澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「砂川判決と戦争法案」発刊と軌を一にする山口繁元最高裁長官発言

「スタップ細胞はありまーす」「エンブレムは模倣していませーん」には決着がついた。もう一つ未決着なのが、「最高裁は集団的自衛権を認めていまーす」という安倍政権と自公両党の空しい叫び。実は疾うに決着がついているのだが、本人たちが負けを認めない。「あんなに頑張っているのだから、もしかしたら本当なのかも知れない」と思い込みかねない、欺され易い好人物層をたぶらかそうという魂胆が見え透いている。

高村が言い出して安倍が追随し、最初はさすがに「そんな馬鹿な」と言っていた公明党までが最後は乗った泥船。それが、「最高裁は集団的自衛権を認めている」という、無茶苦茶な主張だ。自公以外で、これを支持する意見を私は知らない。見解の相違などというレベルの問題ではない、「牽強付会」「暴論これに過ぎるものはない」「こじつけも甚だしい」と散々の言われ方。四面楚歌どころの話しではなく、まさしく総スカンなのだ。それでも頑張っている安倍政権、立派なものというべきなのだろうか。

高村説の真偽の判断に格別の法律の素養などはいらない。新聞に掲載されている両者の言い分を読み較べることで十分だ。よく分からなかったら、砂川事件最高裁判決と、政府の「72年」見解とをお読みいただけば、疑問は氷解する。

法律専門家としては、まず弁護士会が猛反発した。続いて、憲法学者・行政法学者が挙って批判を展開した。かつての法制局長官諸君も批判の発言を躊躇していない。これで決着がつきそうなものだが、自公の責任者諸君はそれでも頑張っている。と言うよりは、弁護士会や憲法学者や元法制局長官が口を揃えて安保法制の違憲を言うものだから、最後の砦として最高裁を持ち出さざるを得なくなったのだ。

「法案の合違憲の判断は、学者がするものではない。日弁連でも法制局でもない。最高裁だ」と、最高裁に逃げ込んだのだ。ここなら、直接の反撃をしには来ないだろうと踏んでのこと。「最高裁は、まだ集団的自衛権違憲の判断はしていない」にとどめておけば、無難だった。しかし、無難な主張では安保法案審議に国民の支持を得るには不十分なのだ。だから、ウソもハッタリも法案を通してしまえばそれまでのこと、として「最高裁は、集団的自衛権合憲の判断をしている」「それが、1959年の砂川事件大法廷判決だ」と言っちゃった。そういわざるを得ないところに追い込まれたと言うべきだろう。

溺れそうになった自民と公明は、必死になって救命ボートを探したが見つからない。ようやく見つけたのが砂川判決というわけだが、実はこれ、救命ボートでも筏でも材木でもなく、1本のワラでしかない。とても溺れる者を救う浮力はまったくないのだ。高村や北側とて、この判決が実はワラに過ぎないことは百も承知のはず。承知していながら、これにすがるよりほか術がなかったのだ。だから、必死にこのワラをつかんで離せない。

できることと言えば、ウソとハッタリで、ワラを筏か材木だと言い募ること。まさか救命ボートとまでは言えなくとも、丸太か浮き輪と言い張って、国民の目眩ましができればなんとかなるのではないか、法案成立するまで欺しおおせれば万々歳、というわけだ。

弁護士会・学者・元法制局長官からの批判に耐えつつ、砂川最高裁判決というワラにすがって、必死に泳いでいるところに思わぬ伏兵が現れた。「安倍政権がすがっているそいつはワラだ。溺れて当然」と、当の最高裁の元長官が言明したのだ。このインパクトは大きい。

昨日(9月3日)、山口繁元最高裁長官が朝日と共同通信のインタビューに応じて、「集団的自衛権行使は違憲」「砂川判決は集団的自衛権行使を容認したものではない」ことを明言した。政権の言い分を、「論理的な矛盾があり、ナンセンスだ」「何を言っているのか理解できない」とまで言って厳しく批判している。法案沈没の運命だ。

高村・北側は、どう弁明するだろうか。「元最高裁長官などという肩書に欺されてはならない」「問題は判決の論理であって、誰がなんというかではない」とでも言うのだろうか。その言葉はそっくりお返ししなくてはならない。

また、安倍はアベ流の手口でこう考えるかも知れない。「過去の最高裁は問題ではない。ここは未来志向だ。法制局長官だって入れ替えをして言うことをきかせたのだ。最高裁だって、NHKと同様にアベトモを送り込めばよいことだ」。しかしこれは、論理の敗北を認めた上での姑息な対応手段に過ぎない。

まさしく、「スタップ細胞はありまーす」「エンブレムは模倣していませーん」に続く、「最高裁は集団的自衛権を認めていまーす」という自公両党沈没寸前の、空しい叫びではないか。

ところで、「砂川判決の悪用を許さない会」というものがあることを知った。代表世話人は、内藤功、新井章、大森典子、吉永満夫の4氏。そして、屋台骨を支えている事務局長が山口広さんだという。この会が、「砂川判決と戦争法案」という書物を緊急出版した。「最高裁は集団的自衛権を合憲と言ったの!?」と副題がつけられている。そして、本日その書の出版お披露目会を兼ねた、緊急集会「砂川事件判決の真実」が参議院会館内で開かれた。これも、山口さんの奮闘で実現し成功したもの。

私も出席して事件関係者の話を聞いた。「砂川判決の悪用を許さない」というネーミングが当事者と担当弁護士たちの気持ちをよく表している。

山口繁元長官も、同じく、「最高裁判決の悪意ある引用を許せない」という気持になったのであろう。

共同記事は、「元最高裁長官の山口繁氏(82)が三日、共同通信の取材に応じ、安全保障関連法案について『集団的自衛権の行使を認める立法は憲法違反と言わざるを得ない』と述べた。政府、与党が一九五九年の砂川事件最高裁判決や七二年の政府見解を法案の合憲性の根拠と説明していることに『論理的な矛盾があり、ナンセンスだ』と厳しく批判した。『憲法の番人』である最高裁の元長官が、こうした意見を表明するのは初めて。高村正彦自民党副総裁は、憲法学者から法案が違憲と指摘され『憲法の番人は最高裁であり憲法学者ではない』と強調したが、その元トップが違憲と明言した。」と述べている。

なお、共同は次の一問一答を紹介している。

 −−政府は憲法解釈変更には論理的整合性があるとしている。
 ◆1972年の政府見解で行使できるのは個別的自衛権に限られると言っている。自衛の措置は必要最小限度の範囲に限られる、という72年見解の論理的枠組みを維持しながら、集団的自衛権の行使も許されるとするのは、相矛盾する解釈の両立を認めるものでナンセンスだ。72年見解が誤りだったと位置付けなければ、論理的整合性は取れない。

 −−立憲主義や法治主義の観点から疑問を呈する声もある。
 ◆今回のように、これまで駄目だと言っていたものを解釈で変更してしまえば、なし崩しになっていく。立憲主義や法治主義の建前が揺らぎ、憲法や法律によって権力行使を抑制したり、恣意的な政治から国民を保護したりすることができなくなってしまう。

 −−砂川事件最高裁判決は法案が合憲だとする根拠になるのか。
 ◆旧日米安全保障条約を扱った事件だが、そもそも米国は旧条約で日本による集団的自衛権の行使を考えていなかった。集団的自衛権を意識して判決が書かれたとは到底考えられない。憲法で集団的自衛権、個別的自衛権の行使が認められるかを判断する必要もなかった。

また、朝日の記事の中に次の一問一答がある。

 ―「法案は違憲」との指摘に対して、政府は1972年の政府見解と論理的整合性が保たれていると反論しています。
 ◇何を言っているのか理解できない。「憲法上許されない」と「許される」。こんなプラスとマイナスが両方成り立てば、憲法解釈とは言えない。論理的整合性があるというのなら、72年の政府見解は間違いであったと言うべきです。

 ―安倍晋三首相ら政権側は砂川事件の最高裁判決を根拠に、安保法案は「合憲」と主張しています。
 ◇非常におかしな話だ。砂川判決で扱った旧日米安保条約は、武装を解除された日本は固有の自衛権を行使する有効な手段を持っていない、だから日本は米軍の駐留を希望するという屈辱的な内容です。日本には自衛権を行使する手段がそもそもないのだから、集団的自衛権の行使なんてまったく問題になってない。砂川事件の判決が集団的自衛権の行使を意識して書かれたとは到底考えられません。

 ―与党からは砂川事件で最高裁が示した、高度に政治的な問題には司法判断を下さないとする「統治行為論」を論拠に、時の政権が憲法に合っているかを判断できるとの声も出ています。
 ◇砂川事件判決は、憲法9条の制定趣旨や同2項の戦力の範囲については判断を示している。「統治行為論」についても、旧日米安保条約の内容に限ったものです。それなのに9条に関してはすべて「統治行為論」で対応するとの議論に結び付けようとする、何か意図的なものを感じます。

これで、勝負あった。あとは、勝負の結果を多くの人に知ってもらう活動が必要だ。「砂川事件と戦争法案」はそのために大きな役割を果たすだろう。旬報社発行で、定価800円+消費税。今月10日が発行日で、この日以後書店に並ぶことになるという。おそらくは、実践的活用期間がきわめて短い。賞味期間がまことに短いと言えなくもない。その短期間に、戦争法案廃案を目指す運動の道具として大いに活用されてしかるるべきと思う。

それにしても…思う。運動のうねりが次々と新たな事態を切り開いていく。新たに発言する「時の人」をつくり出す。多くの人のたゆまぬ行動が、少しずつ法案に反対する人の輪を拡げ、とうとう元最高裁長官までも動かしたのだ。法案を廃案にするまで、もう一息ではないだろうか。

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一昨日の「DHCスラップ訴訟」の勝訴判決に、多くの方からお祝いや激励をいただいきました。感謝申しあげます。
当日法廷傍聴と報告集会にご参加いただいた内野光子さんの本日(9月4日)付ブログ「DHCスラップ訴訟、澤藤弁護士勝利、東京地裁判決と報告集会に参加しました」をご紹介いたします。ありがとうございます。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/dhc-30de.html

(2015年9月4日)

戦後70年の夏に、何が争われているのか。

例年になく熱い8月が終わった。その熱気はまだ冷めやらない。安保法案の成否の決着はこれからだ。情勢に切れ目はないが、暦の変わり目に戦後70年の夏を振り返ってみたい。

70年前の敗戦を契機に、日本は国家の成り立ちの原理を根本的に変えた。この原理の転換は日本国憲法に成文化され、大日本帝国憲法との対比において、明確にされている。

私の理解では、個人の尊厳を最高の憲法価値としたことが根本原理の転換である。国家の存立以前に個人がある。国家とは、個人の福利を増進して国民個人に奉仕するために、便宜的に拵えられたものに過ぎない。国家は国民がその存在を認める限りにおいて存続し、国民の合意によって形が決められる。国民の総意に基づく限り、どのようにも作り直すことができるし、なくしたってかまわない。その程度のものだ。

国民の生活を豊かにするためには、国家の存立が有用であり便利であることが認められている。だからその限りにおいて、国民の合意が成立して国家が存立し、運用されている。それ以上でも以下でもない。

こうしてできた国家だが、与えられた権力が必ず国民の利益のために正常に運営されるとは限らない。個人の自由や権利は、何よりも国家とその機関の権力行使から擁護されなければならない。個人の自由は、国家と対峙するものとして権力の作用から自由でなければならないとするのが自由主義である。この個人の尊厳と自由とを、国家権力の恣意的発動から擁護するために、憲法で権力に厳格な枠をはめて暴走を許さない歯止めをかける。これが立憲主義である。

戦前は、個人主義も自由主義もなかった。個人を超えて国家が貴しとされ、天皇の御稜威のために個人の犠牲が強いられた。天皇への忠死を称え、戦没兵士を神としてる祀る靖国神社さえ作られた。そして、国家運営の目標が、臆面も無く「富国強兵」であり、軍事的経済的大国化だった。侵略も植民地支配も、国を富ませ強くし、万邦無比の国体を世界に輝かす素晴らしいことだった。20世紀中葉まで、日本はこのようなおよそ世界の趨勢とはかけ離れた特異なあり方の国家だった。

70年前の敗戦は、大日本帝国を崩壊せしめた。そして新しい原理で日本は再生したのだ。普遍性を獲得して、国民個人を価値の基本とし、国家への信頼ではなく警戒が大切だとする自由主義の国家にとなった。軍国主義でも対外膨張主義でもない平和と国際協調の国になった。日本は、戦前とは違った別の国として誕生したのだ。かつて6500万年前の太古の世界で、恐竜が滅び哺乳類がこれに代わって地上を支配したごとくに、である。

敗戦とは、戦前と戦後との間にある溝のようなものではない。飛び越えたり橋を渡して後戻りできる類のものではない。戦前と戦後とはまったく別の地層でできており、敗戦はその境界の越えがたい断層とイメージすべきなのだ。この戦前とは異なった新しい国の原理として日本国憲法に顕現されたその体系が、「戦後レジーム」にほかならない。

日本国憲法に込められた、近代民主主義国家としての普遍性と近隣諸国に対する植民地支配や侵略戦争を反省するところから出発したという特殊性と。その両者の総合が、「戦後レジーム」である。

安倍晋三が憎々しげにいう「戦後レジーム」とは、個人主義を根底にこれを手厚く保護するために整序されたシステムであり、実は日本国憲法の体系そのもののなのだ。個人の尊厳、精神的自由、拘束や苦役からの自由等々の基本的人権こそが、国家の統合や社会の秩序に優先して尊重されるべきことの確認。これこそが、「戦後レジーム」の真髄である。

今年は新しい日本が誕生してから70周年。しかし、この夏、建国の理念に揺るぎが見える。いま、なんと「戦後レジームからの脱却」を叫ぶ、歴史修正主義者が首相となり、立憲主義を突き崩そうとしている。しかも、日本国憲法が自らのアイデンティティとする平和主義を壊し、日本を再び戦争のできる国にしようとしているのだ。この夏は、日本国憲法の理念を攻撃し改憲をたくらむ勢力と、70年前の建国の理念を擁護しようとする勢力との熾烈な戦いである。

70年前の国民的な共通体験は、「再び戦争の惨禍を繰り返してはならない」ことを国是とした。しかし、その国民意識は、自覚的な継承作業なくしては長くもたない。とりわけ加害体験については、「いつまで謝れというのか」という開き直り派が勢を得つつある。

安倍晋三を代表として憲法体系を桎梏と感じる勢力が勢いを増しつつある。しかし、これと拮抗して憲法の理念に賛同して、これを擁護しようとする勢力も確実に勢力を増しつつある。

2015年の夏、その決着はまだ付かない。秋へと持ちこされている。
(2015年9月1日)

政権の暴走を見かねた主権者がその姿を現した。

本日、午後2時。首都で全国で、国民が主権者として、政権の前に立ち現れた。そして、主権者の意思を明確にし、議会や政府を掣肘した。まさしく、今日こそは、国民主権原理が、真っ当に正しく機能した記念すべき日となった。

何度でも繰り返そう。私たち国民が主権者だ。安倍でも、山口でも、中谷でも、谷垣でもない。日本国憲法が制定されて以来、一日24時間・年間365日、切れ目なく主権者であり続けているのだ。

正確に言えば憲法を制定したのも主権者国民だ。憲法は国民が主権者の地位にあることを確認したにすぎず、主権者の地位は憲法によって与えられたものではない。だから、実は日本国憲法制定以前から私たち国民が主権者なのだ。

切れ目なく主権者であるとは、選挙期間中だけの主権者ではないということだ。投票箱の蓋が開いていても閉まっても、投票箱の用意が無いときも、私たち国民が主権者なのだ。

私たち主権者国民の多くは、切れ目なく政治のことばかりを考えてはおられない。資本主義経済の中で忙しく立ち働かなくてはならないし、一人ひとりの生身の人間には、文化的活動もエンタテイメントも必要だ。家族生活も友人との付き合いもコミュニティの中での活動も、非政治的な社会生活の分野は限りなく広い。非政治の多くの時間が必要なのだ。

だから、代議政治の合理性は認めざるをえない。国民が候補者の中から議員を選び、衆議院議員の中から内閣総理大臣が選任されて、行政府の長となる。こうして、憲法の定めた手続きに従って、立法府と行政府が作られ、これに政治を任せることにしたのだ。

さはさりながら、主権者は国会や内閣に、すべてを丸投げしてお任せしたのではない。選挙期間だけの主権者ではなく、投票日一日だけの主権者ではない以上は当然のことだ。常に、主権者の意思にそって立法や行政が行われているかを監視続けていなければならない。そして、内閣や国会が、明らかに主権者の意に背くとき、そして次の選挙による意思表示では遅すぎる場合には、主権者の直接の出番となる。国民が主権者として起ち上がらざるを得ない事態なのだ。主権者は代議制の枠を超えて、直接にその意思を表明しなければならない。今日が、その日となった。

主権者が直接の意思を表明するためのもっとも基本的な手段が集会でありデモである。多くの人が集まって、声を揃えて国会と内閣の不当を叫ぶのだ。立法や行政に携わる者は、謙虚にその声に耳を傾けなくてはならない。

今日の午後、国会周辺は小雨をついて集まった大群衆に包囲された。これが、観念としての主権者ではない、具体的な形と意思を伴った主権者なのだ。主権者は、安倍政権に「国民をなめてはいけない」とたしなめた。いや、違憲の法案をゴリ押しする政権に「今すぐ退陣」と怒りを露わにした。

まだ、大群衆のコールが耳に残る。
 「戦争法案今すぐ廃案!」
 「安倍内閣は今すぐ退陣!」

安倍よ、山口よ、中谷よ、谷垣よ。この主権者の声を生で聞いたか。この主権者の声をなんと聞くのか。

憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。新聞でもラジオでもテレビでもなく、「集会」を条文のトップに置いた憲法の真意を今日あらためて知った思いがする。「集会」は、政治を変えうるのだ。そのような手段として「集会の自由」がこの上なく重要なのだ。

メインのステージでは、岡田(民主)、志位(共産)、吉田(社民)、小澤(生活)の各党首が手を組んで戦争法案の廃案を誓った。日比谷エリアのステージでは、管(民主)、小池(共産)、福島(社民)の各議員が力のこもった演説をした。主権者が、野党各党の結束を指示している構図となった。

戦争法案の廃案を求める主権者の意思が明確になった今日以後も、安倍政権は敢えて主権者の意思に逆らおうというのか。

夏の陣が終わると、切れ目なく、いよいよ決戦の「秋の陣」が始まる。さあ、正念場だ。自信をもって、今日のコールを追求しよう。
 「戦争反対!」「9条守れ!」
 「憲法破壊絶対反対!」
 「安倍内閣の暴走止めよう!」
 「強行採決絶対反対!」
(2015年8月30日)

さあ出かけようー明日・8月30日全国100万人総行動

さあ出かけよう みんなして
家族トモダチ連れだって
ツレがなければ一人でも

日ざしが強けりゃ帽子をかぶり
雨が降ったら傘さして
風が吹いてもへこたれず

目指すは官邸 安倍屋敷

普段は無口な私だが
これまで黙っていたけれど
堪忍袋の緒が切れた

平和を守れと声を上げよう
安倍はやめろと声上げよう

私は平和を望むから
誰をも敵にしたくない

乱暴者のアメリカの
手先になって威を借りて
武力で脅して黙らせて
それで平和が築かれる?
そんな法律マッピラだ

アメリカの威を借りるとてただじゃない
思いやり予算は2000億
押しつけられた17機オスプレイは3600億
こんな大金 ドブに捨てるな福祉にまわせ

戦争法案廃案に
安倍内閣は退陣を
みんなで大きく声上げよう

国の主人は私たち
一人二人じゃ力はないが
津々浦々の人々が
100万人で声あわせ
山も動けとどよもせば
この国中にはびこった
魑魅魍魎を吹き飛ばす

地鳴りのような大声で
安倍も自民も吹き飛ばせ
政府も与党も吹き飛ばせ
違憲法案吹き飛ばせ
戦争勢力吹き飛ばせ

さあ出かけよう みんなして
100万人で輪を作ろう
目指すは国会・参議院

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8月30日(日)の「戦争法案廃案! 安倍政権退陣! 8・30国会10万人・全国100万人大行動」『全国を戦争法反対の声で埋め尽くそう!』に総結集しよう。

東京で10万人、全国で100万人の総行動をぜひとも成功させよう。この集会が、その後の情勢を決める。メディアを覚醒させ、国会に活を入れることにもなる。そして、国民の手で憲法を守ることにつながる。

大行動の案内は実行委員会の下記URLをご覧いただきたい。
  http://sogakari.com/
  http://sogakari.com/?p=633
  http://sogakari.com/?p=732
8月30日(日)14:00? 場所:国会議事堂周辺
戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人・全国100万人大行動
(2015年8月29日)

「籾井はやめろ」「アベチャンネルにするな」ーNHK包囲の片隅で

昨日(8月25日)の夕方、NHK包囲の抗議行動に参加した。
NHK放送センター西門の近くで、「私たちは怒っているゾー」「籾井はただちにやめろ」「アベチャンネルにするな」などコールを繰りかえしながら、NHKってなんだろう、と考え続けた。

NHKのNは、今や「内閣」のNである。Hは「奉賛」のH、あるいは「諂う」のH。「内閣奉賛会」ないしは「内閣へつらい協会」ではないか。「安倍政権報道部」の実態が抗議の対象とされている。「政府の声でなく、国民の声を報道しろ!」「『皆さまのNHK』を忘れないでー」と声があがる。

戦争法案の審議が進行し、衆議院の強行採決さえなされた。平和と憲法にとっての存立危機事態である。このときに、安倍政権とNHKとの癒着である。とりわけ政権がNHKの人事を牛耳って自らの政策遂行の道具としていることが到底座視しえない。

安倍が籾井を牛耳り、籾井が経営委員会や理事会を牛耳ることで、安倍がNHKを支配し、NHKが安倍政権におもねりへつらう態勢が構築されている。由々しき事態ではないか。

大本営発表を繰り返した戦前のNHKの体質は変わらず、今また、安倍政権と二人三脚で、新たな大本営発表を繰り返そうとしているのだ。このことに危機感を持ち、抗議しなければならないというのが、参加者の切実な思いなのだ。

有名無名の多くの人がリレーでスピーチした。NHK上層部を痛烈に批判するとともに、印象に残ったのは、良心的なNHK職員を励まそうというスピーチだった。

今さら言うまでもないが、NHKは国営放送ではない。受信料は税金ではない。飽くまで、NHKと視聴者各個人との受信契約締結の効果としての民事的な債務なのだ。だから、契約自由の原則に従い、本来は契約するもしないも視聴者の選択による。

ただし、放送法は不思議な規定を置いて、「NHK放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、NHKと放送受信についての契約をしなければならない」と定めて、NHKとの受信契約の締結を「しなければならない」としている。もちろん、受信契約締結強制も民事法上のもので、罰則での強制があるわけではない。契約締結者の受信料不払いも、そのことは民事的な債務不履行とはなり得ても、刑事罰の対象とはなり得ない。

放送法は、NHKを国民の信頼に支えられた報道機関と位置づけている。国民がNHKの報道姿勢を信頼し、進んで受信契約を締結して受信料を支払うことを想定しているのだ。この想定に反して、国民がNHKを見捨てた場合には受信料収入が激減することも想定されているといってよい。

この日のスピーチで、何人かが「今のようなNHKでは受信料を払えない」「籾井がやめるまでは受信料を払わない」「NHKよ。私に受信料を払いたいと思わせるまともな報道姿勢を貫いていただきたい」と発言した。これこそ、放送法が想定する最も真っ当な市民の声だ。

国民から信頼される報道機関としての基本は、何よりも権力から独立していることにある。今のように、政治権力と国民との立場が大きく乖離しているとき、権力と国民は公共放送であるNHKを自らの側に近づけようと、必死の綱引きをしているのだ。今この綱引きは、政権の側が優勢である。会長や経営委員の人事を牛耳って、政治報道には政権批判を許さないどころか、内閣奉賛の実態となってしまった。だから、「政府広報はやめろ」「戦争法案に加担するな」とコールが浴びせかけられるNHKの現状。これはあまりにもお恥ずかしい実態。

NHKOBである永田浩三さんが鋭く叫んだ。「NHKは政権のものでない。国民の貴重な宝物なのです」。なるほど、そのとおりなのだ。

籾井会長は「政府が右といえば、左というわけにはいかない」という安倍政権ベッタリの人物。「籾井会長はNHKトップに最もふさわしくない!」と何度も声があがった。安倍の息のかかったこの人物が会長として君臨する限り、国民の貴重な宝物は、安倍政権の手中でブロックされ、コントロールされるばかり。

国民はそれにふさわしい政府をもつ、という。国民は自分たちにふさわしいメディアをもつ、と言い換えられてもいる。しかし、今のNHKの現状が、国民にふさわしいとは到底考えられない。もっとまともなNHKにしなければならない。短期的には、戦争法案を廃案に追いこむために。長期的には、日本の民主化を促進するために。

それにはまず、籾井をやめさせることが先決問題だ。これが、考え続けての平凡な結論。あらためて叫ぼう。「籾井はやめろ」「アベチャンネルにするな」。
(2015年8月26日)

武藤貴也(自民党公認議員)の口から出た「新規公開株割当の国会議員枠」は本当にないのだろうか

自民党公認で滋賀4区から出馬し当選した武藤貴也・衆議院議員。世に埋もれた無名の存在だったが、学生たち(シールズ)の戦争反対の声を「利己的」と言って俄然全国的な有名人となった。安倍チルドレンの内実とレベルの程度を天下に知らしめた点において、その功績は大きい。

さらに、8月19日発売の週刊文春で「未公開株詐欺」まがいの集金手口を暴露されて、政治家としての知名度ランキングのトップレベルに躍り出た。しかもそのあと自民トカゲのシッポとなって、安倍自民党の「イヤーな感じ」高揚に大いに貢献してもいる。

が、この問題それだけではない。もしかしたら…、政治とカネの薄汚い関係を壮大に暴露する発端であるのかも知れない。その意味では事件の奥行きはもっと深く暗いものなのかも知れないのだ。

8月19日以来、私の仲間内では「武藤のやったことは典型的な未公開株詐欺だろう」「『国会議員枠』なんてあるはずがないものを目玉にしての勧誘なのだから詐欺」「もし、欺していなければ、委託の趣旨に反した預り金の流用として横領は確実なところ」「金融商品取引法の無登録業者の違法勧誘行為や、出資法1条の『出資金の受入の禁止』にもあたるだろう」「こんなひどい議員は告発に値する」「安倍政権への打撃にもなるはずだから、告発したらどうだ」。「詐欺・横領・金商法違反・出資法違反を射程に告発すべきだ」と声は出ている。

しかし、大方は口だけは動くが、なかなかそれ以上には進まない。誰かやってくれるだろう、と他を期待しているからだ。こういうときに頼りになるのが、「政治資金オンブズマン」(共同代表、阪口徳雄弁護士・上脇博之神戸学院大学教授ら)。よく調べ、果敢に行動する。今回も動いた。

興味深いのは、彼らが「いきなり告発」ではなく、問題となった未公開株の上場手続幹事を務めた証券会社に対する公開質問状の発送という形で、宣戦を布告したことである。主たる質問内容は、未公開株の配分割当に関して、「国会議員枠」(あるいはそれに類するもの)があるのかどうかということである。

公開質問状は、昨8月24日付で「エイチ・エス証券株式会社 代表取締役社長 和田智弘」宛に発送された。公開質問状の全文は、共同代表である上脇教授のサイトに掲載されている。URLは以下のとおり。
  http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51811709.html

上脇さんは、公開質問状を発信した趣旨に関連して「自民党が詳細な内部調査をすることなく議員辞職もさせず除名もせず離党させたのは不可解な対応であり、自民党は株の購入につき「国会議員枠」(あるいはそれに類するもの)があるのかどうかの論点を話題にさせることを回避しようとしたのではないかの疑惑が生じる」と述べている。

「国会議員枠」という表だった制度が存在するわけはない。しかし、問題は、表向きの制度がどうなっているかではない。いかなる態様にせよ、証券会社が未公開株の割当をする際に、政治家に甘い汁を吸わせている運用の実態はないのか、ということなのである。

「国会議員枠」を明示の制度として理解すれば、そんなものはないとニベもなくはねつけられるに決まっている。しかし、運用の実態が問題なのだ。未公開株の配分という美味しい手続に、政治家への手心が加えられている実態があれば、「国会議員枠(あるいはそれに類するもの)」が存在することになるということだ。

エイチ・エス証券株式会社には、幹事社として未公開株上場を担当する際の手続については「募集等にかかる株券等のお客様への配分にかかる基本方針」(公開質問状では「本基本方針」と言っている)という内部基準がある。
http://www.hs-sec.co.jp/book/haibun.pdf
公開質問状の質問事項は、次のとおりこの基準の運用についてのものとなっている。

1 本基本方針では「新規公開株の配分について、
  ?抽選による配分、
  ?抽選によらない配分、
という2種類の配分方法があります。
抽選又は抽選によらない配分の中に「国会議員枠」又はこれに類する配分方法があるのですか。

2 国会議員、又はその秘書について、本基本方針第3項(2)??「当社と継続的にお取引を頂いていること、又はお取引拡大が期待できること」に該当するとして事実上国会議員枠又はそれに類する配分方法を設定することがありますか。

3 (1)貴社が主幹事を務めた2014年11月の株式会社CRI・ミドルウェアの新規公開株につき、抽選又は抽選によらない方法で、武藤議員又は政策秘書の宮崎資紹氏から、何らかの配分を受けたいという申し入れがありましたか。
  (2)その場合に武藤議員又は政策秘書の宮崎資紹氏に現実に配分しましたか。又は配分がなかったですか。

この「基準」には、「公平」と「公正」そして「適切」が何度も繰り返されている。
たとえば、「株券等の配分を行うに際しては、…適切な募集等の取扱いを行うとともに、公平かつ公正な配分に努めることを基本方針としております」「以上のような配分の基本方針に基づき、公正な配分を通じて証券市場の発展に寄与していくことが、当社の使命であると考えております。」という具合。

但し、その運用が公平・公正、かつ適正に行われているかはよく分からない。この基準が公平・公正かつ適正な運用を担保するほどのものとなっているとは考えられない。そして、「国会議員枠」を明示的に排除しているとは読めないのだ。

但し、「当社は、当社の役職員、当社に対して特定の利便を与え得るなど社会的に不公平感を生じせしめる者、暴力団員又は暴力団関係者、いわゆる総会屋等社会的公益に反する行為をなす者及び配分を行うことが適切ではないと当社が判断するお客様への配分を行いません。」という一文がある。暴力団・総会屋には配分しないとは明記されているが、国会議員に対する除外は明記されていない。もっとも、「当社に対して特定の利便を与え得るなど社会的に不公平感を生じせしめる者」には国会議員が含まれる可能性がある。しかし、仮にはいるとすれば、なぜ端的に「国会議員」を配分対象から外すと明記しないのだろうか。

本当に国会議員枠は、ないのだろうか。換言すれば、「未公開株の配分において、国会議員に便宜を図る運用がなされてはいないのだろうか」。「議員枠的なもの」が本当にないのか、実はあるのではないか。本件では、エイチ・エス証券が武藤に、そのような便宜を図ろうとしたのか否か。それが問題なのだ。

「イエス」の回答があれば、世の中がひっくり返るほどの大騒ぎとなるだろう。「ノー」である場合には、武藤の詐欺が濃厚となる。回答拒否も考えられるが、これは何らかの不都合があって回答ができないと考えざるをえない。何らかの形での「国会議員枠」存在が推認されるといって差し支えなかろう。

実は、こんなことは自民党が自ら調査すべきなのだ。天下の与党に、自浄の意思も能力も欠けているばかりに、民間が代わってこんなことまでしなければならないのだ。安倍自民党無責任体質、ここに極まれりではないか。
(2015年8月25日)

夏の陣の最終盤ーー「戦争法案廃案」「安倍退陣」「安倍応援団のNHK抗議」の3集会ご案内

例年になく熱かった「戦後70年の夏」。さすがに風と空は涼しさを感じさせるが、戦争法案の廃案と安倍政権退陣を求める運動の熱気は冷めやらない。ますます熱い。

戦争の月・8月の下旬に多くの集会やデモが目白押しだが、その集大成版ともいうべき3集会をご案内する。私も、その片隅で声を上げている。
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まずは、明日の「8.25NHK包囲行動」である。
  ぜひ下記のURLでチラシを拡散願いたい。
  http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/825NHKhoui/NHKhoui.pdf

メインスローガンは、「政権べったりの報道をやめろ 怒りの声でNHKを包囲しよう!」という大集会。
  日時: 2015年8月25日(火) PM: 6:30?
  場所: NHK放送センター(渋谷) 
      西門、正門、NHKホールそばの3カ所で
      リレートークとコールが行なわれる。
  主催: NHK包囲行動実行委員会
 ・政権に不都合なことを隠すな
 ・NHKは戦争法案に加担するな
 ・中国の脅威をあおるな
 ・国民の抗議の声を伝えよ
 ・国会審議をまともに放送せよ
 ・政治家と会食するな癒着するな
 ・籾井会長はNHK私物化するな
 ・権力監視のメディアになれ!
 ・籾井会長はただちにやめろ!
安倍政権が右といえば左とは言えないNHKへの抗議である。これだけの規模の世論の包囲にさらされながら、まだ安倍政権の命脈が保たれているのは、産経・読売と並んで、「皆さまから視聴料をいただいているNHK」の寄与が大きい。「安倍政権のスポークスマン」とまでいわれる岩田明子解説委員に代表される、その露骨な政権従属報道姿勢が安倍内閣の支持率を何%か押し上げているのだ。これを徹底批判しようという集会。

本日の赤旗〈潮流〉が、次のようにこの集会を紹介している。
「NHKの番組には優れたものがあっても、ニュースは安倍政権寄りだと視聴者の批判は高まるばかり。この機に市民団体の「放送を語る会」が、戦争法案をめぐるテレビニュースのモニター報告を発表しました▼これまで集団的自衛権などでもテレビ報道を検証。今回は、NHKのニュースは『安倍首相発言のコピー』となり、多様な批判的言論を伝えていないと実証的に指摘しました。『戦後未曽有の平和の危機』にジャーナリズムの役割を発揮する覚悟を求めての中間報告です▼明日25日、市民が『怒りの声でNHKを包囲しよう!』と一大行動に出ます。東京・渋谷のNHK放送センターの門前に集合です。大阪や京都では、呼応する取り組みがあります。“みなさまのNHK”へ要望します。7時のニュースで堂々と生中継してはいかが。」

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明後日(8月26日)には、日弁連が総力をあげた集会を予定している。
「安保法案廃案へ!立憲主義を守り抜く大集会&パレード?法曹・学者・学生・市民総結集!」と集会名も大変に熱い。

詳細は、下記日弁連のホームページを参照していただきたい。
http://www.nichibenren.or.jp/event/year/2015/150826.html

日時 2015年8月26日(水)
【集  会】 18時?19時(開場:17時15分)
【パレード】 19時15分?
日比谷野外音楽堂(千代田区日比谷公園1-5)
参加費等 参加費無料(事前申込み不要)
参加対象 どなたでも参加いただけます。
※定員3,000名のため、会場にお入りいただけない場合がありますが、パレードには参加いただけます。

集会での発言予定者は、現在のところ以下のとおり。
 宮?礼壹氏(元内閣法制局長官)
 溝淵勝氏(元裁判官、元高松地裁所長)
 山岸憲司氏(前日弁連会長)
 石川健治氏(東大教授・交渉中)
 益川敏英氏(ノーベル賞受賞者・交渉中)
 廣渡清吾氏(東大名誉教授・日本学術会議前会長・学者の会代表・予定)
 上野千鶴子氏(東大名誉教授)
 奥田愛基氏(SEALDs)
 町田ひろみ氏(安保関連法案に反対するママの会)
 道あゆみ氏(弁護士)

また、同日16時?17時、弁護士会館2階講堂クレオで「安保関連法案に反対する学者の会」と合同記者会見も行われる。こちらの出席予定は、以下のとおり。
 濱田邦夫氏(元最高裁判事)
 大森政輔氏(元内閣法制局長官)
 宮?礼壹氏(元内閣法制局長官)
 平山正剛氏(元日弁連会長)
 村越進(日弁連会長)
 水地啓子氏(女性弁護士として)
 廣渡清吾氏(東大名誉教授・日本学術会議前会長、学者の会代表)
 長谷部恭男氏(早稲田大教授・国民安保法制懇)
 小林節氏(慶応大名誉教授)
 石川健治氏(東大教授・立憲デモクラシーの会・交渉中)
 水島朝穂氏(早稲田大教授)
 那須弘平氏(元最高裁判事) メッセージ参加

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そして、8月30日(日)午後2時が、東京10万人・全国100万人の大集会。
詳細情報は実行委員会のウェブサイト(http://sogakari.com)を参照いただきたい。

戦争法案廃案! 安倍政権退陣!
8.30国会10万人・全国100万人大行動
8月30日?14:00?
場所:国会議事堂周辺ほか

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声を上げよう。
「戦争法案を廃案に!」
「安倍内閣は退陣せよ!」と。
平和と民主主義を守るために。

声を上げることは、主権者の権利であり責務でもある。
今、大きく声を上げないと平和と民主主義が崩れてしまうかも知れない。
平和と民主主義がいったん崩れると、その再建のために声を上げる自由はもはやなくなる。
だから、手遅れにならぬうちに、声を上げよう。
できるだけ多くの人に呼びかけて、できるだけ大きな声を。

今なら、まだ間に合うのだから。
明日では遅すぎるかも知れない、のだから。
(2015年8月24日)

村岡到「文化象徴天皇への変革」紹介

村岡到さんから近著をいただいた。「文化象徴天皇への変革」というタイトル。表紙に「天皇を文化の象徴に 斬新な提起!」とある。この「あまりの斬新さ」に驚いた。

村岡到といえば左翼の理論家と自らも任じ、社会にも知られる人物。その左翼理論家が、天皇制廃絶や天皇制との対峙ではなく、「文化の象徴としての天皇」を語り、これを純化する制度を提案しているのだ。

しかも、前書きには次のような意気込みが語られている。
「私は、この小さな本で日本の左翼の伝統的な弱点を明らかにし、その欠落を埋める内実を提起した。一九四七年五月三日の新憲法によって成立した象徴天皇制の経過と根拠を解明し、象徴天皇制の廃絶と合わせて、天皇を〈文化の象徴〉に変革することを、私は提案する。これはかつて存在しない、まったく新しい提案である。」

村岡さんは、現行の「象徴天皇制」の弊害は大きくこれを廃絶しなければならないとしながら、「文化の象徴としての天皇」は残すべきだという。憲法を改正して現行の「第一章 天皇」を削除し、これに代えて「第一章 日本国の理念」とし、その章の末尾に位置する第8条に「天皇は日本に住む市民の文化の象徴とする。天皇に関する制度については、法律によって定める」を置くのだという。

さらに、その具体的な制度案として、種々のアイデアが並んでいる。
天皇とその家族は伊勢神宮内に居住する。財政は任意の寄付を基本として不足の場合にのみ国庫の負担とする。定年制とし退任後は選挙権を認める。50年に1度程度の国民投票で国民に存廃を諮る。宮内庁や皇宮警察は廃止する…。

まだよく読み込めていない。もちろん、軽々に賛成とは言えない。が、私には、村岡さんの筆の伸びやかさが好もしい。天皇制についての議論をアンタッチャブルなものとしていない。誰に遠慮するでもなく、誰からも束縛されずに、自分の意見を述べている。体制にも、右翼にも、左翼にも、どの政党にも、運動体にも、自分の支持者にも、一切おもねるところがない。大変な量の文献を渉猟したことが記されているが、共産党や学界の権威からもまったく自由だ。そして以前の自分の見解にもとらわれていない。まさしく、自分の頭で考えたことを、自分自身の言葉で語っているのだ。

この書の中に、次の一節がある。この部分が、全体の立論の基礎になっている。
「私たちの政治分野での研究は政治的に真空の状態で行うものではなく、緊迫した政治情勢における明確な立場と主張の表明を外してはならない。温和な政治環境が与えられていれば別であるが、現在はそうではない。安倍首相による乱暴な好戦壊憲策動が強化されているのが現状である。私たちは、憲法第九条を骨抜きにする好戦壊憲策動に断固として反対であり、この策動を粉砕しなくてはならない。この明確な立場から考えると、象徴天皇制にどのように対処するのが正しいのか。」

この書では、天皇や皇后、皇太子らの、度重なる憲法擁護発言・戦争反省発言を評価する立場を明確にしている。「天皇らの言動は、安倍首相による好戦壊憲策動のアクセルとして利用できないばかりか、小さくないブレーキとなっている」という認識が語られている。「この現下の政治状勢のなかでは(天皇の)『平和の象徴』としての機能に賛意を表し、その傾向を拡げるほうが良い。天皇らの言動に、戸惑いを感じたり、『裏があるのではないか』などと邪推するのは誤っている」という立場なのだ。

もちろん、憲法改正を伴う制度の改変であるからには、長期的な展望をもたねばならない。本書は「日本人はなお、何らかの〈象徴〉なしには社会を統治できない段階を生きている」ことを前提に、「以上のような内容によって象徴天皇制を廃絶し、決定的に改革すれば、天皇を政治的反動に利用することはできなくなり、天皇をテコにした優越感や差別はその根を絶たれる。『お上に従う』などの非自律的習性も衰える。同時に『平和の象徴』としての天皇に尊崇の念を抱く国民に採っても不快感を募らせることはない。」と述べている。

リベラルな天皇への積極的な評価の立論は、当然にあり得ると思う。不十分ながら、私見は8月17日の当ブログに「『愚かで不誠実な首相』と『英明で誠実な天皇』との対比の構図をどう読むべきか」として書いてはいる。
  https://article9.jp/wordpress/?p=5440

このときには、保守層の比較的リベラルな部分からの天皇発言の評価について触れた。村岡さんが、左翼陣営からかくも真っ正面に肯定し、しかも憲法制度にまで踏み込んで言及していることは知らなかった。このような刺激的な提言は、自分の考えを吟味し、再考する良い機会となる。

おそらくは村岡説と同じ結論にはならないと思うが、あらためて天皇制をよく考え直してみたい。政治・文化・宗教・国民意識等々を総合して、自分なりに再整理することになるのだろうから。

本書のご注文は、
  ロゴスhttp://logos-ui.org/book/book-23.html

  エルパカBOOKSなどに。
(2015年8月23日)

「日の丸・君が代」強制の何が問題か

2014年7月の国連自由権規約委員会は、その「勧告22」において、日本に対して「(自由権規約の厳格な要件を満たさない限り)思想・良心及び宗教の自由あるいは表現の自由に対する権利へのいかなる制限を課すことも差し控えることを促す」と勧告した。

同委員会から日本に対して、「思想・良心の自由」に触れた勧告は初めてのことである。当然に「日の丸・君が代」強制問題を念頭においたものである。日本は、この勧告に誠実に対応すべき条約上の義務を負う。

本日は「勧告22」をめぐって、議員会館内で「国連自由権勧告フォローアップ 8・21 三省(文科・外務・法務)交渉」が行われた。必ずしも、各省の態度が誠意あるものであったとはいえないが、それなりの手応えは感じられる内容だった。

とりわけ、文科省の担当者から、卒業式・入学式における「内心の自由の告知」について、「各学校において、内心の自由を告知することが適切な指導方法だと判断される場合には、そのような指導方法も創意工夫のひとつとして許容される」という趣旨の答弁があったことが印象的な大きな収穫だった。

「内心の自由の告知」とは、典型的には式の直前に司会から説明される次のようなアナウンスである。
「式次第の中に君が代斉唱がございます。できるだけ、ご起立の上斉唱されるようご協力をお願いいたしますが、憲法上お一人お一人に内心の自由が保障されております。けっして起立・斉唱を強制する趣旨ではないことをご承知おきください」

「内心の自由の告知」は、10・23通達発出以前には過半の都立校で行われ、同通達以後は一律禁止されてもう12年になる。考えてみれば、学校の判断と責任とで、これくらいのことができるのは当たり前のことだが、今のご時世では、この程度の答弁を引き出すことが大きな収穫なのだ。
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引き続いての記者会見。その席で、私に求められたのは、「日の丸・君が代」強制の何が問題か、という説明。

「日の丸・君が代」強制とは、公権力が個人に対して、国家の象徴である歌や旗に対して敬意の表明を強制する行為です。その問題点は、次の3点にまとめられると思います。

第1点は、そもそも公権力がなし得ることには限界がある。国民に対して「日の丸・君が代」に敬意を表明することの強制は、その限界を超えた行為としてなしえないということ。
第2点は、憲法が保障する思想良心の自由の侵害に当たるということ。
そして第3点が、公権力が教育に介入しナショナリズムを煽る方向での教育の統制にあたることです。

まず第1点です。
立憲主義のもとでは、主権者国民がその意思で国家を作り、国家がなし得る権限を与えたと考えます。公権力はその授権の範囲のことしかなしえません。「日の丸・君が代」は、国家の象徴です。この旗や歌に対する敬意表明を強制する行為は、国家が主権者である国民に対して、自分に敬意を表明せよと命令していることになります。つまりは、被造者が創造主に対して、自己への敬意の表明を強制しているのです。こんなことは背理であり、倒錯としか言いようがありません。

また、一般論としては、公権力は公務員に職務命令を発する権限があります。公務員は上級に従う義務があります。そうでなくては、公務員秩序を保つことができません。しかし、上級は下級に、なんでも命令することができるわけではありません。自ずから合理的な限度があります。公権力が、「我を敬え」と強制するような職務命令はこのような限度を超えるもので、立憲主義の原則からは有効に発することができない、と考えざるをえません。

次いで第2点です。
「日の丸・君が代」は、戦前の天皇崇拝や軍国主義・侵略戦争・植民地支配の負の歴史と、あまりにも深く結びついています。このような旗や歌は、自分の思想や良心において受け容れがたく、それへの敬意表明の強制は、自分の思想、あるいは教員としての良心を深く傷つけるものである場合、強制はできません。これこそ、憲法19条が保障するところです。

第3点は、教育は公権力の統制や支配から自由でなければなりません。この近代市民国家での常識からの逸脱です。主権者国民が国家を作るのであって、国家が国家に都合のよい国民の育成をはかろうとすることは筋違いも甚だしいのです。
国家は教育行政において教育条件整備の義務は負うが、教育の内容や方法に立ち入ってはならない。それは、公権力による教育への不当な支配として違憲違法になります。

教育の場での「日の丸・君が代」強制は、国家が国家主義イデオロギーを子どもたちに注入していることにほかなりません。この強制は直接には教員に向けられていますが、実は教員の背後にいる子どもが被害者です。国家が思想を統制し、教育を支配したときにどのような事態となるか、私たちは、敗戦までその実例をイヤと言うほど、見せつけられたではありませんか。

立憲主義、思想・良心の自由、国家に束縛されない自由な教育を受ける権利。いずれも、戦後に日本国憲法とともに日本の制度となったもので、「戦後レジーム」そのものです。安倍政権のいう「戦後レジームからの脱却」は、まさしく「日の丸・君が代」強制路線であり、教育を国家主義に染め上げようというものにほかなりません。

いま、「日の丸・君が代」強制を許さないたたかいは、憲法を守り民主的な教育を守る運動の一環であって、安倍政権の改憲路線や戦争法案成立強行の動向と対峙する意味を持っているものと考えています。
(2015年8月21日)

欠陥議員を製造した安倍自民党は責任をとれ

商品には、消費者が期待する品質の保証が必要だ。品質の不良にも、商品の欠陥にも業者は消費者に責任を負わねばならない。
議員にも、選挙民が期待する品質の保証が必要だ。議員の資質不良にも欠陥にも、政党が責任を負わねばならない。

武藤貴也という、安倍自民党が粗製濫造した議員の欠陥が明らかとなった。安倍自民党はこれに責任を負わねばならない。邪魔な尻尾として切って捨てて、「それは仕方がない」というだけの安倍晋三の姿勢は無責任の極みだ。

商品に欠陥があって消費者被害が生じたときには、欠陥商品を製造・輸入・販売した事業者に無過失の賠償責任が生じる。消費者保護の思想から導かれる製造物責任(product liability)の観念である。何を欠陥とし、どの範囲の業者に、どの範囲の賠償をさせるか、具体的な立法政策には幅があるものの、資本主義的財産法の大原則とされた「過失なければ責任なし」を大転換するものである。

我が国でも、1995年に製造物責任法(PL法)が施行されて20年となった。消費者保護の思想が実定法化されて既に定着している。経済社会でのこの常識が、政治の世界でも通用しなければならない。自民党は、自らが公認して当選したこの議員の欠陥を洗い出し、謝罪した上、しかるべき責任のとりかたを考えなければならない。それが最低限の常識的な政党のありかたであろう。

武藤貴也という、このいかがわしい人物は、滋賀4区で当選し「安倍チルドレン」の一人として衆議院議員となった。当選すれば議会での貴重な一票をもつ。もちろん、戦争法案の強行採決に加わっている。安倍応援団の一人として、「マスコミ弾圧勉強会」参加者の一員でもあった。

未熟で実績のないこの人物が当選できたのは、偏に自民党公認であったからである。安倍自民党が製造した議員といってよい。あるいは、安倍自民党が保証マークをつけて売り出した議員だ。その欠陥が明らかになった途端に、離党届を受理して「ハイ、おしまい」。それはないよ。

武藤貴也が何者であるか、選挙民はよくは知らない。それでも投票したのは、自民党公認だったからだ。自民党の保証マークを信用したからだ。その安倍自民党印議員の欠陥が明らかになったのだから、自民党が責任をとらねばならないのは当然ではないか。

私は、議員の品質のレベルを、「選良」というにふさわしいものと考えているわけではない。自民党議員に、市民の意見に耳を傾け、これを政策化して実現する誠実さと能力など求めていない。そんな品質を望むことは、木に縁って魚を求むるの類であろう。武藤のお粗末さは、常識的通常人には遙かに遠い恐るべきレベルなのだ。

武藤なる人物をいかがわしいと言い、議員としての資質に明らかな欠陥というのは、週刊文春が報じる彼の友人Aへの「LINE(ライン)」の記録による。

「来月新規公開株の取引の話しがあり、最低でも2倍になると言われています。内々で俺(武藤)に取引を持ちかけているのだけど元手がありません」「株の枠を抑(ママ)えてもらっていることは本当なので」「この件はクローズだからね。正直証券会社からも、『うちが国会議員のために枠を抑えてるのが一般に知れたら大変だ』と言っています。その辺呉々も注意してください」というもの。

8月19日発売の週刊文春によれば、武藤は昨年「国会議員枠で買える」と未公開株購入を知人らに勧め、その結果23人が計4104万円を武藤の政策秘書名義口座に振り込んだ。しかし、株は実際には購入されず、出資金の一部は戻っていないという。また、Aは、「新宿の喫茶店で武藤本人から直接説明を受けた」と述べている。

武藤は、その後弁明はしているものの、週刊文春の記事を否定していない。ラインの記録もAへの説明の内容も事実上その正確性を認めている。武藤とAとのトラブルについては、武藤側の言い分があるようだが、23人に4104万円を振り込ませて一部を流用し今なお700万円を未返還であることは争いないと見てよいようだ。

ラインに残る武藤の「勧誘文言」は、詐欺罪の構成要件に該当する欺罔行為となる公算が高い。未公開株詐欺と同様の手口なのだ。議員自身が「国会議員枠」の存在を強調している点は明らかに欺罔であり、ばれないように秘密を守れといっている点などは、タチが悪く常習性すら感じさせる。

自民党は、武藤の離党届を受理してはならない。党公認の議員としての適格性を検証し吟味しなければならない。事実関係を洗い出し、とりわけ詐欺の故意の有無を徹底して検証の上、除名を含む厳正な処分をしなければならない。そして、当該選挙区の選挙民を含む主権者国民に経過を報告するとともに、責任の所在を明らかにして謝罪しなければならない。さらには、粗製濫造の安倍チルドレンの中に、他にも欠陥議員がないかを十分に点検しなければならない。

以上が常識的なところだが、私はこれでは済まないと思う。自民党は、自分が当選させた欠陥候補者の選挙をやり直す責任があると思う。商品に欠陥ある場合、消費者は完全な他の商品の引渡を求める権利がある。いわゆる代物請求権である。

滋賀4区の有権者は、いや国民は詐欺犯もどきの欠陥議員をつかまされっぱなしで、衆議院議員としての居直りを許していることになる。いまや滋賀4区の恥となった欠陥議員についての代物請求権の行使が認められなければならない。こんな人物と知っていればよもや有権者が投票したはずはない。この議席はだまし取られたものなのだ。自民党が選挙民の代物請求に誠実に向き合う方法は、武藤を説得して議員辞職をさせることだ。それができれば、選挙民は欠陥議員に代えた新たな議員を選任する機会をもつことになる。再びの欠陥議員選任のリスクは…、まあ少なかろう。
(2015年8月20日)

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