本年7月1日付で、東京都教育委員会教育長比留間英人から、各都立学校長宛に下記の「教職員等の選挙運動の禁止等について(通知)」と標題する通知がなされている。また、その写しが、都下の各市町村区立の公立学校長宛に配布されている。
「教職員等の選挙運動の禁止等について(通知)」
参議院議員の通常選挙が7月に行われる予定である。
公務員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき職責にかんがみ、選挙運動等の政治的行為が制限されているとともに地位利用による選挙運動等が禁止されている。特に教育公務員(校長、副校長、主幹教諭、指導教諭、教諭、養護教諭及び栄養教諭等をいう。実習助手及び寄宿舎指導員を含む。以下同じ。)については、教育の政治的中立性の原則に基づき、特定の政党の支持又は反対のために政治的活動をすることは禁止されている。さらに、教育公務員特例法において、教育公務員の政治的行為の制限は、国家公務員の例によることとされ、人事院規則で定められた政治的行為が禁止されている。また、公職選拳法においても、選挙運動等について特別の定めがなされている。
このたびの選挙に当たっても、昨今の教育行政を取り巻く環境が極めて厳しいことを踏まえ、下記の事項に留意の上、所属職員に関係法令の周知徹底を図り、教職員が教職員個人としての立場で行うか教職員団体等の活動として行うかを問わず、これらの規定に違反する行為や教育の政治的中立性を疑わしめる行為を行うことにより、都民の教育に対する信頼を損なうことのないよう、服務規律の確保について格段の配慮をされたい。
特に、平成25年4月に成立した公職選挙法の一部を改正する法律により、ウェブサイト等を利用する方法にによる選挙運動が解禁されたが、公職選挙法の選挙運動等の禁止制限規定に該当するもの及び政治的目的をもってなされる行為であって地方公務員法第36条第2項各号及び人事院規則14-7第6項各号に掲げる政治的行為に該当するものは、禁止されていることに十分御留意いただきたい。
記
1 地方公務員法及び教育公務員特例法関係
(1)地方公務員は、地方公務員法第36条に基づき、一定の政治的行為の制限がなされていること。
(2)教育公務員の政治的行為の制限については、教育公務員特例法第18条により、国家公務員の例によるものとされており、これにより、国家公務員法第102条及びこれに基づく人事院規則14-7に規定されている政治的行為の制限が適用されるものであること。
(3)したがって、公立学校の教育公務員について制限されている政治的行為は、教育公務員以外の地方公務員について制限されている政治的行為とは異なるものであり、かつ、その制限の地域的範囲は勤務地域の内外を間わずに全国に及ぶものであること。
(4)本制限は、公務員としての身分を有する限り、勤務時間内外を間わず適用されるものであり(ただし、人事院規則14-7第6項第16号については勤務時間内に限られる。)、休暇、休職(いわゆる在籍専従も含む。)、育児休業、停職等により現実に職務に従事しない者にあっても異なる取扱いを受けるものではないこと。
2 公職選挙法関係
(1)公務員がその地位を利用して選挙運動をすることは全面的に禁止され、また、その地位を利用して候補者の推薦、後援団体の結成に参画するような選挙運動とみなされる行為をすることも禁止されていること(公職選拳法第136条の2)。
(2)学校教育法に規定する学校の校長及び教員(以下「教員等」という。)は、学校の児童・生徒等に対する教育上の地位を利用して選挙運動をすることができないこと(公職選拳法第137条)。
(3) (1)については公務員としての身分を有する限り、(2)については教員等である限り、勤務時間の内外を問わず適用されるものであり、休戦、休職(いわゆる在籍専従も含む。)、育児休業、停職等により現実に職務に従事しない者にあっても異なる取扱いを受けるものではないこと。
3 政治資金規正法関係
一般職の地方公務員については、その地位を利用して、政治活動に関する寄附等への関与又は政治資金パーティーの対価の支払を受ける等の行為に関与してはならないこと(政治資金規正法第22条の9)。
4 その他
(1) 選挙運動等の禁止制限規定に違反する行為は、公務員の服務執務違反として懲戒処分の対象となるばかりでなく、上記2の場合にあっては、2年若しくは1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金、選挙権及び被選挙権の停止(公職選拳法第239条第1項第1号、第239条の2第2項並びに第252条第1項及び第2項)、上記3の場合にあっては、6月以下の禁鋼又は30万円以下の罰金(政治資金規正法第26条の4)という処罰の対象となるものであること。
(2) 具体的事例について判断するに当たっては、適宜関係法令や関係判例を参照すること。
※添付資料・(参考)教育公務員の違反行為の具体例
・平成25年執行参議院議員選挙「地方公務員と選挙運動」
(平成25年6月東京都総務局人事部作成)
徹頭徹尾、「べからず」の羅列である。いささかも「このことはできる」との示唆はない。とりわけ、「ネット選挙解禁」を弾みとして、多くの公務員や教員が選挙運動に積極化するのではないかと危惧して、これを抑え込もうとする意図が見え透いている。
この通知では、いかなる教員にも、いかなる時間帯においても、いかなる態様でも、無限定に選挙運動が禁じられているごとくの印象を与える。そのような印象を与えるべく「創意と工夫」に満ちた記載となっており、しかも、懲戒処分だけでなく、刑罰や公民権停止の威嚇までも振りかざしてのものとなっている。これでは、すべての教育公務員が、「選挙に関わりを持つことは面倒」「選挙運動を敬遠した方が無難」という気分にならざるを得ない。それこそ、都教委の狙いであり、思う壺である。
この通知は、明らかに教職員と労働組合の選挙運動参加への萎縮効果を狙ってのもの。その結果としての萎縮の効果は、客観的に政権与党への肩入れにつながる。政治的な意図芬々たる通知と指摘せざるを得ない。
言うまでもないことだが、教育公務員とて国民であり、基本的人権の享有主体である。選挙運動を行う権利、あるいは政治的言論の自由は、教育公務員にも保障される。地方公務員法・教育公務員特例法・公職選挙法などでのその地位に伴う権利の制約は、厳格な必要性・合理性に裏付けられる限りでの制限的なものでなくてはならない。これが大原則である。
都教委の威嚇に怯まず、萎縮しないためには、なによりもまず、この通知の内容を十分に理解しなければならない。都教委の脅しは、地方公務員法・教育公務員特例法・公職選挙法の3法律である(政治資金規正法は無視してよい)。規制対象行為は、政治活動(地公法・教特法)と選挙運動(公選法)である。
まず、上記「1(1)」の「地方公務員は、地方公務員法第36条に基づき、一定の政治的行為の制限がなされていること」だけでは内容不明だが、具体的には36条2項1号に記載のある「選挙又は投票において投票をするように、又はしないように勧誘運動をすること」という政治活動(実質的には選挙運動)の禁止を指す。重要なことは、この禁止規定には罰則がないこと。また、「当該職員の属する地方公共団体の区域外においてはすることができる」と明記されていることである。つまり、教員ではない地方公務員の場合には、選挙運動が禁止される地域は限定され、しかも違反に罰則がない。
上記「1(2)」は、教育公務員には「人事院規則14-7」(政治的行為の禁止)の適用があると指摘する。人事院規則こそ、悪名高い国家公務員に対する人権制約規定であって、その6項8号に「政治的目的をもって、公職の選挙、国民審査の投票において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること」とされている。この点、確かに教育公務員の行為制限は一般地方公務員とは異なり、その制限の地域的範囲の限定もない。しかし、この禁止規定違反にも、罰則の適用はない。
問題は、公職選挙法上の地位利用による選挙運動禁止にある。「公務員がその地位を利用して選挙運動をすること」「教員等が学校の児童・生徒等に対する教育上の地位を利用して選挙運動をすること」とは何であるかを見極めなければならない。
公務員も人権主体であること、選挙に関連する表現の自由という重要な権利に対する制約であることに鑑みれば、その制約の目的や手段を吟味して、地位利用の内容を限定して解釈しなければならない。(以下、明日に続く)
(2013年7月11日)
医療過誤訴訟では、いくつもの興味津々の生体現象を知った。
廃用性機能低下・廃用症候群・廃用萎縮・廃用退化などもその一つ。要するに、使用を怠れば、生体の機能は低下し、萎縮し、ついには退化しなくなってしまう、というもの。これは、奥の深い教訓。当然、法的権利にもあてはまる。法は、「権利のうえに眠る者には保護を認めない」のだ。
公職選挙法の改正によって、今回の選挙からネット選挙が「解禁」された。ホームページ・ブログ・フェイスブック・ツィートなど「ウェブサイトを利用する方法」による選挙運動は自由である。総務省のホームページを参照してネット選挙を使いこなそう。でないと、権利として成熟する以前に、ネット選挙の廃用性機能低下が始まりかねない。
留意点を二つだけ。
まず、「電子メールを利用する方法による選挙運動」については、候補者・政党等に限って「解禁」され、候補者・政党等以外の一般有権者には引き続き禁止されている。この規制は、今回選挙の状況をみて、次の国政選挙までに再考することになっているが、選挙運動を候補者のものとする考えから抜けきらないからこんな発想となる。
では、一般有権者は電子メールによる選挙運動は一切できないのか。そんなことはない。電子メールによる投票依頼は文書の頒布にあたるものとして規制されている。条文は公職選挙法142条1項の「選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する・・・のほかは頒布することができない」と、その脱法行為を禁じる146条1項「何人も、選挙運動の期間中は、いかなる名義をもつてするを問 わず、142条の禁止を免 れる行為として、候補者の氏名・政党の名称を表示する文書図画を頒布することができない」である。
電子メールの送信も、「文書図画の頒布」にあたるとして取り締まられているのだから、そもそも「頒布」にあたらない行為であれば処罰の対象にはならない。
この点について、判例はこう言っている。「同法146条にいう文書図画の頒布とは、文書図画を不特定又は多数人に対して配布すること、を意味するが、右Aに対する名刺の配布行為は、選挙運動の期間前からの一連の不特定又は多数人に対する選挙運動のためにする配布行為中の一にほかならないのであるから、同条にいう文書の頒布というに妨げない」(最高裁判決1961年3月17日)
つまり、送信先が不特定ではなく、多数人に対するものでもなければ、「頒布」にはあたらない。特定された親戚縁者、あるいは友人に対する、多数と言えない範囲のメールは、投票依頼の内容を含むものであっても、頒布にはあたらず規制の対象にはならない。
また、従来から選挙以外での用件で発信する文書に、選挙のお願いを書くことは、選挙運動文書にあたらず差し支えないとされてきた。同様に、メール送信の用件に投票依頼を添え書きすることは取り締まり対象の行為とはならない。
もう一つ。
当然のことながら、ウェブサイトや電子メールを利用した選挙運動に、金が絡めば買収罪が成立する。ブログでの選挙運動に関して金銭の授受があれば、運動買収になる。金を払った方にも、もらった方にも犯罪が成立する。本来、選挙運動は金をもらってやるものではない。この点の潔癖さが少しでも欠けると犯罪者となってしまう。こちらは実質犯で、表現行為そのものを取り締まる不当弾圧とは言い難い。
これまでの典型ケースは、アルバイト気分で選挙事務所で働いて、「労務者」や「事務員」として報酬を受けとった場合、「労務」や「事務」の範囲を超えた選挙運動があったとされての立件。これで立派な運動買収罪の犯罪者なのだ。今後は選挙事務所からの依頼でネット選挙の担当を引き受け、報酬をもらってブログやツィートでの投票依頼を行う犯罪の増加が心配される。
総務省の「想定Q&A」に、次のような記載があり、その厳格さに驚かざるを得ない。
Q 選挙の直前に雇用した事務所の秘書や政党支部職員に、選挙運動用ウェブサイトや選挙運動用電子メールに掲載する文案を主体的に企画作成させ、選挙が終わった直後に解雇した場合、当該秘書等に給与を支払うことは買収となるか。
A 選挙期間を含む短期間だけ雇用した者に選挙運動を行わせ給与が支払われている場合は、当該給与の支払が選挙運動を行っていることに対する報酬と認められる場合が多く、一般的には、買収となるおそれが高いものと考えられる。
教訓を胸に刻んでおこう。選挙は徹底したボランティア。選挙に絡んで、金をもらっちゃいけない。金を配ってもいけない。もちろん、給料保障での選挙運動もダメ。ネット選挙では、このあたりのケジメがゆるみそうだから、ご用心。
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『夜香木(ヤコウボク)』
長さ15センチぐらいの長楕円形のとんがつた、メタリツクグリーンの葉っぱを細い枝に間をおいて風通し良く付ける。常緑かどうかは知らない。西インド諸島原産ということで、関東の冬は落葉して、屋内におかないと越冬できない。
気温30℃ぐらいを越すと、枝先にグリーンの楊枝のような蕾を房状にジャランジャランとつける。蕾ははじめ黄緑の小さな房箒のようだが、だんだんに重くなり垂れ下がってくる。開花すると白くなり、先が五弁に開く。暗い夜はまるで白い線香花火のようにみえる。
そうなってはじめて、名前にたがわず、夜になるとむせかえるような香りを放つ。少し品性に欠けるような、青臭いチョコレートのような濃厚な匂いだ。3日ぐらいするとぴたりと香りはなくなり、楊枝をばらまいたように、花は無残にパラパラと散り落ちてしまう。そのあと枝を切りつめてやると、新しい枝が伸びて、10月末まで、2,3回蕾を付けて、夜の怪しい饗宴を繰り返す。
不思議と昼間はひそとして、何の匂いもしない。この頃東京の戸外で越冬し、温暖化の証拠のように語られ、あちこちでよく見られるようになったエンジェルトランペットも、夜になると良く香る。夏の夜、まとわりつくように漂ってくる匂いに、周りを見回すと、下を向いたトランペットのような大ぶりな花が浮かんでいる。この花も、昼間はしらんぷりをして、夜になると誘いをかけてくる怪しい奴だ。「夜香木」は本場インドのヒンディー語では「ラート・キー・ラーニー(夜の女王)」と呼ばれている。南方の花木は良く香る。
太平洋戦争中、仙台師団の兵士だった芥川賞作家の古山高麗雄は、久留米師団と一緒にビルマ戦線で戦った。インパール作戦ではなく、北部ビルマから中国雲南省方面での闘いに参加したが、筆舌に尽くしがたい凄惨な闘いを生きぬいた。その戦闘を扱った小説を書くために元久留米師団の兵士の話を聞く旅で、「夜香木の香りをかぎ、そうだこの匂いに、ビルマで包まれたことがあると」気づいた。
戦後、慰霊の旅でビルマに行った人がこの灌木を持ち帰って育てている。「私はビルマで、この低木を夜香草と呼んでいた。確かな記憶ではないが、シヤン高原で野宿をした時に、私はこの匂いに包まれたような気がするのだ。戦場でマラリアになって野戦病院から兵站病院に移された。兵站病院を退院した時、自分の部隊の所在がわからず、野宿したりしながら探し歩いたことがあった。あのとき、楽しんだ匂いのような気がするのだが、どうなのだろうか。いずれにせよ、私はその匂いのもとを、手にとって確かめたりしなかったのだ。あれから半世紀もたった今頃になって、ああこれがの芳香の木か、と眺め、その花の開閉に感じ入っているのである」と書いている。
物資の補給も途絶え、飢餓、マラリア、雨期の雨の中を敵弾に追われ、伸び伸びた戦線の末端を這い回る兵士たち。インパールから敗退する道は屍が累々と横たわり、「白骨街道」といわれた。雲南戦線を含めて、ビルマ戦線に投入された兵士は33万人、そのうち20万人近くが戦没した。「夜香木」はそのように無残に死んでいった兵士にたむけられた香華であった。
(2013年7月10日)
共産党は、この度の参院選において、選挙区選挙に46人(沖縄を除く全選挙区)、比例代表区には17人の候補者を立てている。大量候補者の擁立は全国規模での党勢拡大の観点からは不可欠だが、ご存じのとおり供託金の金額は半端ではない。選挙区では一人300万円、比例区では600万円だから、総額2億4000万円となる。政党助成金制度を憲法違反として1円の交付も受けていない共産党には、大きな負担となっている。
供託金は、候補者の得票が少なければ没収される。
選挙区では得票が有効投票総数を議員定数で割った(一人区なら1で、2人区なら2で割った)数の10分の1未満の場合に全額が没収となる。
比例代表区では、当選者数の2倍に600万円を掛けた金額を超える分が没収される。したがって、17人のうち5人が当選すれば、10人分の供託金6000万円が返還される。没収は7人分の4200万円となる。これが、4人当選だと8人分4800万円が返還で、5400万円が没収となる。当選者一人の差が、1200万円の返還金額の差となる。
あなたの一票が、選挙区選挙でも比例代表区選挙でも、大きな財政支援につながる。その意味でも、一票が大事なのだ。
政党や立候補を志す者にとって、この高額な供託金制度は明らかなアクセス障壁となっている。この制度をどう考えるべきか、また、どう克服すべきだろうか。選挙権の問題ではなく被選挙権の問題であるだけに、熱く語られることは少ないが、重要なことと思う。
東京都知事選挙の供託金が300万円と聞かされて、「意外と少額」との感想もあるのではないだろうか。首都の知事たらんとする者には、そのくらいの金の用意は当然にできるだろう、という常識的感覚である。しかし、共産党の参院選供託金の合計額が2億4000万円と聞けば高額に過ぎると思うののも、常識的感覚ではないだろうか。なんとなく、供託金制度は当たり前で、当該の選挙との兼ね合いで、金額の多寡だけが問題という「常識的感覚」である。
しかし、ことは憲法の視点から考察すべき問題である。そして、憲法上の原則を踏まえてなお、供託金制度の存在を合理化する理由があるかを考察しなければならない。この点で、「ウィキペディア」の『供託金』についての記述に拠ったと思われる、かなりの数の文章を目にする。「調べてみたら…」というのが、明らかに「ウィキペディア」の丸写しであることが明瞭でシラける。「ウィキペディア」の影響力恐るべしである。「ウィキペディア」の記述には敬意を表することが少なくないが、『供託金』の項については不満が残る。憲法的な考察にまったく言及がなく、選挙公営について論じるところが欠けているからである。
我が国の選挙制度の歪みは、1925年の改正衆議院議員選挙法(いわゆる「普通選挙法」)に始まる。このときそれまではなかった「立候補制度」が初めて導入され、これに伴って立候補の要件としての供託金の制度もつくられた。
時の若槻内閣が「英国の制度に倣ったもの」という提案に対して、「2000円の供託金額が高額に過ぎて、普通選挙の趣旨にそぐわない」との議論もあったが、政府原案のとおり成立した。没収点についての定めは、このときに作られたものが基本的に現在に至っている。
戦後、明治憲法下の衆議院議員選挙法から、日本国憲法下の公職選挙法に変わった。にも拘わらず、旧法そのままの制度が生き残っている。これが、違憲ではないのか、問題とならざるを得ない。
選挙権・被選挙権は、基本的人権ではなく資格(権利能力)に過ぎないという議論がまだ根強い。とりわけ、被選挙権については憲法上直接の根拠規定がないから、かつての最高裁判例もそのような立場をとっていた。これを変更して、「憲法15条1項に規定はないが、被選挙権、特にその立候補の自由もまた同条同項の保障する重要な基本権の一つと解すべきである」(1968年3月12日最高裁大法廷判決)というのが現在の判例。
被選挙権・立候補の自由が基本的人権であるとすれば、軽々にこれを制約することはできない。供託金制度の違憲を争った判例はまだないが、供託金制度が立候補の障害となっている以上は、供託金制度を簡単に合憲と言ってはならない。立法裁量の範囲だからとか、国会が決めたルールだからとかという理由では、立候補の自由制約は許されない。目的・手段・目的と手段の関連性という3ステージにおいて、厳格な違憲審査基準のテストをクリヤーしなければならない。
供託金制度創設の趣旨は、1925年若槻内閣時代から、「当選の目的をもたず、他人の当選を妨害する立候補などの弊害を防止すること。立候補に慎重ならしめ、いわゆる泡沫候補の輩出を防止すること」とされた。近年は、これに加えて選挙公営の費用負担が大きな合理的理由とされている。
一切の公営を排した資金自由の選挙モデルは一つの典型としてあり得よう。経済的格差も、国民の支持の大小を反映してるのだから、資金力を含めての獲得運動を肯定する立場である。このような制度には選挙公営の資金預託という意味での供託金制度は存在し得ない。しかし、経済的弱者に選挙運動における実質的平等を確保せしめる見地からの選挙公営の制度はそれなりの合理性を有する。ウィキペディアは、「諸外国では供託金が低額、あるいは制度そのものがない」としているが、選挙公営との関連性を論じていないことから説得力をもたない。
私は、選挙公営による実質的な候補者間の平等を確保するという制度の目的を徹底する限りにおいて、厳格な審査基準を適用してなお、供託金制度を合憲とする余地があると思っている。ただ、そのためには、供託金制度が真面目な立候補者のアクセス障害になってはならない。供託金の金額は現行の10分1程度にすることを考えるべきだと思う。
共産党が全国に候補者を立てて存分に選挙運動を行い、自らの主張を国民にアピールする、そのための供託金2億4000万円はあまりに高額に過ぎよう。金額が2400万円程度であれば、そして選挙公営の十分な見返りがあれば、立候補の自由を人権としながらも、実質的な競争力平等確保の目的を肯定して、制度の合憲性を認めてもよいのではなかろうか。
そのような制度改正まで、それぞれの政党の支持者は、応分のカンパを覚悟しなければならない。
(2013年7月9日)
私は、今回の参議院選挙を、日本国憲法の命運がかかった大事な選挙だと思っている。だから、いつになく、知り合いの人々に投票をお願いしている。憲法を守る候補者、改憲阻止を明確にしている政党への投票を。そして、できることなら、日本共産党を選んで欲しい。
改憲勢力の中心に「自民党」がいる。昨年4月に「自民党・日本国憲法改正草案」を公表している。とんでもない代物だ。人権や民主々義、平和を大切と考える国民は、まず自民党と対決しなければならない。アベノミクスの「成果」などに欺されてはいけない。
自民党のさらに右側に、「日本維新の会」と「みんなの党」が位置している。この2党は、自民党がはっきりとは言いにくいことを、自民党に代わってズケズケと主張する「自民党補完勢力」となっている。この2党の主張は、ちっとも新しくはない。むしろ、極めて古くさい。主として、維新が政治的な国家主義の側面を、みんなが経済的な新自由主義の側面で、国家や資本のホンネを言い放つ役割分担をうけもっている。
この「自・維・み」の3党が、積極改憲勢力。もちろん、このような政党や主張に存在理由がないわけはない。一握りの大企業や、権力を握る位置にあるものの代弁者としてである。大多数の庶民にとって、この3党に投票することは自らの首を絞めるにひとしい。けっして、こんな政党に投票してはいけない。
公明党という宗教政党は、信仰をエネルギーとした選挙運動で一定数の議席獲得に成功している。客観的には、その支持層の利益が自民党と同一であるはずはないのだが、自・公の保守連立政権が成立し、不思議な両党持ちつ持たれつの関係が続いている。この党も、きっぱりと「改憲阻止」とは言わない。「加憲」という不思議を唱えて、自民党と友党の関係を保つ姿勢を変えない以上は、改憲勢力の一翼を占めるものと指摘するしかない。
民主・生活・みどりの風・社民党という各党は、いずれも「中間政党」として、対決する自・共の両端の間に、それぞれの位置を占めている。このような政党よりは、最も主張に筋が通り、議席が力となる日本共産党の選択をお薦めする。
参院選では、一人の有権者が2票を投じる。「選挙区選挙」と「比例代表選挙」とだ。「選挙区選挙」では立候補者の氏名を記載するが、「比例代表区」では政党名で投票ができる。「日本共産党」への一票をお願いしたい。自分で資料を集めて、よく考えて決めていただきたい。
私は、日本国憲法がこれ以上ない理想の憲法だなどと思ったことはない。いくつもの不満点を挙げることができる。なかでも、第1章が「国民主権」から始まるのではなくて、「天皇」から始まっていることには、時代の制約を嘆かざるを得ない。象徴としてでも天皇という存在が憲法に残されていることは、主権原理や人権や平等が不徹底であることの表れである。
とはいえ、日本社会の現状をみれば、66年前に制定された「日本国憲法」が、いまだに日本の現実をリードする理想としての輝きを失っていないことは明らかだと思う。この憲法の中心を貫く基本的人権という思想、民主々義という優れた手続的原則、そして民族の悲惨な体験と反省から生まれた恒久平和主義。現行憲法が憲法である限りは、このような理念を支える各条項が社会をより良い方向に変えていく武器として活用可能なのだ。だから、憲法は有用であり、限りなく貴重である。
いま、この憲法を邪魔として改憲をたくらむ諸勢力は、国民個人ではなく国家や社会を根源的な価値とする。人権ではなく秩序を重んじる。働くものの権利を切り捨て、企業活動の自由を最優先しようという連中なのだ。
多くの庶民にとって、改憲は何の利益ももたらさない。憲法を全面的に活用することこそが、今最も大事なことだと思う。日本共産党は、そのような立ち場に立つ政党として信頼に値する。原発・雇傭・景気・税制・外交・平和・教育・福祉等々の各分野での共産党の筋の通った政策に耳を傾けていただきたい。
私は、日本共産党が欠点のない理想の政党などと言うつもりはない。批判を要するところも多々あると思っている。しかし、この政党が、改憲阻止勢力の中心にあって頼むに足りる存在であることを疑わない。そして、これだけ国民の利益に役立つ存在でありながら、議会に議席が過少であることを残念に思っている。
なぜ共産党の議席は少数なのか。一口で言えば、社会に故なき反共の雰囲気があるからだ。かつて、共産党は国賊であり非国民だった。明らかに「国体を変革し、私有財産を否定する」思想を堅持し、そのために治安維持法その他で、野蛮な天皇制から徹底した弾圧を受けた。国民の利益を追求した活動で受けた弾圧であったが、多くの国民から感謝されたわけではない。むしろ、「共産党の同調者とみられることは、非国民と同類と思われる恐ろしいこと」とという社会感情が蔓延した。
天皇制とたたかった共産党は、戦後には一部の人からは尊敬を受けたが、多くの国民にとっての「共産党に近いとみられたくない」という感情は広く残った。日本の社会の実質が大きくは変わらなかったからだ。戦後日本の政権を担った保守的な支配層が、その雰囲気を煽った。
会社でも、官庁でも、「共産党の支持者」と疑われるだけで、不利益を覚悟しなければならない雰囲気は今でも残存している。いじめの現場を目撃しながら、いじめられっ子に味方をすると自分までいじめられるから、いじめを見て見ぬ振りをする。反共意識とは、案外そんなものかも知れない。
私は、このような共産党支持を公にできない社会の雰囲気を払拭しなければならないと思う。だから、私は共産党の支持者であることを隠さない。とりわけ私は自由業。どこの政党を支持したとしても、だれからもにらまれることはない。声を大きくして、共産党をお願いします、というべきだと思っている。このことは、共産党にとってだけでなく、民主々義にとっても、大切なことだと思う。
重ねてお願いする。一人ひとりが住みよい社会をつくるために、大切な憲法の守り手になっていただきたい。憲法の擁護に力を貸していただきたい。そのために、今度の参議院議員の選挙では、改憲阻止の最も確実な担い手である日本共産党に支持をお願いしたい。その一票が、憲法を擁護し、社会を変える力になるのだから。
(2013年7月8日)
本日の参院選の争点をめぐるNHK党首討論に耳を傾けた。
はからずも「自共対決」の構図が明確となっている。これまで、メディアでは「自民対民主」という二大政党対立の論議がお約束だったはず。ところが、民主党の存在感が希薄となってNHKの司会者も自共対立を軸とした進行をせざるを得ない。確実に空気は変わっている、との印象。
もう一つ。自民党の右からの応援団として維新とみんなのあることも明瞭となっている。安倍自民の危険は言うまでもないが、維新・みんなも恐るべき政党。ホンネでは思っていても、さすがに自民では口にできないことを堂々と(むしろ、ぬけぬけと)言う役回りなのだ。新自由主義政党というよりは、資本の強引な新分野進出を後押しする、新たな利権集団というべきだろう。その批判は、いずれまとめてみたい。
主要論点の一つとして、改憲問題についても議論が行われた。共産党・志位さんと、民主党・海江田さん、社民党・福島さんが、自民党改憲草案を批判したのに対して、安倍晋三が次のように言い訳をしている。
「我が党の改憲草案を誤解している。草案は、国民主権・平和主義・基本的人権の3本の柱については尊重することを明記している」「徴兵制などは考えていない」「『公益および公の秩序』によって人権が制約されるというが、現行憲法の『公共の福祉』による制約をわかりやすく書き換えただけ」
安倍は、改憲の必要性を積極的に語ることができない。今、憲法を変えようとしている政党の党首として、現行憲法の不都合と、改正の方向とを熱く語るべき機会にそれができない。改正案の危険性を突っ込まれて、いや大綱において現行憲法と変わらないと言い訳をしているようでは、それだけで議論の大局において「負け」である。
しかも、その言い訳も無力である。現行憲法と変わらないものなら、改憲の必要はない。明らかに、変える必要があるから改憲案を策定しているのであって、異なるものとなっていればこその「憲法改正草案」ではないか。
確かに、草案の前文には、「国民主権」・「平和主義」・「基本的人権」という言葉が、この順序で出てくる。しかし、その内実は日本国憲法が熱く語っているものとは、明らかに異なる。国民主権は、元首たる天皇を戴いたものとしての「萎縮した国民主権」となり、平和主義は創設された国防軍と共存する「軍国主義下の平和」となり、基本的人権は公益・公序優先の下、切り縮められたものとして「人権の名に値しないもの」となっている。
安倍晋三の法的知識のレベルについては、大学で学生に憲法を教えている研究者から、次のように指摘されている。
「安倍首相は法学部(成蹊大学法学部政治学科)出身なのに、立憲主義も国連決議も国連憲章もよく理解していないように見えます。その無知ぶりは法学部出身者として恥ずかしいレベルですし、憲法尊重擁護義務がある首相として、国民からすると大変危険です。安倍首相にはきちんと勉強し直してほしいですし、国民も国会議員を選ぶ際にきちんと見極めて選んでほしいものです。メディアも問題点を指摘しないのは困ったものですが。」(清水雅彦日体大准教授7月5日ブログ)
私は学生のレベルを知らないが、この指摘には肯ける。
「『公益および公の秩序』によって人権が制約されるというが、現行憲法の『公共の福祉』による制約をわかりやすく書き換えただけ」は、明らかなウソである。そもそも、自民党の公式解説である「Q&A」は次のとおり書いている。全文を引用する。
Q14 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?
答 従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。
今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。
なお、「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。
キモは、「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした」という点にある。人権とは至高の価値である。本来、人権は衝突する人権との調整によってしか制約し得ない。これは公理である。にも拘わらず、これまで人権は、常に秩序維持を名目として権力によって抑圧されてきた。だから、軽々に、国家秩序や社会秩序によって人権を制約してはならない。堂々と「社会秩序」維持のための人権制約を憲法に書き込もうという自民党草案は歴史に逆行するものというほかはない。
なお、このような議論の席では、必ず、自民党改正草案21条2項を取りあげていただきたい。これが、自民党の危険なホンネを語ってわかりやすい。
第21条1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2項 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
2項をわかりやすく展開すれば、
「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行うことは認められない」
「公益及び公の秩序を害することを目的として結社をすることは認められない」
治安維持法の自民党版にほかならない。共産党のみならず、すべての市民運動もリベラル派も宗教者も、ことあるごとに、これを問題にしなければならない。
なお、安倍は、憲法改正案をつくるのに、自民党案にはこだわらないと発言した。「政治は現実ですから」とも言った。自民党がやりたいことも、他党の支持がなければできない現実がある、という意味なのだろう。そのとおり。大切なのは現実だ。到底改憲などはできない現実をつくり出そう。まずこの参院選を第一歩として。
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『尖閣想定の強襲上陸訓練 「ドーン・ブリッツ」(夜明けの電撃戦)』
自衛隊が、「海兵隊」機能の装備を着々と準備しつつある。アメリカのサンクレメンテ島で米海兵隊の指導のもと、陸海空の自衛隊員1000人が参加して島の奪回訓練が行われた。6月10日から26日までのこと。習近平・オバマ会談が行われた同月7日・8日の直後のことになる。
「ドーン・ブリッツ」という言葉でネット検索すると、映画「プライベイト・ライアン」さながらの場面を見ることができる。イージス艦「あたご」、揚陸艦「しもきた」、護衛艦「ひゅうが」のご活躍だ。「ひゅうが」にはオスプレイが着艦し、羽を折ってエレベーターで滑走路の下に収納される。「しもきた」から放たれた、LCAC(ホバークラフト型揚陸艇)は砂煙を上げて島に上陸し、そこからは武器弾薬をつんだ大型トラックや自衛隊員が出てきて、作戦行動を展開する。
防衛省は今年12月に改訂しようとしている「防衛大綱」に「海兵隊」機能を盛り込もうとしている。尖閣諸島が武力侵攻される事態を想定し、奪われた離島を奪還する機能が必要だとして、そのための部隊、兵員、装備が増強される。
第一次安倍内閣で安全保障担当の内閣官房副長官補だつた柳澤協二氏は「尖閣の取り合いなんて本当にあるのか。陸上自衛隊の生き残りにすぎない。冷戦当時の大規模侵攻に備えた戦車、大砲を捨てることもせず、手を広げている」(東京新聞7月6日)と批判している。
「ドーン・ブリッツ」のサンクレメント島はカリフォルニア州。習近平・オバマ会談が行われた同州パームスプリングスとは目と鼻の先。尖閣問題を意識しての軍事演習が、中国首脳の訪米時期に接近して、しかも首脳同士の会談の場所のすぐ近くで行われたのだ。明らかに挑発行為・威嚇行為というべきだろう。同じことを日本がやられたら、黙ってはおられまい。外国との紛争は軍事力の威嚇によってではなく、政治、外交交渉で解決すべきだ。それを、軍事的に威嚇し挑発している。相当に危険だ。
しかも、自衛隊とは軍隊ではなく、あくまでも自衛のための実力部隊である。したがって、外国への攻撃や上陸を任務とする装備や編成はあり得ない。それが、日米合同で強襲上陸訓練が行われている事態を迎えているのだ。「改憲阻止の壁」構築の緊急性を物語っている。
参院選では「海外にまで出て行く国防軍」創設へ道を開く改憲勢力と「憲法9条を守って平和外交」をめざす護憲勢力のどちらを選ぶのか、国民のひとりひとりが選択を問われている。
(2013年7月7日)
参議院の議席総数は242。憲法改正の発議に必要な、その3分の2は162議席である。
非改選議員121人のうち、自民・維新・みんなの「積極改憲3派」議員数の合計は、自50・み10・維1の合計62人。今回参院選で、これに100議席を加えれば、162議席となって参議院の「3分の2ライン」に到達する。
さて、本日の朝日・毎日・読売・日経などが、「世論調査による序盤の選挙情勢」を報じている。調査結果はいずれもよく似た内容。
朝日は、各政党の予想獲得議席を「下限?中心?上限」で表している。その中心値で、自民68・みんな7・維新6の合計81である。上限値でも合計92で、100議席のラインには届かない。この改憲3派だけでは3分の2ライン到達の現実性はなさそう。
もっとも、自民と連立を組む公明を改憲勢力に入れて「改憲4派」となれば、話しはちがってくる。非改選の公明議員が9人いるから、非改選の改憲派合計議席は71。改憲4派が今回改選で91議席とれば、「3分の2ライン」に到達する。朝日の中間値は自民68・みんな7・維新6・公明10の、ぴったり91議席。「3分の2」の発議要件をクリヤーする人数となる。
読売は、このことを「自民党、公明党、日本維新の会、みんなの4党で、非改選議員を合わせると参院の3分の2(162議席)に届く可能性がある」と報道している。心なしか、「嬉しげに」である。議員の数だけに単純化できる問題ではないが、容易ならざる事態ではある。
かつては、両院に日本社会党を中心とする「3分の1の護憲の壁」が築かれていたが、今その壁はあとかたもない。これから、新しく築かねばならないが、今回参院選をその第一歩としたいもの。その観点から注目すべきは、共産党の健闘ぶりである。各紙とも、共産党の大幅な議席増を予測している。
朝日は「4?6?8」、毎日は「5?8」、読売も「倍増の可能性」、日経は「維新、みんな、共産の3党はしのぎを削る」との表現。この党の、この議員が、改憲阻止の壁の土台となり、芯をつくる。
この情勢は参院選の前哨戦と位置づけられた、都議選の結果からの勢いである。震源地の東京での政党支持率調査は以下のとおり。
「毎日」 自民32、共産7、民主6、公明6、みんな5、維新4
「読売」 自民40、共産7、民主7、公明4、みんな5、維新3
首都だけをとってみれば、共産党は自民党に対抗すべき第2党の地位を固めている。この勢いは、他の地域に伝播していくことになるだろう。政策の内容においては以前から自共対決であった。のみならず、支持の勢力の大きさにおいても、自共対決の時代の到来を予感させる。
今、改憲を阻止する最も確かな保障は共産党を強く大きくすることである。議会内に確呼たる共産党の存在があって初めて、院外の諸運動も勢いづくことになろう。
(2013年7月6日)
一昨日(7月3日)、参院選公示前日の与野党党首討論会の席上で、共産党の志位委員長が、自民党から日本建設業連合会宛に献金要請があることを暴露した。その金額は4億7100万円。これは、大事件である。にも拘わらず、メディアの取り上げ方があまりに小さい。どう考えても不自然。
敏感に反応したのは、畏友阪口徳雄君。早くも昨日付のブログで、「参議院選挙に関しての寄付要請であると認められ、公職選挙法違反!!」と指摘している。本日の私のブログは、阪口意見を補充するもの。
赤旗の記事によると、志位さんの発言は以下のとおり。
「志位: 安倍さんに質問いたします。ここに今年2月、自民党の石破幹事長をはじめ三役連名で出された文書があります。ゼネコンなどで構成する「日本建設業連合会」にあてた政治献金の要請文です。私たちの「しんぶん赤旗」日曜版が入手したものです。要請文には、自民党の政治資金団体である国民政治協会の文書が添えられております。そこでは、自民党は「『強靱な国土』の建設へと全力で立ち向かっており」、こうした「政策遂行を支援するため」献金をお願いしたいと述べ、「一、金 四億七千壱百萬円也」と金額まで明示しております。まるで請求書です。「国土強靭化」とは10年間で200兆円という巨額の公共事業を進めるものですが、その見返りに金額まで明示して政治献金を求めるーこれは文字通り政治を金で売る、最悪の利権政治だと思いますが、見解を求めます。」
共産党も志位さんも品がよいから、「自民党のやったことは犯罪だ」と決め付けはしない。自民党が文書で要請した献金を「政治献金」だとして、極めて押さえた発言となっている。押さえてなお、「政治を金で売る、最悪の利権政治だと思います」との指摘となっている。この献金要請にゼネコン側が応じたとすれば、こちらの方は「政治を金で買う、最悪の利権行為」と指弾されなければならない。
企業とは利潤追求を目的とする存在である。企業がする政治献金は、自社の利益のためにする支出でなければならず、企業利益を目的とした手段としての政治利用の対価にほかならない。基本的に賄賂と異なるところがないのだ。ところが、政治をゆがめる企業献金も、政治資金規正法は全面禁止とはしておらず、自民党は政党助成金も企業献金も、両方を手にしている。これでは、労働法制も企業税制も、企業の望むとおりとなることは必定ではないか。自民党が政権を担っている限りは、実質において、「企業の企業による企業のための」政治となるざるを得ない。「政治を金で売買する、最悪の利権屋政治」の横行である。
以上は、要請の献金を政治資金と理解した場合の話し。要請の献金が特定の選挙との関連性ありと認定されれば、公職選挙法上の「特定の寄附の禁止」条項に該当して犯罪となる。要するに「金で選挙を買う」悪質な実質犯の一つである。関連条文は以下のとおり。
第199条 衆議院議員及び参議院議員の選挙に関しては国と…請負その他特別の利益を伴う契約の当事者である者は、当該選挙に関し、寄附をしてはならない。
第200条1項 何人も、選挙に関し、第199条に規定する者に対して寄附を勧誘し又は要求してはならない。
2項 何人も、選挙に関し、第199条に規定する者から寄附を受けてはならない。
第248条1項 第199条第1項に規定する者(会社その他の法人を除く。)が同項の規定に違反して寄附をしたときは、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
2項 会社その他の法人が第199条の規定に違反して寄附をしたときは、その会社その他の法人の役職員として当該違反行為をした者は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
第249条 第200条第1項の規定に違反して寄附を勧誘し若しくは要求し又は同条第2項の規定に違反して寄附を受けた者(会社その他の法人又は団体にあつては、その役職員又は構成員として当該違反行為をした者)は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
日建連の正会員たるゼネコン各社が、「国と請負その他特別の利益を伴う契約の当事者である」ことは自明と言って差し支えなかろう。すると、犯罪の成否は、本件4億7100万円の寄付要請が、「選挙に関しての」ものであったと言えるか否かにかかっている。強要も利益誘導も要件ではない。
自民党3役と財務委員長・経理局長の5名と国民政治協会の会長は248条で、この寄付要請に応じた各社の役職員は249条で、「3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金」に処せられることになる。
4日付の赤旗に、2通の献金要請書の全文が掲載されている。その一通が、「財団法人国民政治協会から社団法人日本建設業連合会宛の、4億7100万円という金額を明記したもの」。もう一通が、「自民党(幹事長石破茂以下5人の連名)から社団法人日本建設業連合会宛の金額の記載ないもの」。いずれにも、「寄付」「寄金」「献金」という言葉はない。金額だけを記載して、「何卒よろしくご協力を賜りますようお願い申し上げます」でわかり合える間柄なのだ。
2通の要請文書の日付は、いずれも「平成25年2月」である。その時期と、要請の文言、金額、そして自民党とゼネコンという当事者の関係から、選挙との関連性を見極めなければならない。
文書の文言は、「本年夏には、参議院選挙が行われます。ねじれ状態を解消してこそ、はじめて安定した政治を行うことが可能となります」「国民国家のために、我々はこれに勝利し、安定政権を打ち立てなければなりません」。そう明記したうえで、「御協力方につきましては、わが党の政治資金団体であります一般財団法人国民政治協会より別途お願いを申し上げていることころでございますが、何卒御高配賜りますよう重ねてお願い申し上げます」というものである。
5か月先の参議院選挙を明示し、「ねじれ状態を解消してこそ、はじめて安定した政治を行うことが可能となります」「これに勝利し、安定政権を打ち立てる」ために、「御協力をお願い」というのである。これで、「参院選に関しての寄付要請」と認定することになんの躊躇が必要であろうか。これは、「最悪の利権政治」という道義的責任のレベルではない。明らかに公選法上の犯罪というべきである。
なお、4億7100万円という切りの悪い金額は、何らかの基準によって計算し算出した金額であることを窺わせる。おそらくは寄付金の総枠規制を考慮した個別企業への割付を行ったものであろう。背景に算定根拠がある以上は、「1円も欠けてはならない」とする迫力を感じさせる。当然のこととして、他の業界にも同様の寄付要請があろうことも推察させる。
自民党は、今進行している参院選を、このような汚い金を潤沢に注ぎこんで有利に展開している。妥協のない徹底した追求が必要である。
(2013年7月5日)
いよいよ、本日参院選公示。憲法の命運を決することになるかも知れない選挙戦がスタートした。選挙の争点は、数々あるだろうに、どの新聞にも「ねじれ解消」という大きな活字が踊っている。
もちろん、紙面すべてがそうではない。「青森の大間原発の近くで、エコエネルギーで暮らす漁業手伝い小笠原厚子さんは、与党が強調する衆参の『ねじれ解消』に異議を唱える。『ねじれがあるからこそ、原発問題が慎重に論議されてきた。』」(朝日新聞)と「ねじれ」を評価する。
全くその通りだ。「ねじれ」を解消すべきだと騒いでいるのは、自・公の与党とマスコミだけのこと。そもそも「ねじれ」が無かったら、大政翼賛ではないか。むしろ、二院制の下で、「ねじれ」は健全な現象。下院との「ねじれ」がなければ、上院は無用の長物と化す。マスコミが与党の尻馬に乗って「ねじれ解消」などと言っているのは言語道断、役目放棄だ。
普通の生活者は「アベノミクス」はうさんくさいと思っている。インフレ、消費税増税、社会保障の切り下げはごめんだ。96条などもちだす憲法改悪なんかにだまされない。安保条約のうえにTPPにまで加入して、これ以上アメリカにがんじがらめにされたくない。
そんな思いの生活者は自民党と公明党が衆議院で我が世の春を謳歌しているのを見ながら、なんかおかしいと思っている。「ねじれ」というなら、そうした人々の思いと衆議院の議席数の齟齬こそ正真正銘の「ねじれ」ではないか。
小選挙区制がつくり出す、国民の意思と議席とのねじれ。世論と政権とのねじれ。憲法の理念と政権与党の政策とのねじれ。解消すべき本物の「ねじれ」と、解消する必要のない「ねじれ」とを見極めねばならない。
今回の参院選で、与党のいっている「ねじれ」の解消とは、多数派政党のほしいままの横暴を許せと言っているのだ。こんな「ねじれ」の解消は絶対にさせてはならない。
みんなで「ねじれよねじれもっと大きくなあれ」と力を合わせることこそ必要だ。
日経新聞は「『待ちに待った一票』13万6000人が対象に 成人後見付いた人に選挙権」という記事を載せている。「浅見寛子さんは意中の候補の名前を書く練習をして投票に臨む。姉で成人後見人の豊子さんは妹の選挙権を回復するための訴訟を続けてきた。投票後『両親の墓前に報告するつもり』という」。こうした人たちの思いが反映する、「十分にねじれた」選挙結果にしたいと思う。
毎日新聞で、コラムニスト辛酸なめ子さんは今回の選挙を「自民党の勢いが増すばかりで、これに乗るしかないみたいな空気だ」といって、『オラオラ選挙』と名付けている。「オラオラ」邪魔だ邪魔だと、弱いものをけちらし、せき立てるような選挙であってはいけないと思う。よくよく考えて、与党をギャフンと言わせてやるような、おおきな「ねじれ」を作り出そうじゃありませんか。
(2013年7月4日)
参院選公示日の前夜である。この参院選が、もしや、憲法の命運を決める選挙となるかも知れない。明日も雨天の予報。重苦しさは拭えない。
前哨戦としての都議戦では、悲観の一面が大きかった。自公は確かに強さを見せた。アベノミクスの馬脚が露顕するまでは、この基本情勢に変化はないかと思われる。
他面、自公の政策に対決する受け皿として、共産党の存在が俄然注目されるようになった。これは貴重なことだと思う。いくつもの調査結果において、これまでなく無党派層の投票先が共産党になったと報告されいる。
大局的に国民の投票行動を見れば、次のようなことと言えるだろう。
2009年の総選挙が時代を画するものであった。それまで、自公政権の新自由主義的政策は格差を拡げ貧困を蔓延させた。安倍一次内閣の保守的姿勢にも国民の不安は募った。こうして、自公政権はジリ貧となり、自公政治にアンチテーゼを掲げた民主党が09年に政権を獲得した。ところが、その民主党は、経済・外交・雇傭・福祉・原発問題等々で国民への公約を裏切り、急速に信頼を失った。こうして、2012年12月総選挙で、民主は大敗し再び自公に政権を明け渡した。しかし、自公の勝利は、民主の大敗の裏返しでしかなく、09年の得票を上回る得票獲得はは成らなかった。09年の民主の大量票の多くが、棄権と「第3極」に流れた。
自民に欺され、民主に裏切られた、そう考える人々の多くは、「自民回帰」「第3極」「棄権」の3選択肢が意識された。総選挙までは。
その様子が変わって、都議選では共産党という新たな受け皿が、現実的な選択肢として意識されるようになった。理由はいろいろあろうが、政策が一貫し、明快で、しかもぶれないことが評価されてきたのだろう。
「共産党の理論や政策はもっとも筋が通っていてるが、投票しても当選しそうにない。死票にするのはもったいないから、アンチ自民で当選しそうな政党に投票する」という一群の投票行動があったと思う。
しかし、事態は変化してきた。そもそも、自公に対決する政治勢力の本流が共産党となったではないか。まともなアンチ自民勢力は共産党を措いてないに等しい状況ではないか。憲法・原発・福祉・雇傭・教育・格差貧困・経済・財政・外交・安全保障…、いかなる分野でも、自公対共産の対抗軸で政策が争われている。
共産党の政策はよいけど、投票はそれに近い中間政党に、という途中下車の必要はない。途中下車こそがもったいない。大切な一票を生かしきるためには、「第3極」や中間政党に途中下車することなく、目的地までのご乗車をお薦めする。そうでなくては、せっかくの乗車の甲斐もなくなる。
この1年、自民党の「日本国憲法改正草案」をサンドバッグのごとくに叩き続けてきた。保守政党から右翼政党に変身した自民党のホンネをさらけ出したものとして、突っ込みどころ満載。自民党とは何物であるのか、これ以上に雄弁に語るものはない。ようやくにして、その内容は多くの人々に知られるようになって、参院選の争点として恰好のターゲットとなるはずだった。
ところがどうだ。本日の「毎日」一面に、「自民、改憲草案見直しへ」「発議要件・表現の自由焦点」の見出し。記事の内容は「党内の不満が96条の改正にとどまらず、草案全般へ波及している」「参院選後に本格的な作業に着手する見通し」という。おいおい、サンドバッグを引っ込めようというのか。では、今回選挙では、改憲問題をどう訴えようというのか。
同紙2面の「憲法改正考/上」というコラムには「『野党・自民』草案右傾化」「党内に異論・不満も」という見出し。いったいなにゆえに、かような右寄り草案となったかの事情が書かれている。どうやら、下野した自民党が「政権奪還を目指し、選挙で保守層に呼びかける意図」からのものということのようだ。いずれにせよ、自民党のコアな支持層にフィットしようとすれば、このような古色蒼然たる右翼的改正草案の形とならざるを得ないのだ。
政権に復帰して、事情は変わったということらしい。「自民党中堅議員は『地元の支持者には自民党の改正草案を、最近、初めて知った、という人が多い。あまりに保守色が強すぎて評判はよくない』とこぼす」とのことで、そのような中堅層の意見を容れて保守色を薄めようというものらしい。とはいえ、具体的にどのような案になるのかは、今のところ見当もつかない。
さて、一面、批判は通じるものだという感慨を禁じ得ない。多くの人の声は、確実に政権政党にも届くものとなるのだ。政権政党とて、正論には耳を傾けざるを得ない。そのような小さな勝利感はもってもよかろうと思う。
他面、自民党の変わり身の早さに驚かざるを得ない。選挙に勝つためであれば、何でもやる。何でもありなのだ。選挙を目前に、上手に本心を隠そうという票遁の術。これに欺されてはならないと思う。
私は心から思う。この改憲草案は、記念碑的存在である。消し去るにはまことに惜しい。無形文化遺産として永遠に残しておくべきである。21世紀に入っての我が国の政権政党のホンネを語る資料として。また、その知的水準を示すものとして。
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『元防衛官僚の反省』
今話題になっている「検証 官邸のイラク戦争 元防衛官僚による批判と自省」(柳澤協二著 岩波書店)を読んだ。
著者は防衛審議官、防衛庁長官官房長を経て、02年に防衛研究所所長となり、04年から09年まで内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)を歴任した。「小泉、阿部、福田、麻生4代の総理に仕え、官邸の安全保障戦略を実施する立場で政権を支えてきた」人である。
「国際法的に乱暴とも見えるイラク戦争を支持し」たのはルール無視のイラク以外の国の思惑を放棄させるためであったという。ところが、その後イランも北朝鮮も、核戦争の野望を捨てないどころか、着々とその能力を高めている。「自分のやってきたことは意味があったのだろうか、との疑問がこの本を書いた動機」だと述べている。
以下要旨。
「そもそもイラク戦争は、『国際紛争を解決するための武力行使』として、日本国憲法によって禁止され、政府が一貫して否定してきた類いの戦争であった。それなのに同盟維持や防衛力強化を任務としていた自分たちは、『アメリカの真の同盟国』となりたいがために、不安を無視してイラク戦争への積極加担を選択してしまった。
しかしその後、日本を取り巻く東アジア情勢は劇的な変化を遂げている。世界はグローバル化し、軍事的な抑止より、技術、貿易、資源、金融、文化交流が紛争解決の有効な手段となっている。国家間の対立要因もイデオロギーではなく、歴史と伝統に根ざした多様なアイデンティティーに変わった。これを軍事的に解決するのは不可能で、相互の認識の違いを理解し、受け入れるしかない。アメリカはイラク戦争、アフガン侵攻をとおして、これを深く理解した。
アメリカは、今回の日中、日韓の領土問題に不介入のメッセージを送っている。アメリカは今後とも「日本を守る」抑止力を提供するだろうが、それは、アメリカの国益にかなう場合に、国益にかなうやり方で守るのであって、日本が守ってほしい場合に、日本が望むような方法で「守ってくれる」わけではない。
日米同盟は自由と民主主義という共通の価値観での結びつきとして、常にアメリカにすがりつこうとしても、とうてい通用しない。アメリカお任せではない、日本独自の国際秩序、安全保障の考え方をもたなければアメリカのお荷物になってしまう。」
全くもってその通り。国家の中枢からほど遠く、格別の情報に接する機会のない、私のような一市民だってずつと一貫してそう思ってきた。憲法違反の無駄なイラク戦争に莫大な税金を使うのは間違っている。日本を守ってくれるはずもないアメリカと、日本国憲法にそぐわない「日米安保条約」にいつまで引きずられていなければならないのか。そもそも自衛隊の存在自体が憲法違反ではないか。日本は軍事にお金を割く余裕はない。
著者はこの本の出版について「ともに政策を立案し、実行した上司、同僚は不愉快に感じられるかもしれない」と述べている。しかし、心配は無用。こうした考えに到達できて良かったねと祝福してくれる人の方が多いはずだ。だからこの本が話題になっているのだ。
惜しむらくは、著者が自衛隊と日米安保条約の存在自体の合理性や合憲性についてどう考えているのか、曖昧なままであることだ。この点については、先輩の教えであるという「自分なりの論理をつきつめること」に躊躇しているようにすら見える。
印象に残るのは、イラク戦争中に人質となった日本人に対して、「自らの良心に従ってイラク人救済の活動をしようとしていたことは否定できない。そういう国民をどう評価するかは、民主主義を標榜する国家の真価を問われる問題であった。『善意の日本国民に対するテロは許せない』というのが、政府の出すべき最初のメッセージでなければならなかったのだと思う」と自省していること。
あのときの「人質を救え官邸デモ」の緊張感を思い出しつつ、私たちのあのときの思いは、時を経て政府の中枢に位置する人にも伝わったのかと、感慨を新たにした。
(2013年7月2日)