私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は明後日4月22日(水)13時15分に迫っている。舞台は東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。
さて、私は、DHC・吉田から私に対する訴訟を「スラップ訴訟」と位置づけている。この場合のスラップ訴訟とは、権力者や経済的な強者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする提訴のこと。DHC・吉田は渡辺喜美に対して「届出のない8億円を拠出していた」ことを自ら曝露した。多くの論者がこれを批判したが、DHC・吉田はその内10人を選んでスラップ訴訟をかけている。私もそのひとり。トンデモナイ高額請求で、うるさい人物を黙らせようということなのだ。
このようなスラップ訴訟の被害は、フリーランスのジャーナリストや個人ブロガーなど恫喝に弱い立場の者に集中してきた。ところが、大手新聞社もスラップの対象となっている。これは、ジャーナリズム全体に由々しき事態ではないか。既に報道の自由そのものが被害者となっているのだから。
以下は、毎日新聞4月17日夕刊(社会面・第14面)の記事である。多くの読者には目にとまらなかったであろう、小さな扱いのベタ記事。しかし、記事の内容は見過ごせない。
見出しは「サンデー毎日記事巡り稲田氏が本社提訴」というもの。
「サンデー毎日の記事で名誉を傷付けられたとして、自民党の稲田朋美政調会長が発行元の毎日新聞社を相手取り、550万円の損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こした。17日の第1回口頭弁論で毎日新聞社は請求棄却を求めた。
訴状によると、サンデー毎日は2014年10月5日号で、稲田氏の資金管理団体が10〜12年、『在日特権を許さない市民の会』(在特会)の幹部と行動する8人から計21万2000円の寄付を受けたと指摘。稲田氏について『在特会との近い距離が際立つ』とする記事を載せた。
稲田氏側は『寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない』と主張。記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させる』と訴えている。
▽毎日新聞社社長室広報担当の話 記事は十分な取材に基づいて掲載しています。当方の主張は法廷で明らかにします。」
原告は自民党の政調会長である。安倍晋三にきわめて近い立場にあると見られている人物。このような政権与党の中枢に位置する人物のメディアに対する提訴は、被告が大手新聞社であっても、記事の内容が意図的な事実の捏造でもない限り、言論封殺を目的としたスラップ訴訟とみるべきであろう。また、現時点における複数の報道による限り、提訴の内容はまさしく、「権力者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする」ものと考えてよいと思われる。
問題の「サンデー毎日」2014年10月5日号記事は、『安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月』というメインタイトル。大きな反響を呼んだ記事だ。サブタイトルは、「スクープ 国連が激怒」「自民党がヘイトスピーチ規制に後ろ向きな噴飯ホンネ」「山谷えり子との『親密写真』公開!」「お友達議員にバラ撒かれるカネ」「高市早苗とネオナチ団体」などと賑やかだ。しかし、サブタイトルに稲田の名がないことに注目いただきたい。
使われている写真は、「山谷氏を囲む在特会関係者」「ネオナチと高市氏(左)、稲田氏(右)の写真を報じる海外メディア」と、これは文句のつけようがない。
記事全体としては、「安倍自民と在特会」との蜜月関係を洗い出して、「今さら簡単に断ち切れないほど関係を深めている」「ナショナリズムを政権浮揚に使ってきたツケが回ってきた」と、政権の右翼化を批判したもの。
この記事に出て来る「シンパ議員」の名を挙げておきたい。
安倍晋三・山田賢司・高市早苗・下村博文・山谷えり子・有村治子・古屋圭司・衛藤 晟一、そして稲田朋美だ。稲田の名は最後に出て来る。扱いも、高市や山谷に較べて遙かに小さい。
稲田に関する主要な記事を抜粋してみよう。
「一方で在持会関係者が直接、自民党国会議員ににカネをバラ撒いているケースもある。稲田政調会長の資金管理団体『ともみ組』10〜12年、在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人から計21万2000円の寄付を受けた。稲田氏の事務所は『稲田の政治理念と活動に賛同してくださる個人を対象に、広く浅く浄財を頂いている。事務手続きに必要な事項、法令で定められた事項、政治資金収支報告書に記載された事項以外の情報は確認していない』というが、在特会との近い距離が際立つ。稲田氏といえば、高市総務相とともにネオナチ団体の代表と撮影したツーショット写真が流出し、2人とも『相手の素性や思想は知らなかった』と弁明した。」
この記事にクレームがつけられて、今年の2月13日提訴となっていたことは、4月17日毎日夕刊の記事が出るまで知らなかった。それにしても、疑問が湧いてくる。なぜ、稲田だけが提訴したのだろうか。他の安倍・高市・下村・山谷らは、なぜダンマリなのだろう。
資金管理団体『ともみ組』の政治資金報告書は誰でもネットで閲覧可能である(下記URL参照)が、サンデー毎日記者は、事前に稲田の事務所を取材している。そのコメントも丁寧に記事にしている。手続的に問題はない。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS2020131129.html
毎日新聞の記事による限りだが、原告稲田側は「在特会との近い距離が際立つ」とする記事が怪しからん、ということのようだ。「寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない」にもかかわらず、同記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させた」との主張のようだ。稲田も、在特会と近しいとされることは迷惑なのだ。せっかく「稲田の政治信条と活動に共鳴して政治資金を寄付した」在特会側は、この稲田事務所の連れない言辞をどう受け止めるだろうか。
朝日の報道はやや異なる。
「『在日特権を許さない市民の会』(在特会)と近い関係にあるかのような記事で名誉を傷つけられたとして、稲田朋美・自民党政調会長(56)が週刊誌『サンデー毎日』の発行元だった毎日新聞社に慰謝料など550万円の損害賠償と判決が確定した場合の判決文の掲載を求め、大阪地裁に提訴した。」
「稲田氏側は、在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけと主張。さらに『寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない』と訴えた。」
稲田の提訴目的は、いつまでも「在特会と近い関係」と言われることを嫌っての縁切り宣言にあったのかも知れない。それでも、「寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない」は、記事を批判し得ていない。サンデー毎日の記事は、「在特会との近い距離が際立つ」というものである。寄付を受ける者と寄付者との関係を「距離が近い」と言って少しも不都合なところはない。これは典型的な記事の「意見・論評」の部分である。意見・論評には幅の大きな表現の自由が保障される。これでは稲田側の主張が裁判所で認められる余地はない。
「在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけ」との稲田側の主張の真偽は第三者には分からない。しかし、サンデー毎日の記事は、「在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人」となっている。「8人がすべて在特会の会員」と言ってはいない。立証のハードルはきわめて低い。
摘示された事実には真実性が求められるが、「主要な点において真実であればよい」ので、必ずしも完璧な立証が求められるわけではない。また、真実であると信じたことに相当な根拠があれば毎日側の過失は否定される。こうして、表現の自由は保護され、国民の知る権利が保障される。
どう見ても、稲田側の勝訴の見込みはあり得ないが、「自分を批判すると面倒だぞ」とメディアを萎縮させる効果は計算しての提訴ではあろう。それゆえのスラップ訴訟である。
私は、DHC・吉田に対してだけでなく、社会に「スラップ訴訟は許されない」と発言し続けている。是非、毎日も同じように声を揃えていただきたい。
(2015年4月20日)
私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は4月22日(水)13時15分に迫ってきた。法廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されているので、ぜひご参加をお願いしたい。
訴訟では、原告(DHCと吉田嘉明)両名が、被告の言論によって名誉を侵害されたと主張している。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものである。傷つけられるものは、人の名誉であり信用であり、あるいは名誉感情でありプライバシーである。そのような人格的な利益を傷つけられる人がいてなお、人を傷つける言論が自由であり権利であると保障されているのだ。誰をも傷つけることのない言論は、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はない。
視点を変えれば、本来自由な言論によって傷つけられる「被害者」は、その被害を甘受せざるを得ないことになる。DHCと吉田嘉明は、まさしく私の言論による名誉の侵害(社会的評価の低下)という「被害」を甘受しなければならない。これは、憲法21条が表現の自由を保障していることの当然の帰結なのだ。
もちろん、法は無制限に表現の自由を認めているわけではない。「被害者」の人格的利益も守るべき価値として、「表現する側の自由」と「被害を受けるものとの人格的利益」とを天秤にかけて衡量している。もっとも、この天秤のつくりと、天秤の使い方が、論争の対象になっているわけだが、本件の場合には、DHCと吉田嘉明が「被害」を甘受しなければならないことがあまりに明らかである。
その第1点は、DHC・吉田の「公人性」が著しく高いこと。しかも、吉田は週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「公人性」を買って出ていることである。いうまでもないことだが、吉田は単なる「私人」ではない。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーというだけではない。公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出し提供して政治に関与した人物である。しかも、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのだ。
その第2点は、被告の名誉を侵害するとされている言論が、優れて公共の利害に関わることである。無色透明の言論の自由というものはない。必ず特定の内容を伴う。彼が甘受すべきは、政治に関わる批判の言論なのだ。政治とカネというきわめて公共性の高いシビアなテーマにおいて、政治資金規正法の理念を逸脱しているという私の批判の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまう。
さらに、第3点は、私の言論がけっして、虚偽の事実を摘示するものではないことである。私の言論は、すべて吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、論評しているに過ぎない。意見や論評を自由に公表し得ることが、表現の自由の真骨頂である。私の吉田批判の論評が表現の自由をはみ出しているなどということは絶対にあり得ない。
仮に私が、世に知られていない吉田やDHCの行状を曝露する事実を摘示したとすれば、その真実性や真実であると信じたことについての相当性の立証が問題となる。しかし、私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材に論評したに過ぎない。そのような論評は、どんなに手厳しいものであったとしても吉田は甘受せざるを得ないのだ。
私のDHC・吉田に対する批判は、純粋に政治的な言論である。吉田が、小なりとはいえ公党の党首に巨額のカネを拠出したことは、カネで政治を買う行為にほかならない、というものである。
吉田はその手記で、「私の経営する会社…の主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」と不満を述べている。その文脈で、「官僚たちが手を出せば出すほど日本の産業はおかしくなっている」「官僚機構の打破こそが今の日本に求められる改革」「それを託せる人こそが、私の求める政治家」と続けている。
もちろん、吉田が「自社の利益のために8億円を政治家に渡した」など露骨に表現ができるわけはない。しかし、吉田の手記は、事実上そのように述べたに等しいというのが、私の論評である。これは、吉田の手記を読んだ者が合理的に到達し得る常識的な見解の表明に過ぎない。そして、このような批判は、政治とカネにまつわる不祥事が絶えない現実を改善するために、必要であり有益な言論である。
私がブログにおいて指摘したのは、吉田の政治家への巨額拠出と行政の規制緩和との関わりである。薬品・食品の業界は、国民の生命や健康に直接関わるものとして、厚労省と消費者庁にまたがって厳重な規制対象となっている。国民自身に注意義務を課しても実効性のないことは明らかなのだから、国民に代わって行政が、企業の提供する商品の安全性や広告宣伝の適正化についての必要な規制をしているのだ。国民の安全を重視する立場からは、典型的な社会的規制として軽々にこの規制緩和を許してはならない。しかし、業界の立場からは、規制はコストであり、規制は業務の拡大への桎梏である。規制を緩和すれば利益の拡大につながる。だから、行政規制に服する立場にある企業は、なんとかして規制緩和を実現したいと画策する。これはきわめて常識的な見解である。私は、長年消費者問題に携わって、この常識を我が身の血肉としてきた。
吉田の手記が発表された当時、機能性表示食品制度導入の可否が具体的な検討課題となっていた。これは、アベノミクスの第3の矢の目玉として位置づけられたものである。経済を活性化するには、規制を緩和して企業が活動しやすくする環境を整えることが必要だという発想である。緩和の対象となる規制とは、不合理な経済規制だけでなく、国民の健康を守るための社会的規制までも含まれることになる。謂わば、「経済活性が最優先。国民の安全は犠牲になってもやむを得ない」という基本路線である。業界は大いに喜び、国民の安全を最優先と考える側からは当然に反発の声があがった。
そのような時期に、私は機能性表示食品制度導入問題に触れて、「DHC吉田が8億円出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買い取りたいからなのだと合点がいく」とブログに表現をした。まことに適切な指摘ではないか。
なお、その機能性表示食品制度は、本年4月1日からの導入となった。安倍政権の悪政の一つと数えなければならない。安倍登場以前から規制緩和を求める業者の声に応えたのだ。以下は、制度導入を目前とした、3月26日付の日弁連声明である。全文は下記URLを参照いただきたいが、日弁連がこれまで重ねてこの制度導入に反対してきたこととその理由が手際よくまとめられている。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2015/150326_2.html
法廷での主張の応酬は、表現の自由一般の問題から、政治とカネの問題をめぐる政治的言論の自由という具体的な問題となり、さらに規制緩和を求める立場にある企業の政治資金拠出に対する批判の言論の自由の問題に及んでいる。
本件スラップ訴訟は、まずは表現の自由封殺の是非をめぐる問題であるが、具体的には政治資金規正法をめぐる問題でもあり、さらには規制緩和と消費者の利益をめぐる問題でもある。消費者の利益擁護のためにも、きっちりと勝訴しなければならない。
(2015年4月19日)
交渉とは、まずはお互いの主張を述べあう場だ。しかる後に、相手の主張にも耳を傾けつつ妥協点を探るのが通常の交渉の在り方。双方に妥協の意がなれば交渉の場の設定自体がなりたたない。
しかし、初めから「絶対に妥協しないぞ」と決めてかかる「交渉」もないではない。相手の言い分に耳を傾けるのはポーズだけというもの。あるいは、自分の主張の正当性を断固として述べる機会との位置づけのものだ。
政府と沖縄県との「交渉」は、双方とも話し合って妥協の着地点を見つけようなどとは考えていない。政府は、「普天間返還のためには辺野古に移転するしかない。断固工事を進める」と言い、沖縄は「あらゆる手段を講じて辺野古の新基地は作らせない。絶対に建設できないという確信を持っている」と言うのだ。これでは交渉の余地はない。
政府の側は、一応は沖縄の言に耳を傾けたという体裁を取り繕わねばならない立場に追い込まれての、ポーズだけの交渉。これに対して、沖縄県側は、断固たる県民の辺野古基地新設反対の民意を政府と国民世論やアメリカにも知らしめることが目的の「交渉」。これが、安倍・翁長会談となった。
政府の本心は沖縄との交渉などしたくはない。しかし、世論に押されて交渉の席に着かざるを得なくなったというだけのこと。「一応は沖縄の言い分を聞きました」「辺野古沖埋立工事の進行はまったく別のこと。着々と進めます」という不誠実極まる姿勢で会談に応じたというだけのこと。
会談を終えてみて、あらためて沖縄側の言い分に分があること、政府の対応が姑息でひどいものであることが国民全体に理解されつつある。その意味で「交渉」の席が設けられたことには大いに意味があったというべきであろう。
昨日(4月17日)官邸でおこなわれた、安倍晋三首相対翁長雄志沖縄県知事との会談は、冒頭首相が2分50秒発言し、これに対して知事が3分13秒発言したところで、翁長発言の途中であるにかかわらず記者団は会談の場から退出を命じられた。会談終了後、知事は記者会見に応じているが、首相の会見はない。沖縄タイムスなどは、知事の「非公開発言」まで詳報しており、会談内容はほぼ全容を掴める。
政府が会談に応じたのは、文字どおり「形作り」のためだけのもの。首相の発言内容があまりに空疎なのだ。「知恵がない」という表現はあたっていない。「舐めている」「本気さがない」というべきだろう。
首相側の発言内容は「辺野古への移設が唯一の解決策だ。」と言っているだけ。新基地建設問題に関して他に述べているところはない。代わりに時間を割いたのは、沖縄振興策についてのものだ。首相は、もうこんな態度は沖縄県民に通じないことを知らねばならない。
これに対して、知事側は、発言内容を周到に練って会談に臨んだ。気迫だけでなく、発言内容においても、明らかに首相側を圧倒していた。
知事側の発言内容は次のように要約できよう。
☆「辺野古への移設が唯一の解決策」は、かたくなな固定観念に縛られているに過ぎない。まずは辺野古への移設作業を中止することを決断し、沖縄の基地固定化の解決・促進を図るべきだ。
☆沖縄は自ら基地を提供したことは一度もない。戦後、強制接収で土地を奪っておきながら、老朽化したから、世界一危険だから、沖縄が負担しろ、それが嫌なら代替案を出せと言われる。こんな理不尽なことはない。
☆政府は今、前知事が埋め立てを承認したことを錦の御旗として辺野古移設を進めている。しかし、この前知事の承認は、普天間飛行場の県外移設という公約をかなぐり捨ててのこと。昨年の名護市長選挙、沖縄県知事選挙、衆議院選挙は前知事の埋め立て承認が争点となって、すべての選挙で反対派が当選している。辺野古反対という圧倒的民意が示された。
☆菅官房長官らが「16年前に当時の知事、名護市長が移設を受け入れた」と主張しているが、これは十五年の使用期限などの条件を附して認めたものだが、政府が条件を守っていない。だから、「受け入れた」というのは間違いだ。
知事側の言がいちいちもっともではないか。沖縄の世論は、一貫して辺野古新基地建設に反対だった。ところが、一時期、知事が県民を裏切って埋立工事を承諾した。その裏切り知事は次の選挙では手痛い県民の審判を受けて退陣した。しかし、政府は、「裏切り知事の埋立承認」を錦の御旗としている。沖縄の民意を敢えて無視してまで、辺野古基地建設工事続行にこだわる政権の姿勢は納得しがたい。
沖縄の民意に寄り添って、日本全国の世論を喚起し、オバマに向かって「事情が変わりました。沖縄の民意が、辺野古新基地建設を許しません。もう無理です。ご了解を」というべきが、日本の首相としての安倍晋三のとるべき筋道ではないか。
(2015年4月18日)
本日もしつこく、安倍政権の大学に対する国旗国歌押しつけ問題を取り上げる。私は、この10年、教育の場への国旗国歌強制を不当とする訴訟に取り組んできた。この訴訟に携わった者の責務として、この問題では発言しなければならないと肚を決めている。しつこさには、目をつぶっていただきたい。
昨日のブログに、東京新聞の社説がこの問題に触れないことを嘆いた。明けて今日(4月17日)、期待に応えて同紙の社説が政権批判を論じた。これで中央紙の政権批判派が4紙となり、政権への無批判ベッタリ追随派が2紙となった。4対2の色分けは、まだ言論界が全体として健全な批判精神をもっていることを示している。
数だけではない。内容においても、政権批判派は政権ベッタリ派を圧倒している。主張の説得力も格調も段違いだ。社説を比較する限りでのことだが、なぜ、読売や産経のような新聞が淘汰されずに生き延びているのか、不思議でならない。もしかしたら、両紙の読者は、他紙を読んだことがないのかしら、などと思わせる。
東京の社説は、「大学と国旗国歌 自主自律の気概こそ」という、まことに正攻法。真っ向勝負の東京新聞らしい。
冒頭の一節が引き締まっている。
「国立大学の卒業式や入学式で日の丸掲揚、君が代斉唱を求める安倍政権の動きは、大学の自治を脅かす圧力になりかねない。統制を強めるほど、教育研究は色あせ、学問の発展は望めなくなる。」
その理由や根拠は次のように簡潔に述べられている。
「大学の自治は、憲法が定める学問の自由を守る砦である。教育研究はもちろん、人事や予算、施設管理といった学内の運営に対する外野からの干渉は許されない。だからこそ、九年前の教育基本法の改正では、大学の自主性、自律性の尊重を義務付ける条文が盛り込まれたのではなかったか。」
「大学は世界の平和と人類の福祉に貢献するという原点を忘れないでもらいたい。真理を探究し、新しい価値を創造する。日本の未来のためにも、自治の精神を貫く気概を持つべきだ。」
東京新聞は、露骨に大学の自治への介入を試みている政権を批判するとともに、大学に政権の強要に屈するな、と呼びかけている。私たちも、その両者に目を向ける必要がありそうだ。
昨日は、地方紙の旗手として道新の社説を取り上げたが、新たに神戸新聞、高知新聞、信濃毎日の各社説が目に留まった(そのほかに、東京の親会社である中日新聞は、東京新聞と同じ社説を掲げているがこれは除く)。それぞれに多様な特色があって実に面白い。
まずは、神戸新聞。「国旗国歌の要請/強要でないと言うのだが」というタイトル。飄々としたしたたかさを感じさせる文体。どちらかといえば硬派ではない軟派。直球派ではない軟投派だ。
社説の冒頭で「『お願い』と言いながら威圧的なのが気がかりだ。」という。言われて見ればそのとおり。確かに下村文科省の態度は、「威圧的」だ。到底、人に「お願い」しようという姿勢ではない。
決めつけずに、したたかに次のように言っている。
「国旗国歌法の成立時、当時の小渕恵三首相が『強制するものではない』と述べたことも想起したい。下村氏も『お願いであり、するかしないかは各大学の判断。強要ではない』」とは話している。しかし、単なる『お願い』と受け止めにくい状況がある。国立大の運営費交付金は削減傾向が続いており、大学側からは『教育や研究の質の低下を招きかねない』との悲鳴が上がっている。一方で改革に積極的な大学には交付金を重点配分することも検討されている。そんな中、首相の『税金によって賄われていることを鑑みれば』の発言だ。『要請』は受ける側にとって圧力のように響く。」
次いで、「【国旗国歌要請】大学の自主性に委ねよ」という高知新聞。こちらは硬派だ。直球のストレート勝負。要点を抜き出せば以下のとおり。
「政治が、大学の式典の中身にまで口を挟むのは問題があると言わざるを得ない。」
「政治権力などの干渉を受けず、全構成員の意思に基づいて教育研究や管理に当たる『大学の自治』は、憲法が保障する『学問の自由』に不可欠な制度とされている。2006年改正の教育基本法でも、それまでなかった大学の条文が設けられ、『自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」としている。
「国が『お願い』だと主張しても、いまの国立大学は『圧力』と受け止めかねない状況にある。」「兵糧攻めへの恐怖は大きい。」
そして、硬派の硬派たる所以が末尾の一節。
「下村文科相は会見で圧力を否定し、『強要ではない』と強調した。しかし、集団的自衛権行使容認をはじめ、安倍政権に見られる強引な政策展開からは不安は募る。注視し続ける必要がある。」
ごもっとも。よく言っていただいた。腹に据えかねるとして、吐き出された一文ではないか。
そして、信濃毎日新聞である。「大学に国旗国歌 『法にのっとる』のなら」という標題。これは他にない法的ロジックの社説。
「大学の自治を軽んじる動きが続いている。」
「戦前には、大学の研究内容に国家が介入した。例えば滝川事件では京都帝大教授が自由主義的との理由で文相に辞職に追い込まれた。学問の自由が妨げられた反省に立って大学自治の仕組みがつくられたことを忘れてはならない。」
「大学は深く真理を探究する場である。教育基本法もそううたう。続けて『大学については、自主性、自律性が尊重されなければならない』と定めている。法にのっとって、と言うなら、政権の介入こそ慎まなければならない。」
これまで、8紙の政権批判派社説と、2紙の政権ベッタリ派社説を見てきた。7紙が2紙を圧倒していると言ってよい。論点は出尽くした感がある。東京社説の言うとおり、政権を批判する世論を作るとともに、大学人を励ますことも実践の課題となる。
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ここからは、付録。
東京新聞社説の中に、次の一文がある。前後とのつながりは明瞭でない。
「2004年の園遊会での一幕があらためて思い出される。
東京都教育委員だった棋士の故米長邦雄氏が『日本中の学校で国旗を揚げ、国歌を斉唱させるのが、私の仕事です』と語ると、天皇陛下は『やはり強制になるということでないことが望ましいと思います』と返されたのだった。」
なぜ、唐突に天皇が持ち出されたのか。天皇がこう言ったからどうなんだ、とは書いていない。だから、論評は難しい。が、この「米長対天皇問答事件」は、私に印象が強い。米長と天皇の両者に問題ありとして、当時のブログに2度書いた。今、それを読み返してみると、私は少しも変わっていない。少しも進歩していない。十年一日のごとく同じことを繰り返しているのだ。但し、ペンの切れ味は落ちていると嘆かざるを得ない。
当時は日民協のホームページに連載していた「事務局長日記」、そのアーカイブ2件を再録して披露しておきたい。
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2004年10月29日(金)米長邦雄を糾弾する
以下は、朝日の報道。
「天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から『日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と話しかけられた際、『やはり、強制になるということではないことが望ましい』と述べた。」
共同通信は、以下のとおり。
「東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について『強制になるということでないことが望ましいですね』と発言された。
棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が『日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と述べたことに対し、陛下が答えた。」
問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと。これは、現行憲法下の禁じ手である。天皇制は人畜無害を前提にかろうじて存続が許されているからだ。もともと、天皇は政治的利用の道具であった。そのことが天皇制批判の最大の根拠である。天皇の政治的利用をたくらんだ者の責任は徹底的に糾弾されなければならない。二歩を打った棋士米長はその瞬間に負けなのだ。天皇制存続派にとっても米長の行為は愚かで苦々しいものであろう。
問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたことにある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くない。自ら望んだ会話ではないにせよ、出過ぎた発言である。天皇には口を慎むよう、厳重注意が必要だ。
問題の第3は、宮内庁の発言である。
羽毛田信吾次長は「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と話した(共同通信)という。冗談ではない。少なくとも私は、そのような「一般的な常識」の存在を認めない。毎日に拠れば、羽毛田は、天皇の真意を確認しての会見という。「一般常識として歌うのが望ましい」との認識を天皇が有していたという発言自体が大きな問題だ。羽毛田見解が天皇の発言を「国民が自発的に国旗国歌を掲揚・斉唱するのが望ましい」との内容と釈明したとすれば、天皇の責任をさらに重大化するものである。
天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。
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2004年10月31日(日)米長君、君に教育委員は務まらない
米長邦雄君、君は教育委員にふさわしくない。潔く辞任したまえ。
君は、棋士として名をなしたそうだ。産経新聞社主催の棋聖戦では不思議と強くて「永世棋聖」を名乗っていると聞く。僕も将棋は好きだがまったくのヘボ。永世棋聖がどのくらいのものだか、君がどのくらい強いのか理解はできない。
しかし、これだけは僕にも分かる。君は盤外のことはよく分からないのだ。そして盤外では、自分の指し手に相手がどう対応するのか、まったく読めない。将棋ができることがエライわけではなく、将棋しかできないことが愚かでもない。問題は、盤外での君が、愚かを通り越してルール違反をしたこと。禁じ手を指したのだ。即負けなのだよ。教育委員が務まるわけがない。
本来、教育委員というのは、重い任務なのだよ。日本の将来の少なくとも一部に責任を持たねばならない。将棋を指すこととは、根本的に異なる。それなりの見識がなければならない。床屋談義のレベルで務まるものではないのだ。不見識を露呈した君は、その任務に堪え得ない。だから、一日も早く辞めたまえ。それが、若者の将来のためでもあり、君自身のためでもある。
君は園遊会で、天皇に次のように話しかけた。
「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
このことは、複数のマスコミ報道が一致している。ところが君のホームページを見ると、国旗国歌問題については何の会話もなかった如くだ。この姿勢はフェアではなかろう。君のやり方は姑息だ。ちっともさわやかではない。
君が天皇へ話しかけた言葉に不見識が露呈されている。君の頭の中がよくみえる。君は、子どもたちの無限の可能性を引き出す教育という崇高な営みについて何も考えてはいない。教育について何も分かってはいない。国旗・国歌問題だけが「私の仕事」と信じこんでいるのだ。しかも、天皇からさえ批判された「強制」が君のこれまでの仕事なのだ。
君は棋聖なのだから、自分が一手を指すまえに相手の二手目の応手を読むだろう。それなくしては一手を指せない。きみは、天皇に話しかけるに際して、相手の反応をどう読んだのか。いったい天皇のどんな返答を期待したのだろうか。願わくは「しっかりやってくださいね」という激励、少なくとも「そうですか。ご苦労様」という消極的同意を期待したものと判断せざるを得ない。でなくては、棋士米長にあるまじき無意味な発語。君がどんなに否定してもそのような状況でのそのような意味を持つ発言なのだ。
これは、天皇の政治的利用以外の何ものでもない。君も知ってのとおり、日本には最高規範として日本国憲法というものがある。憲法では天皇の存在は認められているが、厳格に政治的な権能は制約されている。そもそも、天皇の存在自体が憲法の本筋として定められている国民主権原理に矛盾しかねない。政治的にまったく無権限・無色ということでかろうじて憲法に位置を占めているのが、天皇という存在なのだ。だから、天皇の政治的利用は、誰の立場からもタブーなのだ。君は、そのタブーをおかしたのだよ。不見識を通り越して、ルール違反・禁じ手だという所以だ。
天皇が、君の問いかけに対して、こう答えたと報じられている。
「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」
君と一心同体の産経だけが、、「望ましい」でなく、「好ましい」としているそうだが、どちらでも大差はない。
これは、天皇としてあるまじき政治的発言ではないか。誰が考えても、学校教育の現場での国旗国歌のあり方が政治的テーマでないはずがない。しかも今、強制の波は現実の課題として押し寄せ、大量処分と訴訟にまで発展している。政治的に大きく割れた意見のその一方の肩をもつ発言を天皇がしたのだ。由々しき事態である。この問題発言を引き出したのは、米長君、君だ。君自身が責任をとらねばならない。
もっとも、君もさぞかし驚いただろう。天皇は、君がやっている「日の丸・君が代」強制の事実を知っていたのだ。しかも、それに批判的な見解をもっていた。都教委が現場の教師に起立・斉唱を強制し、これを拒否した教員を大量処分した事実に関心を持ちよく新聞も読んでいたのだろう。即座に、強制反対を口にしたのは、予てからこの事態を苦々しく見ていたからに違いない。皮肉なことだが、君とその仲間がやっていたことは、天皇の「お気に召す」ことではなかったのだ。
この天皇の発言に対する、君の三手目の指し手が次のとおりだ。
「ああ、もう、もちろんそうです」「ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました」
これをどう理解すればよいのだろう。君は多分天皇崇拝主義者なのだろうね。だから、天皇に反論したりはせず、滑稽なほど迎合した発言になってしまったのだろう。それはともかく、君は、「強制でないことが望ましい」に対して、「もちろんそう。すばらしいお言葉ありがとう」と言ったのだよ。天皇の前でのこの言葉を、まさか、撤回ということはあるまいね。今後は「すばらしいお言葉」を無視して、「日の丸・君が代」の強制を続けることなどできはすまい。
実は、君の一手目がルール違反で敗着。指し継いでも、相手の二手目が絶妙手で君の負け。三手目は詰んだあとの無駄な指し手。
もう君には、教育委員の重責は務まらない。やることがあるとすれば、君の言のとおり強制を望ましくないとして、処分を撤回すること。それができないのなら、すぐに辞めたまえ。君の流儀は「さわやか流」というそうではないか。この際さわやかに潔く辞めることが、君の名誉をいささかなりとも救うせめてもの「形作り」なのだから。
「国立大学の卒業式に国旗国歌を」という安倍晋三の押しつけに、まず朝日と毎日が批判の社説を書いた。朝日「国旗国歌―大学への不当な介入だ」、毎日「国旗国歌の要請 大学の判断に任せては」というもの。両紙とも4月11日の朝刊に掲載。安倍発言は9日で、予定されたことではなかったようだから、両紙の迅速な対応には敬意を表したい。
対して、政権ベッタリの本領を発揮したのが、14日付の産経社説。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」というもの。「読むだに恥ずかしい社説」と、私が昨日のブログで叩いたものだ。実は、昨日日経も社説に取り上げていた。「自主・自律あっての大学だ」という標題。これが、実にリベラルな立場からの明確な政権批判の内容なのだ。おそらくは、経済合理性を重んじる財界主流の意向は、安倍の非合理な復古主義にはついていけないということなのだろう。ともかく、昨日の時点で、この問題についての中央各紙の社説の姿勢は3対1で、批判派が圧倒した。
ところが今日(16日)、読売がこの問題で社説を書いた。産経の後追いである。内容はお粗末極まる。日経並みの見識を示すチャンスを逃して、産経並みでしかないことを天下に示した。ともあれ、これで批判派とベッタリ派とは、3対2の色分けとなった。東京新聞はこの件を社説に取り上げていない。4対2となるよう期待したいところ。
ネットで地方紙を探してみたが、面倒で調べきれない。北海道新聞の社説だけが目にとまった。「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」という、なんともストレートなそのものズバリの標題。以下に、日経、読売、そして道新3紙の社説を要約してご紹介したい。
日経社説の論旨は、「自主・自律あっての大学だ」という標題のとおり。大学の自治の重要性を中心に、大学の国際化の問題にも触れて、大学を萎縮させてはならない、とするもの。
「大学はその運営も教育・研究の中身も自主性、自律性が尊重されるべき存在だ。世界中から人を受け入れる空間でもある。大学のグローバル化が急務となるなかで、国公立、私立にかかわらず画一的な統制はなじまない。」
「大学に対する政府の役割は、入学式をどう営むかといったお節介でなく、教育・研究の水準向上や多様性確保である。政府はこの問題で、これ以上の口出しは控えるべきだ。国立大学協会など大学サイドでも、きちんと対応を議論すべきではないだろうか。」
以上に見られる日経社説子の筆の運びは、「なんと愚かな」「非常識な」「馬鹿馬鹿しい」「どうしてそこまでやろうというのか」という、政権に対するあきれ果てたという気分にあふれている。
さらに、こう言っていることが注目される。
「下村文科相は、各大学への要請は『強制ではなく、お願い』だという。しかしまさに首相が『税金によって賄われている』と述べたように、国立大への交付金のさじ加減は文科省が握っている。そこからきた『お願い』は大学を萎縮させる効果が十分にあろう。」
きわめて常識的なそして明解な指摘ではないか。
本日の読売社説は「大学の国旗国歌 要請で自治が脅かされるのか」というもの。タイトルのとおりの内容である。面白くもおかしくもない。
「国旗・国歌が国民の間で広く定着している状況を考えれば、式典で掲揚や斉唱を促すのは妥当と言えよう。」というのが、基本スタンス。
一応、「憲法が保障している『学問の自由』と、それを支える『大学の自治』の原則は、尊重されなければならない。」とは言う。とは言うものの、一応のものとしての理解でしかない。かたちばかりの憲法原則の尊重は、その蹂躙を許容している。
要は、「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」ということに尽きる。「強制力のない『お願い』によって簡単に揺らぐほど、大学の自治はもろいのだろうか。」とまで言っている。権力の側に立ち続けると、こういう感覚になるのかも知れない。日経の方がまことにまっとうではないか。
戦前、治安維持法や国防保安法、軍機保護法、新聞紙法、出版法などの思想弾圧法制が猛威を振るった当時、「思想統制はそんなにたいしたことはなかった。私は自分の書きたいことを書いた」という記者がいた。そりゃそうだ。権力に擦り寄っていれば書けるのだ。権力を批判する記事さえ書かなければ、「権力はたいしたことはない」のだ。読売は、長年そのようなスタンスだから、自分は安全なのだ。「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」と言っていられるのだ。そう、権力ベッタリ派は、権力の恐ろしさに向かい合うことはない。権力を警戒せよと言っても、理解不能なのだ。
北海道新聞の社説「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」は格調が高い。まずは大学の国際化から説き起こしている。
「大学の役割はますます国際的に開かれたものになりつつある。…キャンパスで伝統的に培われてきた自治や自立、自主性を尊重することが大学の個性を生む。それが世界からの評価につながる。」
「大学をナショナリズム色の強い安倍カラーに染めあげては、国際化も世界に通じる人材の育成も危うい。押しつけはやめるべきだ。」
「国がカネを出しているのだから、国立大学は政府の考えに従うのが筋―。そう言いたいのだとしたら、あまりに了見が狭い。研究や学問はそもそも国という枠にとらわれるものではない。言うまでもないが、その目的は広く世界の科学や技術、社会の発展に寄与するところに置かれている。…「国家」ばかり強調すると、研究自体がゆがんでしまわないか。」
「下村文科相は『強要するものではない』と自主性を重んじる物言いだ。しかし、本当か。国が運営費交付金の重点配分を通じて大学を選別する方針を打ち出している。だからこそ、額面通りには受け取れないのだ。」
「教育の要諦は懐の深さにある。幅広い人材を生むには鷹揚さが欠かせない。なのに政府はいま、最高学府に対しても、たがをはめつつ、国内外の大学同士を徹底的に競わせようとしているようにみえる。競争至上主義の導入といい、今回の『国旗国歌』といい、大学が持ってきた自由闊達な空気を失わせないか。それを危惧する。」
読売や産経には疾うに失われた見識や知性というものが、地方紙の論説には脈々と生きていることに清々しい思いを禁じ得ない。
なお、読売が、「自国や他国の国旗・国歌に敬意を表すのは、国際社会における常識であり、当然のマナーだ。政府がそうした教育を求めるたびに、あたかも統制強化のごとくとらえる議論が起きるのは、世界でも日本だけだろう。」と言っている。
そうだろうか。国旗国歌を国家ないし権力の象徴として、国旗国歌に抵抗の意思を示す行動は世界に共通のものだ。愛国心の強制は国旗国歌の強制とともにあり、権力批判は国旗国歌への象徴的な抗議の行動となる。これも普遍的な現象だ。
アメリカの例を引きたい。国家への抗議の意味を込めて公然と国旗を焼却する行為を、象徴的表現として表現の自由に含まれるとするのが連邦最高裁の判例なのだ。
アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの作用なくして国民の統合は困難という事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗の思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、2州を除く各州において国旗焼却を禁止しこれを犯罪とする州法が制定された。その憲法適合性について、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。
著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。
68年成立の連邦の「国旗冒涜処罰」法は、89年に改正されて「国旗保護」法となって処罰範囲が拡げられた。アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までが構成要件に取り入れられた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を得た。
アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」(土屋英雄教授作成の東京君が代訴訟における「意見書」から)
なんと含蓄に富む言葉だろう。
安倍や産経、読売に聞かせてやりたい。
「大学に国旗を押しつけることは、国旗を尊重するに値するようにさせている、まさにそのわが国の自由を冒涜し、わが国の価値を貶めることになる」のだと。
(2015年4月16日)
昨日(4月14日)の産経社説が、国立大学における国旗国歌押しつけ問題を取り上げた。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」という標題。もちろん、産経本領発揮の提灯持ち社説。こんな記事を読まされる方が恥ずかしい。
同社説は冒頭にこう言っている。
「国立大学の卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を適切に行うよう求めることに反発がある。国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか。それを妨げる方が問題である。」
産経は、誰にどのような理由で「反発」があるかについて思いをいたすところがない。「実施できないのは、国旗国歌に背を向ける一部教職員らの反発が根強いからだろう」とだけ言って、この教職員の言い分に耳を傾けようとはしない。いったい、どこにどのような問題があるかを考えようともせず、噛み合った議論をしようという姿勢を持ち合わせていない。一方的に、自分の主張の結論を情緒的に述べているだけ。これでは幼児の口喧嘩のレベルに等しい。それが右翼メディアの本領と言えばそれまでだが、これでは、大学人の反発や懸念をますます深めるだけのものと知らねばならない。
まずは、産経の議論の立て方がおかしい。「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか」ではなく、「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜ必要なのか」と問わねばならない。さらに、「なぜかくまでに国旗国歌にこだわるのか」、「なにゆえに国旗国歌に敬意の表明を強制する必要があるのか」と問を展開する必要がある。
議論の出発点は飽くまでも個人の自由でなくてはならない。個人の思想も行動も、公権力に制約されることなく自由であることが大原則なのだ。どんな旗や歌を好きになろうと嫌いになろうと、その選択は個人に任されている。にもかかわらず、なにゆえ、国旗国歌に敬意を払わねばならないというのか。これは「国際常識」や「多数の意思」などで簡単にスルーすることはできない大きな問題である。さらに、歴史的に刻印された負の烙印をいまだに消せない「日の丸」と「君が代」への敬意を払うべきとする教育が、なにゆえに是認されるのか、政権も産経も納得のいく説明をしなくてはならない。
国家の象徴である歌や旗への態度は、個人が国家に対してどのようなスタンスをとるかを表す。これは、完全に自由でなくてはならない。日本大好きで、日の丸・君が代へ敬礼を欠かさない人がいてもよい。しかし、虫酸が走るほど嫌いで、日の丸・君が代は見るのもイヤだという国民がいてもよいのだ。国民の資格は国家への好悪が条件ではない。国民が主人公の民主主義国家においては、国家には国民に対する無限の寛容が要求される。
かつて大日本帝国大好きな臣民がいた。ナチスドイツの愛国者もいた。今、北朝鮮にもISにも熱烈な愛国者がいるだろう。しかし、国民すべてがその国を大好きなはずはない。問題は、いろんな理由で自分の国を好きではないと思う人たちが、非国民との非難を受けることなく安心して生きていけるかにある。そのことについての寛容の有無が、民主主義国家であるか全体主義国家であるかの分水嶺である。そして、国旗国歌への態度についての国の干渉のあり方は、民主主義か全体主義かのリトマス試験紙である。
憲法とは、突きつめれば個人と国家との関係の規律である。我が日本国憲法は、安倍政権や下村教育行政や産経にはお気に召さないところだが、18世紀以来の近代憲法の伝統にのっとった個人主義・自由主義に立脚している。自由な個人が国家に先行して存在し、その尊厳を価値の根源とする。国家は価値的に個人に劣後するものでしかない。いや、むしろ個人の自由を制約する危険物として取扱注意の烙印を押されているのだ。
その個人に対して、国家の象徴である国旗・国歌に敬意を払うべしとする立論には、納得しうる厳格な法的根拠が不可欠なのだ。自発的意思で国旗国歌を尊重する態度の人格形成を教育の目標とすることは、本来我が憲法下では困難というべきだろう。第1次安倍内閣が強行した改正教基法の「国を愛する」との部分は、「国」の内実の理解や、「愛する」が強制の要素を含むとすれば、違憲の疑いが濃厚である。
参院予算委員会で、安倍首相は「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。産経はこれを「当然である。改正教育基本法では国と郷土を愛し、他国を尊重する態度を育むことを重視している」というが、浅薄きわまりない。
憲法23条は、「学問の自由は、これを保障する」と定める。誰からの学問の自由侵害を想定してこのような規定を置いたか。いうまでもなく、仮想敵は国家である。戦前、国家による数々の学問の自由への侵害事件が重ねられた。その悪夢を繰り返してはならないとする主権者の決意がこの条文である。誰にこの自由は保障されているのか。まずは個人だが、その自由を担保するための制度的保障として大学の自治が認められている。その大学に、国旗国歌の押しつけとは、おぞましい限りというほかはない。
さらに、教育基本法には産経が引用する条文だけではなく、次のようなものもある。
第2条(教育の目標)教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一号 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二号 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
第7条(大学)
1項 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
2項 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。
「学問の自由を尊重」「幅広い教養」「真理を求める態度」「豊かな情操」「個人の価値を尊重」創造性を培い」「自主及び自律の精神」「学術の中心」「高い教養」「深く真理を探究」「新たな知見を創造」「大学の自主性、自律性」「大学における教育・研究の特性の尊重」等々のすべてが、権力作用と背馳する。国旗国歌を排斥する。少なくとも馴染まない。教育基本法の隻句を国旗国歌押しつけの根拠とすることはできない。
産経は、「文科相は『お願いであり、するかしないかは各大学の判断』とも述べている。大学の自主性にも配慮した要請を批判するのは疑問だ」ともいう。しかし、産経の論難にかかわらず、下村文科行政の要請が「大学の自治を損なうもの」であることは明らかだ。カネを握るものは強い。カネの配分の権限を握っているものには、迎合せざるを得ないのがこの世の現実。大旦那が大旦那であるのは、知性は欠如していてもカネが支配の力をもっているからだ。それでなくとも乏しい文教予算。その配分を削られるかも知れないという恫喝がセットになっているところに大きな問題がある。だから、教育行政は教育条件整備に徹すべきであって、恣意的な予算配分で教育を歪めてはならない。
また、産経はこうも言う。「大学人にあえて言うまでもないことだが、国旗と国歌はいずれの国でもその国の象徴として大切にされ、互いに尊重し合うことが常識だ。」
これもお粗末な意見だ。大学人なら、「国旗国歌は、いずれの国でもその国の象徴としてふさわしいものであるが故に大切にされる。建国の理念や国民の団結を示す歌や旗としてふさわしくない国旗国歌は捨て去られる」と一蹴するだろう。
第2次大戦の敗戦国であるドイツもイタリアも国旗を変えた。その旗を象徴とした過去ファシズム国家のあり方を反省し、国の理念を変えたからである。同じ枢軸国の一員として、侵略戦争や植民地支配を反省し清算したはずの日本が、「日の丸・君が代」をいまだに国旗国歌としていることに違和感をもつ国民は少なくない。日の丸・君が代は、大日本帝国の侵略戦争や植民地主義とも、主権者天皇への盲目的崇拝ともあまりに深く結びついた存在であったからである。
国旗国歌法は、国家において「日の丸・君が代」を国旗国歌として用いることを定めただけもので、国民に何らの義務を課するものではない。敬意表明を強制をするものでないことは、国旗国歌法の審議過程で確認されたが、法ができあがってから政府はこれを少しずつ国民に強制しつつある。このやり口は詐欺に等しい。
また、産経は「人生の節目の行事で国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは自然であり、法的根拠を求めるまでもない」という。恐るべき法感覚、人権感覚、社会感覚といわざるを得ない。私の常識では、人生の節目で国家が出てくるなんぞトンデモナイ。ましてや権力や権威を恐れず真理を探究すべき大学でのこと。口を揃えて「君が代」を唱う大学生とは、主体性を喪失し、知性や批判精神の欠如したロボットに過ぎない。知性の府である大学に、日の丸・君が代は夾雑物でしかない。
産経社説は、最後をこう結んでいる。
「祝日に国旗を掲げる家庭も少なくなっている。普段から国旗と国歌を敬う教育を大切にしたい」
「祝日に国旗を掲げる家庭が少ない」ことはごく自然で望ましいこと。政権は、家庭に直接の国旗国歌の強制は難しいから、学校教育での強制に躍起になっているのだ。
教育に最も必要なものは、個人の主体性の確立である。主権者にふさわしく、自分の足でしっかりと立って、自分の頭でものを考え、自分の意見をきっぱりと発言のできる明日の主権者を育成することである。無批判に、日の丸を仰ぎ君が代を唱わせる教育からはこのような主体は育たない。教育現場の国旗国歌こそは、国家や社会に従順な、主体性と個性に欠けた国民教育の象徴と言うべきであろう。
私見と、政権や産経の立論の差異の根底にあるものは、個人と国家の価値的優劣の理解である。私は、純粋な個人主義者であり、自由主義者である。政権や産経の立場は、国家主義であり全体主義である。
私の考え方は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言、そして日本国憲法、国連の諸規約に支えられた常識的なものだ。政権や産経の立場は、旧天皇制や現在も残存する全体主義諸国家を支える思想に親和的なもの。安倍政権や産経の社説に表れた、国家主義・全体主義の鼓吹には重々の警戒をしなければならない。
(2015年4月15日)
今朝、たまたま聞いたNHK第1放送で経済評論家の内橋克人が語っていた。若いジャーナリストに語りかける内容。この人の言うことには常に耳を傾けることにしている。
内橋は1957年に神戸新聞の記者として、ジャーナリスト人生を歩み始めた。そのとき、尊敬する先輩記者から「記者三訓」を叩き込まれたという。
その先輩記者は、「あの戦争の末期には、特高が同席する新聞社となってしまった」「たくさんの部下が治安維持法違反で検挙された」「再びあの時代を繰り返してはならない」と述懐する人だった。
その人から叩き込まれた記者三訓とは、
「現場で自分の目で確かめろ」
「上を向いて仕事をするな」
「攻める側ではなく、攻められる側に身を置け」
というもの。
「現場で自分の目で確かめろ」とは、権力の発表を垂れ流すな、風評を記事にするな、ということ。「現場に出向いて、自分の目で真実を見極めて記事を書け。それこそが記者だ」ということでもあろう。まさしくジャーナリストの原点。その姿勢あればこそ、われわれはメディアを信用してものを考え発言することが可能となる。その姿勢に対する信頼がなくなれば、ジャーナリズムは崩壊する。それは、民主主義の危機だ。
「上を向いて仕事をするな」の「上」については、「社の内外を問わず」と解説が繰り返された。社外の「上」とは、権力であり、権威であり、社会の多数派であろう。そして、社内にあっては記者としての自分の人事権を握っている上司のこと。真実を伝えることにおいて、権力におもねるな、自社の社長にも遠慮するな、というのだ。
そして、「攻める側に身をおいて、攻められている者の写真を撮るな」「最後まで、攻められる側に身を寄せて、攻められている者のまなざしで攻めている者の表情をカメラに収めよ」という。誰の立場から真実を見つめるべきか、誰の立場にたてば伝えるべき真実が見えてくるか、含蓄のある言葉である。
面白いエピソードが紹介された。
「『社長におもねるな。社長の顔色を見るな』って、ペイペイの私が、社長よりもえらいというのでしょうか」と聞いたら、躊躇なく先輩が答えたという。「そのとおりだ。現場で取材し、事実を把握しているオマエの方が、社長よりエライのだ」
ジャーナリスト魂、というべきだろう。内橋は、この上ない先輩に恵まれて記者修業をしたことになる。今、さてどうだろう。各社にこんな上司がどれだけいるのだろうか。司会を務めているNHKのアナウンサーに聞いてみたい。
「政府が右と言っているのに、左というわけにはいかない」という会長が君臨するNHKにジャーナリズムは健在ですか?
「ジャーナリズムのなんたるかを知らず、知ろうともしない会長よりも、現場で格闘している職員の方がエライのだ」と言ってくれる上司はいますか?
あなたは、政権や会長の意向を意識することなく、ジャーナリストとしての任務をまっとうしている自信がありますか?
内橋は、懐旧談を披露したわけではない。特にNHKを名指しすることはなかったが、現今のジャーナリズムの萎縮を嘆いた。萎縮の結果としての「忖度報道」が横行しているという。
ジャーナリズムの鉄則である権力批判を放棄して、権力(政権)の意向を忖度して自主規制し、書くべきことを書かず、言うべきことを言わず、あるいは切れ味に手加減をする報道。「上を向いて仕事をするな」の記者第2訓に、真っ向から反する姿勢の報道。
記者にしてみれば、「そんな政権批判のガチンコ記事を書けば、上司が渋い顔をするだけ。社が守ってくれる保障はない。危ない橋を渡れるはずがないではないか」ということになるのだろう。上司の方は、「社に権力と事を構える覚悟がないのだから波風立てずにやるしかない」と言い、社の幹部は「官邸からの圧力は相当なものだ。業界が一丸となってこれと闘う雰囲気ではない。時代の空気を読むしかない」とでも言うのだろう。報道の自由も国民の知る権利も危機にある時代なのだ。
それでも、内橋はジャーナリズムの神髄を説いてやまない。東京新聞のコラム「筆洗」を例に挙げて、権力におもねらず「再び戦争を起こしてはならない」「原発再稼働の愚を繰り返してはならない」という気概で一貫している、という。私はジャーナリストではないが、権力や経済力と闘うことを使命とする職業を選んだ者だ。内橋や「筆洗」子の姿勢と覚悟を学びたいと思う。
その上で言いたい。時代の空気は、一人安倍晋三だけが作っているものではない。積極消極の差はあれ、責任の大小の差はあれ、この空気を作ることに国民みんなが加担してはいないか。「上」を忖度することなく、みんなが言うべきことを言わねばならない。でないと、いつの間にか言うべきことを言えなくなる時代がやってこないとも限らない。内橋は、ジャーナリストだけではなく、国民すべてに語りかけているのだと思う。
(2015年4月14日)
「天賦人権・民賦国権」という対句は河上肇の書(「日本独特の国家主義」)に出て来る。当時の日本の「天賦国権・国賦人権」という実態を批判するために用いられた。河上肇は漢詩の名手としても知られた人。さすがにうまいことをいう。
「天賦人権・民賦国権」とは、「人権はほかならぬ天から与えられた生得のものだが、公権力は人民がこしらえたものに過ぎない。ところが、天皇制の我が国ではさかさまだ。まるで、天皇制国家権力が天から授かったもので、人民個人の権利は公権力によって創設されたごとくではないか」という意であろう。
河上自身が、「日本現代の国家主義によれば,国家は目的にして個人はその手段なり。国家は第一義のものにして個人は第二義のものなり。個人はただ国家の発達を計るための道具機関として始めて存在の価値を有す。」「しかるに西洋人の主義は,国家主義にあらずして個人主義なり。故に彼らの主義によれば,個人が目的にして国家はその手段たり。個人は第一義のものにして国家は第二義のものなり。国家はただ個人の生存を完うするための道具機関として始めて存在の価値を有す」と明快に解説している。
これを、ひとひねりして、「天賦民権・民賦国権」と言ってみたい。天をもち出すことにいささかのためらいはあるが、天(自然権)が民権を授け、その民権が公権力をつくったということを表現する端的なスローガンとしてである。
「天賦人権」というときの「人」は、飽くまで個人だ。基本的人権は自然人に生得に存在するという思想を表現する。これに対して、「天賦民権」というときの「民」は集合名詞だ。主権者としての国民総体をいう。前者が人権論に関わり、後者は立憲主義に関わる。「天→民→国」という序列は、それぞれの権利の根拠を表すものでもある。人民が主体となって公権力の根拠たる憲法をつくったという立憲主義を表明するスローガンとして分かり易く適切ではないか。
中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「恢復の民権」と「恩賜の民権」という言葉が出て来る。該当の箇所は以下のとおり。
「世の所謂民権なる者は、自ら二種あり。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世また一種恩賜の民権と称すべき者あり。上より恵みて之を与ふる者なり。恢復的の民権は下より進取するが故に、その分量の多寡は、我の随意に定むる所なり。恩賜の民権は上より恵与するが故に、その分量の多寡は、我の得て定むる所に非ざるなり。」
「恢復の民権」とは、「下より進みて之を取りしもの」というのだから、人民が勝ち取った欠けるところのない民権である。これに対して、「上より恵みて之を与ふるもの」という「恩賜の民権」があるという。権力者の妥協によって人民に与えられた欠けた民権といってよかろう。ここで論じられている民権は、明らかに人民主権であって、個人の基本的人権ではない。
河上のいう「民権」が、「下より進みて之を取りしもの」で、「上より恵みて之を与ふるもの」でないことは明確である。民主主義社会において、主権者国民が恩賜の民権をありがたがっている図は滑稽というだけでなく、危険きわまりない。
「恩賜の民権」は、慈悲深い国王という神話を基礎として成立する。かつては、「慈愛深き天皇が臣民たる赤子を慈しんだ」という神話が語られた。植民地支配下の子どもたちにまで、である。いままた、「慈愛深き天皇皇后両陛下が被災住民に心配りをされる」「ペリリュー島で斃れた兵士に哀悼の意を捧げられた」などの、慈悲深い天皇像作りがおこなわれている。これに無警戒であってはならない。
天皇制とは、天皇を傀儡として徹底的に利用した支配層の演出政治であった。国民の理性を封じ、国民の精神生活に深く介入して、国民全体を洗脳しようとした非合理的な体制であった。その演出の基本が、天皇を神格化するとともに、慈愛深い家父長というイメージを作ることにあった。
戦後社会の支配の仕組みにおける、象徴天皇の利用価値を侮ってはならない。現天皇の意思を忖度して君側の奸を攻撃する類の言説をやめよう。親しみある天皇像、リベラルな天皇像、平和を祈る天皇像は、「天賦民権・民賦国権」の思想を徹底する観点からは危険といわざるを得ない。もちろん、「恩賜の民権」などの思想の残滓があってはならない。われわれは、主権者として自立した主体性を徹底して鍛えなければならない。そのためには、天皇の言動だけでなく、その存在自体への批判にも躊躇があってはならない。
(2015年4月13日)
今回の天皇(明仁)夫妻パラオ諸島訪問に言いたいこと、言うべきことは多くあるが、まずはその報道への「不快感」を表明しなければならない。
人は、それぞれである。それぞれに、快と不快の基準がある。「天皇皇后両陛下」という文字に出会うと、私の中の不快指数がピクンとはね上がる。「陛下」は無用、「天皇」だけで十分だ。もう一つ「玉砕」という用語も不快だ。
「陛」の字を訓では「きざはし」とよむ。階段一般だけではなく、特に天子の宮殿に登る階段を意味する。その階段の下の場所が「陛下」である。臣下が天子に直接にものを言うことはない。取り次の側近の居場所である階段の下が婉曲に天子を指す言葉となり、さらに天子の尊称となったという。殿下、閣下、台下、猊下など皆この手の熟語。人間の貴賎の格差を意識的に拡大し誇張しようとした文化的演出の名残である。
詳しいことは知らないが、手許の辞書には史記の「始皇帝本義」からの引用がある。中国の古代世界で、権力を獲得したものが自らを権威づけるための造語、あるいはいつの時代にも跋扈している「権力者におもねる文化人」たちがつくりだした言葉であろう。
これを明治政府が真似した。旧皇室典範第4章「敬稱」が次の2か条を定めていた。
第17條 天皇太皇太后皇太后皇后ノ敬稱ハ陛下トス
第18條 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃?親王王王妃女王ノ敬稱ハ殿下トス
陛下は、「天皇」と「太皇太后」「皇太后」「皇后」(これを「三后」と言った)にだけ使われた。「皇太子」「皇太子妃」「皇太孫」「皇太孫妃」「親王」「親王妃」「?親王」「王」「王妃」「女王」などの皇族の敬称は殿下である。マルクスが喝破したとおり、国王の最大の任務は生殖にある。血統を絶やさないためのシステムとして皇室・皇族を制度化し、これを「陛下」や「殿下」と呼ばせた。
「陛下」の敬称をもつ人格は、そのまま大逆罪の行為客体ともされていた。
旧刑法第116条 天皇・三后・皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
未遂も死刑であり、死刑以外の選択刑はなかった。三審制度は適用されず、大審院のみの一審だった。天皇制国家は、法治国家の形式だけは整備したが、その内実が恐怖国家であったことがよく分かる。
大逆罪に加えて、使い勝手のよい不敬罪があった。こちらは戦後削除された現行刑法典旧条文を引く。
第74条1項 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス
同条2項 神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦同シ
構成要件的行為が「不敬の行為」である。これなら自由自在の解釈が可能。なんだってしょっぴくことができる。権力にとっての魔法の杖だ。今の政権も、こんな便利なものが欲しくてたまらないことだろう。
皇室典範自体には「陛下」の敬称使用を強制する規定はない。不敬罪がその強制を担保していたといえよう。もちろん、いま不敬罪はない。にもかかわらず、なにゆえメディアはかくも「陛下」の使用にこだわるのか。
もう一つ。「玉砕」である。これは「瓦全」の対語。人が節義のために潔く死ぬることは、玉が砕け散るごとく美しい。価値のない瓦のごとく不名誉なまま生きながらえるべきではない、ということなのだ。沖縄に伝わる「ぬちどう宝」(命こそ、かけがえのない宝もの)とは正反対の思想。戦死を無駄死にではないと美化するために探してきた言葉が「玉砕」だ。「散華」も同じ。戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」も、瓦全を戒め玉砕を命じたもの。
この「玉砕」が、宮内庁のホームページの「パラオご訪問ご出発に当たっての天皇陛下のおことば(東京国際空港)」に堂々と出て来る。(「陛下」だけでなく、「お言葉」も、私の不快指数を刺激する)
「終戦の前年には,これらの地域で激しい戦闘が行われ,幾つもの島で日本軍が玉砕しました」という使われ方。サイパン訪問の際にも同様だったとのこと。
これも、古代中国での言葉を天皇制政府が探し出して再活用したもの。「戦死は無駄死にではない」という究極の上から目線で、国民の死を飾り立てるための大本営用語なのだ。太平洋戦争での軍人軍属戦没者の大半は、戦闘死ではない。惨めな餓死、あるいは弱った体での感染症死だったことが常識になっている(「飢え死にした英霊たち」藤原彰)。美しい死でも、勇ましい死でもなかった。これを美化してはならない。今ごろ、天皇が無神経に「玉砕」などという言葉を使ってはいけない。
差別用語の使用禁止が、時に言葉狩りとして煩わしく感じられる。が、指摘される度に襟を正そうと思う。過剰にならないよう抑制すべき面はあるものの、差別用語を禁止して死語にしようとする努力が差別をなくすることにつながることは否定し得ない。このことは既に社会の共通認識になっている。その一方で、「天皇皇后両陛下」「皇太子殿下」などの「(逆)差別用語」や、「玉砕」など戦争美化用語が大手を振っているのは何故か。
このような言葉を死語にしなくてはならない。私の不快指数だけの問題ではないのだから。
(2015年4月12日)
「国立大学の入学式や卒業式に国旗掲揚と国歌斉唱を」という参院予算委での安倍首相答弁(4月9日)に驚いた。下村文科相も「各大学で適切な対応がとられるよう要請したい」と具体的に語っている。「安倍右翼政権の粛々たる壊憲プログラムの進行の一つでしかない。今さら驚くにも当たるまい」という見解もあるのだろうが、あまりにも唐突だ。
朝日と毎日が、素早く本日の社説に取り上げた。いずれも明確な批判の論調。朝日は「政府による大学への不当な介入と言うほかない。文科省は要請の方針を撤回すべきである」とし、毎日は「判断や決定は大学の自主性に委ね、(国旗国歌実施の)『要請』は見送るべきだ」と結論している。両紙の姿勢に敬意を表しつつも、驚きとおぞましさが消えない。
安倍政権のスローガンが戦後レジームからの脱却である以上は、国民主権や民主主義を支えるすべての制度を敵視していることは明らかだ。安保防衛問題だけでなく、学問の自由も大学の自治も、国民の思想良心の自由も、すべてを押し潰して「富国強兵に邁進する日本を取り戻したい」と考えているだろうとは思っていた。
しかし、安倍とて愚かではない。そうは露骨になにもかにもに手を付けることはできなかろう。そのような甘い「常識」を覆しての「国立大学に適切な国旗国歌を」という意向の表明である。やはり驚かざるを得ない。
安倍晋三の頭のなかは、「いつ、いかなる事態においても、時を移さず武力を行使しうる国をつくらねばならない」「いざというときには、躊躇なく戦争のできる日本としなければならない」という考えで凝り固まっているのだ。「強い国家があって初めて国民を守ることができる」。「平和も人権も、実際に戦争ができる国家体制なくては画に描いた餅となる」。単純にそう考えているのだろう。
そのためには法律の制定だけでは足りない。「戦争のできる国作り」のためには、何よりも国民をその気にさせなければならない。国民意識を統合し、挙国一致して国運を隆昌の方向にもっていかなくてはならない。安倍政権にとって、ナショナリズムの鼓舞は大きな課題なのだ。国民こぞって、自主的に国旗を掲揚し、国歌を斉唱する国をつくらねばならない。これにまつろわぬやからは非国民と排斥されてしかるべきだ。そのようにして初めて、戦争を辞さない精強な国民と国家ができあがる。強い国日本を中心としたる新しい国際秩序をつくることができる。祖父岸信介が夢みた五族共和の東洋平和であり、八紘一宇の王道楽土だ。
政権が根拠とする理屈は、結局のところ、「国立大学が国民の税金で賄われている」ということ。「国がカネを出しているのだから、国に口も出させろ」「スポンサーの意向は、ご無理ごもっともと、従うのが当然」という理屈。これは経済社会の常識ではあっても、こと教育には当てはまらない。教育行政は教育の条件整備をする義務を負うが、教育への介入は禁じられている。このことは、戦前天皇制権力が直接教育を支配した苦い経験からの反省でもあり、世界の常識でもある。
問題は、安倍・下村の醜悪コンビがこの非常識な発言を恥ずかしいと思う感性に欠けていることだ。なりふり構わずスポンサーの意向を押しつけ、「要請」に従わない大学には国からのイヤガラセが続くことになるだろう。
「国旗掲揚国歌斉唱の実施要請に法的な根拠はありません。ですから飽くまでお願いをしているだけで、文科省の意見に従えとは口が裂けても申しません。とはいえ、予算を握っているのは私どもだということをお忘れなく。要請に対する、貴大学の協力の姿勢次第で、どれだけの予算をお回しできるか、変わってくることはあり得るところです。『魚心あれば水心』というあれですよ。よくおわかりでしょう」
もう一つ、安倍第1次内閣が改悪した新教育基本法の目的条項が根拠とされている。
第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
第5号 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
ここに、「我が国と郷土を愛する」がある。だから、「入学式や卒業式では、日の丸・君が代を」というようだ。国を愛するとは、「国旗に向かって起立し、口を大きく開いて国歌を斉唱する」その姿勢に表れる、という理屈のようだ。
国家の権力から強く独立していなければならないいくつかの分野がある。教育、ジャーナリズム、司法などがその典型だ。弁護士会の自治も重要だが、大学の自治はさらに影響が大きい。国立大学は、けっして安倍政権の不当な介入に屈してはならない。
もう、いかなる国立大学も、政権の方針に従うことができない。この件は大学の自治を擁護する姿勢の有無についての象徴的なテーマとなってしまった。政権への擦り寄りと追従と勘ぐられたくなければ、学校行事の日の丸・君が代は、きっぱり拒絶するよりほかはない。そうでなくては、際限なく日本は危険な方向に引きずられていくことになってしまう。
(2015年4月11日)