澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

官邸とNHK経営陣に抗議を。放送現場の良心に激励を。

今、ジャーナリズムが最も関心を寄せるべきテーマとして衆目が一致するところは、安倍内閣による集団的自衛権行使容認以外にはない。曲がりなりにも戦後続いた平和を危うくして、国と国民の命運を変転させかねない重大な内容もさることながら、立憲主義をないがしろにしている点でも、行政の継続性の観点からも、国民への説明責任を尽くすことなくあまりにも性急にことを運んでいる点でも、ジャーナリズムが最大級の関心を持って取りあげるべきは当然である。

そして、まっとうなジャーナリズムであれば、権力批判の視点を持たねばならない。「政府が『右』と言っているものを、『左』と言うわけにはいかない」では、ジャーナリズムとしては失格。こんな姿勢のメディアは、報道機関と言うに値しない。政府広報部門に等しく、「大本営発表」の伝声管に過ぎない。権力に畏怖しない毅然たる態度で事実を糺してこそ、ジャーナリズムでありジャーナリストではないか。

NHKの経営陣が安倍人事によって籠絡され、ジャーリストとしての矜持を捨て去っていることは既に天下周知の事実となっている。しかし、現場までが一色に塗りつぶされているわけではない。多くの良心的な職員が重苦しい雰囲気の中で、精いっぱいの努力をしていると理解してきた。その努力が、実るのか押し潰されるのか、象徴的な事件が、7月3日に放送された『クローズアップ現代』の官房長官インタビューを舞台に生じているという。

本日(11日・金曜日)の主要紙朝刊に、講談社の「FRAIDAY」の広告が掲載されている。そのトップに「安倍官邸がNHKを『土下座』させた一部始終」とある。「国谷キャスターは涙した‥」と付記されてもいる。小さく「『クローズアップ現代』で集団的自衛権について突っ込まれた菅官房長官側が激怒。‥」との説明。集団的自衛権の問題としても、NHK問題としても、これはただごとではない。見過ごせない。

「FRAIDAY」を入手して目を通してみた。2頁だけの短い記事だが、「官邸・経営陣・現場」をめぐるNHK問題を浮かびあがらせている。

「FRAIDAY」の記事を引用する。
「この日の『クロ現』は、菅義偉官房長官(65)をスタジオに招き、「日朝協議」と「集団的自衛権の行使容認」について詳しく聞くというものだった。官房長官がNHKにやって来る??局には緊張感が漂っていたという。「菅さんは秘書官を数人引き連れて、局の貴賓室に入りました。籾井会長も貴賓室を訪れ「今日はよろしくお願いします」と菅さんに頭を下げていました。その日の副調整室には理事がスタンバイ。どちらも普段は考えられないことです」(NHK関係者)

官房長官は、政府公報機関に出向いたつもりだったのだろう。ところが、ほんの少々だが、あてがはずれたようだ。現場には、政府公報機関意識が乏しく、ジャーリストとしてのプライドが残っていたからだ。

FRAIDAYは、「『他国の戦争に巻き込まれるのでは』『憲法の解釈を簡単に変えていいのか』 官房長官が相手でも物怖じしないしない国谷氏の姿勢はさすがだった」と評している。

「だが、直後に異変は起こった。秘書官がNHKにクレームをつけたという。」「そして、数時間後再び官邸サイドからNHK上層部に、『君たちは現場のコントロールもできないのか』と抗議が入ったという。局上層部は『クロ現』制作部署に対して『誰が中心となってこんな番組作りをしたのか』『誰が国谷に「こんな質問をしろ」と指示を出したのか」という。『犯人捜し』まで行ったというのだ。」

貴重な報道である。官邸は、NHKに「君たちは現場のコントロールもできないのか」と不満をぶつけてよいと思っているのだ。NHK経営陣は、毅然とこれに抗議して現場の良心的職員を守ろうという気概はカケラもない。右往左往するばかり。いや、官邸の意を酌んで現場を締め上げているのかも知れない。

大切なことは、官邸とNHK経営陣に抗議すること。NHKの現場の良心を励ますことではないか。「国民は、その国民にふさわしい政府を持つ」という。「国民は、その国民にふさわしいメディアを持つ」とも言えよう。発言しなければ、NHKを再びの大本営伝声管にしてしまう。

さっそく、知人がメールで抗議・要請先を教えてくれた。番組専用サイトへコメントを送信するには、次のURLを開き、「コメントを投稿する」をクリックすると、コメント送信用の画面が出てくるそうだ。ぜひ、ものを言おう。
http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/192625.html#comment
(2014年7月11日)

安倍改憲策動を阻止するために

本日は、神保町の東京堂で、現代書館発行「前夜」の販売促進キャンペーン。著者である私と梓澤和幸君と岩上安身さんのトークセッション。そして、お客様へのサインセール。

私にとっては慣れないことばかり。普段とは別の世界にあるごとくで、調子の出ないこと、この上ない。冒頭に20分の発言の機会を与えられたが、舌がうまく回らない。だいたい、こんな趣旨のことを喋ったはずなのだが‥。以下はうろ覚えの内容。

この本は、自民党改憲草案の全条文を読み解こうという企画として、12回(あるいは13回?)もトークを重ねたもの。その結果、自民党の本音としての全面的な改憲構想をお伝えできたのではないだろうか。2012年4月に当時は野党だった自民党がつくった草案の実現性は考えられなかった。露骨に本音をさらけだしたものだと思っていたが、同年12月の総選挙で安倍自民が政権を奪取するや、その後今日までの進展は、この改憲構想が現実のものになりつつあるとの感を否めない。悪夢が、正夢であったかという印象。

現在進行している「安倍改憲策動」(あるいは、「『壊憲』策動」)とはいったい何なのか、そしてこれをどう阻止できるかについて考えている。

安倍改憲策動の基本性格は、「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」というスローガンによく表れている。その主たる側面は、戦前のレジームである軍事大国化ということであり、復古的なナショナリズムの昂揚にある。しかし、それだけではない。グローバル企業に自由な市場を開放し、福祉において自助努力を強調し、格差拡大・貧困蔓延を厭わない新自由主義に適合する国家のかたちを目指すものとなっている。新旧ないまぜの「富国強兵」路線というべきではないか。

注目すべきは、安倍改憲策動の全面性である。9条改憲をメインとしつつも、それに限られていない。文字通り、「レジーム」の全構造と全分野を変えてしまいたいということなのだ。

教育分野における「教育再生」政策、メディアの規制としての特定秘密保護法の制定そして人事を通じてのNHKの改変問題。さらに、政教分離・靖国問題、福祉、介護、労働、地方自治、農漁業等々の諸分野で、安倍改憲策動が進行しつつある。

最も重要な分野における情報独占と取材報道の萎縮を狙った特定秘密保護法が強引に成立してしまった。教育の自由と独立は徹底して貶められようとしている。歴史修正主義が幅を利かせている。労働法制も税制も、限りなく企業にやさしいものとなりつつある。農漁業はTPPで壊滅的打撃を受けようとしている。福祉も介護も、経済原理に呑み込まれようとしている。

このような安倍改憲策動の手法は、解釈改憲の極みとしての集団的自衛権行使容認閣議決定に表れている。しかし、閣議決定だけで戦争はできない。これから自衛隊が海外で戦争することに根拠を与えるいくつもの個別立法が必要になってくる。そのときに、国会の論戦に呼応して、院外の世論が大きく立ち現れなければならない。

安倍改憲策動の目論見は、解釈と立法による事実上の改憲のみとは考えがたい。当然のこととして、あわよくば96条先行改憲を突破口とする明文改憲も、なのである。改憲手続法の整備はそのことをよくものがたっている。

安倍改憲の担い手となる改憲諸勢力の中心には、安倍自民党がいる。これは、かつての保守勢力ではない。保守本流と一線を画した自民党右派ないしは右翼の政党と言わねばならない。そして、「下駄の雪」とも、「下駄の鼻緒」とも自らに言い続けて来た与党公明党。そして維新やみんななどの改憲派野党。

これらの院内改憲勢力は見かけの議席は極めて大きい。しかし、院外の国民世論の分布とは大きく異なった「水増し・底上げ」の議席数である。これを支えている小選挙区制にメスを入れなければならない。

さらに、院外では右派ジャーナリズム、街頭右翼、ネット右翼などがひしめいている。

改憲に反対する勢力は、重層構造をなしている。旧来の「護憲勢力」といえば、議会内では共・社の少数。しかし、国民世論の中では議席数をはるかに上回る影響力を持っている。これに、旧来の「保守本流」を、非旧来型の護憲勢力に加えてよいだろう。それなくして国民の過半数はとれない。この人たちは、防衛問題では「専守防衛路線」を取ってきた。集団的自衛権行使の容認を認めない保守の良識派は、重要な護憲勢力のとして遇すべきである。

これに、立憲主義擁護重視派も仲間に加えなければならない。この立ち場は、けっして手続さえ全うすれば改憲内容は問わないという人々のものではない。安倍内閣の改憲手法批判にとどまらず、内容においても憲法原則からの安倍改憲批判をすることになる。

安倍改憲策動が全面的であることから、これに対する反撃も全面的にならざるを得ない。脱原発・反TPP・教育・秘密法廃止・NHK問題・反格差反貧困などの諸分野の運動を糾合して、改憲阻止の運動に結実させる意識的な努力が必要となっている。

いま、いくつもの世論調査が、安倍内閣の支持率急落を示している。各分野での運動の成果がようやく表れつつあるのではないか。私自身も、できるだけの工夫と努力をして、大きな運動のささやかな一端を担いたいと思っている。
(2014年7月10日)

午前9時10分 研修センター正門前で

東京君が代訴訟弁護団の澤藤です。本日の服務事故再発防止研修受講者に代わって、教育庁の研修課長と本日の研修を担当する東京都教職員研修センターの職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。

まずは、都教委に対する厳重なる抗議を申しあげねばなりません。

本日の研修は、本来まったく必要のないものです。

不当な命令に屈せず、自らの思想を守り抜く決意のもと、自覚的に「日の丸・君が代」の強制を拒否した教員に対する「再発防止研修」とは、いったいどういう意味をもつものでしょうか。

それは、「日の丸・君が代」の強制を拒否する教員の思想の転向を求めるためのものであるか、さもなくば信念を貫いた教員に対する嫌がらせを通じて、次の機会からは心ならずも強制に屈する選択をさせるための手段のどちらかでしかありません。

周知のとおり、日本国憲法は「思想・良心の自由」を保障した憲法19条という他国には稀な1か条を創設しました。内心の自由を保障したこの条文は、わが国の精神史における思想弾圧の歴史を反省した所産だと言われています。つまりは、キリシタンへの踏み絵を強要した江戸幕府のやり口、神である天皇への崇拝を精神の内奥の次元にまで求めた天皇制政府の臣民に対する精神支配の歴史に鑑みて、「内心の自由」の宣言が必要と考えられたのです。

大日本帝国憲法から日本国憲法への鮮やかな大転換の根底にあるものは、国家よりも、天皇よりも、一人ひとりの国民の尊厳が大切なのだという、人権思想にほかなりません。

国家の象徴である「日の丸・君が代」を、国民に強制するということは、まさしく国家の価値を、国民個人の尊厳や精神の自由という価値の上に置くものと言わざるを得ません。国民が主人で、国家はその僕、あるいは国民に使い勝手のよい道具に過ぎません。にもかかわらず、国旗国歌に敬意の表明を強制するなどは背理であり、倒錯というほかはありません。国民一人ひとりが、国家との間にどのようなスタンスを取るべきかは、憲法が最も関心を持つテーマとして、最大限の自由が保障されねばなりません。

その意味では、日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為なのです。

都教委は、懲戒処分の機械的累積加重システムによって抵抗する教員を封じ込めることができると思い込んでいました。しかし、行政に甘いことで知られる最高裁も、さすがにこれは違法と認めました。私たちが、思想転向強要システムと呼んだ不起立回数が増えれば自動的に処分量定が加重されるという方式はとれなくなった。

その代わりとして考え出されたのが、被処分者に対する服務事故再発防止研修の厳格化ではありませんか。回数を増やし、時間を長くし、密室で数人がかりでの糾問までしている。また、校内研修もくり返し行われる。今や、研修という名の嫌がらせが、思想弾圧の主役になろうとさえしている。

私たちは、厳重に抗議します。
10・23通達を撤回せよ。職務命令も処分もやめよ。
そして、服務事故再発防止研修という名の嫌がらせも止めよ。

次に、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。

本日の研修命令受講者は、形式的には、非違行為を犯して懲戒処分を受けた地方公務員だ。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき教員なのです。そのことを肝に銘じていただきたい。

それに引き換え、あなた方、研修センターの職員は、どんな立ち場にあるのか。よくお考えいただきたい。あなた方は、踏み絵を強要した幕府の役人と同じ質のことを今日やろうとしている。治安維持法に基づき「国体を変革し、私有財産を否定する」思想を取り締まった特高警察と同質のことをしようとしている。権力の手先となって、思想弾圧をしようとしているのがあなた方だ。忸怩たる思いをもっていただきたい。恥ずかしいと思っていただかなくてはならない。

ぜひ、尊敬すべき研修受講者に対して、敬意をもって接していただきたい。決して、侮蔑的態度をとってはならない。

本日の研修が、研修受講者の思想信条に踏み込むものとなれば、また、受講者の人格を傷つけるようなことになれば、日の丸・君が代強制だけでなく、研修の在り方そのものの違法が法廷で争われることにならざるを得ません。そのときは、今日のあなた方の一挙手一投足が問題とされることになる。

あなたの良心に期待したい。ぜひとも、心して、研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう、要請いたします。
(2014年7月9日)

「本郷・湯島九条の会」定例街頭宣伝

昼休みの時間をお借りして、地元市民の集まりである「本郷・湯島九条の会」が、平和を守るための街頭宣伝活動を行います。みなさま、是非、耳をお貸しください。配布のビラをお読みください。

私たちは、日本国憲法を、わけてもその第9条を、この上なく大切なものと考えて「9条の会」を結成し、これを守り抜こうと社会に訴えています。

9条を守り抜くということは、9条が持っている平和の理念を輝く現実にし、近隣諸国との平和な友好関係を打ち立て、さらに世界の全体から戦争の原因を取り除いて恒久の平和を実現しようというロマンにあふれた壮大な試みです。ぜひ、みなさまにも、ご参加いただくようお願いいたします。

私たちの立ち場とは正反対に、9条を邪魔な存在と考え攻撃している人たちがいます。その先頭に立っているのが、憲法を守るべき立ち場にあるはずの安倍晋三という総理大臣。彼は、憲法9条に象徴される「戦後レジーム」からの脱却を呼号し、憲法9条のない時代の軍国の「日本を取り戻す」と言っています。彼のいう「積極的平和主義」とは、自国の軍備を増強し、戦争も辞せずと他国を威嚇して作り出される「平和」にほかなりません。最大限の軍備と威嚇が抑止力となって「平和」を築くのだという、9条の精神とは正反対の考え方なのです。

彼の執念は憲法9条を「改正」して、日本が世界の大国に伍する堂々たる本物の軍隊をもちたいということなのです。頭の中に思い描く近未来の日本の姿は、軍事大国としての威風堂々たる日本。そのことは、2012年4月に発表された「自民党・日本国憲法改正草案」に露骨に表現されています。

9条改憲を最終目標として、安倍内閣が最初に目論んだのは、憲法改正手続を定めた96条の改憲でした。改憲手続要件のハードルを下げておいて、改憲を実行しようという手口です。誰が見ても、堀を埋めて城を攻めようというもので、9条改憲のための96条先行改憲。96条改憲の先に9条改憲が見え見えなのです。

安倍内閣は、野党の一部を捲き込んでの96条先行改憲に自信満々でした。しかし、世論はこれにレッドカードを突きつけました。「自分に不利だからといってプレーヤーがルールを変えてはならない」「汲々たるやり口が姑息この上ない」「正門から入らずに、裏口から入学しようというごときもの」。悪評芬々。あらゆる世論調査の結果が反対多数で、安倍政権は96条先行改憲の策動をあきらめて撤回しました。彼は緒戦に敗北したのです。

しかし、彼らはあきらめませんでした。「明文改憲が無理なら、解釈改憲があるさ」というのです。憲法の条文には手を付けることなく、内閣だけで条文の解釈を変更して、実質的に96条の手続を省いた改憲をやってしまえ、と動き始めました。

96条先行改憲も、明文改憲である限りは、国民の意思を問う手続を経なければなりません。しかし、解釈改憲ならその手続きは不要です。国会での議論も、野党の意見を聞く必要すらない。強引にできることなのです。

こうして、自・公両党に支えられた安倍政権は、7月1日集団的自衛権行使の容認を認める閣議決定に踏み切りました。これは、憲法9条を深く傷つける暴挙です。私たちは、満身の怒りをもって抗議せざるを得ません。

集団的自衛権とは何であるか。日本が攻撃されていなくても、どこか他国が攻撃されたら、そのケンカを買って出る権利です。他国の紛争に割り込んで、戦争をしかける権利というしかありません。そんなことは、憲法が許しているはずはない。

憲法9条2項には、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と明記されています。日本は「戦力」をもつことはできないのです。1954年にできた自衛隊は、「戦力」ではない、とされてきました。だから、憲法違反ではないというのです。

これまでの政府の解釈は、「憲法は国の自衛権を認めているはずだ。自衛に徹する実力は『戦力』に当たらず、違憲の問題は生じない」というものです。専守防衛に徹することによって、自衛隊の合憲性を説明してきたのです。それは、「絶対に、自衛以外の武力の行使はしない」から合憲という論理であって、当然に「自衛以外の武力の行使はあり得ない」「他国のために戦うことはできない」とされてきたのです。

これを180度変えて、集団的自衛権の行使容認となれば、日本を攻撃する意図のない国に対して、こちら側から先に武力を行使することがありうることになってしまいます。安倍首相は、記者会見で「外地から帰国する日本人が乗せてもらっている米軍の艦艇が攻撃を受けた場合に、日本が一緒に応戦しなくてよいのか」と述べました。これは驚くべき発言ではないでしょうか。

「米軍の艦艇が攻撃を受けた場合に、日本が一緒に応戦したら」いったいどうなるというのでしょうか。日本は戦争に中立国としての地位を失って戦争当事国となります。米国の艦艇に武力を行使した側の軍と戦争状態となるわけですから、日本の全土が攻撃されるおそれを覚悟しなければなりません。全国54基の原発も標的とされることを覚悟で集団的自衛権の行使に踏み切りますか。これまでは、殺し殺される自衛隊ではなかった。これからは殺し、殺される自衛隊となります。本当にそれでよいのか、国民に信を問わずして、そんなことをやって良いのか。

憲法とは、本来が権力者にとって邪魔なものなのです。憲法を縛る存在であり、為政者はこれに縛られなければならない。ところが、その縛りを不都合として取っ払ってしまえというのが、解釈改憲なのです。憲法をないがしろにするにもほどかある。立憲主義の否定であり、法の支配の否定でもある。

安倍内閣の7・1閣議決定は、まさしく掟破りの立憲主義の否定以外の何ものでもありません。安倍内閣はかつてない危険な政権と言うほかはありません。安倍首相は、即時に退場させなければなりません。

自民党と公明党に支えられた安倍内閣は今焦っています。彼らの議席は、小選挙区制のマジックによって水増しされた「上げ底」の議席であることを自覚しているからです。しばらく国政選挙のない今のうちに、やれるだけのことをやっておけ。あわよくば、憲法9条を壊してしまえ。これが安倍内閣の基本戦略というべきでありましょう。

今、あらゆる世論調査が、集団的自衛権行使容認の閣議決定についての国民の大きな不安を示しています。安倍内閣の支持率は急速に低下しています。それでも、安倍内閣は7・1閣議決定に沿って、集団的自衛権を行使して海外で戦争のできる自衛隊とするための法案つくりを進めようとしています。

みなさま、ぜひ、私たちとご一緒に、9条を守れ、平和を守れ、集団的自衛権反対、閣議決定を撤回せよ、集団的自衛権行使を現実化する全ての法案に反対、という声を上げてください。

今なら、まだ声を上げられます。このまま、事態が進行すれば、だんだんと声を上げることすらできなくなります。あらゆる戦争へのたくらみに反対する声を、ご一緒に上げていこうではありませんか。

本日の街宣中に、本郷4丁目にお住まいのご婦人が、9条の会への入会を申し出られた。もしかしたら、次回も‥。その次ぎも‥。毎回ひとりづつ‥、いや2人、3人もあり得るかも‥。
(2014年7月8日)

77年目の7月7日

本日7月7日は盧溝橋事件勃発の日として記憶に刻しなければならない日。今年は、1937年の日中全面戦争開始から77年目の記念日だという。

北京城外の永定河にかかる盧溝橋は、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で、世界一美しいとした橋。乾隆帝の筆になる「盧溝暁月」の碑とともに有名なこの橋の傍らで、醜悪な戦争のきっかけとなる事件が起きた。

7月7日夜に生じた、支那駐屯日本軍と中国軍の小競り合いは、同月11日の午後に現地では停戦協定が成立して紛争は終熄するはずだった。ところが、その同じ日に、近衛文麿内閣は閣議で河北への派兵を決定して、日中全面戦争への引き金を引いた。このときの派兵目的は「威力の顕示」であったという。

閣議決定のあった11日夜、近衛は、政界人、財界有力者、新聞通信関係などの言論界代表を首相官邸に集め、みずから政府の決意を披瀝し、挙国一致の協力を要請した。これを受けて、翌日の東京日々新聞は、「反省を促す為の派兵」との大見出しを付けて、「戦争拡大が挙国一致の方針である」ことを報じている。

にもかかわらず、近衛の真意は戦争不拡大にあったという。後にその手記でこう、言い訳じみたことを語っている。
「この日支事件というものは、わたしの第一次内閣の時に起こったものではあるが、組閣後わずかに1か月して突発した事件ではあり、しかも、それが軍機に関係しているので、政府といえども立ち入った意見を述べることができない。そういう事情にあったため非常にやりにくかった。その上、陸軍の内部には統制派、皇道派というような派閥があり、また陸軍省と参謀本部との間にも意見の対立があって、一方は思い切り支那を叩こうとし、一方は、支那よりも他の国に力点を置いているというようなわけで、軍の方針がまちまちであったことも更に事変の解決を困難なものとした」(「昭和の歴史・日中全面戦争」藤原彰)

なんと無責任な首相と軍、そして無責任体制の産物としての派兵の閣議決定。「軍機に関係しているので、政府といえども立ち入った意見を述べることができない」の「軍機」は、いま、「特定秘密保護法」と読み替えねばならない。

そして77年後の今日、盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館で開かれた記念式典で習近平国家主席が、こう演説した。

「日本の侵略者の野蛮な侵略に対し、全国の人々が命を省みず、偉大な闘争に身を投じた。今も少数の者が歴史の事実を無視しようしているが、歴史をねじ曲げようとする者を中国と各国の人民は決して認めない」(朝日)

また、中国の抗日戦争を「世界反ファシズム戦争の東の主戦場」と位置づけたとも報じられている。まことに真っ当な内容と肯かざるを得ない。

また、ロイター通信によれば、中国の李克強首相が7日、訪中しているドイツのメルケル首相や記者団に向け、「国民が常に心にしっかりと留めておくべき日」とした上、「日本の軍国主義者らが始めた大規模戦争に直面し、中国の人民は全力で立ち上がり、抵抗した」「われわれは過去に敢然と立ち向かうために、常に歴史を思い出す必要がある」と述べたという。

李首相には、第2次世界大戦後の責任のとりかたに関して、日本とドイツとの比較の視点があったのだろう。

本日、七夕の日でもある。夜分星は見えず、牽牛と織女の逢瀬は無理なようだ。大型台風の接近さえも予報されている。日中間の天の川に、晴れて鵲の橋がわたされるのはいつのこととなるのだろうか。
(2014年7月7日)

安倍「壊憲」内閣を打倒するために

昨7月5日に、日本民主法律家協会第53回定時総会が開催された。
同総会で退任の渡辺治理事長と、新たに就任する森英樹新理事長との両「トップオピニオンリーダー」が、並んで憲法情勢に見解を述べた。はからずも、7月1日閣議決定直後のこの時期にである。

渡辺治さんは、短いスピーチで、鮮やかに語った。以下は私が理解した限りでの要約。
「安倍政権は、かつてない全面的な軍事大国化と新自由主義改革の政権として特徴付けられる。まずは、解釈改憲によって海外での武力行使容認に踏み切った。それにとどまらず、明らかに明文改憲までを狙っている。改憲手続き法の整備によって、その舞台は整っている。さらに、政権がやろうとしている、消費増税、TPP、医療・介護の制度改革、労働法制の改変等々は、強い国を作るための強い経済を作ろうとするもの。そして、新自由主義の経済を支える人材の養成にふさわしい教育政策が企図されている。

しかし、安倍政権の強引な手法が、決して思惑のとおりに進行しているわけではない。一強多弱という国会情勢にあっても、大きなスケジュールの遅滞を来しているだけでなく、その内容においても譲歩を余儀なくされている。

その最も大きな要因は、9条の会に典型的に見られるような、従来の護憲派の枠を踏み出た社会的なレベルでの共同行動の進展である。また、特定秘密保護法反対運動のなかで盛り上がった反安倍の声は、広範なジャーナリズムにも、保守の一部にも浸透した。それが、いま、集団的自衛権問題でも声を大きく声を上げ続けている。

今後はこの社会的共同を、政治的な共闘に結集して行動に結実することが課題となる。その萌芽はすでに見え始めている。

その中で弁護士・研究者ら法律家の役割は大きい。どこの地域でも改憲阻止・生活を守る運動を支えている。日民協は他の法律家諸団体ともに、理論面でも実践面でも、全面的な憲法擁護の運動の先頭に立とう」

森英樹さんは、「改憲阻止の国民的共同を求めて」とする理事長就任の記念講演を行った。いつものことながら、聴衆に対するサービス満点。洒脱な語り口ながら、安倍「壊憲」路線に対する批判は容赦ない。その講演の全文は、次号の「法と民主主義」に掲載される。

注目したのは運動論の部分。今、安倍内閣の集団的自衛権行使容認を批判する多様な意見のグループがあるとして、その国民的共同の必要性を説いたところ。以下は、私の理解の限りでの紹介。もっとも、私の紹介では森さんらしさが生きてこないのだが。

森さんは、渡辺治さんの用語を借りたとして「重層的共同」が必要だと表現した。
重層の基底に、?憲法9条の原点である「軍事によらない平和」を主張する立ち場からの批判がある。このグループは、自衛隊の存在自体を違憲とし、日米安保も違憲とする。
別の層として、?自衛隊の存在を合憲とし個別的自衛権としての武力の行使を認め日米安保も容認するが、集団的自衛権行使容認には反対の見地からの批判がある。いわば専守防衛に徹すべしとして、これまでの政府見解を変えてはならないとする立場。
また、?憲法改定の手続を回避した解釈改憲には反対という意見のグループもある。この立場は、仮に集団的自衛権行使容認の改憲手続きが進行した場合、改憲案に賛成なのか反対なのか態度は分からない。
さらに、?今回の閣議決定手続が、拙速に過ぎ、国民的同意を欠如しているなどという批判や反対の意見もある。これも、「丁寧に閣議決定がされた」時は賛成するのか反対なのか分からない。

大切なのは、これらのさまざまな意見のグループ間の自由な意見交換を可能とする「熟議のフォーラム」を作りあげること。それぞれの意見について、十分な相互検証を行うことによって、初めて国民的共同の基盤をつくることができるだろう。そのとき、沖縄の『命どぅ宝』というスローガンを各グループに共通する基底の思想とした国民共同が成り立ちうる。」

なお、フロアーからの発言で、新井章さんが、印象に残る次の趣旨の発言をされた。
「我々は、9条の美しさだけを語って、民意を説得するに足りる平和構築の戦略を語ってこなかったのではないか。今回の、中国や朝鮮・韓国との軋轢を梃子にした安倍内閣のやり口を見ていると、その虚を突かれた感がある」

なるほど、言われてみればそのとおりなのかも知れない。「9条に基づく平和構築の戦略」を、「民意を説得するに足りる」レベルに練りあげることは、容易なことではなかろうと思う。

そのためには、まずは「熟議のフォーラム」で上記各グループの違った立ち場の人々との真摯な意見交換から出発するしかないのだろう。共同・共闘とは難しいものだが、安倍政権を打倒する国民運動の力量はそこからしか生まれてこない。
(2014年7月6日)

特攻隊員顕彰施設と靖国神社

わが国が集団的自衛権の行使を容認するとなれば、自衛隊は仮想敵とのシミュレーションをするだけではなく、現実の敵軍と交戦することになる。当然に、生身の人間の血が流れる。殺し、殺されることを覚悟しなければならなくなる。

自衛隊員が戦闘死したとき、どのように追悼の儀礼をするかが現実の問題となってくる。具体的には、「靖国神社に祀るべきだ」という議論が必ず起こってくる。これにどう対応すべきか。差し迫った問題となってくる。つまり、靖国問題とは、過去における軍国日本の歴史認識に関わるだけの問題ではなく、近未来の軍国日本の設計にも深く関わってもいるのだ。

もちろん、憲法20条3項(政教分離)の視点からは神式の葬儀も、戦没自衛隊員の靖国合祀など本来あり得ない。ましてや、憲法9条違憲の疑いが限りなく濃厚な海外の戦闘での戦没者についてのことではないか。しかし、「憎むべき敵の手によって犠牲となった同胞の霊」の取扱いに関する国民感情はセンシティブに過ぎてその赴くところを予想し難い。この国民感情の暴発が憲法の視点を吹き飛ばしてしまうことも、決してあり得ないではない。

だから、好戦安倍内閣が靖国参拝にこだわる必然性があり、時代の雰囲気がキナ臭くなるとともに靖国が注目されることになる。

なお、来年8月で敗戦70年となる。あちらこちらで、そのことを意識した回顧や記念の企画が進行を始めている。毎日新聞は、長期連載「戦後70年に向けて」を開始している。その最初のシリーズのタイトルが「出動せず」。創設60周年の自衛隊で何度か検討された治安出動が、結局命令されなかった背景を解説したもの。そして、その第2弾が「いま靖国から」。戦後70年を経たいまを考えるに際して、靖国問題を避けては通れないということなのだ。

本日がその連載の第25回。「修学旅行の『新顔』台頭」という見出し。連載は、ここ数回特攻死に対する評価をめぐる問題を取りあげており、特攻隊員顕彰施設への修学旅行が増加していることを報じている。

「戦後の学校で平和教育といえば、戦争の悲惨さを知って『二度と戦争をしてはならない』と学ぶことだった。広島・長崎・沖縄が修学旅行の名所となったのも、被爆と沖縄戦が究極の戦争体験だったからだろう。

 しかし、広島・長崎への修学旅行は戦後50年(95年)をピークに減少期に入った。総数は及ばないが、21世紀に台頭したのが広島県の呉市海事歴史科学館『大和ミュージアム』と知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)である。大和も帰還予定のない戦艦特攻だった。特攻が、原爆や地上戦に代わる平和教育の『主役』になろうとしているかのようだ。

 特攻の展示が強調するものは、理不尽・悲惨・人道・反戦よりも、純粋・勇敢・忠誠・殉国・美・愛である。出撃地は、隊員のりりしい笑顔、白いマフラーや花や人形で飾られ、乱れのない美しい遺書が整然と並ぶ。むごい死に様は遠い海のかなた。清らかな「聖地」で説く道徳的な戦争は、子どもたちに平和へのどんな意志を植え付けるだろうか。」

現実の戦争は理不尽で悲惨極まるものである。広島・長崎・沖縄は、その理不尽と悲惨とを象徴する場所。その現地での悲惨の追体験は、戦争を絶対悪とする人道を培い、再びの戦争を忌避する強い反戦の思想と感性を育むことになるだろう。

しかし、「特攻遺跡」の見学において展示によって強調されるものは、理不尽や悲惨よりは、純粋・勇敢・美・愛などの美徳であるという。子どもたちに植えつけられるものは、戦争を悪とする人道や反戦意識ではない。殉国の美しさであり、国家ないしは共同体への忠誠を道徳として内面化することである。

実は、特攻に限らない。軍人軍属の戦没者を合祀する靖国神社の思想が、このとおりなのである。戦死を理不尽で悲惨なものとしてはならないというのが、靖国の理念である。現実の戦争が、いかに理不尽で悲惨極まるものであっても、英霊となって天皇の神社に祀られた以上は、純粋・勇敢・美・愛などの美徳で飾らねばならない。ここは、死者を追悼する場ではなく、死者を顕彰する場なのだ。決して、戦争を悪とする人道や反戦意識を培ってはならない。むしろ意識的に狙っているのは、殉国の美しさであり、国家ないしは共同体への忠誠を道徳として内面化することなのだ。

同じものも、見方で訴えるものが違ってくる。戦争の遺品の展示は、展示の仕方次第で戦争の悲惨を語りもし、また純粋にして勇敢な兵士の英雄的行為を語りもする。

わが国が戦争というカードを切る権利を公言し、政策の選択肢として戦争を排除しないことを明確にしつつある今日、戦死者がでたときの準備の一環としても、また軍国主義的気風を育てるためにも、靖国は重要な役割を演じることになる。

やはり、修学旅行先は、正しく選ぼう。戦争の栄光やロマンを追ってはならない。自己犠牲を英雄視してもならない。広島、長崎、沖縄、そして東京大空襲の悲惨の実態をこそ学ばねばならない。あるいは、東京夢の島の「第五福竜丸展示館」に足を運ぼう。戦争や核の醜さ悲惨さと、これを繰り返すまいとする人道と反戦の営みに接することができる。
(2014年7月5日)

200人の「怒りのメッセージ」から

数日前、「『6・1怒りの大集会』プログラム・メッセージ集」と標題した、B4・25ページほどの小冊子の郵送を受けた。

6月1日(日)に、「集団的自衛権行使の合憲化を許すな!」「憲法改悪反対! 安保強化・原発再稼動を許すな!」というメインスローガンの「大集会」に寄せられた200名ほどのメッセージを掲載したもの。主催者のアイデアと手間を惜しまない姿勢に敬意を表したい。

これだけの数の手書きのメッセージが並べばなかなかの壮観。個性にあふれたメッセージから、それぞれの人の熱気が伝わってくる。

多くの著名人の名も連ねられている。
「安倍政権の傍若無人の悪政に対し、腹の底から怒っています。この政権の早期の打倒のために力を合わせましょう」(池内了)
「敗戦の時小学二年生。つくづく戦争はいやだなと思いました。日本の政治は年々と悪くなっていくようです」(石川文洋)
「人生は名詞ではなく動詞であると、誰かが言っています。動きましょう。わたしたちも。」(落合惠子)
「憲法9条があったからこそ日本は六九年間、どこの争いにも捲き込まれず来たのです。だから、守っていかねば時代に申訳ありません」(小山内美江子)
「日本は暴走を繰り返して危ない。市民が結束して食い止めねば取り返しがきかなくなる。」(大田昌秀)
「次に来るもの、それは、徴兵制の復活」(小林亜星)
「武器を持たないのは 勇気があるからだ」(ジェームス三木)
「国民の声を無視し、安倍政権はあらゆる手を使って私たちを戦争の道へ引きずりこもうとしています。このすべてに絶対反対します」(高畑勲)
「まだ戦争やりたいんだって? 戦争を知らない人間は困ったもんだ。もう一度日本が壊滅し、日本列島が住めなくなるのを見たいんならやってみろ」(田中克彦)
「安倍内閣の一連の政策が国民多数の意思に反していることを具体的なかたちで示さなければなりません。6・1大集会の成功を期待します」(西谷敏)
「安倍政権は『特定秘密保護法』『集団的自衛権行使』など平和憲法の実質的な改変を求めています。巧みな手法による改憲に大きな不安を感じ、安倍政権には絶対反対です。」(羽田澄子)
「安倍政権の暴走。なんとかストップさせたい」(堀尾輝久)
「9条を守ることは、人間性を守ることです。安倍さんは、まぎれもなく権力を私物化しています。」(森村誠一)
「あきらめずに、声を出していきます。市民運動がもっと大同団結できますように祈りながら‥」(湯川礼子)

また、読む人の心に染みいるメッセージ、心に突き刺さるメッセージが並んでいる。
「罪のない捕虜でも直ちに殺せと命令されれば、それに従わないと陸軍刑法で死刑になるとという状況に悩まされた軍隊経験をもつものとして、海外での武力行使を認める解釈改憲に絶対反対です」(石田雄)
「本年九〇才になる私は、かつての戦争への道を歩んでいた一〇代後半期と現代の政情とがたいへん似ていることに危機を感じております。あくまで民衆の意識と力でこの動きを阻止しなければと痛感しています」(塩沢美代子)
「特定秘密保護法も原発稼働も強行し、改憲が困難だと閣議決定で『集団的自衛権』を認めるなら、憲法も裁判所も要らない『独裁政権』である。民の声を武器にメディアはなぜ闘わないのか。朝日は『東京』を見習え」(芹沢昇雄)
「憲法第九条は、野蛮の極致たるあの戦争の廃墟から生まれた理性の真珠です。それは人類の国家への分割を否定する未来志向宣言です。絶対守り抜きましょう」(澤田洋)
「忌まわしいあの時代へ戻るのか。若者のスニーカーを、軍靴に履き替えさせるのか。一触即発の火種がここそこでちらちらしている現実に引き摺り込まれ、せっかくの憲法9条を葬るのか。いや、毅然と平和国家の先頭に立とうではないか」(島田文彦)
「日本は戦争ができません。原発の二、三カ所も攻撃されれば瞬時にお手上げ状態になるからだ。安倍首相は危機を事前に回避するという思想がない。ひたすら緊張を高めるしか能がない」(野里征彦)
「中国や北朝鮮が脅威だから集団的自衛権行使が必須だというのが現政権の考えなら、以前に『米英が脅威だから決然と立つ』として太平洋戦争に突入したのが大失敗だったことへの反省がない。今こそ、近代史への配慮による平和指向が必要だ」(日野資純)

気が利いていて耳を傾けさせるもの、寸言にして説得力に富むものも多い。
「主権者は私たち国民です。主権者は戦争しない国を望んでいます。」(平和元)
「権力に戦争という選択肢を与えてはなりません」(河田創)
「政府には「人」が見えていない。傷つき、悩み、苦しむ、一人の「人」が。「人」の集まりが国家であるのに」(小野順子)
「大事なことは、叫び続けることだと思います」(伊藤幹郎)
「原発がりにあ走らせ国壊す
 集団自衛を親分に乞う小判ザメ
 戦争を「平和」と唱え替えるバカ
 武器を売り死の商人に仲間入り」(極楽とんぼ)
「(琉歌)戦世も知らん 人の道知らん 安倍の言説は 和製ヒトラー」(石川元平)
「怒っています。怒りを表に出しアピールしましょう」(宮川泰彦)

最後にこの人も。
「集団的自衛権行使容認とは憲法九条を死文化させてしまうこと。平和憲法を守り抜くことは私たちの世代の責務だと思います」(澤藤統一郎)
いや、面白くも可笑しくもない。気の利いたところが何もない。人間がおもしろくないにちがいない。
(2014年7月4日)

集団的自衛権行使容認閣議決定の読み方

一昨日(7月1日)の臨時閣議で成立した、「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」。正式には、「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」というタイトル。結構な長文であるだけでなく、本音を隠すための無意味な修飾語が多用されているために、読みにくい。読み通す意欲を減殺させる文書だが、私なりに全体の構造を明確にしておきたい。正確に読み通すために。

全体の構成は、長い前文のあとに本文4項目で成りたっている。第4項目はさしたる意味がない。次の1?3項が、いずれも戦争と平和に大きく関わり、立憲主義と平和主義に反するものとなっている。

1 武力攻撃に至らない侵害への対処
2 国際社会の平和と安定への一層の貢献
 (1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
 (2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用
3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置

以上のタイトルは分かりにくい。修飾語を省き、これまでのマスコミ用語に置き換えれば、こうなる。
1 クレーゾーンにおける自衛隊対応の迅速化と武器使用拡大
2(1)戦闘地域での他国軍支援活動を可能に
 (2)駆けつけ警護における武器使用容認
3 集団的自衛権行使容認

まずは、第1項。クレーゾーン問題。もちろん尖閣を念頭においての議論である。軍隊ではない武装集団が離島を占拠した場合に自衛隊がどう対応すべきか。
閣議決定は、こう言っている。
「離島の周辺地域等において外部から武力攻撃に至らない侵害が発生し、近傍に警察力が存在しない場合や警察機関が直ちに対応できない場合(武装集団の所持する武器等のために対応できない場合を含む。)の対応において、治安出動や海上における警備行動を発令するための関連規定の適用関係についてあらかじめ十分に検討し、関係機関において共通の認識を確立しておくとともに、手続を経ている間に、不法行為による被害が拡大することがないよう、状況に応じた早期の下令や手続の迅速化のための方策について具体的に検討することとする。」

まさしく一触即発事態の具体的想定である。一定の場合の武器使用を認めるための法整備も明言されている。国内警備の問題として、海上保安庁や警察の問題に留めようとはせず、敢えて自衛隊の出番を拵えようというのだ。わが国が軍事力で対応すれば、相手国も「自国民の生命の安全を擁護するために」軍事力で応じることとなろう。相互の武力による威嚇のエスカレーションは、偶発的な要因によって暴発する危険を伴う。万全な備えをしての威嚇が日本の国民に安全をもたらすとは限らない。外交の努力を放棄しての武力の威嚇の危険は明白である。

次に、第2項(1)。これまではできないとされてきた「戦闘地域」での他国の軍隊への支援活動の容認である。面倒な話しだが、これまでは、「後方地域」あるいは「非戦闘地域」でなくては支援活動はできないとされてきた。自衛隊が戦闘に巻き込まれる危険を避けてのことでもあり、理屈の上からは「後方支援活動が支援対象の国の武力行使と一体化することになる」からでもある。これを「現に戦闘行為を行っている現場」でなければ、「戦闘地域」においても、「補給、輸送などの我が国の支援活動については、当該他国の『武力の行使と一体化』するものではないと割り切ろうというのである。そのような考え方に立って、「他国軍隊に対して、必要な支援活動を実施できるようにするための法整備を進める」という。自衛隊員に危険を背負わせることである。

次いで、第2項(2)。「駆けつけ警護における武器使用容認」。
閣議決定のポイントは、「多くの日本人が海外で活躍し、テロなどの緊急事態に巻き込まれる可能性がある中で、当該領域国の受入れ同意がある場合には、武器使用を伴う在外邦人の救出についても対応できるようにする必要がある」とするところ。

民間NGOや他国のPKO要員の危機を、「自衛隊が駆けつけて武器を使用して救助できるようにしてあげます」というものだ。この点は、憲法との整合性の欠落よりは、救出されるはずの海外NGOがこぞって反対していることに注目すべきである。彼らは、「平和の国日本に対する現地の信頼に守られてきた」「謂わば、憲法9条によって現地の反発から免れてきた」という。自衛隊が出てくる事態が、最悪であり、最も危険だと言っているのだ。今回の閣議決定に落胆し怒りを燃やしてもいる。もう、活動を続けられなくなるのではないかという声さえある。このことを噛みしめてみるべきだろう。

そして最後が、集団的自衛権行使容認である。分かりやすくこう表現せずに、回りくどく「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」などと言うのは、底意が見えている。個別的自衛権も、集団的自衛権も、実は「基本的な論理」において同じなんでですよ、とアピールしたいのだ。このことについての批判は、くり返さない。

一応、全体構造を以上のように押さえれば、あの閣議決定を批判的に読み通すことができるのではないだろうか。「立憲主義」と「恒久平和主義」違反の2点が浮かびあがって来るはずと思うのだが、いかがだろうか。

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             グリーン外交と花合戦
それほど外交的でも社交的でもない我が家に、ご近所やご通行中の皆様からお声がかかる。道路に面した幅1メートルほどの小さな花壇と、とっかえひっかえ出して並べる鉢植えやプランターに対するお褒めの言葉だ。特別たいして珍しいものがあるわけではない。ただ、自分でもきれいだなあと思うものを人にもお見せしたいという気持ちはある。

冬が終われば、スノードロップ、続いて水仙、賑やかなチューリップ、モミジの柔らかな芽生えが春を告げる。そうこうしているうちに二階の屋根より高いハナミズキが白い花をいっぱいつける。5月になるとニオイバンマツリがむせかえるような香りを放って、紫色の蕾と白い花をつける。早咲きのユリの蕾も色づいてくる。梅雨の時期にはピンクとブルーのガクアジサイが咲くし、ハンゲショウの葉先も真っ白に浮かび上がってくる。鉢植えのバラも咲いた。ギボウシの薄紫の花も並んで茎を立てている。オニユリのオレンジ色の蕾がえばって他を睥睨している。涼しげなスカイブルーのアガパンサスも今年は成績がいい。小さな水鉢の蓮もスイレンももうすぐ蕾を付けるだろう。

そして今はクチナシ。八重の大きな花が満開で、狭い通りじゅうが香りでいっぱい。野放図に伸びて、道路にはみ出しているが、もったいなくて切る勇気が出ない。そこで、我が儘ついでに、「花が終わったらカットします。しばらくご容赦を」と書いた短冊をつるした。そうしたらなかなか雰囲気がいい。今日見たら、「良い香り、嬉しいです」とメッセージが書き加えてあった。「きれいでいいわねえ」とお声もかかる。ほんとうに嬉しくってしょうがないけれど、花が終わったら約束どおりカットしなければなるまい。クチナシやニオイバンマツリは、かなり強剪定しても、毎年花を咲かせてくれるから本当は心配いらないのだが。

この横町の花好きは我が家だけではない。まず、町会長が色とりどりの菊をプランターに作って、秋になると道の両側に飾ってくれる。各家のブロック塀には季節ごとに釣り鉢に花があふれかえる。こちらが大きく目立つ花を飾れば、お隣は見たこともないシックな花を咲かせるという具合だ。うちのクチナシに並んでお隣のナツツバキの可憐な白い花が咲いている。グリーン外交と花合戦だ。

私たちはこんな風に毎日のささやかな楽しみを大切にして生きている。それなのに、これがいつまで続くのだろうかと不安を感じざるを得ない。

2005年3月、島本慈子のインタビューに答える、むのたけじの言葉をたくさんの人に知ってもらいたい。(岩波新書「戦争で死ぬ、ということ」)

「国会で有事に備えて国民保護法を作るといっているけれどね、1945年3月11日の朝、私は大空襲を受けた東京の下町を歩き回りました。死体が道路にいっぱいだった。戦争って一晩で十万人死ぬんですよ、あんた。誰がどうしてそれを助けるの。要するに、戦争が起こってしまえば助けようがない。本当に国民の安全を守ろうと思ったら、戦争をやっちゃだめなんだよ。やってしまってから助けるなんてことはできないということを、3月10日(東京大空襲の日)は教えている」

「恨みをかうからだめ、恨みをかわないようにやればいい。よそから攻められないような日本をつくればいい。原因を取り除くことが安全対策なんだと、あの戦争が教えたはず」

甘い花の香りを圧するように、きな臭さが漂ってくる。これを押し返して、花の美しさと、花を愛でる平和を守りたいと思う。
(2014年7月3日)

「抑止力は 戦争の出発点」

昨日の当ブログを、「立憲主義と平和主義がないがしろにされた日に」というタイトルとした。集団的自衛権行使容認の閣議決定は、「立憲主義」と「平和主義」とに反するもの、という論旨だ。

昨夕(7月1日)日弁連が「集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明」を発していることを、今日になって知った。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2014/140701.html

非常に明快で、分かりやすい論旨。極めてオーソドックスな憲法論をベースとするものだ。

その会長声明の一節に、「集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定は、立憲主義と恒久平和主義に反し、違憲である。かかる閣議決定に基づいた自衛隊法等の法改正も許されるものではない」とある。期せずして、当ブログと基本論旨を同じくしている。
同声明は、次のような語り口で立憲主義違反を説いている。
「このような憲法の基本原理に関わる重大な変更、すなわち憲法第9条の実質的な改変を、国民の中で十分に議論することすらなく、憲法に拘束されるはずの政府が閣議決定で行うということは背理であり、立憲主義に根本から違反している」

そして、恒久平和主義の理念堅持の必要を次のように論じている。
「日本が過去の侵略戦争への反省の下に徹底した恒久平和主義を堅持することは、日本の侵略により悲惨な体験を受けたアジア諸国の人々との信頼関係を構築し、武力によらずに紛争を解決し、平和な社会を創り上げる礎になるものである」

さて、注目すべきは、同声明が閣議決定の平和への危険について次のとおり述べていることである。
「日本が集団的自衛権を行使すると、日本が他国間の戦争において中立国から交戦国になるとともに、国際法上、日本国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標となり、軍事目標に対する攻撃に伴う民間への被害も生じうる。」
集団的自衛権行使はそのリアクションとして「国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標とされる」事態をもたらし、その結果として「民間への被害も生じうる」という危険がもたらされるというのだ。国際法的には常識的な見解ではあっても、おちついた語り口での具体的なリスクの指摘に敬意を表したい。

昨日の安倍首相の記者会見では、このようなリスクについて触れるところはなかった。それどころか、反対に「国民の安全」が強調された。そのキーワードが、安倍会見の中で6回繰り返されたという「抑止力」である。

本日の朝日が掲載した「会見要旨」に拠れば、安倍は「万全の備えをすること自体が、抑止力だ。今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」と言っている。毎日では、「万全の備えが、日本に戦争を仕掛けようというたくらみをくじく大きな力を持つ。それが抑止力だ。今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく」となっている。

安倍は、「集団的自衛権の行使容認を宣言することによって抑止力がはたらき、日本に戦争を仕掛けようというたくらみをくじいて国民の安全に寄与する」と言う。これに対して、日弁連声明は「集団的自衛権行使とは、日本が交戦国になることであり、国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標化し、攻撃されれば民間への被害も生じうる」という大変な危険がもたらされると言う。

はたして、集団的自衛権の行使容認による「抑止力」が国民の安全に寄与するものとして期待しうるだろうか。大きな論点として浮かびあがってきた。安倍は、抑止力の強調で国民世論を(ミス)リードできると考えたのだろうが、安倍と同等の「右翼の軍国主義者」以外に納得する者はないだろう。

多くの論者が抑止力について発言を始めた。私なりの見解は昨日記事にしたので繰り返さない。本日の朝刊で目についたのは、朝日では「最大の抑止 非戦のはず(加藤陽子)」「抑止力 逆に低下する恐れ(植木知可子)」など。そして、毎日の「抑止力 戦争の出発点」という大見出し。作家・半藤一利さんの談話である。さすがに的確な指摘と思う。要点を抜粋すれば以下のとおり。

「(安倍は)中国の圧力に耐えきれず、胸の内で『すごい抑止力を手にしたい』と考えてきたのではないか。『集団的自衛権を通さないと抑止力にならない』と。だが、それは妄想だ。
 戦前、そっくりの状況があった。1940年の日独伊三国軍事同盟だ。当時の仮想敵国は米国で、日本の指導者は、同盟が米国との戦争を防ぐ抑止力になると考えた。結果が示す通り、それは妄想でしかなく、戦争の出発点となった。抑止力を強めれば、同時にリスクも高まる。これは本当に危険なのだ」

「日本人が平和のために尽力することで築いた信頼感は大きな国益だ。集団的自衛権とは、他人のけんかを買って出る権利である。けんかを買って平和国家を投げ捨て、国益を踏みにじる必要はない」

なるほど、集団的自衛権とは、現代版・日独伊三国軍事同盟なのだ。かつての三国同盟は米国との戦争を防ぐ抑止力になると期待されたが、結局は妄想に過ぎず、戦争への出発点となった。今、抑止力を期待しての集団的自衛権行使容認への方針転換は、結局は戦争のリスクを高めることにつながる。これは戦争の出発点となりかねない危険な企てなのだ。戦前の歴史に精通するこの人の警鐘に耳を傾けなければならない。そして、日本の良識を代表する日弁連の声明にも耳を貸していただきたい。
(2014年7月2日)

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