澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

学校儀式における「日の丸・君が代」の呪縛

本日(11月8日)の赤旗「学問文化」欄に、有本真紀立教大学教授の「学校儀式」に関する論文が掲載されている。連載企画「統制された文化」の一論稿。タイトルは、「権力を追認させ批判くじく」とつけられている。簡潔に学校儀式の歴史をまとめて述べた後、「集団化徹底の卓越した技術」との小見出しで次のようにまとめられている。

「儀式は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法である。人びとが儀式に参集し、同じ対象に向かって一緒に同じ所作を行い、同じ言葉を発する。それ自体が権力を成立させ、追認させるのだ。さらに、儀式にはタブーが伴い、その徹底が聖性を生み出す。

人びとは、価値観や信念など共有していなくても、儀式でともに行為し、タブーを守ることによって、連帯する集団の一員と化してしまう。『一同礼』『斉唱』と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、主義主張の現れだとみなされる。日本の学校は、儀式という卓越した集団化、国民統合の技術を駆使してきた。

儀式の時空において、ともに同じ行為をくり返すことで、子どもの身体は『ぼくたち/私たち』の身体へと束ねられた。
祝日大祭日儀式や教育勅語が廃止されて70年余り。しかし、学校は儀式の呪縛から解かれたのだろうか。人間社会から儀式が消滅することはないが、改めて現代の学校儀式を問い直す必要があるだろう。」

まったく同感であり、優れた論稿だと思う。論者の専門は、「歴史社会学」だという。論稿には、戦後の学校儀式の中心に位置している「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」への言及がない。しかし、まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)斉唱の強制こそが、問い直されなければならない。
私なりに再構成させてもらえば、次のようなことになろう。
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「日の丸に正対して起立し君が代を斉唱するという儀式的行為は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法として有効であればこそ、全国で採用され、強制されている。人びとが卒業式という学校儀式に参集し、号令のもと一斉に起立して国家の象徴である国旗(「日の丸」)に正対し、威儀を正して一緒に声を揃えて国家の象徴である国歌を唱う。同一の集団に属する者が、同じ所作を行い同じ言葉を発すること、それ自体がその集団に属する者に対する権力を成立させ、あるいは国家主義的権力を追認させるのだ。
さらに、儀式にはタブーが伴う。仰ぎ見ることを強制される国旗(「日の丸」)は、大日本帝国の国旗でもあった。帝国が国是とした侵略戦争の象徴でもある。この旗の真紅は、戦争に倒れた無数の人々の犠牲の血を連想させるが、これを口にしてはならない。国歌(「日の丸」)は天皇への讃歌だ。神の子孫であり、自らも現人神と称したその天皇を讃える聖歌。かつての臣民が天皇を貴しとして唱った歌が、国民主権の今の世にふさわしからぬことは自明なのだが、それを口にしてはならない。そのタブーを共有し徹底することが儀式の聖性を生み出す。

生徒も父母も、校長も教員も、そして来賓も、つまりは学校を取り巻く社会が、一人ひとりは価値観や信念など共有していなくても、卒業式で、起立して一緒に君が代を唱うという行動を通じ、国家や天皇や現行社会秩序への抵抗をもたないと宣誓することによって、連帯する集団の一員と化してしまうのだ。『一同起立』『国歌斉唱』と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、そして、国家や社会に従順ではない主義主張の現れだとみなされる。

世界に冠たる「踏み絵」という内心あぶり出しの技法を編み出した日本の権力者の末裔は、学校という場において、学校儀式という卓越した集団化、国民統合の技術を開発し駆使してきた。その儀式の時空において、ともに同じ行為をくり返すことで、子どもの身体は個性主体性を削ぎ落とされて、『ぼくたち/私たち』の身体へと束ねられた。かつては臣民の一人として。今は従順なる国家権力の僕として。
(2017年11月8日)

トランプを歓迎した日本政府と、トランプに抗議する韓国の民衆。

歓迎すべからざる不作法な人物が、慌ただしく東から来て、名残惜しげに西に去った。
ほぼ48時間の滞日中のなんとも不躾な振る舞いは、とうてい大国の大統領とは思えない。どう見ても、ふてぶてしい殺戮兵器の悪徳商法セールスマン。自分で戦争の緊張を煽っておいて、心配だろうから際限なく武器を買えという、この上ない厚かましさ。

この厚かましい悪徳セールスマンに、プライドを捨てて腰をかがめ、にやけた表情を崩さなかった情けない男が、我が国の首相である。これまた、一独立国のトップの姿とは思えない。まことに、ジャイアンとスネ夫の関係を彷彿とさせる。

イバンカ、トランプ、メラニーのもてなしぶりは、屈辱以外の形容をもたない。日本国民として赤面せざるを得ない。

そのトランプの世論調査による支持率について、米紙ワシントン・ポストが5日伝えるところでは、「過去70年で最低 支持率37%」だという。「就任から同時期の過去約70年の歴代大統領で最低の37%だとする世論調査結果を発表した。不支持率は59%だった。」「35%が業績を高く評価すると答えたが、65%は否定的な見解を示した。前政権が導入した医療保険制度(オバマケア)の見直しなど重要公約が軒並み停滞していることが主因。北朝鮮対応で、51%がトランプ氏を『全く信用できない』とした。」

アメリカ国民の過半が『全く信用できない』というトランプとの会見の結果が、以下のとおりである。
「この2日間にわたり、ドナルドと国際社会の直面する様々な課題について、非常に深い議論を行うことができました。その中でも圧倒的な重要性を占めたのは北朝鮮の問題です。十分な時間を掛けて北朝鮮の最新の情勢を分析し、今後とるべき方策について、完全に見解の一致を見ました。
日本は、全ての選択肢がテーブルの上にあるとのトランプ大統領の立場を一貫して支持しています。2日間にわたる話合いを通じ、改めて、日米が100%共にあることを力強く確認しました。」(官邸の公式ホームページから)

トランプは、「北朝鮮との戦争を選択肢として排除しない」と明言し、アベは、戦争という選択肢を含んで、「100%共にあることを力強く確認」したというのだ。かたや、なんたる醜悪。そして、こなた、なんたる邪悪。

悪徳セールスマンの本領は、日本に米国製の防衛装備品をさらに購入していくことの押しつけに表れた。トランプはアベに、「非常に重要なのは、日本が膨大な兵器を追加で買うことだ」と具体的な武器の名を挙げてたたみ込み、「そのことが米国での雇用拡大と日本の安全保障環境の強化につながる」とのセールストークを続けた。これにアベは何と答えたか。「日本の防衛力を質的に、量的に拡充していかなければならない」としたのだ。いったい誰の金を使って、誰の命を奪おうというのか。

史上最低支持率大統領を、過剰なオモテナシで歓待したのが日本政府であり、彼にふさわしい対応をしようとしているのが、韓国の民衆である。220余りに上るいわゆる市民運動を糾合して結成された「NOトランプ共同行動」が、7?8日に大々的な反トランプ都心集会を相次いで開催するという。光化門広場?青瓦台周辺?宿泊予定地を動線に合わせてついて行き反米・反戦を叫ぶ計画という。「トランプ国会演説阻止行動」まで予告し警察は最高非常体制となっており、集会の届け出はすでに100件を超えているという。そのスローガンは、「ノー・ウォー、ノー・トランプ」だ。

「戦争反対・トランプ出ていけ」「我々は戦争に反対だ。だから、戦争の危険を煽っているトランプに抗議する」「トランプよ、おまえの存在こそが戦争への危機だ」という含意。

韓国には、1年前に朴槿恵を退陣に追い込んだ「路上の民主主義」が根付いている。その草の根民主主義が、トランプに「ノー・ウォー、ノー・トランプ」を突きつけているのだ。

トランプが日本では歓待受けて居心地よく、韓国では抗議の針のムシロということのようだ。韓国の民主運動の高揚と、日本の民主運動の低迷を思うとき、韓国の民衆に敬意を表するのみである。
(2017年11月7日)

「中華人民共和国国歌法」性急な制定と改正の事情

人に「笑え」と強制はできない。人に「怒れ」と強制することもできない。人間の感情は、強制になじまないものなのだから。人に「人を愛するよう」強制はできない。人に「人を尊敬するよう」強制もできない。愛も尊敬も、本来的に強制し得ない。強制による愛は愛ではなく、強制による尊敬もそもそも自己矛盾なのだから。

愛国を強制することもできるはずがない。強制された愛国など論理的に成り立ち得ない。国旗国歌に対する敬意表明の強制に至っては、強制されたとたんにニセモノの敬意となり、薄汚れた面従腹背とならざるを得ない。

愛国心とは民衆の心から湧き出る性質のもので、他から植えつけられるものではない。国旗国歌に対する敬意とは、民衆の国家との一体感ある限りのもので、強制されるものではありえない。国家による愛国心の鼓吹とは、国家権力が民衆に対して、「我を愛せよ」と命じるグロテスクな押しつけ以外のなにものでもない。

多くの国民が敬意を表するに値しない国家と思うに至ったとき、慌てた国家が、愛国を強要し、国旗国歌に対する敬意表明を強制する。あるいは、国旗国歌に対する侮辱行為を犯罪として禁止する。

思えば、大逆罪、不敬罪、国防保安法、治安維持法などの治安立法によって国民をがんじがらめに縛りつけておかねばならない強権国家とは、実は面従腹背の国民を抱えた脆弱な国家だった。

権力が国民に愛国心を説き、国旗・国歌を尊重せよと義務付けることは、既に権力の敗北である。愛国心を説き、国旗・国歌を尊重せよと義務付ける国家は、論理矛盾を抱えつつもこれを強制せざるを得ない弱点を抱えた国家なのだ。

以上の点を、これまではもっぱら日本やアメリカについて論じてきたが、中国でも事情が同じであることが話題となっている。愛国心涵養の教育政策、国歌の冒涜禁止の法律…。経済発展著しい中国のこの自信のなさはどうしたことか。とりわけ、民主化の水準が高い香港において、問題が大きくなりそうなのだ。

これまで、中国には「国旗法」があって、「国歌法」はなかった。
1949年建国とともに五星紅旗が国旗として指定され、現行の「中華人民共和国国旗法」は1990年6月の制定で全20か条。法の目的を、愛国主義精神の高揚等と明記したうえ、国旗のデザインを五星紅旗と定め、その取り扱いの詳細を規定して、第19条で「公共の場で、故意に国旗を燃やし、毀損し、汚し、踏みつけるなどの侮辱行為に及んだ場合は刑事責任を追及し、情状軽微なときは15日以内の拘留処分を科す」と定めている。

今年の10月1日に、全人代で、これまでなかった全16か条の「国歌法」が成立した。その第15条が、「公共の場で悪意に満ちた替え歌を歌ったり、歌のイメージを傷つけるような演奏をした場合に15日以内の拘留処分を科す」となっている。一見微罪であるが、犯罪であるからには、逮捕も未決勾留も可能となる。背後関係を洗うとした広範な捜索・差押えも可能となる。

この法律制定の必要性は、香港にあったようだ。民主化を求める若者が中心部を占拠した2014年のデモ「雨傘運動」以降、香港では若者が国歌斉唱の際にブーイングをしたり起立を拒否したり、あるいは替え歌を歌ったり、「嘘だ」と叫んだりして問題になるケースが相次いでいたという。香港サッカー協会は2015年、国際サッカー連盟(FIFA)から責任を問われて罰金を科されたとも報じられている。国民が、敬意を表することのできない自国への抗議として、国旗や国歌への敬意表明を拒否するのは普遍的な思想表現手段。未成熟な国家は、これを弾圧しようということになる。

国歌法は中国本土では本年10月1日に施行されたが、香港は「一国二制度」によって高度な自治が保障されている。そのため、香港政府は今後、立法会(議会)に罰則規定などを盛り込んだ関連法案を提出し、成立後に適用される予定とされていた。当然のことながら、民主派からは表現の自由が後退するとの懸念の声が高まっていた。

そのような事態で、全人代常務委員会は、11月4日香港の「憲法」にあたる香港基本法を改正し、中国の国歌に対する侮辱行為を禁止する国歌法を付属文書に盛り込んだ。国営新華社通信が伝えるところである。サッカーの試合前の国歌斉唱などの際に、ブーイングを浴びせる若者らを取り締まる狙いがあるとも報道されている。

国歌法では罰則として15日以内の拘留を定めているが、同委員会は同日、中国の刑法改正案も可決し、国歌侮辱行為への罰則を最高禁錮3年に厳罰化した。

強権国家中国ならではの立法である。人心掌握への自信のなさを表白しているに等しい。国旗国歌を刑罰をもって国民に押しつけ、見せかけの愛国心と、面従腹背の多くの国民をつくり出そうというのだ。
「人民共和国」の名が泣いているではないか。反面、「強権的国家主義」の本質が笑っている。
(2017年11月6日)

邪悪と醜悪との邂逅ー両悪を育てた両国民の責任を思う

邪悪と醜悪とは、肝胆相照らす仲。その邪悪と醜悪とが、今相まみえて親しげにゴルフに興じ夕食をともにしている。いかなる悪だくみを重ねようとしてのことか。

邪悪とはアベ晋三。日本の平和と民主主義を敵視して数々の壊憲法を積み重ね、いまや明文改憲に乗り出さんとする。

醜悪とは、ドナルド・トランプ。典型的なポピュリスト。理念も理想もなく、権力欲と利潤追求至上主義の権化。

類は友を呼ぶ。邪悪も醜悪も、理性や道理の対極にある。歴史を正視せず、民主主義を票数主義としか理解しようとしない。ともに後ろ暗い疑惑を抱え、真実の光を恐れて暗闇を好む身。でありながら、手を携えて危機を煽って武器商人に儲けの種を播き、その実を刈り取って政権の基盤の強化に使おうととする、その手管相等しく、両悪相い似たり。

醜悪が来日して横田でこう述べ、邪悪がこれに迎合している。
「米軍と自衛隊が肩を並べ、自信に満ち、結びつき、これまでにないほどの能力を持ち、ここに立っている。我々、同盟国の心に自信を吹き込み、同時に、敵の心に恐怖心を食らわす。こうあるべきだと思わないか」

こうあるべきだと思うわけがない。日本は立憲主義の国家だ。邪悪から攻撃されつつも、憲法9条は健在なのだ。その日本で、軍事同盟を吹聴してはならない。仮想敵国を作って、「敵の心に恐怖心を食らわす」などと言ってはならない。そのことを無知な醜悪に教えなければならない。

「敵の心に恐怖心」発言の後がゴルフだとはよい身分。アベ晋三は、腹心の友・加計孝太郎とのゴルフ仲間。ゴルフ場は、悪だくみの舞台としての汚名を雪ぐ間もないまま、今また、ゴルフ場で薄汚い友情が培われようとしている。紳士の競技と言われたゴルフが泣いている。あるいは、ゴルフ場とは、所詮腹黒い紳士淑女の謀議の場か。

しかし、邪悪と醜悪とをここまで大きく育てたのは、日米両国の国民にほかならない。史上最低にして最悪の日米両首脳。その得意げな姿を見せつけられて、心底慚じいるしかない。

ああ
怒りのにがさ また青さ
まことの言葉はここになく
唾し はぎしりゆききする
修羅のなみだはつちにふる
(2017年11月5日)

「平成の天皇制とは何かー制度と個人のはざまで」を読む。

岩波から今年7月に出た論文集。吉田裕と渡辺治のネームバリューでこの書を手に取る読者が多いのだろうが、執筆者は総勢9人。若い研究者の見るべき論稿もある。天皇(明仁)の「生前退位希望メッセージ」をめぐる問題だけでなく、「象徴天皇とは何か」「天皇の公的行為をどう考えるべきか」を論じる際のスタンダードを提供するもの

渡辺治が、「近年の天皇論議の歪みと皇室典範の再検討」と題する30頁の論文を掲載している。さすがに説得力があり熟読に値する。その最後を「天皇制度そのものの廃止は、上記のような憲法のめざす象徴性の構想の実現、典範改正による自由の制限、差別を解消していく方向の徹底を通して以外にあり得ない。それは、とりもなおさず、国民が自らの上に立つ権威への依存を否定し、民主主義と人権の貫徹する社会へ向けて前進する営みにほかならない」と、将来の天皇制の廃止への展望で結んでいることが印象的である。

巻末の座談会で、最も若い河西秀哉(77年生)が、こう言っているのが興味深い。
「明仁天皇が、即位して以降、右肩上がりの経済成長はみられず、格差社会が進行しています。(天皇には)そのことへの危機意識(があります)」「だからこそ彼は、社会の中心からこぼれ落ちる人たちをいかに救うかということを考えているのだと思います。」「社会福祉施設を積極的に訪問したり、地震の被災者を訪問したりする」「そのような人たちを自分が能動的に統合していかなければ、どんどん日本という共同体が崩壊していく」「だからこそ、その機能を象徴天皇である自分が果たせなくなったときは、退位せざるを得ない、ということになる」

これに、同年代の瀬畑源(76年生)も同意してこう言う。
「沖縄もそうですね」「戦後70年が経つ今でも、基地問題をはじめ、沖縄の人は、日本国内からいわば疎外されているわけです。その沖縄に天皇が通い続けるのは、明らかに国民として沖縄の人々を統合するためでしょう」「国民統合の一番危ういつなぎ目である沖縄に対して、明らかに天皇が肩入れし、しかもそれが機能している」

54年生まれの吉田裕が賛意を表しつつ、その効果については疑問を呈する。
「昭和天皇と違うのは、やっぱりそこですね。自らの行為が統合としての意味を持ち得ている。ただ、逆に言えば、さらに社会の分断が進んだときに、あの程度の行為で統合できるのかという問題にもなるかとは思いますが」

なるほど、そういうことなのだ。平成流と言われる現天皇の象徴としての行為とは、競争至上主義の政治と経済によって置き去りにされた人々を、日本という共同体につなぎ止めるための統合が目的なのだ。いわば、保守政治の補完作業。尻ぬぐいといった方が分かり易い。あるいは、体制が必然化する綻びの弥縫の役割。

河西は天皇(明仁)の意識を「社会の中心からこぼれ落ちる人たちをいかに救うか」にあると言う。しかし、天皇の行為としての「救う」とは事態を解決することではない。格差や差別を生み出す構造にメスを入れることでもない。むしろ、客観的な役割としては、その反対に社会の矛盾を糊塗し、何の解決策もないままに諦めさせること。しかも、心理的な不満を解消して、共同体に取り込み、こぼれ落ちた民衆の不満が社会や政治への抵抗運動に結びつかないようにする、「避雷針効果」が天皇の役割なのだろう。

このような天皇の機能や役割は、天皇を権威として認める民衆の意識なくしてはあり得ない。そして、このような民衆の意識は、意図的に刷り込まれ植えつけられたもので、所与のものとして存在したわけではない。この書の中で、森暢平が皇太子時代の明仁が伊勢湾台風被災者慰問のエピソードソーを紹介している。

「ご成婚」から間もない皇太子時代の明仁は、1959年10月伊勢湾台風の被災地を慰問に訪れている。当時25歳。4月に結婚した皇太子妃美智子は妊娠中で単身での訪問だった。伊勢湾台風は59年9月26日に東海地方を襲い、暴風雨と高潮で愛知、岐阜、三重3県に甚大な被害をもたらし、死亡・行方不明は5千人、100万人以上が被災の規模におよんだ。
中部日本新聞(のちの中日新聞)の宮岸栄次社会部長は、多くの被災者は「むしろ無関心でさえあった」と書いた。「いま見舞っていただいても、なんのプラスもない。被災者にとっては、救援が唯一のたのみなのだ。マッチ一箱、乾パン一袋こそが必要なのだ、という血の叫びであった」とまで断じている。皇太子の警護に人が取られ、「かえって逆効果」という新聞投書(45歳男性、「読売」1959年10月3日)もあったという。

この皇太子の慰問には、事前の地元への問い合わせがあった。これに対して、「災害救助法発動下の非常事態であるため、皇太子の視察、地元はお見舞いなどとうてい受け入れられる態勢ではなかった」「さきに天皇ご名代として来名(名古屋来訪)される話があったときも、すでにおことわりするハラであったし、十分な準備や警備は、むろんできないばかりか、そのためにさく人手が惜しいほどだったのだ」との対応だったが、それでも宮内庁側は「重ねて来名の意向を告げてきた」という。伊勢湾台風被災地訪問は、皇太子明仁の強い意欲もあったとされるが、成功していない。

私は、このときの水害被災者の受け止め方を真っ当なものと思う。深刻な苦悩を背負っている被訪問者が、天皇や皇太子に対して、「あなたは、いったい何をしに来たのか? あなたが私のために何ができるというのか?」と反問するのは至極当然のことではないか。

あれから60年。人心が変化したのだろうか。それとも、宮内庁とメディアによる「情け深い皇室」の演出が巧みになってきたのだろうか。
(2017年11月4日)

秋空に 9条まもれの 大集会

久しぶりの抜けるような青い空。空はこんなにも青く高かったのかと思わせた、今日文化の日。71年目の日本国憲法公布の記念日。その日、国会を包囲した大群衆が、憲法を守れ、9条を守れ、平和を壊すな、と声を合わせた。

 秋空に 9条まもれの 大集会
 国会は 9条まもれの 大群衆
 集う人 9条まもれの 大合唱
 響き合う 9条まもれの 声と声

コールの声は力強かった。

改憲反対!
9条まもれ!
戦争反対!
9条生かせ!

戦争する国絶対反対!
戦争したがる総理はいらない!
アベ政権をみんなで倒そう!
立憲野党と市民は共闘!

諦めないぞ!
諦めないぞ!

「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション 11・3国会包囲大行動」である。
平和をまもろう! 命をまもろう! 9条まもろう! そして、共闘の力で「アベ9条改憲反対の圧倒的世論をつくり出そう」という大集会。

何人かのスピーカーが、「皆さんありがとう。元気をいただきました」と発言した。そんな集会になった。私も、そんな気持。天候に感謝したい。

メインステージでは、立憲民主党(枝野幸男代表)、日本共産党(志位和夫委員長)、民進党(江崎孝参議院議員)、社民党(福島瑞穂副党首)が、いずれも力のこもった演説をした。自由党も、小沢一郎代表がメッセージを寄せた。

しかし、今日の集会の主役は、野党の党首たちではなく、明らかに国会を包囲した大群衆だった。主催者発表で、「参加者数は4万」とアナウンスされたとき、「えっ?」という声があがった。「もっと人数は多いんじゃないの?」という意外感。私の周りでの人の多さは、一昨年の「戦争法反対運動」時の群衆に匹敵する印象だったから。

トップを切っての枝野スピーチの冒頭で、「市民の皆様に背を押されて、立憲民主党立ち上げた」との発言があった。そのとおりだ。世論を背に政治家は行動する。「9条改憲NO!」についても同様だ。立憲民主党の背を、その党首枝野幸男の背を、市民が「アベ9条改憲に断固NO!」と言うべしと押しているのだ。枝野自身の憲法についての過去の発言がどうであろうとも、今、野党第一党として安倍政権と対峙する限りは、「9条改憲論」に反対を貫かざるを得ない。その他の野党についても同様である。

そのような意味で、立憲民主党・日本共産党・民進党・社民党・自由党の5党が、自公の与党に対峙する「立憲野党」と言ってよい。希望の党と維新とは、アベ改憲を支える補完勢力。色分け鮮明になってきたではないか。

選挙結果にめげていてはどうしようもない。まだ負けてなんかいない。さあ、がんばろう。私たちの憲法を壊させない。市民がそう決意を固め、野党勢力に「アベ9条改憲に断固NO!」で頑張れと、活を入れ、「元気を配った」集会だった。
(2017年11月3日)

1000年前の同窓会の詩に思う。

北宋に韓維という詩人がいた。
科挙の合格掲示板「榜」に名を連ねた同榜の友人たちと心許す仲だったという。

とりわけ同郷の者と親しく、8人で「八老会」なるグループを作っていた。その、8名の宴席の様子が、「卞仲謀八老会」という七言絶句として残されている。
1000年前の同窓会の詩。老境での同窓会の雰囲気が、今に変わらないのが面白い。

 同榜同僚同里客
 班毛素髪入華筵
 三杯耳熱歌声発
 猶喜歓情似少年

読み下しは以下のとおりかと思う。

 同榜 同僚 同里の客
 班毛 素髪 華筵に入る
 三杯 耳熱くして歌声発す
 猶お喜ぶ 歓情の少年に似たるを
(班毛はまだらに白いごま塩頭。素髪は白髪頭。いずれも老人を指す)

拙訳ではこんなところ。

 若いあの頃袖触れ合った
 古い仲間と宴の席に
 飲んで歌ってはしゃいで熱い
 おれもおまえも変わらない

原意に沿えば…。

 あの頃は紅顔の少年だった仲間たち
 今は、髪も白くなっての宴の席に。
 わずかの酒で身体がほてり、
 あの頃の懐かしい歌も出る。
 ああ、あの頃の情熱は失せていない。

一海知義の著書からたまたま見つけたこの詩を、学生時代の同窓会の案内文に使ってみた。訳は、勝手な我流である。入学から数えると55年も昔の仲間。

60年安保直後のあの頃。私の周りのどの学生も反体制だった。誰も彼もが、反自民であり、反安保であった。当然のごとくに護憲であり反戦平和であった。問われたのは、その本気度であったり、口先だけでなくどう行動するかであった。

あの頃、水が川上から川下に流れるごとく、若者は自然に革新の心情を身につけた。問題は、就職し職業をもって、世のしがらみに絡まれるうちに、妥協せざるを得なくなっていくことだ。

おそらくは、班毛・素髪で華筵に入り、酒の三杯で耳を熱くして歌声発すれば、世のしがらみを身につける前の「本当の自分」を思い出すことになる。だから、老境の同窓会は、楽しくもあり、ほろ苦くもあるのだ。

それにつけても、である。若者の投票行動が、老人よりも保守的だという報道に仰天せざるを得ない。理想を追うはずの若者が、どうしてこの矛盾だらけの今の世を「これでもいいじゃないか」と言っておられるのか。どうして、正義に敏感な若者が格差を広げる経済政策を看過するのか。どうして、洋々たる未来を生きる若者がかくも危険な原発再稼働を容認できるのか。どうして、自由や平等や平和の理念を謳う憲法に対する攻撃を、我が身への敵対行為ととらえられないのか。どうして、金で動かされている政治と社会に反吐が出るほどの怒りを燃やさないのか。どうして、潔癖なはずの若者がかくも醜悪なアベ晋三を許しておけるのか…。

子供は無邪気でいられない。
青年は潔癖ではいられない。
壮年は自分の意思では動けない。
そんな世にあって、
老人だけが、昔みた夢の中に生き続けている…、
のかも知れない。

だから、明日(11月3日)の「怒りの10万人集会」に、
まずは老体が出かけよう。だから、若者も出ておいで。

「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション 11.3国会包囲大行動」

 日時:11月3日(金・休)14時?
 場所:国会議事堂周辺
 主催:安倍9条改憲NO!全国市民アクション/戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会
(2017年11月2日)

「新潟ショック」を考えるー持続的野党共闘はいかにして可能か

知人から、新潟日報の切り抜きをいただいた。10月24日(火)付の「新潟ショック再び(上)」というタイトル。「(上)」があるのだから、当然、(中)も(下)もある。「再び」だから、前幕もあるわけだ。

ネットを検索すると、以下のとおり出ている。(もっとも、全文を読むには登録が必要)

新潟ショック再び(上) 共闘効果
「民進系の苦境、共産が救う」
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/politics/20171024353548.html

新潟ショック再び(中) 自民敗北
「魔の2期生 基盤弱く」
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/politics/20171025353758.html

新潟ショック再び(下) 県政地図
「波紋呼ぶ知事の肩入れ」
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/politics/20171026353918.html

リードは以下のとおりだ。
22日投開票の第48回衆院選は県全域で「自民対野党共闘」の図式となり、県内6小選挙区で野党側が4勝2敗と勝ち越した。昨年の参院選、知事選に続き、共闘態勢を敷いて票を積み上げた野党陣営。自民党は2期生が支持基盤の弱さを露呈し、小選挙区で五つあった議席を半分以下に減らした。与党が3分の2の議席を得た全国情勢と反対の結果は、関係者に衝撃を与えた。なぜ県内では、与野党勢力が逆転したのかー。激戦を総括し、今後の県内政界地図を展望する。

リードが言う「6小選挙区で野党側が4勝」の内訳は、立憲民主党1、無所属3である。また、自民2勝も際どい辛勝だった。

北海道・沖縄とならんで、新潟は野党共闘の威力が発揮された成功地域として注目されている。「新潟ショック再び(上) 共闘効果」の記事の最後は、森裕子(参議院議員)の次の言葉で締めくくられている。
「安倍1強を打ち破るヒントは、新潟にある」
野党共闘の成果へのたいへんな自信だ。

記事の内容は、涙ぐましいまでの共産党の、共闘先候補への献身ぶりである。共産党は、全6区に候補者擁立を予定していたが、公示直前で1区のみ残して5区の候補を下ろしている。これで、「自民対オール野党共闘」の図式ができた。それだけでない。共産県議が立憲民主党候補者支援で「自分の選挙以上に動いた」という例が紹介されている。人手のない民新系候補者の手足になったのが、共産党だったのだという。オール野党共闘を下支えしたのが、自党の独自候補を下ろした共産党だったという報道。勝てたから、肯定的な報道となっている。

しかし、これは美談の紹介記事ではない。まったくの第三者であるメディアの関心は、「かくのごとき野党共闘が、安倍一強政治を打ち破る萌芽たりうる」というところにある。しかし、運動に参加する者の視点は、自ずから異なる。このような共闘関係は本当に長続きするものだろうか、と疑問を呈せざるを得ない。

新潟のようには結果が出せなかったものの、全国的に同じような共産党から立憲民主党や無所属の候補者への献身的支援が行われた。その結果、共産党は大きく比例得票数を減らし、議席数も激減した。これでよいということにはならなかろう。

新潟の共産党比例票数は前回と比べて、あるいは昨年の参院選と比べて増えただろうか。増えないとすれば、共産党はこの選挙でそこまで他党に尽くして、いったい何を得たのだろうか。

共産党の票が痩せ、共産党の議席が減っても、それ以上に護憲政党全体の議席が増えればいいじゃないか。などと言うことで、共闘が長く続くわけがない。新潟1区は、候補者を下ろした共産党の献身的な支援で立憲民主党の候補者が当選した。次回も、次々回も共産党は同じことを繰り返すのだろうか。そうすれば、党勢はジリ貧化するしかない。

新潟県全6区で野党共闘が成立するなら、その内の何区かは共産党や自由党・社民党に候補者を譲るとか、「小選挙区は立憲民主党でも比例は共産」と共闘候補者自身が訴えるとか。共闘とは、参加する者にメリットがなければならない。何の見返りもない献身の継続には明らかに無理がある。

安倍一強を倒し、確固たる国会内護憲勢力を形づくるための野党共闘が、その核になるべき共産党の身を削って成り立っている現実に不安を覚える。共闘参加の各野党に、相互のメリットが獲得できるような工夫が必要である。野党間の接着剤となる市民運動は、政党間の公平を実現するよう配慮をしなければならない。

「新潟ショック」とは、野党共闘の成立による政権側のショックのことだ。漫然としていては、この不公平な事態は続かない。万が一にも、いつの日か野党共闘にヒビがはいって、野党の側が「新潟ショック」などと口にすることのないように希望する。
(2017年11月1日)

狐狸にばかされた10月総選挙のあとに、雨にも風にも負けず市民アクション

今日で10月が終わる。2017年10月とはいったい何だったのか。タヌキやキツネにだまされ続けたような、おかしな1か月だった。

印象は雨ばかりの10月。暗く寒く降られっぱなしの1か月だった。憲法の運命にも、風雨が強かった。少なくも湿っぽく、威勢のよい話のないこの1か月。この長雨は、憲法の涙雨かと思わせるほど。

先月末は、かなりの程度にアベ政権を追い詰めていた空気があったではないか。あわよくばこの機会にアベ退陣を、などと思ってもいたはずが、あれは雨中の幻であったか。大山鳴動して濡れネズミの一匹も出てこない。狐狸の跳梁の後に目を覚ませば、相も変わらぬアベ政権の安泰で、護憲勢力が寒空にかぜっぴきの体。

野党共闘の難しさの実体験がむなしい。むなしいが、貴重なものだと思う。選挙後に、いろんな人の経験と意見を聞いたが、置かれた場所や環境、あるいは立場で、一人ひとり極端に意見が違う。そんなものなのだろう。そんな中から、教訓を得なければならない。

私の周りで、なんとはなしに形成された護憲派の合意は、こんなところだろうか。

今回選挙は、小選挙区制が諸悪の根源であることを誰の目にも明白にした。本気になって、選挙制度を改革しなければならない。

しかし、選挙制度改革の早期実現は容易でない。その間にも選挙は繰りかえされるだろう。その場合、小選挙区を前提とする限り、野党の共闘なくして改憲発議を阻止する議会内勢力を形成することはできない。

明文改憲阻止を最優先課題とするならば、とりあえずは「アベ改憲構想反対」での国会内共闘を作りあげるしかない。そうしなければ、修復不能な改憲策動の進展を危惧せざるを得ない事態となる。

その共闘を実現する原動力は、各地域の市民運動が担うことになるだろう。市民運動の力量が、各野党の共闘を作りあげ、支え、維持することとなる。当選させるだけでなく、変節を許さない市民の運動の継続が求められる。

「立憲民主党を信頼してよいのか」という問に、「その中心にいる人々は戦争法や共謀罪反対運動の中で、市民に背中を押されて変わってきている」と感想を述べる人が多い。「市民運動がしっかりしている限りは信頼できる」ということだ。

選挙直前になってからではない持続的な「市民と野党の共闘」があって、その成果としての共闘候補者の選任がなされるべきなのだろう。

そんなことを考えさせられた10月が今日で終わって明日から11月。まずは、特別国会が始まり、11月3日の憲法公布記念日を迎える。そして、今や支持率最低のトランプが来日する。厳重な警備の迷惑とともに、である。

その後はどうなるのか分からない。臨時国会は開かれるのか。加計学園の獣医学部設置認可はどうなるのだろう。森友学園の国有財産バーゲン疑惑解明はどこまで進むのだろうか。自民党内の改憲発議案作りの作業は進展するのだろうか。

全ては、市民と野党の共闘の盛り上がり次第ということになる。
まずは、明日(11月1日)の特別国会開会にタイミングを合わせた対国会市民行動。

「安倍9条改憲を許さない! 森友・加計学園疑惑徹底追及ー安倍政権の退陣を要求する11.1国会開会日行動」

スケジュールは以下のとおり。
11月1日(水),12:00?13:00? 国会前行動
総がかり行動・全国市民アクションと共謀罪NO!実行委員会が共催で,
13:30?15:00,参議院議員会館講堂で,共謀罪NO!実行委員会主催の「共謀罪法の廃止を求める11・1院内集会」

「特別国会に共謀罪廃止法案を提出してもらおうという趣旨で,各政党に案内を出して,議員の出席を呼びかけています」「希望の党で当選した元民進党の国会議員で共謀罪反対でがんばった議員にも1人1人声をかけています」とのこと。

11月3日には、「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション 11.3国会包囲大行動」が企画されている。久しぶりに10万人規模の大集会を目指している。

日時:11月3日(金・休)14時?
場所:国会議事堂周辺
主催:安倍9条改憲NO!全国市民アクション/戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会

3日の大集会には、私も「弁護団」の腕章をつけて要員として参加する。市民運動の盛り上がりが、国会内の野党共闘の力と質に反映するというのだから、傍観ばかりはしておられない。

11月が、天候も政治もまともな1か月であって欲しいと願っている。天候は願うだけでしかないが、政治は有権者の運動次第。諸行動の盛り上がりを期待したい。
(2017年10月31日)

冤罪を訴える人々と、国民救援会。

日本国民救援会は、1928年4月7日に結成されたというから、来年が設立90周年となる。そのホームページには、「戦前は、治安維持法の弾圧犠牲者の救援活動を行い、戦後は、日本国憲法と世界人権宣言を羅針盤として、弾圧事件・冤罪事件・国や企業の不正に立ち向かう人々を支え、全国で100件を超える事件を支援しています。」とある。

その国民救援会が発行する「救援新聞」は旬刊で、毎月5の日に発行。最新刊の11月5日号の第4面から6面に、救援会が支援している冤罪被害者(あるいは家族)の声が紹介されている。
「私は無実です ご支援ください」という大きな見出し。ほとんどが再審請求中の事件で、その数25件。一つ一つの事件の本人の「私は無実です」という訴えが痛々しい。

その事件名と当事者の名前だけを連ねておく。
●秋田・大仙市事件? 畠山博さん
●山形・明倫中裁判? 元生徒7人
●宮城・仙台北陵クリニック筋弛緩剤冤罪事件? 守大助さん
●栃木・今市事件 勝又拓哉
●東京・三鷹事件 竹内景助さん(故人)
●東京・痴漢えん罪西武池袋線小林事件 小林卓之さん
●東京・小石川事件 井原康介さん
●長野・冤罪あずさ35号窃盗事件 Yさん
●長野・あずみの里「業務上過失致死」事件 山口けさえさん
●福井・福井女子中学生殺人事件 前川彰司さん
●静岡・袴田事件 袴田巖さん
●静岡・天竜林業高校成績改ざん事件 北川好伸さん
●愛知・豊川幼児殺人事件 田邉雅樹さん
●三重・名張毒ぶどう酒事件 奥西勝さん(故人)
●滋賀・湖東記念病院人工呼吸器事件 西山美香さん
●滋賀・日野町事件 阪原弘さん(故人)
●京都・タイムスイッチ事件 車本都一さん
●京都・長生園不明金事件 西岡廣子さん
●兵庫・花田郵便局強盗事件 ジュリアスさん(仮名)
●兵庫・えん罪神戸質店事件 緒方秀彦さん
●岡山・山陽本線痴漢冤罪事件 山本真也さん
●高知・高知白バイ事件 片山晴彦さん
●熊本・松橋事件 宮田浩喜さん
●鹿児島・大崎事件 原口アヤ子さん
●米・ムミア事件 ムミア・アブ=ジャマールさん

救援新聞には、「ひとこと」という会員の投書欄があって、宮城の女性が、次の投書を寄せている。
「『司法』というのは、正義の守り手のはずです。それなのに冤罪が生まれる。それでも再審請求し、正義が正義になるよう、力を合わせないといけない。これも闘い?」

司法の正義とは、けっして冤罪者を出さぬことだ。しかし、冤罪は後を絶たない。冤罪が明らかになったとき、司法は頑強にこれを認めようとしない。司法が間違ったとなれば、司法の権威が損なわれると考えるからだ。しかし、司法が自らの権威の失墜を恐れて冤罪の救済を怠るようなことがあれば、そのこと自身が大きな正義の喪失であり、司法の権威と信頼は地に落ちることになる。

市民運動が、雪冤を訴える冤罪被害者の声に耳を傾けて励まし、再審無罪を勝ち取ることができれば、市民自身が正義を実現し、失墜した司法の権威回復に寄与したことになる。

戦前、市民運動としての救援会と被告と弁護士との三者の連携を、「モ・ベ・ヒ」の団結と言ったそうだ。モは救援会の前身の「モップル」、ベは弁護士、ヒは被告本人である。当時、冤罪と言えば、弾圧事件だった。これに抵抗する、強固な弾圧からの救済運動組織が必要とされた。救援会は、その流れを汲んでいる。

その弾圧事件はけっして過去のものではない。公選法による弾圧も、民商に対する弾圧も、そして公務員労働者に対する弾圧もけっしてなくなることはない。「共謀罪法」が成立した今、新たな弾圧事件の発生も懸念される。

権力による市民への弾圧がなくなり、司法の誤りがなくならぬ限り、国民救援会は発展し続ける。創立90周年から、100年を超えて、いつまでも…。
(2017年10月30日)

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