澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」 ― 原発稼働差し止め裁判官インタビュー

昨日(8月4日)の朝日に、樋口英明・元福井地裁裁判長のインタビュー。大飯原発訴訟の1審を担当して差し止め認容の判決を出した人。大きな見出しが、「原発は危険、判決の信念」「規準を超える地震『来ない』根拠なし 再稼働認めぬ判断」。そして、「行政の裁量逸脱 司法の介入やむを得ない」。よくできた良質のインタビューで、多々考えさせられる。

「裁判官は弁明せず」が美徳とされる。しかし、「弁明せず」は場合によっては無責任を意味する。行政に説明責任が求められているのと同様に、裁判官にも批判を恐れずに自分の判決について発言することを求めたい。それこそ裁判官の責任のとりかたではないか。独善や人事権者に追従の判決を改善することにもつながるだろう。同裁判官は既に退官しており、「大飯原発訴訟の控訴審判決が出て確定したので、インタビューに応じました」としている。

このインタビュー記事、ネットでも読むことができる。(もっとも、見出しが少しちがっているようだが)。https://www.asahi.com/articles/DA3S13620670.html

リードは以下のとおり。「福島の原発事故後では初めて、運転差し止めを命じた関西電力大飯原発3、4号機をめぐる2014年の福井地裁判決。しかし、控訴審で名古屋高裁金沢支部は7月、一審判決を取り消し、住民の請求を棄却する逆転判決をした。一審で裁判長を務め、昨年8月に退官した樋口英明さん(65)に、判決に込めた思いを聞いた。」

原発の危険性のとらえ方が随所に語られている。
「私が一審判決で指摘した点について具体的に反論してくれ、こんなに安全だったのかと私を納得させてくれる判決なら、逆転判決であっても歓迎します。しかし、今回の控訴審判決の内容を見ると『新規制基準に従っているから心配ない』というもので、全く中身がない。不安は募るばかりです」

「(日本の原発の現状は)小さな船で太平洋にこぎ出している状況に等しいと思います。運がよければ助かるかもしれませんが、そうでなければ日本全体が大変なことになります。一国を賭け事の対象とするようなことは許されるはずがありません」

「(再稼働を認めぬ方向に心証が傾いたのは)過去10年間に4カ所の原発所在地で、原発の耐震設計の根幹となる基準地震動(想定する最大の揺れ)を超える地震が5回も発生したことを知った時ですね。…争点は強い地震が来るか来ないかという点にあり、どちらも強い地震に原発が耐えられないことを前提に議論しているのです。そのこと自体が驚きでした」

 「わが国で地震の予知に成功したことは、一度もありません。」「将来の最大の揺れを予測する算式は、仮説に過ぎません。それを原発の耐震性の決定に用いることは許されません」「なにしろ大飯原発の(基準地震動)700ガルというのは、私が住んでいる家に対して住宅メーカーが保証している3400ガルに比べてもはるかに小さい値なんですよ。原発は私の家より地震に弱い」

原発差し止め訴訟の現状に関して、次のような注目すべき発言もある。

――「3・11」後、原発の運転差し止めを命じる判決、仮処分は樋口さんの2件を含め4件です。
 「少なすぎます。裁判官が原発の生(なま)の危険性に正面から向き合えば、差し止めの判断が出るはずです。裁判官教育の際に『裁判官は絶大な権限を与えられているので、その行使については謙虚かつ抑制的であれ』と教えられることが、必要以上に裁判官を萎縮させている面があると思います」

――(「裁判所組織は最高裁を頂点とした一枚岩で政権に迎合しているといった、単純な図式は間違い」という発言を承けて)ただ、樋口さんの後任の裁判長を含め、高浜原発の決定に対する異議審を担当した裁判官は3人とも最高裁事務総局付きを経験した「エリート裁判官」。樋口さんが出した運転差し止めの仮処分を取り消しました。
 「2人までは偶然で説明できますが、3人とも事務総局経験者というのは珍しいと思います。人事の意味はよくわかりませんが、何らかの示唆を受けて赴任した可能性はあると思います。ある裁判官が原発立地県の地裁に異動する際に、上司から『裁判官がこうした事件の判断に必要な高い専門技術性は持っていないことはわかっているだろうね』と言われた、という話を聞いたことがあります」

――国のエネルギー政策に関しては、国民から選挙で選ばれた国会や内閣が決めるべきで、裁判所が決めるのはおかしいという意見もあります。
 「今回の控訴審判決も、『その当否を巡る判断は司法の役割を超えるものであり、立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべき事柄』と述べています。私は本来、行政の裁量権を重視する立場ですが、原発の危険性を顧みずに運転を認めるのは、裁量権の範囲をはるかに逸脱しています。そういう場合、司法が介入することもやむを得ません」

ところで、このインタビュー記事には「愛国心」が出て来る。次のような使い方で。

 ――「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」の文にも驚きました。
 「これを書かせたのは、自分で言うのもなんですが『愛国心』だと思っています。判決当時、私はネット上で『左翼裁判官』などと批判されましたが、本当の保守は原発に反対すべきだと思います」

ここに出て来るキーワードは、「愛国心」と「左翼裁判官」と「本当の保守」。
国策である原発推進に楯突く判決を書くような者には、「左翼裁判官」とレッテルを貼られる現実があることが語られている。しかし、樋口は、自分にこの判決を書かせたのは「愛国心」だという。左翼的心情からではなく、ということは国家性悪説とでもいう立場からの判決ではなく、自分の内なる「愛国心」が判決と判決書きにおける表現の動機だったのだという。

その判決部分は、「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると当裁判所は考えている。」というもの。これが「愛国心判決」ないしは、「愛国心的判決説示」というわけだ。

樋口の「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」は、「愛国心」とは本来が保守のもの。国富喪失の危険ある原発には、愛国心あるものは反対せよ、本当の保守(愛国心を大切にする立場?)なら当然に反対すべきだというのだ。

個人の自由と民主主義と平和こそが、強靱で豊かな国の姿だ。これを歪める国旗・国歌(日の丸・君が代)強制への反対こそが愛国心のしからしめるところ。「本当の保守は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制に反対すべきだと思います」ともいうべきであろう。
(2018年8月5日)

自民党よ、いつの日にか真に「自由」で「民主」的な政党たれ。

思想・良心・信仰の自由に関するわが党の政策について

2018年8月4日 自由民主党

 わが党の「思想・良心・信仰の自由」に関する政策については、党内特命委員会において議論されて、「思想・良心・信仰の多様なあり方を受容する社会を目指すためのわが党の基本的な考え方」が取りまとめられ、2016年7月の参議院選挙及び17年の衆議院総選挙の公約に明記されたところです。わが党は、公約に掲げたように思想・良心・信仰の多様性を受容する社会の実現を目指し、思想・良心・信仰の自由に関する正しい理解の増進を目的とした議員立法の制定に取り組んでいます。
 先月(7月)19日の、都立校教員に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制を当然とするがごとき最高裁(第1小法廷)判決は、最高裁裁判官らの判断とは言え、この重大な問題への理解不足と教育現場における関係者への配慮を欠いた望ましからぬ判決であることは否めず、最高裁には、わが党の基本方針と相容れぬものであることを指摘するとともに、「自由」と「民主主義」擁護の立場から、厳重な抗議を申しあげたところです。
 わが党は、今後とも思想・良心・信仰の自由という課題について、わが国が批准済みの「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(国際人権B規約・第18条)、「子どもの権利条約」(第14条)や各国の法制度等を調査研究しつつ、真摯かつ慎重に議論を進め、議員立法の制定を目指していく所存です。
 皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

目を白黒してはいけない。当然にパロディである。自民党がこんなことを言うはずはない。しかし、下記の元ネタはパロディではない。自民党ホームページからの、コピペである。

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LGBTに関するわが党の政策について

2018年8月1日 自由民主党

わが党のLGBTに関する政策については、「性的指向・性自認に関する特命委員会」において議論され、平成28年5月、「性的指向・性自認の多様なあり方を受容する社会を目指すためのわが党の基本的な考え方」が取りまとめられ、同年7月の参議院選挙及び昨年の衆議院総選挙の公約に明記されたところです。わが党は、公約に掲げたように性的な多様性を受容する社会の実現を目指し、性的指向・性自認に関する正しい理解の増進を目的とした議員立法の制定に取り組んでいます。
今回の杉田水脈議員の寄稿文に関しては、個人的な意見とは言え、問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現があることも事実であり、本人には今後、十分に注意するよう指導したところです。
わが党は、今後ともこの課題について、各国の法制度等を調査研究しつつ、真摯かつ慎重に議論を進め、議員立法の制定を目指していく所存です。
?皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

このLGBTに関する自民党の政策は、これまで話題にならなかった。必ずしも、他党との対決政策となっていなかったからである。野党の政策を追いかけて、遅ればせながら自民党もこの水準にまでは到達したということなのだ。しかし、自民党は同性婚を認めないなど、保守的要素を残している。

なお、この自民党公式コメントの日付が西暦表示となっているのは、私が手直ししたものではない。今どき、自民党と言えども元号表示は不自然なのだ。しかも、煩わしい。来年以後、この煩わしさは倍化する。できるだけすみやかに、西暦表示一本に統一すべきが、ビジネスに限らず、すべての事務作業の合理性追求の方向である。
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それにしても、何の躊躇もなく、「子どもをつくらない性的少数者(LGBT)は『生産性』がない」とする文章をものした杉田水脈。LGBTに関する自民党の政策を知っていただろうか。知らずに、自民党の議員として、あるいはアベ子飼いの議員として確信に基づいての作文であったろう。仮に知っていたとしても、自民党の政策とは表向きと本音とがあり、LGBT差別こそが自民党の本音と思い込んでいたのだろう。

何しろ、あれ程頑固に、選択的夫婦別姓に反対を貫いているのが、自民党である。その保守的論理がLGBTに寛容であるとは考えにくい。

たとえば、2010年総選挙時の自民党選挙公約は、こう言っている。「民主党の夫婦別姓法案に反対 夫婦別姓を選択すれば、必ず子どもは両親のどちらかと違う『親子別姓』となります。わが党は、民主党の夫婦別姓制度導入法案に反対し、日本の家族の絆を守ります。」

日本の家族の絆を守ります。」は、まさしく、杉田水脈の発言にふさわしく、LGBTへの寛容とは相容れないではないか。

それでも、LGBT差別に関して、当事者や広範な市民による党本部への抗議の行動が盛り上がると、自民党も、「今回の杉田水脈議員の寄稿文に関しては、個人的な意見とは言え、問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現があることも事実であり、本人には今後、十分に注意するよう指導したところです。」と言わざるを得なくなる。

報道では、「自民党は当初、『寄稿文は議員個人としてのもの』と静観する構えだった。しかし、7月27日に党本部前で大規模な抗議集会が開かれ、今週末にも各地で抗議活動が予定されるなか、党の責任を問う声が高まり、釈明に追い込まれた。」とされている。アベの責任追及にまで抗議の声が大きくなりそうなので、言い訳したと言うことなのだ。「これから丁寧に説明します」というあの手口。

この抗議の声を上げたのは、LGBT差別に苦しむ当事者だけではない。当事者を中心に、あらゆる差別を解消しようとする人々、多様性受容する社会を望む人々が、立ち上がっている。人種・民族・出自・宗教・障害の有無・家族構成・経済格差…等々による差別。その差別の一態様として、長い間一貫して行われている、思想・良心・信仰による差別を忘れてはならない。

中でも、国旗国歌に対する敬意表明の強制は、現代の踏み絵である。どうしても、従えない人がいるのだ。思想・良心・信仰ゆえに、この強制を受け容れがたい人を容赦なく攻撃しているのが、自民党である。

近い日に、自民党が今の姿勢を悔い改めて冒頭に掲げた声明を発表し、真に「自由」で「民主」的な政党に衣替えする日の来たらんことを切望する。
(2018年8月4日)

「予算委員会は佐川を偽証罪で告発せよ」「もう一度佐川の証人喚問を実施せよ」「安倍昭恵も喚問せよ」

「佐川宣寿」という人。面識はなく、その個性に関するエピソードも知らない。が、なんとなく哀感が漂う。アベに尽くして、アベに捨てられ、それでもアベに反抗できない。今、どこで何をしているのだろう。これからどうなるのだろう。この人の家族は大変な逆境にあることだろう。

福島県平市の生まれで地元の中学校在学時に父を亡くし3人の兄が学費を負担して都立九段高校に進学というのだから、学業は優秀だったのだろう。一門の与望を一身に担って、その自覚にもよく応えた。二浪して東京大学文科二類に入学し経済学部を卒業後大蔵省に入省。理財局長から国税庁長官まで昇進し次官一歩手前まで上り詰めた。恵まれない境遇から、刻苦勉励して出世コースに乗ったという人物像の典型。銀の匙を加えて育った人種とはおよそ縁が遠い。

その佐川が、巡り合わせから「忖度政治」を象徴する官僚となった。森友事件におけるアベとアキエに対する世論の追及を、防御する立場に立たされたのだ。やり方の選択肢はいくつもあったろう。徹底的に真実を暴露することも、面従腹背でやり過ごすこともできたはずだ。しかし、おそらくは骨の髄まで染みついた官僚としての習性が、徹底したアベとアキエの擁護という方針選択とさせた。

そのハイライトが、3月27日衆参両院の予算委員会での証人喚問である。彼は、宣誓したうえで、アベとアキエを擁護する立場での証言をした。しかしこのとき、彼は政権から懲戒処分(減給)を受けて依願退職をした身であった。退職後に議会で証言して、なお、アベに尻尾を振って見せたのだ。これが哀感漂うという所以である。彼なりの打算もあったのだろうが、その打算は実るはずもない。

その後、6月4日に、彼は「停職3ヶ月懲戒処分相当」とされた。退職した公務員に「停職」である。政権は、尻尾を振った佐川に鞭打って見せたのだ。哀感は深まるばかり。

アベとアキエにしてみれば、トカゲの尻尾は切らねばならず、切った尻尾の勝手はゆるさない。切られた尻尾の逆襲などあってはならないことであり、尻尾の切り口からの化膿も防がなければならない。

だから、政権には、佐川に対する市民団体の刑事告発の成り行きが重大関心事だった。万が一にも、佐川に対する強制捜査や起訴がなされれば、政権が吹っ飛ぶ事態となりかねない。裏で何をしたか何があったか不明だが、佐川にまつわる数々の告発は、すべて不起訴となって、今は大阪検察審査会の判断を固唾の飲んで待つ事態。

このときに、注目すべきは、衆参両院の各予算委員会による告発の成否である。告発の権限は、予算委員会と各院にのみある。告発なければ捜査機関は動けない。
かねてから、野党は佐川を議院証言法における偽証罪で告発するよう与党に提案していた。これができれば、インパクトは大きい。検察庁も強制捜査に動かざるを得ない。動けば政権が危うくなる。

本日(8月3日)衆院与党は、政権の思惑を受けて、野党の誘いには乗れないと見解を表明した。参院与党は週明けの6日に同様の見解表明の予定だという。メディアは、「告発には出席議員の3分の2以上の賛成が必要なため、告発は実現しないことになった」と報じている。

野党側は、佐川の証言には「衆院で5カ所」「参院で4カ所」の偽証があると具体的に指摘している。佐川証言ののちに、財務省が公表した森友学園関係の調査報告書と膨大な公開資料との照合を根拠にしたものである。

これに対して、与党側は、「記憶に忠実である限り、客観的に誤っていたとしても虚偽の陳述に当たらない」「いまや私人である人の告発には慎重であるべき」などというもの。

朝日は、立憲民主党の逢坂議員のコメントを紹介している。

「『記憶の限り』という枕ことばを付ければ、あらゆることが偽証にならなくなり、国会の議論は成り立たない」

また、「国会閉会中の予算委開催や佐川氏らに対し改めて証人喚問を実施するよう求めた」が、与党からの返答はないという。

政権としては、ようやく森友問題に蓋をしたつもりのところ。この蓋を再び開けたくはないという強い思惑がある。ホルマリン漬けの切られた尻尾を再びうごめかしてはならないのだ。

しかし、国会はまた別の立場で動きうる。ここでは世論の動向の読みが事態を動かす。頑なに佐川の口を封じ続けることが世論の大きな反発を受けるという読みの事態となれば、議会は動きうるのだ。

声を上げたい。予算委員会は佐川を偽証罪で告発せよ。もう一度佐川の証人喚問を実施せよ。併せて、安倍昭恵も喚問せよ。徹底して疑惑を解明せよ。溜まった膿を出し切れ。
(2018年8月3日)

DHC関連訴訟10件の提訴目的は、応訴の負担を強いることにある。 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第135弾

DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)に6000万円を請求したスラップ訴訟。私がブログで吉田嘉明を痛烈に批判したことがよほど応えたようだ。人を見くびって、高額請求の訴訟提起で脅かせば、へたれて吉田嘉明批判を差し控えるだろうと思い込んだのだ。そこで、自分を批判する言論を嫌っての「黙れ」という私への恫喝が、当初は2000万円のスラップ訴訟の提起だった。私が黙らずに、スラップ批判を始めたら、たちまち提訴の賠償請求額が6000万円に跳ね上がった。なんと、理不尽な3倍増である。「2000万円で黙らないのなら6000万円の請求だ。それでも黙らなければ、もっとつり上げるぞ」という脅し。この経過自体が、言論封殺目的の提訴であることを雄弁に物語っているではないか。

この私に対するDHCスラップ訴訟では最高裁まで付き合わされた。請求棄却、控訴棄却、上告受理申立不受理決定で、私(澤藤)の勝訴が確定したが、DHC・吉田嘉明が意図した、「吉田を批判すると面倒なことになる」「面倒なことに巻き込まれるのはゴメンだ。だから吉田嘉明を刺激せずに批判は差し控えた方が賢い」という風潮は払拭されていない。そこで、今私は、DHC・吉田嘉明を相手に、スラップ提訴が不法行為となるという主張の裁判を闘っている。これを「反撃訴訟」「リベンジ訴訟」などと呼んでいる。

その反撃訴訟係属部は、東京地裁民事第1部合議係。次回期日は2018年8月31日(金)午後1時30分?、415号法廷である。
次回期日には、当方が準備書面(4)を提出し、立証計画も明らかにすることになる。是非、傍聴をお願いしたい。

本日までの当事者間の書面のやり取りの経過は以下のとおりである。
前々回4月26日の法廷では、澤藤側が「反訴原告準備書面(2)」を陳述した。25頁の書面だが、要領よくなぜスラップの提訴が違法となるかをまとめている。それに対するDHC・吉田嘉明側の反論が、6月1日付の「反訴被告ら準備書面2」として提出された。これがどうにも投げやりな6頁の書面。6月7日付で「反訴原告準備書面(3)」に基づく当方(澤藤側)からの求釈明をしたが、回答は一切拒否の姿勢。そこで、8月13日までに当方が再反論の準備書面(4)を提出の約となっている。

本日は、その準備書面(4)作成のための弁護団会議。骨子がほぼまとまった。
そのさわりの一部をご紹介しておきたい。但し、確定稿ではなく、現実に提出するものとまったく同一ではない。
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☆ 反訴被告吉田の主導による提訴、控訴、上告等
反訴被告ら(DHC・吉田嘉明)による反訴原告(澤藤)に対する前件訴訟を含む10件の高額名誉毀損損害賠償請求訴訟(以下、「関連訴訟」という)の提起及びその各上訴、和解、取下げは、いずれも反訴被告吉田が自己の言動に対する批判の言論(自己の意に反する言論)を封殺する目的をもってしたことを物語るものであって、自己の正当な利益救済のためにしたものではない。
反訴被告吉田は、自己の意見と異なる思想や表現に対して「反日」「左翼」等のレッテルを張って攻撃を繰り返してきた者であるが、関連訴訟10件の提起はいずれもこれと軌を一にするもので、自己を批判する言論を排斥しようとする意図のもとに、訴訟の帰趨についての見通しなどお構いなしに提訴を決意し、その吉田の意向に、代理人弁護士らが従ったに過ぎない。

☆ 「理性による言論」の危機
この10件の関連訴訟は、反訴被告吉田嘉明が訴外渡辺喜美代議士への秘密裡の8億円貸付の事実を自ら週刊誌に暴露したところ、予想外の批判を浴びたことに憤慨し狼狽もして、批判者の言論を封殺しようとして提起されたものである。数多い批判の言論のうち、比較的に社会的影響力があると考えられた当事者のブログや記事を取り上げ、反訴被告らの名誉が毀損されたとして極めて高額な損害賠償請求訴訟を提起し、自己の威勢を示して批判の言論を封殺しようとしたものである。そして、訴訟に敗訴しても、相手方当事者や弁護士、果ては裁判官にまで、反日、左翼等のレッテルを張りつけて自己の正当性を主張し、資金力に飽かせて同じ行動を繰り返している(乙18=産経新聞社が主宰するネットサイトに掲載された吉田の新たなブログ)。
このような形で言論が封殺される事態は「理性による言論の危機」と評せざるを得ない。思想の自由、表現の自由が死に瀕したマッカーシズムの再現ともなりかねず到底放置しえない。

☆ 裁判制度の濫用(スラップ訴訟)
反訴被告らの裁判手続き利用の直接的な目的は、批判者に過重な応訴負担(経済的、精神的負担)を強いることにあった。そして、間接的には批判者の過重な応訴負担を見せしめに、当該各訴訟における被告以外の多くの者に、反訴被告らに対する批判の言論を萎縮させ回避させることにあった。その両者を併せて、自己への批判の言論を封殺する目的の訴訟である。そして、各提訴はいずれも現実にそのように機能しその目的のとおりの役割を果たした。
提訴に際しては、判決における勝ち負け(権利の真の回復)は眼中にないから、勝訴の見込みの十分な検討や、相手方との事前の折衝もないまま闇雲に高額請求訴訟を提訴し、敗訴しても、高裁、最高裁まで裁判を継続することになる。そうすることが、被告とされた者の負担が大きいからである。他方、逆に一部でも勝訴すれば、それが名誉毀損とは無関係の抱き合わせ提訴でのどんな些細な名目的な勝訴でも、「目的達成」として訴訟を終了させる。既に十分な応訴負担を与えているからである。また、相手が応訴負担に耐え切れず屈服したと分かれば、権利回復措置を取らないままの和解、取下げもする。10件の名誉毀損訴訟の顛末はこの事実を見事に描出している。反訴被告らのかかる裁判手続きの利用は明らかな不当訴訟であり、経済的強者による言論封殺を意図したスラップ訴訟(不法行為)である。

☆ 名誉毀損訴訟に限らず、事実の不当な分断や行き過ぎた細分化が、真実を曇らす結果となることは、法律家が経験的事実として知ることであるが、本件は、その教訓を生かさなければならない事件である。他の9件の類似訴訟のなかの1件として、反訴被告らの行った反訴原告に対する事前折衝なしの前件訴訟の提起、さらに訴訟提起を批判したことに対し賠償請求額を2000万円から6000万円に増額する行為、1審敗訴判決後も訴訟継続だけを目的とした勝算の見込みのない控訴と上告(受理申立)、さらに、他の訴訟案件の不合理な和解や取下げといった諸事実は、前件訴訟(DHCスラップ訴訟)が真に吉田嘉明の名誉の回復を目的として提起されたものではないことを雄弁に物語っている。仮に百歩譲って、多少なりとも名誉回復の目的が併存していたとしても、関連訴訟全体の推移を見れば、前件訴訟の提訴の主たる目的が、反訴被告らが自己の言動を批判する言論を現在と将来にわたって封殺するということにあり、勝訴の見込を十分に検討せずに提訴されたスラップ(嫌がらせ)訴訟の提起として、不法行為を構成することが明らかというべきである。

☆ 関連して指摘しておきたい。6000万円という前件訴訟における反訴被告らの慰謝料請求金額の過大さについてである。
訴訟実務における慰謝料額は、交通事故訴訟を中心に類型化されてきた。現時点における死亡慰謝料は一家の支柱の場合でも、2800万円が標準とされている。生命の喪失についての慰謝料が2800万円とされる現在、名誉を毀損されたとする慰謝料が500万円に達すれば、驚くべき高額慰謝料の言い渡しとして話題となる。ましてや、政治的批判の言論については認容判決自体が少なく、仮に慰謝料請求が認容されたとしても、100万円を超えるものは例外的な事例と言って過言でない。
前件訴訟(DHC・吉田嘉明から澤藤に対するスラップ訴訟)における、提訴時2000万円の請求も高額であるが、4000万円の請求の拡張による6000万円は明らかに異常と言うほかはない。死亡慰謝料の倍額をも上回る超高額請求は、訴訟実務から見て前件訴訟の原告らの被害の回復とは明らかに均衡を失している。前件訴訟の提起を表現の自由に対する挑戦として、吉田嘉明批判の発言を継続した反訴原告(澤藤)の言論を封殺する目的としてなされた提訴と断ずべき重要な要素である。

☆ 裁判には、法による紛争解決機能(勝訴による権利回復)以外にも、提訴による立法推進や法政策形成(提訴により事案解決のための法の欠缺や法の不備を知らしめ、早期の立法や行政による政治的・政策的解決を促す)等の機能があり、提訴には複数の目的が併存することが多いが、併存する目的の中に裁判の機能を濫用したものがあり、その不当な目的が主要な因子(それがなければ、提訴に至らない筈)となっていれば、当該提訴中に正当な目的が含まれていたとしても、全体として不当訴訟と評価されるべきで、その関係と判断構造は、処分理由が競合する際の不当労働行為の判断に類比される(例えば、荒木尚志「労働法第3版」684頁等)。
勝訴による権利回復を主たる目的としない訴訟や、勝訴を希望していたとしても、提訴の主たる意図が勝訴による権利回復以外の不当な目的であった訴訟(少なくとも、当該不当な目的がなければ提訴には至らなかったであろうと合理的に推測される提訴)は、勝訴の見込みの全くない不当な提訴と同様、裁判の濫用を意図した提訴として、不法行為となると考えるべきである。

☆ 以上のとおり、反訴被告ら(DHC・吉田嘉明)による前件訴訟提起の主たる目的は、被告とされた者に応訴が義務付けられ過重な応訴負担を余儀なくされる裁判という場を利用しての反訴原告(澤藤)に対する嫌がらせであり威嚇にあった。また、その嫌がらせや威嚇を通じての現在と将来にわたる言論封殺でもあった。封殺の対象とされた言論は、直接には反訴原告(澤藤)のものであったが、間接的には社会全体の吉田嘉明批判の言論であり、さらには言論一般というべきで、DHCスラップ訴訟の提起は、社会の言論の自由を封殺しあるいは萎縮せしめるものと言うべきである。
反訴被告ら(DHC・吉田嘉明)は、反訴原告(澤藤)に対する訴訟提起、請求金額の増額、控訴、上告の全経過を通じて、違法な目的のもとに裁判を受ける権利を濫用したものとして、不法行為による損害賠償の責めを負わねばならない。
(2018年8月2日)

法曹界にはびこる『憲法教』? 稲田朋美炎上ツイートの怪説

月が変わった。戦争と平和をめぐるいくつもの出来事の記憶を喚起すべき8月である。日本国憲法制定の出発点は1945年8月にあった。憲法の平和主義・国民主権・人権尊重を当時に立ち返って確認し、その理念が今にどう生きているかを検証すべき8月。

その8月の入りが異様に暑い。ぶり返しの猛暑は体にこたえる。朝からの暑さを不快と思いつつ赤旗をひろげたら、その2面に不愉快な人物の不愉快な言動についての記事。

稲田朋美の憲法誹謗である。見出しは、「『憲法教という新興宗教』 稲田氏がツイッターで暴言」というもの。皆すなるツイッターもて、落ち目の稲田朋美も復権をはからんとするか。

問題のツイッターは7月29日の夕刻にアップされた下記のもの。
「日本会議中野支部で『安倍総理を勝手に応援する草の根の会』が開催され、私も応援弁士として参加しました。支部長は大先輩の内野経一郎弁護士。法曹界にありながら憲法教という新興宗教に毒されず安倍総理を応援してくださっていることに感謝!」

これが炎上して、30日の昼過ぎに削除されたという。赤旗には、「(すでに削除ずみ)」の投稿写真と「稲田朋美元防衛相のツイート」が掲載されている。ツイートの内容もみっともないが、批判されての翌日の削除は、みっともなさの極み。こんなのが、アベ政権の防衛大臣だったのだ。こんなのを当選させていたのでは、誇り高き越前福井の恥だろう。

赤旗は、「自民党の稲田朋美元防衛相(衆院議員)がツイッターに憲法を敵視した暴言を投稿(7月29日)したことに対し、世論の批判が高まっています。同氏は30日までに投稿を削除しました。」と経過を説明した上で、「国の最高法規である憲法を擁護する立場を『憲法教』『新興宗教』などと攻撃し、安倍首相応援と憲法擁護が対立することを自白した形です」「稲田氏の投稿は、国会議員の憲法擁護義務に明確に反します。投稿を削除したからといって責任は免れません」と手厳しい。

さて、このツイートの憲法に関わる内容が興味深い。「法曹界にありながら憲法教という新興宗教に毒されず安倍総理を応援してくださっていることに感謝!」というだけの短いものだ。稲田は、自分では気の利いた内輪受けの文章を書いたつもりだったのかも知れない。が、こんなときにこそ普段は隠している本性が表れる。憲法に対する無知・無理解、不真面目で揶揄的で真摯に憲法と向き合おうという姿勢を欠くという本性である。実はそのことは、憲法の理念尊重の姿勢に欠けるということ。端的に言えば、稲田は、人権も民主主義も平和もキライなのだ。

「法曹界にありながら憲法教…に毒されず」とは、恐れ入った表現。法曹界とは、実務法律家である裁判官・検事・弁護士の三者をいう。稲田は法曹三者からなる法曹界が「憲法教…に毒されて」いるというのだ。ここには、憲法と宗教の双方に対する侮蔑のニュアンスが込められている。「憲法教」とは、憲法を人類の理性が尊重すべきものとして確認した理念の体系であることの否定にほかならない。あたかも教典のごとく、教祖の祖述をひたすら信仰の対象とする非理性的な観念の体系として拝跪しているという揶揄である。

しかし、法曹界が憲法を尊重し厳格に憲法に従ってその職責を果たすべきことはあまりに当然なのだが、稲田にとっては揶揄すべきことなのだ。稲田は、憲法を知らないだけでなく、法の支配という大原則を理解していない。信仰は個人それぞれに信ずる内容が異なるが、憲法は普遍性を有し誰もが受容せざるを得ないもの、という基本認識に欠けている。

アベ政権は、こんな人物を内閣の一員としたことの政治責任を自覚しなければならない。文民統制の要の立場にあるのが防衛大臣。こんなのがその地位にあったのだ。自衛隊制服組の暴走を心配せざるをえないではないか。

稲田は、問題ツイートの3日前の7月26日夜、「深層ニュース」(BS日テレ)なる番組に出演してこう語っていたそうだ。
「ツイッターで私のイメージというか、本当に右で、歴史問題では修正主義者っていう向きも多いが、いろんな面を発信することができればいいなあと思いまして…。まだまだ未熟なので、手探りで…。まだ1個しかやってないんですけれども…炎上しないように頑張っていきたいと思います!」

「炎上しないように頑張って」発言直後のツイート炎上のお粗末。そもそも、大臣や代議士の柄ではないのが無理して背伸びするからこんなことになる。ツイッターも、やればやるほど、「本当に右で、歴史問題では修正主義者って」イメージを固めるばかり。悪いこと言わない。背伸びや無理はおよしなさい。ツイートも。
(2018年8月1日)

祈祷 民草よアベの責任を忘れたまえ

アマテラスよ、ヤオヨロズの神々よ。
安倍のナニガシ、謹んで申さく。

斉しくヘイカの赤子たる我が民草の諸子をして、
忘れろ、忘れろ、忘れろ。みんなみんな忘れさせたまえ。

侵略戦争を繰り返した近代の歴史を。
植民地支配の血なまぐさい諸々を。
治安維持法による大思想弾圧を。
軍国主義に染め上げた息苦しいあの時を。
1945年の、3月10日を。6月23日を。
そして、8月の6日・9日・15日を。

忘れりゃ気楽。忘れりゃ悩みもなくなるぞ。
みんなが忘れてくれれば、もう一回あの時代を繰り返せる。
そしたら、今度こそ、きっとオレがうまくやる。

忘れろ、忘れろ、みんな忘れろ。
忘却こそか美徳じゃないか。
アベの行状、アベの責任、みんなみんな忘れてしまえ。

NHKへの番組改変圧力も
みっともない政権投げ出しも
ポツダム宣言知らないことも
96条改憲提案も
ニッキョーソもデンデンも
コントロールでブロックも
「あんな人たち」発言も
みんなみんな忘れてしまえ。

忘れろ、忘れろ、みんな忘れろ。
忘却こそ美徳だ。忘れておしまい。

教育基本法の改悪も
特定秘密保護法も
戦争法も共謀罪も
カジノも高プロも
辺野古の新基地建設も
オスプレイもイージスアショアも。
赤坂亭も、稲田や、杉田の重用も。
みんなみんなきれいさっぱり忘れちゃえ。

森友・加計も忘れよう。
アキエの関与も忘れよう。
丁寧に説明すると何度も言ったが、忘れよう。
ウソ・隠ぺい・改ざん・ねつ造・廃棄。
忖度政治も忘れよう。
「政治家やめる」も忘れよう。

さあ、呪文だ。

アブラカダブラ。

あなたの記憶は、次第々々に薄れていく。
私の悪行は、忘却の彼方に消えてゆく。
紅葉のころには薄くなり、
屠蘇のころには完璧だ。
みんなが忘れてくれるから、
地方選も参院選も、バッチリだ。

忘れちゃならないこともある。
オリンピックは楽しいぞ。
カジノやらなきゃ遅れるぞ。
株を持たなきゃ損するぞ。
北朝鮮は危険だぞ。
大きな中国恐ろしい。
憲法変えなきゃ危ないぞ。
軍隊持たなきゃ不用心。
安心国家は、お任せを。

(2018年7月31日)

最高裁の「君が代」判決に、読売社説の追従と小林節の指弾

7月19日の、再雇用拒否第2次訴訟最高裁判決。各紙の社説を見てきたが、朝日・毎日・東京・道新などが確乎とした批判の論陣。これに対し、判決を肯定的に評価したのは産経一紙のみだった。
本日(7月30日)、読売社説が産経に与した。いや、いつものとおり政権側に与したのだ。君が代判決 最高裁は起立斉唱を尊重した」というタイトル。

これを批判の対象として紹介するが、率直に言って極めて格調が低い。いや、そもそもものを考えた論説になっていない。法律論がない、憲法論になっていないというレベルではない。床屋談義並みのイデオロギー剥き出し。この点では、「天下の読売」が産経と変わらない。わが国の保守勢力を代表する大新聞のクォリティがこのレベルではまことに心もとない。

一方的に言い分を言い募るだけでは説得力ある論説とはなり得ない。対立する考え方を咀嚼し、噛み合った批判を提示し、その批判が何ゆえ正当かを論じなければならないが、読売社説にはその姿勢の片鱗も窺えない。そもそも、説得力ある論説を起案しようという意欲に欠ける。そういう眼で、以下の社説をお読みいただきたい。

 入学式などで君が代の起立斉唱命令に従わなかった教員を、定年後に再雇用しなくても、違法とは言えない。穏当な司法判断である。
 起立斉唱せずに戒告などの処分を受けた東京都立高校の元教員らが、それを理由に再雇用を拒否されたのは不当だ、と損害賠償を求めていた。最高裁は訴えを退け、元教員側の敗訴が確定した。
 当時は、再雇用の希望者全員が採用されたわけではない。判決は「選考で何を重視するかは任命権者の裁量に委ねられる」との見解を示した。その上で、都教育委員会の対応が「著しく合理性を欠くとは言えない」と結論付けた。
 再雇用した場合、元教員らが再び職務命令に反する可能性を重視した常識的な判断だ。
 1審は、都教委の対応が「裁量権の逸脱で違法」だとして賠償を命じた。2審もこれを支持したが、最高裁は覆した。不起立については、「式典の秩序や雰囲気を一定程度損なうもので、生徒への影響も否定できない」と指摘した。
 入学式や卒業式は、新入生や卒業生にとって一度しかない大切な儀式だ。厳粛な式典で、教員らが調和を乱すような態度を取ることには到底、理解は得られまい。
 日の丸・君が代を巡っては、「戦前の軍国主義の象徴だ」などとして、起立斉唱を拒む一部教員と学校側の対立が続いてきた。
 都教委は2003年の通達で、式典で起立し、国歌を斉唱するよう教職員に義務付けた。起立斉唱の職務命令に従わなかった多数の教員が処分され、命令の違憲性を争う訴訟が相次いだ。
 最高裁は11年、職務命令は「思想・良心の自由を間接的に制約する面がある」と認めつつ、合憲との初判断を示した。式典での秩序確保の必要性や、公務員の職務の公共性を鑑みた結果だ。
 年金の支給開始年齢の引き上げを受けて、都教委でも現在は、希望者を原則として全員、再雇用している。そうであっても、都教委が「今後も職務命令違反については厳正に対処する」との姿勢を示しているのは適切である。
 言うまでもなく、教員は児童生徒に手本を示す立場にある。小中高校の学習指導要領にも、入学式や卒業式で「国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と明記されている。
 東京五輪・パラリンピックを2年後に控える。子供たちが、自国や他国の国旗・国歌に敬意を表する。その意識を育むことが、教員としての当然の務めである。

これではまるで、原告ら教員が「大切な儀式・厳粛な式典の調和を撹乱する不逞の輩」と言わんばかりではないか。現実を知らないにもほどがある。一人ひとりの教員が、どうして起立できないのか、斉唱できないのか。その理由を真摯に問う姿勢がない。全員が国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表することだけが正しくその強制を当然とする、読売・産経流の感性こそが、全体主義・国家主義の温床である。排外主義・非国民思想の根源でもある。

この読売社説には、原告教員らが拠り所とする、思想・良心の自由(憲法19条)、信教の自由(20条)、表現の自由(21条)、学問の自由(23条)、(国家主義から解放された)教育を受ける権利(26条)、教育に対する不当な支配の禁止(教育基本法16条)などへの言及がまったくない。それでいて、学習指導要領(憲法の下位法規である教育基本法の、その下位の学校教育法の、その下位の法形式である「文科大臣告示」)についての恣意的な引用がなされている。そもそも学習指導要領に法規範としての効力があるか否かも争われているところであり、その学習指導要領ですら国旗国歌を強制せよなどとは言っていない。

本日のブログは読売社説批判に紙幅を費やすつもりでいたところ、適切な批判の記事が目にとまった。昨日(7月29日)の日刊ゲンダイ。小林節(慶応大名誉教授)の「ここがおかしい 小林節が斬る!」シリーズ。「教員の良心の自由を萎縮させる最高裁判決」というタイトル。これを引用させていただく。

小林節は保守の立場であり、改憲派でもある。その言論の多くに賛成はいたしかねる。しかし、産経や読売に比較して真っ当な保守であって、個人主義や自由主義を踏まえた立論で一貫している。この最高裁判決批判も真っ当なものだ。なによりも、国家との関係での「自由」というものの価値を語って小気味よい。

あらためて思う。「国旗に欠礼しただけで5年間の職を奪う」公権力。それを是認する司法。これは、恐ろしいことではないか。どこかの独裁国での出来事ではなく、これが我が国の現実なのだ。既に我が国は、政治的な雅量も寛容も失った、狭量な独裁国家となっているのかも知れない。

 アメリカで、トランプ大統領が黒人差別を擁護するような発言をした直後に、あるプロスポーツの開会式場で国歌斉唱の際に、黒人選手が姿勢を正さず、片膝をつき、黒い拳を突き上げた姿が日本でも放映された。それが「自由な社会」というものである。

? わが国は第2次世界大戦の加害国だという歴史的背景があるために、今でも「日の丸」と「君が代」については論争が絶えない。日の丸は、アジア諸国を侵略した帝国陸海軍の先頭にはためいていたために、軍国主義の象徴として忌避する者は今でも多い。また、かつて大日本帝国憲法の下で天皇制を称える歌として用いられた君が代は、国民主権国家に生まれ変わった現行憲法の下では違憲だと主張する者も多い。

? だから、日の丸と君が代を用いる儀式に素直に参加することができない者も多い。これは、憲法が保障している「良心」の自由(19条)の問題である。

 良心の自由に従って卒業式で日の丸・君が代に「欠礼」した公立校の教員が、懲戒処分を受けた。「式の秩序を乱した」ということで、戒告(単に「叱りおく」こと)はいいとしても、減給、停職は荷重である……と、かつて最高裁は判断した。

? 今月19日、最高裁は、式の秩序を乱したことに加えて、「生徒への影響も否定し難い」点を重視し、定年後の再雇用拒否も合法だとした。これでは二重のペナルティーであろう。

 前述の歴史を考えた場合、教員が良心の自由に従って日の丸・君が代に欠礼した行為は、次代を担う生徒たちが「人権」と公益の関係を考える最高の教材であったはずだ。

? それが当局に全員を再雇用する義務がなかった時期の処分であったとしても、この判決が全国の教育現場を萎縮させてしまう効果に思いが至らない最高裁には失望させられた。

? 40年も前にアメリカに留学した時に、憲法教授が、高名な元最高裁判事の言葉を引用して、「最高裁判事は、単に法律家であるだけでは足りず、政治的な雅量も必要である」と語っていたことが、今回、頭の中に蘇ってきた。その教員は君が代に欠礼しただけで5年間の職を失ったのである。

(2018年7月30日)

文京区議会「『辺野古新基地』建設中止請願」を採択

下記が7月11日(10時43分)にアップされた、琉球新報(デジタル版)の記事新基地中止へ要望書 東京・文京区議会『地方自治反する』」という見出し。この請願者が「文京9条の会連絡会」なのだ。

 東京都の文京区議会(名取顕一議長)は6月25日に名護市辺野古の新基地建設の中止を求める要望書を政府に提出することを賛成多数で採択し、今月4日に首相、防衛相、外相宛てに送付した。
 要望書の送付について6月21日に開かれた委員会で審議し、自民党と公明党の3人が反対したが共産党ほか3会派5人が賛成し、25日の本会議で採択した。東京都の区議会や市町村議会で辺野古新基地建設の中止を求めた要望の採択は、2015年に武蔵野市議会が採択した事例がある。今回はそれに次ぐものとみられる。
 要望書は日本の防衛のためにある米軍基地の負担は全国で平等に負うべきであることや、弾薬庫などを備えた新基地は普天間基地の代替施設ではないことなどを指摘している。その上で「沖縄県民の反対を押し切っての新基地建設は、地方自治・民主主義の精神に反するもの」だとして、辺野古新基地建設中止を求めた。
 区議会に要望書を提出するよう請願したのは文京区の市民らでつくる文京区9条の会(平本喜祿代表)で、5月25日に請願書を提出した。請願書の作成に関わった文京区9条の会の山田貞夫氏は「新基地建設に関し、東京からも反対の声を上げることは意義があると思った。今後も積極的に活動する」と話した。

経過を追うと、以下のとおり。
5月25日 文京9条の会連絡会(代表 平本喜祿)請願書提出   
      紹介議員4名
5月31日 受理? 総務委員会に付託
6月21日 総務委員会審議 賛成5 反対3(自・公)で可決
6月25日 本会議で採択
7月 4日 地方自治法99条に基づき、首相、防衛相、外相宛てに意見書提出

この請願の詳細は下記のとおりである。
受理年月日及び番号 平成30年5月31日 第3号
件 名  沖縄「辺野古新基地」建設の中止を求める請願
請願者  文京9条の会連絡会(代表 平本喜祿)
紹介議員 藤原美佐子 浅田保雄 関川けさ子 宮崎文雄
付託委員会 総務区民委員会

請願事項 沖縄の「辺野古新基地」建設の中止を国に求めること。

請 願 理 由

 沖縄にある米軍基地の大部分は、米軍占領下で造られたものです。米軍基地の集中に伴い、婦女暴行などの刑事犯罪が頻発し、加えて、ヘリコプターの墜落事故なども続発しており、沖縄県民の生活・安全が脅かされています。
 このような状況下で、沖縄県民は辺野古の新基地建設に反対しています。
 理由は、
?沖縄にとって命の源ともいえる海を埋め立てることは認められない。
?米軍基地は日本の防衛のためのものであり、その負担は全国で平等に負うべきである。沖縄だけへの押し付けは差別である。
?辺野古新基地は普天間基地の代替だと政府は言っているが、強襲揚陸船の係船護岸や弾薬庫などを備えた新基地であって代替基地ではない。
などです。
 わたしたちは、この沖縄県民の辺野古新基地建設反対の理由に賛同いたします。また、沖縄県民の反対を押し切っての新基地建設は、地方自治・民主主義の精神にも反すると考えます。これらの理由から、辺野古新基地建設は中止されるべきだと考えます。
 わたしたちのこのような請願の理由にご賛同いただき、下記請願を採択され、政府並びに関係省庁に対して要望書を提出していただけるよう要請いたします。

なお、この請願に賛成した会派は共産・未来・永久・市民・まちづくりの5会派。反対したのは自民と公明の2会派。

また、地方自治法99条は、「普通地方公共団体の議会は、当該普通地方公共団体の公益に関する事件につき意見書を国会又は関係行政庁に提出することができる。」としている。国民の声を国政に反映させるチャンネルの一つである。

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私は、「本郷・湯島9条の会」に所属する。「会」には会長がおり、会合は定期に行っているが、会費があるわけではなく、会員名簿も見たことはない。それでも、月一回の街宣行動はにぎやかに途切れることなく4年余も継続している。そして、ときおり、他の9条の会との共催で集会を企画する。

「本郷・湯島9条の会」以外に、文京区内には、各地域にも学園や職場にも少なからぬ「9条の会」があるようだが、正確な数は知らない。「文京9条の会連絡会」が行ったというこの請願のことも事前には知らなかった。また、請願採択に賛成した、文京区議会内の「共産・未来・永久・市民・まちづくり5会派」の連携についても、よくは知らない。

よくは知らなかったが、我が地元文京区には、市民運動においても、議会内の力関係においても、自・公の反対を押さえて、「沖縄「辺野古新基地」建設の中止を求める請願」を採択させるだけの力量と良識があるのだ。この請願採択を実現した関係者の努力に敬意と感謝の意を表したい。

二つ印象を書き留めておきたい。
一つは、冒頭に紹介した琉球新報の記事である。小なりとはいえ、1自治体の区議会がこのような請願を採択していることが、沖縄の運動体を励ます一助となっていることだ。
辺野古新基地建設問題については、沖縄と「本土」の運動の連携の必要が語られる。本土は具体的に何をすればよいのか。さまざまな試みがあるが、地元の地方議会での請願採択という方法もあるとを示した。

もう一つ。今回の請願採択は、市民と野党の共闘の成果にほかならない。文京区議会内の「共産・未来・永久・市民・まちづくりの5会派」が共闘に成功すれば、自・公という反平和勢力を凌駕するのだ。自・公は、少数派として孤立した途端に反憲法・反平和・反福祉の本性を露わにせざるを得ない。

毎月一度の街頭で喉を枯らしての訴えに、毎回確かな手応えを感じられるわけではない。しかし、今回の区議会での請願採択は、多くの人々の地道な努力の積み重ねの結果だろうと思わせる。

さて、もうすぐ8月。戦争と平和を熱く語るべき8月の「本郷・湯島9条の会」街頭宣伝行動は14日(火)の昼休み。おそらくは、炎天下真昼の本郷三丁目交差点は厳しい熱暑。しかし、アベにも負けず、夏の暑さにも負けぬ気概で、「9条の会」の活動に取り組みたい。
(2018年7月29日)

沖縄は、いまだにアメリカと日本の二重の占領支配を受けているのか。

昨日(7月27日)、翁長沖縄県知事が辺野古新基地建設のための海面埋立承認を撤回の意向を表明しその手続が始まった。仲井眞前知事の大浦湾埋立「承認」を、承認時とは事情が変わったとして「撤回」することになる。当然、工事は続行できなくなる。新基地建設のための工事を続行するためには、国から県に対する「撤回処分の取消し」を求める提訴が必要となる。

本日(28日)、各紙が社説に取り上げている。ことの性質上、各紙の立場を鮮明にするものとなっていることが興味を惹く。

まず、沖縄2紙の社説。いずれも胸を衝くものがある。地元の願いや悩みをよく伝えているだけでなく、経過や問題点の指摘も詳細である。この2紙の社説と、読売・産経の、高飛車で冷ややかな社説とを読み較べられたい。維新直後の琉球処分以来の、本土による沖縄への差別意識が連綿と続いていることがよく分かる。太平洋戦争において、本土防衛のための捨て石にされた沖縄の歴史が持続しているのだ。

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琉球新報(7月28日)社説
埋め立て撤回表明 新基地建設断念求める

翁長雄志知事が辺野古埋め立て承認の撤回を表明した。新基地建設を強行してきた政府はさまざまな対抗措置を準備しているとみられ、再び司法の場での争いになると予想される。政府がやるべきことは、長年基地の過重負担に苦しんでいる沖縄の状況を是正することである。知事が民意を背に決断したことを尊重し、辺野古新基地建設を断念すべきだ。
?
 2014年知事選で勝利した翁長知事は、仲井真弘多前知事による辺野古埋め立て承認を取り消した。代執行訴訟や和解、国地方係争処理委員会(係争委)の審査などを経て、最後は国が提起した不作為の違法確認訴訟で県が敗訴した。知事が「取り消し」を取り消したため、承認の効力が復活し現在に至っている。
? 承認に違法性がある場合に承認時にさかのぼって効力を失わせる「取り消し」に対し、承認後に生じた違法行為を根拠にする「撤回」は、その時点で効力を失わせる。いずれも公有水面埋立法で定められた知事の権限であり、事業者である国は埋め立ての法的根拠を失う。国の姿勢が変わらなければ、事業者の言い分を聞く聴聞を経て、知事は撤回を行うことになる。
 国と県が裁判で繰り返し争うのは正常な姿ではない。政府の一方的な姿勢が県を訴訟に追い込んできた。岩礁破砕を巡っても、政府が県の許可を一方的に不要と主張し強行した。県は差し止め訴訟を起こし、現在も係争中だ。
? 15年の承認取り消し後の代執行訴訟では、裁判所が勧告した和解が成立した。しかしすぐに国が是正指示を出したため県は係争委に審査を求めた。係争委委員長は法的判断を回避した上で「国と沖縄県は真摯に協議し、双方がそれぞれ納得できる結果を導き出す努力をすることが、問題解決に向けての最善の道である」と述べた。しかし、ほとんど協議せず国は新たな提訴に踏み切る。裁判所や係争委の意向を国は無視した。
? そもそも国土の0・6%にすぎない沖縄県に全国の米軍専用施設面積の約70%が集中していることが問題の根本だ。基地の過重負担を強いながら、基地縮小を求める県民大多数の民意を無視し、貴重な自然を破壊する工事を強行する。このようなことが沖縄以外でできるだろうか。
? 辺野古に新基地を建設することについて自民党の石破茂元幹事長でさえ「ベストでもベターでもない。ワーストではないという言い方しかできない」と述べた。ワーストでない所なら沖縄以外にいくらでもあるはずだ。普天間飛行場の代替施設がどうしても必要と言うなら、沖縄以外に求めるべきである。他県には決して振りかざさない強権を沖縄には突き付ける。二重基準であり、差別そのものだ。
? 知事の決断を多くの県民が支持している。その民意に向き合うよう改めて政府に求める。建設強行に未来はない。

沖縄タイムス・7月28日社説
[辺野古撤回手続き]正当性を内外に訴えよ

法廷で再び国と争うことになる重い決断であるが、国は勝訴を見越して平然としている。

 本来問われるべきは、問答無用の姿勢で工事を強行し、知事をここまで追い詰めた国の行政の公正・公平性であり、あまりにも理不尽な基地の恒久的押しつけである。負担軽減と言いながらその自覚すらないことに深い危惧の念を覚える。

 翁長雄志知事は27日会見し、前知事が行った辺野古沿岸部の埋め立て承認を撤回するため、事業者である沖縄防衛局への聴聞手続きに入ることを明らかにした。
 「撤回」は、埋め立て承認後に違反行為が確認されたり、公益を損なうような問題が浮上したときに、承認の効力を失わせるものである。
 「撤回」のハードルは高い。それ相当の理由づけが必要だ。県庁内部では、技術的な理由から土木建築部などが「撤回」に二の足を踏み、意見集約が遅れた。

 辺野古現地で反対行動を展開する市民からは「撤回」を求める悲鳴にも似た声が日に日に高まっていた。知事不信さえ広がりつつあった。

 国は6月の段階で県に対し、8月17日から土砂を投入する、と通知している。その先に控えているのは11月18日の知事選だ。知事の決断は、埋め立て予定地への土砂投入が迫る中、時間的にも、支援団体との関係においても、県庁内の調整という点でも、ぎりぎりのタイミングだった。

 記者会見で翁長知事は「撤回」の理由として、埋め立て承認の際に交わされた留意事項に反して工事が進められていることを挙げた。事業全体の実施設計も環境保全策も示さないまま、事前協議をせずに工事を進め、県の再三の中止申し入れにも応じてこなかった。

 大浦湾側に倒壊の危険性がある軟弱地盤が存在すること、新基地建設後、周辺の建物が米国防総省の高さ制限に抵触することなども、埋め立て承認後に明らかになった問題点だ。

 個々の問題に対する国と県の見解は、ことごとく異なっている。
 国が「撤回」の効力停止を求め、裁判に訴えるのは確実である。その場合、「撤回」が妥当かどうか、その理由が大きな争点になるだろう。
 翁長知事の埋め立て承認「取り消し」は2016年12月、最高裁によって違法だと見なされ、県側の敗訴が確定した。「撤回」を巡る訴訟も楽観論は禁物だ。
 米軍基地を巡る行政事件だけに、なおさら、厳しいものになるのは確実である。

 沖縄県はどこに展望を見いだすべきなのか。
 県が埋め立て承認を「撤回」した場合、国と県のどちらの主張に「正当性」があるかという「正当性」を巡る議論が一気に高まるはずだ。
 国は、普天間飛行場の早期返還のためと言い、負担軽減を確実に進める、と言う。「最高裁判決に従って」とも強調するようになった。菅義偉官房長官の定例会見で国の言い分は連日のように茶の間に流れ、ネットで拡散される。

 国の主張する「正当性」が日本全体を覆うようになれば、沖縄の言い分はかき消され、「安全保障は国の専権事項」だという言葉だけが基地受け入れの論理として定着することになる。
 「国の専権事項」というお決まりの言葉を使って、普天間飛行場の代替施設を九州に持って行かないのはなぜなのか。
 日米地位協定が優先される結果、情報開示は不十分で、事故が起きても基地内への立ち入り調査ができず、飛行制限に関する約束事も抜け穴だらけ。沖縄の現実は受忍限度を超えている。

 「『沖縄県民のこころを一つにする政治』を力の限り実現したい」と翁長知事は言う(『戦う民意』)。知事の苦悩に満ちた決断を冷笑するような日本の政治状況は危うい。沖縄の主張の「正当性」を幅広く内外に発信していくことが今ほど切実に求められているときはない。

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各全国紙の社説を対比してみよう。朝日・毎日・読売・産経の順に。

朝日・7月28日社説
辺野古工事 目にあまる政府の背信

 沖縄県・辺野古で進む米軍基地の建設について、翁長雄志知事がきのう、海面の埋め立て承認を撤回すると表明した。

 県が理由にあげた数々の指摘は、いずれも重い。これにどう答えるのか。近く開かれる聴聞手続きで、政府は県民、そして国民に対し、納得できる説明をしなければならない。

 今回、県に「撤回」を決断させた最大の要因は、今月初めに沖縄防衛局が県側に部分開示した地質調査報告書の内容だ。埋め立て用の護岸を造成する沖合の海底の一部が、砂や粘土でできていて、想定とは大きく異なる軟弱地盤であることを示すデータが多数並んでいた。

 地盤工学の専門家によると、難工事となった東京・羽田空港の拡張現場の様子に似ていて、「マヨネーズくらい」の軟らかな土壌が、深さ40メートルにわたって重なっている。政府が届け出ている設計や工法では建設は不可能で、その変更、そして費用の高騰は避けられないという。

 驚くのは、報告書は2年前の3月に完成していたのに、政府は明らかにせず、県民や県の情報公開請求を受けてようやく開示したことだ。加えて、「他の調査結果を踏まえて総合的に強度を判断する」として具体的な対策を打ち出さず、工法の変更許可も申請していない。

 他の部分の工事を進めてしまえば、引き返すことはできなくなる。設計変更はそれから考えればいい。予算はいくらでもつける。秋には知事選が予定されているので、政府に理解のある候補者を擁立して、県の抵抗を抑えこもう――。そんなふうに考えているのではないか。

 県と県民を裏切る行いは、これまでもくり返されてきた。

 13年に前知事から埋め立て承認を受けた際、政府は海域のサンゴや海草、希少種の藻を事前に移植すると言っていた。だが守らないまま工事に着手。さらに、来月にも海への土砂投入を始めると表明している。資材の運搬方法についても、陸路を経由させて海の環境を保護する、との約束はほごにされた。

 権力をもつ側がルールや手続きを平然と踏みにじる。いまの政権の根深い体質だ。これでは民主主義はなり立たない。

 安倍首相は「(16年末の)最高裁判決に従って、辺野古への移設を進める」とくり返す。だが判決は、前知事の埋め立て承認に違法な点はないと判断したもので、辺野古に基地を造れと命じたわけではない。
軟弱地盤という新たな事実が判明したいま、新たな対応が求められるのは当然である。

「目にあまる政府の背信」というタイトルからして、県民の立場から政府を批判する内容になっている。県が撤回の理由にあげた数々の指摘はいずれも重いとして、政府に納得できる説明を求めている。なかでも、地質調査報告による軟弱地盤問題を重視している。

 

毎日新聞・7月28日社説
辺野古埋め立て工事 知事選を待った方がよい

 ……政府は土砂投入によって埋め立ての既成事実化を進め、移設阻止を掲げる翁長氏を支持してきた側のあきらめムードを誘いたいのだろう。

 翁長氏自身が健康不安を抱え、移設反対派の知事選候補が定まらない中、土砂投入の開始を遅らせることで求心力を保つ狙いもあるようだ。

 知事選前に工事を再開するかどうか、国側も難しい判断を迫られる。強引に進めれば県民の反発を招き、自民、公明両党の支援する候補に不利に働くかもしれない。

 普天間飛行場の危険性は誰の目にも明らかなのに、辺野古への移設をめぐって国と県の関係がここまでこじれた原因は安倍政権の強権的な姿勢にあるといわなければならない。
 4年前の知事選で示された民意と向き合うどころか、移設反対派を抑えつけ、県との対立をエスカレートさせてきた。今年2月の名護市長選では現職を落選させるため、補助金を使って住民の分断をあおった。
 こうした政権側の姿勢を翁長氏は「傍若無人」と批判している。
 分断と対立をできる限りなくすのが政府の務めではないか。そのためには知事選の結果を待ったうえで土砂投入の是非を判断した方がよい。

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読売・7月28日社説
辺野古移設問題 承認撤回は政治利用が過ぎる

 工事を止めるために手段を選ばない。政府との対立をあおるかのような姿勢は甚だ疑問だ。
 沖縄県の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画で、翁長雄志知事は埋め立て承認の「撤回」手続きに入る方針を表明した。「あらゆる手法を駆使して辺野古に新基地は造らせない」と語った。
 政府は来月17日、護岸工事が終わった海域で土砂の投入を開始する。県は、沖縄防衛局から意見を聞いた上で、土砂投入の前に正式に撤回を決める構えだ。工事を中断させる狙いがあるのだろう。
 翁長氏は撤回の理由について、サンゴの移植など環境保全措置が不十分だと主張したほか、埋め立て海域の災害防止の協議に政府が応じない、と批判した。

 政府は、希少なサンゴについては移植の準備を進めている。県との協議も定期的に行っている。県の主張は一方的ではないか。
 辺野古の埋め立て承認の問題は司法の場でいったん決着した。
 翁長氏は2015年、前知事による承認手続き時に瑕疵があったとして、承認の「取り消し」を行った。最高裁は翌年、翁長氏の判断を違法と結論づけている。
 県は、「撤回」は承認後の違反が理由であり、「取り消し」に関する最高裁判決は影響しない、と主張している。
 政府の法的な正当性を認定した司法の判断を軽視するものだ。工事停止ありきの姿勢は、強引との批判を免れまい。
 撤回が決まれば移設工事は一時的に止まる。国は、撤回の取り消し訴訟を起こすほか、執行停止を申し立てて対抗する。辺野古移設を巡る訴訟は6件目となる。
 法廷闘争が繰り返される事態は異常だ。不毛な対立を多くの県民も望まないのではないか。
 沖縄では11月に知事選が行われる。翁長氏は4月にがんの手術を受け、出馬するかどうか明言していないが、工事を遅らせることで基地問題に再び焦点をあてようとしているのだろう。
 国家の安全保障にかかわる問題を政争の具とすべきではない。
 辺野古移設は普天間飛行場の危険性を除去し、米軍の抑止力を維持する現実的な選択肢である。
 移設計画は、過去の訴訟の影響で工事が再三中断し、大幅に遅れている。日米両国は、早ければ22年度の普天間返還を目指しているが、難しくなっている。
 政府は移設の重要性を地元住民に丁寧に訴え、理解を得る努力を続けなければならない。

国と県との状況認識がまったく異なるように、地元二紙と読売の認識も真逆である。読売には、基地の負担を沖縄に押しつけていることについての心の痛みがない。「国家の安全保障にかかわる問題を政争の具とすべきではない。」という、この大新聞の切って捨てるがごとき断定には背筋が寒くなる。「地方は国に逆らうな」「沖縄は、日本のために我慢せよ」「もう、県民の我が儘は許さない」と言っているのだ。

産経・7月28日社説
辺野古埋め立て 知事は「承認撤回」中止を

? 米軍普天間飛行場の辺野古移設は、平和のための抑止力確保と普天間周辺の県民の安全を両立させるためのものだ。その意義は、いささかも減じていない。

 沖縄県の翁長雄志知事が移設を阻止するため、県の関係部局に対し、前知事が出した埋め立て承認の撤回手続きに入るよう指示した。

 県民を含む国民の安全確保と、北東アジア地域の平和の保持に逆行する誤った対応である。翁長氏は撤回手続きを中止すべきだ。

 国は、早ければ8月17日にも辺野古沿岸部への埋め立て土砂投入を始める予定だった。

 承認撤回の決定は8月半ばになる見通しで、国が裁判所に撤回の執行停止を申し立て、認められれば数週間後には土砂投入が可能になる。その後、国と県は法廷闘争に入ることになる。
?11月には、翁長氏の任期満了に伴う県知事選がある。

 撤回劇を演じることで移設反対の世論をかき立て、選挙戦を有利にしようとする思惑があるとみられても仕方ない。

 翁長氏は会見で、移設工事の環境保全措置が不十分であることなどを理由にあげ、埋め立て承認について「公益に適合し得ないものだ」と語った。

 国は希少サンゴの移植など環境保全に取り組んできた。埋め立て承認自体を撤回すべきほどの不手際が国側にあるとはいえまい。

?菅義偉官房長官が会見で、県の通知には法令に従って対応するとした上で、「移設工事を進める考え方に変わりはない」と述べたのは極めて妥当だ。

翁長氏は会見で、米朝首脳会談などが「緊張緩和」をもたらしたため、辺野古の埋め立ては「もう理由がない」と語った。これも誤りである。

 北朝鮮は核・弾道ミサイルを放棄しておらず、依然として脅威である。尖閣諸島(沖縄県石垣市)をねらう中国の軍事的圧力は高まっている。これを理解しない翁長氏の情勢認識は間違っている。陸上自衛隊の石垣島配備受け入れと協力を表明した中山義隆石垣市長に学んだらどうか。

 沖縄を含む日本や北東アジア地域の平和を守る上で、沖縄の米軍は欠くことのできない役割を果たしている。市街地の真ん中にある普天間飛行場の危険性を取り除くことも急務である。

産経は、読売以上にイデオロギッシュで高飛車である。安全保障のためなのだから文句を言うなとの論旨。産経によれば、「北朝鮮も中国も危険な存在」なのだから、沖縄に米軍の駐留は不可欠なのだ。だから翁長知事は間違っている、という聞く耳を持たない姿勢。だから、承認撤回手続きを中止せよという。

薩摩による琉球侵攻(1609年)以来、琉球王国は明と薩摩の両国に二重服属の状態を余儀なくされた。読売・産経の論調はその再来を思わせる。アメリカと日本、駐留米軍と自衛隊によって、沖縄は二重の占領関係にあるのではないか。
時代は違う。県民の意思を、問答無用と切り捨ててはならない。
(2018年7月28日)

社会的弱者を差別し侮蔑する言論の自由はない

いま話題の政治家といえば、杉田水脈。つい先日まで、表舞台では殆ど無名だったこの人の名が、今や各紙に大きく躍っている。まさしく、注目度ナンバーワンの話題の保守政治家。いや、極右の政治家。

なんと、本日(7月27日)の赤旗一面のトップ記事に登場している。杉田水脈、大したものではないか。
「LGBT『生産性ない』の杉田暴言」「かばう自民に抗議殺到」「人生観の問題ではない」という大きな見出し。

リードだけをご紹介すれば、「自民党の杉田水脈(みお)衆院議員が月刊誌にLGBT(性的少数者)のカップルは『子どもを作らない、つまり生産性がない』と攻撃し、行政支援への否定的見解を示す論考を寄稿した問題で、LGBTや支援者の団体から厳しい抗議の声が上がっています。批判は杉田氏を擁護する安倍政権や自民党にも向けられ、杉田氏の議員辞職を求める抗議行動が各地で予定されるなど、抗議は全国に広がっています。」というもの。

その杉田の言動に対するメディアの批判の典型が、一昨日(7月25日)の毎日社説だろう。「杉田水脈議員の差別思考 国民の代表とは呼べない」という標題。筆鋒峻厳である。その一部を引用する。

「特定の少数者や弱者の人権を侵害するヘイトスピーチの類いであり、ナチスの優生思想にもつながりかねない。明らかに公序良俗に反する。
 国民の代表として立法権を行使し、税金の使い道を決める国会議員には不適格だと言わざるを得ない。
 杉田氏はこれまでも、保育所増設や夫婦別姓、LGBT支援などを求める動きに対し『日本の家族を崩壊させようとコミンテルン(共産主義政党の国際組織)が仕掛けた』などと荒唐無稽(むけい)の批判をしてきた。
 『安倍1強』の長期政権下、社会で通用しない発言が自民党議員の中から後を絶たない。「育児はママがいいに決まっている」「がん患者は働かなくていい」など、その無軌道ぶりは共通している。
 杉田氏は2012年衆院選に日本維新の会から出馬して初当選し、14年は落選したが、昨年、自民党が比例中国ブロックで擁立した。安倍晋三首相の出身派閥である細田派に所属している。杉田氏の言動を放置してきた自民党の責任は重い。」

いちいちごもっとも、と言うほかはない。

政党の批判としては、昨日(7月26日)付けの立憲民主党の抗議文が鋭い。同党の公式サイトに掲載されたもので、「立憲民主党 SOGI(性的指向、性自認)に関するPT」座長・西村智奈美衆議院議員名のものである。

 子どもを産むか否かで差別することは、憲法が尊重する基本的人権、自己決定権を否定する思想であり看過できない。差別を禁じた憲法を遵守すべき国会議員が、自ら差別との自覚をもてないまま発言したことに驚きを禁じ得ない。直ちに発言の撤回と謝罪を求める。
 あわせて、自民党の二階幹事長は、今月24日の記者会見において、「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べた。政党として、さまざまな考え方を容認することは当然のことながら、幹事長という立場にありながら、差別への無理解、無自覚を露わにした所属国会議員を問題なしとする言動は、差別そのものを公党の幹事長が容認したととれ、社会的影響も鑑み、許されるものではない。あわせて、撤回と謝罪を求める。

この件については、公明党の山口那津男代表までが、昨日(26日)の記者会見で、「子供を産む、産まないことを非難がましくいう言動はいかがなものか」と、やんわりながらも批判した。衆目の一致するところ、自民党政治家による歴史修正主義や排外主義、民族差別、性差別、人権軽視等々の右翼的発言の背後には、安倍執行部の存在があるのだから、山口の杉田に対する「やんわり批判」は、安倍に対する批判でもある。

同じ記者会見で、山口は「多様な生き方を認める寛容な社会を作っていくことが我々の方針だ」と強調したという。

杉田の差別発言を擁護したのが、二階俊博自民党幹事長。24日の記者会見の発言を、朝日はこう報道している。
「自民党の杉田水脈(みお)衆院議員が寄稿で同性カップルを念頭に「子供を作らない、つまり『生産性』がない」と記述した問題で、二階俊博幹事長は24日の記者会見で「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べ、問題視しない考えを示した。
 二階氏は「右から左まで各方面の人が集まって自民党は成り立っている。(政治的立場での)そういう発言だと理解したい」とした。一方で、「当事者が社会、職場、学校の場でつらい思いや不利益を被ることがないよう、多様性を受け入れていく社会の実現を図ることが大事だ。今後も努力していきたい」とも述べた。」

えっ? 「右から左まで各方面の人が集まって自民党は成り立っている」んですって? それは知らなかった。私は、「極右から穏健右派までが集まって自民党は成り立っている」と思っていましたが…。どこかに、左の隠し球でもあるんですかね。

舌足らずの二階発言だが、少し言葉を補えば、こんなことだろう。
「人それぞれの政治的立場や人生観、考え方があって当然。自民党は、右から左まで幅広い多様な立場から成り、杉田発言もそのような多様性の中の一つで、特に問題はない。」

もう少し分かり易く言えば、「思想も表現も自由だ。思想や表現の多様性こそが重んじられるべきで、杉田の差別発言も多様性の内のものだ。批判されるものには寛容が求められる」となろう。

これは、おかしい。杉田の差別発言は多様性を否定する内容。多様性を否定する発言が、多様性尊重のゆえをもって擁護されるのは、論理矛盾ではないか。キミの多様性は認めない。ボクの多様性だけは無限に認められるべきだ。これは、ボクには都合がよい理屈。

表現の自由は、この社会における最重要な価値の一つだが、万能でも無制限でもない。他の諸価値と衝突するときには、自ずから調整され制約を受けざるを得ない。権力を持つ者に対する批判の政治的言論は最大限の尊重を要するが、他の個人の尊厳を傷つける差別言論が許容されてよいはずはない。

LGBTという社会の少数派であり、それゆえに弱い立場にある者を傷つける差別言論が許容される余地はない。杉田議員と二階幹事長には、次の言葉をお贈りしておこう。肝に銘じておかれたい。
「世の中には、言ってよいことと悪いことがある。」「権力や多数派に対する批判の言論は大いに行ってよい。しかし、社会的弱者を差別し侮蔑する言論の自由はない。」
(2018年7月27日)

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