澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

街頭で訴えるー「立憲主義・民主主義・平和主義破壊に対する怒りを忘却してはならない」

本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、「本郷・湯島九条の会」からの訴えです。少しの時間、耳をお貸しください。

95日もの会期延長をした、異例ずくめの通常国会が幕を閉じました。この国会で、安倍政権と自公両党は、私たち国民が大切にしてきた、かけがえのない三つの宝を深く傷つけました。

その一つは、立憲主義。
もう一つは、民主主義。
そして、恒久平和主義。

安倍政権は、立憲主義を蹂躙し、民主主義を踏みにじり、恒久平和主義を侵害したのです。あらためて、安倍晋三とその取り巻きに、そして自民・公明の与党に対し、満腔の怒りをもって抗議します。

いうまでもなく、我が国は憲法に基づく政治を標榜しています。憲法の手続によって政治権力が形作られ、憲法が権力の暴走なきよう制約しています。立法・行政・司法のすべての分野における国家の権力作用は、憲法に基づかねばなりません。

ところが、安倍晋三とその一味は、憲法9条が邪魔でしょうがない。日本を戦争のできる国に作りかえようとたくらんできました。本来、そのためには憲法自身が定める憲法改正手続を経るしか方法はありません。しかし、それは国民世論が許さぬことで、およそ現実性がないと悟らざるを得ませんでした。

そこで安倍は、抜け道を考えました。まず、憲法改正の手続条項を変更して、改憲のハードルを下げようとしたのです。ところが、このたくらみが世論の反撃に遭って大失敗。「プレーヤーがルールを変えようとは僭越至極」「やり方が汚い。姑息」「裏口入学的やり方ではないか」。悪評散々で引っ込めなければならなくなりました。これが一昨年の春から夏にかけてのこと。

それでも彼はあきらめず、別の手を考えました。「たまたま今、議会内の議席数は与党で圧倒的多数を占めている。それなら、法律で憲法9条を実質的に変えてしまおう」。昨年の7月1日、閣議決定で集団的自衛権行使容認を宣言し、これに基づく法案をこしらえました。憲法を壊す、下克上の法律。戦争法を無理矢理成立させることで、立憲主義を蹂躙したのです。

そして皆さん。先月17日夕刻のことを思い出してください。あの特別委員会の採決の模様を。いや、正確には採決などはなかった。採決と称する怒号と混乱の模様を。

私は、「人間かまくら」という言葉をこのとき始めて耳にしました。委員長を取り巻いて、野党の抗議を遮断したあの人間かまくらを作った人たちは、特別委員会の与党委員ではなく、自民党議員の秘書連中だったというではありませんか。ルール無視。力づくでの採決もどきの混乱を、採決あったとしたのです。

もちろん、速記録には、「発言する者多く、議場騒然、聴取不能」とだけ書かれていました。採決不存在というほかはないのです。ところが、10月11日になって、速記録に加筆が行われた。11の法案について、「質疑を終局した後、いずれも可決すべきものと決定した」「なお、両案について附帯決議を行った」というのです。あの混乱のなか、それはあり得ない。明らかな捏造です。これは、民主主義を踏みにじる暴挙と指摘せざるを得ません。

このようなやり方で成立したとされた戦争法は、憲法の恒久平和主義を侵害する内容です。この11本の法律を束にして、政府与党は「平和安全法制」と呼んでいます。また、マスコミの多くは「安全保障法制」、略して「安保法制」という言葉を使っています。しかし、この法律に反対する私たちは、ズバリ「戦争法」と名付けました。一定の要件が整えば、日本も戦争をすることができると定める法律だから戦争法。文字どおり、日本を戦争のできる国とする法律だから、戦争法なのです。

平和憲法は一切の戦争と武力行使を禁じたはずではありませんか。最大限譲歩しても、現に侵略を受けた場合の自衛のための武力行使容認に限られる。それ以外の戦争も武力の行使もできるはずがない。そのような常識で、戦後70年を過ごしてきた日本ですが、トンデモナイ安倍内閣は、自衛のための武力行使に限らず、集団的自衛権行使を容認する法を成立させたのです。他国の戦争を買ってまで、戦争に参加しようというのです。

私たちは70年前、戦争の惨禍を繰り返さないことを誓って、平和国家日本を再生しました。そのとき、なぜあのような悲惨で無謀な戦争をしてしまったのか、十分な反省をしたはずです。その答の一つが、民主主義の不存在でした。戦前、国民は主権者ではなく、統治の対象たる臣民でしかありませんでした。自分たちの運命を自分たち自身で決めることのできる立場になかったのです。情報に接する権利も、意見を発して政治に反映させる権利も、まことに不十分でしかありませんでした。民主主義がなかったから、戦争に突き進んでしまったのです。

今まだ私たちは民主主義を失ってはいません。今からでも遅くはありません。主権者として、戦争を可能とする戦争法廃止を強く求め、平和を壊す安倍政権にノーを突きつけましょう。私たちは、選挙の日一日だけの主権者ではない。いま、安倍政権は、選挙によって多数の支持を受けたとする傲慢をひけらかしていますが、戦争法成立には多くの国民の怒りが沸騰しています。

この怒りを忘れず持続しようではありませんか。来年7月に行われる参議院選挙まで、怒りを持ち続け、この選挙にぶつけようではありませんか。

水島朝穂さんが、ヒトラーの「わが闘争」に、「大衆の理解力は小さいが、その代わり忘却力は大きい」「宣伝はこれに依拠せよ」というくだりがあると指摘しています。いま、安倍晋三もヒトラーを真似して、国民の忘却に期待し、依拠しようとしています。しかし、安倍に言いたい。「主権者を『忘却力が大きい』と舐めてはならない」と。

私たちは反安倍勢力を総結集して、自公両党との選挙戦を勝ち抜こうという試みに賛意を表します。立憲主義・民主主義・平和主義の破壊に加担した、自民・公明そして、次世代、改革・元気各党の議員の落選運動を始めようではありませんか。国民自身のこの手で、立憲主義・民主主義・平和主義を再構築しようではありませんか。
(2015年10月13日・連続926回)

お国のために子どもを産むなどマッピラご免だ。

「口は禍の元」という言葉には違和感がある。禍の源は、腹の底に潜んでいるものであって、口に責任転嫁してはならない。普段はこれを口の門から出ぬよう注意をしているのだが、時にこれがうっかり外に出る。このうっかり出た言葉を、「失言」と言うのは不正確。実はそれこそ腹の底に潜めていたホンネなのだ。

3日前のこと。菅義偉官房長官は、「『直撃LIVE グッディ!』(フジテレビ)に出演し、歌手の福山雅治さんと俳優の吹石一恵さんの結婚について、『本当、良かったですよね。結婚を機に、やはりママさんたちが、一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれればいいなと思っています。たくさん産んでください』と発言した」。そう、報じられている。第1次安倍政権で、柳沢伯夫厚生労働相(当時)が、女性を「産む機械」に例えた発言で批判を受けた。あれと同根のホンネ。

そのホンネが、「違和感を感じる」「政治家の口にすることではない」などと批判され叩かれている。叩いている世論の健全さが好もしい。違和感の根源は、「子どもを産むことが、すなわち国家に貢献すること」という認識にある。菅の腹の底に潜んでいる、「国民は国家のために子どもを産むことこそ」「国家のために子どもがいる」というホンネが批判されているのだ。

ことは憲法の根本的な理解に関わる。国家のための個人か。個人のための国家か。いうまでもない。個人のために国家がある。個人が集まって協議して国家を作るのだ。国家が必要だから、あった方が便利だから、国家を作る。国家が個人に先んじて存在するわけではない。どんな国家が使い勝手がよく、どんな国家が国民にとって安全で安心か、その設計は個人が集まって知恵を絞るこになる。不具合が見つかれば作り直す。もう要らないとなったら、国家などなくしてもよいのだ。

「子どもを産むことは国家に貢献するから価値がある」とは逆さまの発想。けっして、「子どもは国家のために産むものではない」のだ。すべての子どもは、この世に生まれるだけでこの上ない価値がある。しかし、国家は個人に役に立つことによってはじめて、その限りおいてその存在に価値が認められる。

半世紀ほどの昔、ジョン・F・ケネディという政治家がいた。彼は国民に、「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」と呼びかけた。国民の自尊心をくすぐる狙いの発言として有効ではあったが、その論理は完全な権力者の発想であって、民主主義者の言葉ではない。

国旗国歌強制の問題もまったく同じだ。「国旗国歌=国家」であるから、個人は国旗国歌の前で、実は国家と対峙している。国旗国歌への敬意表明の行為の強制は、国家への忠誠の強制と同じこと。個人の僕に過ぎないはずの国家が、個人を凌駕し優越して、国民個人を僕とする下克上が起きることになる。これを背理であり、倒錯だと言うのだ。

「国家のために子どもを産め」のホンネも、「国旗に正対して起立し、国歌を斉唱せよ」の強制も、同じことなのだ。

国家のために子どもを産み、国家のために子どもを育て、その子は国家のためにはたらき、国家のために戦って、国家のために死ぬ。これが、20世紀の前半まで、日本国民に押しつけられた国民の道徳だった。しかも、その国家の中心に天皇が据えられ、「命を捨てよ君のため」と、忠死が強制された。

「お国のために子供を産め」という菅らのホンネには、あの天皇制が臣民に押しつけた尊大さを思い出させるものがある。だから、世論は本能的に警戒の反応を示したのだ。「誰の子どもも殺させない」と、名言を喝破したママの会の母親は、愛する子を国家に取られて戦場に送り込まれる恐怖を感得したからこそ、戦争法反対の行動に起ち上がったのだ。政権はそのことをちっとも学んでいないのだ。子どもの貧困を深刻化し子育ての条件の整備も怠ってきたこの政権が、「国家のために産めよ増やせよ」とは、いったい何ごとか。

「お国のために」「国家のために」というスローガンに欺されてはならない。
(2015年10月2日・連続915回)

奴らを通すな。奴らを落とせ。

スペイン内戦で、反ファシズム陣営の合い言葉となったのが、「No Pasarán(奴らを通すな!)」。国会前の集会でも、たびたび演説者の決意として引用もされ、コールもされた。

そうだ。奴らを通してはならない。奴らはファシストなのだ。立憲主義をないがしろにし、民主主義を踏みにじり、教育の国家統制をはかり、労働法制をずたずたにして貧困と格差を生み出している。それだけではない。沖縄に新たな恒久的米軍基地をつくり、全国にオスプレイを配備しようとしている。この国を軍事大国にしようとしているではないか。明日にはいよいよ明文改憲にも手を付けかねない。

国会内では、奴らは数の力を押し通したが、今度は押し戻さねばならない。選挙の関門を通してはならない。奴らを通すな。奴らを落とせ。たたき落とせ。

奴らとは、今国会で戦争法案に賛成した自・公の与党議員全員だが、当面の目標は来夏の参院選だ。参議院議員として、戦争法案に賛成した、自・公・次世代・元気・改革の議員の中で、来年7月に6年の任期が満了して、「選挙区」から立候補しようとしている者が下記の42名だという。これがターゲットだ(党名記載ないのはすべて自民)。堂々たる市民主体の落選運動を展開して、奴らを落とそう。そうして、立憲主義と民主主義を回復しよう。

 北海道 長谷川岳
 青森  山崎力
 宮城  熊谷太
 秋田  石井浩郎
 山形  岸宏一
 福島  岩城光英
 茨城  岡田弘
 栃木  上野通子
 群馬  中曽根弘文
 埼玉  関口昌一 西田実仁(公明)
 千葉  猪口邦子 
 東京  竹谷とし子(公明)中川雅治 松田公太(元気)
 神奈川 小泉昭男 
 新潟  中原八一
 富山  野上浩太郎
 石川  岡田直樹
 長野  若林健太
 岐阜  渡辺猛之
 静岡  岩井茂樹
 愛知  藤川政人
 京都  二の湯智
 大阪  北川イッセイ 石川博宗
 兵庫  末松信介
 和歌山 鶴保康介
 鳥取  浜田和幸(次世代)
 島根  青木一彦
 広島  宮澤洋一
 山口  江島潔
 徳島  中西祐介
 香川  磯崎任彦
 愛媛  山本順三
 福岡  大家敏志
 佐賀  福岡資麿
 長崎  金子原二郎
 熊本  松村佑史
 宮崎  松下新平
 鹿児島 野村哲郎
 沖縄  島尻安伊子

具体的にどうするか。大きくは二つの柱がある。一つは、直接に奴らの票を減らすこと。そしてもう一つは、統一候補者を擁立して反安倍陣営全体で押し上げることだ。

奴らの票を減らす方法の王道は言論戦である。何よりも、言論戦を重視しなければならないことは言うまでもない。しかし、王道だけでは芸が無い。できることはなんでもやろう。何かないか。

弁護士・研究者・公認会計士などの専門家集団から成る「政治資金オンブズマン」が、たいへん興味深い運動の準備を始めているという。私もこれに参加しよう。
http://blog.livedoor.jp/abc5def6/archives/1040526008.html

政治資金オンブズマンは、政治とカネにまつわる問題で、多くの政治家を刑事告発し、あるいは大きくマスコミ公表するなどの経験を積み重ねている。この経験を生かして市民運動体の落選運動に役立てようというのだ。

具体的な最初の取り組みとしては、次のようなアウトライン。
? 奴らが所属する政党からの寄付金(政策推進費、交付金)などの調査、及び奴らが代表を務める政党支部や資金管理団体、後援会の各収支報告書の収入と支出、及びそれに添付している領収書類のコピーを徹底して調査する。(調査方法はHPに公表するが、同時に運動団体に弁護士などを無料で派遣することを検討中)

? そこから違法事実が判明すれば、政治資金規正法違反、公職選挙法違反などで告発することのアドバイス、告発状の作成なども無料で行うことも検討中。(なお政治とカネ問題だけでなく、どこかの議員のように未公開株式などの問題もおこれば法的なアドバイスも行う)

? 仮に違法でなくても、不当、不透明な収入や支出などが判明すればその情報をHPなどに公表し拡散することで、落選運動に寄与する。

奴らと言論でたたかうだけでなく、叩いてホコリを出そうというアイデアだ。徹底した身体検査をこちらでやって、不合格者をはねつけようという企画なのだ。非立憲・反民主の議員を叩くことが、同時に政治とカネとのつながりを断って政界を浄化することにもなる。一石二鳥ではないか。

もう一つ。奴らを落とすには、対抗馬として強力な反ファシズム統一候補が必要となる。完勝したオール沖縄方式、善戦もう一歩だったオール山形市方式だ。少なくとも、候補者調整が必要だ。

憲法が決壊し、日本の立憲主義と民主主義の危機なのだ。市民が一丸となって、奴らと闘い、奴らを叩き、そして強力な対抗候補を押し上げる。こうして、奴らを落とさねばならない。No Pasaránだ。
(2015年9月19日・連続902回)

「自衛隊が他国の領土で核兵器を輸送することは法理上許容される」という首相答弁の重大性

8月7日の衆議院予算委員会の詳細メモを目にした。民主党山井和則議員の質問に対する安倍首相の答弁に唖然とする。これはダメだ。こんな人物に一国の舵取りを任せてはおられない。

テーマは、非核3原則との関わりで、戦争法案の定める後方支援の範囲如何。「核兵器も『弾薬』として自衛隊による輸送が許されるか」という大問題である。

安倍は、「法的には可能だが、政策的にあり得ない想定」と、議論そのものを受け付けないという姿勢。これに、山井議員が執拗に食い下がっている。以下重要部分を抜粋する。

○山井
私の知り合いの広島の方からも、非核三原則に安倍総理が式典で触れられなかったことにショックで涙がとまらなかったということをおっしゃっておられました。唯一の被爆国である日本が、世界に核廃絶をアピールする一番重要な場じゃないですか。なぜ、懇談会で言うのであれば挨拶から抜いたんですか。歴代の総理大臣がずっと入れてきた、御自分も、去年、おととし入れてきた。おっしゃったように国是じゃないですか。なぜ国是を抜かれたんですか、広島だけ。国是を、あなたは、わざと意図的に抜いたんですよ。世界が、非核三原則の堅持を日本はやめるのかと思うのが当たり前じゃないですか。被爆者の方々は、もう本当にあきれられ、失望されておられます。
○安倍 (略)
○山井
そのことと関連するんではないかと思いますが、おととい、中谷大臣は、今回の安保法案の中で、結局、弾薬とみなされて、核弾頭つきの核ミサイルは、法律上は自衛隊が輸送することからは排除されないという答弁をされました。岸田外務大臣も、そのとおりだと認められました。
純粋法理上、核兵器を自衛隊が輸送することは除外されているのか、されていないのか、イエス、ノーで、安倍総理、お答えください。
○安倍
それは、そもそも、政策的選択肢としてないものをどうだという議論をすること自体が私は意味がない、このように思います。
○山井委員
全く答弁されませんね、先ほどの非核三原則にしても。国民の方は、これじゃ理解できませんよ。私たちが今審議しているのは安全保障法案という法律なんですから、法律上は、今回の安保法案で自衛隊が核兵器を輸送することは排除されているんですか、されていないんですか。イエス、ノーでお答えください。
○安倍
そもそも、政策上、これはあり得ない話であります。いわば政策的な判断をする私が、あり得ない話について、政策的な判断をする私が答えることは、まさに政策的な判断をしているという誤解を与えさせようと山井さんは考えておられるんだろうと思いますが、これは政策的には全くあり得ない話であります。そして、純粋に法理上ということではありますが、これは、事実上、政策的にはあり得ないんですから、まさに机上の空論と言えます。机上の空論ではありますが、中谷大臣がまさに純粋法理上は答弁したとおりであります。しかし、まさに私は政策的な判断をする立場の行政府の長でありますが、その長にそういう答えをさせて、それがあり得るかのごとくの印象を与えようとする議論は、私はそれは真摯な議論とは言えないのではないか、このように思います。
○山井
中谷大臣が答弁されたとおりだと、法理上は核兵器を自衛隊が今回の安全保障法案で輸送することは排除されていないということをお認めになりました。これは非常に大きなことであります。昨日も、「核兵器を輸送することを認めるということは使用することも容認するということにつながりかねない。そんなことはあり得ない」ということを被爆者団体の方々もおっしゃっておられます。法律上核兵器を自衛隊が他国の領土で輸送できるようにする、そんな危険な法律が許されるはずがないじゃないですか。
○安倍
先ほども申し上げたとおり、これは法理上の話であって、本来、法理上の話ではなくて、政策上あり得ないと私は言っているじゃないですか。政策上あり得ないということは、それは起こり得ないんですよ。起こり得ない。起こり得ないことをまるで起こるかのごとくそういう議論をするのは間違っていると、私が何回も申し上げているとおりであります。
そもそも、そんな、弾頭自体を日本に運んでくれと米国が言うこと自体は一二〇%あり得ませんよ。そして、日本側が、一二〇%ないということを前提に、頼まれたとしても、それは絶対にやりませんよ。それは当たり前ではありませんか、非核三原則もあるんですから。
○山井
安倍総理の答弁はおかしいと思いますよ。私たちが今、国会で議論しているのは法律ですよ。この法律は、五年、十年、二十年、三十年、将来の日本の国を左右するんですよ。今の政権が政策判断で核兵器は輸送しませんと、そんな答弁じゃ、全く安心も納得もできるはずないじゃないですか。法律的に可能だったら、次の政権が違法じゃないから核兵器を運びますと言えば、違法じゃないんですよ。絶対にあり得ないというならば、安倍総理、今回の法案の中で核兵器は除外するとしっかり明記してください。そうしないと納得できません。
○安倍
私は総理大臣として、あり得ない、こう言っているんですから、間違いありませんよ、それは。総理大臣としてそれは間違いないということを言っているわけですから。これはそもそもあり得ないということについて、それはまるで政策的にあり得るかのごとく議論することは間違っているということを申し上げているわけであります。
○山井
憲法を解釈変更して、憲法違反の安保法案を出している安倍総理があり得ないと言っても、国民は信用しませんよ。あり得ないことをやろうとしているから、国民は不安に思っているんじゃないですか。五年、十年、次の政権あるいはその次の政権が、もし政策的判断で核兵器を輸送すると判断した場合、この核兵器を輸送するということは違法になるんですか、違法でないんですか。
○安倍
核弾頭云々かんぬんという話をされましたが、そもそも日本側にそれを頼むということは一二〇%ありませんが、しかもそれを運ぶという能力を我々は持っておりませんが、その上においてそれを運ぶということはもちろんあり得ないわけでありまして、それは当然断る。しかし、それはそもそも全くない話でありまして、ですから、これはまさに、ほとんどここで政策論として議論する意味はないわけであります。
まさに法理上の話については答弁しているわけでありますが、しかし、政策論としてはこれは一二〇%あり得ないわけであります。
○山井
あり得ない、あり得ないとおっしゃるんだったら、政策判断であり得ないんじゃなくて、安倍総理のあり得ないという言葉ほど説得力のないものはないんですよ、法律で、安倍総理の言葉じゃなくて。私たち政治家は、後世の子供や孫たちの時代にも戦争のない、核兵器を絶対に輸送もしない、そういう日本を残す責任があるんですよ。その担保は、安倍総理の答弁ではだめです。法律にしっかり書いてください。核兵器、毒ガス、大量破壊兵器、それは絶対に弾薬に含まれない、そのことを法律に書いてください。書けない理由は何ですか。
○安倍
国是として非核三原則を我々は既に述べているわけでありますし、はっきりと表明をしております。それを例えば全ての法律に落としているかといえば、それはそうではないわけでありまして、国是は国是として確立をしているわけでありますが、この国是の上に法律を運用していくのは当然のことであろう、このように思うところでございます。
○山井
その国是を、きのうの平和式典で非核三原則、国是を言わなかったのはあなたじゃないですか。その前日に中谷大臣は、法律上、核兵器を輸送できると国会で答弁しているんですよ。日本だけじゃなくて世界じゅうの方々が、核兵器をもしかしたら持つかもしれない、そういう議論を始めるんじゃないかと不安に思うのはごく自然だと思いますよ。
「安倍総理は、今までの国是であった平和憲法、専守防衛、そういうものを壊そうとしているんじゃないか」「最近の政府の施策には被爆者の願いに反するものがあり、危惧と懸念を禁じ得ない、その最たるものが安保法案だ」と被爆者の代表の方々もおっしゃっておられます。
きょう安倍総理が認められたように、法律上、核兵器を自衛隊が輸送できるようにする、こんな危険な法律を日本の国で成立させることはできません。その撤回を求めます。安倍総理、最後に答弁をお願いします。
○安倍
山井委員が前提としていることは、全て間違っています。
○山井
法律的にはそのとおりじゃないですか。国民が議論するのは法律ですから。
以上で質問を終わります。

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安倍の頭の中では、憲法・法律・政策の各レベルの整理ができていない。

行政府が行う政策は法にもとづいて行われなけばならない。その法は、憲法と法律という2層の構造でできている。憲法は硬く強固な枠組みである。軽々に変更はできない。その憲法が許容する限りの内容で、議会が必要に応じて法律を制定する。行政の政策は、その法律が許す範囲で選択肢を持つことになる。これが法の支配(この場合、法治主義と言ってもよい)の基本構造である。

今、戦争法という法律を作ろうと政府が提案し国会での法案審議が進行している。国会の審議では、その法が行政にどれだけの政策上の選択肢を与えるものであるか、(裁量を許容するか)が吟味されなければならない。そのときには、「純法理的に政府に政策上の選択肢としてどの範囲の行為をなしうるかの権限を付与したのか」は、まさに本質的な質問であって、行政府が政策として実行する意思がないとして答弁を拒否することは許されない。仮に、法律的には可能だが、けっして政策的に採用することがないというのなら、その部分については法律を作る必要性(立法事実)を欠くことになり、そのような法律の制定は不必要故に許されないことになる。

法案が許容する「米軍への弾薬の輸送」の中に、核兵器の輸送も含まれ、米軍の要請次第で自衛隊がなし得るものであるとしたら、国民の圧倒的な多数が、この法案に反対することになるだろう。「政策的にあり得ない」という答弁は、質問への回答を拒否する理由にならないし、「今のところは政策的に採りにくいから、法律的に可能としたことだけで満足」「こうしておけば、状況次第で政策を変更し、いつでも核兵器の輸送ができることになる」との意味を含むと読まねばならない。

また、この安倍答弁には別の角度からの問題もある。
健全な民主主義とは民衆の権力に対する猜疑によって保たれる。民衆が権力を信頼することは独裁を生む危険行為なのだ。民主的な手続を経て形成された政治権力も、民衆の批判なくしては容易に腐敗するものと考えねばならない。ましてや、安倍政権である。その傲慢・暴走ぶりは、戦後保守政治の中でも、最悪のものではないか。

「私は総理大臣として、あり得ない、こう言っているんですから、間違いありませんよ、それは。総理大臣としてそれは間違いないということを言っているわけですから。これはそもそもあり得ないということについて、それはまるで政策的にあり得るかのごとく議論することは間違っているということを申し上げているわけであります。」
この安倍答弁は、法の支配の構造について理解ない点でも、権力を持つ者が「私を信頼すればよいだけのこと」という傲りとしても、徹底して批判されなければならない。

そして、恐るべきは安倍政権の核政策のホンネである。国民に少しずつ、核に対する慣れを植えつけようとしているとしか思えない。戦争法案は、自衛隊と核との接触を可能とするものだということをよく認識しよう。
(2015年8月10日)

大波かぶる礒の崎、しぶきはもろに安倍政権

7月27日(月)参院審議入りの初日。この日表には出て来なかったが、影の主役は安倍の側近礒崎陽輔だった。あるいは、礒崎がクローズアップさせた「法的安定性」というテクニカルタームであったというべきか。

この日本会議での民主党北澤俊美の質問はなかなかのものだった。この人がかつては防衛大臣だったのだ。民主党政権を壊してしまったことを惜しいと思わせる内容。北澤は「法的安定性」に言及してこう言っている。

「総理、あなたは政治家として本当に責任を果たすつもりがあるなら、集団的自衛権の行使を可能にする憲法改正を正々堂々と掲げ、国民の信を問えばよい。それが王道であります。それなら憲法も立憲主義も傷つくことはありません。ところが、総理は、憲法解釈の変更という言わば抜け道を選び、国会での数に頼るという覇道を邁進しています。抜け道と覇道の行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」

維新の小野次郎も聞かせた。法的安定性に関しては、次のような質問。
「政府が根拠の一つとしている砂川判決から集団的自衛権の合憲性を導き出すことが困難であることについては、これまでに法律家である与党公明党山口代表を含めてほとんどの法律専門家が指摘しているところであります。専門家に受け入れられていないこのような憲法及び法律の解釈で押し通して将来にわたって法的安定性は確保できるのか、どうお考えなのか、御認識をお伺いしたい」

これに対する首相答弁は、従来と変わりばえのない紋切り。まったく迫力に欠ける。この人に丁寧な説明を期待するのは、木によりて魚を求むるの感。
「法案の憲法適合性、政府における検討及び法的安定性についてお尋ねがありました。まず、新3要件については、砂川判決と軌を一にするこれまでの政府の憲法解釈の基本的な論理の範囲内のものであるため、法的安定性は確保されており、将来にわたっても憲法第九条の法的安定性は確保できると考えています。」
これは要約ではない。速記録がこうなっているのだ。

砂川最高裁判決は1959年のこと。1972年の自衛権に関する政府見解は、当然にこれをも踏まえて、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」と結論づけたものである。

この72年政府解釈から数えても40年余、54年自衛隊発足時から数えれば60年余。歴代政権は一貫して「集団的自衛権行使は違憲」と言い続けてきた。いわゆる専守防衛路線である。安倍政権は、乱暴にこれを覆して「集団的自衛権行使合憲」としたうえで、集団的自衛権行使を可能とする法案を提出しているのだ。

この安倍政権の姿勢を、野党も国民世論も法律家も、口を揃えて「立憲主義に反する」と言い、同時に「法的安定性をないがしろにするもの」と指摘した。このことを北澤は、「抜け道と覇道」と言い、「行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」と手厳しい。

無論、政権は懸命に防戦している。安倍の答弁に見るとおり、「立憲主義に反しない」「法的安定性は確保されている」と弁明に大わらわだ。

ところが、首相の側近中の側近である礒崎陽輔が、ホンネを言ってしまった。思いがけない世論の反発への焦りもあったろうし、地元の席での気安さからでもあるのだろう。「法的安定性」なんてどうだってよいのだ。憲法解釈の一貫性よりも、中国や北朝鮮の危険に対処することの方が大切だろう。そう言っちゃったのだ。みごとなオウンゴールである。

「法的安定性」とは、分かりきったことのようで、漠然とした概念。有斐閣「法律学小辞典」では、「どのような行動がどのような法的効果と結びつくかが安定していて、予見可能な状態をいう」とある。なるほど、苦心の語釈。

「法の支配」は、権力の恣意を許さないための大原則だ。形だけの法体系があっても、その法の要件と効果が確定せず、曖昧で、ぶれて、改廃きわまりない、あるいは解釈次第で伸び縮み自由では、権力規制の実効性を持ち得ない。法的安定性は、法の支配に伴う必須の要請なのだ。

「法的安定性などはどうでもよい」とは法に縛られない独裁者の言である。こういう為政者のいるところ、法の支配が貫徹する国ではない。「価値観を同じくする国」ともいえない。中枢にこのようなホンネを持ち、このような発言をする者を抱える政権は恐ろしい。憲法の枠も、法律の枠も、目先の政策の必要次第でいとも容易く破られるからだ。

礒崎を切り捨てて「政権は礒崎とは違う」と大見得を切るか、礒崎を抱えたままで「政権の体質は礒崎と同質」と見られても良しとするか、安倍政権のあり方が鋭く問われている。国民は目を見開いて注視している。
(2015年7月29日)

西修参考人意見「強弁」の無力

戦争法案が違憲であることは、既に国民の常識となっている。斎藤美奈子の表現を借りれば、「いまや違憲であることがバレバレになった安保法制」(東京新聞・「本音のコラム」)なのだ。「違憲の法案を国会で成立させてはいけない」という正論も過半の国民の確信だ。大勢決したいま、敢えてこれを合憲と言い繕おうという強弁は、蟷螂の斧に等しい。

そのような蟷螂の役割を勇ましく買って出たのが西修(駒澤大学名誉教授)である。6月22日の安保特別委員会での参考人発言だ。しかし、どんなに勇ましいポーズをとろうとも、蟷螂は所詮蟷螂。その斧をいかに振りかざそうとも、天下の形勢にはそよ風ほどの影響もない。

6月22日参考人意見では、宮?礼壹、阪田雅裕の元内閣法制局長官両名の発言が話題となった。「学者だけでなく、官僚も違憲の見解なのだ」と。西の発言内容はほとんど話題にもならなかった。とはいえ、他にない珍らかなる蟷螂の言である。それなりの注意を払うべきだろう。報道されている限りで、その発言を整理してみたい。

西参考人発言は、次の10項目を内容とするものである。
1 「戦争法案」ではなくて「戦争抑止法案」だと思う。9条の成立経緯を検証すると、自衛権の行使はもちろん、自衛戦力の保持は認められる。
2 比較憲法の視点から調査分析すると、平和条項と安全保障体制、すなわち集団的自衛権を含むとは矛盾しないどころか、両輪の関係にある。
3 文理解釈上、自衛権の行使は、全く否定されていない。
4 集団的自衛権(国連憲章51条)は、個別的自衛権とともに、主権国家の持つ固有の権利、すなわち自然権である。また、両者は不可分であって、個別的自衛権か集団的自衛権かという二元論で語ること自体がおかしな話。
5 集団的自衛権の目的は抑止効果であり、その本質は抑止効果に基づく自国防衛である。
6 我が国は、国連に加盟するに当たり、何らの留保も付さなかった。国連憲章51条を受け入れたと見るのが常識的だろう。
7 個別的自衛権にしろ集団的自衛権にしろ、自衛権行使の枠内にある。国際社会の平和と秩序を実現するという憲法上の要請に基づき、その行使は政策判断上の問題であると思います。
8 政府は、「恒久の平和を念願し」「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」などという国民の願いを真摯に受けとめ、国際平和の推進、国民の生命、安全の保持のため、最大限の方策を講ずるべき義務を負っている。
9 国会は、自衛権行使の範囲、態様、歯どめ、制約、承認のありようなどについて、もっと大きな視点から審議を尽くすべきである。
10 今回の安全保障関連法案は、新3要件など、限定的な集団的自衛権の行使容認であり、明白に憲法の許容範囲である、このように思うわけであります。

私の要約は、大きく間違ってはいないはず。ところどころ、テニオハが少しおかしいが、これは、西の発言の原型を尊重しているからだ。以上をお読みになって、はたして蟷螂の斧の威力の有無以前に、そもそも西製斧の形状や素材を認識できるだろうか。主張への賛否や、説得力の有無の判断以前に、主張の筋道や論理性を理解できるだろうか。

論証の対象は、「安全保障関連2法案(戦争法案)の合憲性」「法案の9条との整合性」、少なくとも「違憲性の否定」である。上記10項目がそのような論証に向けての合目的的な立論となっているとはとても考えられない。これを聞かされた自民党・公明党の委員も、さぞ面食らったのではなかろうか。

以上の、理屈らしい理屈を述べようとした部分はきわめて分かりにくい。というよりは、合憲論の論証としてはほとんど体をなしていない。分かり易いのは、西が最後に述べたところである。大意は以下のとおりだ。

「我が国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、我が憲法9条は、我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではないのである。」

これは分かり易い。要するに、「主権国家は平和と安全を維持するために、国際情勢の実情に即応して適当と認められることなら何でもできる」というのである。おそらくは、このあとに、「主権国家が平和と安全を維持するために国際情勢の実情に即応して適当と認められることをすることが違憲となることはありえない」「本法案は、そのような『適当と認められる』範囲内の法律を定めるものだから違憲ではない」ということになるのだろう。要するに、「国を守るためなのだから憲法の字面に拘泥してはおられない」という分かり易く乱暴な「論理」である。この「論理」で前述の10項目を読み直すと、なるほど了解可能である。もちろん、了解可能とは意味内容の理解についてだけ。けっして同感や賛同などできる訳がない。

西の立論では、憲法9条の文言が具体的にどうであるかはほとんど問題にならない。「比較憲法学的に」、一般的な安全保障のあり方の理解や、国際情勢のとらえ方次第で、憲法の平和条項はどうとでもフレキシブルに解釈可能というのだ。およそ、憲法が権力の縛りとなるという発想を欠くものというほかはない。

また、西の主張では、自衛権に個別的だの集団的だのという区別はない。どちらも国家の自然権として行使が可能というのだ。時の政権の判断次第で、我が国の存立のためなら何でもできる。憲法よりも国家が大切なのだから当然のこと、というわけだ。

これはまたなんと大胆なご主張、と驚くほかはない。あからさまな立憲主義否定の立論である。主権者が憲法制定という手続を経て、為政者に対して課した権力行使に対する制約を認めない立場と言ってよい。

立憲主義を認め、9条の実定憲法上の規範性を認めた上で、問題の法案を合憲というには、きわめて精緻でアクロバティクな立論が要求される。西流の乱暴な議論では、どうにもならないのだ。

やはり、自民党は今度も参考人の人選を誤ったようだ。とはいうものの、敢えて蟷螂たらんとする者は他になく、手札は底を突いていたのだろう。西参考人推薦は、与党側にとって合憲論での巻き返しの困難さをあらためて示したというほかはない。
(2015年6月24日)

18歳諸君、ワタクシ安倍晋三の歴史認識と憲法論を聞け

昨日(6月17日)改正公職選挙法が成立した。これで、18歳のキミたちにも選挙権が与えられる。国政選挙・地方選挙で投票ができるだけではない。憲法改正国民投票の権利が君たちのものとなる。憲法を変えて新しい国の形を作ることが、君たち若者の役割だ。そのための18歳選挙権だということを肝に銘じていただきたい。憲法改正を期待されている君たちに私のホンネを語るから、心して聞きたまえ。

君たちにとっては古い歴史でしかないかも知れないが、70年前までの我が国は、皇紀輝く強国だった。富国強兵をスローガンとした一億一心の国柄で、台湾を植民地とし、朝鮮を国土に組み入れ、満州の建国を助けた。しかも、皇国の対外政策は、西欧列強に虐げられた東亜の民族の解放であり、五族共和の王道楽土建設という崇高な理想を目指すものであった。

ところが、我が国の精強と東亜の解放を快く思わぬ勢力に対して、我が国の生命線である満蒙の権益を守るために、自存自衛の戦争を余儀なくされた。我が軍と国民は一体となり、ナチズム・ドイツやファシズム・イタリアを盟友とし、世界を敵にまわしてよく闘った。

時に利あらずして善戦もむなしく我が軍は敗れた。しかし、果敢な健闘は皇国臣民としての矜持に照らしていささかの恥じるところもない。遺憾とすべきは、経済的生産力において欧米に比肩し得なかったことのみだ。臥薪嘗胆して、再び敗戦の憂き目を見ることのない強国を作り直さねばならない。これが、「日本を取り戻す」と私が常々唱えている内容だ。

ところが、戦後は風向きが変わった。「富国」はともかく、「強兵」のスローガンが吹き飛んでしまっている。挙国一致に代わって、個人の尊重だの、憲法だの、平和だの、人権だの、そして自由だのというゴタクが幅を利かせている。これでは他国から侮られるばかりではないか。私が、「戦後レジームからの脱却」をいうのは、そこを嘆いてのことなのだ。

戦後謳われた理念のなかで「民主主義」だけが唯一素晴らしいものだ。私の理解では、民主主義とは、選挙に勝ったものにオールマイティの権限を与えるもの。このような民主主義観は、私とウマが合う橋下徹も認識はおなじだ。選挙という神聖な手続を通じて、国政を任された私だ。次の選挙で主権者の意思が私を否定するまでは、ぐずぐず言わずに私に任せておけばよいのだ。

それに対して、「権力も憲法の矩を超えられない」とか、「憲法は権力を縛るためにある」とか、立憲主義とは「民主的に構成された権力といえども手を付けてはならない原則を定めること」などと、七面倒な小理屈が聞こえてくる。そんなことを言ってる奴に、「黙れ、非国民」と言ってやりたいが、残念ながらいまはさすがにそうは言えない。せいぜいが、「ニッキョウソ」「はやく質問しろよ」とヤジる程度で隠忍自重せざるを得ない。

18歳のキミたちに聞きたい。どうだね、憲法がこんなものなら有害だとは思わないかね。私は、日本の国家と国民の安全を守るために、精一杯働こうとしている。憲法がその私の手を縛るとすれば、憲法こそ国家と国民の安全の敵ではないか。憲法を守ることと、国民の利益を守ること、この二つを較べてどちらをとるのか。私は躊躇なく国民の利益をとるね。それがなぜ叩かれるのか、いまだによくわからない。

やはり昨日(6月17日)の党首討論で、この点が浮き彫りになった。このことを伝えるNHKニュースWEB版の報道が私の問題意識をかなり正確に伝えている。さすがは、NHK。「政府が右といえば左とは言えない」の言葉を実践している。これを素材に憲法を語っておきたい。

安全保障関連法案を巡り、安倍総理大臣は党首討論で、憲法解釈の変更の正当性、合法性は完全に確信を持っていると述べました。

キミたちも参考に覚えておきたまえ。自信のないときこそ、断乎たる口調で結論だけを繰り返すのだ。根拠や理由までは言わなくてもよい。人柄のよい大方の国民は、それだけで納得してくれる。マスメディアも、産経と読売だけではなく大方は私の味方だ。私の味方をした方が得になることは皆心得ている。メディアも上手に私をフォローしてくれる。

憲法学者からは、国際情勢に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだという意見がある一方、なぜ法案が憲法違反ではないと言えるのか、明確な説明はなかったという指摘もあります。

さすがは、政府子飼いのNHKの報道。これだと、まるで憲法学者の意見が半々に分かれているような錯覚を与えるだろう。あとで、籾井勝人を褒めておかなくてはならない。

安全保障関連法案を巡り、菅官房長官が、違憲ではないと主張している憲法学者の1人として挙げた中央大学の長尾一紘名誉教授は、党首討論の内容について「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ。どこまでが必要な自衛の措置に含まれるかは、国際情勢を見ながら判断していくべきだという安倍総理大臣の説明は、ポイントを押さえている」と指摘しました。

事情をよく分からぬ人が聞けば、長尾一紘が多くの憲法学者の意見を代表する立場にあると誤解してくれるだろう。そこが付け目だ。しかも、「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ」と憲法学者にお墨付きをいただいたのだから、ありがたい。これこそ、立派な先生だ。

我が国を取り巻く安全保障環境が変わったのだから、これまでは集団的自衛権行使は違憲だと言っていたけれども、この度は合憲としたのだ。どのような軍事行動ができて、どのような軍事行動が禁止されるか。それは、「環境の変化」次第。環境の変化の有無は、私が責任をもって判断する。できることとできないことを総理が仕分けする。これこそが、「ポイントを押さえている」ということだ。

そのうえで、「法案が分かりにくいのは確かだが、安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難しく、基本原則を説明したうえで法案の成立を図るべきではないか」と述べました。

そのとおりだ。この先生はものがよく分かっている。「安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難し」いのは当然だ。だから、選挙で選ばれた私を信頼すればよいだけの話。信頼できなければ次の選挙で落とせばよい。それが民主主義というものだろう。

一方、衆議院憲法審査会の参考人質疑で法案は憲法違反だと指摘した早稲田大学の長谷部恭男教授は、「法案がなぜ憲法違反ではないと言えるのかについて、安倍総理大臣から明確な答弁、説明はなかった。相変わらず砂川事件の判決を集団的自衛権行使の根拠にしていたが、この判決からそうした論理は出てこない」と指摘しました。
そのうえで、「これまでの憲法解釈を1つの内閣の判断でひっくり返すことを認めれば、今は憲法違反とされている徴兵制も、その時々の内閣の判断で認められることになりかねない」と述べました。

こういう輩を曲学阿世の徒という。国家よりも、国民よりも、憲法の字面が大切という人種だ。あろうことか、徴兵制までもちだして、これで若者諸君を脅かしたつもりでいる。

ところで18歳の諸君、私だって憲法を守らないとは一言も言ったことはない。ただし、憲法のイメージがずいぶん違うようだ。キミたちは、憲法という枠組みの素材はどんなものとお考えかな。鋼鉄? 木材? ガラス? 陶器? それともコンクリートかな?

私は、憲法はゴムでできているのだと思う。あるいは粘土だ。伸縮自在で融通無碍なことが大切なのだ。所詮、憲法とは道具ではないか。使い勝手のよいものでなくては役に立たない。

それにしてもだ、ゴムの伸び縮みにも限度がある。もっともっと使いやすいものに取り替えたいというのが、私の望みなのだ。だから、18歳諸君。私に力を貸していただきたい。憲法改正に邁進し、再び他国からないがしろにされることのないよう、いざというときには戦争ができる国をつくろうではないか。そしてけっして戦争では負けないだけの精強な軍隊を作ろうではないか。キミたち若者が真っ先に兵士となって戦場に赴き、祖国と民族の歴史を守るために、血を流す覚悟をしてもらいたい。そのための、18歳選挙権であるということを肝に銘じて忘れないように。
(2015年6月18日)

つつしんで、「安倍・ビリケン内閣」の名をたてまつる

6月6日、「立憲デモクラシーの会」パネルディスカッションでの、樋口陽一の発言に耳を傾けたい。

「日本の近代化は戦前まで、立憲主義がキーワードだった。ところが、戦後はひたすら民主主義を唱えていればいいという時代があった。立憲主義と民主主義は場合によっては反発し合う。民主主義とは、人民による支配であり、憲法制定権力になる。一方、立憲主義は人間の意思を超えた触れてはならないものがあるとの考え方に基づく」(6月10日東京新聞)

ここで指摘されているものは、民主主義と立憲主義の緊張関係である。戦前、民主主義を標榜することが困難だった時代、政治のキーワードは立憲主義だったという。樋口は、戦前の立憲主義を評価する立場だ。そして、今、立憲主義がないがしろにされていることを、憂うべき深刻な事態として警告を発している。

民主主義は、時の政権に暴走の口実を与える。ファシズムの母胎にもなり得る。これに歯止めをかけるものとして、多数支持だけでは乗り越えられない理念的なハードルとしての立憲主義の機能が期待される。安倍政権には、その自覚が欠けているのだ。

樋口が示唆する視点で戦前を顧みたい。寺内正毅という人物がいた。長州軍閥の出身で、初代の朝鮮総督を務めた。韓国併合の際に、「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」という愚かな「歌」を詠んだいやな奴。そして、無益なシベリア出兵を決断して、将兵を無駄死にさせた首相でもある。戦前の植民地主義と軍国主義を象徴するごとき武断派の政治家。彼の内閣は政党政治に基盤をおかない超然内閣の典型ともされる。当時から、識見能力とも無能の評が定着し、民衆からの好感度すこぶる低かった。

この評判の悪い寺内が、当時のマスコミから「ビリケン宰相」と呼ばれていたことが興味深い。ビリケンとは、今は通天閣の名物としてしか知られていないが、アメリカ製の人形キャラクター。この人形に寺内の風貌が似ていたという。そのことに引っかけて、寺内を立憲主義を守らない政権担当者だという、「非立憲(ひりっけん)」の非難と揶揄の意味合いを込めたあだ名。ビリケンのキャラクター自身に罪はないが、たまたま「ひりっけん」という政治用語に発音が似ていた不運からの、ビリケンの受難であった。

石川健治(東大教授)も発言している。
問題提起したい。「合憲と違憲」とは別次元で語られる「立憲と非立憲」の区別についてだ。京都帝国大の憲法学者、佐々木惣一が、違憲とは言えなくても「非立憲」という捉え方があると問題提起した。今、ここに集まってこられた方は今の政治の状況に何とも言えないもやもや感を抱いていると思う。そののもやもや感を「非立憲的」と表現した。まさに今、非立憲的な権力と政権運営のあり方が、われわれの目の前に現れているのではないのか。

樋口が応えて発言を続ける。
現政権はまず憲法96条を変え、改憲発議に必要な国会議員数3分の2というハードルを下げようとした。まずこれが非立憲の典型。安保法案は提出方法そのものが非立憲だ。国民が集団的自衛権の議論に飽きたころに法案を提出し、国民に議論を提起せずに、憲法の質を丸ごと差し替える法案を提出した。さらに安倍晋三首相は米国の議場で、日本の国会に提出もしていない安保法案について、夏までに必ず実現すると語った。これは憲法が大前提としている国民主権にも反する。

東京新聞は、この紹介記事に「法律をまず変え、それに合わせ改憲 これはまさに非立憲的な事態だ」と見出しを打った。

寺内正毅と安倍晋三、時代は違うが似たもの同士。出自は長州、「我が軍」大好き。やることすべてが「非立憲」。

「安倍・非立憲内閣」、「安倍・非立憲首相」、「ザ非立憲・安倍」「非立憲政治家・安倍晋三」…。安倍には非立憲がよく似合う。それにしても、ヒリッケンとは、発音しづらい。ビリケンとはよく言った。いまの世に、もはやビリケンのキャラクターイメージはない。けれども、語感の軽さと揶揄の響きだけは十分に残っているではないか。

そんなわけで、謹んで「安倍・ビリケン内閣」の御名をたてまつることとしよう。
(2015年6月12日)

汝平和を欲すれば平和を準備せよ

6月6日東大で催された「立憲デモクラシーの会」パネルディスカッションが、時節柄大きな話題となった。総合タイトルは「立憲主義の危機」である。昨日(6月10日)の東京新聞に、その内容が要領よく紹介されている。見出しが「安保法案は立憲主義の危機」と付けられている。

メインの佐藤幸治講演が耳目を集めたが、パネルディスカッションでの樋口陽一発言録に注目したい。傾聴に値するものとして、その一部を東京新聞に採録されたままの形で転載する。

歴史に学ぶとは、負の歴史に正面から対面することであり、同時に、先人たちの営みから希望を引き出すことでもある。今の政治は負の歴史をあえて無視するだけでなく、希望をもつぶそうとしている。戦後レジームからの脱却だけでなく、戦前の先人たちの努力を無視、あるいはそうした努力について無知のまま突き進もうとしている。
1931年の満州事変の時、国際法学者の横田喜三郎(1896〜1993)は、「これは日本の自衛行動ではない」と断言した。その横田の寄稿を載せた学生たちの文集が手許にある。
その中で横田は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とのラテン語の警句を引き、「汝平和を欲すれば平和を準備せよでなければならない」と呼び掛けた。そして文集に、学生が「横田先生万歳!」「頑張れ!」と共感を書き込んでいる。恐らく、この二人の学生は兵士として出征しただろう。再び母校に戻ってくることはなかったかもしれない。
今、私たちが対しているのは、平和を欲すれば戦争を準備しようという警句通りの時代。しかし、かつて文集に書き込みを残した若者たちがいたし、この会にも若い人がたくさん参加している。われわれは日本の将来に対して、大きな責任がある。立憲主義の土台を維持できるかどうかは、世界に対しても大事な責任なのだ。

「平和を願う者は、戦争の準備をしなければならない」「平和を欲するのなら戦争を準備せよ」などとは言い古された常套句だが、状況によっては真実であることを否定し得ない。それだけに、まどわされぬよう警戒しなければならない。歴史的には、戦前われわれの上の幾世代かが、このとおりに考え実行して、国を滅ぼした。この警句は、言わば試され済みの亡国の思想にほかならない。

「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とは、古典的な抑止力思想である。防衛的な自国を近隣侵略国の魔の手が狙っている。飽くまで自国の武力は善である。自国の武力を増強して「戦へ備える」ことこそが戦を避け、平和をもたらす、というのだ。語られるのは、「武力による自国の平和」である。当然に相手国も同様に考える。一国の武力の増強は相手国を刺激して相互の武力の増大を招く負のスパイラルを必然化する。武力を増強すればすれほど、一国の軍事化が進めば進むほど、平和なのだということになる。パラドックスというよりは倒錯の事態である。いつかは破綻を免れない。

70年前、戦争の惨禍から再生した我が国は、この倒錯の思想の克服を宣言した。「汝平和を欲すれば平和を準備せよ」の原則を確立した…はずなのだ。これが、日本国憲法の平和主義の理念であり、9条の精神である。今、時代の逆転を許してはならない。痛切にそう思う。

横田喜三郎は後に最高裁長官となった。前任の田中耕太郎や、その後の石田和外などの「反動」長官にはさまれた「ずいぶんマシな司法の時代」の長官という印象がある。しかし、15年戦争が開始した時代に学生に向かって「汝平和を欲すれば平和を準備せよ、でなければならない」と呼びかけていることはまったく知らなかった。あの戦前の暗い時代にも、9条の精神をもっていた人はいたのだ。共感する若者もいた。

確かに、戦前の先人たちの努力を無視してはならない。あるいは、そうした努力について無知であってはならない。平和を希求した先人についても、立憲主義を追求した先人についても、である。
(2015年6月11日)

主権者としての主体性を鍛えようーいささかも天皇を美化してはならない

「天賦人権・民賦国権」という対句は河上肇の書(「日本独特の国家主義」)に出て来る。当時の日本の「天賦国権・国賦人権」という実態を批判するために用いられた。河上肇は漢詩の名手としても知られた人。さすがにうまいことをいう。

「天賦人権・民賦国権」とは、「人権はほかならぬ天から与えられた生得のものだが、公権力は人民がこしらえたものに過ぎない。ところが、天皇制の我が国ではさかさまだ。まるで、天皇制国家権力が天から授かったもので、人民個人の権利は公権力によって創設されたごとくではないか」という意であろう。

河上自身が、「日本現代の国家主義によれば,国家は目的にして個人はその手段なり。国家は第一義のものにして個人は第二義のものなり。個人はただ国家の発達を計るための道具機関として始めて存在の価値を有す。」「しかるに西洋人の主義は,国家主義にあらずして個人主義なり。故に彼らの主義によれば,個人が目的にして国家はその手段たり。個人は第一義のものにして国家は第二義のものなり。国家はただ個人の生存を完うするための道具機関として始めて存在の価値を有す」と明快に解説している。

これを、ひとひねりして、「天賦民権・民賦国権」と言ってみたい。天をもち出すことにいささかのためらいはあるが、天(自然権)が民権を授け、その民権が公権力をつくったということを表現する端的なスローガンとしてである。

「天賦人権」というときの「人」は、飽くまで個人だ。基本的人権は自然人に生得に存在するという思想を表現する。これに対して、「天賦民権」というときの「民」は集合名詞だ。主権者としての国民総体をいう。前者が人権論に関わり、後者は立憲主義に関わる。「天→民→国」という序列は、それぞれの権利の根拠を表すものでもある。人民が主体となって公権力の根拠たる憲法をつくったという立憲主義を表明するスローガンとして分かり易く適切ではないか。

中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「恢復の民権」と「恩賜の民権」という言葉が出て来る。該当の箇所は以下のとおり。

「世の所謂民権なる者は、自ら二種あり。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世また一種恩賜の民権と称すべき者あり。上より恵みて之を与ふる者なり。恢復的の民権は下より進取するが故に、その分量の多寡は、我の随意に定むる所なり。恩賜の民権は上より恵与するが故に、その分量の多寡は、我の得て定むる所に非ざるなり。」

「恢復の民権」とは、「下より進みて之を取りしもの」というのだから、人民が勝ち取った欠けるところのない民権である。これに対して、「上より恵みて之を与ふるもの」という「恩賜の民権」があるという。権力者の妥協によって人民に与えられた欠けた民権といってよかろう。ここで論じられている民権は、明らかに人民主権であって、個人の基本的人権ではない。

河上のいう「民権」が、「下より進みて之を取りしもの」で、「上より恵みて之を与ふるもの」でないことは明確である。民主主義社会において、主権者国民が恩賜の民権をありがたがっている図は滑稽というだけでなく、危険きわまりない。

「恩賜の民権」は、慈悲深い国王という神話を基礎として成立する。かつては、「慈愛深き天皇が臣民たる赤子を慈しんだ」という神話が語られた。植民地支配下の子どもたちにまで、である。いままた、「慈愛深き天皇皇后両陛下が被災住民に心配りをされる」「ペリリュー島で斃れた兵士に哀悼の意を捧げられた」などの、慈悲深い天皇像作りがおこなわれている。これに無警戒であってはならない。

天皇制とは、天皇を傀儡として徹底的に利用した支配層の演出政治であった。国民の理性を封じ、国民の精神生活に深く介入して、国民全体を洗脳しようとした非合理的な体制であった。その演出の基本が、天皇を神格化するとともに、慈愛深い家父長というイメージを作ることにあった。

戦後社会の支配の仕組みにおける、象徴天皇の利用価値を侮ってはならない。現天皇の意思を忖度して君側の奸を攻撃する類の言説をやめよう。親しみある天皇像、リベラルな天皇像、平和を祈る天皇像は、「天賦民権・民賦国権」の思想を徹底する観点からは危険といわざるを得ない。もちろん、「恩賜の民権」などの思想の残滓があってはならない。われわれは、主権者として自立した主体性を徹底して鍛えなければならない。そのためには、天皇の言動だけでなく、その存在自体への批判にも躊躇があってはならない。
(2015年4月13日)

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