澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

プーチンに読ませたい、小川未明の「野ばら」

(2022年6月6日)
 本日、関東甲信地方に梅雨入りの宣言。陰鬱で肌寒い日である。雨風ともに強い。ウクライナの戦況は膠着して停戦の希望は見えてこない。被害の報がいたましい。国内では戦争便乗派の平和憲法攻撃と、防衛費倍増論に敵基地攻撃能力論まで台頭している。私の体調もよくない。憂鬱この上ない本日。ものを考えるのも億劫だし、煩瑣な文章を書く気力もない。昔読んだ小川未明の童話を引用して、本日の責めを塞ぎたい。

 たしか、小学校の図書室で小川未明の幾つかの作品を読んだ。そのうちの「野ばら」が鮮明に記憶に残っている。読後感は深刻だった。どうして、人と人とは仲良くできるのに、国と国とは戦争をするのだろうか。国なんかなくなければ人と人とは仲良くできるのか、とも考えた。誰が考えても、戦争はおろかなことではないか。もう、こんなことをやってはいけない。

野ばら 小川未明

 大きな国と、それよりはすこし小さな国とが隣となり合っていました。当座、その二つの国の間には、なにごとも起らず平和でありました。
 ここは都から遠い、国境であります。そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。
 二人は、石碑の建たっている右と左に番をしていました。いたってさびしい山でありました。そして、まれにしかその辺を旅する人影は見られなかったのです。
 初め、たがいに顔を知り合わない間は、二人は敵か味方かというような感じがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人は仲よしになってしまいました。二人は、ほかに話をする相手もなく退屈であったからであります。そして、春の日は長く、うららかに、頭の上に照り輝やいているからでありました。
 ちょうど、国境のところには、だれが植えたということもなく、一株の野ばらがしげっていました。その花には、朝早くからみつばちが飛んできて集まっていました。その快い羽音が、まだ二人の眠っているうちから、夢心地に耳に聞こえました。
 「どれ、もう起きるか。あんなにみつばちがきている。」と、二人は申し合わせたように起きました。そして外へ出でると、はたして、太陽は木のこずえの上に元気よく輝やいていました。
 二人は、岩間からわき出でる清水で口をすすぎ、顔を洗いにまいりますと、顔を合わせました。
「やあ、おはよう。いい天気でございますな。」
「ほんとうにいい天気です。天気がいいと、気持がせいせいします。」
 二人は、そこでこんな立ち話しをしました。たがいに、頭を上あげて、あたりの景色をながめました。毎日見ている景色でも、新しい感を見る度に心に与えるものです。
 青年は最初将棋の歩み方を知りませんでした。けれど老人について、それを教わりましてから、このごろはのどかな昼ごろには、二人は毎日向い合って将棋を差していました。
 初めのうちは、老人のほうがずっと強くて、駒を落として差していましたが、しまいにはあたりまえに差して、老人が負かされることもありました。
 この青年も、老人も、いたっていい人々でありました。二人とも正直で、しんせつでありました。二人はいっしょうけんめいで、将棋盤の上で争っても、心は打ち解けていました。
 やあ、これは俺の負けかいな。こう逃げつづけでは苦しくてかなわない。ほんとうの戦争だったら、どんなだかしれん。」と、老人はいって、大きな口を開けて笑いました。
 青年は、また勝みがあるのでうれしそうな顔つきをして、いっしょうけんめいに目を輝やかしながら、相手の王さまを追っていました。
 小鳥はこずえの上で、おもしろそうに唄っていました。白いばらの花からは、よい香りを送っていました。
 冬は、やはりその国にもあったのです。寒くなると老人は、南の方ほうを恋しがりました。
 その方には、せがれや、孫が住すんでいました。
「早く、暇をもらって帰りたいものだ。」と、老人はいいました。
「あなたがお帰りになれば、知らぬ人がかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしい人ならいいが、敵、味方というような考えをもった人だと困ります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、春がきます。」と、青年はいいました。
 やがて冬が去って、また春となりました。ちょうどそのころ、この二つの国は、なにかの利益問題から、戦争を始めました。そうしますと、これまで毎日、仲むつまじく、暮していた二人は、敵、味方の間柄になったのです。それがいかにも、不思議なことに思われました。
 「さあ、おまえさんと私は今日から敵どうしになったのだ。私はこんなに老いぼれていても少佐だから、私の首を持ってゆけば、あなたは出世ができる。だから殺してください。」と、老人はいいました。
 これを聞くと、青年は、あきれた顔をして、
 「なにをいわれますか。どうして私とあなたとが敵どうしでしょう。私の敵は、ほかになければなりません。戦争はずっと北の方ほうで開かれています。私は、そこへいって戦います。」と、青年はいい残して、去ってしまいました。
 国境には、ただ一人老人だけが残されました。青年のいなくなった日から、老人は、茫然として日を送りました。野ばらの花が咲さいて、みつばちは、日が上がると、暮れるころまで群っています。いま戦争は、ずっと遠くでしているので、たとえ耳を澄ましても、空をながめても、鉄砲の音も聞こえなければ、黒い煙の影すら見られなかったのであります。老人はその日から、青年の身の上を案じていました。日はこうしてたちました。
 ある日のこと、そこを旅人が通りました。老人は戦争について、どうなったかとたずねました。すると、旅人は、小さな国が負けて、その国の兵士はみなごろしになって、戦争は終ったということを告げました。
 老人は、そんなら青年も死んだのではないかと思いました。そんなことを気にかけながら石碑の礎に腰をかけて、うつむいていますと、いつか知らず、うとうとと居眠をしました。かなたから、おおぜいの人のくるけはいがしました。見ると、一列の軍隊でありました。そして馬に乗ってそれを指揮するのは、かの青年でありました。その軍隊いはきわめて静粛で声ひとつたてません。やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。
 老人は、なにかものをいおうとすると目がさめました。それはまったく夢であったのです。それから一月ばかりしますと、野ばらが枯かれてしまいました。その年の秋、老人は南の方へ暇をもらって帰りました。

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 小川未明の作品は、既に著作権の保護期間が終了している。転載自由である。青空文庫本を多くの人に読んでいただきたい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/51034_47932.html

パロディはいくつもある。下記は、公開されている才能溢れたマンガの一作。
https://rookie.shonenjump.com/series/pGBIkZk5Ffc/pGBIkZk5Ffk 

 今、この国境をはさんだ二人の兵士の話は、ロシアとウクライナ両国兵士の関係として連想せざるを得ない。両国の国民と国民とが、兵と兵とが、殺し合うほど憎しみ合っているはずはない。プーチンに読ませたいと思うが、無理だろうか。

軍事侵攻に踏み切ったプーチンに、最大限の国際世論の非難を。

(2022年2月24日)
 大袈裟ではなく、仰天動地の事態である。膝が震えるような衝撃。「まさか」が、現実になった。ロシア軍のウクライナへの軍事侵攻が始まった。

 1941年12月8日の多くの心ある人々の衝撃もこうであったろうか。私には、朝鮮戦争の始まりについての記憶はない。ベトナム戦争は飽くまで局地戦だった。キューバ危機は記憶に鮮明だが、結局回避されてことなきを得た。ところが今回、まさかまさかの内に、軍事大国ロシアが、NATOを後ろ盾とするウクライナへの侵攻に踏み切った。これは、世界史的大事件ではないか。

 この間、国連も国際世論も、強くロシアを非難し牽制してきたが、残念ながら国連にロシアを制するだけの権威はない。全世界がこぞってロシアを非難するという空気も感じられない。世界の平和の秩序とは、かくも脆弱なものであったかと見せつけられたことが、「衝撃」の真の理由なのだ。

 私は、今日の朝まで、漠然と最悪の事態は避けられるのではないかと考えてきた。まさか軍事侵攻はあるまいと思っていたのは、ロシアにとって、ウクライナに対する軍事侵攻が合理的な国家政策とは考えられなかったからだ。

 ロシアの対ウクライナ政策の主たる目的は、ウクライナをNATOの影響から引き離し、ウクライナを緩衝地帯として確保しておくことだということと理解していた。それなら、武力による威嚇はあっても、武力の行使にまでは踏み切ることはないだろう。

 国境線を越えて侵攻し、発砲し、爆撃し、国民を殺傷すれば、憎悪の禍根を残すばかりではないか。傀儡政権をデッチ上げようとも国民の支持を得られるはずもない。ウクライナを緩衝地帯として確保するどころか、くすぶり続ける火種をのこし、西側に押しやるばかりではないか。

 しかし、現実から学んだ苦い教訓は、必ずしも軍は合理的に動くものではないということ。あるいは、国家としての長期的展望に基づく合理性は、為政者の個人的な目先の合理性とは必ずしも一致しないこと。

 プーチンは、偉大なソ連復活を望む国内のナショナリズムに迎合したパフォーマンスをやって見せたのではないだろうか。それが、近づく大統領選挙に有利だとの計算で。しかし、この軍事侵攻で、ウクライナ国内を掻き回して、あとをどうする成算があるというのだろうか。今後何代も、ロシアはウクライナの怨みを背負い続けなければならない。それだけでなく、ロシアは国連憲章に違反した軍事侵略国としての汚名を着て、ロシア国民は肩身の狭い思いをしなければならない。

 このようなときにこそ、国際協調による平和を希求する声を上げなければならない。まずは軍事侵攻をしたロシアをけっして許さないという市民の声を上げることだ。一人ひとりの声は小さくとも、無数の声が集まって力となる。

そこかしこ同じ穴のムジナがうようよ ー 石原慎太郎の毀誉褒貶

(2022年2月9日)
 石原慎太郎の死去が2月1日だった。「棺を蓋いて事定まった」はずなのだが、この人の場合、生前にもまして毀誉褒貶のブレが大きい。石原の同類や同類へのへつらいが、こんな人物を褒めたり、懐かしがったり、持ち上げたりしている。この際、石原の死に際して、誰がなんと言ったかをよく覚えておこう。 「自分は石原なんぞとの同類ではない」と声をあげている人が清々しい。たとえば、本日の東京新聞「本音のコラム」欄、斎藤美奈子の「無責任な追悼」という一文。抜粋しての引用。爽やかに辛辣である。

 「石原慎太郎氏は暴言の多い人だった。『文明がもたらしたもっとも有害なものはババア』『三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している』。暴言の多くは、女性、外国人、障害者、性的マイノリティなどに対する差別発言だったが、彼は役職を追われることも、メディアから干されることもなかった。そんな「特別扱い」が彼を増長させたのではなかったか。
 …作家としての石原慎太郎の姿勢にも私は疑問を持っている。朝日新聞の文芸時評を担当していた2010年2月。「文学界」3月号掲載の『再生』には下敷(福島智『盲ろう者として生きて』)。当時は書籍化前の論文)があると知り、両者を子細に読み比べてみたのである。
 と、挿話が同じなのはともかく表現まで酷似している。三人称のノンフィクションを一人称に書き直すのは彼の得意技らしく、田中角栄の評伝小説『天才』も同様の手法で書かれている。これもまた『御大・石原慎太郎だから』許された手法だったのではないか。
 各紙の追悼文は彼の差別発言を「石原節」と称して容認した。二日の本紙(東京新聞)「筆洗」は『その人はやはりまぶしい太陽だった』と書いた。こうして彼は許されていく。負の歴史と向き合わず、自らの責任も問わない報道って何?(文芸評論家)」


 浮かび上がる石原像は、基本的に汚い。そして、弱い者イジメを売り物にした唾棄すべき男。

 もう一つ、紹介しておきたい。本日配送された週刊金曜日に、斎藤貴男の「弔辞」が掲載されている。「ヘイトやフェイクの時代の先駆者、石原慎太郎氏への弔辞」というタイトル。その記事の中に、こんなことが書かれている。私は、初めて知って仰天した。

 「石原氏は16年東京五輪の招致活動で、IOC(国際オリンピック委員会)のロゲ会長(当時)に手紙を書いている。〈忌まわしい戦争〉から解放された少年時代に、〈民族を違えても人間は人間としてある〉と痛感したとする回顧から書き起こされ、わが祖国はその戦争への反省から〈戦争放棄を謳った憲法を採択し〉て今日に至った、日本で〈民族の融和、国家の協調を担う大きなよすがとなるオリンピックを行うことは、世界の平和に大きな貢献ができるものと信じます〉と結ばれていた。

 大嘘だった。近頃の若者がダメな理由はと問われた彼が「60年間戦争がなかったから」「『勝つ高揚感』を一番感じるのは、スポーツなどではなく戦争だ」と断じたのは五輪招致を言い出す半年前(『週刊ポスト』05年1月14・21 日号)。招致失敗後も何も変わらなかった。」

 斎藤貴男による石原評は、さすがに鋭く的確である。「石原氏は安全圏から標的を見下し、せせら笑って悦に入る。思えばヘイトやフェイクが猖獗を極める時代の、彼は先駆者だった。」「権力者にとって便利な人だった。躊躇のない差別は、新自由主義や、もちろん戦争の大前提であり、“理想”でもあるからだ。都政を私するコソ泥三昧が許された所以か。」「慎太郎的なるものの定着などあってはならない。合掌。」

 一方、こちらは、石原慎太郎と同じ穴のムジナか、ムジナへの迎合者たちの弁である。NHK・Webnewsに掲載された、「石原氏の死去を受けて、各界から悼む声が上がっています」という、延々たる記事の見出しを並べてみただけのもの。

岸田文雄首相「重責を担い大きな足跡を残された 寂しいかぎり」
自民で政調会長など歴任 亀井静香氏「『太陽が沈んだ』」
ジャーナリスト 田原総一朗さん「大きな衝撃で仰天 大ショック」
自民 茂木幹事長「カリスマ性あり 時代代表する政治家 言論人」
自民 安倍晋三元首相「既成概念に挑戦し続けた政治家」
自民 二階元幹事長「惜しい政治家を亡くした」
自民 古屋憲法改正実現本部長「遺志に応え改憲実現を」
自民 長島昭久衆院議員「政界でおやじのような存在」
維新 松井代表「経験豊富 丁寧な指導に感謝」
維新 馬場共同代表「生の政治について指導していただいた」
維新 鈴木宗男参院議員「筋を通す 芯がある政治家」
芥川賞受賞 田中慎弥さん「一度 お目にかかりたかった」
舘ひろしさんがコメント「偉大で稀有な存在でした」
野田元首相「尖閣諸島めぐる激論 忘れられない」
元都知事 猪瀬直樹氏「存在感のある人だった 喪失感が大きい」
小池都知事がコメント「強い思いを受け継ぎ 尽力」
東京五輪・パラ 組織委 橋本会長「レガシー 大事に育てていく」
JOC 山下会長がコメント「日本スポーツ界の発展に多大なる貢献」

愚劣で危険な東京オリンピックが終わる。

(2021年8月8日)
 東京オリンピックが本日で終わる。コロナ禍の中での五輪禍。あらためて、オリンピックというものの愚劣と危険が浮き彫りになった。中止に追い込むことができなかったことが残念の限り。

 東京オリンピックとアスリートの愚劣を象徴する事件が、「豪選手団が帰国便で大騒ぎ ー 泥酔しマスク拒否」と報道されたもの。

 「オーストラリアの東京五輪代表選手らが、帰りの日本航空(JAL)機内で泥酔してマスクを拒否するなどの騒ぎを起こした。騒ぎを起こしたのは、サッカーと7人制ラグビーの男子代表選手ら。選手らが搭乗した日本航空の飛行機は、2021年7月29日に羽田空港を出発し、約10時間のフライトを経て、翌30日朝に豪シドニーに到着した。選手らは機内で、酒を飲んで歌い始め、客室乗務員がマスク着用や着席を求めても拒否した。しかも、機内に保管してあった酒類を勝手に持ち出し、乗務員らが止めても応じなかったという。また、トイレで嘔吐して床などを汚し、トイレが使えなくなったケースもあった。機内には、一般客も搭乗しており、選手らの行為は迷惑だったとメディアの取材に話したという。」

 取り立ててオーストラリア選手のモラルが低いということはありえない。これがオリンピック選手の平均レベルだろう。スポーツが人間性を育てるなどというのは、真っ赤なウソ。むしろ、一流と言われるアスリートの特権意識が鼻持ちならない。

 スポーツを嗜む人と無縁な人。それぞれのグループに人格者もいれば、非人格者もいる。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は、罪の深い迷信である。私は、アスリートに対する敬意の念を持ち合わせていない。むしろ、「体育系」といわれる人々の精神構造に嫌悪感をもち続けてきた。

 「昔軍隊、今体育系」は至言である。日本の「体育」は軍事訓練のルーツをもっている。ご先祖様である天皇の軍隊と同様、体育系は不合理の巣窟。イジメ・暴力・体罰・私的制裁・上命下服・精神主義・面従腹背・勝利至上主義・非科学性、非知性、権威主義・ナショナリズム…。個人主義よりは全体主義に親和性を持ち、同調圧力に弱い。人権思想や民主主義感覚との対極にある。体育系は批判精神に乏しく盲目的に指導者に従う。

 だから、体育系の精神構造は企業には歓迎される。親はそれを知っているから、子どもにスポーツをやらせる。そんな風に育つ子どもたちのトップエリートとしてオリンピック選手が生まれるのだ。格別にアスリートに敬意をもつべき理由とてあり得ない。

 オリンピックとは、「体育系」精神の集大成としての興行である。本質において偉大なる愚劣と言うべきであろう。ところが、この愚劣なイベントが、きらびやかな装いをもって多くの人々の関心を惹き付ける。それ故に無視し得ない危険をはらむものとなっている。

 東京オリンピック開催強行は、人々のコロナへの関心を相対的に稀薄化し対策を弱体化して、既に感染爆発を招いている。しかしこれでは終わらない。このさきの潜伏期間経過後に、さらなる感染拡大を覚悟しなければならない。「メダルラッシュ」「感動の大安売り」の代価はとてつもなく高価なのだ。

 オリンピックは、それだけではない危険をはらんでいる。あの安倍晋三が、得々とそのオリンピックの危険性を説明してくれている。「月刊Hanada」(飛鳥新社)8月号に掲載された、櫻井よしことの対談。そこで安倍晋三は、東京五輪開催に反対する世論を「反日的」と攻撃しているのだ。なるほど、そうすると私も「反日」なんだ。

 安倍晋三・櫻井よしこという極右コンビとオリンピックとは、とても相性がよいのだ。この右翼政治家は、オリンピックを自分に親しいものとして、こう語っている。

「この『共有する』、つまり国民が同じ想い出を作ることはとても大切なんです。同じ感動をしたり、同じ体験をしていることは、自分たちがアイデンティティに向き合ったり、日本人としての誇りを形成していくうえでも欠かすことのできない大変重要な要素です」「日本人選手がメダルをとれば嬉しいですし、たとえメダルをとれなくてもその頑張りに感動し、勇気をもらえる。その感動を共有することは、日本人同士の絆を確かめ合うことになると思うのです」「(前回の東京五輪では)日本再デビューの雰囲気を国民が一体となって感じていたのだと思います」

 自身が繰り返してきた「復興五輪」「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、完全な形で、東京オリンピック・パラリンピックを開催する」などのフレーズはどこへやら。要するに、安倍晋三にとって東京五輪の開催は「日本人としての誇りを形成」「日本人同士の絆を確かめ合う」「日本再デビュー」などという全体主義、国粋主義鼓吹の道具なのだ。おそらくは、これが本音である。

 確認しておこう。安倍や櫻井にとって最も重要なのは、「親日」か「反日」かの分類である。東京オリンピック開催に賛成するのが「親日」、反対意見は「反日」なのだ。その理由は、オリンピックというイベントを通じて、ナショナリズムの喚起が可能となるからだ。安倍晋三の言うとおり、これがオリンピック危険の本質なのだ。

オリンピックが涵養するナショナリズム

(2021年7月26日)
 私は月刊誌文化で育った。漫画週刊誌が世を席巻する以前のことだ。小学生だけの寄宿舎2階の隅に図書室があり、少年・少年クラブ・少年画報・まんが王・少女・少女クラブ・リボン・なかよし・女学生の友・小学三年生などなんでも読めたし、なんでも読んだ。どっぷりとその世界に浸かった。

 手塚治虫・馬場のぼる・福井栄一らのマンガは文句なく面白かった。山川惣治らの絵物語というジャンルもあった。そして、それなりの文字情報もあった。連続小説もあり、歴史や科学の解説記事あり、そしてスポーツものが大きな比重を占めていた。

 その子ども向けスポーツ記事には戦前のオリンピックにおける日本人選手の活躍ぶりにページが割かれていた。日本凄い、日本人立派、のオンパレードだった。記憶に残るのは、まずは村社講平のスポーツマンシップだ。そして、西田修平・大江季雄の「友情のメダル」。織田幹雄・田島直人・南部忠平、みんな世界に負けなかった。前畑がんばれ。人見絹枝はよくやった。バロン西の戦死は惜しまれる。小学生の私は、この種の話が大好きで無条件に感動した。こんな話を通じて、日本人であることを自覚し、日本に生まれたことを好運にも思った。既に、小さなナショナリストが育っていたのだ。

 おそらくは、当時の日本社会が子どもたちに与えたいと願ったものが月刊出版物に忠実に反映していたのだろう。スポーツ界のヒーローの描き方の根底には、疑いもなく、敗戦の負い目や国際社会に対する劣等意識があった。これにこだわっての、本当はこんなに凄い日本、日本人は本来こんなにも立派なのだと押し付けられ、多くの子どもたちがこれを受容した。もちろん私もその中の一人。

 今にして思う。オリンピック金メダリスト孫基禎のことも、国民的ヒーローであった力道山が在日朝鮮人であることも、少年雑誌には出て来なかった。天皇や戦争などの暗い話題は誌面から避けられていた。さすがに国粋主義は出てこなかったが、ナショナリズムは色濃くあった。

 戦前の攻撃的なナショナリズムとは違い、戦後のあの時期のナショナリズムは、国民的規模の劣等感の表れであったかと思う。今は、こんなに肩身の狭い思いを余儀なくされているが、本当は日本人は優秀で、日本は世界に負けないんだ、という肩肘張っての強がりの姿勢。

 オリンピックは、このようなナショナリズムを思い出させ、再構築する好機なのだ。対外的な劣等意識にとらわれている人、人生経験の浅い人ほど、日本選手の活躍に「感動」を押し売りされ、断れなくなる。私も小学生のころ、そうであったように。
 

中国「核心的利益」論の理不尽。

(2021年2月13日)
「森喜朗・川淵三郎」迷走劇の根は深く、あぶり出されたものは女性差別問題だけではない。我々の社会が抱える構造的な病理を照らし出した貴重な経過から学ぶべきことは多い。わけても、「沈黙は理不尽への同意であり加担ともなる」ことを胸に刻みつつ、「声を上げれば状況を変えられる」ことに希望をつなぎたい。

沈黙してはならない理不尽は世に満ちているが、今や強大国となった中国の「核心的利益」論を批判しなければならない。自国が「核心的利益」と名付けた数々を絶対に譲れないとするその姿勢の頑迷と傲慢の危険についての批判である。

自国の主張を絶対に譲らないという中国の頑なさは、戦前の天皇制日本を彷彿とさせる。天皇の神聖性や、天皇の神聖性の上に成り立つ「國體」は、指一本触れてはならない不可侵の「核心的利益」とされた。のみならず、「満蒙は日本の生命線」も「絶対的国防線」も「核心的利益を譲らない」とする同様の批判拒否体質の姿勢の表れである。

印象に新しいのは、昨年(2020年)「断固として、国家安全法を立法し香港に適用する」と言い出した当時、併せて中国が香港の民主化運動を支援する国際勢力に対して、「香港は中国の核心的利益、必ず守らなくてはならない重要な原則だ」「外部からの干渉は許さない」と牽制したことである。孤立した香港の民主化運動に、中国と対峙する実力はなく、いま野蛮な中国の実力が香港の民主主義を蹂躙している。

香港の民衆にとっての自由と民主主義は、それこそ彼らの「核心的利益」ではないか。香港にとどまらない。台湾の自立も、新疆ウイグル人の人権も、チベットの独立も、それぞれの民衆の「核心的利益」である。なにゆえ、中国がこれを毀損する名分を主張できるというのだろうか。ここにあるのは、強大国の野蛮な実力の誇示に過ぎない。

「領土と主権に関わる核心的利益」という呪文を絶対とし万能とする主張の愚かさが省みられねばならない。「利益」は、常に具体的な誰かのものである。国家の利益とは、実は「国家を僭称する誰か」の利益であると考えざるを得ない。国家の中の被支配階級、被征服民族、被抑圧階層の利益は僭称されている。のみならず、「中国の核心的利益」は、香港の利益ではありえない。核心的利益の主体から、台湾も除かねばならない。チベットも、新疆ウイグル自治区も、東トルキスタンも除いた「中国」とは、「国家」という名に値するものだろうか。

中国は、「核心的利益」の外延を拡大してきている。「国家主権と領土保全(国家主権和領土完整)」だけでなく、「国家の基本制度と安全の維持(維護基本制度和国家安全)」「経済社会の持続的で安定した発展(経済社会的持続穏定発展)」などという曖昧な概念も持ちだしている。結局は、中国全土の人民の利益ではなく、中国共産党とその支持勢力の利益をいうものと理解するほかはない。

また、「核心的利益」が国家のものであったとしても、それゆえに人権に優越する価値たりうるものではない。中国の「核心的利益」論は、人権の価値を顧みることのない、超国家主義以外の何者でもない。文明が到達した普遍的価値を蹂躙して恥じない、野蛮の主張と評するしかない。

この問題に関して、「声を上げれば状況を変えられる」望みは乏しい。それでも、「沈黙は理不尽への同意であり加担ともなる」ことを胸に刻みつつ、決して沈黙はしないことを決意したいと思う。中国に対してだけでなく、超大国アメリカにも、そして当然のことながら、日本の権力にも。

「国を愛する心を養うべき日」に、「国を愛する心」の危険を訴える。

(2021年2月11日)
光の春のううらかな日和。ときおり吹く風にも冷たさはない。空は青く、梅が開き、寒桜も目にこころよい。ところが、えっ交番に「日の丸」? 警察署にも消防署にも「日の丸」である。あの、右翼や暴力団とお似合いの、白地に赤い丸の旗。都バスにも「日の丸」の小旗が何とも不粋。さすがに民家に「日の丸」は一本も見なかったが、上野の料亭「伊豆栄・本店」には、この不快なデザインの旗が掲げられていた。

本日は、「建国記念の日」とされている日。祝日法では、「建国をしのび、国を愛する心を養う」べき日という位置づけ。しかし、私には「建国をしのぶ」気持も、「国を愛する心」も持ち合わせていない。愛国心の押し売りはまっぴらご免だし、愛国心を安売りする人物は軽蔑に値すると信じて疑わない。だから、本日を祝うべき日とする気分はさらさらにない。

時折、「浅薄な愛国心」を排撃して、「真の愛国者の言動ではない」などと批判する言説にお目にかかる。が、私は、「真」でも「偽」でも、愛国や愛国心を価値あるものとは認めない。実は、「真の愛国心」「本当の愛国者」ほど厄介なものはないのだ。

もちろん必要悪としての「国家」の存在は容認せざるを得ない。しかし、その国家は愛すべき対象ではなく、厳格に管理すべき警戒の対象と考えなければならない。

組織としての国家ではなく、国家を形成する「国民」もまた、個人にとって愛すべき対象ではない。個人は、常に「国家を形成する集団としての国民」の圧力との対峙を余儀なくされ、ときにはその強大な同調圧力と闘わねばならない。「愛国心とは日本の国民を愛すること」なら、愛国心は、個人の主体性を奪う邪悪なものにほかならない。

愛国心とは我が国の風土や歴史や伝統を愛すること、とも説かれる。そのような心情をもっている人、もちたい人がいることは当然だろう。そのパーセンテージがどうであっても、さしたる問題ではない。問題は、価値的に「愛国」「愛国心」が説かれることだ。

「愛国心」を美徳とするイデオロギーが諸悪の根源である。美徳であるからとして「愛国心強制」を当然とする圧力が、個人の人格の尊厳を侵し、思想・良心の自由を侵害する。このような、愛国心をダシにした強権の発動は、実は他の奸悪な意図をもってのことである。

ところで、周知のとおり、本日2月11日は旧紀元節。天皇制イデオロギーによって、何の根拠もなく初代天皇の就位があったとされた日。日本書紀における〈辛酉年春正月庚辰朔,天皇即帝位於橿原宮〉という記述だけに基づいて、2700年以前もの太古に、天皇の治世が始まり、これが万世一系連綿と続いているという神話の小道具の一つとされた。

強行された事実上の紀元節復活のこの日、つまりは天皇制始まりの日との象徴的な意味をもつこの日が、「建国をしのび」だけでなく、「国を愛する心を養う」とされていることに注目せざるを得ない。つまり、愛国心が、天皇制国家と連動しているのだ。

明治の初めに小川為治『開化問答』という書物が刊行されている。その中に、旧平という名で庶民の立場から、紀元節や「日の丸」についての率直な見解が示されていて、興味深い。

「改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄のふたの開く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟や提灯を出さするは、なおなお聞こえぬ理屈でござる。元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます。」(梅田正己・「明治維新の歴史」より)

ここに、「赤丸を売る看板のごとき幟」とあるは、「日の丸」のことである。こんなものの強制は「なおなお聞こえぬ理屈」と、理不尽を述べている。

それだけでなく。「紀元節や天長節」について、「元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」とは、まことに至言である。

「天皇制と関連付けられた愛国心」ほど、恐ろしいものはない。今日「建国記念の日」は、そのことをじっくりと考えるべき日である。

自民党議員には教育勅語ウイルスが根強く感染し続けている。

(2021年1月27日)
昨日のNHK(Web)報道に我が目を疑った。「日本の国旗損壊 刑法改正し処罰規定検討 自民 下村政調会長」というのだ。このコロナ禍の緊急事態に、不要不急極まる右翼の蠢動。もしや、本気で火事場泥棒を狙っているのだろうか。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210126/k10012834121000.html

「日本の国旗を壊したり汚したりした場合の対応として、自民党の下村政務調査会長は、刑法を改正して処罰規定を設けることを検討する考えを示しました。
 自民党の高市・前総務大臣らの議員グループは26日、下村政務調査会長と会談し、刑法には外国の国旗を壊したり汚したりした場合の処罰規定はあるものの、日本の国旗については規定がないとして法改正を訴えました。これに対し下村氏は「必要な法改正だ」と応じ、法改正を検討する考えを示しました。
 このあと高市氏は記者団に対し「日本の名誉を守るのは究極の使命の1つで、外国の国旗損壊と日本の国旗損壊を同等の刑罰でしっかりと対応することが重要だ。改正案を今の国会に提出したい」と述べました。」

いかにも唐突な「国旗損壊罪」創設という刑法改正の提案。誰が見ても不要不急の極みだが、「改正案を今国会に提出したい」とは穏やかでない。読売は、法案の内容にまで踏み込んで、こう報じている。

 「自民党は26日、日本を侮辱する目的で日の丸を傷つけたり汚したりする行為を処罰できる「国旗損壊罪」を新設する刑法改正案を今国会に議員立法で提出する方針を固めた。下村政調会長が、党の保守系有志議員でつくる「保守団結の会」による提出要請を了承した。
 改正案は刑罰として「2年以下の懲役か20万円以下の罰金」を科すとしている。自民党は、野党時代の2012年にも同様の改正案を国会提出し、廃案となっている。」

 閣法としての取り扱いではなく、法制審議会への諮問もない。連立与党間の摺り合わせもないようだ。何よりも、こんな立法を必要とする立法事実は皆無であり、世論の盛り上がりもない。自民党が本気になって、こんな法案成立の意気込みをもっているとは、とうてい考え難い。にもかかわらず、右翼議員パフォーマンスの材料として、「国旗」がもてあそばれているのだ。

はて? 「保守団結の会」? ようやく思い出した。昨年(2020年)6月自民党内右翼が選択的夫婦別姓制度への賛否で割れてスピンオフした、あの最右派集団であったか。何しろ、稲田朋美の右派姿勢の不徹底に失望したと批判して、それよりも右の議員43名が再結集したという報道だった。 昨年暮れに、新たに顧問として、安倍晋三、古屋圭司、高市早苗などという札付き右翼を入会させているという。

この「団結の会」の信条は、何よりも《伝統的家族観》。そして《皇室の尊崇と皇統の護持》だという。《伝統的家族観》と《皇室の尊崇と皇統の護持》、そして《国旗の尊厳》とが彼らの頭の中では直結している。かつての教育勅語ウィルスが絶滅を免れて、こういう宿主の脳髄中に生存を続け、この三者を強固に結びつけているのだ。このウイルスの発現症状は、発熱でも咳嗽でもない。思考能力が侵され、「忠君愛国」「富国強兵」「万世一系」「民族差別」「皇国弥栄」等々の根拠のない空っぽのスローガンのマインドコントロール下に制圧されることになる。

端的に言えば《伝統的家族観》とは【男尊女卑】【家父長制】と同義である。《皇室の尊崇と皇統の護持》とは【人間の差別の肯定と固定化】を意味する。こういう人間観・社会観をもったグループが、男尊女卑と差別を基調とする国家の象徴としての国旗を大事としてもてあそんでいるのだ。

このグループの「筆頭発起人」を名乗っているのが高鳥修一(新潟6区)。稲田朋美同様安倍晋三側近と言われた議員。彼はこう発言している。

「日本では、国家を侮辱する目的で他国の国旗を損壊すると罪になりますが、自国の国旗を踏みにじることは自由となっています。」「自国の国旗を侮辱することに対して各国で禁止する規定があるのは自然なことだと思いますが、日本ではそれも表現の自由という意見があり、他国の国旗は尊重しても自国の国旗は踏みにじって構わないことになっています。」

「いかにもアンバランスな状況を是正する為に、…今国会に法案を提出することになりました。既に平成24(2012)年に一度党内手続きを終え国会に提出されているので、下村政調会長からは、自民党として了解した(再度の党内手続きは不要)。委員長提案は難しくても各党に説明するようにとの指示がありました。早速、関係者に説明にかかっています。」

何という安直さ。何という軽薄さ。こんなに軽々しく刑法をいじられてはたまらない。しかも、ことは国民の人権と国家の権力との関係の根本に関わる。我が国の憲法体系の根幹にも関わる議論が必要な問題なのだ。

自民党は、2012年発表の改憲草案で、「第3条(国旗及び国歌)」の条文を作ろうとしている。
第1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
第2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。

この国旗国歌尊重義務こそが、旧大日本帝国で猖獗を極めた教育勅語ウィルスの所産にほかならない。後遺障害というよりは、今の世の変異株というべきであろう。

なお、現行憲法の外国国章損壊罪は次のとおりの条文で、その保護法益は「我が国(日本)の円滑な外交作用」と考えられる。当該国旗が象徴する国家の尊厳というものではない。

第92条 第1項 外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。
同2項 前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。

今日よりは違法と知るべし核兵器

(2021年1月22日)
現地時間の1月20日正午、アメリカ合衆国で政権が交代した。本日(1月22日)の各紙朝刊は、いずれもバイデン新大統領の就任演説と、新政権の特色を押し出した大統領令署名を報じている。

その、新大統領の大統領令署名は、

パリ協定(Paris Agreement)への復帰
世界保健機関(WHO)からの脱退撤回
連邦政府の施設でのマスク着用義務化
「キーストーンXLパイプライン」の建設許可の撤回
イスラム教徒が多数を占める国々からの入国禁止の解除
メキシコとの国境の壁建設の中止
市民権を持たない住民を米国勢調査から除外する計画を撤回等々の

トランプ政権からの政策転換を打ち出す狙いによるものばかり。どれもこれも、トランプ流を否定して、オバマ期に「復帰」以上のものはない。これまでの極端に異常な「アメリカファースト」の国から、もとの「グローバリズム」の普通のアメリカに戻ったのだ。

普通のアメリカとは、異常なトランプ流の野蛮なアメリカよりはずっとマシだが、所詮は「グローバリズム」謳歌の経済大国であり、膨張主義的軍事大国でもある。

本日(1月22日)は、核兵器禁止条約発効の歴史的な意義をもった日である。が、バイデン新政権が、この条約にいささかの関心も寄せている形跡は見えない。トランプに尻尾を振って笑い者となった安倍晋三と同様、菅義偉もおそらくは新しいご主人の鼻息を窺うことになる。核廃絶という国民の願いよりは、軍事的宗主国の意向を忖度しようというのだ。

本日の参院本会議の代表質問で、菅義偉は改めて日本政府として「核禁条約に署名する考えはない」ことを明言した。「多くの非核兵器国からも支持を得られていない。現実的に核軍縮を進める道筋を追求する」と強調した。それでいて、「現実的に核軍縮を進める道筋」の何たるかを示すことはない。これが、被爆国日本の首相の正体なのだ。

この核禁条約には長文の前文がある。核兵器禁止の理念を語って格調が高い。その中に、次の一節がある。

核兵器の使用の被害者(被爆者)が受け又はこれらの者に対してもたらされた容認し難い苦しみ及び害並びに核兵器の実験により影響を受けた者の容認し難い苦しみに留意し,

「核兵器の使用の被害者(被爆者)が受けた容認し難い苦しみ」と言えば、広島・長崎の被爆者の被爆体験である。また、「核兵器の実験により影響を受けた者の容認し難い苦しみ」の筆頭には、第五福竜丸23人の被曝者を上げねばならない。とりわけ、久保山愛吉さんを思い浮かべなければならない。

さらに、前文の最後には、「…被爆者が行っている努力を認識して,」との一文がある。この核禁条約の成立には、日本のヒバクシャたちの筆舌に尽くしがたい苦悩と、反核運動との寄与があった。

本日、共同通信の伝えるところでは、オーストリアのシャレンベルク外相は、今日発効の核兵器禁止条約について「被爆者の闘いがなければ制定できなかった」と指摘、今年末にも同国で開催する締約国会議に被爆者を招待すると述べた。共同通信の単独会見に答えたもの。

これが、世界の良識である。これと比較し、ヒバクシャの母国日本の、この条約に対する冷淡さはいったいどういうことなのか。

国連加盟国は193か国、そのうち2017年核禁条約採択時の賛成国は122か国、昨年の国連総会での同条約推進決議に賛同国は130か国に及ぶ。現在、同条約の署名国は86か国で、そのうち批准国は51か国である。周知のとおり、50番目となったホンジュラスの批准から90日後の本日、核兵器禁止条約が発効となった。

世界の核兵器国保有国は9か国とされている。この9か国だけでなく、核保有大国の「核の傘」の下にある国の条約に対する反発は厳しい。この条約に対する恐れの反映というべきであろう。日本もその例に漏れない。

しかし、本日からはこの条約がいう「あらゆる核兵器の使用から生ずる壊滅的で非人道的な結末を深く憂慮し,したがって,いかなる場合にも核兵器が再び使用されないことを保証する唯一の方法として,核兵器を完全に廃絶することが必要である」という認識が国際的な理念となり法規範となる。核兵器よ、今日から汝は違法の存在であることを心得よ。

被爆国である日本が、この条約に敵対を続けることは許されない。まずは130か国の同条約推進決議賛同国が批准に至る前に、そして核保有国が世界の趨勢に遅れて、孤立する以前に、批准しなければならない。そのような政府を作らなければならない。

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核兵器の禁止に関する条約

この条約の締約国は,
国際連合憲章の目的及び原則の実現に貢献することを決意し,
あらゆる核兵器の使用から生ずる壊滅的で非人道的な結末を深く憂慮し,したがって,いかなる場合にも核兵器が再び使用されないことを保証する唯一の方法として,核兵器を完全に廃絶することが必要であることを認識し,
事故,誤算又は設計による核兵器の爆発から生じるものを含め,核兵器が継続して存在することがもたらす危険に留意し,また,これらの危険が全ての人類の安全に関わること及び全ての国があらゆる核兵器の使用を防止するための責任を共有することを強調し,核兵器の壊滅的な結末は,十分に対応することができず,国境を越え,人類の生存,環境,社会経済開発,世界経済,食糧安全保障並びに現在及び将来の世代の健康に重大な影響を及ぼし,及び電離放射線の結果によるものを含め女子に対し均衡を失した影響を与えることを認識し,
核軍備の縮小が倫理上必要不可欠であること並びに国家安全保障上及び集団安全保障上の利益の双方に資する最上位の国際的な公益である核兵器のない世界を達成し及び維持することの緊急性を認め,
兵器の使用の被害者(被爆者)が受けた又はこれらの者に対してもたらされた容認し難い苦しみ及び害並びに核兵器の実験により影響を受けた者の容認し難い苦しみに留意し,
核兵器に関する活動が先住民にもたらす均衡を失した影響を認識し,
全ての国が,国際人道法及び国際人権法を含む適用可能な国際法を常に遵守する必要性を再確認し,
国際人道法の諸原則及び諸規則,特に武力紛争の当事者が戦闘の方法及び手段を選ぶ権利は無制限ではないという原則,区別の規則,無差別な攻撃の禁止,攻撃における均衡性及び予防措置に関する規則,その性質上過度の傷害又は無用の苦痛を与える武器の使用の禁止並びに自然環境の保護のための規則に立脚し,
あらゆる核兵器の使用は,武力紛争の際に適用される国際法の諸規則,特に国際人道法の諸原則及び諸規則に反することを考慮し,
あらゆる核兵器の使用は,人道の諸原則及び公共の良心にも反することを再確認し,
諸国が,国際連合憲章に従い,その国際関係において,武力による威嚇又は武力の行使を,いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも,また,国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎しまなければならないこと並びに国際の平和及び安全の確立及び維持が世界の人的及び経済的資源の軍備のための転用を最も少なくして促進されなければならないことを想起し,
また,1946年1月24日に採択された国際連合総会の最初の決議及び核兵器の廃絶を要請するその後の決議を想起し,
核軍備の縮小の進行が遅いこと,軍事及び安全保障上の概念,ドクトリン及び政策において核兵器への依存が継続していること並びに核兵器の生産,保守及び近代化のための計画に経済的及び人的資源が浪費されていることを憂慮し,
法的拘束力のある核兵器の禁止は,不可逆的な,検証可能なかつ透明性のある核兵器の廃棄を含め,核兵器のない世界を達成し及び維持するための重要な貢献となることを認識し,
また,その目的に向けて行動することを決意し,
厳重かつ効果的な国際管理の下における全面的かつ完全な軍備の縮小に向けての効果的な進展を図ることを決意し,
厳重かつ効果的な国際管理の下で全ての側面における核軍備の縮小をもたらす交渉を誠実に行い,終了する義務が存在することを再確認し,
また,核軍備の縮小及び不拡散に関する制度の基礎である核兵器の不拡散に関する条約の完全かつ効果的な実施が,国際の平和及び安全の促進において不可欠な役割を果たすことを再確認し,包括的核実験禁止条約及びその検証制度が核軍備の縮小及び不拡散に関する制度の中核的な要素として極めて重要であることを認識し,
関係地域の諸国の任意の取極に基づく国際的に認められた核兵器のない地域の設定は,世界的及び地域的な平和及び安全を促進し,核不拡散に関する制度を強化し,及び核軍備の縮小という目的の達成に資するとの確信を再確認し,
この条約のいかなる規定も,無差別に平和的目的のための原子力の研究,生産及び利用を発展させることについての締約国の奪い得ない権利に影響を及ぼすものと解してはならないことを強調し,
男女双方の平等,完全かつ効果的な参加が持続可能な平和及び安全の促進及び達成のための不可欠の要素であることを認識し,また,核軍備の縮小への女子の効果的な参加を支援し及び強化することを約束し,
また,全ての側面における平和及び軍備の縮小に関する教育並びに現在及び将来の世代に対する核兵器の危険及び結末についての意識を高めることの重要性を認識し,また,この条約の諸原則及び規範を普及させることを約束し,
核兵器の全面的な廃絶の要請に示された人道の諸原則の推進における公共の良心の役割を強調し,また,このために国際連合,国際赤十字・赤新月運動,その他国際的な及び地域的な機関,非政府機関,宗教指導者,議会の議員,学者並びに被爆者が行っている努力を認識して
次のとおり協定した。

第1条 禁止
1 締約国は,いかなる場合にも,次のことを行わないことを約束する。
(a) 核兵器その他の核爆発装置を開発し,実験し,生産し,製造し,その他の方法によって取得し,占有し,又は貯蔵すること。
(b) 核兵器その他の核爆発装置又はその管理をいずれかの者に対して直接又は間接に移譲すること。
(c) 核兵器その他の核爆発装置又はその管理を直接又は間接に受領すること。
(d) 核兵器その他の核爆発装置を使用し,又はこれを使用するとの威嚇を行うこと。
(e) この条約によって締約国に対して禁止されている活動を行うことにつき,いずれかの者に対して,援助し,奨励し又は勧誘すること。
(f) この条約によって締約国に対して禁止されている活動を行うことにつき,いずれかの者に対して,援助を求め,又は援助を受けること。
(g) 自国の領域内又は自国の管轄若しくは管理の下にあるいずれかの場所において,核兵器その他の核爆発装置を配置し,設置し,又は展開することを認めること。

「古事記及び日本書紀の研究」(津田左右吉)拾い読み

(2021年1月6日)
例年、暮れから正月の休みには、まとまったものを読みたいと何冊かの本を取りそろえる。が、結局は時間がとれない。今年も、年の瀬に飛び込んできた解雇事件もあり、ヤマ場の医療過誤事件の起案もあった。「日の丸・君が代」処分撤回の第5次提訴も近づいている。やり残した仕事がはかどらぬ間に、正月休みが終わった。結局は例年のとおりの、何もなしえぬ繰り返しである。

取りそろえた一冊に、津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究[完全版]」(毎日ワンズ)がある。刊行の日が2020年11月3日。菅新政権がその正体を露わにした、学術会議会員任命拒否事件の直後のこと。多くの人が、学問の自由を弾圧した戦前の歴史を意識して、この書を手に取った。私もその一人だ。

が、なんとも締まらない書物である。巻頭に、南原繁の「津田左右吉博士のこと」と題する一文がある。これがいけない。これを一読して、本文を読む気が失せる。

南原繁とは、戦後の新生東大の総長だった人物。政治学者である。吉田茂政権の「片面講和」方針を批判して、吉田から「曲学阿世の徒」と非難されても屈しなかった硬骨漢との印象もあるが、この巻頭言ではこう言っている。

「津田左右吉博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。」

これだけで筆を止めておけばよいものを、南原はこう続けている。

「右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。」

 また南原は、同じ文書で戦後の津田左右吉について、こうも言っている。

「博士は、われわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった。」

 津田の「皇室を敬愛する情に満ち」「終始一貫、皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価した」姿勢を、「学者として」立派な態度と、褒むべきニュアンスで語っている。このことは、南原自身の地金をよく表しているというべきだろう。これが、政治学者であり、東大総長なのだ。

また、この書は読者に頗る不親切な書である。いったいこの書物のどこがどのように、右翼から、また検事から攻撃され、当時の「天皇の裁判所」がどう裁いたか。この書を読もうとする人に、語るところがない。今の読者の関心は、記紀の内容や解釈にあるのではなく、戦前天皇制下の表現の自由や学問の自由、さらには司法の独立の如何を知りたいのだ。

南原の巻頭の一文を除けば、この300余頁の書は、最後の下記3行を読めば足りる。

 『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくして物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。これが本書において、反覆証明しようとしたところである。

 確かに、この書は真っ向から天皇制を批判し、その虚構を暴こうという姿勢とは無縁である。後年に至って「皇室を敬愛する情に満ち」「皇室の尊厳を説く」と、評されるこの程度の表現や「学問」が、何故に、どのように、当時の天皇制から弾圧されたか。そのことをしっかりと把握しておくことは、今の世の、表現の自由、学問の自由の危うさを再確認することでもある。

戦前の野蛮な天皇制政府による学問の自由への弾圧は、1933年京都帝大滝川幸辰事件に始まり、1935年東京帝大天皇機関説事件で決定的な転換点を経て、1940年津田左右吉事件でトドメを刺すことになる。

太平洋戦争開戦の前年である1940年は、天皇制にとっては皇紀2600年の祝賀の年であった。その年の紀元節(2月10日)の日に、津田左右吉の4著作(『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』、いずれも岩波書店出版)が発売禁止処分となった。当時の出版法第19条を根拠とするものである。

そして、同年3月8日、津田左右吉と岩波茂雄の2人が起訴された。罰条は、不敬罪でも治安維持法でもなく、「皇室の尊厳を冒涜した」とする出版法第26条違反であった。南原の巻頭言に「20回あまり尋問が傍聴禁止のまま行なわれた」とこの裁判の様子が描かれている。天皇の権威にかかわる問題が、公開の法廷で論議されてはならないのだ。

翌1937年5月21日、東京地裁は有罪判決を言い渡す。津田は禁錮3月、岩波は禁錮2月、いずれも執行猶予2年の量刑であった。公訴事実は5件あったが、その4件は無罪で1件だけが有罪となった。結果として、起訴対象となった4点の内、『古事記及び日本書紀の研究』の内容のみが有罪とされた。

何が有罪とされたのか。これがひどい。「初代神武から第14代仲哀までの皇室の系譜は、史実としての信頼性に欠ける」という同書の記述が、「皇室の尊厳を冒涜するもの」と認定された。これでは、歴史は語れない。これでは学問は成り立たない。恐るべし、天皇制司法である。

なお、判決には、検事からも被告人からも控訴があったが、「裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われる」と、南原は記している。

古事記・日本書紀は、天皇の神聖性の根源となる虚妄の「神話」である。神代と上古の記述を誰も史実だとは思わない。しかし、これを作り話と広言することは、「皇室の尊厳を冒漬すること」にならざるを得ないのだ。それが、天皇制という、一億総マインドコントロール下の時代相であり、天皇の裁判所もその呪縛の中にあった。

あらためて、学問の自由というものの重大さ、貴重さを思う。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2021. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.