澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

真面目な教員の教育活動を妨害する、不真面目きわまる東京都教育委員会

国旗国歌への敬意強制には服しがたいとして懲戒処分を受け、処分に伴う服務事故再発防止研修の受講を強制されたTさんが、本日これからこの研修センターで不本意な研修を受講する。十分にはものを言える立場にないTさんに代わって、研修センター総務課長に代理人弁護士として抗議と要請の意見を申しあげる。

本日私が申しあげることは、憲法の理念や教育の本質というような、高邁なことではない。極めて卑近で分かり易い都教委のやり口の不条理と不真面目さだ。この不条理から、都教委の体質やホンネが滲み出てよく見えてくる。

本日のTさんの「研修」は、あなた方都教委と研修センターが4月に決めたスケジュールでは、「所属校研修」の2回目ということになっている。所属校研修が所属校で行われず、どうしてTさんに限って、わざわざこのセンターにまで呼び出して行われなければならないのか。もちろん説明もなされていないし、合理的な理由はおよそ考えがたい。

強いて憶測せずとも、本人に可能な限りの大きな負担を与えたいとの、懲罰的な動機が明らかという以外にはない。分かりやすく言えば、都教委の思想統制に従おうとしない教員への報復であり、イジメ・イヤガラセだけを理由とするセンター呼出の「所属校」研修と考えざるをえない。イジメ・イヤガラセによる心理的な負担によって、Tさんに圧力をかけ、その思想・良心を攻撃し、思想や良心を放擲するように仕向けているのだ。

問題は深く大きい。都教委が教員にイジメ・イヤガラセをしているにとどまらず、明らかに、子どもたちの教育を受ける権利を侵害してもいるではないか。

Tさんは、不本意ではあっても、再発防止研修受講を拒否してはいない。授業に差し支えないように配慮して欲しいと真摯に申し入れているではないか。あなた方、教育委員会・教育庁・教育センターは、敢然とこれを無視した。ほんの少しの配慮で、時間と場所を少々ずらすだけのことで、授業に差し支えのない研修は可能なのだ。Tさんの授業が終わったあとの研修設定で何の不都合もない。容易に、子どもたちの授業を受ける権利を確保できるのだ。それなのに、教育委員会・教育庁・教育センターは子どもの教育を受ける権利に何の配慮もしようともしなかった。

今日も、Tさんは、授業からひき剥がされて、まるで授業への妨害を狙った如くのこの時間帯に、このセンターでの服務事故再発防止研修の受講を強制されているのだ。前回6月15日の研修の際には、Tさんがセンターへ呼び出されたために、予定されていた校外活動に半数の生徒が参加できない事態が生じている。

教育に情熱を持ち、子どものためを思い、教育に専念しようとしている教員が、教育委員会から教育活動を妨害されているのだ。真面目な教員が、不まじめきわまる教育委員会に、再発防止研修を強制されている。不都合千万、まったくアベコベではないか。研修の必要も合理性もないどころか、教育活動を妨害する研修の弊害が明白となっている。

それにしても、授業を妨害し、子どもの教育を受ける権利を一顧だにすることのない教育行政とは、いったい何なのだ。教育行政が教育内容に介入することが許されるかなどという高尚な議論をしているのではない。教育行政が、教育を妨害しているこの実態を多くの人に知ってもらわねばならない。

このことは、かつてF教員に対する「授業に出ていたのに処分」事件でも問題となり、都教委は一審で完敗して、控訴もできなかったではないか。

本日の文書による申入れ書の中に、2004年7月の「研修命令執行停止申立事件」における東京地裁決定の説示が引用されている。
「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性がある」というものだ。
ここで研修の受講強制が違憲違法となるメルクマールとされているのは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせること」、「自己の非を認めさせようとすること」、そして「執拗」である。

Tさんに対する研修がこのまま続くのであれば、この違憲・違法の要件は充足しつつあると警告しなければならない。

Tさんは、誰よりも子どもの教育に情熱をもった立派な教員である。研修センターの職員諸君には、本日の研修において、Tさんに敬意をもって接していただくよう特に要請申しあげる。
(2016年7月15日)

「ストップ・アベ暴走」の都政を目指してー千載一遇のチャンスを逃がすな

本日(7月14日)告示の都知事選がスタートした。投票日は7月31日、猛暑のさなかの文字通り熱い選挙戦である。

今回都知事選は、リベラル勢力にとっては千載一遇のチャンスである。この絶好のチャンスを逃してはならない。これまで、革新統一といえば「社共+市民運動」が最大幅だった。2012年選挙でも、2014年選挙でも、ようやく実現した「社共+市民」の枠組み。しかし、結果は惨敗に終わった。200万票を取らねば勝負にならないところ、この枠組みでは100万票に届かない。これでは勝てないことが手痛い教訓として身に沁みた。3度同じ愚を犯すわけにはいかない。

今回は、幅広く4野党共闘でのリベラル派統一候補の推挙が実現した。昨年の戦争法反対運動の盛り上がりの中で、デモに参加した市民の声として湧き起こった「野党は共闘」というスローガンが、参院選にも、そしてこのたびの都知事選にも結実しているのだ。

しかも、これまでの選挙とはまったく違って、リベラル派が候補者を統一し、保守の側が分裂しているのだ。まさに天の時は我が方にある。傍観者で終わることなく、この歴史的な闘いに何らかの方法で参加しようではないか。都民でなくても、選挙への協力は可能なのだから。

選挙の性格のとらえ方を統一する必要はない。私は、この都知事選を「ストップ・アベ暴走選挙」と命名したい。そして、「ストップ・アベ暴走都政」を実現させたい。美濃部革新都政第2期の選挙が、「ストップ・ザ・サトウ」選挙であった例に倣ってのことだ。ベトナム反戦の時代の空気を都知事選に持ち込んでの成功例。この選挙で美濃部は361万票を得て、保守派候補(秦野章)にダブルスコアで圧勝している。一昨日(7月12日)の鳥越俊太郎出馬会見は、意識的に改憲問題や国政批判を都知事選のテーマに持ち込むものであった。

この会見を報じた朝日の見出しは、「鳥越氏『時代の流れ、元に戻す力に』 都知事選立候補」というもの。今の時代がおかしいのだ、元の流れに戻さなければならない。そのような思いを日本の首都の選挙で訴えて広く共感を得たい。これが、朝日の理解した鳥越出馬の真意。

記事本文での当該部分の会見発言の引用は次のようになっている。
「『あえて付けくわえるなら』としたうえで、立候補を決めた理由を『参院選の結果で、憲法改正が射程に入っていることがわかった。日本の時代の流れが変わり始めた。東京都の問題でもある。国全体がそういう方向にかじを切り始めている。元に戻す力になれば。それを東京から発信したい』と語った。

読売も、朝日とよく似た見出しとなった。「鳥越氏、都知事選出馬表明『流れ元に戻す力に』」というもの。記事本文は、次のとおり。

鳥越氏は12日午後、都内のホテルで記者会見を開き、「残りの人生を『東京都を住んで良し、働いて良し、環境良し』とすることにささげたい」と語った。出馬理由については「参院選の結果を見て、平和の時代の流れが変わり始めたと感じた。国全体がかじを切る中、流れを元に戻す力になりたいと思った」と説明した。

毎日の見出しは、「野党統一鳥越氏が出馬」と無骨だが、次のように会見の内容を紹介している。これが、一番よく、鳥越の気持ちを伝えているのではないか。

「私は昭和15年、1940年の生まれです。防空壕にいたこともよく記憶しています。戦争を知る最後の世代、戦後の第1期生として、平和と民主主義の教育の中で育ってきました。憲法改正が射程に入ってきているというのが参院選の中で分かりました。『それは国政の問題で東京都政とは関係ないだろう』という方もいると思いますが、日本の首都だから大いに関係があると思う。戦争を知る世代の端くれとして、都民にそういうことも訴えて、参院選と違う結果が出るとうれしいというのが私の気持ちです。」

国政と都政が無関係なはずはない。都政は国政を補強もすれば減殺もする。また、都知事選を、多くの都民が国政に感じている危ない時代の空気を批判する機会と位置づけて悪かろうはずがない。時代の危うさとは、アベ政治の暴走にほかならない。アベ政治の暴走の中身には二つの軸がある。一つは新自由主義の経済政策であり、もう一つは軍事大国化の政治路線だ。

新自由主義の経済政策が格差と貧困をもたらし、雇用の形にも福祉の切り捨てにも、教育や保育や介護にも、都民の生活に大きく影響していることは論を待たない。経済や福祉・労働等々に関する都政は、アベ政治を批判するものとならざるを得ない。

軍事大国化とは、戦後民主主義の否定であり、集団的自衛権行使容認であり、立憲主義の否定であり、さらには9条改憲の政治路線である。鳥越は、これに抗する姿勢を明確にしている。自分を「戦争を知る最後の世代であり、戦後の第1期生として、平和と民主主義の教育の中で育ってきました」として、「憲法改正が射程に入ってきている」この恐るべき時代を看過し得ないとしているのだ。

都政は、軍事大国化路線と無関係ではない。政府に協力してこれを補強もすれば、政権に抵抗して平和を志向することもできる。鳥越会見では、横田基地へのオスプレイ導入の阻止、米軍管理下の「横田管制」の正常化。政権の意向から独立した各国首都間の友好交流が平和に大きな意味を持つなどの発言があった。首都の原発ノー政策は核軍縮と関わるものとなる。

さらに、民主主義を大切にする真っ当な教育行政は、反アベ政治の色彩を持たざるを得ない。第1次アベ政権は教育基本法の「改正」に手を付けた。第2次では、教育委員会制度の骨抜きもした。鳥越都政はこれに対抗して、地教行法が想定する真っ当な教育委員を選任して、荒廃した東京都の公教育を改善することができる。教科書採択も、現場の教員の声を反映したものにすることができる。これだけでも、アベ政治に対する大きな打撃になる。

今回の都知事選挙を、「前知事の責任追及合戦」に終始し、「新都知事のクリーン度」を競い合うだけのものとするのではもの足りない。行政の公開や監視のシステム作りという技術的なテーマは、4野党のスタッフにまかせて上手に作ってもらえばよい。

都知事は、憲法の精神を都政に活かす基本姿勢さえしっかりしておればよい。その基本姿勢さえあれば、細かい政策は、ブレーンなりスタッフなりが補ってくれる。4野党が責任もって推薦しているのだ。そのあたりの人的な援助には4野党が知恵をしぼらなければならない。
(2016年7月14日)

弁護士会ともあろうものが、叙勲のお祝いなどすべきではない。

弁護士会には、インフォーマルな組織として「会派」というものがある。俗にいう「派閥」である。弁護士会長を目指す者は、この会派の活動を積み上げなければならない。最大の単位会である東京弁護士会には、老舗の「法曹親和会」と「法友会」との二大会派があり、「派閥の弊害解消」を目指した第3のグループとして、今や立派な派閥となった「期成会」がある。

私は、期成会に所属している。かつては、期成会から選挙に出て常議員(議決機関のメンバー)にもなり、会内選挙政策の立案にも携わった。今も、期成会への所属意識はもっており、その政策にほぼ共鳴している。

その期成会が、一昨日(7月11日)「東京弁護士会における叙勲受章会員のお祝い会についての意見書」を発表し、同時に東京弁護士会長に提出した。

東京弁護士会が5月31日付で、会内の諸団体に「会として叙勲受章会員のお祝い会を行うことの是非」についての意見照会をした。これに対する期成会の意見具申がこの意見書である。

私は、この意見の作成に関わっていない。まったく知らなかったが、すばらしい内容となっている。下記のURLでご覧いただけるが、全文を貼り付けるので是非お読みいただきたい。
  http://kiseikai.jp/pdf/20160711151800.pdf

2016(平成28)年7月11日付意見書
東京弁護士会会長小林元治殿
  東京弁護士会期成会代表幹事 千葉肇

2016(平成28)年5月31日付の意見照会(東弁28意照第7号?2)につき、期成会として次のとおり意見を述べる。
  意見の趣旨
東京弁護士会として叙勲受章会員のお祝い会は開催するべきでない。
  意見の理由
1 叙勲制度については,東京弁護土会内に多様な意見があり,叙勲受章者のみを対象にしたお祝い会を開催するのは不適当である。
 そもそも叙勲制度については,肯定的意見の外に叙勲制度そのものを否定する考え方,現行叙勲制度に疑問を有する考え方,その運用(いわゆる官優先など)に批判的な考え方など,多様な意見が存している。
 例えば,一般的な憲法教科書といわれている野中俊彦ら「憲法??」(第5版)では,「栄典の授与は,伝続的に恩赦と並んで君主の特権と考えられできた。」,「位階及び褒章は勅令で,勲章は太政官布告で定められていたことなどから日本国憲法との適合性に疑義かあり,その授与を原則的に停止して,法律による新制度の制定を考えた。しかし栄典法案がなかなか成立しなかったので,政府は法律の制定を待たずに停止していた戦前の制度を復活させて活用する道を選んだ」(上出「憲法?」129・30頁),「法律を制定しないで、戦前の制度に依拠して栄典授与を復活した現行の慣行には,問題かある。」(上出?204頁)とされている。
 そして,東京弁護士会(以下,「当会」という)を含む弁護士会には,叙勲辞退者が比較的多数存することを考えても,他の団体等以上に多様な意見が存しているといえる。そのような状況のなかで,東京弁護士会として,叙勲を受章する旨の意思を示した会員のみを対象としたお祝い会を開催するのは不適当である。
2 弁護士は,在野法曹という立場から諸活動を行っているのであり,国家(天皇)が与える勲章に追随して,弁護士会がお祝いをすることは,在野法曹としての矜持にそぐわないというべきである。
 現在,多くの弁護士は,在野法曹として,一般市民の目線で,誠実・積極的に事件処理を行うことにより,基本的人権擁護・社会正義実現に寄与している。
 また,公害・労働・消費者事件など様々な先進的な分野で献身的努力をすることによって,従来の国の制度に対し,新たな弱者保護の判例・法制度を作り出してきた。このような在野法曹としての立場は,弁護士の原点であり矜持というべきである。
 これに対し,叙勲制度は,国家が表彰するに値すると評価した方に与えられるものであり,在野たる弁護士会が,これに追随してお祝いまでする必要は存しない。
3 表彰されるべき会員は多くいるのであり,あえて叙勲受章者を祝おうとするのは不公平・不適当といえる。
 上述のとおり,弁護士は,多様な分野で諸活動を行っているのであり,その活動を表彰されるべき会員は多数にわたる。ところが,現状の叙勲制度は,日弁連正副会長・理事など限定された役職者等を対象にしたものであり,表彰されるべき者としては限定的といえる。もちろんこれらの方々が多大な努力をしたことには敬意を表するものであるが,あえて叙勲受章者を祝おうとするのは不公平・不適当といえる。現在でも当会は,弁護士登録何十周年という形でお祝いをし,前年度当会理事者に感謝状を差し上げているといった,当会独自のお祝いをしているのであり,それで充分といえる。
4 当会は,叙勲対象者の推薦をしているものではなく,お祝い会をする必要もない。
 現在の叙勲対象者の決定シムテムは,日弁連の依頼により,当会が,慣行に基づく対象候補者に受章の意思確認を行い,叙勲を受章する旨の意思を示した会員を報告するというものに過ぎない。従って,当会が独自に推薦するというものではないのであり,会としてお祝い会を開催する必要もない。
5 叙勲辞退者が少なからずいる中で,お祝い会をするのは相当でない。
 上記のとおり,叙勲制度に対しては多様な意見があり,当会においても,叙勲受章の候補者推薦について辞退する会員が少なからずいるという状況がある。辞退者は自己の信念をもって辞退するものと考えられるが,このような状況下で,受章者を会として祝うことは,辞退者の意向・信念を軽視することにつながり,相当でない。
6 まとめ
 期成会としては,個々の会員が叙勲を受章するか否かにつき,意見を有するものでない。そして,叙勲対象者の方々が先輩会員として,弁護士会の信頼構築のために多大な努力をされたことに敬意を表するものである。
 但し,上記のとおり,多様な意見があり,少なからず辞退者もいること等からして,在野法曹団体である弁護士会として独自にお祝いをすることには反対する。 以上
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もちろん、私の私的意見ならこのように品良くはならない。しかし、全員加盟の弁護士会に対する意見書として、この内容に異論のあろうはずはない。

ここで言われているのは、叙勲を「祝う」ことについての、二重の意味での否定的見解である。

ひとつは、国家の制度としての叙勲がもつそれ自体の問題点。位階・褒賞・叙勲などの栄典は、君主の特権として付与されるものであり、日本では天皇制がその権力保持の手段として使われたという指摘である。天皇が、天皇への忠誠者として功労あった者に、厳密な序列と等級を付して位階や勲章を与えた。臣民は、奴隷の心情をもって天皇からの栄典を名誉として感謝する。位階も勲章も奴隷操縦法の一手段なのだ。戦前、これを栄誉としてありがたがった一群のあったことは天皇制教育の偉大な「成果」にほかならない。

時に墓地を歩いて、墓石に位階と勲章の等級が刻みつけられているのを見ることがある。それだけでしかなかった人物の、それだけでしかなかった人生。哀れを禁じ得ない。さらに哀れむべきは、戦後に至ってなお、天皇の名による叙勲に喜々とする一群の人びと。

期成会意見書は、叙勲を受ける人を愚かとも哀れともいわず「(受勲者の)多大な努力に敬意を表する」とさすがに品がよい。しかし、憲法の教科書を引用して、「日本国憲法との適合性に疑義かある」と指摘する。

つまりは、天皇制を支えたシステムの残滓を無批判に受容することについて、受容者限りで喜ぶことには介入しないが、周囲がこれに巻き込まれたり、持ち上げたりすべきではないという意見表明なのだ。

そしてもう一つは、弁護士という在野の存在が叙勲を祝うという特殊な問題の指摘である。弱者の側に立ってその人権の擁護に徹してこその弁護士ではないか。そのような観点とはまったく異なる、天皇からの叙勲。そんなものをありがたがって、それで弁護士か。それが在野に徹したあり方か。そんな弁護士会でよいのか、という問題提起なのだ。

さすがに期成会の意見書はそのような品の悪さのない文章になっているが、ツボははずしていない。

あらためて、弁護士の使命や在野性について考えさせられる。在野に徹し、弱者の人権擁護を使命とする立場から、強者であり多数派の象徴である天皇からの叙勲に祝意を表してはならないとする組織もある。まさしく弁護士会がそれに当たる。おそらくは、報道機関も大学も同様であり、宗教団体も似た立場にあるだろう。弁護士会が、「天皇からの叙勲、おめでとうございます」などと言っては世も末なのだ。

期成会がんばれ。東京弁護士会もがんばれ。
(2016年7月13日)

街頭宣伝活動での選挙総括

本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所の皆さま。こちらは地元の「本郷・湯島九条の会」です。私たちは、憲法を守ろう、憲法を大切しよう、とりわけ平和を守ろう。絶対に戦争は繰り返してはいけない。アベ自民党政権の危険な暴走を食い止めなければならない。そういう思いから、訴えを続けています。

あなたが政治に関心をもたなくても、政治の方はけっしてあなたに無関心ではいない。あなたが平和と戦争の問題に無関心でも、戦争は必ずあなたを追いかけてきます。けっして見逃がしてはくれません。少しの時間、お耳を貸してください。

一昨日の7月10日が第24回参院選投開票で、既にご存じのとおりの開票結果となりました。今回選挙の最大の焦点は、紛れもなく憲法改正問題でした。より正確には、アベ政治が投げ捨てた立憲主義の政治を取り戻すことができるか否か。憲法を大切にし、政治も行政も憲法に従って行うという当たり前の大原則を、きちんと政権に守らせる勢力の議席を増やすことができるか。あるいは、憲法をないがしろにして、あわよくば明文改憲を実現したいという勢力の議席を増やしてしまうか。

一方に憲法を護ろうという野党4党と市民運動のグループがあり、もう一方に改憲を掲げるアベ自民党とこれに擦り寄る公明・維新・こころの合計4党があります。この「立憲4党+市民」と「壊憲4党」の憲法をめぐる争いでした。おそらくは、この構図がこれからしばらく続くものと思います。

「壊憲4党」の側は徹底して争点を隠し、争点を外し、はぐらしました。それでもなお、客観的にこの選挙は改憲をめぐる選挙であり、選挙結果は壊憲4党に参院の3分の2の議席を与えるものとなりました。これは恐るべき事態と言わねばなりません。

改憲発議の権利は、今やアベ自民とこれに擦り寄る勢力の手中にあることを自覚しなければなりません。到底安閑としておられる状況ではない。憲法は明らかにこれまでとは違った危機のレベルにある、危険水域に達していることを心しなければならないと思います。

では、国民の多くが憲法改正を望んでいるのか。いえ、けっしてそんなことはありません。参院選投票時に何社かのメディアが出口調査をしていますが、その出口調査では有権者の憲法改正についての意見を聞いています。共同通信の調査も、時事通信もNHKも、いずれも「憲法改正の必要がある」という意見は少数なのです。「改憲の必要はない」という意見が多数です。これを9条改憲の是非に絞って意見を聞けば、さらに改憲賛成は少なくなります。「安倍政権下での9条改憲」の是非を聞けば、さらに改憲反対派が改憲賛成派を圧倒するはず。

ですから、明らかに、国民の憲法意識と国会の政党議席分布にはねじれが生じています。大きな隔たりがあると言わなければなりません。にもかかわらず、改憲勢力は今改憲の発議の内容とタイミングを決する権限を手に入れてしまったのです。

今回選挙のこのねじれを生じた原因は、ひとつは改憲派の徹底した争点隠しですが、それだけでなく選挙区制のマジックの問題もあります。改憲派と野党との得票数は、けっして、獲得議席ほどには差は大きくありません。

たとえば、立憲4党は、今回選挙で32ある一人区のすべてで統一候補を立てて改憲派候補と一騎打ちの闘いをしました。その結果、11の選挙区で勝利しました。
 青森・岩手・山形・福島・宮城・新潟・長野・山梨・三重・大分そして沖縄です。
他の県は敗れたとはいえ、前回は31の一人区で、自民党は29勝したのですから、これと比較して共闘の成果は大きかったといわねばなりません。それだけでなく、この一人区一騎打ちの票数合計は2000万票でした。その2000万票が、立憲派に900万票、自公の壊憲派に1100万票と振り分けられました。議席だけを見ると11対21ですが、得票数では9対11の僅差。実力差はこんなものというべきなのです。

それでも、議席を争った選挙での負けは負け。長く続いた平和が危うい事態と言わざるを得ません。既に日本は、1954年以来、憲法9条2項の戦力不保持の定めに反して、自衛隊という軍事組織を持つ国になってきています。しかし、長い間、自衛隊は専守防衛のための最小限の実力組織だから戦力に当たらない、だから自衛隊は違憲の存在ではない、と言い続けてきました。

ところが、一昨年(2014年)7月1日アベ政権は、閣議決定で専守防衛路線を投げ捨てました。個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権の行使を容認して、憲法上の問題はない、と憲法の解釈を変えたのです。憲法が邪魔なら憲法を変えたい。しかし、改憲手続きのハードルが高いから憲法解釈を変えてしまえというのが、アベ政権のやり方なのです。こうして、集団的自衛権の行使を容認して、自衛隊が海外で戦争をすることができるという戦争法を強行成立させました。

自国が攻撃されてもいないのに、一定の条件があれば海外に派兵された自衛隊が、世界中のどこででも戦争ができるという内容の法律ですから、「戦争法」。日本は、自衛のためでなくても戦争ができる国になってしまいました。この戦争法を廃止することが、喫緊のおおきな政治課題となっています。

今、このように憲法がないがしろにされているこのときにこそ、全力を上げて憲法を守れ、立憲主義を守れ、憲法の内実である、平和と人権と民主主義を守れ、と一層大きく声を上げなければならない事態ではないでしょうか。

本当に、今、声を上げなければ大変なことになりかねません。でも、声を上げれば、もう少しで国会の議席配分を逆転することも可能なのです。このことを訴えて、宣伝活動を終わります。ご静聴ありがとうございました。
(2016年7月12日)

東北と甲信越各県の選挙共闘の教訓に学ぼう

第24回参院選投開票の翌日。昨日と変わらぬ太陽がまぶしい夏の日。だが、今日の空気は昨日までのものとは明らかに違う。各紙の朝刊トップに、「改憲勢力議席3分の2超」という大見出し。この国の国民は、そんな選択をしたのだ。溜息が出る。

衆参両院とも、改憲4党(+保守派無所属)で発議に必要な議席は確保した。憲法改正発議の内容とタイミングは、彼らの手中にあることとなった。明日にも改憲発議があるという事態ではないが、憲法の命運に厳しい時代となったことを覚悟しなくてはならない。

この事態を決めた各党の実力と国民の政治意識とは、比例の得票数に端的に表れる。今回の各党の得票数は、ざっくりと整理して以下のとおり。これが現時点での各党の実力。議席の数ほどの差はない。
 自民 2000万
 民進 1200万
 公明  750万
 共産  600万
 お維  500万
 社民  150万
 生活  100万

主要政党の得票数の推移は以下のとおりである。
自民の最近4回(07年・10年・13年・16年)の各得票数は次のとおり。
  1700万→1400万→1800万→2000万
1986年選挙での自民票は2200万であり、95年選挙では1100万票である。自民票の浮沈は激しく、けっして安定してはいない。

民新(民主)の最近4回の票数は次のとおり。
  2300万→1800万→700万→1200万
民進は、著しく実力を低下させた中で、今回は健闘したというべきではないか。

公明の最近4回の票数は次のとおり。
  780万→760万→760万→760万
公明は04年選挙では862万票を取っていた。いまや、頭打ちの党勢といってよい。

共産の最近4回の票数は次のとおり。
  440万→360万→520万→600万
共産は98年選挙では820万票を取った実績がある。このとき、自民1400万、民主1200万だった。その後の低迷期を抜け出つつあるというところだろう。

どの党も、獲得票数の増減は結構激しい。けっして、今回選挙が固定した勢力図ではない。次の選挙結果は予測しがたいのだ。

そう言って自らを励ますしかないというのが、全国的な選挙結果なのだが、例外もある。今回選挙でもっとも注目し、教訓を汲むべきは、沖縄を別にすれば、東北6県の選挙区選挙。いずれも1人区として4野党統一候補を擁立し、選挙共闘の成果は6議席中5議席の獲得となった。これに加えて、新潟・長野・山梨も野党が勝利している。

アベノミクスはこの地に繁栄も希望ももたらしていない。むしろ窮乏と中央との格差、農林水産業の衰退、先行きの不安をもたらした。政権のTPP推進は明確な自民の裏切りと映っている。震災・津波からの復興問題も原発再稼働も、すべてアベ政権不信の材料となっている。

東北のブロック紙、河北新報が、「<参院選>東北 自民圧勝に異議」として、次のように解説している。この解説記事がよくできていて、身に沁みて分かる。

【解説】第3次安倍政権発足後、初の大型国政選挙となった第24回参院選は、東北6選挙区(改選数各1)で野党統一候補が自民党候補を圧倒した。全国で与党圧勝の流れが形成される中、東北の有権者は「1強」に異議を申し立てた。
 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からの復興が道半ばの岩手、宮城、福島で与党が敗れたことは政権にとって打撃だ。政府が「復興加速」を説きながら、地域再生が進まない現実との乖離に、被災者は冷ややかな視線を向けた。
 6選挙区で共闘した野党は、福島で現職閣僚を破ったほか、山形や岩手で終始リード。宮城で現職同士の争いを制し、青森では新人が現職を追い落とした。
 野党は経済政策「アベノミクス」を徹底批判した。東北は少子高齢化の急加速で個人消費が停滞、景気回復の循環に力強さを欠く。先行き不安を巧みに突く戦術は東北の有権者に有効だった。
 環太平洋連携協定(TPP)への攻撃も一定の効果を生んだ。日本の食料基地である東北には、TPPへの反発が根強く残る。野党は保守の岩盤とされた農村部に漂う不満の受け皿にもなった。
 全国に先駆けて宮城で共闘を構築するなど、野党のスクラムは強固だった。安全保障関連法の廃止を求める学生、市民団体との連動も相乗効果を生んだ。
 自民は秋田で独走したが、5県は厳しい戦いを強いられた。党本部は安倍晋三首相ら幹部級を東北に続々投入する総力戦を展開。各業界の締め付けを徹底したが、加速した野党共闘の前に屈した。
 公示後、与党はネガティブキャンペーンを全開させた。旧民主党政権時代の失政をあげつらい、共産党への反感をあおる発言に終始。憲法論争も避けた。政策競争を軽視した「1強政治」のおごりを見透かされた面は否めない。…」

奥羽越列藩同盟の再現であろうか。秋田を除いて、その余の東北5県と甲信越は野党の勝利となった。選挙結果に絶望することなく、東北の闘い方に学びたいものとと思う。
(2016年7月11日)

アベ政権が描く「美しい国・日本」とはこんなものだ

今日は7月10日、参院選の投開票の日。まだ、開票結果の確定報はない。しかし、望ましからざる民意が示されたことは疑いがない。日本国憲法の命運は危くなってきた。これはたいへんな事態だ。既に、アベが「憲法改正、憲法審査会できっちり議論」と言い出したと報道されている。

民主主義とは何であるか。またまた、考え込まざるを得ない。私が物心ついたころ、戦後民主主義と平和とは不即不離のイメージだった。戦前には国民主権も民主主義もなかった。だから、誤った軍部に引きずられて民衆が心ならずも戦争の被害者になった。民主主義さえあれば、あの惨禍をもたらした愚かな戦争を再び民衆が望むはずはない。多くの人がそう思い、私もそう思って疑わなかった。

しかし今、アベのごとき人物が民意に支えられて首相になっている。正真正銘「右翼の軍国主義者(a right?wing militarist)」たるアベである。そのアベによる壊憲・教育介入・メディア支配・沖縄の民意蹂躙・原発再稼働・強引な国会運営が強行されている。世は忖度と萎縮に満ちている。にもかかわらず、アベ政権の支持率が下がらない。憲法が想定した民主主義は、どうなってしまったのだろう。

民意が独裁を望み、民意が戦争を辞せずとし、民意が少数派を差別するとき、民主主義とは一体なんなのだ。どうすれば、もすこしマシな、理性的な社会を作ることができるのだろうか。私たちの国の民主主義はどこで間違ってしまったのだろう。どうすれば軌道を修正できるのだろうか。それとも、最初から日本には民主主義が根付く土壌がなかったということなのだろうか。

アベ政権がどのような社会を作ろうとしているのか。自らが分かり易く示している。
7月7日のことと思われるが、自民党がそのホームページに、「学校教育における政治的中立性についての実態調査」というタイトルの記事を掲載した。その本文は、次のとおりである。

《党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』、あるいは『子供たちを戦場に送るな』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
 学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。》

これには一驚を禁じ得ない。「子供たちを戦場に送るな」との主張は、戦後平和教育の出発点であり、広く国民の支持を受けたスローガンだった。これを、「不偏不党」にも「政治的中立性」にも反し逸脱したというのだ。これでは、「平和は尊い」「戦争を繰り返してはならない」「原爆は禁止すべきだ」も、特定のイデオロギーに染まった結論として排斥されることにならざるを得ない。

自民党は、「子供たちよ、勇ましく戦場を目指せ」と言いたいのだとしか考えられない。もっとも、「子供たちを戦場に送るな」の部分は、その後「安保関連法は廃止にすべき」と、こっそり書き換えられたようだ。姑息千万である。

このホームページの問題はさらに大きい。次のように続けられているのだ。
《そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いします。》として、投稿フォームを設置。氏名や性別、連絡先などとともに、《政治的中立を逸脱するような不適切な事例を具体的(いつ、どこで、だれが、何を、どのように)に記入してください。》という書き込みができる入力欄を設けている。

ちくり、密告の奨励である。子どもたちや父母をスパイに育てようということではないか。あるいは、教員同士の相互監視と密告体制。ジョージ・オーエルの「1984年」を思い出させる。これでは教育が成り立たない。これがアベが取り戻すという「美しい国・日本」の正体なのだ。
(2016年7月10日)

いよいよ明日が投票日ーアベ非立憲政治にノーの審判を

6月22日に公示の第24回参議院議員通常選挙。18日間の選挙戦が本日終了して明日(7月10日)が投票日となる。

日本の命運に関わる今回の選挙。関心の焦点は、改憲勢力に3分の2の議席をとらせるのか否か。各メディアの調査では、軒並み厳しい獲得議席予測となっている。しかし、私には信じがたい。国民の護憲バネを信じたいし、選挙戦最終盤での巻き返しにも大いに期待したい。

何よりも、選挙区議席73のうち32を占める1人区の全選挙区で成立した、市民と4野党の共闘の成果に注目したいし、比例区ではアベ政治と真っ向対峙する日本共産党の勝利を願う。

アベ政権は、紛れもなく壊憲政権であり、非立憲政権である。けっして、戦後の保守本流の自民党政権ではない。右翼政権であり、好戦政権と言ってもよい。日本国憲法大嫌い政権なのだ。

その姿勢は、直接憲法攻撃に向けられているばかりではない。教育とメディアに対する統制にも色濃く表れている。沖縄問題や歴史認識、さらには原発(核)についても、家族法制についても同様である。

分けても、解釈改憲についての突出した姿勢には驚くばかりだ。
私は長く、「憲法9条は専守防衛の立場を認めている」という論者を憲法解釈を歪める論敵ととらえてきた。「自衛のための必要最小限度の実力を逸脱しない限り、自衛隊は9条2項で保持を禁じられた戦力に当たらない」という政府解釈を9条破壊の謬論とし、1954年以後はこの考えで一貫している内閣法制局こそ謬論の元凶と考えてきた。

ところが、アベ政権になって事態は一変した。アベは、専守防衛など生温いとして、海外で戦争ができる道を開こうと言うのだ。歴代の内閣法制局は、専守防衛を合憲解釈とするために、「個別的自衛権の行使は違憲ではないが、集団的自衛権の行使は憲法上容認し得ない」と主張してきた。アベはこの法制局見解を邪魔として、一線を踏みこえた。しかも、内閣法制局長官の首のすげ替えという強硬手段をもってしてのこと。

そうして、閣議決定で憲法の解釈を変え、国民の強い反対を押し切って戦争法を強行させた。無茶苦茶な話だ。今は、その戦争法廃止が最大の課題となっている。

専守防衛論、集団的自衛権行使違憲という、かつての内閣法制局の考え方が、アベ政権によっていとも簡単に否定され排除された。その結果専守防衛論者は、アベ壊憲に反対する立場において、自衛隊違憲論者と目的を共通にする味方になった。アベが極端な立場に位置しているからである。

明日の投票では、アベ政治に対する批判票の集積を期待したい。戦争法廃止も、選挙結果次第で道が切り開かれる。

アベ政権は、今回選挙でも徹頭徹尾の争点隠し争点はずしの戦略をとっている。明文改憲にも、戦争法の必要性にも触れない。戦争法成立時には、説明が足りなかったことを認めて、「国民の皆様の理解が更に得られるよう、政府としてこれからも丁寧に説明する努力を続けていきたいと考えております」と殊勝に述べたものだ。にもかかわらず、今回選挙ではまったく触れようとしない。徹底して争点化を避ける方針なのだ。それでいて、選挙が済んだら、南スーダンへの自衛隊派遣発表の段取りとされている。欺されてはならないと思う。

戦争法は、政権主張のとおりの抑止力となっているだろうか。果たして平和に寄与するものだろうか。むしろ、近隣諸国との軍事的緊張を高める愚策なのではないか。一方の「挑発行為」に、もう一方が軍事的な対応をすれば、結局は軍事対立・軍事緊張のエスカレーションをもたらすことになる。アベ政権は、そのような軍事緊張をもたらす政策をもてあそんでいるのだ。戦争の惨禍をもたらした戦前の軍国主義への反省を忘れ去っている。

平和を願い、立憲主義を取り戻すという願いが結実する明日の投票日であって欲しいと切実に思う。
(2016年7月9日)

都知事選の候補者は、「4野党共闘の統一候補」を。

参院選(7月10日)直後に、都知事選告示(7月14日)が迫っている。「出たい人より出したい人」は選挙に通有の名言だが、「出たい人」「出たがり屋」と「出したい人」「出てもらいたい人」とのマッチングがなかなかに難しい。

今回都知事選の「出したい人」は、条件が明確になっている。「4野党共闘の枠組みでの統一候補たりうる人」である。この枠組みははやばやとできあがった。しかし、その枠組みでの人選の進捗が見えてこない。

6月21日赤旗は次のように報じている。
「日本共産党の小池晃書記局長、民進党の枝野幸男幹事長、社民党の又市征治幹事長、生活の党の玉城デニー幹事長は21日、国会内で会談し、参院選で野党統一候補を実現した全国32の1人区で勝ち抜くとの目標を改めて確認するとともに、舛添要一知事の辞職にともなって行われる東京都知事選でも野党が共同して候補者を擁立することで一致しました。」
「会談では、…都知事選については、自民、公明が押し上げた都知事が2代にわたって政治とカネの問題で辞任しており、このような知事をつくり出してきた自民、公明の責任を追及し、都政を刷新する候補者を野党共同の枠組みで擁立することで合意しました。」
「小池氏は都知事選について『自民党と公明党の責任を追及し、それを刷新できる人物を野党共闘の枠組みで押し上げ、参院選と一体に勝利したい』と表明しました。」

4野党共同での候補者選びがどこかで深く進行しているのだろうが、あまりに深すぎて、都民の目には入ってこない。いたずらに日は過ぎて、告示まで1週間を切ってなお事態の混沌しか見えてこない。民進都連の野党共闘に背を向けたような拙劣な人選の報は目にするが、共産党の動きがまったく見えないのだ。

そんな中で、「出たい人」のまたまたのフライング宣言があったようだ。「またまたの」という根拠は、「東京をプロデュース」の下記URL「2014年都知事選総括」をよくお読みいただきたい。
  http://toupuro.jimdo.com/2014年総括本文/

フライング宣言は、都知事選における4野党共闘枠組み無視宣言でもある。共闘の枠組みを無視して単独で出馬宣言をしておいて、「ついてくる者だけこの指止まれ」という独善的なやり方。野党共闘枠組みができていないときにはあり得る方式だろうが、「今、それを言っちゃあ、おしまいよ」ということになる。

そんな重苦しい空気の中で、石田純一の「場合によっては立候補」記者会見は清々しい印象ではないか。

各紙の報道はほとんど齟齬がない。代表的なのは以下のようなもの。
「俳優の石田純一さんが8日、東京都内で会見を開き、『野党の統一候補であるならば、ぜひ出させていただきたい』と野党の統一候補となることを条件に都知事選(14日告示、31日投開票)に立候補する意向を示した。『野党が統一候補を立てずに分散するというなら、私は降りて(出馬しないで)市民の側に寄り添いたい。自分は「出たい」というよりも「野党統一候補が必要」という考え。万が一、野党統一候補が決まるなら、それがいい』と話し、それぞれ候補者の調整に動いている野党各党に呼びかけた。」(毎日)

また、「石田は、『自分が統一候補じゃなきゃ嫌だというわけではありません』と説明したうえで、『現状、野党がバラバラでは(与党に)勝てない。思いを力に変換できない。少しでも力を結集したい』と話した。」「現状、政党からの出馬要請は『ないです』とした。」「自身が統一候補になれなかった場合や、別の人物が統一候補となった場合は『喜んで応援する』とした」とも報道されている。

石田は野党共闘の枠組みでの進展がないことに業を煮やして一石を投じたのだ。しかも、相当の覚悟をもってのこと。野党共闘の枠組みを大切にし、姿のぼやけてきた共闘の再構築をうながそうとの真摯さがよく見てとれる。好感の持てる姿勢ではないか。

それにしても、分からないのが民進都連だ。自分が共闘の中心に位置して、人選は自分が先行してよいと思っている様子なのが解せない。都議の数では共産党の後塵を拝している民進ではないか。その民進が、どうして長島昭久や松沢成文など、4野党共同で推せるはずもない候補者の人選をするのか。そして、共産党のダンマリも解せない。今は、4野党責任者の協議の進行が喫緊の課題だ。このままでは、参院選の野党共闘の雰囲気にまで翳りを落としかねない。

「後出しジャンケンが勝ち」は、歴代都知事選に限っての格言。なるほど、立候補表明の候補者について、メディアはいっせいに取材し書き立てる。立候補直後の数日は「時の人」として話題になる。その熱気が冷めないうちに投票になだれ込みたいという戦略。政策ではなく、知名度や話題性での投票行動を期待しての後出し。4野党統一候補は、作戦としての後出しではなく、共闘の枠組みを大切に満を持しての選任でなくてはならない。

先んずればフライングと言われ、遅れれば邪道とされる。出たがれば叩かれ、出たくない振りをすれば、熱意がないと言われる。知名度があっても経験がないと言われ、経験あっても当選は無理だといわれる。ほんに、「出たい人」と「出したい人」とのマッチングは難しい。

くすぶり続ける都知事選統一候補の選任。東京にいるからの思いであろうか。せっかくの参院選の野党共闘態勢に水を差しかねない。12年選挙・14年選挙の、二の舞・三の舞という事態はもう見たくない。
(2016年7月8日)

「立憲4党」にイエス。「壊憲4党」にはノーの意思表示を。

あと3日。参院選最終盤に至って、憲法問題の争点化が浸透してきた。
私は、先に今回参院選の勢力関係の骨格を、「右翼アベ自民とこれを支持する公明が改憲勢力を形づくり、左翼リベラル4野党連合が反改憲でこれに対峙する。この両陣営対決のはざまに、おおさか維新という夾雑物が存在するという2極(+α)構造」と描いた。これをもっと単純化すれば、「立憲4党」対「壊憲4党」の争いともいえるのではないか。

「立憲4党」は中野晃一さんのネーミング。なるほど、民進・共産・社民・生活の4党共闘の核になっているものは、明文改憲阻止というよりは立憲主義の回復というべきではないか。アベ政治は既に立憲主義を破壊しつつある。この現実を糺し修復しなければならないという喫緊の課題での共闘。このネーミングの方が緊迫感ないし切実感がある。

これに対する自民・公明・おおさか維新・こころの4党を、大手メディアが「改憲4党」と呼ぶようになっている。「改憲4党は、非改選議席と併せて参院の3分の2の議席がとれるだろうか」との関心の寄せ方。しかし、実は「これから憲法に手を付けます」ではなく、既に憲法の一部を壊しているのだ。その意味では、「改憲」よりは「壊憲4党」と呼ぶのにふさわしい。

大日本帝国憲法下での立憲主義と日本国憲法の下での立憲主義とは大きく異なる。この違いは、権力からの個人の自由をメインの理念とする「近代憲法」と、資本主義の矛盾を克服する福祉国家理念をもつ「現代憲法」との違いに対応したもの。権力が護るべきとされるものの中に、平和主義・民主主義・法律の留保なき人権・社会権・参政権の保障を含むか否かなのだ。

憲法を頂点とする法体系の保護がなければ、強い者勝ちになる不公正に歯止めをかけ、弱い者の立場を護る思想に貫かれているのが、現代憲法としての「日本国憲法」である。改憲を阻止する、憲法を護る、憲法を活かす、立憲主義を取り戻すとは、結局のところ、法の保護なくば弱い側の立場を守ろうということなのだ。「立憲」4党の「立憲」は、この立場を指す。

既に壊されている憲法の理念は、まずは平和である。その最大のテーマは戦争法(安保関連法)であり、次いで表現の自由などの精神的自由権。そして、労働や福祉、さらには教育も民主主義もある。

この二つのブロックの中の各政党の個性はひとまず措いて、「立憲ブロック」と「壊憲ブロック」のどちらに投票すべきか。立場によって分かれる。分かり易いではないか。迷う必要はなさそうだ。

もし、あなたがこの社会の強者の側にあるなら、つまりは大企業の経営者側で、労働者をできるだけ安く使うことを望んでおり、労働者の首切りは自由な方がありがたいと思う立場であるなら、また株や債権の売買でぼろ儲けをしていて、軍事緊張が高まれば武器が売れて景気がよくなるとほくそ笑む立場にあるなら、所得税も法人税も相続税もできるだけ小さくして、累進性をなくし、福祉も教育も自己負担で自助努力が原則の国を望むなら、堂々と壊憲4党に投票すればよい。

しかし、あなたが働く者として首切り自由はとんでもないとし、時間外手当のカットも不当と考えるなら。また、軍事緊張も戦争もゴメンだというのなら。所得税や相続税は累進性を強化すべきが実質的公平に合致すると考え、福祉も教育も本来は国が負担すべきが望ましいとお考えなら、壊憲4党に投票してはならない。農業や漁業の従事者も、中小零細企業家も同じだ。うっかり自公への一票は、自分の首を絞めることとなる。

さらに、仮にあなたがこの格差社会の不合理を身をもって体験している立場にあるなら、あなたの一票は特別な意味を持つ。政治とは、誰の立場にたって政策を進めるかのせめぎあいだ。この社会は利害対立するグループで成り立っている。総じて、強い立場の者と弱い立場の者。強い者は、自分たちが支配する現行の体制を維持し続けようと試み、支配を受けている者がこれに抵抗を試みているのだ。税金のとりかたも使い方も、「強い者・富める者」と「弱い者、貧しき者」との綱引きの結果として決まっている。実は、万人に利益となる政治は幻想であって、どちらの層の利益になるかが、熾烈に争われているのだ。

日本国憲法は、「強い者・富める者」の利益を抑制して、「弱い立場の者、貧しき者」の利益を擁護すべきとする理念を掲げている。飽くまで理念に過ぎない「弱い立場の者、貧しき者」の利益を実現する政治は、選挙によって初めて形づくられる。理念を眠り込ませることなく現実化するのが選挙という機会である。

政治を変えようと切実な声が選挙に結実すれば、医療も教育も、介護も保育も福祉も、すべてを国の負担で行う制度の実現が可能なのだ。格差と貧困を克服する社会の実現は、たとえ時間はかかろうとも、けっして夢物語ではない。その高みに至る道は、陰謀や血なまぐさい暴力によって切り開かれるのではない。あなたのもっている選挙権が唯一の武器だ。言論による説得と、自覚的な一票の積み重ねによって、もっと住みやすい社会を実現できる。アベ政治の継続で利益を得ている者たちに欺されてはならない。

まずは、立憲4党を勝たせることだ。憲法改正を阻止するだけでなく、既に損なわれている憲法の理念を修復して、弱い者に暖かい手を差し伸べる政治を実現しなければならない。壊憲4党に、分けてもアベ自民に投票してはならない。
(2016年7月7日)

「法と民主主義」大学問題特集と、参院選の結果を論じる広渡清吾氏記念講演

本日は、日本民主法律家協会(日民協)の機関誌「法と民主主義」(法民)の編集会議。
選挙期間中だが、日民協と法民の話題を提供したい。

最新刊の法民2016年6月号【509号】特集は、小沢隆一さんの責任編集で「岐路に立つ日本の大学」。
  http://www.jdla.jp/houmin/index.html

「特集に当たって」のリードの中に、小沢さんの次の一文がある。
「今日の大学と学術にかけられている攻撃に対してどのようなスタンスで立ち向かうか。大学で学び、働く者の共同の取り組みが求められている。依るべきものは、日本国憲法の23条「学問の自由」と26条「教育を受ける権利」という二つの柱である。
そしてその際、次のようなユネスコの学習権宣言(一九八五年)も手掛かりにしてはどうだろうか。
  学習権とは、
  読み書きの権利であり、
  問い続け、深く考える権利であり、
  想像し、創造する権利であり、
  自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、
  あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
  個人的・集団的力量を発達させる権利である。」

6月号の目次は次のとおり。
特集★岐路に立つ日本の大学
◆特集にあたって…………編集委員会・小沢隆一
◆現在の大学政策と学問の自由・大学の自治………中富公一
◆学ぶ権利を侵害する学生の生活・労働実態とその克服──奨学金政策の改革を………岡村 稔
◆大学と学生の学びを支える非常勤講師の諸問題と非常勤講師組合の取り組み………松村比奈子
◆国立大学への日の丸・君が代強制に抗する………成澤孝人
◆「政治的中立性」という名の怪物 ──ある市議会からの「攻撃」を受けた、ある憲法研究者の「告発」………三宅裕一郎
◆法学入門科目「現代社会と法」について──法学部教育のあり方が問われる中で………小森田秋夫
連続企画●憲法9条実現のために〈6〉憲法9条擁護のために──急加速の軍学共同とそれとの闘い………赤井純治
特別企画●東日本大震災・福島原発事故と自主避難者の賠償問題・居住福祉課題〈上〉──近時の京都地裁判決の問題分析を中心に………吉田邦彦
司法をめぐる動き・ハンセン病「特別法廷」最高裁調査報告書について………内田博文
◇司法をめぐる動き・4月・5月の動き…………司法制度委員会
◇判決・ホットレポート●三菱マテリアルとの和解について………森田太三
◇メディアウオッチ2016●2016憲法報道・メディア操作にジャーナリズムの姿勢を 争点隠し選挙と改憲問題………丸山重威
◇あなたとランチを〈№18〉………ランチメイト・横湯園子先生×佐藤むつみ
◇委員会報告●司法制度委員会/憲法委員会………米倉洋子/大江京子
◇インフォメーション●6・9「安倍政権と報道の自由」集会アピール
時評●英米流小選挙区制をとおして中華帝国ミニチュア版が再現?………志田なや子
ひろば●安倍政権が推進する国立大学の国旗と国歌………澤藤統一郎

「ひろば」は、日民協執行部や編集委員が回り持ちで自由に執筆する欄。6月号は私が書いた。本欄の末尾に掲載するので、お読みいただきたい。

7月号【510号】の特集は、新屋達之さんの責任編集で「徹底検証『改正』刑訴法・盗聴法」。改正法の解説と徹底批判、そして反対運動を振り返えり、今後を展望する論稿が並ぶとになる。

そして、8・9月合併号【511号】は、参院選の結果を踏まえての情勢討論特集号。10月号【512号】は、「憲法25条・福祉国家論」について。「法と民主主義」健在である。

なお、日民協は 来週土曜日に第55回定時総会を開催する。
 日時 2016年7月16日(土)午後1時?6時 終了後に懇親会
 会場 プラザエフ8階スイセン
その目玉企画が、広渡清吾さんの総会記念講演
 予定時刻 午後3時15分~5時
 演題「安倍政権へのオルタナティブを一個人の尊厳を擁護する政治の実現を目指す」

ほかならぬ広渡さんの「安倍政権へのオルタナティブ」論である。しかも、参院選直後のこの時期に、参院選の結果を踏まえての講演となる。会員外のご参加も歓迎。無料。できれば、事前に下記まで出席予定のご連絡を。
 電話 03(5367)5430  ファックス 03(5367)5431

また、総会では、第12回「相磯まつえ記念・法民賞」授賞式も行われる(午後5時10分?5時30分)。

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「安倍政権が推進する国立大学の国旗と国歌………弁護士 澤藤統一郎

本年5月1日の毎日新聞によると、同紙が実施したアンケート調査で、国立86大学のうち、76大学が今春の式典で国旗を掲揚し、14大学が国歌斉唱を実施したという。その内、新たに国旗を掲揚したのが4大学。新たに国歌を斉唱したのは6大学。斉唱まではしないが、国歌の演奏や独唱をプログラムに入れたのが5大学。じわじわと、「日の丸・君が代」包囲網が大学を押し包んでいくような不気味な空気がある。

 国立大学での国旗国歌問題の発端は、昨年(2015年)4月参院予算委員会における安倍首相答弁だった。「税金によって賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとって、正しく実施されるべきではないか」というもの。知性に欠けるということは恐ろしい。反知性の首相であればこそ、臆面もなく恥ずかしさも知らず、堂々とこんな短絡した「論理」をのたまうことができるのだ。憲法も、歴史の教訓もまったく無視して。
 この首相発言を、盟友下村博文文部科学相(当時)が受けとめた。同年6月には、国立大学長を集めた会議で「国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」との要請となり、後任の馳浩文は本年2月、岐阜大が国歌斉唱をしない方針を示したことに対し、「日本人として、国立大としてちょっと恥ずかしい」という意味不明なコメントを述べている。教育行政を司る部門の責任者の言がこれなのだから、国民の方がまことに恥ずかしい。

 だが、愚かな政権の愚かな「要請」の効果は侮れない結果となった。心ならずも政権の意向を汲んで屈服したものは、包囲網に加わる形となって抵抗者を孤立させていく。幾たびも目にしてきた光景ではないか。
 愚かな政権の愚かな「要請」は、本来その意図とは逆の効果を生じなければならない。これまで式典に国旗国歌を持ち込んでいた大学も、「文科省に擦り寄る姿勢と誤解されてはならない」「大学の自治に介入する文科省に抗議の意を表明する」として、国旗も国歌も式からなくすという見識が欲しい。
 国立大学は結束しなければならない。文科省に擦り寄る大学の存在を許せば、当然に差別的な取り扱いを憂慮しなければならないことになる。大学が真理追究の場ではなくなる虞が生じ、世人の信頼を失うことにもならざるを得ない。

 大学とは、学問の場であり、学問の成果を教授する場である。学問とは真理追究であって、大学人には、何ものにもとらわれずに自由に真理を追究しこれを教授すべきことが期待されている。言うまでなく、この自由の最大の敵対者が権力である。したがって、学問の自由とは権力に不都合な真理を追究する自由であり、教授の自由とは時の権力が嫌う教育を行う自由にほかならない。国立大学とは、国家が国費を投じて真理追究の自由と教育の環境を保障した場である。国家は学問と教育の両面に及ぶ自由を確保すべき義務を遵守するが、学問や教育の内容に立ち入ってはならない。こうして、学問は時の政権からの介入や奉仕の要請から遮断されることで、高次のレベルで国民の期待に応えることになる。

 国民の精神的自由を保障するために、権力が介入してはならないいくつかの分野がある。まずは教育であり、次いでメディアであり、そして宗教であり、さらに司法である。この各分野のすべてが、濃淡の差こそあれ政権からの攻撃の対象とされている。この各分野への攻撃は、それ自身が目的であるとともに、戦後レジームからの脱却と改憲への強力な手段ともなっている。国立大学での国旗国歌は、政権の国家主義強化の策動を象徴するテーマとなっている。けっして、これを成功させてはならないと思う。
(2016年7月6日)

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