そう。それこそが安倍自民の目指す偉業である。

「まず、復興。ふるさとを取り戻す。」
ふるさとは、いま、我が手にない。奪われたふるさとを取り戻さなければならない。
ふるさとを、そこに住む人のものとしていては、いつまでも復興はできない。
ふるさとを取り戻そう。被災地で苦しんでいる人たちから、復興ビジネスで一儲けをたくらむ企業の手に。原発事故の再発を憂慮する住民から、原発稼働利益共同体の手に。
とりわけ、一枚の通知で4億7100万円も我が党に献金をしてくれたゼネコンには格別の配慮が必要だ。取り戻したふるさとをまるごと提供して、その恩義に報いなければならない。

「経済を、取り戻す。」
日本の経済は、いま我が手にない。日本の経済を、資本主義本来の聖なる姿に取り戻そう。
福祉国家思想だの、生存に必要な最低限の保障だのとのたまう連中から、日本の経済を取り戻して健全化しよう。
今こそ、経済を労働者の手から、財界に取り戻そう。
企業に、労働者使い勝手の自由・使い捨ての自由を保障して、財界の信頼を取り戻そう。
まず成長だ。企業が十分に潤って、余裕があれば労働者にも多少はおこぼれを、という真っ当な経済政策をとりもどそう。庶民には空前の大増税を押し付け、大企業と富裕層には大盤振る舞いをすることによって、経済本来の姿を取り戻そう。

「教育を、取り戻す。」
日本の教育は、今我が手にない。戦後民主々義によって奪われた、国体思想を叩き込む教育を取り戻さなければならない。
主権者を育てる教育から、企業の役に立つ人材育成の教育を取り戻さねばならない。
国民による国民のための教育から、国家による国家のための教育を取り戻そう。
真理を教える教育は投げ捨てて、歴史修正主義の教育を取り戻そう。
そして、懐かしいあの国定教科書時代の「唯一正しい」戦前教育を取り戻そう。

「外交を、取り戻す。」
日本の外交は、今我が手にない。憲法9条によって奪われた、武力による威嚇の外交を取り戻そう。
平和に徹した外交努力から、ナショナリズムの昂揚を背にした緊張外交を取り戻そう。
国民本位の外交などは目指すべきものではない。しっかりと、アメリカ追随徹底の外交を取り戻そう。沖縄県民に甘い立ち場はさらりと捨てて、アメリカべったりの安保外交を取り戻すのだ。

「安心を、取り戻す。」
いま我が手には、安心も安全もない。でも、企業経営者と富裕層にとっての安心と安全を必ず取り戻します。ご安心を。
社会保障は切り捨て、財界の皆様にご負担のない安心を取り戻します。
公助と共助を切り詰めて、貧者にも自助努力を押し付けます。当然、そのしわ寄せが社会不安となってあらわれますが、そこは治安政策の強化によって抑え込みますから、ご安心ください。

こうして取り戻した日本は、なによりも自由という価値が輝く日本でなくてはなりません。儲け自由の日本を取り戻そう。規制を緩和して市場原理万能の社会を作りあげよう。低賃金で人を雇う自由、長時間人を働かせる自由、弱者切り捨ての自由を確立しよう。競争に勝利した一握りの企業と富裕層にとっての住みやすいルールをつくろう。そうやって、うんと儲けた者どうし、優雅なカジノでルーレットをまわそう。

個人ではなく、国家を大切にしよう。人権ではなく、公の秩序と公共の利益を優先する社会をつくろう。国民主権の徹底ではなく、天皇の権威を復活させよう。近隣諸国との信頼関係よりは、民族の歴史・伝統・文化、そして日本の誇りを大切にしよう。国防軍をつくって、自衛の範囲を超えた戦争ができる国にしよう。

そのための障壁となる憲法を根こそぎ変えてしまおう。

こうして、日本を、国民の手から自民党の手に奪い取ろう。参院選こそ、そのチャンスだ。国民の多くが、こんなホンネの見え透いた我が党を支持してくれるというのだから。

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   『放生談義』
上野不忍池で蓮がそろそろ咲き始めた。まだ盛りには間がありそうだけれど、何だか蕾が少なくて、心配。花は少なくても、つややかでたっぷりとした葉っぱは、蓮池を一面におおって風にゆれている。白い葉裏をひるがえす風は見ているだけで涼しい。連日の猛暑などどこ吹く風である。蓮の葉を「荷」という。永井荷風はそれを渡る風がよほど気に入って、雅号に用いたのだろう。
池之端に何やらかがんで、苦労している若い女性がいる。そういうのを見ると放ってはおけない。事情を聞くと、亀を包んだネットがほどけなくて、爪を痛めて困っているという。「今日は自分の誕生日で、『放生』をするために、アメ横から亀を買ってきました」と言う。手伝って、包みをほどくと、出てきたのはかなりの大きさの「スッポン」が2匹。「スッポン」じゃまずいなと思っていると、案の定、外野から「生態系を乱す」「池に放しちゃダメだよ」と意見がはいる。
女性は中国人で、なぜ自分の善行が非難されるのか解らない。怪訝な表情でききかえすので、「生態系」の意味をみんなで説明して納得してもらった。「アメ横のお兄さんは大変良いことだといって、6千円で買ってきたのです。持って帰るわけにはいかない。どうしましょう」。すかさず外野から、「俺にくれ。食べる」。女性は「功徳を積むための不殺生なのに、食べる人にあげるわけにはいかない」と涙ぐむ。動物園に引き取ってもらうということで、外野を納得させ、スッポンと女性を人混みから連れ出す。
しかしどう考えても、たくさんの動物を連れ込まれることに困惑している動物園が引き取ってくれるはずはない。おそらくは、このスッポンは外来種ではなさそう、ということにしておいて「隅田川」へ。乗りかかった舟なのでタクシーを飛ばした。駒形橋の脇から川縁に下りて、ここに放そうというと、女性も喜んで納得した。
女性はインターネットで調べてきた「経文」と願い事を唱える。怖がってスッポンには触れない女性に代わって、スッポンをトボントボンと隅田川に落として、無事「放生の儀式」を終える。女性は、誕生日に良いことをした、良い人に会えて良いことがあったと大喜び。こちらは「日中友好」ができて良かった。アメ横のお兄さんは良い商いができたと喜んでいることだろう。窮屈な包みをとかれて、突然水の中に放り込まれたスッポンだって、スッポン鍋にされなくて良かったと喜んでいることだろう。
そのあと、一緒に金竜山浅草寺に行って、女性はお賽銭を上げて、敬虔に拝んで、私は参拝はしなかったけれど付き添いをした。1945年3月10日の東京大空襲の話や、中国に対する戦争犯罪のお詫びなどして、「ご縁があったらまたお会いしましょう」と名前も聞かずにお別れした。

もしかしたら、スッポンの恩返しがいつかあるかもしれないと、かすかな期待が残る経験だった。
(2013年7月14日)

都教委の諸君、潔く敗訴確定の責任をとりたまえ

行政機関・教育機関が、最高裁から自らの行為を違法と指摘を受けたら、潔く自らの非を認めなければならない。自らの非を認めたうえは、衷心から謝罪し、責任を取らねばならない。それが、「間違ったことをした行政機関・教育官署」の当然の対応。都教委の謝罪と反省と、そして責任のとりかたを見守りたい。

昨日まで、最高裁に10・23通達関連事件が6件係属していた。
第1小法廷 東京小中君が代裁判(一審原告10人)
        Kさん処分取消事件(1人)
第2小法廷 東京「君が代裁判」2次訴訟(62人)
        河原井純子さん国家賠償差し戻し訴訟(1人)
        Yさん非常勤職員合格取消訴訟
第3小法廷 都障労組・処分取消訴訟(3人)

昨日(7月12日)、このうちの4件について最高裁が上告受理申立の不受理決定をし、その結果として都教委の敗訴が確定した。
まず、大型集団訴訟である東京「君が代裁判」2次訴訟(一審原告62人)については、教員側・都教委側の双方から上告受理申立がなされていたが、第2小法廷は、その両申立を不受理とした。そして、教員側の上告に対する判決の言い渡し日が9月6日に指定となった。
都教委側の上告受理申立が不受理となったことによって、減給以上の処分を受けた21人(処分件数としては22件)の処分取消が確定した。この意義は大きい。

同時に第2小法廷は、河原井さんの国家賠償差し戻し訴訟において、東京都の上告受理申立を不受理と決定した。このことによって、30万円の慰謝料支払いを命じた東京高裁(差戻審)の判決が確定した。この意義もきわめて大きい。

同じ日に、第1小法廷も、東京・小中「君が代」裁判において双方の上告受理申立に不受理決定をし、教員側からの上告申立事件について判決言い渡し期日を9月5日と指定した。同事件では、教員2人についての3件の処分取り消しが確定した。
また、Kさん(八王子市立中学校)処分取消事件においても同様に、教員側・都教委側の双方からなされていた上告受理申立をいずれも不受理とした上、近藤さんからの上告に対する判決の言い渡しを9月5日に指定した。
Kさんは、07年3月戒告、08年3月減給10分の1・1月、09年3月減給10分の1・6月、2010年3月停職1月(定年退職)、の処分を受けている。このうち、戒告を除く3件の処分について、取り消しが確定した。

昨日の最高裁決定によって25人(30件)の処分取消し・慰謝料支払いが確定した。これに関して、敗訴確定した都教委に一言せざるを得ない。教育委員諸君よ、自らの非を認め、衷心から謝罪せよ。

都教委よ。委員長よ、教育長よ、そして教育委員の諸君よ。あなた方の権力行為が司法によって違法と断定され取り消されたことを、どれほど深刻に受けとめているか。あなた方は、裁判所から、あるまじき違法な行為をしたと明確に指弾されたのだ。立場を変えて違法の指摘を受けたのが教職員であれば、正真正銘の懲戒事由にあたるところではないか。ほかならぬ教育委員が、教職員の思想・良心を侵害し、過酷な処分をしたとして過ちを指摘されたのだ。子どもたちの面前で、教育に取り返しのつかない違法な混乱を引きおこしたことでもある。いったいどのように責任をとろうというのか、聞かせていただきたい。

まさか、確定判決にしたがって経済的な不利益を補填するだけで済まそうということではあるまい。それは、教育に携わるものとしてあるまじき姿勢ではないか。あなた方には、ほんの少しも反省の気持ちがないのか。恥ずかしくはないのか。廉恥の心を持ち合わせてはいないのか。どうしてこのような不祥事を起こしてしまったのか、その原因を究明しようという気持はないのか。かような不祥事の再発を防止する手立てを講じようとは思わないのか。渦中の人々や家族が、どれほどの辛い思いをしたか考えたことがあるのか。教育への混乱と悪影響への責任に思いをいたしているのか。

勝訴確定者に、礼を尽くしての謝罪を要求する。とりわけ、河原井純子さんには、マスコミの面前で全員で頭を下げたまえ。国家賠償責任が認められるには、違法だけでなく公務員の過失も要求される。あなた方には、やってはならないことをした過失が認められたのだ。そしてなによりも、「停職中、教壇に立てないことによる精神的苦痛は、支給されなかった給与の支払いでは回復できない」というのが、東京高裁の判決であった。河原井さんだけにではない、深く傷ついた教え子にも謝罪が必要だ。それにとどまらない。あなた方がゆがめ、傷つけてしまった、教育そのものにも深い陳謝が必要なのだ。

いやしくも「他には厳しく、自らには甘い」などと言われることのないよう、教育に携わる機関にふさわしく、社会的常識と良識とに基づいた礼を尽くした対応を期待したい。

論語・学而編からの一節を、教訓として教育委員の諸君に贈りたい。
子曰。君子不重則不威。學則不固。主忠信。無友不如己者。過則勿憚改。
わからなければ、誰かによく聞いて教訓にしたまえ。とりわけ、「過則勿憚改」に先行する「學則不固」の一句を噛みしめていただきたい。
(2013年7月13日)

参院選9日目ー教育公務員の選挙運動への威嚇(その2)

昨日述べたとおり、公立校に勤務する教育公務員には、政治活動と選挙運動に関する特別の制約が付されている。政治活動については、一般の地方公務員には地公法36条で、そして教育公務員には教特法を介して「国公法102条・人事院規則14-7第6項」が適用規定となる。また、選挙運動については一般公務員が公選法136条の2(1項1号)で、教育公務員は137条で、「その地位を利用した選挙運動」が禁止されている。

ではなにもできないか。そんなことはない。昨日述べたとおり、教育公務員も人権享有主体であり、政治活動も選挙運動も憲法21条で保障された権利として尊重しなければならない。その人権制約の規定は限定して解釈されなければならない。昨年暮れに、このことを確認する恰好の最高裁判決が言い渡されている。大きな話題となった堀越事件である。

10年前の総選挙のさいに、「社会保険庁東京社会保険事務局目黒社会保険事務所に年金審査官として勤務していた厚生労働事務官(係長職)」であった堀越さんは、共産党の支持を目的として、しんぶん赤旗号外(『いよいよ総選挙』『憲法問題特集』など)や東京民報などを配布した、として起訴された。罰条は、国家公務員法102条と同法の委任によって制定された人事院規則14-7第6項7号と13号である。

これまで、リーディングケースとされたものは、1974年の猿払事件大法廷判決。形式的にこの判例による限りは有罪間違いないのだだが、東京高裁は堀越さんを無罪とし、最高裁第二小法廷も検察側の上告を棄却して無罪とした。無罪の理由は、高裁判決がよりすっきりしてはいるが、最高裁判決の論理を確認しておこう。

(A)「国家公務員法102条1項は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することを目的とするものと解される。」
(B)「他方,国民は,憲法上,表現の自由(21条1項)としての政治活動の自由を保障されており,この精神的自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利であることに鑑みると,上記の目的に基づく法令による公務員に対する政治的行為の禁止は,国民としての政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきものである。」

(B)における「国民」とは、公務員である堀越さんのこと。公務員も国民として人権享有主体であり、しかも「選挙に際して赤旗号外を配布するという政治活動」について、「表現の自由(21条1項)として保障されており,その自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利」とされている。しかし一方、(A)に言う「公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持すること」も、法の目的として肯定しうるところ。

そこで、(A)の目的を『必要やむを得ない限度ギリギリにその範囲を限定して』理解することによって、大切な(B)の権利を擁護せざるを得ない、というのだ。

その基本原則のもと、具体的には「『禁止された政治的行為』とは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるもの」と解するのが相当である。
「本件(「赤旗」および「東京民報」)配布行為は,管理職的地位になく,その職務の内容や権限に裁量の余地のない公務員によって,職務と全く無関係に,公務員により組織される団体の活動としての性格もなく行われたものであり,公務員による行為と認識し得る態様で行われたものでもないから,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものとはいえない。そうすると,本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当しないというべきである」というのが結論。

論理の構造は、公務員と言えども憲法の眼目と言うべき21条の政治的表現の自由を有している。その権利の重要性から、制約は『必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきもの』ということになる。しかも、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが観念的なものであっては制約の理由たり得ない。実質的に認められるものでなくてはならないというのである。

この判断枠組みの基本構造は、国公法102条・人事院規則14-7の事件にだけでなく、地公法36条にも、教特法にも、そして公選法136条の2、137条にもあてはまる。

もちろん、堀越事件における無罪理由の具体的な射程距離については今後の判例をまたねばならないが、猿払大法廷判決が巾を利かせていた時代は終わった。教育公務員を含めた公務員の政治活動、選挙運動の一律禁止を墨守しておられる時代ではない。

おそらくは、都教委は、そのこと故に焦っての通知を発出しているのだ。

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   『ルソン戦ー死の谷』(阿利莫二著 岩波新書)より
私たちはバナナはあの黄色い実だけを食べるものと思っている。しかし、実は花も茎の芯も食べられる。「菜はスープがほとんど。スープというより、日本の鍋汁である。汁の実にしていたバナナの花は、缶詰の貝柱に似た舌ざわりでおいしい。」

食べられるのはほかにもある。
「一度だけ、脂気のある柔らかい筍のようなものを口にした。聞くとヤシの芯だという。若芽だったかもしれない。高級な味である。ヤシの実はトンコンマンガにもあったが、入院中最もよく口にした。若い実は半透明でとろりとし、熟するほどに固くなる。若すぎず、熟しすぎないこのココナッツは、炒めると、半ばいか焼き、半ば南京豆のような味と舌ざわりがする。」

1944年11月マニラへ上陸し、待ち受けている、ルソン島の東北山地を逃げ回らなければならない運命を知らなかった、「学徒兵阿利莫二」のつかの間の幸せな食生活。その後すぐ、45年1月には米軍がレイテ島に上陸をはじめ、「ルソン決戦」どころか、泥沼の「ルソン持久戦」に突入することになった。これが戦争といえるのだろうか。あてどもない、ボロボロの日本軍逃避行である。

食料も薬もなく、盲腸の手術も手足の切断も麻酔無し、目が覚めたら隣の友兵が冷たくなっている。米軍の砲爆撃は熾烈をきわめ、空からのガソリン攻撃、地上の火炎放射機で、森も林も草原も焼き尽くされ、手も足も出ない。
「傷病者はとくに負け戦さの戦場では足手まとい。捕虜になることを軍紀が許さぬ以上、動けぬ者は死ぬよりほかは道がない。隊の足手まといになるよりは死を選ぶ方がいさぎよい。これが美徳。・・戦況が悪化すればするほど、当然のことのように自決や処置が行われた。」

「死相」「幽鬼の宴」「人肉食」「餓鬼の図」これが今から68年前のちょうど今頃の7月、フィリピンのルソン島でくり広げられた地獄図である。
「油虫は炒めると香ばしいが、何しろ死体をバリバリ囓る大物、動きの鈍い者には捕らえるのが難しい。アシン谷でお目にかかったのは、野ねずみ、小鳥、小さい蛇一匹、オタマジャクシ、地虫、わらじ虫、小さいバツタ、それに小さな巻貝くらいである。」お目にかかっても、ヨタヨタの身体で捕まえられるのは、わらじ虫やヤスデ、カナブンの白い地虫ぐらい。飯ごうで煎って食べると香ばしい味で、地虫は甘みがある。オタマジャクシは煮ると溶けて、苦い汁になる。串に刺してあぶって食べる。

そして8月15日。栄養失調の下痢で「生きたい」という気持ちもなくなって、立つこともできない状態で、9月8日米軍の捕虜として収容される。
「アメリカ軍のレーション(携行糧食)を見たとたん、これだけで勝負は決まっていたと思う。日本軍の携帯食料は内地にいた時でも金平糖が少し混ざった乾パン一袋である。レーションにはチーズ、ビスケット、コーヒー、チョコレート、缶詰、シガレットなどが、完全密封の箱に見事にコンパクトされている。」

フィリピン島戦の犠牲者は50数万人。うちルソン島は20数万。大戦中最大の戦死者を出したこのフィリピン島戦全体の兵員生還率は約23パーセントだった。
(2013年7月12日)

参院選8日目ー教育公務員の選挙運動への威嚇

本年7月1日付で、東京都教育委員会教育長比留間英人から、各都立学校長宛に下記の「教職員等の選挙運動の禁止等について(通知)」と標題する通知がなされている。また、その写しが、都下の各市町村区立の公立学校長宛に配布されている。

     「教職員等の選挙運動の禁止等について(通知)」
 参議院議員の通常選挙が7月に行われる予定である。
 公務員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき職責にかんがみ、選挙運動等の政治的行為が制限されているとともに地位利用による選挙運動等が禁止されている。特に教育公務員(校長、副校長、主幹教諭、指導教諭、教諭、養護教諭及び栄養教諭等をいう。実習助手及び寄宿舎指導員を含む。以下同じ。)については、教育の政治的中立性の原則に基づき、特定の政党の支持又は反対のために政治的活動をすることは禁止されている。さらに、教育公務員特例法において、教育公務員の政治的行為の制限は、国家公務員の例によることとされ、人事院規則で定められた政治的行為が禁止されている。また、公職選拳法においても、選挙運動等について特別の定めがなされている。
 このたびの選挙に当たっても、昨今の教育行政を取り巻く環境が極めて厳しいことを踏まえ、下記の事項に留意の上、所属職員に関係法令の周知徹底を図り、教職員が教職員個人としての立場で行うか教職員団体等の活動として行うかを問わず、これらの規定に違反する行為や教育の政治的中立性を疑わしめる行為を行うことにより、都民の教育に対する信頼を損なうことのないよう、服務規律の確保について格段の配慮をされたい。
 特に、平成25年4月に成立した公職選挙法の一部を改正する法律により、ウェブサイト等を利用する方法にによる選挙運動が解禁されたが、公職選挙法の選挙運動等の禁止制限規定に該当するもの及び政治的目的をもってなされる行為であって地方公務員法第36条第2項各号及び人事院規則14-7第6項各号に掲げる政治的行為に該当するものは、禁止されていることに十分御留意いただきたい。
                  記
1 地方公務員法及び教育公務員特例法関係
(1)地方公務員は、地方公務員法第36条に基づき、一定の政治的行為の制限がなされていること。
(2)教育公務員の政治的行為の制限については、教育公務員特例法第18条により、国家公務員の例によるものとされており、これにより、国家公務員法第102条及びこれに基づく人事院規則14-7に規定されている政治的行為の制限が適用されるものであること。
(3)したがって、公立学校の教育公務員について制限されている政治的行為は、教育公務員以外の地方公務員について制限されている政治的行為とは異なるものであり、かつ、その制限の地域的範囲は勤務地域の内外を間わずに全国に及ぶものであること。
(4)本制限は、公務員としての身分を有する限り、勤務時間内外を間わず適用されるものであり(ただし、人事院規則14-7第6項第16号については勤務時間内に限られる。)、休暇、休職(いわゆる在籍専従も含む。)、育児休業、停職等により現実に職務に従事しない者にあっても異なる取扱いを受けるものではないこと。
2 公職選挙法関係
(1)公務員がその地位を利用して選挙運動をすることは全面的に禁止され、また、その地位を利用して候補者の推薦、後援団体の結成に参画するような選挙運動とみなされる行為をすることも禁止されていること(公職選拳法第136条の2)。
(2)学校教育法に規定する学校の校長及び教員(以下「教員等」という。)は、学校の児童・生徒等に対する教育上の地位を利用して選挙運動をすることができないこと(公職選拳法第137条)。
(3) (1)については公務員としての身分を有する限り、(2)については教員等である限り、勤務時間の内外を問わず適用されるものであり、休戦、休職(いわゆる在籍専従も含む。)、育児休業、停職等により現実に職務に従事しない者にあっても異なる取扱いを受けるものではないこと。
3 政治資金規正法関係
一般職の地方公務員については、その地位を利用して、政治活動に関する寄附等への関与又は政治資金パーティーの対価の支払を受ける等の行為に関与してはならないこと(政治資金規正法第22条の9)。
4 その他
(1) 選挙運動等の禁止制限規定に違反する行為は、公務員の服務執務違反として懲戒処分の対象となるばかりでなく、上記2の場合にあっては、2年若しくは1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金、選挙権及び被選挙権の停止(公職選拳法第239条第1項第1号、第239条の2第2項並びに第252条第1項及び第2項)、上記3の場合にあっては、6月以下の禁鋼又は30万円以下の罰金(政治資金規正法第26条の4)という処罰の対象となるものであること。
(2) 具体的事例について判断するに当たっては、適宜関係法令や関係判例を参照すること。
※添付資料・(参考)教育公務員の違反行為の具体例
・平成25年執行参議院議員選挙「地方公務員と選挙運動」
(平成25年6月東京都総務局人事部作成)

徹頭徹尾、「べからず」の羅列である。いささかも「このことはできる」との示唆はない。とりわけ、「ネット選挙解禁」を弾みとして、多くの公務員や教員が選挙運動に積極化するのではないかと危惧して、これを抑え込もうとする意図が見え透いている。

この通知では、いかなる教員にも、いかなる時間帯においても、いかなる態様でも、無限定に選挙運動が禁じられているごとくの印象を与える。そのような印象を与えるべく「創意と工夫」に満ちた記載となっており、しかも、懲戒処分だけでなく、刑罰や公民権停止の威嚇までも振りかざしてのものとなっている。これでは、すべての教育公務員が、「選挙に関わりを持つことは面倒」「選挙運動を敬遠した方が無難」という気分にならざるを得ない。それこそ、都教委の狙いであり、思う壺である。

この通知は、明らかに教職員と労働組合の選挙運動参加への萎縮効果を狙ってのもの。その結果としての萎縮の効果は、客観的に政権与党への肩入れにつながる。政治的な意図芬々たる通知と指摘せざるを得ない。

言うまでもないことだが、教育公務員とて国民であり、基本的人権の享有主体である。選挙運動を行う権利、あるいは政治的言論の自由は、教育公務員にも保障される。地方公務員法・教育公務員特例法・公職選挙法などでのその地位に伴う権利の制約は、厳格な必要性・合理性に裏付けられる限りでの制限的なものでなくてはならない。これが大原則である。

都教委の威嚇に怯まず、萎縮しないためには、なによりもまず、この通知の内容を十分に理解しなければならない。都教委の脅しは、地方公務員法・教育公務員特例法・公職選挙法の3法律である(政治資金規正法は無視してよい)。規制対象行為は、政治活動(地公法・教特法)と選挙運動(公選法)である。

まず、上記「1(1)」の「地方公務員は、地方公務員法第36条に基づき、一定の政治的行為の制限がなされていること」だけでは内容不明だが、具体的には36条2項1号に記載のある「選挙又は投票において投票をするように、又はしないように勧誘運動をすること」という政治活動(実質的には選挙運動)の禁止を指す。重要なことは、この禁止規定には罰則がないこと。また、「当該職員の属する地方公共団体の区域外においてはすることができる」と明記されていることである。つまり、教員ではない地方公務員の場合には、選挙運動が禁止される地域は限定され、しかも違反に罰則がない。

上記「1(2)」は、教育公務員には「人事院規則14-7」(政治的行為の禁止)の適用があると指摘する。人事院規則こそ、悪名高い国家公務員に対する人権制約規定であって、その6項8号に「政治的目的をもって、公職の選挙、国民審査の投票において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること」とされている。この点、確かに教育公務員の行為制限は一般地方公務員とは異なり、その制限の地域的範囲の限定もない。しかし、この禁止規定違反にも、罰則の適用はない。

問題は、公職選挙法上の地位利用による選挙運動禁止にある。「公務員がその地位を利用して選挙運動をすること」「教員等が学校の児童・生徒等に対する教育上の地位を利用して選挙運動をすること」とは何であるかを見極めなければならない。

公務員も人権主体であること、選挙に関連する表現の自由という重要な権利に対する制約であることに鑑みれば、その制約の目的や手段を吟味して、地位利用の内容を限定して解釈しなければならない。(以下、明日に続く)
(2013年7月11日)

参院選7日目ーネット選挙を使いこなそう

医療過誤訴訟では、いくつもの興味津々の生体現象を知った。
廃用性機能低下・廃用症候群・廃用萎縮・廃用退化などもその一つ。要するに、使用を怠れば、生体の機能は低下し、萎縮し、ついには退化しなくなってしまう、というもの。これは、奥の深い教訓。当然、法的権利にもあてはまる。法は、「権利のうえに眠る者には保護を認めない」のだ。

公職選挙法の改正によって、今回の選挙からネット選挙が「解禁」された。ホームページ・ブログ・フェイスブック・ツィートなど「ウェブサイトを利用する方法」による選挙運動は自由である。総務省のホームページを参照してネット選挙を使いこなそう。でないと、権利として成熟する以前に、ネット選挙の廃用性機能低下が始まりかねない。

留意点を二つだけ。
まず、「電子メールを利用する方法による選挙運動」については、候補者・政党等に限って「解禁」され、候補者・政党等以外の一般有権者には引き続き禁止されている。この規制は、今回選挙の状況をみて、次の国政選挙までに再考することになっているが、選挙運動を候補者のものとする考えから抜けきらないからこんな発想となる。

では、一般有権者は電子メールによる選挙運動は一切できないのか。そんなことはない。電子メールによる投票依頼は文書の頒布にあたるものとして規制されている。条文は公職選挙法142条1項の「選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する・・・のほかは頒布することができない」と、その脱法行為を禁じる146条1項「何人も、選挙運動の期間中は、いかなる名義をもつてするを問 わず、142条の禁止を免 れる行為として、候補者の氏名・政党の名称を表示する文書図画を頒布することができない」である。

電子メールの送信も、「文書図画の頒布」にあたるとして取り締まられているのだから、そもそも「頒布」にあたらない行為であれば処罰の対象にはならない。

この点について、判例はこう言っている。「同法146条にいう文書図画の頒布とは、文書図画を不特定又は多数人に対して配布すること、を意味するが、右Aに対する名刺の配布行為は、選挙運動の期間前からの一連の不特定又は多数人に対する選挙運動のためにする配布行為中の一にほかならないのであるから、同条にいう文書の頒布というに妨げない」(最高裁判決1961年3月17日)

つまり、送信先が不特定ではなく、多数人に対するものでもなければ、「頒布」にはあたらない。特定された親戚縁者、あるいは友人に対する、多数と言えない範囲のメールは、投票依頼の内容を含むものであっても、頒布にはあたらず規制の対象にはならない。

また、従来から選挙以外での用件で発信する文書に、選挙のお願いを書くことは、選挙運動文書にあたらず差し支えないとされてきた。同様に、メール送信の用件に投票依頼を添え書きすることは取り締まり対象の行為とはならない。

もう一つ。
当然のことながら、ウェブサイトや電子メールを利用した選挙運動に、金が絡めば買収罪が成立する。ブログでの選挙運動に関して金銭の授受があれば、運動買収になる。金を払った方にも、もらった方にも犯罪が成立する。本来、選挙運動は金をもらってやるものではない。この点の潔癖さが少しでも欠けると犯罪者となってしまう。こちらは実質犯で、表現行為そのものを取り締まる不当弾圧とは言い難い。

これまでの典型ケースは、アルバイト気分で選挙事務所で働いて、「労務者」や「事務員」として報酬を受けとった場合、「労務」や「事務」の範囲を超えた選挙運動があったとされての立件。これで立派な運動買収罪の犯罪者なのだ。今後は選挙事務所からの依頼でネット選挙の担当を引き受け、報酬をもらってブログやツィートでの投票依頼を行う犯罪の増加が心配される。

総務省の「想定Q&A」に、次のような記載があり、その厳格さに驚かざるを得ない。
Q 選挙の直前に雇用した事務所の秘書や政党支部職員に、選挙運動用ウェブサイトや選挙運動用電子メールに掲載する文案を主体的に企画作成させ、選挙が終わった直後に解雇した場合、当該秘書等に給与を支払うことは買収となるか。
A 選挙期間を含む短期間だけ雇用した者に選挙運動を行わせ給与が支払われている場合は、当該給与の支払が選挙運動を行っていることに対する報酬と認められる場合が多く、一般的には、買収となるおそれが高いものと考えられる。

教訓を胸に刻んでおこう。選挙は徹底したボランティア。選挙に絡んで、金をもらっちゃいけない。金を配ってもいけない。もちろん、給料保障での選挙運動もダメ。ネット選挙では、このあたりのケジメがゆるみそうだから、ご用心。

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  『夜香木(ヤコウボク)』
長さ15センチぐらいの長楕円形のとんがつた、メタリツクグリーンの葉っぱを細い枝に間をおいて風通し良く付ける。常緑かどうかは知らない。西インド諸島原産ということで、関東の冬は落葉して、屋内におかないと越冬できない。

気温30℃ぐらいを越すと、枝先にグリーンの楊枝のような蕾を房状にジャランジャランとつける。蕾ははじめ黄緑の小さな房箒のようだが、だんだんに重くなり垂れ下がってくる。開花すると白くなり、先が五弁に開く。暗い夜はまるで白い線香花火のようにみえる。
そうなってはじめて、名前にたがわず、夜になるとむせかえるような香りを放つ。少し品性に欠けるような、青臭いチョコレートのような濃厚な匂いだ。3日ぐらいするとぴたりと香りはなくなり、楊枝をばらまいたように、花は無残にパラパラと散り落ちてしまう。そのあと枝を切りつめてやると、新しい枝が伸びて、10月末まで、2,3回蕾を付けて、夜の怪しい饗宴を繰り返す。

不思議と昼間はひそとして、何の匂いもしない。この頃東京の戸外で越冬し、温暖化の証拠のように語られ、あちこちでよく見られるようになったエンジェルトランペットも、夜になると良く香る。夏の夜、まとわりつくように漂ってくる匂いに、周りを見回すと、下を向いたトランペットのような大ぶりな花が浮かんでいる。この花も、昼間はしらんぷりをして、夜になると誘いをかけてくる怪しい奴だ。「夜香木」は本場インドのヒンディー語では「ラート・キー・ラーニー(夜の女王)」と呼ばれている。南方の花木は良く香る。

太平洋戦争中、仙台師団の兵士だった芥川賞作家の古山高麗雄は、久留米師団と一緒にビルマ戦線で戦った。インパール作戦ではなく、北部ビルマから中国雲南省方面での闘いに参加したが、筆舌に尽くしがたい凄惨な闘いを生きぬいた。その戦闘を扱った小説を書くために元久留米師団の兵士の話を聞く旅で、「夜香木の香りをかぎ、そうだこの匂いに、ビルマで包まれたことがあると」気づいた。

戦後、慰霊の旅でビルマに行った人がこの灌木を持ち帰って育てている。「私はビルマで、この低木を夜香草と呼んでいた。確かな記憶ではないが、シヤン高原で野宿をした時に、私はこの匂いに包まれたような気がするのだ。戦場でマラリアになって野戦病院から兵站病院に移された。兵站病院を退院した時、自分の部隊の所在がわからず、野宿したりしながら探し歩いたことがあった。あのとき、楽しんだ匂いのような気がするのだが、どうなのだろうか。いずれにせよ、私はその匂いのもとを、手にとって確かめたりしなかったのだ。あれから半世紀もたった今頃になって、ああこれがの芳香の木か、と眺め、その花の開閉に感じ入っているのである」と書いている。

物資の補給も途絶え、飢餓、マラリア、雨期の雨の中を敵弾に追われ、伸び伸びた戦線の末端を這い回る兵士たち。インパールから敗退する道は屍が累々と横たわり、「白骨街道」といわれた。雲南戦線を含めて、ビルマ戦線に投入された兵士は33万人、そのうち20万人近くが戦没した。「夜香木」はそのように無残に死んでいった兵士にたむけられた香華であった。
(2013年7月10日)

参院選6日目ー供託金という障壁の克服を目指して

共産党は、この度の参院選において、選挙区選挙に46人(沖縄を除く全選挙区)、比例代表区には17人の候補者を立てている。大量候補者の擁立は全国規模での党勢拡大の観点からは不可欠だが、ご存じのとおり供託金の金額は半端ではない。選挙区では一人300万円、比例区では600万円だから、総額2億4000万円となる。政党助成金制度を憲法違反として1円の交付も受けていない共産党には、大きな負担となっている。

供託金は、候補者の得票が少なければ没収される。
選挙区では得票が有効投票総数を議員定数で割った(一人区なら1で、2人区なら2で割った)数の10分の1未満の場合に全額が没収となる。
比例代表区では、当選者数の2倍に600万円を掛けた金額を超える分が没収される。したがって、17人のうち5人が当選すれば、10人分の供託金6000万円が返還される。没収は7人分の4200万円となる。これが、4人当選だと8人分4800万円が返還で、5400万円が没収となる。当選者一人の差が、1200万円の返還金額の差となる。
あなたの一票が、選挙区選挙でも比例代表区選挙でも、大きな財政支援につながる。その意味でも、一票が大事なのだ。

政党や立候補を志す者にとって、この高額な供託金制度は明らかなアクセス障壁となっている。この制度をどう考えるべきか、また、どう克服すべきだろうか。選挙権の問題ではなく被選挙権の問題であるだけに、熱く語られることは少ないが、重要なことと思う。

東京都知事選挙の供託金が300万円と聞かされて、「意外と少額」との感想もあるのではないだろうか。首都の知事たらんとする者には、そのくらいの金の用意は当然にできるだろう、という常識的感覚である。しかし、共産党の参院選供託金の合計額が2億4000万円と聞けば高額に過ぎると思うののも、常識的感覚ではないだろうか。なんとなく、供託金制度は当たり前で、当該の選挙との兼ね合いで、金額の多寡だけが問題という「常識的感覚」である。

しかし、ことは憲法の視点から考察すべき問題である。そして、憲法上の原則を踏まえてなお、供託金制度の存在を合理化する理由があるかを考察しなければならない。この点で、「ウィキペディア」の『供託金』についての記述に拠ったと思われる、かなりの数の文章を目にする。「調べてみたら…」というのが、明らかに「ウィキペディア」の丸写しであることが明瞭でシラける。「ウィキペディア」の影響力恐るべしである。「ウィキペディア」の記述には敬意を表することが少なくないが、『供託金』の項については不満が残る。憲法的な考察にまったく言及がなく、選挙公営について論じるところが欠けているからである。

我が国の選挙制度の歪みは、1925年の改正衆議院議員選挙法(いわゆる「普通選挙法」)に始まる。このときそれまではなかった「立候補制度」が初めて導入され、これに伴って立候補の要件としての供託金の制度もつくられた。

時の若槻内閣が「英国の制度に倣ったもの」という提案に対して、「2000円の供託金額が高額に過ぎて、普通選挙の趣旨にそぐわない」との議論もあったが、政府原案のとおり成立した。没収点についての定めは、このときに作られたものが基本的に現在に至っている。

戦後、明治憲法下の衆議院議員選挙法から、日本国憲法下の公職選挙法に変わった。にも拘わらず、旧法そのままの制度が生き残っている。これが、違憲ではないのか、問題とならざるを得ない。

選挙権・被選挙権は、基本的人権ではなく資格(権利能力)に過ぎないという議論がまだ根強い。とりわけ、被選挙権については憲法上直接の根拠規定がないから、かつての最高裁判例もそのような立場をとっていた。これを変更して、「憲法15条1項に規定はないが、被選挙権、特にその立候補の自由もまた同条同項の保障する重要な基本権の一つと解すべきである」(1968年3月12日最高裁大法廷判決)というのが現在の判例。

被選挙権・立候補の自由が基本的人権であるとすれば、軽々にこれを制約することはできない。供託金制度の違憲を争った判例はまだないが、供託金制度が立候補の障害となっている以上は、供託金制度を簡単に合憲と言ってはならない。立法裁量の範囲だからとか、国会が決めたルールだからとかという理由では、立候補の自由制約は許されない。目的・手段・目的と手段の関連性という3ステージにおいて、厳格な違憲審査基準のテストをクリヤーしなければならない。

供託金制度創設の趣旨は、1925年若槻内閣時代から、「当選の目的をもたず、他人の当選を妨害する立候補などの弊害を防止すること。立候補に慎重ならしめ、いわゆる泡沫候補の輩出を防止すること」とされた。近年は、これに加えて選挙公営の費用負担が大きな合理的理由とされている。

一切の公営を排した資金自由の選挙モデルは一つの典型としてあり得よう。経済的格差も、国民の支持の大小を反映してるのだから、資金力を含めての獲得運動を肯定する立場である。このような制度には選挙公営の資金預託という意味での供託金制度は存在し得ない。しかし、経済的弱者に選挙運動における実質的平等を確保せしめる見地からの選挙公営の制度はそれなりの合理性を有する。ウィキペディアは、「諸外国では供託金が低額、あるいは制度そのものがない」としているが、選挙公営との関連性を論じていないことから説得力をもたない。

私は、選挙公営による実質的な候補者間の平等を確保するという制度の目的を徹底する限りにおいて、厳格な審査基準を適用してなお、供託金制度を合憲とする余地があると思っている。ただ、そのためには、供託金制度が真面目な立候補者のアクセス障害になってはならない。供託金の金額は現行の10分1程度にすることを考えるべきだと思う。

共産党が全国に候補者を立てて存分に選挙運動を行い、自らの主張を国民にアピールする、そのための供託金2億4000万円はあまりに高額に過ぎよう。金額が2400万円程度であれば、そして選挙公営の十分な見返りがあれば、立候補の自由を人権としながらも、実質的な競争力平等確保の目的を肯定して、制度の合憲性を認めてもよいのではなかろうか。

そのような制度改正まで、それぞれの政党の支持者は、応分のカンパを覚悟しなければならない。
(2013年7月9日)

参院選5日目ー私の8人の姪に宛てての投票依頼

私は、今回の参議院選挙を、日本国憲法の命運がかかった大事な選挙だと思っている。だから、いつになく、知り合いの人々に投票をお願いしている。憲法を守る候補者、改憲阻止を明確にしている政党への投票を。そして、できることなら、日本共産党を選んで欲しい。

改憲勢力の中心に「自民党」がいる。昨年4月に「自民党・日本国憲法改正草案」を公表している。とんでもない代物だ。人権や民主々義、平和を大切と考える国民は、まず自民党と対決しなければならない。アベノミクスの「成果」などに欺されてはいけない。

自民党のさらに右側に、「日本維新の会」と「みんなの党」が位置している。この2党は、自民党がはっきりとは言いにくいことを、自民党に代わってズケズケと主張する「自民党補完勢力」となっている。この2党の主張は、ちっとも新しくはない。むしろ、極めて古くさい。主として、維新が政治的な国家主義の側面を、みんなが経済的な新自由主義の側面で、国家や資本のホンネを言い放つ役割分担をうけもっている。

この「自・維・み」の3党が、積極改憲勢力。もちろん、このような政党や主張に存在理由がないわけはない。一握りの大企業や、権力を握る位置にあるものの代弁者としてである。大多数の庶民にとって、この3党に投票することは自らの首を絞めるにひとしい。けっして、こんな政党に投票してはいけない。

公明党という宗教政党は、信仰をエネルギーとした選挙運動で一定数の議席獲得に成功している。客観的には、その支持層の利益が自民党と同一であるはずはないのだが、自・公の保守連立政権が成立し、不思議な両党持ちつ持たれつの関係が続いている。この党も、きっぱりと「改憲阻止」とは言わない。「加憲」という不思議を唱えて、自民党と友党の関係を保つ姿勢を変えない以上は、改憲勢力の一翼を占めるものと指摘するしかない。

民主・生活・みどりの風・社民党という各党は、いずれも「中間政党」として、対決する自・共の両端の間に、それぞれの位置を占めている。このような政党よりは、最も主張に筋が通り、議席が力となる日本共産党の選択をお薦めする。

参院選では、一人の有権者が2票を投じる。「選挙区選挙」と「比例代表選挙」とだ。「選挙区選挙」では立候補者の氏名を記載するが、「比例代表区」では政党名で投票ができる。「日本共産党」への一票をお願いしたい。自分で資料を集めて、よく考えて決めていただきたい。

私は、日本国憲法がこれ以上ない理想の憲法だなどと思ったことはない。いくつもの不満点を挙げることができる。なかでも、第1章が「国民主権」から始まるのではなくて、「天皇」から始まっていることには、時代の制約を嘆かざるを得ない。象徴としてでも天皇という存在が憲法に残されていることは、主権原理や人権や平等が不徹底であることの表れである。

とはいえ、日本社会の現状をみれば、66年前に制定された「日本国憲法」が、いまだに日本の現実をリードする理想としての輝きを失っていないことは明らかだと思う。この憲法の中心を貫く基本的人権という思想、民主々義という優れた手続的原則、そして民族の悲惨な体験と反省から生まれた恒久平和主義。現行憲法が憲法である限りは、このような理念を支える各条項が社会をより良い方向に変えていく武器として活用可能なのだ。だから、憲法は有用であり、限りなく貴重である。

いま、この憲法を邪魔として改憲をたくらむ諸勢力は、国民個人ではなく国家や社会を根源的な価値とする。人権ではなく秩序を重んじる。働くものの権利を切り捨て、企業活動の自由を最優先しようという連中なのだ。

多くの庶民にとって、改憲は何の利益ももたらさない。憲法を全面的に活用することこそが、今最も大事なことだと思う。日本共産党は、そのような立ち場に立つ政党として信頼に値する。原発・雇傭・景気・税制・外交・平和・教育・福祉等々の各分野での共産党の筋の通った政策に耳を傾けていただきたい。

私は、日本共産党が欠点のない理想の政党などと言うつもりはない。批判を要するところも多々あると思っている。しかし、この政党が、改憲阻止勢力の中心にあって頼むに足りる存在であることを疑わない。そして、これだけ国民の利益に役立つ存在でありながら、議会に議席が過少であることを残念に思っている。

なぜ共産党の議席は少数なのか。一口で言えば、社会に故なき反共の雰囲気があるからだ。かつて、共産党は国賊であり非国民だった。明らかに「国体を変革し、私有財産を否定する」思想を堅持し、そのために治安維持法その他で、野蛮な天皇制から徹底した弾圧を受けた。国民の利益を追求した活動で受けた弾圧であったが、多くの国民から感謝されたわけではない。むしろ、「共産党の同調者とみられることは、非国民と同類と思われる恐ろしいこと」とという社会感情が蔓延した。

天皇制とたたかった共産党は、戦後には一部の人からは尊敬を受けたが、多くの国民にとっての「共産党に近いとみられたくない」という感情は広く残った。日本の社会の実質が大きくは変わらなかったからだ。戦後日本の政権を担った保守的な支配層が、その雰囲気を煽った。

会社でも、官庁でも、「共産党の支持者」と疑われるだけで、不利益を覚悟しなければならない雰囲気は今でも残存している。いじめの現場を目撃しながら、いじめられっ子に味方をすると自分までいじめられるから、いじめを見て見ぬ振りをする。反共意識とは、案外そんなものかも知れない。

私は、このような共産党支持を公にできない社会の雰囲気を払拭しなければならないと思う。だから、私は共産党の支持者であることを隠さない。とりわけ私は自由業。どこの政党を支持したとしても、だれからもにらまれることはない。声を大きくして、共産党をお願いします、というべきだと思っている。このことは、共産党にとってだけでなく、民主々義にとっても、大切なことだと思う。

重ねてお願いする。一人ひとりが住みよい社会をつくるために、大切な憲法の守り手になっていただきたい。憲法の擁護に力を貸していただきたい。そのために、今度の参議院議員の選挙では、改憲阻止の最も確実な担い手である日本共産党に支持をお願いしたい。その一票が、憲法を擁護し、社会を変える力になるのだから。
(2013年7月8日)

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