1952年4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効して日本は「独立」した。同時に、日米安全保障条約が発効して日本は、固くアメリカに「従属」することになった。沖縄・奄美・小笠原は本土から切り離され、アメリカ高等弁務官の施政下におかれた。それ故この日は、沖縄の人々には「屈辱の日」と記憶されることとなった。
私は、1966年の暮れ、返還前の沖縄に1か月ほど滞在したことがある。テト休戦によるベトナム帰りの米兵が那覇の町にあふれた時期でもあり、12年に1度の祭りという久高島のイザイホーが行われているときでもあった。
当時私は大学4年生だったが、就活とは無縁なアルバイト生活を送っていた。琉球大学と東大との合同チームが、大規模な沖縄の社会調査をするということになって、その調査員として応募し、まことに得難い貴重な経験をさせてもらった。
日の出埠頭から2泊3日の荒天の船旅だった。船中から伊江島の塔頭を眺めて那覇港にはいり、生まれて初めてのパスポートを手に、出入国審査や関税手続を経験して、沖縄の土地を踏みしめた。そこは、ドルが流通する経済社会であり、車輛が右側車線を走行する本土とは異なる世界であった。
輝く自然と魅力あふれる文化が根付いた小宇宙。しかし、異民族の支配を受け基地に囲まれたという限りでは「屈辱の世界」。日本国憲法の及ばない異空間でもあった。
4月28日は、沖縄にとっては本土と天皇によってアメリカに売り渡された「屈辱の日」、本土にとっては沖縄を売り渡した「恥ずべき日」に違いない。私は民族主義者ではないが、この日を祝おうという発想がどこから来るものか理解しがたい。
これを解き明かすのが、2011年2月に設立された「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」の設立趣意書の一節。「主権回復した際に、本来なら直ちに自主憲法の制定と国防軍の創設が、主権国家としてなすべき最優先手順であった」と記載されているとのこと。ああ、そういうことか。そういうことならよく分かる。
すべては歴史認識の問題なのだ。安倍晋三らにとっては、日本国憲法とは、占領軍が日本国民に押し付けた憲法でしかない。「東京裁判史観」あるいは「自虐史観」にもとづいて制定された日本国憲法は、そもそも正当性をもたない。彼らにとっての「主権回復」とは、押し付けられた憲法を清算すること、天皇を戴く国の憲法として書き換えることなのだ。
彼らに、侵略戦争への反省はない。戦争の惨禍への悔悟もない。今度は負けないように精強な国防軍を作ろう。それを可能とする自主憲法を制定しよう。そのような自主憲法制定が可能になった日として、4月28日を記念しよう。そして、その日を、日本民族の歴史、伝統、文化にふさわしい憲法を作る決意を固める日としよう。
これが安倍自民の本音である。とんでもない。4月28日を祝うことなど、断じてするものか。
本日正午から「4・19国家安全保障基本法案反対院内集会」。主催団体の中に日民協も名を連ねている関係から、私も参加した。
基調報告は日民協の清水雅彦さん(日体大・憲法)、特別報告として自由法曹団の森孝博さん。そして、福島みどり(社)、井上哲士(共)の両参院議員が挨拶をされた。
清水さんが12か条の法案の内容と危険性とを要領よく解説し、森さんが背景事情を報告した。いずれも短時間ながら密度の濃い内容。その後に、発言を求められた。これ以上何を言うべきことがあろうか。
「私は、『基本法』という形での立法改憲に注目すべきことを申しあげます。今、40本の『基本法』があります。原子力基本法、環境基本法、中小企業基本法、消費者基本法‥等々。その第1号がご存知の教育基本法。憲法における教育の理念を具体化する形で、教育分野の法体系の基本を定めたものです。準憲法としての位置づけを得て、他の学校教育法や教育委員会法(地教行法)などの上位法とされています。
国家安全保障基本法もそのような位置づけのものとして提案されていると見なくてはなりません。つまりは、憲法の下に一つのまとまった法体系を作りあげようとするものです。ただし、教育基本法が、憲法の理念を忠実に具体化する内容をもったものとして立法されたのに対して、国家安全保障基本法は違憲の内容をもって法の下克上を行おうとするものにほかなりません。
基本法であるということは、当然に下位法の存在が予定されています。法案自体に、『集団自衛事態法』『国際平和協力法』という法案名が見えますし、既存の法律も、こと安全保障に関する限りこの上位法のもとに再編されることにならざるを得ません。教育の内容にも、秘密保全の整備にも、関わってくることになる。
ということは、この法律が9条改憲への地ならしという側面をもつだけでなく、仮にこの内容で基本法として成立し、国家安全保障法体系が完成するとすれば、集団的自衛権容認にとどまらず、憲法の平和主義の理念が空洞化してしまい、実質的に改憲手続き抜きの改憲が実行されてしまうことになりかねません。」
夜は、文京革新懇主催の連続憲法講座。第4回の本日のテーマは、赤嶺政賢さんを招いての「沖縄と憲法」。実に生々しい現地の運動の報告だった。「革新の共闘のために献身しつつ、ややもするとぶれる共闘を引き締めているのが沖縄での我が党の役割」と誇らしげであった。
昼に1時間、夜に2時間。たっぷりと憲法問題を学習した密度の濃い1日。
教育情報課長でいらっしゃいますね。弁護士の澤藤と申します。本日の要請行動の申し入れ団体である「被処分者の会」の訴訟事件を担当している弁護団の一員として、意見を申しあげます。
先ほど会の代表から、お手渡しした「申入書」、「要請書」、そして「補足説明書」はいずれも簡にして要を得た正確な内容となっています。極めて要領よく、訴訟の経過、そして昨年1月16日の最高裁判決の趣旨が要約されています。判決の結論だけでなく、最高裁が都教委に何を求めているのかを根拠を示して明らかにしています。その正確な理解の上に、これまで処分を受けて裁判をしてきた立ち場から、なんとか教育現場の紛争を解決したいとの願いを込めた具体的な申し入れや要請になっています。
まずは、その写しを、6名の教育委員の皆様にお渡しして、よくお読みいただきたい。
こんなことを申しあげるのは、教育委員6名は、教育委員会自身が被告になっている訴訟の判決書をまったく読んでいないのではないか。内容を知らないのではないか、そう疑問を持たざるを得ないからです。判決を読む意欲も能力もないのであれば、せめて本日お手渡しした書面に記載されている正確な要約を熟読いただきたい。
昨年1月16日の最高裁判決の直後に、都教委は臨時会議を開きました。開会から閉会までわずか8分。なんの議論も意見交換もなく、司会以外の委員の発言は、「異議なし」のひと言だけ。こんな教育委員では困る。こんな教育委員会では、なんの役にも立たない。
しかも、全員異議なしとしてなされた決議を見ると、あたかも都教委を被告として提起された訴訟において、原告の教員側が全面敗訴したごとく記載されている。もしかしたら、各教育委員は、その文書の記載が真実であると、本当にそう信じ込んでいるのではないか。そう危惧せざるを得ない。
その訴訟の控訴審では、当時168名いた一審原告の全員が勝訴判決を得た。一人ひとりの不起立や不伴奏の動機は、真摯な思想・良心の発露であって、これを懲戒処分の対象とすることは懲戒権の濫用として許されないという素晴らしい判決だった。このことを教育委員各氏はご存じだろうか。
1月16日最高裁判決は戒告の処分を受けた者については逆転判決としたが、減給・停職の処分を受けた者については、控訴審判決を維持して処分を取り消した。つまりは、戒告は認めたが、それ以上の重い処分は懲戒権の濫用として違法と判断した。このことを6人の教育委員は知らされていないのではないか。
あなた方教育庁の官僚は、自分たちに都合のよい情報しか教育委員に知らせようとしないのでないか。異議なしとしか言わない教育委員を、取捨選択した情報で操っているのではないか。そう疑惑を持たざるを得ない。だから、本日の各書面は教育委員に手渡してよくお読みいただきたい。
もう一つ申しあげたい。今日お渡しした各文書に記載されているとおり、日の丸・君が代強制事件の最高裁判決には、異例の補足意見がたくさん付いている。そこで裁判官の本音が語られている。違憲か合憲か、適法か違法か、という問題は別として、「教育を受ける子どもの立ち場を尊重して現場の混乱を解消する努力をせよ」という裁判官のつぶやきが聞こえる。都教委は、これを受けとめて問題を解決する方向に動こうという気持があるのか。それとも判決に背を向けて紛争を拡大しようとしているのか。
私どもも、きっぱりと違憲と言わない最高裁には大いに不満だ。しかし、行政に甘いその最高裁でさえ、都教委のやり方はいくら何でも酷すぎる、と減給以上は違法とした。ところが今回、敢えて最高裁に挑戦するごとくに減給処分を行い、さらに服務事故再発防止研修を格段に強化して、新たな紛争の火種を蒔いた。
これではいけない。各教育委員には、現場の実態も最高裁判決の内容もよく知っていただきたい。最高裁の示唆を正確に受けとめて、紛争を解決する方向に舵を取る決断をしていただきたい。
今月は新装開店サービス期間。もう1点のエッセイを。
『文京女性のパワーに期待』
7月には参院選。その結果次第では、改憲の動きに火が付くことになりかねない。なんとしても、改憲阻止の政党を選挙で勝たせたい。私は、もっとも頼もしい改憲阻止勢力として、日本共産党の力量に期待したい。
その参院選の前哨戦として6月に都議選がある。ここでも日本共産党の議席増を期待する。都議選で弾みを付けての、参院選での勝利が改憲阻止につながる。日本の将来の希望を開く。
4月16日開かれた「文京女性のつどい」で、共産党の都議選候補者として小竹ひろ子さんが紹介された。文京区は定員2名の激戦区。小竹さんは過去に第一位で2回の当選を果たした輝かしい実績を持っている。残念ながら現在は浪々の身。
経歴を見れば私より3歳年上のお姉さん。その若々しさに、びっくりする。「何としても困っている人の役に立ちたい」「そのための政策を実現させたい」という熱意に圧倒される。ちょっと無骨で、丈夫そうで、頼りがいがあるところもいい。
東京都には認可保育園に入所できない3万人の待機児童がいる。特別養護老人ホームの入所待ちも4万3千人という。財源がないのではない。8700億円の都債の積み立てがあるという。問題はそれをどう使うかだ。子どものこと老人のことをわがこととして真剣に考えれば、選挙には真剣にならざるを得ない。国益なんか横に置いて、まずは私益を優先して考えよう。投票は遠慮することなく私益を優先で。
口先でごまかす、不誠実な猪瀬知事にはまったく期待できない。都議会の方も125議席中、日本共産党8議席ではあまりにも非力。ここはなんとか小竹さんに当選してもらわなければならない。知的で、たくましい文京の女性の力で何とかしたいものだ。
さて、この頃、選挙の候補者というものについてしみじみ考えさせられる機会があつた。選挙は候補者で当落が決まるものでないことは承知だ。武田信玄だって、上杉謙信だって時の利なくば敗れざるを得ない。しかし、破れた者のうち後世の人気者として語り継がれる者がいる。それはその人物の魅力に人々の胸が躍るからだ。
候補者は選挙の顔だ。選挙の勝敗はさておいても、悔いなき戦いが出来るかどうかは、おおいに候補者の資質、魅力にかかっている。候補者たる者、人を魅了する人物を演じようとする覚悟が必要だ。
当たり前のことながら、候補者は立候補する前に合理的で説得力のある公約、スローガンをもたなくてはならない。そしてそれを吟味し、まず自分が納得し、支援者はもとより、選挙民を説得できる確信にまで高めなければならない。自分の腹に落ちて初めて、選挙民に届くのだ。
公約を実現するための方策や手段についても、綿密に考えることが必要だ。そんなことは周りがあとで考えてくれるなどと期待する甘ったれは厳禁。そして、選挙期間になったら、周りを自分の熱意に巻き込み、励まし、時々刻々起きていることに気配りし、不都合なことが起きれば、自分が責任をとる覚悟で臨まなくてはならない。そうしなければ、支援者は安心して選挙運動ができない。
選挙資金のためのカンパも集めなければならない。協力やカンパに感謝する愛嬌も必要だ。ここではいわゆる腰の低さが力を発揮する。
そのうえ、いかなる情勢にもかかわらず、何が何でも勝利するという気概と信念は不可欠だ。応援している者にそれを感じ取らせる熱情が必要だ。
良きに計らえという殿様選挙など論外だが、以上のことを全部一人で出来るはずはない。そこで有能で信頼に足る、協力者が是非とも必要になる。多ければ多い方がいい。推薦者がたいていその役を担う。なまじ候補者に虚名がある場合は悲惨だ。はじめは選挙運動が盛り上がるが、虚名と知らずに推薦し協力したものは、しばらくは踏みとどまるが、離れていく。結局は虚名を利用せんとする者が残って選挙運動を壟断する。不快な選挙結果がまっている。
誠実で信頼に足る候補者には、政策と人柄に共鳴したしっかりした協力者ができて、たとえ選挙に負けても、次回を期そうという継続的な期待が残る。
そんな宮沢賢治の「アメニモマケズ」のようなことなんて、自分には出来るものかというなら、はた迷惑な立候補などして、カンパを集めたりしないことだ。人には向き不向きというものがある。候補者、政治家以外の道を選ぶべきだ。
以上はあくまで私が応援できる候補者の基準だ。いまの世の中、そんな基準に合わない人ほど当選しているじゃないかという不快な現実がある。それならなおさら、負けても負けてもチャレンジし続ける、誠実で愚直な候補者にこそ期待し、応援を大きくしていかなければ、私たちの夢の実現などかなわない。
小竹さんの必死の訴えと朗らかな熱意に巻き込まれたのか、以上のようなことを感じた次第。
「訴訟と判決の推移」
※ 学校行事において国旗国歌への敬意表明を強制する教職員への職務命令は、日本国憲法の「思想良心の自由保障」規定(憲法19条)に反し、また「教師の教育の自由」(憲法23条)を侵害し、教育行政による教育への不当な支配を禁じた教育基本法10条1項(2006年改正後は16条)に違反するものである。また、懲戒権の濫用とされれば、懲戒処分は違法となり取消されなければならない。処分後の違憲・違法・懲戒権濫用を根拠とした処分取消請求が、一般的な訴訟の形態である。
※ ところが、本件では必ずしも一般的ではない形態の訴訟が先行した。国旗国歌強制を予防しようという意図から、職務命令や処分が出される前に予め「起立・斉唱・伴奏の義務のないことの確認」と「処分の差し止め」の判決を求める訴訟である。
「日の丸・君が代強制反対予防訴訟」と名付けたこの訴訟が、もっとも大型の集団訴訟(一審判決時原告数401名)となり、その後の訴訟運動の中核を担った。そして、一審では全面勝訴の判決を得て大きな社会的反響をもたらした。
※ 予防訴訟の第一陣の提起が2004年1月30日、判決言い渡しが2006年9月21日であった。東京地裁民事第36部の裁判長の名称を冠して、「難波孝一判決」と呼ばれるこの判決は、「日の丸・君が代」の果たした歴史的役割を重視し、これを受容しがたいとする者への強制は、憲法19条に違反することを明言した。最初の提訴における、しかも最大規模の集団訴訟での全面勝訴は、原告団を勇気づけ確信を与えるに十分なものであった。反面、石原教育行政に与えた衝撃ははかりしれない。
※ この勝訴判決が関連訴訟全体の流れを形作ることになるかと思われたが、事態は暗転した。10・23通達以前のピアノ伴奏命令拒否に対する懲戒処分事件の最高裁判決が2007年2月27日に言い渡された。「ピアノ伴奏という外部行為の強制と、その教員の内面の思想良心の侵害とは、一般的客観的に不可分に結びつくとは言えない」として19条違反には当たらないとし、懲戒処分(戒告)違憲・違法の主張を斥けた。
※ 奇妙な理屈の判決でも最高裁判決には下級審裁判官を拘束する現実的な力がある。この判決のあと、多くの処分取消請求訴訟が、この最高裁の論理を踏襲した。その結果、敗訴判決が続いた。これに一石を投じたのが、2011年3月10日の東京高裁・大橋寛明判決である。同判決は、「最高裁が処分を違憲ではないと言っている以上これに従わざるを得ない」としながら、すべての被処分者について、「自らの思想・良心に忠実であろうという、やむにやまれぬ動機による不起立・不伴奏」であることを認めて、戒告を含む全処分を懲戒権濫用として取消し、教員の人権を救済した。
※ このような経過の後、2011年5月から7月にかけて一連の最高裁判決が言い渡しとなった。ピアノ判決の論理とはやや異なって、「外部行為と内心との切り離し論」だけに終始するのではなく、国旗国歌への敬意表明の強制が思想良心の間接的な制約となることは認めた。しかし、間接的制約に過ぎないから、公権力に厳格な違憲審査の必要はなく、緩やかな審査基準の適用で制約の合理性・必要性が認められるから合憲とされた。
※ そして、今のところ最新の、処分取消を求める第一次集団訴訟の最高裁判決(2012年1月16日)が、裁量権濫用論において「原則として戒告程度は違法といえないが、減給以上は処分量定重きに失して裁量権濫用にあたり違法」と、戒告と減給との間で線引きをした。我々にも不満ではあるが、都教委にはそれ以上の痛打となった。最高裁から、「東京都の教育行政は健全な社会通念のうえからは、とんでもない非常識。到底法秩序が容認できないこと」と叱責を受けたのだから。
※ ここまでが現状だが、しかし、まだ思想弾圧は終わらない。訴訟という形での抵抗も続いている。いま、10・23通達関連訴訟で、最高裁に係属中のものは6件を数える。処分が続く限り新訴が提起される。東京地裁にも6件が係属している。
「判決についての見解」
※ 日本の裁判所は、憲法の規定のうえでは、立法に対しても行政に対しても、憲法適合性を審査し合違憲を判断する権限をもっている。しかし、伝統的にその権限の行使には極めて臆病で、立法府に対しても行政庁に対しても過度に慎重である。このことは、「司法謙抑主義」あるいは「司法消極主義」という用語で表現される。
その根底には、民主々義的な基盤を持たない司法は、国民多数の支持によって構成されている国会や内閣、あるいは自治体の判断をできるだけ尊重すべきだという、三権分立についての基本的な理解がある。
※ しかし、人権とは本来公権力との対峙において擁護されなければならない。公権力が多数派によって構成される以上、宿命的に多数派から疎まれる人権のみが擁護を必要とする。民主々義尊重という司法消極主義は、必然的に人権切り捨てにつながる。憲法の番人であり人権の砦であるべき裁判所は、その職責を果たし得ていない。
日の丸・君が代強制問題においても、司法消極主義がわざわいして、憲法学界の通説的見解を採用することなく、公権力側におもねった偏頗な判決となっている。明らかに秩序を優先して人権を軽視した、その論理において説得力をもたない。
※ その司法が、「戒告にとどまる限り処分違法とは言えない」が、「減給処分以上は原則裁量権の逸脱濫用に当たる」として、処分量定には一定の歯止めをかけたことの意味は大きい。また、合憲と判断した多くの裁判官が異例の補足意見を付して、各教員の思想・良心に忠実であろうとする真摯な動機を認め、その心理的葛藤に思いを寄せていることも特筆に値する。さらに、「紛争を解決して自由闊達な教育が実践されていくことが切に望まれる」と提言していることは重く受け止めねばならない。
※ また、堂々たる反対意見を述べた宮川光治裁判官は、憲法学の定説の立場から、揺るぎのない違憲論を貫いている。さらに注目すべきは、「教育をつかさどる教員であるからこそ、一般行政に携わる者とは異なって、自由が保障されなければならない側面がある」と、19条論にとどまらず、教育の自由(23条)にも踏み込んだ見解を述べていることが注目に値する。
※ 私たちは、司法への批判はあるが絶望はしない。裁判所への説得を継続し、判例を変更して違憲判決を獲得するための営々たる努力の積み重ねが課題となっている。
そのための正面作戦としては、宮川裁判官反対意見の判断枠組み自体を多数意見に転化することではあるが、それだけではたりない。
まずは、間接制約論の枠組みを維持しつつ必要性・合理性の判断においてこれを否定する事実を積み上げることが必要であろう。また、最高裁がまだ判断していない論点、たとえば「国民に対する国旗国歌強制は、立憲主義の原則上国家の権限を踰越するものとしてなしえない」という主張、教育の自由の侵害、国際人権論での新判断を求める主張などが考えられる。
※ とりわけ、教育の自由侵害の主張は重要である。
公権力の正当性の根拠となる多数決原理は教育内容には及ばない。国民多数の代表をもって正当とされる公権力も教育内容への介入はなしえない。公権力としての教育行政のなしうることは、厳格に教育条件整備に限定されるのが原則で、教育の機会均等や教育水準確保という要請からの例外が認められる場合においても、大綱的基準のレベルを逸脱してはならない。これを逸脱しての教育行政の教育内容への介入は、教育基本法が禁じる不当な支配に当たる。この理は、旭川学テ大法廷判決が確認しているところである。
10・23通達は、卒入学式という学校の教育活動において、国家主義の立場から国家の象徴に対する国民の敬意の表明を望ましい徳目として受容すべきとする内容の教育として、教基法16条の不当な支配に当たり違法である。
この点についての応答なく沈黙を続けている最高裁に、新たな判断を迫る努力と工夫が必要となっている。
(2013年4月17日)
都教委は、管轄下の教員に踏み絵を踏ませ続けて10年になろうとしている。現在、この醜悪な思想弾圧の責任をもつべきは以下の教育委員6名である。
木村孟(委員長)・内館牧子・竹花豊・乙武洋匡・山口香・比留間英人(教育長)
踏み絵は、わが国の権力者の独創的な発明になる思想弾圧のノウハウである。公権力が民衆に対して、禁教の聖像を踏むことを命じ、拒否者には過酷な弾圧が予告される。権力の思惑は、権力が憎む宗教を公示するとともに、信仰者をあぶり出し、過酷な弾圧の威嚇を通じて思想の統制をはかることにある。
自らの意に反した行為を命じられた信仰者は、過酷な制裁を覚悟して信仰を貫ぬくか、あるいは保身のために心ならずも聖像を足蹴にすることによって信仰者としての心の痛みを甘受するか、深刻なジレンマに陥る。
10・23通達を発出した都教委の思惑は、「日の丸・君が代」に敬意を表明できないとする思想をあぶり出し、これに過酷な懲戒を科することによって、思想の「弾圧」と「善導」とをはかることにある。
このことによって、都内公立校の誠実な教職員は400年前のキリシタンと同様の立場に置かれることとなった。懲戒処分を覚悟して自らの教員としての良心を貫くか、保身のために心ならずも良心を裏切るか、のジレンマである。
都教委は400年前にキリシタン弾圧を行った権力者の正統なDNA承継者であるだけでなく、その悪智恵で新たなひと工夫をつけ加えた。それが「累積加重システム」である。懲戒処分の度ごとに、機械的に処分の量定が重くなる。思想・良心を転向するか、信仰を捨てるまで処分は重くなり続け、ついには教職から追放されることになる。「累積加重システム」は、「転向強要システム」または、「背教強要システム」にほかならない。
ところが、この「転向強要システム」が破綻した。昨年1月16日の最高裁(第一小法廷)判決は、職務命令や処分の違憲までは認めなかったものの、思想良心を理由とする真摯な動機による不起立・不斉唱について、戒告はともかく減給以上の処分とすることは懲戒権の逸脱・濫用として違法とし、減給・停職の重い処分を取り消した。行政に大甘の最高裁も、さすがに都教委のやりかたは酷いと言わざるを得なかったのである。
最高裁にたしなめられて、都教委は少しは反省しただろうか。とんでもない。まったく反省しようとしない。「累積加重システムが認められなければ、別の手段で不埒な思想の持ち主を痛めつけてやろう」これが都教委の発想である。
累積加重システムに代わる嫌がらせ手段のひとつが、服務事故再発防止研修の強化である。再発防止研修は、体罰やセクハラなどの不祥事を起こした教員に反省を求め再発を防止するための研修である。しかし、思想や良心、信仰を理由とする行為を懲罰の対象としていることの方がまちがっている。被処分者に反省は馴染まない。むしろ、反省を迫ることが思想良心の新たな侵害になりうる。
現実には、昨年から研修のあり方が変わった。かつてはなかった事前研修なるものとして受講前の課題についての報告作成が義務づけられた。1回だけだった研修センターでの研修は2回になった。その2回の間に、所属校研修が新設された。その回数が半端ではない。昨年の例では12回繰り返された例が報告されている。そして、センター研修の時間も、100分から200分に倍加した。
「なぜ、昨年から再発防止研修の回数や内容が変わったのか?」という問に、都教委は、「平成24(2012)年1月24日教育委員会臨時会議の議決に基づくもの」と回答している。いったい、その日にどんな議論がなされたのだろうか。
当日の議事録はインターネットで公開されている。ぜひご覧いただきたい。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/gaiyo/past_ka.htm
当時の委員は、下記の6名。
木村孟(委員長)・内館牧子・竹花豊・瀬古利彦・川淵三郎・大原正行(教育長)
会議の始まりが8時30分で終了が8時38分、会議の全時間がわずか8分間である。しかも、議事次第での開会・点呼・取材・傍聴許可・会議録署名人指名の手続で少なくとも3分はかかったものと思われる。マスコミ4社がカメラを入室させてセットするだけでも相当の時間ではないか。実質審議はおそらく5分未満。
この日の議案は、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」だけ。8日前の最高裁判決の都合のよいところだけを抜き書きして、ますます「日の丸・君が代」強制を徹底する決議の採択だけである。事務局が案文を読み上げ、「原案のとおり決定してよろしゅうございますか。─〈異議なし〉─それでは、本件につきましては原案のとおり承認いただきました。以上で、本日の教育委員会を終了します」というだけの安直なもの。質疑も意見交換もまったくない。猪瀬知事の言を借りれば「あほみたいな話だ」。この「あほみたいな」臨時会議に基づいて、現場を泣かせる研修強化が行われている。「異議なし」と言うしか能のない教育委員では困るのだ。異議なしという決議の影響を理解したうえでの容認ならもっと困る。教育の本質や憲法の理念に思いをいたした教育委員であっていただきたい。
参考までに決議の全文は以下のとおり。
入学式、卒業式等における国歌掲揚及び国歌斉唱について
教育の目的は、人格の完成と、国家や社会の形成者の育成にあることは普遍の原理であり、とりわけ、政治や経済を始め様々な分野で国際化が急速に進展している現代においては、国際社会で尊敬され、信頼され、世界を舞台に活躍できる日本人を育成しなければならない。
そのためには、児童・生徒一人一人に、我が国の歴史や文化を尊重し、自国の一員としての自覚をもたせることが必要である。また、国家の象徴である国旗及び国歌に対して、正しい認識をもたせるとともに、我が国の国旗及び国歌の意義を理解させ、それらを尊重する態度を育てることが大切である。
学校においては、様々な教育活動が行われているが、特に、入学式や卒業式は、学校生活における重要な節目として、全校の児童・生徒及び教職員が一堂に会して行う教育活動であり、厳粛かつ清新な雰囲気の中で、学校、社会、国家など集団への所属感を深める上で貴重な教育の機会である。こうした意義を踏まえ、入学式、卒業式等においては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導することが、学習指導要領に示されており、このことを適正に実施することは、児童・生徒の模範となるべき教員の責務である。また、国歌斉唱時の起立斉唱等を教員に求めた校長の職務命令が合憲であることは、平成24年1月16日の最高裁判決でも改めて認められたところである。
都教育委員会は、この最高裁判決の趣旨を踏まえつつ、一人一人の教員が、教育における国旗掲揚及び国歌斉唱の意義と教育者としての責務を認識し、学習指導要領に基づき、各学校の入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱が適正に実施されるよう、万全を期していく。
都教育委員会は、委員総意の下、以上のことを確認した。
平成24年1月24日 東京都教育委員会
本日の法廷に、多数の傍聴ありがとうございます。傍聴席が限られていて、わざわざお出でいただきながら法廷にはいれなかった方にはお詫びを申しあげます。
「日の丸・君が代」強制とそれに派生する服務事故再発防止研修受講強制については、憲法違反であるということが一貫した弁護団・原告団の主張です。条文を挙げれば、思想・良心の自由を保障した19条や、教育の自由に関する26条・13条・23条に抵触する、というものです。ご存じのとおり、この違憲の主張については、一昨年5月以来の一連の最高裁判決が一応の判断を示しています。
最高裁判決は、要約すれば「国旗国歌の強制は、強制される教員の思想・良心を間接的には侵害するものである。しかし、その強制が間接的であることに鑑み厳格な違憲判断を行う必要はなく、緩やかなレベルの判断で合理性と必要性が認められるから、違憲とは言えない」という合憲判断でした。とうてい納得し得ず、その後の訴訟では、なんとかこの理屈を覆そうと、智恵をひねっています。なお、教育の自由の問題に関しては、最高裁は何とも言わず無視し続ける態度です。このことにも納得できません。
我々が今後とも違憲論の旗を降ろすことはけっしてなく、裁判官説得の努力を積み上げることは当然として、もう一つの現実的な勝訴の方策である懲戒権の逸脱・濫用についても併せて主張しています。昨年1月16日に言い渡された、処分取消第1次訴訟の最高裁第一小法廷判決は、原則として懲戒が認められるのは戒告まで、減給以上は特別の事情がない限り懲戒権の濫用として違法になることを認めました。その後の判決は、すべてこの判決が示した線に沿ったものとなっています。
最高裁は、教員の不起立等が怠慢や付和雷同からではなく、真摯な思想・良心の発露として悩んだ末に選択した行為であったと認めて、減給以上の処分は重きに失して原則違法としたのです。下級審の裁判官は、最高裁判決に制約されて違憲論での判決は書きにくいが、裁量権濫用論に基づく判決なら書くことができます。私たちは、この面でも裁判官を説得して適用範囲を拡げたいと努力しています。
そこで強調していることの一つに都教委の処分目的の不当ががあります。最高裁判例は、公務員に対する懲戒権創設の根拠を、公務員秩序の維持のためとしています。公務員に、公務員秩序を乱す非違行為があったときに、秩序を維持するためのものとして懲戒という制度が設けられたというのです。いま、問題は職務命令違反を理由とする懲戒権の行使ですから、乱される公務員秩序とは、整然たる上意下達、上命下服の組織原則そのもののように思われます。しかし、教育公務員の公務員秩序とは、そのようなものと考えてよいのでしょうか。
自衛隊や警察あるいは消防の部門においては、あるべき公務員秩序とは、上意が速やかに整然と下達されること、上司の命令が下僚に貫徹することと言ってよいでしょう。現場では、原則として上命に遅疑逡巡することは許されません。しかし、一般事務部門においては様相が異なると言えます。公務員の職責として、何が国民に奉仕すべき合理的な行為であるのか、職務命令も吟味されなければなりません。少なくとも、上級への盲従が公務員秩序とはいいがたい。
ましてや、教育部門の秩序の内容が、単に上司の命令が下僚に貫徹することや下級が上級の指示に盲従することを意味するはずがありません。これは、教育という営為の本質に関わる問題です。教育とは、盲従を美徳として教え込むものではない。多様な価値観、多様な信条の中から、主体的な選択の能力を獲得し、自分自身を形成していく過程にほかなりません。教員は、子どもとの全人格的な接触によって、そのような営為をともにします。公権力の強制が正しいという保証がないというのみならず、公権力が一定の価値観の注入を強制することは許されないのです。価値観に関わるテーマについての上命下服の公務員秩序などは教育部門には想定することができません。
地公法が処分権者に付与した『公務員関係の秩序の維持のための懲戒権』の行使は、生徒の教育を受ける権利を十分に保障する公務員秩序の維持を目的とする限りにおいて合法性を有します。これまでくり返し主張してきたとおり、10・23通達およびそれに基づく起立斉唱命令並びに懲戒処分は、「特定の価値観、特定の教育観を以て、教育を支配し統制しようとする違法な意図と動機に基づくもの」であって、その目的において違法といわねばなりません。
本日の法廷で、Y弁護士が陳述したとおり、アメリカの歴史上、最も引用されているといわれる1943年の連邦最高裁バーネット判決は次のように言っています。
「もし、我々の憲法という星座の中に不動の星があるとするならば、それは、すべての公務員は、その地位が高いか低いかを問わず、政治、ナショナリズム、宗教その他の事項について、何がオーソドックス(正統)かを定めることができないという点である」
これが、民主主義の普遍的な原理。都教委は、自らの見解のみが正統・適正であるとして、これを全教員と生徒に押し付けて、見解を異にする教員をあぶり出して、機械的に処分を繰り返してきたのです。ですから、そのすべての処分が懲戒権濫用として違法なのです。
まだまだ続く、新装開店のおまけ。
『殲滅戦のこと』
今日は物騒な皆殺しの話。でもご安心を。庭の植物につく害虫の話。私は科学戦はしない。チョウチョの幼虫がいる。金魚もいるし、近所の猫も来る。小鳥も飛び回るし、人間もいる。だから殺虫剤は使わない。
緑が濃くなり、気温が上がると、とたんに昆虫の天国だ。まず吸血鬼退治。スモモの木などは幹に緑のフェルトを巻き付けたように、びっしりとアブラムシの行列ができる。みんな若芽の樹液を吸おうと上へ上へと登るのだ。これは箒で掃き落とす。同じく樹液を吸う憎きカイガラムシもブラシで掻きおとす。
バラにつくのはハモグリバエやチュウレンジバチ。ハモグリバエは一枚の葉っぱの裏と表の間に親が卵を産む。孵った幼虫は組織を食べて進むので、そのトンネルが白いラインを残す。別名エカキムシという名前の由来だ。これは、自分では隠れたつもりかもしれないが、トンネルの終点にいるのはお見通しなので、指で加圧する。
チュウレンジバチは緑色の尺取り虫のようだ。葉っぱの縁に取り付いて、もりもり食べる。気がつかないでいると、バラは丸坊主の枝だけになってしまう。小さければこれも指で加圧。大きければ、足で加圧。
ツバキにつくチャドクガは手強い。指などだそうものなら、毒針毛にカブレて医者行きだ。黄色と黒の横縞に毒針の毛で武装した毛虫がおいしそうな若葉に20匹ほどラインアップして食事している姿はちょっとすごみがある。しかし、シャキシャキうまそうな音と雨だれのように糞が落ちる音がするので、居場所はすぐわかる。で、枝きりバサミで枝ごと切り取って、二重のゴミ袋に入れて、ゴミ収集車の助けを借りて火葬の運命。
ヨトウムシは若葉を食い荒らすだけでなく、茎を根元からバッサリ食い切る。証拠歴然で、仏心は微塵も起きない。夜盗虫(ヨトウムシ)の名のとおり、夜活動するので、懐中電灯で見つけて、これも火葬。
ナメクジはほんとうに舐める。コチョウランの葉っぱなどをザリザリの舌で舐めとって、大穴を開ける。こいつはほんとうに極楽往生させてやる。深いガラス器にいれたビールをおいておくと酔っ払って溺れて、一巻の終わり。ただし、それを見た人は二度とビールは飲みたくなくなること請け合い。
しかしながら、毎年毎年、性懲りもなく現れるこれらの虫たちを見ていると、とても勝ち目はなさそうな気分になる。上にあげた虫はほんの一部で、そのほかに、トウガネブイブイ、コガネムシ、アメリカシロヒトリ、ハダニ、ツマグロヨコバイ、名も知らぬ虫、気がつかない虫など数限りない。で、傭兵を雇い入れることにした。スズメやシジュウカラなど小鳥の援軍はまえからある。クモやヤモリのお世話にもなっている。アブラムシにはナナホシテントウ虫が天敵ときいて、捕まえてきて放してみたが、すぐに敵前逃亡したようだ。今年はカマキリの卵鞘を二つ取ってきて、卵が孵るのを楽しみにしている。
まてよ。一個から数百匹孵るということなので、この狭い庭はカマキリだらけで足の踏み場もなくなってしまうのではないだろうか。そうすると、生態系を攪乱することになるのではなかろうか。心配の種は尽きない。
肩の力を抜いて、気楽にお読みいただきたい。
改憲論の一つに、「日本国憲法時代遅れ論」がある。制定以来65年余を一度もリニューアルしてこなかったから、日本国憲法は古くさくなって、変化した時代の状況に合わなくなった。そろそろ、時代に合わせた衣替えが必要、という論法である。これを「自民党改憲草案Q&A」では、「時代の要請に即した形での憲法改正」と表現している。
憲法とは現実として既にあるものではない。法的拘束力をもってはいるが、飽くまで理想であり目標である。現実に追い越された理想は時代遅れとなるが、今、現実は憲法の理想に肉薄すらしていない。人権・国民主権・恒久平和という日本国憲法の理想は、現実をリードする規範としてその輝きをいささかも失っていない。私はそう確信している。
とはいえ、憲法制定当時には理想として掲げることができなかった時代の制約がなかったわけではない。今ならこんなことも‥、といういくつかは思いつく。
まずは、天皇制の廃止である。憲法発足の当時、旧臣民の圧倒的多数が天皇制の呪縛下にあった。その時代の制約下に象徴天皇制が憲法の第1章に位置することになった。しかし、これほど古くさく、時代遅れのものは他にあるまい。65年後の今日、日本国憲法の第1章が「天皇」から始まっているのは不自然極まる。憲法のここだけが、まことに座りの悪い時代遅れの古くささを漂わせている。この点のリニューアルなら合理性があろう。
基本的人権の条項には、65年前の主権者が考え及ばなかった新しい権利がありうる。同性婚はその典型。憲法24条が、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」とあるのを、「婚姻は異性または同性両名の合意に基づいて成立する」という改正が第一歩。3人以上の婚姻関係を認める状況が成熟しているとは軽々には言えまい。
形式的な人権保障にとどまらず、その権利を実現する手段の保障が追求されなければならない。たとえば、表現の自由を形式的に保障するだけでなく、各自に表現手段のツール保有を現実化させなければばならない。教育を受ける権利は「いかなる公教育も無償とする」と実質が伴わなければならない。さらには、経済的弱者の生存権保障を実質化する財源確保のために、富者に対する社会への利益還元の義務付けなども考えられよう。
また、人権の普遍性が徹底されなければならない。日本国民と非日本国民との国籍による差別なく、すべての人間が日本国憲法適用における人権主体であることが宣言されなければならない。人権の普遍性をして、国境や国籍を超越させよう。
平等原則には、大いに手を入れる必要がありそうだ。「形式的平等から実質的平等へ」「機会の平等から、結果の平等へ」が目指されねばならない。自民党改憲草案では、差別禁止事項として、「障害の有無」を盛り込もうという。もとより、反対の理由はない。しかし、健常者と障がい者が同じ条件で競争する機会を保障することだけでは、障がい者のハンディキャップに十分な配慮をしたことにはならない。このハンディを埋めて実質的な平等をどう実現するかを工夫しなければならない。アファーマティブアクションやクォーター制というものを憲法に取り入れることを考えねばならない。
憲法が時代に合わなくなったというのは、以上のようなテーマについて言えることだ。しかし、改憲論者の本音がそんなところにあるわけはない。だから、「時代の要請」論に乗せられてはならない。自民党改憲草案の復古主義、守旧主義の極端さは目を覆わんばかり。
「現行憲法時代遅れ論」論者の時代遅れの甚だしさ、古くささを見極めよう。選択制夫婦別姓にすら賛成し得ない感性が、憲法の時代遅れを云々する資格はない。
私は医療弁護士として、専ら患者側の立ち場で医療過誤訴訟・薬品副作用訴訟に携わってきた。また、消費者弁護士として製造物責任訴訟に関わってもきた。さらに、非小細胞肺がん患者の立ち場でもある。イレッサ訴訟には関心を持たざるを得ない。
「イレッサ」は、肺がん治療に用いられる分子標的剤ゲフィニチブの商品名である。従来の抗癌剤とちがって、がん細胞の増殖に関わる酵素や分子に直接作用することによる抗腫瘍効果を発揮する。だから血液毒性が低く、「副作用の少ない抗がん剤」「夢の新薬」「通院治療で使える」などと発売前から誇大な宣伝がされた。当然薬価も高い。現在1錠(1日の処方量)あたり6526円である。
2002年7月、厚労大臣の輸入承認を得て販売したイレッサは発売直後から、間質性肺炎など重篤な副作用で、多くの服用者が亡くなった。2002年が180例、03年が202例,04年が175例(最高裁判決から)である。夢の新薬は、悪夢の新薬となった。
その副作用死を薬害被害とする損害賠償請求の集団訴訟が東京と大阪で提起された。製薬会社アストラゼネカに対しては製造物責任の追求であり、輸入販売を承認した国の違法についての責任追求である。
製造物責任とは製造物の欠陥に着目して、欠陥ある製造物のメーカーあるいは輸入業者に、欠陥と因果関係のある被害について認められる賠償責任である。消費者法の分野のこの法律を薬品の欠陥として争った、おそらくは初めての事案であろう。
欠陥とは「通常有すべき安全性を欠いていること」であるが、実務上その態様は3種類ある。設計上の欠陥、製造上の欠陥、そして警告表示上の欠陥である。薬剤、とりわけ抗癌剤には本来的な危険が存在し、副作用があっただけでは欠陥があったとは言いがたい。しかし、危険な薬剤を医師が臨床で使いこなすためには、正確な副作用情報が不可欠であり、添付書面にそれが欠けていれば「警告表示」の欠陥である。
東西2件のイレッサ訴訟では、添付書類における間質性肺炎についての副作用警告が適切なものだったか否かが争われた。一審段階では、両地裁とも判決でアストラゼネカ社の添付書類の警告表示として不十分だったことを認めた。「警告」欄がなく、「重要な副作用」の欄にわずか3行だけ。現実に多くの医師が、他の抗癌剤と同程度の危険性と誤信したことを重視して「欠陥あり」とされた。併せて、東京地裁は国の規制権限不行使の責任も認めた。
ところが、高裁段階では、両事件とも被害者側の逆転全面敗訴となった。そして、昨日(4月12日)、最高裁第3小法廷は上告棄却の判決を言い渡し、訴訟としては被害者側全面敗訴で終わった。
最高裁の判決理由を読んでみると、警告表示のあり方について非常に形式的に、「予見し得る副作用の危険性が薬品を取り扱う医師らに十分明らかにされているといえるか否かという観点から判断すべきものと解するのが相当」という。ここでは、「間質性肺炎のひと言あれば、その危険性は医師なら分かるはずだろう」という思い込みが強い。「大事なことだから、薬剤を投与する医師の立場、投与される患者の立場にたって、もっとしっかりわかるように書かなくてはならない」とする一審判決との姿勢の差が大きい。また、「安全な、夢の新薬」と鳴り物入りで宣伝したことについてのアストラゼネカの責任には触れるところがない。
法も訴訟も裁判所も、人を幸せにするためにある。理不尽な不幸から人を救済するためにある。患者が要求する救済の水準と、製薬会社が要求する免責の水準とは常に拮抗する。最高裁は、患者の要求水準を切り下げ、企業の免責水準に肩入れした。
私は、がん患者として、また医療訴訟・消費者訴訟に携わってきた者として、最高裁判決には納得しがたい。製薬会社にも、厚労省にも、そして裁判所にも、不幸な者を救う姿勢を求めたい。とりわけ、最高裁には、である。
本日も、新装開店サービスの続き。
『東京都庁舎のこと』
先日久しぶりに東京都庁へ行ってきた。威圧的で鋭角的でやっぱりなじめない。国会周辺も含めて、政治の場は人が近づかないように、意識的によそよそしく作るのだろうか。内部も無味乾燥で、職員が気分よく働ける場所ではなさそうだ。にもかかわらず、職員は丁寧で、にこやかだ。昔のお役人とはだいぶ違う。
窓の下の新宿中央公園にはホームレスのブルーテントが見える。天国と地獄。
1990年に完成したこの都庁舎は、第1、第2、議会の3庁舎からなり、総工費は1569億円。当時は「バブルの塔」とか「タックスタワー」とか言われたはずだけど、このごろあまりにも大きな数字になれすぎたせいか、だいぶお安く感じる。年間の維持費は40億円。これは高い。23年たって920億円。水漏りがするとかいわれていたけど、直ったのだろうか。
この都庁舎を含めた新宿西口副都心は、1965年、東村山へ移転した淀橋浄水場跡地が再開発された場所にできた。水をたたえた、四角い人工池のことをおぼえている人はまだたくさんいるはずだ。淀橋浄水場は1898(明治31)年、明治政府が近代国家の威信をかけて、帝都の衛生を改善するために建設した。江戸時代からの玉川上水は明治に入って、自殺の名所となり死体や、塵芥の浮かぶ、とても飲用にはできないほどの汚水となってしまった。、1886(明治19)年には、コレラで10万人の人が亡くなったと言われている。お定まりの「鉄管納入不正事件」で知事が辞職するなどの紆余曲折もあったが、完成した水道は主婦には大歓迎された。消防用水としてもおおいに役だった。1923年の関東大震災、1945年の東京空襲を経て、新宿西口副都心の現在につながつている。
東京空襲の前の1944年に、現在の新宿中央公園のなかにある角筈十二社熊野神社の境内に立った今井金吾は「西の道路向こうを見おろすと、十二社花街の大看板が立ち、貸席など並んでいるが、この辺りがその昔の池の跡。広重はこの池の風景を描いて、『大いなる池ありて、山水自然の絶景なり』と述べている」と書いている。(「詳説江戸名所記」社会思想社刊)
たかが150年ぐらいの間のこの激変。そうであるなら、確固不動に見えるこのビル群も、近々廃墟にならないと誰が保証できるのか。そう考えたら、39階の床がユラリとゆれた。
(2013年4月13日)
本日は、日民協と教科書ネットの共催で、「何をめざすかー安倍政権の教育政策」をテーマとしたシンポジウム。
第1次安倍政権は教育基本法を改悪し、愛国心と競争を煽る教育に道を開いた。第2次安倍政権は「強い日本をとりもどす」ための「教育再生」を重点政策にかかげて、教育を大きく変えようとしている。子どものための教育ではなく、国家のための教育をめざすもの。そして財界の要求する新自由主義の立場からのもの。憲法を改悪して「強い日本」「戦争のできる国」「経済的強者に奉仕する」国づくりと連動させたもの。そして、そのための「人材」養成としての教育。安倍教育政策の内容と問題点を浮き彫りにするための報告は以下の3件。
報告1「安倍政権の教育政策は何がどのように危ないのか」
俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
報告2「安倍政権のいじめ防止対策の問題点」
村山 裕(弁護士・東京中央法律事務所)
報告3「教育制度『改革』の問題点-新自由主義教育改革の新たな段階?」
世取山 洋介(新潟大学准教授)
各報告の全文が、「法と民主主義」6月号に掲載される。その他の関連論文も掲載予定。ぜひ、同誌を講読して熟読されたい。
以下は、本日のシンポジウム資料として配布された自民党選挙政策からの抜粋。昨年総選挙のものだが、恥ずかしながら、ここまで書き込んでいるとは知らなかった。多くを語る必要もあるまい。戦後教育改革の成果を根底から覆そうというのが、安倍教育改革である。
※わが党は、世界トップレベルの学力と規範意識を備え、歴史や文化を尊重する態度を育むために「教育再生」を実行します。日教組の影響を受けている民主党には、真の教育再生はできません。
※『教育基本法』の理念に基づき、「自助自立する国民」「家族、地域社会、国への帰属意識を持つ国民」「良き歴史、伝統、文化を大切にする国民」「自ら考え、判断し、意欲にあふれる国民」を育成します。
※全国学力・学習状況調査を全国一斉の学力テスト(悉皆(しっかい)調査)に戻し、全ての子どもの課題把握、学校・教職員の指導改善に生かします。
さらに土曜授業を実現します。
※国旗・国歌を尊重し、わが国の将来を担う主権者を育成する教育を推進します。不適切な性教育やジェンダーフリー教育、自虐史観偏向教育等は行わせません。規範意識や社会のルール、マナーなどを学ぶ道徳教育や消費者教育等の推進を図るため、高校において新科目「公共」を設置します。
※中学・高校でボランティア活動やインターンシップを必修化し、公共心や社会性を涵養します。あわせて地域に根差した伝統・文化や、スポーツクラブ、サークル活動などの地域の絆を守り、コミュニティを支える取り組みを支援(「伝統文化親子教室」の創設など)します。
※公教育の最終責任者たる国(文部科学大臣)が責任を果たせるよう、『地方教育行政の組織及び運営に関する法律』を改正します。
※小・中学校卒業時における学力評価や高校での達成度試験の実施を図り、確実に学力を身に付けさせます。あわせて、高校在学中も何度も挑戦できる達成度テスト(日本版バカロレア)の創設や、それを前提とした論文、面接、多様な経験重視で潜在力を評価する入試改革など、大学全入時代の大学入試のあり方そのものを検討します。
※大学の9月入学を促進し、高校卒業から入学までのギャップターム(半年間)などを活用した大学生の体験活動(国とふるさと、環境を守る仕事?例えば、海外NGO、農業・福祉体験、自衛隊・消防団体験等)の必修化や、学生の体験活動の評価・単位化を行い、企業の採用プロセスに活用します。
※教育の政治的中立を確保しつつ、自治体の教育行政に民意を反映させ、効率的・迅速に運営する必要があります。首長が議会の同意を得て任命する常勤の「教育長」を教育委員会の責任者とするなど、国と地方の間や、地方教育行政における権限と責任のあり方について、抜本的な改革を行います。
※多くの教科書に、いまだに自虐史観に立つなど、偏向した記述が存在します。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」ための教科書で、子どもたちが学ぶことができるよう、教科書検定制度や、副読本なども含めた教科書採択の構造について、文部科学大臣が各教科書共通で記載すべき事項を具体的に定める等抜本的に改革し、いわゆる「近隣諸国条項」に関しては、見直します。
ところで、新装開店記念のサービスをもう一つ。
『実生(みしょう)のこと』
「実生」とは「種」から芽が出たばかりの小さな草木のこと。種を蒔いて芽が出てくるまで、2年以上かかることもある。挿し木や株分けと比べると気の長い人むきだ。根気がいる。何の気配も見えないただの土をじっと見張って、乾いたら水をやらなければならない。水やりも忘れ、何を蒔いたかも忘れた頃に、ぽちんと緑が現れる。それを発見したときの嬉しさといったらない。親と同じ花や実をつけるとは限らない。そのあと花や実をつけるまでになるのには、またまたうんざりするほどの時間がかかる。親と同じ花や実をつけることはない。そこがまた面白いところだ。
我が明日の命もしれないのに、種まきが好きな人がけつこういる。私も同じ。いま庭をみて、数え上げれば、サンショウ、アボカド、イチョウ(ギンナン)、コナラ(ドングリ)、ウメ、サクラ、ユリノキ、ムベ、フジ、チャ、各種モミジ、各種ツバキ、センリョウ、マンリョウ、クリスマスローズ、各種スミレなどの実生が所狭しと生えている。ほとんどは小鳥のプレゼントだ。アボカドなんかは人間が食べたあとの種を捨て蒔きにしておけば忘れた頃に芽が出てくる。クリスマスローズは花の後、種をそのままにしておけば、根元に実生が生えてくる。
なかにはそうもいかないものがある。手塩にかけたものは自慢だ。ハンカチノキとヤマシャクヤク。ハンカチノキは知り合いにもらった種を10個ほど蒔いて3個芽が出た。そのうち1本だけ鉢のなかで、いま20センチメートルぐらいに育っている。見上げるような大木になるのだから、「育ったのが一本でよかった」と思う。今年は蒔いてから4年目の春。ヤマシャクヤクはもっとかかっている。今春初めて、花嫁さんの綿帽子のような白い花を見せてくれた。6年目の正直。忘れた頃に、という気分でないとつきあえない。6弁一重の可憐な花を見ていると、またこの種を蒔いて、いつか庭中ヤマシャクヤクの園にしようという気がしてくるような、こないような。
どだい実生は丈夫だ。その場所が気に入らない限り、芽を出さないのだから。だから実生を山から抜いてきて、自分の庭で育てるのはほとんど不可能だと思ったほうがいい。種をひろってきて、芽が出てくれれば「ひろいもの」だ。
こんなことを繰り返して、長年猫の額のような庭で楽しんでいるのです。気の長いことで。
東京都庁39階の窓から、丹沢・富士の方角を眺める。本日は、かすんで遠くまでの見通しがきかない。この国の現状を見る思い。近くには巨大な高層ビル、そのむこうには見渡す限りびっしりと小さなビルがひしめき並んでいる。よくもまあ、人は短い間にこんなにもたくさんの建造物を作ったものだろう。
200年前、ここは江戸近郊の景勝地だった。熊野神社のまわりに滝や池があり、茶屋や料亭が建ち並んだ花街だったという。浮世絵「名所江戸百景」や、「江戸名所図絵」に、その情緒が描かれている。眼下に見える新宿中央公園のあたりだ。上から見ると、新緑の木々の樹冠がいろとりどりのブロッコリーを置いたようで、人工的ではあるけれど美しい。
さて、このどこまでも広がっている東京都、そしてこの居心地の悪い東京都庁のトップを選任する選挙があったのは、つい4ヶ月前のこと。教育委員会への用事のついでに、初めて都の選挙管理委員会に行ってみた。まずは、総選挙における東京3区・石原宏高候補の選挙運動費用収支報告書を閲覧し謄写の申請をする。ついでに、4か月前の東京都知事選挙における猪瀬直樹、松沢成文、宇都宮健児各候補の報告書も閲覧してきた。3候補の報告書いずれも私には初見で、興味深くもあり驚ろかされるものでもあった。
権力を有している者には国民に対する説明責任があり、情報公開の義務がある。情報公開の制度化は、近年国民が勝ち取ってきた輝かしい成果のひとつである。これから権力者たらんとする公職選挙の候補者についても同じこと。誰からどのように集めた金を、どのように使って選挙を行ったかに関しては、透明性の高い正確な情報公開が必要である。それなくして、腐敗した金権選挙を防止することができない。
公職選挙法は金銭面からの選挙浄化のために、すべての候補者に選挙運動費用収支報告書の作成と選管への提出を義務づけ、選管が受理した日から3年間保存して、「その期間内においては何人もその閲覧を請求することができる」と定めている。権利は行使しなければ錆びついてしまう。大いに閲覧請求をして、市民の目を金権腐敗一掃のために生かさねばならない。
閲覧の場所は都庁第一本庁舎の39階。都選管事務局に申し込めば、誰でも即時に収支報告書の閲覧ができる。もちろん無料。身分証明も印鑑も不要。職員は親切で、嫌がった顔などしない。もっとも、閲覧だけでなくコピーを申請すると、1枚30円の費用を要する。この費用の低額化がこれからの課題。なお、政治団体の政治資金収支報告書の方は、既にインターネットでの公開が実現している。
石原宏高議員の選挙の収入合計は13,413,515円。その内訳は、1300万円までが自民党支部からの寄付。あとの41万円余が個人献金である。この1300万円の中に、税金が変身した政党助成金が資金源となっていると思うと不愉快極まる。
支出は10,843,382円。収支報告書を眺めているだけでは、公選法違反も賭博業者との癒着も見えてこない。報道されていたとおり、人件費欄の事務員の住所として、「東京都大槻市」という記載の不自然に気付くくらいがせいぜい。「墨田区押上」の住所地がスカイツリーであるなどと不自然さを見破った赤旗の記者はたいしたもの。他の情報との突き合わせをしないと違法をあぶり出せない。謄写を申請したので、手許に届いてからじっくりと検証してみよう。
ところで、都知事選3候補の収支報告の感想については、次の機会の記事としたい。
(2013年4月11日)