澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

東京・神戸・高知・信濃毎日各社説のまっとうさー大学の国旗国歌問題

本日もしつこく、安倍政権の大学に対する国旗国歌押しつけ問題を取り上げる。私は、この10年、教育の場への国旗国歌強制を不当とする訴訟に取り組んできた。この訴訟に携わった者の責務として、この問題では発言しなければならないと肚を決めている。しつこさには、目をつぶっていただきたい。

昨日のブログに、東京新聞の社説がこの問題に触れないことを嘆いた。明けて今日(4月17日)、期待に応えて同紙の社説が政権批判を論じた。これで中央紙の政権批判派が4紙となり、政権への無批判ベッタリ追随派が2紙となった。4対2の色分けは、まだ言論界が全体として健全な批判精神をもっていることを示している。

数だけではない。内容においても、政権批判派は政権ベッタリ派を圧倒している。主張の説得力も格調も段違いだ。社説を比較する限りでのことだが、なぜ、読売や産経のような新聞が淘汰されずに生き延びているのか、不思議でならない。もしかしたら、両紙の読者は、他紙を読んだことがないのかしら、などと思わせる。

東京の社説は、「大学と国旗国歌 自主自律の気概こそ」という、まことに正攻法。真っ向勝負の東京新聞らしい。

冒頭の一節が引き締まっている。
「国立大学の卒業式や入学式で日の丸掲揚、君が代斉唱を求める安倍政権の動きは、大学の自治を脅かす圧力になりかねない。統制を強めるほど、教育研究は色あせ、学問の発展は望めなくなる。」

その理由や根拠は次のように簡潔に述べられている。
「大学の自治は、憲法が定める学問の自由を守る砦である。教育研究はもちろん、人事や予算、施設管理といった学内の運営に対する外野からの干渉は許されない。だからこそ、九年前の教育基本法の改正では、大学の自主性、自律性の尊重を義務付ける条文が盛り込まれたのではなかったか。」

「大学は世界の平和と人類の福祉に貢献するという原点を忘れないでもらいたい。真理を探究し、新しい価値を創造する。日本の未来のためにも、自治の精神を貫く気概を持つべきだ。」

東京新聞は、露骨に大学の自治への介入を試みている政権を批判するとともに、大学に政権の強要に屈するな、と呼びかけている。私たちも、その両者に目を向ける必要がありそうだ。

昨日は、地方紙の旗手として道新の社説を取り上げたが、新たに神戸新聞、高知新聞、信濃毎日の各社説が目に留まった(そのほかに、東京の親会社である中日新聞は、東京新聞と同じ社説を掲げているがこれは除く)。それぞれに多様な特色があって実に面白い。

まずは、神戸新聞。「国旗国歌の要請/強要でないと言うのだが」というタイトル。飄々としたしたたかさを感じさせる文体。どちらかといえば硬派ではない軟派。直球派ではない軟投派だ。

社説の冒頭で「『お願い』と言いながら威圧的なのが気がかりだ。」という。言われて見ればそのとおり。確かに下村文科省の態度は、「威圧的」だ。到底、人に「お願い」しようという姿勢ではない。

決めつけずに、したたかに次のように言っている。
「国旗国歌法の成立時、当時の小渕恵三首相が『強制するものではない』と述べたことも想起したい。下村氏も『お願いであり、するかしないかは各大学の判断。強要ではない』」とは話している。しかし、単なる『お願い』と受け止めにくい状況がある。国立大の運営費交付金は削減傾向が続いており、大学側からは『教育や研究の質の低下を招きかねない』との悲鳴が上がっている。一方で改革に積極的な大学には交付金を重点配分することも検討されている。そんな中、首相の『税金によって賄われていることを鑑みれば』の発言だ。『要請』は受ける側にとって圧力のように響く。」

次いで、「【国旗国歌要請】大学の自主性に委ねよ」という高知新聞。こちらは硬派だ。直球のストレート勝負。要点を抜き出せば以下のとおり。

「政治が、大学の式典の中身にまで口を挟むのは問題があると言わざるを得ない。」
「政治権力などの干渉を受けず、全構成員の意思に基づいて教育研究や管理に当たる『大学の自治』は、憲法が保障する『学問の自由』に不可欠な制度とされている。2006年改正の教育基本法でも、それまでなかった大学の条文が設けられ、『自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」としている。
「国が『お願い』だと主張しても、いまの国立大学は『圧力』と受け止めかねない状況にある。」「兵糧攻めへの恐怖は大きい。」

そして、硬派の硬派たる所以が末尾の一節。
「下村文科相は会見で圧力を否定し、『強要ではない』と強調した。しかし、集団的自衛権行使容認をはじめ、安倍政権に見られる強引な政策展開からは不安は募る。注視し続ける必要がある。」
ごもっとも。よく言っていただいた。腹に据えかねるとして、吐き出された一文ではないか。

そして、信濃毎日新聞である。「大学に国旗国歌 『法にのっとる』のなら」という標題。これは他にない法的ロジックの社説。

「大学の自治を軽んじる動きが続いている。」

「戦前には、大学の研究内容に国家が介入した。例えば滝川事件では京都帝大教授が自由主義的との理由で文相に辞職に追い込まれた。学問の自由が妨げられた反省に立って大学自治の仕組みがつくられたことを忘れてはならない。」

「大学は深く真理を探究する場である。教育基本法もそううたう。続けて『大学については、自主性、自律性が尊重されなければならない』と定めている。法にのっとって、と言うなら、政権の介入こそ慎まなければならない。」

これまで、8紙の政権批判派社説と、2紙の政権ベッタリ派社説を見てきた。7紙が2紙を圧倒していると言ってよい。論点は出尽くした感がある。東京社説の言うとおり、政権を批判する世論を作るとともに、大学人を励ますことも実践の課題となる。

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ここからは、付録。
東京新聞社説の中に、次の一文がある。前後とのつながりは明瞭でない。
「2004年の園遊会での一幕があらためて思い出される。
東京都教育委員だった棋士の故米長邦雄氏が『日本中の学校で国旗を揚げ、国歌を斉唱させるのが、私の仕事です』と語ると、天皇陛下は『やはり強制になるということでないことが望ましいと思います』と返されたのだった。」

なぜ、唐突に天皇が持ち出されたのか。天皇がこう言ったからどうなんだ、とは書いていない。だから、論評は難しい。が、この「米長対天皇問答事件」は、私に印象が強い。米長と天皇の両者に問題ありとして、当時のブログに2度書いた。今、それを読み返してみると、私は少しも変わっていない。少しも進歩していない。十年一日のごとく同じことを繰り返しているのだ。但し、ペンの切れ味は落ちていると嘆かざるを得ない。

当時は日民協のホームページに連載していた「事務局長日記」、そのアーカイブ2件を再録して披露しておきたい。

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2004年10月29日(金)米長邦雄を糾弾する  
以下は、朝日の報道。
「天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から『日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と話しかけられた際、『やはり、強制になるということではないことが望ましい』と述べた。」

共同通信は、以下のとおり。
「東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について『強制になるということでないことが望ましいですね』と発言された。
棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が『日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と述べたことに対し、陛下が答えた。」

問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと。これは、現行憲法下の禁じ手である。天皇制は人畜無害を前提にかろうじて存続が許されているからだ。もともと、天皇は政治的利用の道具であった。そのことが天皇制批判の最大の根拠である。天皇の政治的利用をたくらんだ者の責任は徹底的に糾弾されなければならない。二歩を打った棋士米長はその瞬間に負けなのだ。天皇制存続派にとっても米長の行為は愚かで苦々しいものであろう。

問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたことにある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くない。自ら望んだ会話ではないにせよ、出過ぎた発言である。天皇には口を慎むよう、厳重注意が必要だ。

問題の第3は、宮内庁の発言である。
羽毛田信吾次長は「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と話した(共同通信)という。冗談ではない。少なくとも私は、そのような「一般的な常識」の存在を認めない。毎日に拠れば、羽毛田は、天皇の真意を確認しての会見という。「一般常識として歌うのが望ましい」との認識を天皇が有していたという発言自体が大きな問題だ。羽毛田見解が天皇の発言を「国民が自発的に国旗国歌を掲揚・斉唱するのが望ましい」との内容と釈明したとすれば、天皇の責任をさらに重大化するものである。

天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。

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2004年10月31日(日)米長君、君に教育委員は務まらない  

米長邦雄君、君は教育委員にふさわしくない。潔く辞任したまえ。
君は、棋士として名をなしたそうだ。産経新聞社主催の棋聖戦では不思議と強くて「永世棋聖」を名乗っていると聞く。僕も将棋は好きだがまったくのヘボ。永世棋聖がどのくらいのものだか、君がどのくらい強いのか理解はできない。

しかし、これだけは僕にも分かる。君は盤外のことはよく分からないのだ。そして盤外では、自分の指し手に相手がどう対応するのか、まったく読めない。将棋ができることがエライわけではなく、将棋しかできないことが愚かでもない。問題は、盤外での君が、愚かを通り越してルール違反をしたこと。禁じ手を指したのだ。即負けなのだよ。教育委員が務まるわけがない。

本来、教育委員というのは、重い任務なのだよ。日本の将来の少なくとも一部に責任を持たねばならない。将棋を指すこととは、根本的に異なる。それなりの見識がなければならない。床屋談義のレベルで務まるものではないのだ。不見識を露呈した君は、その任務に堪え得ない。だから、一日も早く辞めたまえ。それが、若者の将来のためでもあり、君自身のためでもある。

君は園遊会で、天皇に次のように話しかけた。
「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
このことは、複数のマスコミ報道が一致している。ところが君のホームページを見ると、国旗国歌問題については何の会話もなかった如くだ。この姿勢はフェアではなかろう。君のやり方は姑息だ。ちっともさわやかではない。

君が天皇へ話しかけた言葉に不見識が露呈されている。君の頭の中がよくみえる。君は、子どもたちの無限の可能性を引き出す教育という崇高な営みについて何も考えてはいない。教育について何も分かってはいない。国旗・国歌問題だけが「私の仕事」と信じこんでいるのだ。しかも、天皇からさえ批判された「強制」が君のこれまでの仕事なのだ。

君は棋聖なのだから、自分が一手を指すまえに相手の二手目の応手を読むだろう。それなくしては一手を指せない。きみは、天皇に話しかけるに際して、相手の反応をどう読んだのか。いったい天皇のどんな返答を期待したのだろうか。願わくは「しっかりやってくださいね」という激励、少なくとも「そうですか。ご苦労様」という消極的同意を期待したものと判断せざるを得ない。でなくては、棋士米長にあるまじき無意味な発語。君がどんなに否定してもそのような状況でのそのような意味を持つ発言なのだ。

これは、天皇の政治的利用以外の何ものでもない。君も知ってのとおり、日本には最高規範として日本国憲法というものがある。憲法では天皇の存在は認められているが、厳格に政治的な権能は制約されている。そもそも、天皇の存在自体が憲法の本筋として定められている国民主権原理に矛盾しかねない。政治的にまったく無権限・無色ということでかろうじて憲法に位置を占めているのが、天皇という存在なのだ。だから、天皇の政治的利用は、誰の立場からもタブーなのだ。君は、そのタブーをおかしたのだよ。不見識を通り越して、ルール違反・禁じ手だという所以だ。

天皇が、君の問いかけに対して、こう答えたと報じられている。
「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」
君と一心同体の産経だけが、、「望ましい」でなく、「好ましい」としているそうだが、どちらでも大差はない。

これは、天皇としてあるまじき政治的発言ではないか。誰が考えても、学校教育の現場での国旗国歌のあり方が政治的テーマでないはずがない。しかも今、強制の波は現実の課題として押し寄せ、大量処分と訴訟にまで発展している。政治的に大きく割れた意見のその一方の肩をもつ発言を天皇がしたのだ。由々しき事態である。この問題発言を引き出したのは、米長君、君だ。君自身が責任をとらねばならない。

もっとも、君もさぞかし驚いただろう。天皇は、君がやっている「日の丸・君が代」強制の事実を知っていたのだ。しかも、それに批判的な見解をもっていた。都教委が現場の教師に起立・斉唱を強制し、これを拒否した教員を大量処分した事実に関心を持ちよく新聞も読んでいたのだろう。即座に、強制反対を口にしたのは、予てからこの事態を苦々しく見ていたからに違いない。皮肉なことだが、君とその仲間がやっていたことは、天皇の「お気に召す」ことではなかったのだ。

この天皇の発言に対する、君の三手目の指し手が次のとおりだ。
「ああ、もう、もちろんそうです」「ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました」
これをどう理解すればよいのだろう。君は多分天皇崇拝主義者なのだろうね。だから、天皇に反論したりはせず、滑稽なほど迎合した発言になってしまったのだろう。それはともかく、君は、「強制でないことが望ましい」に対して、「もちろんそう。すばらしいお言葉ありがとう」と言ったのだよ。天皇の前でのこの言葉を、まさか、撤回ということはあるまいね。今後は「すばらしいお言葉」を無視して、「日の丸・君が代」の強制を続けることなどできはすまい。

実は、君の一手目がルール違反で敗着。指し継いでも、相手の二手目が絶妙手で君の負け。三手目は詰んだあとの無駄な指し手。

もう君には、教育委員の重責は務まらない。やることがあるとすれば、君の言のとおり強制を望ましくないとして、処分を撤回すること。それができないのなら、すぐに辞めたまえ。君の流儀は「さわやか流」というそうではないか。この際さわやかに潔く辞めることが、君の名誉をいささかなりとも救うせめてもの「形作り」なのだから。

国旗国歌押しつけ問題社説に見るー日経と道新の見識、読売の不見識

「国立大学の卒業式に国旗国歌を」という安倍晋三の押しつけに、まず朝日と毎日が批判の社説を書いた。朝日「国旗国歌―大学への不当な介入だ」、毎日「国旗国歌の要請 大学の判断に任せては」というもの。両紙とも4月11日の朝刊に掲載。安倍発言は9日で、予定されたことではなかったようだから、両紙の迅速な対応には敬意を表したい。

対して、政権ベッタリの本領を発揮したのが、14日付の産経社説。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」というもの。「読むだに恥ずかしい社説」と、私が昨日のブログで叩いたものだ。実は、昨日日経も社説に取り上げていた。「自主・自律あっての大学だ」という標題。これが、実にリベラルな立場からの明確な政権批判の内容なのだ。おそらくは、経済合理性を重んじる財界主流の意向は、安倍の非合理な復古主義にはついていけないということなのだろう。ともかく、昨日の時点で、この問題についての中央各紙の社説の姿勢は3対1で、批判派が圧倒した。

ところが今日(16日)、読売がこの問題で社説を書いた。産経の後追いである。内容はお粗末極まる。日経並みの見識を示すチャンスを逃して、産経並みでしかないことを天下に示した。ともあれ、これで批判派とベッタリ派とは、3対2の色分けとなった。東京新聞はこの件を社説に取り上げていない。4対2となるよう期待したいところ。

ネットで地方紙を探してみたが、面倒で調べきれない。北海道新聞の社説だけが目にとまった。「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」という、なんともストレートなそのものズバリの標題。以下に、日経、読売、そして道新3紙の社説を要約してご紹介したい。

日経社説の論旨は、「自主・自律あっての大学だ」という標題のとおり。大学の自治の重要性を中心に、大学の国際化の問題にも触れて、大学を萎縮させてはならない、とするもの。

「大学はその運営も教育・研究の中身も自主性、自律性が尊重されるべき存在だ。世界中から人を受け入れる空間でもある。大学のグローバル化が急務となるなかで、国公立、私立にかかわらず画一的な統制はなじまない。」

「大学に対する政府の役割は、入学式をどう営むかといったお節介でなく、教育・研究の水準向上や多様性確保である。政府はこの問題で、これ以上の口出しは控えるべきだ。国立大学協会など大学サイドでも、きちんと対応を議論すべきではないだろうか。」

以上に見られる日経社説子の筆の運びは、「なんと愚かな」「非常識な」「馬鹿馬鹿しい」「どうしてそこまでやろうというのか」という、政権に対するあきれ果てたという気分にあふれている。

さらに、こう言っていることが注目される。
「下村文科相は、各大学への要請は『強制ではなく、お願い』だという。しかしまさに首相が『税金によって賄われている』と述べたように、国立大への交付金のさじ加減は文科省が握っている。そこからきた『お願い』は大学を萎縮させる効果が十分にあろう。」
きわめて常識的なそして明解な指摘ではないか。

本日の読売社説は「大学の国旗国歌 要請で自治が脅かされるのか」というもの。タイトルのとおりの内容である。面白くもおかしくもない。

「国旗・国歌が国民の間で広く定着している状況を考えれば、式典で掲揚や斉唱を促すのは妥当と言えよう。」というのが、基本スタンス。

一応、「憲法が保障している『学問の自由』と、それを支える『大学の自治』の原則は、尊重されなければならない。」とは言う。とは言うものの、一応のものとしての理解でしかない。かたちばかりの憲法原則の尊重は、その蹂躙を許容している。

要は、「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」ということに尽きる。「強制力のない『お願い』によって簡単に揺らぐほど、大学の自治はもろいのだろうか。」とまで言っている。権力の側に立ち続けると、こういう感覚になるのかも知れない。日経の方がまことにまっとうではないか。

戦前、治安維持法や国防保安法、軍機保護法、新聞紙法、出版法などの思想弾圧法制が猛威を振るった当時、「思想統制はそんなにたいしたことはなかった。私は自分の書きたいことを書いた」という記者がいた。そりゃそうだ。権力に擦り寄っていれば書けるのだ。権力を批判する記事さえ書かなければ、「権力はたいしたことはない」のだ。読売は、長年そのようなスタンスだから、自分は安全なのだ。「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」と言っていられるのだ。そう、権力ベッタリ派は、権力の恐ろしさに向かい合うことはない。権力を警戒せよと言っても、理解不能なのだ。

北海道新聞の社説「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」は格調が高い。まずは大学の国際化から説き起こしている。

「大学の役割はますます国際的に開かれたものになりつつある。…キャンパスで伝統的に培われてきた自治や自立、自主性を尊重することが大学の個性を生む。それが世界からの評価につながる。」

「大学をナショナリズム色の強い安倍カラーに染めあげては、国際化も世界に通じる人材の育成も危うい。押しつけはやめるべきだ。」

「国がカネを出しているのだから、国立大学は政府の考えに従うのが筋―。そう言いたいのだとしたら、あまりに了見が狭い。研究や学問はそもそも国という枠にとらわれるものではない。言うまでもないが、その目的は広く世界の科学や技術、社会の発展に寄与するところに置かれている。…「国家」ばかり強調すると、研究自体がゆがんでしまわないか。」

「下村文科相は『強要するものではない』と自主性を重んじる物言いだ。しかし、本当か。国が運営費交付金の重点配分を通じて大学を選別する方針を打ち出している。だからこそ、額面通りには受け取れないのだ。」

教育の要諦は懐の深さにある。幅広い人材を生むには鷹揚さが欠かせない。なのに政府はいま、最高学府に対しても、たがをはめつつ、国内外の大学同士を徹底的に競わせようとしているようにみえる。競争至上主義の導入といい、今回の『国旗国歌』といい、大学が持ってきた自由闊達な空気を失わせないか。それを危惧する。」

読売や産経には疾うに失われた見識や知性というものが、地方紙の論説には脈々と生きていることに清々しい思いを禁じ得ない。

なお、読売が、「自国や他国の国旗・国歌に敬意を表すのは、国際社会における常識であり、当然のマナーだ。政府がそうした教育を求めるたびに、あたかも統制強化のごとくとらえる議論が起きるのは、世界でも日本だけだろう。」と言っている。

そうだろうか。国旗国歌を国家ないし権力の象徴として、国旗国歌に抵抗の意思を示す行動は世界に共通のものだ。愛国心の強制は国旗国歌の強制とともにあり、権力批判は国旗国歌への象徴的な抗議の行動となる。これも普遍的な現象だ。

アメリカの例を引きたい。国家への抗議の意味を込めて公然と国旗を焼却する行為を、象徴的表現として表現の自由に含まれるとするのが連邦最高裁の判例なのだ。

アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの作用なくして国民の統合は困難という事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗の思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、2州を除く各州において国旗焼却を禁止しこれを犯罪とする州法が制定された。その憲法適合性について、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。

著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。

68年成立の連邦の「国旗冒涜処罰」法は、89年に改正されて「国旗保護」法となって処罰範囲が拡げられた。アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までが構成要件に取り入れられた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を得た。

アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」(土屋英雄教授作成の東京君が代訴訟における「意見書」から)
なんと含蓄に富む言葉だろう。

安倍や産経、読売に聞かせてやりたい。
「大学に国旗を押しつけることは、国旗を尊重するに値するようにさせている、まさにそのわが国の自由を冒涜し、わが国の価値を貶めることになる」のだと。
(2015年4月16日)

おぞましや大学卒業式での君が代斉唱ー産経社説への反論

昨日(4月14日)の産経社説が、国立大学における国旗国歌押しつけ問題を取り上げた。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」という標題。もちろん、産経本領発揮の提灯持ち社説。こんな記事を読まされる方が恥ずかしい。

同社説は冒頭にこう言っている。
「国立大学の卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を適切に行うよう求めることに反発がある。国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか。それを妨げる方が問題である。」

産経は、誰にどのような理由で「反発」があるかについて思いをいたすところがない。「実施できないのは、国旗国歌に背を向ける一部教職員らの反発が根強いからだろう」とだけ言って、この教職員の言い分に耳を傾けようとはしない。いったい、どこにどのような問題があるかを考えようともせず、噛み合った議論をしようという姿勢を持ち合わせていない。一方的に、自分の主張の結論を情緒的に述べているだけ。これでは幼児の口喧嘩のレベルに等しい。それが右翼メディアの本領と言えばそれまでだが、これでは、大学人の反発や懸念をますます深めるだけのものと知らねばならない。

まずは、産経の議論の立て方がおかしい。「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか」ではなく、「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜ必要なのか」と問わねばならない。さらに、「なぜかくまでに国旗国歌にこだわるのか」、「なにゆえに国旗国歌に敬意の表明を強制する必要があるのか」と問を展開する必要がある。

議論の出発点は飽くまでも個人の自由でなくてはならない。個人の思想も行動も、公権力に制約されることなく自由であることが大原則なのだ。どんな旗や歌を好きになろうと嫌いになろうと、その選択は個人に任されている。にもかかわらず、なにゆえ、国旗国歌に敬意を払わねばならないというのか。これは「国際常識」や「多数の意思」などで簡単にスルーすることはできない大きな問題である。さらに、歴史的に刻印された負の烙印をいまだに消せない「日の丸」と「君が代」への敬意を払うべきとする教育が、なにゆえに是認されるのか、政権も産経も納得のいく説明をしなくてはならない。

国家の象徴である歌や旗への態度は、個人が国家に対してどのようなスタンスをとるかを表す。これは、完全に自由でなくてはならない。日本大好きで、日の丸・君が代へ敬礼を欠かさない人がいてもよい。しかし、虫酸が走るほど嫌いで、日の丸・君が代は見るのもイヤだという国民がいてもよいのだ。国民の資格は国家への好悪が条件ではない。国民が主人公の民主主義国家においては、国家には国民に対する無限の寛容が要求される。

かつて大日本帝国大好きな臣民がいた。ナチスドイツの愛国者もいた。今、北朝鮮にもISにも熱烈な愛国者がいるだろう。しかし、国民すべてがその国を大好きなはずはない。問題は、いろんな理由で自分の国を好きではないと思う人たちが、非国民との非難を受けることなく安心して生きていけるかにある。そのことについての寛容の有無が、民主主義国家であるか全体主義国家であるかの分水嶺である。そして、国旗国歌への態度についての国の干渉のあり方は、民主主義か全体主義かのリトマス試験紙である。

憲法とは、突きつめれば個人と国家との関係の規律である。我が日本国憲法は、安倍政権や下村教育行政や産経にはお気に召さないところだが、18世紀以来の近代憲法の伝統にのっとった個人主義・自由主義に立脚している。自由な個人が国家に先行して存在し、その尊厳を価値の根源とする。国家は価値的に個人に劣後するものでしかない。いや、むしろ個人の自由を制約する危険物として取扱注意の烙印を押されているのだ。

その個人に対して、国家の象徴である国旗・国歌に敬意を払うべしとする立論には、納得しうる厳格な法的根拠が不可欠なのだ。自発的意思で国旗国歌を尊重する態度の人格形成を教育の目標とすることは、本来我が憲法下では困難というべきだろう。第1次安倍内閣が強行した改正教基法の「国を愛する」との部分は、「国」の内実の理解や、「愛する」が強制の要素を含むとすれば、違憲の疑いが濃厚である。

参院予算委員会で、安倍首相は「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。産経はこれを「当然である。改正教育基本法では国と郷土を愛し、他国を尊重する態度を育むことを重視している」というが、浅薄きわまりない。

憲法23条は、「学問の自由は、これを保障する」と定める。誰からの学問の自由侵害を想定してこのような規定を置いたか。いうまでもなく、仮想敵は国家である。戦前、国家による数々の学問の自由への侵害事件が重ねられた。その悪夢を繰り返してはならないとする主権者の決意がこの条文である。誰にこの自由は保障されているのか。まずは個人だが、その自由を担保するための制度的保障として大学の自治が認められている。その大学に、国旗国歌の押しつけとは、おぞましい限りというほかはない。

さらに、教育基本法には産経が引用する条文だけではなく、次のようなものもある。
第2条(教育の目標)教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一号 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二号 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

第7条(大学)
1項 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
2項 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。

「学問の自由を尊重」「幅広い教養」「真理を求める態度」「豊かな情操」「個人の価値を尊重」創造性を培い」「自主及び自律の精神」「学術の中心」「高い教養」「深く真理を探究」「新たな知見を創造」「大学の自主性、自律性」「大学における教育・研究の特性の尊重」等々のすべてが、権力作用と背馳する。国旗国歌を排斥する。少なくとも馴染まない。教育基本法の隻句を国旗国歌押しつけの根拠とすることはできない。

産経は、「文科相は『お願いであり、するかしないかは各大学の判断』とも述べている。大学の自主性にも配慮した要請を批判するのは疑問だ」ともいう。しかし、産経の論難にかかわらず、下村文科行政の要請が「大学の自治を損なうもの」であることは明らかだ。カネを握るものは強い。カネの配分の権限を握っているものには、迎合せざるを得ないのがこの世の現実。大旦那が大旦那であるのは、知性は欠如していてもカネが支配の力をもっているからだ。それでなくとも乏しい文教予算。その配分を削られるかも知れないという恫喝がセットになっているところに大きな問題がある。だから、教育行政は教育条件整備に徹すべきであって、恣意的な予算配分で教育を歪めてはならない。

また、産経はこうも言う。「大学人にあえて言うまでもないことだが、国旗と国歌はいずれの国でもその国の象徴として大切にされ、互いに尊重し合うことが常識だ。」
これもお粗末な意見だ。大学人なら、「国旗国歌は、いずれの国でもその国の象徴としてふさわしいものであるが故に大切にされる。建国の理念や国民の団結を示す歌や旗としてふさわしくない国旗国歌は捨て去られる」と一蹴するだろう。
第2次大戦の敗戦国であるドイツもイタリアも国旗を変えた。その旗を象徴とした過去ファシズム国家のあり方を反省し、国の理念を変えたからである。同じ枢軸国の一員として、侵略戦争や植民地支配を反省し清算したはずの日本が、「日の丸・君が代」をいまだに国旗国歌としていることに違和感をもつ国民は少なくない。日の丸・君が代は、大日本帝国の侵略戦争や植民地主義とも、主権者天皇への盲目的崇拝ともあまりに深く結びついた存在であったからである。

国旗国歌法は、国家において「日の丸・君が代」を国旗国歌として用いることを定めただけもので、国民に何らの義務を課するものではない。敬意表明を強制をするものでないことは、国旗国歌法の審議過程で確認されたが、法ができあがってから政府はこれを少しずつ国民に強制しつつある。このやり口は詐欺に等しい。

また、産経は「人生の節目の行事で国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは自然であり、法的根拠を求めるまでもない」という。恐るべき法感覚、人権感覚、社会感覚といわざるを得ない。私の常識では、人生の節目で国家が出てくるなんぞトンデモナイ。ましてや権力や権威を恐れず真理を探究すべき大学でのこと。口を揃えて「君が代」を唱う大学生とは、主体性を喪失し、知性や批判精神の欠如したロボットに過ぎない。知性の府である大学に、日の丸・君が代は夾雑物でしかない。

産経社説は、最後をこう結んでいる。
「祝日に国旗を掲げる家庭も少なくなっている。普段から国旗と国歌を敬う教育を大切にしたい」
「祝日に国旗を掲げる家庭が少ない」ことはごく自然で望ましいこと。政権は、家庭に直接の国旗国歌の強制は難しいから、学校教育での強制に躍起になっているのだ。

教育に最も必要なものは、個人の主体性の確立である。主権者にふさわしく、自分の足でしっかりと立って、自分の頭でものを考え、自分の意見をきっぱりと発言のできる明日の主権者を育成することである。無批判に、日の丸を仰ぎ君が代を唱わせる教育からはこのような主体は育たない。教育現場の国旗国歌こそは、国家や社会に従順な、主体性と個性に欠けた国民教育の象徴と言うべきであろう。

私見と、政権や産経の立論の差異の根底にあるものは、個人と国家の価値的優劣の理解である。私は、純粋な個人主義者であり、自由主義者である。政権や産経の立場は、国家主義であり全体主義である。

私の考え方は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言、そして日本国憲法、国連の諸規約に支えられた常識的なものだ。政権や産経の立場は、旧天皇制や現在も残存する全体主義諸国家を支える思想に親和的なもの。安倍政権や産経の社説に表れた、国家主義・全体主義の鼓吹には重々の警戒をしなければならない。
(2015年4月15日)

国立大学は、安倍政権の国旗国歌押しつけに屈してはならない

「国立大学の入学式や卒業式に国旗掲揚と国歌斉唱を」という参院予算委での安倍首相答弁(4月9日)に驚いた。下村文科相も「各大学で適切な対応がとられるよう要請したい」と具体的に語っている。「安倍右翼政権の粛々たる壊憲プログラムの進行の一つでしかない。今さら驚くにも当たるまい」という見解もあるのだろうが、あまりにも唐突だ。

朝日と毎日が、素早く本日の社説に取り上げた。いずれも明確な批判の論調。朝日は「政府による大学への不当な介入と言うほかない。文科省は要請の方針を撤回すべきである」とし、毎日は「判断や決定は大学の自主性に委ね、(国旗国歌実施の)『要請』は見送るべきだ」と結論している。両紙の姿勢に敬意を表しつつも、驚きとおぞましさが消えない。

安倍政権のスローガンが戦後レジームからの脱却である以上は、国民主権や民主主義を支えるすべての制度を敵視していることは明らかだ。安保防衛問題だけでなく、学問の自由も大学の自治も、国民の思想良心の自由も、すべてを押し潰して「富国強兵に邁進する日本を取り戻したい」と考えているだろうとは思っていた。

しかし、安倍とて愚かではない。そうは露骨になにもかにもに手を付けることはできなかろう。そのような甘い「常識」を覆しての「国立大学に適切な国旗国歌を」という意向の表明である。やはり驚かざるを得ない。

安倍晋三の頭のなかは、「いつ、いかなる事態においても、時を移さず武力を行使しうる国をつくらねばならない」「いざというときには、躊躇なく戦争のできる日本としなければならない」という考えで凝り固まっているのだ。「強い国家があって初めて国民を守ることができる」。「平和も人権も、実際に戦争ができる国家体制なくては画に描いた餅となる」。単純にそう考えているのだろう。

そのためには法律の制定だけでは足りない。「戦争のできる国作り」のためには、何よりも国民をその気にさせなければならない。国民意識を統合し、挙国一致して国運を隆昌の方向にもっていかなくてはならない。安倍政権にとって、ナショナリズムの鼓舞は大きな課題なのだ。国民こぞって、自主的に国旗を掲揚し、国歌を斉唱する国をつくらねばならない。これにまつろわぬやからは非国民と排斥されてしかるべきだ。そのようにして初めて、戦争を辞さない精強な国民と国家ができあがる。強い国日本を中心としたる新しい国際秩序をつくることができる。祖父岸信介が夢みた五族共和の東洋平和であり、八紘一宇の王道楽土だ。

政権が根拠とする理屈は、結局のところ、「国立大学が国民の税金で賄われている」ということ。「国がカネを出しているのだから、国に口も出させろ」「スポンサーの意向は、ご無理ごもっともと、従うのが当然」という理屈。これは経済社会の常識ではあっても、こと教育には当てはまらない。教育行政は教育の条件整備をする義務を負うが、教育への介入は禁じられている。このことは、戦前天皇制権力が直接教育を支配した苦い経験からの反省でもあり、世界の常識でもある。

問題は、安倍・下村の醜悪コンビがこの非常識な発言を恥ずかしいと思う感性に欠けていることだ。なりふり構わずスポンサーの意向を押しつけ、「要請」に従わない大学には国からのイヤガラセが続くことになるだろう。

「国旗掲揚国歌斉唱の実施要請に法的な根拠はありません。ですから飽くまでお願いをしているだけで、文科省の意見に従えとは口が裂けても申しません。とはいえ、予算を握っているのは私どもだということをお忘れなく。要請に対する、貴大学の協力の姿勢次第で、どれだけの予算をお回しできるか、変わってくることはあり得るところです。『魚心あれば水心』というあれですよ。よくおわかりでしょう」

もう一つ、安倍第1次内閣が改悪した新教育基本法の目的条項が根拠とされている。
第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
第5号 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

ここに、「我が国と郷土を愛する」がある。だから、「入学式や卒業式では、日の丸・君が代を」というようだ。国を愛するとは、「国旗に向かって起立し、口を大きく開いて国歌を斉唱する」その姿勢に表れる、という理屈のようだ。

国家の権力から強く独立していなければならないいくつかの分野がある。教育、ジャーナリズム、司法などがその典型だ。弁護士会の自治も重要だが、大学の自治はさらに影響が大きい。国立大学は、けっして安倍政権の不当な介入に屈してはならない。

もう、いかなる国立大学も、政権の方針に従うことができない。この件は大学の自治を擁護する姿勢の有無についての象徴的なテーマとなってしまった。政権への擦り寄りと追従と勘ぐられたくなければ、学校行事の日の丸・君が代は、きっぱり拒絶するよりほかはない。そうでなくては、際限なく日本は危険な方向に引きずられていくことになってしまう。
(2015年4月11日)

すべてのハラスメントを一掃して、個人の尊厳が確立された社会を

個人の尊厳は尊重されねばならない。しかし、現実の社会生活においては、強者があり弱者がある。富める者があり貧しき者がある。生まれながらにして貴しとされる一群があり、人種・民族・門地により差別される人々がある。時として、強者は横暴になり、弱者の尊厳が踏みにじられる。

憲法は「すべて国民は個人として尊重される」(13条)と宣言し、「法の下の平等」(14条)を説く。これは社会に蔓延する、個人の尊厳への蹂躙や差別の言動を許さないとする法の理念の表明というだけではない。その理念を実現するための実効性ある法体系整備の保障をも意味している。個人の尊厳と平等が確立された社会を実現するには、憲法13条や14条をツールとして使いこなさねばならない。

その具体的な手法の一つとして、社会は「ハラスメント(Harassment)」という概念をつくり出した。弱い立場にある者、差別される側からの、人間の尊厳を侵害する行為の告発を正当化し勇気づけるための用語である。言葉が人を励まし行動を促すのだ。

ハラスメントの元祖は、「セクハラ」(セクシャル・ハラスメント)である。弱い立場にある女性の尊厳を傷つける心ない男性側の言動を意味する。ジェンダー・ハラスメントと言ってもよい。強者の弱者に対する不当な人権侵害は糾弾されなければならないとする基本構造がここに示されている。

同じく、職場の上司がその立場を笠に着て、部下に対してする不当な言動は「パワハラ」(パワーハラスメント)となる。企業こそは人間関係の強弱が最もくっきりと表れるところ。取引先ハラスメントも、下請けハラスメントもあるだろうし、古典的には労組活動家ハラスメントも、権利主張にうるさい社員ハラスメントもある。

強者の不当な言動が被害者を精神的に痛めつける側面に着目するときは、「モラハラ」(モラルハラスメント)とされる。セクハラも、パワハラも、モラハラの要素を抜きにはなりたたない。

強者が弱者に対してその尊厳を蹂躙する不当な言動という基本構造から、個別のテーマで無数のハラスメント類型が生じる。

学校を舞台にした校長や管理職から教職員に対する陰湿なイヤガラセは、スクールハラスメント、あるいはキャンパス・ハラスメントとして把握される。部活やクラスのイジメやシゴキも、これに当たる。大学の場でのこととなれば、「アカハラ」(アカデミック・ハラスメント)である。

職場や学園で、「俺の注いだ酒が飲めないと言うのか」「さあ呑め。イッキ、イッキ」という、「アルハラ」(アルコール・ハラスメント)。周囲の迷惑を顧みず、煙を撒き散らす「スモハラ」(スモーク・ハラスメント)。

もっと深刻なのが、「結婚を機に退職するんだろう」「戦力落ちるんだから、職場に迷惑」という「マリッジ・ハラスメント」。そして、最高裁が「妊娠を理由にした降格は男女雇用機会均等法に違反する」と判決してにわかに脚光を浴びることになった「マタニティ・ハラスメント」(マタハラ)である。差別は職場だけでなく家庭生活にもある。DVにまで至らなくとも「ドメステック・ハラスメント」があり、「家事労働ハラスメント」も指摘されている。

それ以外でも、人間関係の強弱あるところにハラスメントは付きものである。医師の患者に対する「ドクハラ」(ドクター・ハラスメント)、弁護士のハラスメントも大いにありうる。聖職者の信者に対する「レリジャス・ハラスメント」もあるだろう。ヘイトスピーチとされているものは、「民族(差別)ハラスメント」「人種(差別)ハラスメント」にほかならない。

安倍政権の福祉切り捨てや労働者使い捨て政策は、国民に対する「アベノハラスメント」(アベハラ)である。本土の沖縄県民に対する居丈高な接し方は、「沖縄ハラスメント」(オキハラ)ではないか。

東京都教育委員会が管轄下の教職員に「ひのきみハラスメント」を継続中なのはよく知られているところ。これとは別に、「テンハラ」という分野がある。「天皇制ハラスメント」である。「畏れ多くも天皇に対する敬意を欠く輩には、断固たる対応をしなければならない」とする公安警察の常軌を逸したやり口をいう。ハラスメントの主体は警察、強者としてこれ以上のものはない。テーマは天皇の神聖性の擁護、民主主義社会にこれほど危険なものはない。典型的には次のような例である。

市民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバーであるAさんは、半年以上にわたって公安刑事の執拗な尾行・嫌がらせを受けた経験がある。その尾行の発端となったのは天皇来訪に対する抗議の意思表示だった。
国民体育大会の競技観戦のためにAさんの近所に天皇夫妻がやって来た。市は広報で市民に「奉送迎」を呼びかけ、大量の日の丸小旗を配布した。このときAさんは、「全ての市民が天皇を歓迎しているわけではない」ことを示そうと、日の丸を振る市民の傍らで、天皇の車に向けて「もう来るな」と書いた小さな布を掲げた。それだけのこと。「憲法で保障された最低限ともいえる意思表示でした」というのがAさんの言。

その数日後から公安刑事の尾行が始まった。尾行は、決まって天皇が皇居を離れてどこかに出かける日に行われた。自宅付近・職場・テント村の活動現場などAさんは行く先々で複数の公安刑事につきまとわれた。刑事は隠れることもなく、Aさんに数メートルまで接近したり、職場のドア越しに大声を出すといった嫌がらせまでしたという。そして、極めつけが「あんなことしたんだからずっとつきまとってやる」というAさんに対する暴言。これが、テンハラだ。

Aさんを支援する立川自衛隊監視テント村や三多摩労働者法律センターは、次のように言っている。
「これまでも、天皇の行く先々で同様のことが行われてきました。国体や全国植樹祭といった天皇行事が行われるたびに、公安警察による嫌がらせや、微罪をでっち上げて逮捕する予防弾圧が繰り返されてきました。『不敬罪』の時代ではありません。天皇制に批判的な表現は、天皇の前でも当然保障されるべきです」

すべてのハラスメントを一掃して、個々人の尊厳と平等が擁護される社会でありたいものだと思う。
(2015年3月29日)

都教委の「新教育長」人事に注目ー期待したいところだが…さて。

「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の弁護団会議には、弁護士だけでなく原告の皆さんも出席して活発に意見を述べている。弁護団は、原告から必要な情報を得ているというにとどまらない。長年教職にある者の意見に耳を傾けているのだ。とりわけ、弁護士だけでは理解不十分な、教育条理に関する原告の見解は貴重だ。通常の事件依頼者と受任弁護士という関係とはひと味違う、教育専門家と実務法律家の親密な共同作業が必要なのだ。それなくして、この教育訴訟をどのように進行させるべきか的確な方針を期待し得ない。また、会議のテーマは必ずしも、法的な問題に限られない。関連して多方面に及ぶことになる。

最近の弁護団会議で、以下のような意見交換があった。
「10・23通達から11年余が経過した。この間、日の丸・君が代強制という問題が、自由闊達であるべき教育現場をいかに荒廃させているか。この点を明らかにすることが、都教委の教育の自由に対する侵害や不当な支配としての違憲・違法性の法的主張に直結すると思う」

「10・23通達以前の都立校の教育がどのようなものであったか、卒業式や入学式はどのような理念でどのように準備され、どのように感動的であったか。それが、10・23通達でどんなに変わってしまったか。それを総括しなければならない」

「それだけでなく、日の丸・君が代強制問題は、それ自体が独立して完結した問題となっているのではない。公権力による教育統制の一端なのだから、公権力の側がこの問題を利用しつつ、権力的な教育統制をどのように進行させているかという全体像を明確にする必要がある」

「同感だが、当時の仇役は姿を消した。石原慎太郎は退いて舛添知事に代わった。横山・米長・鳥海・内舘らの当時の教育委員も全部入れ替わった。その結果、東京都の教育行政は少しはマシになっているということはないのか」

「とんでもない。最近はもっと酷くなっていると言ってよい。以前は形式的には鄭重だった原告団の要請に対して、最近はまったく耳を貸そうとしない。問題を指摘し、これを定例の教育委員会に報告し検討するよう要請しても、露骨に拒絶される」

「しかも、教育庁の事務方は、われわれが提供する情報や見解を遮断するだけでなく、教育委員には自分たちに都合のよい不正確な情報と見解だけを吹き込んでいる。教育委員は、事務方の言い分しか知らず、最高裁が何を言っているか、まったく認識がないものと考えざるをえない」

「とはいえ、最高裁判決で、戒告はともかく減給・停職の処分は違法として取り消された。要するに最高裁は、都教委のやり口はあまりに酷い、常軌を逸したやり過ぎ、と批判したわけだ。このことが都教委全体の反省材料とはなっていないのだろうか」

「都教委は反省のかけらもなく、別の攻撃方法を探している。減給・停職の処分ができないとなるや、服務事故再発防止研修に藉口して徹底したイヤガラセを始めた。とりわけ、校内研修の繰りかえしの威嚇効果が大きい」

「しかし、舛添現知事は、元知事の石原やその後継を看板にした猪瀬前知事とは明らかに異なった常識人にみえる。明確に石原猪瀬体制の批判もしている。知事の交替による教育行政への影響は、見えないのだろうか」

「知事には、オリンピックの成功が第一の関心事ではないか。そのための、都市間外交などは評価しうるが、教育問題で都議会保守派を刺激したくはないのだろう。ましてやオリンピック推進の立場は、日の丸・君が代強制問題にものを言いにくくしている」

「教育庁職員OBの皆さんが、現在の頑な東京都の教育行政を批判している。当時と今と、何が違っているのだろうか。現在の職員は、不本意ながら、上に従っているということではないか」

「最初は強引で無理無体な押しつけだったものが、時間の経過とともに常態化した側面は否めない。また、この強制加担が出世コースから外れないための試金石だという認識もあるのではないか。職員がかなり主体性をもって強制加担をしている節が見える」

「確かに、舛添知事になってからの都庁内の雰囲気は、石原・猪瀬時代とは明らかに違ってきている。ところが、教育庁だけが旧態依然なのだ。石原も、初当選から10・23通達を出すまでは4年余の時間を要している。その間の周到な教育委員人事を変えて反憲法的な石原教育行政を確立して、教育に介入した」

「舛添教育行政が正気を取りもどすためには、何よりも教育委員人事が大切だ。次の教育委員人事に注目しなければならない」

その注目の教育委員人事、しかも4月1日からの新制度における教育長人事が昨日(3月27日)の都議会本会議できまった。現在の比留間英人教育長の横滑りではなく、中井敬三(現・財務局長)という初めて耳にする名前。比留間英人は勇退だと報じられている。かつて10・23通達体制の構築に蛮勇を振るった横山洋吉教育長が、教育長退任の後には副知事となったような優遇は受けなかった。そして、教育庁内部からの新教育長人事ではなく、これまで手の汚れていない他局からの人選である。

報じられているところでは、中井敬三・財務局長(59)は、一橋大卒で1978年に都に入庁。病院経営本部長や港湾局長を経て、2012年から現職だという。なお、従来は知事が教育委員を任命後、教育委員会が教育委員長・教育長を選任した。しかし、新制度では、知事が直接教育長を任命することとなった。大きな批判の中での新制度である。

その中井敬三新教育長に注目せざるを得ない。どのような事情あって、この重要ポストに就くことになったのだろうか。共産党も含んでの都議会全会一致の承認である。過剰な期待は禁物だが、もしかしたら舛添中道カラーの布石かも知れない。もしかしたら荒廃した教育現場再生への第一歩となるのかも知れない。まあ、期待を裏切られたところで、これ以上悪くはなりようがなかろう。
(2015年3月28日)

大相撲千秋楽の国歌斉唱に異議あり。自衛隊の伴奏にさらに異議あり。

大阪府立体育館での大相撲春場所が終わった。荒れる春場所とはならなかった。予定調和のごとく白鵬(モンゴル)が優勝。これを追う逸材として照ノ富士(モンゴル)が名乗りを上げた。大関候補というよりは、逸ノ城(モンゴル)とともに近い将来の横綱候補といってよい。さらに、栃の心(グルジア)、大砂嵐(エジプト)、臥牙丸(グルジア)など、やがて上位を外国勢が独占する勢い。

2006年初場所の大関栃東を最後に、連続55場所日本人力士の優勝が途絶えている。公平に見て、さらにしばらくは日本人力士の優勝はなかろう。しかし、大相撲の心地よさは、よい相撲を見せる力士には人種や国籍を問わず声援が飛ぶことだ。

日本相撲協会の公式サイトでは来場者アンケートによる「敢闘精神あふれる力士」を毎日掲載している。千秋楽は、トップが照ノ富士、2位日馬富士、3位白鵬とモンゴル勢の独占。場所を通じてのトップは断然照ノ富士だった。
http://www.sumo.or.jp/honbasho/main/kanto_seishin

かつて実力ナンバーワンだった小錦の横綱昇進が見送られたとき、差別の臭いを感じさせられた。が、今そんなことをしていては、興行としてなりたたない。協会の姿勢をここまで糺した、日本の相撲ファンはけっこう質が高いのではないか。

で、目出度く千秋楽かといえば、実はちっとも目出度くはない。千秋楽の君が代斉唱には以前から大きな違和感あって異議を唱えてきた。外国人力士の活躍はその違和感をいっそう大きくしている。くわえて今場所は、別の問題が生じている。君が代斉唱の伴奏が、「陸自第3音楽隊」になったというのだ。

私は産経は読まないし、絶対に買わない。ささやかな経済制裁を続けている。その産経の関西版に、こんな記事があることを教えてもらった。

「国技の国歌斉唱、ぜひ国の守り手で」春場所千秋楽、陸自第3音楽隊が初の伴奏(産経・関西)
http://www.sankei.com/west/news/150321/wst1503210024-n1.html

「22日の千秋楽での表彰式前に行われる国歌斉唱の伴奏を、陸上自衛隊第3音楽隊(兵庫県伊丹市)が今場所初めて担当する。春場所以外の本場所(東京・名古屋・福岡)ではすでに各地の自衛隊音楽隊が伴奏を担当。大阪での第3音楽隊の初登場で、全ての本場所で自衛隊音楽隊が“そろい踏み”となる。
 『国技の本場所での国歌斉唱はぜひ、国の守り手の自衛隊にお願いしたい』
 春場所の表彰式での伴奏について、日本相撲協会から自衛隊大阪地方協力本部を通じて、第3音楽隊に要請があった。
 昨春までは約30年間、大阪市音楽団(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラに名称変更)が担当。昨年4月に同市直営から一般社団法人化したことで、相撲協会との交渉で演奏料などの折り合いがつかず、降板することに。そこで、第3音楽隊に白羽の矢が立った。
 第3音楽隊の阿部亮隊長=1等陸尉=は『たくさんの観客の前での演奏なので、立ち居振る舞いから緊張感をもって行いたい』と練習に余念がない。22日は表彰式での賜杯授与時の『得賞歌』と優勝パレード出発時『国民の象徴』の各演奏も担当する。
 第3音楽隊は昭和35年に発足した陸自第3師団の直轄。現在40人の編成で音楽を主任務とする専門部隊だ。」

恥ずかしながら、「大相撲の年6回の本場所では、東京では陸自東部方面音楽隊などが、名古屋では陸自第10音楽隊が、福岡では陸自第4音楽隊などが、それぞれ国歌斉唱などの伴奏を担当している」ことは知らなかった。何よりも、「国技の国歌斉唱は国の守り手の自衛隊に」という協会の姿勢は、到底許容しがたい。

ところで、公益財団法人日本相撲協会は、その定款(今は「寄付行為」という言葉は使わない)における設立目的に「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」とある。協会は、「我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序」とは、日本の軍事とともにあるという認識なのだ。だから、「国技」(相撲)と「国歌斉唱」(君が代)と「国の守り手」(自衛隊)とは、よく似合うというわけだ。

こうして、「日の丸・君が代」と自衛隊とが、一緒になって市民生活に入り込んでくる。そして、君が代斉唱に唱和するよう社会的同調圧力が強まることになる。大相撲だけではない。オリンピックも、国民体育大会も、プロ野球開幕式も同じように警戒しなければならない。

とりあえずは、産経だけにではなく、大相撲も個人的経済制裁の対象としよう。金輪際大相撲などは観に行かない。関連グッズも買わない。まことにささやかだが、宣言的効果くらいはあるのではないか。
(2015年3月23日)

国旗国歌への敬意表明強制はなぜ許されないかー放送大学解説への反論

ときたまFMラジオ「放送大学」の講座に耳を傾ける。ときに、質が高く内容の濃い講義にあたって、ハッピーな気分になる。もちろん、いつものことではなく、不愉快になることもしばしば。

きっかけは、大学で同級だった佐藤康邦君が放送大学の教授になったこと。プラトンやカント、ヘーゲル、マルクスなどの講義をしている。哲学、倫理だけでなく、文学や絵画にまで及ぶ彼の話がとても面白い。とはいうものの、たいていは朝6時からの45分間。寝床の中での受講は、殆どうつらうつらとしているうちにおわる。それでも叱責されることはない。ぜいたくな時間だ。

ここしばらく、6時から6時45分までが、「近代哲学の人間像」「西洋哲学の誕生」という佐藤君が中心の講義。昨日(3月21日)寝床のなかて夢うつつで聞いている内に、プログラムは終了した。いつの間にか、番組は移って、教育公務員に対する懲戒問題という、恐ろしく非哲学的なテーマの講義に切り替わっていた。

教育公務員に対する懲戒における裁量権の逸脱濫用論が語られ、「日の丸・君が代」強制問題にもかなり詳細に触れられていた。累積的に処分内容が加重される東京都教育委員会のシステムを、比例原則に反するものとして原則違法とし、減給以上の処分を取り消した最高裁の立場に好意的な内容。そして、明日(3月22日)は憲法論という予告。

本日(3月22日)、睡魔と闘いながら、寝床の中で坂田仰日本女子大学教授の「学校と法」第14回の講義を聴いた。中身は、「日の丸・君が代」強制事件の最高裁判決についての無批判な容認論。真面目に、この講座を聴いている人への影響も大きいことだろう。批判が必要と思って、この稿を起こしている。うつらうつらの聞き書きだから、正確な引用はできないことをお断りしなければならないが、大筋は外れていないはず。

坂田教授は最高裁の判断に賛成する理由をこのように説明する。
「このような例を考えてみると分かりやいのではないでしょうか。ギャンブルは犯罪には当たらず処罰すべきではないという信念をもった警察官がいるとしましょう。『憲法29条の財産権規定によれば、自分の財産をどう処分しようと自由なはずなのだから、ギャンブルを犯罪として取り締まることは違憲である』というのが彼の信念であり思想です。この信念に基づいて、『自分の思想・良心の侵害に当たるから、ギャンブル犯への逮捕状の執行は拒否する』と言えるでしょうか。おそらく、圧倒的多数の方が『そんなことができるはずはない』とお考えになるはずです。自らの思想良心に反するとして国旗国歌強制を違憲とする教員の論理は、この警察官の考えと基本的には同じものと考えられるのではないでしょうか」

正直のところ驚いた。あまりに、稚拙な議論の組み立てではないか。さすがにこれだけで説明は終わらない。「この立論に対しては、二つの方向からの反論が想定されます」として、次のように続く。

「一つは、警察官がおこなう職務執行行為と、教員がおこなう教育という行為の質的な差異を無視するものだということです。前者は権力作用であり、後者は非権力作用であって、この両者を同じように取り扱うのは間違っているという批判が考えられます。しかし、この批判は、教育には権力作用が伴うものであることを無視したものであることにおいて、妥当ではありません。子どもを学校に呼び出し、教室での授業を強制することにおいて、教員のおこなう教育も権力作用なのです。

もう一つは、ギャンブルを容認する思想と、国旗国歌強制を排斥する思想との価値序列の差異を理由とする批判です。しかし、これも納得できる批判ではありません。そもそも憲法19条を生みだした近代の自由主義思想は、一切の思想良心を等しく尊重する立場にたつもので、思想良心の内容による価値序列を認めないものであったはずだからです」

どちらの説明も、放送大学を受講しようとするほどの人にもっともと思わせるほどの説得力はない。この議論は、「自己の主観的な思想良心が侵害されているというだけの理由でいかなる職務命令も拒否できる」という乱暴な主張に対する反論としては成立する。しかし、さすがに最高裁はそんな前提での理由付けをしていないし、教員側もそのような単純な主張はしていない。

また、坂田教授流の立論は、公務員の職務内容を捨象し、すべての公務員を同等に見なしたうえで、思想・良心による職務命令拒否の余地を一般的になくしてしまうこととなる。今や旧時代の遺物として妥当性を否定されている特別権力関係論の蒸し返しに過ぎない。結局のところ、これでは職務命令絶対有効論にほかならないではないか。

教員の側から多くの訴訟が提起されているが、単純に「自分の思想にそぐわないから」「日の丸・君が代の強制には従えない」というだけの原告側の立論ではない。たとえば、敬虔なクリスチャンの教師が、信仰の上では天地創造説を信じていたとしても、物理、地学、生物、歴史の授業では天地創造説を真理として教えてはいけない。ビッグバンも、大陸移動も、進化論も、考古学も、自分の信念に反するとして授業を拒否することは許されない。もちろん、天孫降臨や神武東征の天皇制神話の奉戴者も、現代の定説としての歴史の教授を拒否することは許されない。こんなことは、当然のことだ。そんなことは現実に問題になっていないし、なり得ることでもない。

実は、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、進化論を教えることの強制とはまったく違う問題なのだ。だから違憲の主張となり訴訟の提起に至っている。もちろん、警察官のギャンブル摘発とも違う。これを一緒くたにすることはあまりに乱暴な議論。

どこが違うのか。まずは、何よりも国家を個人の価値に優越するものとする取扱いは、いかなる場面においても許されることではない。ましてや、主権者たる国民に対して、その意に反して国家への敬意を表明せよという強制は許されない。これは、教育条理や公務員秩序に無関係に、いかなる場においても貫徹されなければならない大原則である。

個人と国家との関係をどう把握すべきか。このことは憲法の最大関心事である。自由主義憲法の基本原則は、まさしく個人の尊厳を最高の価値序列に位置づけるもので、国家はその僕に過ぎない。人権を侵害することのないように公権力の発動が抑制的でなければならないことは常識に属する。

主権者であり人権主体でもある国民個人に対して、公権力が国家の象徴である国旗国歌に敬意を表するよう強制することは、憲法的には背理であり、価値倒錯として許されることではないのだ。この場合当然に、精神的自由権の権利主体である教員は、憲法19条を根拠とした権利主張をなし得ることになる。

以上のとおり、個人と国家との直接的な対抗関係ないしは価値序列の優劣を問題にする点で、国旗国歌への敬意表明強制は、他と異なる特殊な問題局面なのである。ギャンブル肯定の例を比較に持ち出せようはずもない。

さらに、「日の丸・君が代」に敬意を表することは、公教育本来の内容ではない。ましてや、強制などが許されるはずはない。特定の教育理念を標榜する私立学校であればともかく、公教育において国旗国歌に敬意を表明するよう強制することは、国家主義的イデオロギーの受容を教育内容とするものとして憲法の許す教育ではあり得ない。そもそも国家は特定のイデオロギーをもってはならない。国家への敬意表明に抵抗感のない国民を育成しようというのは、明らかに憲法が想定する教育から逸脱するものとして、これを許容し得ない教員の思想良心を侵害するものである。

教育には、知育・徳育・体育の3分野があるとされる。知育が、真理を伝達する教育、あるいは真理を獲得すべき主体の能力開発する教育が、教員の職責に属することに異論はなかろう。体育も、基本的にこれに準ずる。問題は徳育である。人としての道徳や倫理の教育の名目によって、特定の価値観の注入をすることには、厳格な警戒を要する。国旗国歌に対する日本人、国際人としてのマナーを学ぶ機会を名目としての国旗国歌強制は、まさしくこれに当たるもので、あってはならないことなのだ。

問題を、生身の教員個人その人が具体的に有する思想・良心の侵害としてとらえるだけでなく、憲法が想定し期待する教員としての職責にあるべき思想・良心の侵害を考慮した方が分かり易いかも知れない。公権力が国家主義的イデオロギーを子どもに注入しようとするとき、教師はその防波堤となってこれを防ぐべき思想・良心を持つことが、期待され想定されているというべきであろう。

なお、坂田説による説明は、標準的な学界の通説からは、権力の側に偏っていると指摘せざるを得ない。普通の考え方なら、精神的自由に関する人権侵害があった場合には、公権力による当該の人権侵害を正当化するに足りる厳格な憲法適合性審査基準の要件をクリヤーしなければならない。

このことについては、宮川光治最高裁裁判官(当時)が、貴重な少数意見において明確に述べ曖昧さを残さない違憲判断をしたところである。通説的な学説からはこれが常識的な判断方法であろうが、坂田説はこれに触れるところがない。最終的に権力追随の結論に至ることまで非難はしないが、講義では公正・公平に目配りして、重要な論点の解説を落としてはならない。学問とはそういうものではないか。

そういう講義でなければ聴いていてハッピーな気分にはなれない。
(2015年3月22日)

「失望と侮り」の司法から脱却するために

本日(3月20日)の朝日「耕論」に、宮川光治さんの聞き書きが掲載されている。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11659534.html

一票の格差問題についての、昨日(3月19日)の東京高裁合憲判決を素材とするもの。元最高裁裁判官のものの考え方の枠組みを示すものとして興味深く読んだ。

宮川さんは、こう言っている。
「わが最高裁は、先進国の最高裁判所や憲法裁判所と比べて、国会や内閣に対し最も敬譲を示してきたと思います。ある米国の学者は、『世界で最も保守的な憲法裁判所であるとみなされている』と言っていますが、少なくとも近年まではそのような評価を受けても仕方がありませんでした。」

なるほど、ものは言いようだ。「わが最高裁は、国会や内閣に対して弱腰」とか、「過度に遠慮がある」とか、あるいは「違憲判断に臆病」などとは言わない。「敬意を表し謙譲の姿勢を示している」というわけだ。さすがに、品のよい物言い。

これに続く一文が、いかにも宮川さんらしい。
「『緩い打ちやすいボールを投げれば、的確に打ち返してくれるだろう』という信頼を最高裁が政治の側に持ち続けたからだと、私は考えています。」

わが最高裁の国会や内閣に対する礼節を尽くした接し方は、相手に対する信頼があってのことというわけだ。あからさまに違憲判決を出して立法や行政を批判せずとも、穏当なものの言い方で、最高裁の意のあるところを忖度して呉れるだろう。その上で適切な対応がなされるに違いない。そう思って違憲判断を控えてきた。

このことが「剛速球ではなく、緩い打ちやすいボールを投げてきた」、と表現されている。違憲判決という剛速球で国会や内閣をねじ伏せることは好ましくない。むしろ、結論は違憲判決になってはいなくても、その判決理由に柔らかく問題を指摘しておけば、立法も行政も司法の意を汲んで、的確な反応をしてくれるはず。これが、「最高裁の投げたボールを的確に打ち返してくれるだろう」という表現になっている。

にわかに全面的賛意を表明しがたいが、なるほど上手な説明の仕方だと思う。もちろん、説明がこれで終わっては何の意味もない。宮川さんの真骨頂は、これに続く次の言葉。

「しかし、そのボールが見送られたり、弥縫策というファウルを打たれたりすることが長く続く中で、司法への失望や侮りが生まれました。」

最高裁は、国会や内閣が打ち返しやすいような、バッティングピッチャー役を務めていたというわけだ。きちんと打ち返してもらうように期待を込めて投げた打ち返しやすい球を、打者である立法や行政は打とうともせずに見送ったり、見当違いの方向に打ち返したり、最高裁の期待に外れた対応が長く続いた。まったくそのとおりだろう。その結果、何が起こったか。

何よりも、国民の司法への「失望」である。「最高裁は憲法と人権の守り手」であるはずが、「最高裁は権力の番犬」と揶揄される事態になっている。国民は、「どうせ裁判所へ行っても、政権の言うとおりの腰の引けた判決しか期待できない」と、司法に失望しているのだ。これは裁判所が本質的な意味で国民に見捨てられたことを意味する。この事態は、人権の危機であり、民主主義の危機でもある。

そして、国会や内閣の司法に対する「侮り」である。何をやっても、最高裁が違憲判断をすることはない。立法裁量、行政裁量に歯止めなどないのだ。という、侮りである。これも人権と民主主義の危機である。

宮川さんは、以上のことを意識して、最高裁自身が変わろうとしているという。
「国民の主体意識が高まり、権利のための闘争が広がる。そして、グローバル社会の進展は、普遍的価値を基準とする社会の構築を司法に求める。そうした時代の大きな変化を背景として、明らかに最高裁は様々な課題について積極的に憲法判断をする方向にかじを切りつつあります。『一票の価値』についても、司法の役割を積極的に果たそうという方向性が揺らぐことはないと思います。」

是非、そうであって欲しい。期待したい。

フランス人権宣言第16条が、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定式化して以来、人権を守るための三権分立が、自由主義憲法統治機構の基本構造となった。しかし、三権相互の関係の在り方は、各国それぞれである。我が国の最高裁が、ゆるいボールを投げ続けている間に、立法と行政の侮りとそのことによる司法の劣位が定着してしまったのではないか。ゆるいボールは、はたして的確に打ち返すことを期待してのものであったかにも疑問が残る。

悪名高い「10・23通達」にもとづいて教員に対する「日の丸・君が代」の強制が許されるか。この問題について最高裁は、確かに「緩いボール」を投げる判決を言い渡した。東京都の教育行政に敬譲を示して違憲判断は回避した。しかし、間接的には思想良心の侵害になることまでは認め、戒告を超える懲戒処分は懲戒権の濫用として違法とした。ここには、教育の場に相応しからざる都教委の強圧的姿勢に対する批判を読み取ることができる。多数の補足意見において、その批判はさらに明確である。宮川さんは、これを「的確に打ち返してくれるだろう」との信頼を前提とした判決だというのだろう。10・23通達体制派は、最高裁によって違憲判断はかろうじてまぬがれたが、褒められてはいない。見直しを求められている。

ところが、都教委はこの期待にまったく応えるところはない。そもそも信頼に足りる相手ではない。品格とかディーセントとはまったく無縁の存在。「緩いボール」を投げたところで、投手の意図を忖度できない愚かな打者には意味がない。こんな輩に対しては、剛速球でねじ伏せるしかない。それ以外に都教委のごとき行政の無頼を矯正する手段はないというべきだろう。

次のイニングには都教委にストライク・アウトの宣告をしなければならない。それこそが、国民の司法への信頼を取り戻し、行政の侮りをなくする唯一の道である。
(2015年3月20日)

松谷みよ子さんが語った「治安維持法・思想弾圧・国家機密法」

今日3月15日は、民主主義と人権に関心を持つ者にとって忘れてはならない日。思想弾圧に猛威を振るった治安維持法が、本格的に牙をむいた日である。

多喜二の小説「1928年3月15日」で知られるこの日の午前5時、全国の治安警察は一斉に日本共産党員の自宅や、労農党本部、無産青年同盟、無産者新聞社などを家宅捜索し1568名を逮捕、その内484名を起訴した。第1次共産党弾圧である。被逮捕者に対する拷問が苛烈を極めたことはよく知られている。皇軍の戦地での恥ずべき蛮行と並んで、天皇制政府の醜悪な側面を露呈させた恥部といってよい。

悪名高い治安維持法は、男子普通選挙法(衆議院議員選挙法改正法)とセットで、1925年3月に成立し、同年4月22日施行となった。その第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」であった。後に、法「改正」を重ねて刑は死刑を含むものとなる。

「国体ヲ変革シ」とは、天皇制を否定して国民主権原理にもとづく民主主義国家を建設しようという思想と運動を意味している。これが犯罪、しかも死刑に当たるというのだ。

「私有財産制度ヲ否認スル」とは、生産財を社会の共有にすることによって格差や貧困のない社会を目ざそうということ。これも危険思想故に犯罪とされた。天皇制政府が誰と結託していたかを雄弁に物語っている。

治安維持法は、「3.15」「4.16」、そして多喜二を虐殺した。まずは共産党に向いた治安維持法の牙は、社会民主主義者にも、自由主義者にも、平和主義者にも、労働・農民運動家にも、そして宗教者にも生け贄の対象を拡大していった。そのために、民衆は「滅多な口を利いてはならない」と政府を恐れた。その民衆にさらに容赦なく、天皇制政府は思想統制を強め、過酷な弾圧を続けた。

民衆の立場から、その実態を掘り起こす優れた作業がいくつも公にされているが、その一つとして、松谷みよ子の「現代民話考」の一巻、「銃後」に「思想弾圧」がある。

「現代民話考」は、広い分野にわたって全国の民間伝承を採話したもので、全12巻に及ぶ。初版は立風書房だが、今は筑摩文庫で復刻されているようだ。その第6巻(第2期・?)が「銃後 思想弾圧・空襲・沖縄戦・引き上げ」となっている。なお、第2巻(第1期・?)が「軍隊 徴兵検査・新兵のころ」というもの。民衆の伝承が、これほど戦争に関わるものになっているのだ。

以下は、「銃後」の前書きに当たる「銃後考」の抜粋である。戦争の時代を生き抜いた知性と良心が語る言葉である。児童文学者としての優しさに満ちた感性が、強靱な理性に支えられたものであることがよくわかる。

「安維持法の名のもと思想統制が進められ、労組、農民組合などの運動に参加する人びと、自由人、社会思想を持つ人びとが検挙され、凄じい拷問がくりひろげられた。昭和8年、小林多喜二が築地署で特高による拷問で死亡した事件は心ある人びとに大きな衝撃を与えた。そしてこれらの思想弾圧があってこそ、天皇を神とし、大東亜を共栄圈とする思想も、銃後の思想統一もゆるぎないものにつくりあげられていったのである。その意味で今回、第一章を思想弾圧・禁止とした。」

「あの当時、非国民の恪印は死とつながる恐怖であった。日本国民のあるものは、幼い日からの軍国教育によって、ある者はしんそこ日本は神国であると信じ、大東亜共栄圈の理想を共有した。しかし、ある人びと、前述したクリスチャンや、思想的にこの戦争は正しくないと感じ、何等かのかたちで抵抗した人びともいる。‥無垢の愛に地をたたき、狂うほどの悲しみをあらわにした。「息子を返せ! 東条のバカヤロー」「天皇のヤロウー どんなにしたってきかないから!」これらの言葉が官憲に聞えたらどうなるか、当時を生きた人なら誰でもが知っている。また、福島の‥は、貧農の母が髪ふり乱し「おらの息子を連れて行くな」と出征の行列に泣きすがったと伝える。庶民の心のほとばしりを私は大切に思うのである。」

437頁のこの書には、かなり長い「あとがき」がある。松谷みよ子の息遣いが聞こえてくるようだ。「ちょっと気になること」として、「一つの花」事件の顛末が書かれている。「一つの花」とは、小学校の教科書に載った短編小説の題名。作中のおおぜいの見送りのない出征風景が「捏造」として、産経の批判のキャンペーンにさらされたことが「事件」である。

これを松谷は、「『一つの花』における見送りのない出征風景はこのように、見送りのない出征?戦争の悲惨?アカ、という図式をはめられ、新たなる伝説をつくりあげられていく。バカバカしいことながら、笑ってはすまされないことであった。」

としたうえで、こう続けている。
「先日、京都へ行ったとき、国旗掲揚、君が代が教育の場で強制されてきた、となげく声を聞いた。これは他県ではずいぶん前から聞かされたことであった。国旗があがる間、どこにいてもぱっと直立不動の姿勢をとらされるという話も聞いた。また、昭和61年11月10日には、天皇在位60年を奉祝して、二重橋前から銀座、日本橋などに提灯行列、日の丸、天皇陛下万歳のさけびで湧いた。偶然通りかかった知人は、戦時中のシンガポール陥落の提灯行列を思い浮べ、歳月が40年前に逆戻りしたような恐ろしさを覚えたという。この前の戦争が、天皇を現人神と神格化し、平和を希求する思想をアカときめつけて全国民を戦争への道に駈り立てていった、そのことはすでにあきらかである。この道は、いつかきた道、戦後だ戦後だといっているうちに、あたりの風景は戦前に変りつつあるのではないか。そして、風景を塗り変えようとする手と、「一つの花」事件とが無縁のものとは考えられないのである。国家機密法が繰り返し上程されようとしていることとも無縁ではない。

いま、なにかが水面下で不気味にふくれあがりつつある。「一つの花」見送りのない出征事件は、いまから8年前になる。しかし遠い地鳴りのようなこの出来事を、私たちは忘れてはなるまい。一つ、一つの事件、それはごく小さく、とるに足りぬもののように見える。しかし、その小さな出来事が積み重なることによって、私たちの感性はいつしか馴らされ、気がついてみれば戦争への道をふたたび歩いている。そういうことがないとどうしていえようか。「ねえ、あのとき、どうして戦争に反対しなかったの?」子どもたちにそう問われることのないように、私たちは、常にするどく、感性を磨かねばと思う。卵を抱いた母鳥のように。」

松谷みよ子さんは、2月28日に永眠された。あらためて、警世の人を失ったことを悔やまざるを得ない。この書が上梓されたのは1987年4月であった。松谷さんがたびたび言及している国家機密法(自民党側はこれを「スパイ防止法」と呼んだ)は、1985年に国会上程されて廃案となり、87年ころには再提出が懸念されていた。いま、これに替わって特定秘密保護法が成立してしまった。また、産経の役割は相変わらずである。

松谷さんの言をかみしめたい。「小さな出来事の積み重ねに感性を馴らされてはならない」。しかし、今や安倍政権の所為は、「小さな出来事の積み重ね」の域を超えている。今を再びの戦前とし、後世に再びの「治安維持法・思想弾圧」の伝承を語らせる歴史を繰り返してはならない。
(2015年3月15日)

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