(2022年9月7日)
安倍晋三の統一教会葬はないのだろうか。あるいは、勝共連合葬。もちろん葬儀の挙行は自由だ。安倍晋三の政治信条を支持する人々が任意に葬儀に参列してその真情からの弔意を表明し、献花し、献金すればよい。安倍晋三の政治信条を支持しない人々にはなんの迷惑もかからないし、なんの憲法問題も生じない。その場合、弔辞は、安倍晋三とともに統一教会に親密だった細田博之が読むことになろうか。
国葬となれば話はまったく別だ。全国民を弔意の表明に巻き込むことになる。さまざまな憲法問題が生じる。国会での論議が不可欠である。予算も決算も明らかにしなければならない。そもそも、嘘とゴマカシ、政治の私物化で知られる人物の国葬適格性が問題とならざるを得ない。
そんな安倍国葬が、政府の予定のとおりに強行されるとして、世論の糾弾を押して、いったい誰が出席するといのだろうか。共産党に続いて、れいわ新選組が安倍国葬出席拒否の方針を表明した。山本太郎は会見で「れいわとして出席しない。(政府は)法的根拠がないものをごり押ししようとしている」「閣議決定だけで国会を事実上、形骸化させるようなことは絶対に許してはいけない。政府の裁量だけで決めるのは独裁国家だ」と強く非難。「それほどやりたいなら、自民党と旧統一教会の合同葬にしてほしい」とまで述べたという。なるほど、安倍晋三には、自民党と統一教会の合同葬がふさわしいのかも知れない。
まさか、社民党が出席とはならないだろう。準与党というべき維新と国民は、ボイコットできまい。問題は立憲だ。出欠については「(閉会中審査の)結果を見極めた上で判断」とのことだが、権力の横暴に対する抵抗の姿勢が問われる問題として、見守りたい。
なお、この問題「党議拘束」とは無関係。出欠は、議員や被招待者各個人の主体性にもとづく判断による。自民党からも公明党からも、出席ボイコットあってしかるべきだろう。下記のような事態となれば、何とも痛快なのだが。
「(山県有朋の)国葬当日は雨上がりで寒かった。1万人収容の仮小屋に数百人しか参列せず、議員数人の他は軍人と官僚ばかり。たまたま1カ月前、同じ東京・日比谷公園で行われた政敵、大隈重信の国民葬に30万人が詰めかけ、沿道に100万人が並んだ盛況との明暗を、毎日新聞の前身・東京日日新聞は『大隈侯は国民葬 きのうは<民>抜きの<国葬>で 中はガランドウの寂しさ」と伝えた。」(伊藤智永・毎日「石橋湛山は国葬に反対した」)
そして、国外からの要人は弔問に来日するのか。これも見込み違いとなりそうだ。
主要各国の首脳の顔が揃いそうにもない。アメリカからバイデンは来ない。トランプだってその気配もない。シンゾーとどこまでも駆けて行くことを誓った親友ウラディーミルもそれどころではない。習近平も来ない。金正恩が来れば弔問外交の目玉になろうがあり得ない。イギリスも、フランスも、イタリアも、首脳は参列しない。ドイツのシュルツ首相も来ない。せめてメルケルが来れば話題ではあろうが、これとて来ない。
あれっ? 「地球を俯瞰する外交のアベ」と自讃したこともあった安倍晋三のはずだったが、棺を蓋いてこと定まれば、こんな程度のことなのだ。全ては晋三の不徳の至りで、自己責任なのだろう。結局、安倍国葬実施の一つの根拠とされてきた「弔問外交」は“絵に描いた餅”と言われる事態である。
やっぱりやめよう 金食い虫の安倍国葬。
(2022年9月5日)
安倍国葬反対の声は澎湃として全国を席巻しつつある。そもそも国葬とは、国民の圧倒的多数が死者に対する敬意と弔意を有して始めて成立するものだろう。あらゆる世論調査の結果がその真逆の民意を示している。国葬推進派も、「大多数の国民が、安倍元首相に対しての国を挙げての敬意と弔意の表明を望んでいる」とは、けっして言わない。とうてい、言えない事態なのだ。
ならば、安倍国葬はもうあり得ない。もともと無理だったのだ。「過ちては改むるに憚ることなかれ」ではないか。また、「過ちて改めざる是を過ちと謂う」とも。岸田君、今こそ君が隠し持っているというあの「国民の声を聞く力」を初めて発揮のときだ。君は不得意なようだが、自分が間違った理由を、国民に丁寧に説明し謝罪すれば、まだ続投の目はある。過ちを認めず、改むるを憚り、結局改めざるの過ちを重ねれば、傷が深くなるばかり。
傷は浅いうちに治癒すべきが鉄則ではないか。幸い、国葬の実施は国会を通さずに閣議決定で決めただけのものだ。それなら、国葬実施撤回の閣議決定をしさえすればよい。簡単なことだ。
ところで、国葬反対の理由は、当初は違憲論が主調だった。《安倍国葬》よりは、《国葬》そのものが違憲・違法とする立論。憲法19条・14条違反。あるいは、財政民主主義に反する、そもそも立憲主義に反する…等々。やや、小難しい。
次第に論調は《安倍国葬反対》に移ってきた。理由は、よく考えて見れば安倍晋三が国葬に値する人物ではないという分かりきったことの再認識。こんな人物を国葬にするなんて、日本の恥ではないかという真っ当な感覚の復活である。「ウソつき晋三の国葬反対」「政治を私物化し忖度文化をはびこらせた安倍の国葬を認めない」「歴史を偽造しヘイトを煽った人物の国葬などとんでもない」「こんな人に、敬意や弔意なんてまっぴら」と、分かり易い。
しかも、安倍国葬反対の世論高揚に決定的なインパクトとなったのは、統一教会問題だった。岸信介・安倍晋太郎・安倍晋三の三代にわたっての、統一教会との醜悪な持ちつ持たれつの関係の一端が暴かれて世論は急速に変わった。明らかに白けた。
安倍と教団との相寄る二つの魂をつないだものは、反共という黒い糸。今世論は、安倍晋三と統一教会の関係に敏感な反応を示している。「統一教会の広告塔である安倍晋三の国葬はあり得ない」「統一教会の正体隠しに加担し、霊感商法や高額献金を支援した安倍晋三ではないか。糾弾すべき人物を国葬なんて」「反共・極右の政治信条で統一教会と結びついた安倍晋三の国葬には、危険な政治的意図の臭いがする」…。
岸田や茂木など自民党幹部は、「統一教会と自民党との接触はない。教会と接触を持っていたのは議員個人でしかない」という論法で、世論をかわそうとしているようだが、さてどうだろうか。自民党と統一教会・勝共連合とが公式には接触していないのか、今のところは分からない。しかし、統一教会は、信介・晋太郎・晋三と自民党の要職を嗣いできた世襲三代と親密な関係を築いてきた。何よりも、自民党総裁として権勢を欲しいままにしてきた安倍晋三が、統一教会・勝共連合とは抜き差しならぬ関係にあったのだ。
他の議員のことは後回しにしても、安倍晋三と統一教会・勝共連合との抜き差しならぬ親密な関係を徹底して真っ先に調査すべきが、自民党の世論に対する責務であろう。いま、これをやる気があるのかが問われている。
自民党の幹部は、「亡くなった人への調査には限界がある」と言っているそうだが、そりゃまるで安倍流の流の嘘だ。「限界」は調査回避の口実に過ぎない。安倍晋三が生存していたとて、任意の自白をするはずはない。そのことは、モリ・カケ・サクラで、国民が身に沁みている。むしろ、安倍なき今こそ、安倍に忖度のない調査環境が調ったと言うべきである。安倍なき今だからこそ、遠慮のない徹底した調査が可能となってる。その上で、あらためての安倍晋三の身体検査がどのくらいできるのか、自民党自身が、その自浄能力の有無を問われているのだ。
それにしても、泉下の安倍晋三の心情を忖度するに、国葬は迷惑至極な押し付けであろう。家族葬だけにしておけば、銃撃の犠牲者であったものを、国葬なんぞにしようとするから、「ウソつき」「政治の私物化」「ヘイト、歴史修正主義者」「反共・霊感商法擁護」と生前の悪行を暴かれ数え上げられているのだ。自らの不徳の致すところとはいえ、気の毒ではないか。安倍晋三自身のためにも、一刻も早く、安倍国葬実施の撤回をしてあげるべきだと思うのだが。
(2022年9月3日)
毎日新聞に毎月一回の大型コラム「時の在りか」。ベテラン政治記者伊藤智永の健筆で、知らないことを教えてくれる。本日は、「石橋湛山は国葬に反対した」。石橋湛山の山県有朋国葬反対を評価する立場からの、「安倍国葬」論である。さすがに読ませる。が、途中の違和感ある一文ですっかり白けた。
「明治の元勲、山県有朋が83歳で病没したのは1922(大正11)年2月。時に37歳の雑誌「東洋経済新報」記者、石橋湛山(後の首相)は「死もまた社会奉仕」とコラムに書いた。」
石橋湛山よくぞここまで書いたもの、また東洋経済よくぞこの記事を掲載したものと感嘆せざるを得ない。今、安倍晋三の死を「社会奉仕」「政治浄化への貢献」と、公然と論じるメディアは見当たらない。大正デモクラシー侮るべからずである。
「山県の国葬予算に議員2人が反対したのも変化の表れだった。湛山は…親の葬式さえ出せない貧民が多いのに、彼らも納めた間接税で山県の葬式を行うのかという批判に賛成する。反対演説中、衆院議長は「他人の身上を論議するな」と制した。湛山は問う。国葬にすることがすでに山県への評価である以上、議長の整理は自己矛盾だ。それこそ国葬なるものの不自然さを示すものに他ならない、と。」
「(山県)国葬当日は雨上がりで寒かった。1万人収容の仮小屋に数百人しか参列せず、議員数人の他は軍人と官僚ばかり。たまたま1カ月前、同じ東京・日比谷公園で行われた政敵、大隈重信の国民葬に30万人が詰めかけ、沿道に100万人が並んだ盛況との明暗を、毎日新聞の前身・東京日日新聞は『大隈侯は国民葬 きのうは<民>抜きの<国葬>で 中はガランドウの寂しさ」と伝えた。」
このあたりは、面白い。伊藤自身の国葬に対する姿勢は、以下のようにまとめられている。
「1883年の岩倉具視以下、戦前・戦中を通じて皇族・華族・元勲・軍人ら21人の国葬が行われ、大正末に国葬令も制定されたが、敗戦で失効。あくまで天皇主権国家の恩賜であり、国民主権の世では役割を終えた儀式だ。必要なら国民主体の新しい形で、趣旨や対象や条件を法制化するのが筋である。
1967年、佐藤栄作首相(当時)が吉田茂元首相の葬儀を法的根拠なく閣議決定で「国葬」にしたのは、戦後も「臣茂」を公言した政治の師に対する弟子の恩返しだったらしいが、その後は例がない。やっぱり無理があったのだ。」
ところが、唐突に、「そもそも天皇ご一家以外の国葬って何だ。」という一文に出くわし、ギョッとし、興醒めし、このコラム全体が色褪せてしまった。伊藤智永はよくもまあこんな文章を書いたものだし、毎日新聞はよくもまあこんな記事を掲載したものと嘆息せざるを得ない。戦後民主主義とは、「表現の自由」の現状とは、こんな程度のものなのだろうか。
伊藤は「天皇ご一家」と書き慣れてるのだろうか。伊藤の筆はこのような表現に抵抗感はないのだろうか。「そもそも天皇ご一家以外の国葬って何だ」という言葉の響きには、「天皇ご一家の国葬ならあって当然」「天皇ご一家の国葬なら、全国民が弔意を表明しても当然」という立場を感じさせる。とうてい、自覚的主権者の文章ではない。
天皇や皇族の葬儀なら国葬も当然、国民に弔意を要請しても(強制できるはずのないことは自明)不自然ではないなどと言ってはならない。それは主権者の言葉ではなく、自尊の矜持を捨て去った奴隷の言葉なのだから。権威主義的な政治支配には、このような奴隷の言葉を受容する被治者が必要でなのだ。安倍国葬も天皇の国葬も、主権者として、人権主体として原理的に拒否しなければならない。
ところで、「週刊金曜日」(9月2日号)《編集委員から》欄の想田和弘コメントに、目が行った。
「『ツィッターで、安倍氏国葬で黙祷を強制されたら、黙祷の時間どうしますか? 大喜利よろしく』と呼びかけた。すると、『壺を割る』だの『黙々と仕事』だの多数のアイデアが寄せられたが、最も多かったのは『赤木俊夫氏の冥福を祈る』という趣旨のものだった。あなたなら?」
なるほど。安倍晋三の冥福を祈るよう命じられての黙祷で、実は安倍のために命を奪われたに等しい赤木俊夫さんの冥福を祈ろう、という提案。これぞ、究極の面従腹背。その立場如何にかかわらず、自尊の矜持を護る方法はあるものなのだ。
(2022年9月1日)
9月1日、私が名付けた「国恥の日」である。1923年9月1日発生の大震災にともなう混乱の中で、軍と警察に煽動された関東一円の民衆が朝鮮人と中国人を集団虐殺した。侵略戦争と並ぶ日本近代史の汚点であり、国恥というほかはない。
しかもこの国は以後99年間、この痛ましい被害とおぞましい加害の実態を検証しようとしてこなかった。この態度も国恥である。そして今、被害者たちを追悼する心ある人びとの営みに、敢えて水を差そうというのがこの国の首都の知事・小池百合子なのだ。首都の選挙民は、いまだにこんな人物を選任している。このことこそが本当の国恥なのかも知れない。
以上のことは、ぜひ下記の過去ログをご参照いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=17481
https://article9.jp/wordpress/?p=11012
さて、もう一つの国恥である。政府は9月27日に安倍国葬を強行するという。私は国葬そのものに反対だが、今回の国葬に反対の理由として分かり易いのは「統一教会ベッタリ」で「統一教会広告塔」である安倍の国葬だからである。「ウソつき晋三」の国葬でもある。こんな人物を国葬とは、これこそ国恥ではないか。
安倍晋三とは、反共という政治信条で統一教会とベッタリ結びついた恥ずべき政治家である。統一教会信者票をとりまとめこれを動かしていた男。統一教会や勝共連合の幹部とズブズブの関係にあった政治家。実は、こんな輩の長期政権を許していたこの国の民主主義の実態こそが真の恥である。
それにしても、不可思議なのは岸田文雄という人物の頭の中。昨日の記者会見で「統一教会との絶縁宣言」をしたはず。「関係を断つことを党の基本方針とする」とまで言った。にもかかわらず、 「統一教会ベッタリ晋三」の国葬は強行するというのだ。恥ずかしくないのかね。
この国恥、いや安倍国葬の企画については内閣府のホームページで概略を把握できる。URLは以下のとおり。注目しなければならない。
https://www.cao.go.jp/kokusougi/kkusougi.html
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故安倍晋三の葬儀の執行について
令和4年7月22日
閣 議 決 定
1 葬儀は、国において行い、故安倍晋三国葬儀と称する。
2 葬儀に関する事務をつかさどらせるため、葬儀委員長、同副委員長及び同委員を置く。
葬儀委員長は内閣総理大臣とし、同副委員長及び同委員は内閣総理大臣が委嘱する。
3 葬儀は、令和4年9月27日(火)、日本武道館において行う。
4 葬儀のため必要な経費は、国費で支弁する
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故安倍晋三元総理の葬儀について
1.葬儀の主催者 国
2.葬儀の名称 故安倍晋三国葬儀
3.葬儀の日程 令和4年9月27日(火)
4.葬儀の場所 日本武道館
5.葬儀委員長 内閣総理大臣
6.葬儀形式 無宗教形式
7.葬儀の費用 国費
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「故安倍晋三国葬儀」実施概要
令和4年8月 31 日
故安倍晋三国葬儀
葬儀実行幹事会決定
1.日時・場所
・令和4年9月27日(火)午後2時開式
・日本武道館
2.参列者
・現・元三権の長、現・元国会議員、海外の要人、立法・行政・司法関係者、地方公共団体代表、各界代表 等
・最大で約6000人程度
・案内状については9月初から順次発送する。
3.一般献花
・9月27日午前10時から午後4時までの間、日本武道館外に設ける献花台において、一般献花を実施する。
・献花用の花は各自で用意いただく。
4.葬儀当日の会場周辺の立ち入り制限
・国葬儀当日は、日本武道館周辺について参列者以外の立ち入りを制限する
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故安倍晋三国葬儀の当日における弔意表明について
令和4年8月 31 日
葬 儀 委 員 長 決 定
故安倍晋三国葬儀の当日には、哀悼の意を表するため、各府省においては、弔旗を掲揚するとともに、葬儀中の一定時刻に黙とうすることとする。
(2022年8月30日)
世は、安倍国葬と統一教会への対応で揺れている。岸田内閣の支持率は大きく低下し安閑としておられない事態となった。黄金の3年間どころではない。泥沼の政権運営となりつつある。
何もしないことで支持率を保ってきた岸田政権だったが、決断して動いたことで世論の批判を招くことになった。安倍国葬と内閣改造である。その発端は、安倍晋三銃撃事件。銃撃犯山上徹也の動機は、統一教会への復讐であったという。なぜ、安倍銃撃が統一教会への復讐となるのか、その理由が明らかになるにつれて、統一教会批判が大きな世論となった。統一教会批判は、これとの結びつきを暴かれた安倍への批判にも跳ね返り、安倍国葬反対の世論が噴出した。慌てた岸田は、統一教会との結びつきを指摘された閣僚を挿げ替えようとしての内閣改造に失敗して、さらなる窮地に陥っている。
あらためて確認しておこう。統一教会とは、宗教団体(カルト)であり、反共政治団体であり、かつ経済的収奪組織である。
山上徹也は、安倍晋三銃撃という手段で、この三位一体構造を撃った。反共政治団体としての統一教会が反共政治家と緊密に結びついていたからこそ、安倍晋三銃撃が統一教会全体を撃つことになったのだ。
その山上徹也の現在の動向を知りたいと思うのだが、まったく報道がない。現在鑑定留置中で、その期間は7月25日から11月29日までとされている。長い。そして、常識的にこの被疑者が刑事責任能力を欠如しているとは考え難い。
まさか、検察側に山上を心神喪失者として起訴を避け、公開の法廷で安倍晋三と統一教会との癒着の立証を回避したいということではなかろう。とすれば、国葬が終わるまではできるだけの世論の静謐を保ちたいとの政権の思惑を忖度してのことなのだろうか。
ともかく、間接的にもせよ、今山上が何を考えているかを知りたい。起訴前弁護を受任している弁護士がいるはずではないか。被疑者本人に代わって語るべきことはないのだろうか。
近しい弁護士から教えられた。山上徹也の伯父(徹也の亡父の実兄)は、どうやら大阪弁護士会に所属していた29期の弁護士であるようだ。現在はリタイアしているが、信頼できる弁護人を紹介することは容易な立場だ。また、奈良弁護士会が複数の被疑者国選弁護人を推薦したとも聞く。
弁護人が山上本人と接見して社会の様子を伝え、その意向を確認したうえで発言を控えているのならそれでよい。が、予想される裁判員裁判で、選任される裁判員が山上にとっては不本意な報道による思い込みにさらされないとも限らない。鑑定留置中に接見できるのは、弁護人だけである。被疑者のスポークスマンとして果たさなければならない役割もあるのではないか。
(2022年8月28日)
よく知られた啄木の短い詩に、「ココアのひと匙」がある。
われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき心を。
明らかに、「おこなひをもて語らむとする心」を肯定したテロリストへの共感が詠われている。この詩には、「一九一一・六・一五 TOKYO」と付記があるが、同じ日付の詩に、「はてしなき議論の後」がある。「われらは何を為すべきかを議論す。されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD!’と叫び出づるものなし」という、あの鮮烈な言葉。こちらは、理論倒れで行動に出ることの出来ない軟弱な自分を責めている趣きがある。
啄木がこの詩を編んだ1911年の1月18日、「大逆事件」の判決が言い渡されている。幸徳秋水以下24名が死刑となった。罪名は大逆罪、よく知られているとおり、「(天皇等に)危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」という条文。「危害ヲ加ヘントシタ」だけで死刑、未遂でも、予備・陰謀でも、死刑なのだ。他の刑の選択の余地はない。
管轄は大審院、一審にして終審である。上訴はない。早々と1月24日に11名、25日に1名の死刑が執行された。他は、「天皇の慈悲による」特赦で無期刑に減刑という。恐るべし天皇制、恐るべし天皇制刑法とその運用。ムチャクチャというほかはない。
こんな時代、「奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らむとする心」に共感を寄せつつも、「冷めたるココアのひと匙を啜りて、そのうすにがき舌触りに、われは知る、テロリストのかなしき心を」と唱うことが精一杯であったろう。
啄木はかなり詳細に、大逆事件でっち上げの経過を知っていたようである。従って、啄木が共感したテロリストを秋水とするのは当たっていないようだ。
むしろ、啄木没後の1923年、関東大震災直後の虎ノ門事件(1923年12月27日)における難波大助の方がテロリストのイメージに近い。当時の皇太子裕仁(摂政)をステッキを改造した仕込銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長車が軽傷を負ったが皇太子にはかすり傷も負わせなかった。それでも、死刑である。
これは大事件だった。震災復興を進めていた第2次山本権兵衛内閣は引責による総辞職を余儀なくされた。警視総監から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の徒をかつて教育した責を負って職を辞した、と丸山眞男の「日本の思想」(岩波新書)の中に、「國體における臣民の無限責任」という小見出しで記されている。
山上徹也は皇太子ではなく、元首相を銃撃した。こちらは既遂である。時代は変わった。難波大助に比較すれば、まともな裁判を受けることができるだろう。そして、今、世論の風当たりは山上にけっして厳しくなくなっている。
さて、仮に石川啄木が今にあって山上徹也に、「われは知る、テロリストの かなしき心を」と共感を寄せるだろうか。私は思う。けっしてそんなことはない。あの時代の、あの天皇制の苛酷な支配下の大逆事件であればこそ、啄木は「テロリストへの共感」を詩にし得た。今の世、山上の行動への共感は詩にならない。
今の世、まだ言葉は奪はれてはいない。奪われた言葉のかはりにおこなひをもて語らむとする心は、詩にも歌にもならない。
やはり100年無駄には経っていないのだ。私はそう思う。銃撃に倒れた安倍晋三をいささかも美化してはならないにもせよである。
(2022年8月26日)
安倍晋三氏の国葬に反対します。ぜひ、あなたも反対の声を。
私たちは、1969年に最高裁の司法修習生となった同期の仲間です。1971年に弁護士や裁判官となって以来今日までの50年余、一貫して日本国憲法の理念を大切なものとする立場で職業生活を送ってきました。
これまで、司法研修所卒業時の理不尽な同期生罷免と法曹資格回復の取り組みを振り返った「司法はこれでいいのか」の書籍出版を行ったり、気の合う仲間として忌憚なく話し合ってきましたが、初めての経験として、この仲間で意見をまとめて声明を出そうということになりました。
その内容は、現内閣が閣議決定によって9月27日に執り行うとしている安倍晋三氏の国葬に反対するというものです。
併せて多くの皆様に、それぞれの立場から、個人でもグループでも、「国葬反対」の声を上げていただくようお願いいたします。それぞれのご意見を、お手紙やビラやポスターにするか、メールやSNSやプログに掲載して、お知り合いにお伝えいただきたいのです。「安倍氏の国葬に反対する」という声が、全国到る所から湧き上がり響き合って大きな圧倒的世論となることが、戦争ではなく平和、独裁ではなく民主主義という声を力強いものとすることになると思うのです。それは安倍氏が進めてきた憲法破壊の政治と憲法改正の動きへの抵抗の力ともなります。
私たちが、「安倍氏の国葬に反対する」理由は、以下のとおりです。
記
1 安倍氏の国葬は、国民に弔意を強制するものとして許されない
国葬とは、全国民こぞって弔意を捧げるという意味づけの行事です。安倍氏国葬とは全国民にかわって国が同氏への弔意を表明することになります。国民一人ひとりが、国に束ねられて安倍氏への弔意を表明することにされてしまいます。全国民から徴収した税金を財源に費用を支出する点においても、全国民にこの儀式への参加を強制することにもなります。
安倍氏の国葬については現に、弔意の押し付けはごめんだという多くの人たちがいます。そして、そのような人々の意見や心情は、憲法上の権利(「思想・良心の自由の保障」憲法19条)として、尊重されなければなりません。私たちもまた、各々の思想・良心に基づいて、このような形での安倍氏への弔意の表明を拒否します。こうした意見を無視する安倍氏国葬の強行は、到底容認することができません。
2 安倍氏の国葬は、岸田内閣による政治利用として許されない
葬儀とは、死者を悼む人々が集う営みですから、本来私的なものであるべきです。同時に国葬そのものにも重大な問題があります。
安倍氏が衝撃的な亡くなり方をしたことによって、いま同氏への批判を口にしにくい雰囲気があります。岸田内閣が、これを奇貨として、安倍氏への批判を封じるために国葬を画策したとしか考えることができません。そのことは、ひとりの政治家の死を、現政権が政治的に利用しようとするもので、道義的政治的に許されないものです。
生前の安倍氏は首相として何を行ったでしょうか。教育基本法の「改正」、特定秘密保護法、共謀罪法、集団的自衛権行使を容認した「安保法制」諸法の強行採決は特に記憶に残るところです。権力に物言わせて、政治の私物化、ウソとごまかしの政治手法、行政情報の改竄隠蔽でも世を騒がし、モリ・カケ・サクラ・クロカワ・カワイ等々の不祥事を、不誠実な対応で未解決のままに放置した人物でもありました。戦後レジームの解消をとなえ、国家主義的・軍国主義的な政治姿勢が顕著であり、一面復古的な歴史修正主義者でもあり、他面新自由主義的な経済政策で格差貧困の社会を作った重い責任もあります。このような政治家について国葬を強行実施することに反対の声が広がりつつあることはごく自然なことと言わざるを得ません。
3 国葬は、法律の根拠を欠き財政民主主義に反するものとして許されない
国のあらゆる財政支出には国会の議決に基づく法的根拠が必要です。この点を憲法は、「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」(憲法83条)と財政民主主義の原則を宣言し、「国費を支出…するには、国会の議決に基くことを必要とする」(憲法85条)と具体化しています。国葬に国費を投じてよいとする法的根拠はどこにもありません。
戦前には、国葬令(勅令・1926年制定)が民間人の国葬の根拠となって、当然に国費の支出も可能とされていました。しかし、この勅令は日本国憲法に不適合なものとして「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力に関する法律」1条に基づき失効しています。その後、これを復活すべきとする議論はありません。
岸田首相は、内閣府設置法上の内閣の所掌事務として「国の儀式」にあたるとして、閣議決定があれば実施可能としています。しかし、国葬令が失効しているにも拘らず、そんな解釈を認めてしまえば、国会の議決を無視した閣議決定でなんでもできることになってしまいます。行政府に対する議会の統制を強化してきた歴史の流れを無視し、憲法の財政民主主義をないがしろにする「岸田流解釈」はとうてい通用するものではありません。
4 安倍氏の国葬は、旧統一教会による被害の拡大に手を貸すものとして許されない。
安倍氏銃撃事件はなぜ発生したのか。今、安倍氏本人と旧統一教会との深い関係が明らかにされつつあります。まだすべてが解明されたわけではありませんが、いま急ピッチでその全容が明らかになりつつあります。
少なくとも、祖父岸信介氏以来三代にわたる安倍氏と統一教会との緊密な関係が国民の目に印象深く刻まれました。また、巨額の悪徳商法被害を出し、信者家族の生活を破壊した旧統一教会に対して、安倍氏や他の少なからぬ自民党議員が支援者・庇護者として振る舞っていたことも強い印象を刻んでいます。安倍氏が国葬にふさわしい人物なのかどうかについてはこの点からも強い疑問を抱かざるを得ません。
安倍氏の国葬を強行すれば、今後の同氏と統一教会との関係、さらには自民党政治と統一教会とのつながりについての徹底解明を阻害することが危惧されます。
そして、名称をかえて現在もなお活動を続けている旧統一教会への追及そのものが放置され、そのことによって、さらなる国民への被害拡大につながることが強く懸念されます。
23期弁護士ネットワーク
本日記者会見をしてこの声明を発表した。当初は23期だけの声明のつもりだったが、「それだけではややさびしい。賛同者も加えて」との発案があって、少しにぎやかになった。合計賛同者は118名である。
※ この声明を出した趣旨は、「この声明に賛同してください」「この指止まれ」ではありません。私たちは、雑談仲間の雑談の中から、安倍国葬反対の声明を出すことにしました。今やだれもが発信のツールをもつ時代。そのツールを活用して、いろんなグループで、あるいは個人で、それぞれに「安倍国葬に反対」の意志表明をお願いしたいのです。反対理由は、けっしてみんな同じということはなく、それぞれのはずでしょう。それぞれの立場から、それぞれの切り口で、至るところから、多様な「安倍国葬反対」の声を上げていただくよう是非お願いします。
※ 国葬反対の理由には、国葬そのものに反対と安倍国葬だから反対の二派があります。もちろんその折衷派もあります。ちょうど、国旗国歌そのものの強制に反対という原理派と、日の丸・君が代という特定の歴史と結びついた旗や歌だから反対との二派があるのによく似ています。どちらも、原理的に、あるいは具体的に国家と個人との関係を浮き彫りにしています。
ご注意いただきたいのは、国葬に伴う黙祷や歌舞音曲停止という具体的な行為の強制を問題としているのではなく、国葬を行うということそれ自体が、国民に対する弔意の強制だということです。
※ もう一つ。「国葬は当たり前だ。やらなかったらばかだ」という政治家の発言がありました。私は、この種の発言を恐ろしいと思います。この国は、無謀な国策を止めることができません。理性的な民意を顧みて、立ち止まり振り返ることができないのです。戦争も、原発も、辺野古も、そして今始まった国防国家化も、「征きてし止まん」なのです。せめて、安倍国葬くらいは本当にやめてもらいたい。
(2022年8月23日)
これまで、統一教会や勝共連合のホームページに何の関心ももたなかった。が、今は若干の関心がある。生前の安倍晋三や自民党とのつながりがどうだったのか、安倍国葬にどんな見解をもっているのか、そして、世を挙げての統一教会バッシングをどう考えているのかを知りたいからである。
統一教会のホームページでは、次の記事(2022年8月21日付)が目にとまった。
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報道機関各位
世界平和統一家庭連合広報部
【異常な過熱報道に対する注意喚起】
現在、民放のワイドショーや報道番組、新聞・週刊誌記事を中心として、世界平和統一家庭連合(以下、当法人)および友好団体等に対する異常ともいえる過熱報道が続いております。
(中略)
今後は、事実に反する報道や不当に当法人等を貶める報道に対しては、法的手段を講じて厳重に対処させていただく所存です。
以上
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そして、勝共連合のホームページには、2022.07.28付「思想新聞」(機関紙)の主張が掲載されている。「我々は『勝共』の使命を貫徹する」という、悲壮感漂う記事。勝共連合自らが安倍晋三との親密さを表白するものとして紹介に値する。以下はその抜粋、但し括弧内は私の註である。
安倍晋三元首相が銃弾に倒れた。令和4年7月8日、そのニュースが飛び込んでくると、ひたすら無事を祈ったが、安倍元首相は還らぬ人となった。遺憾にも凶悪犯は本連合の友好団体に恨みを持つ者で、その矛先を安倍元首相に向けたと報じられている。痛恨の極みである。安倍元首相は日本のみならず世界の「羅針盤」であった。その安倍元首相を失うことは世界史的損失である(勝共的な歴史観からは、安倍晋三とはかくも偉大で、その死を惜しむに値する人物なのだ)。心から哀悼の意を捧げたい。
今事件で本連合についてもメディアでさまざまな情報が飛び交っている。中には共産主義勢力による悪意に満ちた偽情報が少なからずある。改めて本連合の設立目的を明記しておきたい
本連合は政治資金規制法に基づく政治団体である(法の名称が間違い。「政治資金規正法」が正しい。こういう明らかな間違いは、少々恥ずかしい)。主義・主張は「勝共」すなわち「共産主義から人類を解放する」である。共産主義の解放に向けた思想啓蒙を主な使命としている。1968年に世界的宗教指導者の文鮮明師の提唱で笹川良一氏を名誉総裁、久保木修己氏を会長に創立された。
共産主義と戦う全ての人と連帯
共産主義は大学界、マスコミ界、労働界など各界に浸透し「70年安保決戦」を呼号していた。本連合は学生・青年会員を中心に、「共産主義は間違っている」と、大学内、街頭において果敢に思想戦を展開し、共産主義の正体を暴いた。爾来、共産党は「狂信とデマの勝共連合」と中傷し続けている。今日に至るまで我々は一貫して彼らの誤謬を知らしめており、それゆえに共産主義勢力から攻撃を受けるのは宿命と考える。(自らの積極的な理想や理念は語らない。ただひたすらに、「共産主義は間違っている」というだけの「主義・主張」。虚しくないのだろうか。)
自民党は立党宣言において「議会政治の大道を歩み、暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力または思想を排撃し、個人の自由と人格の尊厳を社会秩序の基本条件となす」と唱っている。野党では民社党(当時)が「左右の全体主義と戦う」とし、主に労働界で共産主義と戦ってきた。愛国団体・有志もまた然りである。(自分の仲間は、自民党・野党右派・右翼だという。今なら、自民・維新・国民というあたりか)
こうした人士と連帯・連携して戦うのは当然のことである。本連合と関わる国会議員や有識者に対して非難中傷する向きがあるが、それこそ共産主義の分断工作と言わねばならない。(産経も読売も日本テレビまでもが、「共産主義の分断工作」に加担しているというわけだ)
本連合は創設以来、運動方針に「憲法改正を実現しよう」を掲げている。70年代に岸信介元首相は自民党立党の原点である自主憲法制定へ全国的な啓蒙運動を展開されていた。共産主義勢力は中国共産党やソ連の意図を汲み日本弱体化を狙って護憲を唱えた。改憲は戦後日本の悲願であり、それなくして真の独立国たり得ない。本連合は同運動に参画し今日に至る。(改憲願望こそが、自民党と統一教会・勝共連合とを結ぶ、切るに切れない赤い糸なのだ)
未曽有の危機に備える国民運動
89年11月に「ベルリンの壁」が崩壊し、東欧は共産主義の呪縛から脱し、91年にはソ連邦が解体し東西冷戦が終焉した。それに代わって今日、共産中国が台頭し台湾のみならずわが国への軍事侵攻を虎視眈々と狙っている。北朝鮮の核・ミサイル脅威も迫る。ウクライナ軍事侵攻のロシアも日本列島への野望を高める。未曽有の危機である。(自民党の現状認識と瓜二つ)
これに対して本連合は「防衛力強化、スパイ防止法制定などを通して我が国の安全保障体制を確立する」を運動方針に掲げ、国民運動に取り組んでいる。国内では文化共産主義勢力が国家の基盤たる家庭や伝統、文化を破壊しようと策動している。同性婚合法化や行き過ぎた「LGBT」人権運動はその一端である。本連合はそれらに歯止めを掛け、「正しい結婚観・家族観」を求めている。(反共とは、「文化共産主義」への反対も含む。要するに、「なんでも共産主義のせい」「あれもこれも共産党が悪い」という珍説。)
こうした勝共国民運動が安倍元首相の希求した「日本を取り戻す」の一助になれば幸甚である。我々は勝共の使命を貫徹する決意を安倍元首相の御霊前に捧げる。
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記事に説得力は乏しいが、安倍晋三に対する敬意や、親近感や、弔意は伝わってくる。もしかしたら、勝共の諸君は、安倍晋三に対する宗教的な尊崇や畏敬の念を抱いていたのではないだろうか。そんなことを感じさせるほど、安倍晋三と勝共とは親密であったのだ。
(2022年8月22日)
統一教会の正式名称は、「世界基督教統一神霊協会(Holy Spirit Association for the Unification of World Christianity)」であった。現在は改称して、「世界平和統一家庭連合(Family Federation for World Peace and Unification)」となっている。
旧名称には、「基督教」「神霊」という宗教団体らしい単語があったが、新名称にそれらしいものは一切なく、「宗」「教」「神」「霊」の一字すらない。新旧名称の共通単語は、「世界」と「統一」だけで、新名称には「平和」と「家庭」が入った。新名称での略称は「家庭連合」とされている。
新旧の名称上の変化は、何よりも「家庭」の強調である。英文では、トップに「Family」。統一教会はこれが布教に有益で、かつ、彼らの政治主張にも適合的と考えたのだ。その思想は、自民党主流ないし右派と通底するものである。
2012年4月に公表された「自民党改憲草案」では、日本国憲法24条に、次の1項を書き加えるものとなっている。自民党は、24条をいじりたい。憲法に「家族」のあり方を盛り込みたくてしょうがないのだ。
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」
「個人」と「国家」との間には、いくつもの中間組織が重層的に存在する。そのうち個人に最も近いものが「家族」であって、強権国家・全体主義国家は、常に家族・家庭を通じての個人支配に虎視眈々なのだ。
家族ないし家庭を国家統制の手段として利用することに熱心だったのは、戦前の天皇制国家だった。これは、儒教的伝統の「家」の活用でもあった。復古主義的自民党右派が、最も郷愁を覚えるのが、「民族の文化・伝統としての家族秩序」なのだ。端的に言えば、家父長制的「家」の復活への願望である。
私の手許に、早川 タダノリ(編著)の「まぼろしの『日本的家族』」(青弓社ライブラリー・2018年)がある。これが、なかなかの優れもの。
「右派やバックラッシュ勢力は、なぜ家族モデルを「捏造・創造」して幻想的な家族を追い求めるのか。家族像の歴史的な変遷、官製婚活、結婚と国籍、税制や教育に通底する家族像、憲法24条改悪など、伝統的家族を追い求める事例を検証する」と問題意識が語られている。一口に言えば、「改憲潮流が想定する『伝統的家族像』は、男女の役割を固定化して国家の基礎単位として家族を位置づけるものである」ということ。私流に翻訳すれば「全体主義国家は、家族を通じて個人を抑圧する」のだ。その典型が近代天皇制における「家」のあり方にほかならない。
この書は、7人の著者による7章からなり、それぞれに面白い。
第1章 「日本的家族」のまぼろし 早川タダノリ
第2章 右派の「二十四条」「家族」言説を読む 能川元一
第3章 バックラッシュと官製婚活の連続性― 斉藤正美
第4章 税制と教育をつなぐもの 堀内京子
第5章 家庭教育への国家介入の近代史をたどる 奥村典子
第6章 在日コリアンと日本人の見えにくい「国際」結婚の半世紀 りむ よんみ
第7章 憲法二十四条改悪と「家族」のゆくえ 角田由紀子
私は、とりわけ第5章を興味深く読み、知らないことを教えられた。
全国民のマインドコントロールに熱心だった文部省教学局が、1937年に「國體の本義」を、1941年に「臣民の道」を発刊したことは良く知られている。実は、これに続いて44年4月刊行予定の「家の本義」の編集に手を染めていたが、戦局悪化のためにこの計画は潰えたという。
常識的に、天皇制国家は「家族国家観」を基礎として成立した。家庭内の秩序を国家大に拡大したイデオロギーである。道徳の基礎としてまず家庭内の秩序の形成と受容を求める。教育勅語の徳目羅列は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」から始まっている。臣民に対する教化の根幹は、「家を思い親に対する孝心を養え。その孝心を忠君愛国の精神に昇華せよ」というものである。
ところが、未刊に終わった「家の本義」のイデオロギーはこれとは違うのだという。「真に家を思ふのであれば、家を忘れなければならない」「生まれた子どもは『我が子』ではなく、『陛下の赤子』である」「親の務めは『陛下の赤子』を天皇の盾へと育てあげること」と説くものなのだそうだ。「家」あっての「御国」という悠長なことを言っておられなくなり、天皇と国家への戦闘要員の供給源としての「家」を露骨に説くものとなったのだ。
全体主義国家の家族観として、行き着くところを示したものと言うべきであろう。自民党の復古主義家族観の恐さを示して余りある。これと呼応するがごとき、《私たち統一教会は、家庭を中心として国家救援、世界救援を主張しているのです》という、統一教会の家庭の捉え方も恐ろしい。「反人権・親国家」のイデオロギーとしての「家族」「家庭」「家」、いずれもとうてい受容し得ない。
(2022年8月21日)
統一教会とは、宗教団体でもあり、政治団体でもあり、反社会的な財産収奪組織でもある。この各側面が三位一体化した存在なのだが、その中心は飽くまで宗教団体性にあると言ってよい。
この宗教団体が宗教法人として認証を受けるに際して作成した「規則」(会社の定款に相当)には、その目的がこう書かれている。
規則第3条(目的)「この法人は、天宙の創造神を主神として、聖書原理解説の教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を強化育成する為の財務及び業務並びに事業を行う事を目的とする。」
「天宙」も、「創造神」「主神」「聖書原理」も外部の者にはさっぱり理解不能であるが、「何らかの宗教教義」を広める目的を有していることは分かる。そして、その説くところが「宗教」であることに間違いはなかろう。
マニュアル化されたシステムを活用して信者を獲得するところがこの組織の活動における始動点である。だから、この信者獲得のための勧誘活動を違法であるとする民事訴訟と判決が決定的に重要なのだ。けっして宗教活動の自由は万能ではない。
教団は、入信させた信者の人格を支配して、多額の献金をさせ布教活動に参加させるだけでない。霊感商法や献金勧誘活動に稼働させて他者から教団への財産収奪の手駒とする。こうして、莫大な経済的利益を上げて財政基盤を築く。この人的・財政的基盤あればこそ、政治的な活動が可能となり、政党活動に影響を及ぼす力量をもつのだ。
この宗教が特異なのは、「反共」という政治理念・政治行動と密接に結びついていることである。この教会の教祖が、岸信介や笹川良一などの右翼と語らって勝共連合を結成した。今でも、教会の幹部が勝共連合の幹部を兼ねている。そして、注目すべきは、「反共」とならぶもう一つの政治スローガンが、「家庭」であることだ。これは、反ジェンダー、反フェミニズム、反個人主義を意味する。自民党保守派ないしは右翼政治家と相性が良すぎて、切っても切れない関係にあるわけだ。
勝共連合のホームページを覗いてみると、「反共」「改憲」「家族」というスローガンが躍っている。たとえば、次のように。
《国際勝共連合の50年の歩みは、内外の共産主義との熾烈な思想戦そのものです。国際勝共連合の提唱者・文鮮明総裁は、常々「共産主義は間違っている」「世界から共産主義者が1人もいなくなるまで勝共の旗を降ろさない」と語ってこられました。国際共産主義(ソ連中心)に勝利宣言をした当連合ですが、なお残存する共産国(中国や北朝鮮など)の解放に向けた言論活動、そして国内おける日本共産党等の共産主義勢力、及び、文化共産主義(家族など伝統基盤破壊)との更なる闘いを継続しています。》
《日本共産党は資本主義を根底から否定します
彼らの綱領には、「社会主義・共産主義の社会」を目指すと書かれています。これは資本主義を根底から否定するもので、憲法29条に反しています。彼らの目的は憲法を改正しなければ絶対に果たせません。「憲法守れ」というのは偽りです。》
《そして何より、彼らは「国家権力そのものが不必要になる社会」を目指しています。つまり、日本という「国家」の存在そのものを否定しているのです。日本共産党は、日本を倒すことを究極的な目的とする政党なのです。》
《憲法改正をあきらめてはいけない!
『勝共UNITEと憲法改正?若者たちによる改憲運動?》
とりわけ、留意すべきは、統一教会ホームページの次の姿勢。
《今までの宗教は、個人圏を目標としたのであって、家庭圏を目標とした宗教はありませんでした。いかなる宗教も個人救援を唱えていたのであって、そこには家庭救援や氏族救援、また国家救援という言葉はありませんでした。私たち統一教会は、家庭を中心として国家救援、世界救援を主張しているのです。》
《さあ、『世界平和統一家庭連合』と、一度言ってみてください。その中心は何かというと、家庭です》
安倍晋三の目から統一教会の政治的側面を眺めれば、「カルト的情熱に支えられた反共・改憲」集団以外のなにものでもない。支援団体としてこの上なくありがたい存在。そして、個人ではなく家族の強調は、安倍と安倍を取り巻く復古主義的右翼の主張そのものである。これが、ジェンダー平等を妨げ、選択的夫婦別姓の実現を阻止し、LGBTに非寛容の潮流を形作っている。正確な規模は分からぬまでも、この反社会的勢力が安倍ないし安倍的なものへの力強い支援勢力なのだ。