(2024年6月4日)
6月4日、忘れてはならぬ日であるが、到底忘れられぬ日でもある。
あの日、私の中で崩壊したものは、中国共産党や中華人民共和国への期待や肯定的な評価だけではない。人類の進歩への楽観や希望も崩れたのだ。あれから35年、中国共産党の野蛮と危険は、さらに深刻化している。彼の地に、人権と民主主義が根付くには、百年河清を俟つがごとき感を拭えないが、やむを得ない。百年を俟つ覚悟をしようではないか。そう、百年批判の声を挙げ続ける覚悟を。
例年6月4日には、弾圧されて声を失った中国本土の民主勢力に代わって、香港の市民が大規模な追悼と抗議の集会を続け、亡き人たちの志を継いできた。が、今や、香港の文明は中国の野蛮に完全に呑み込まれ、いまこの志を継いでいるのは台湾である。
かつての「人民に依拠した中華人民共和国」と「国民党による強権支配の台湾」という関係は完全に逆転した。いまや、「一党独裁個人崇拝の専制国家・中国」と、「人権と民主主義の先進社会・台湾」との対比の構図である。
さらに深刻なことは、野蛮の側が腕力において圧倒的に強盛なことである。文明の側、人権や民主主義の旗を掲げる側は、軍事力において劣勢を免れない。
その台湾では、就任まもない頼清徳総統が、本日「天安門事件の記憶は歴史の奔流の中で消えることはない」と発言した。さらに、「(天安門事件は)民主主義と自由が簡単には手に入らないことを思い知らせてくれる。私たちは、自由によって独裁政治に対応し、勇気をもって権威主義の拡大に立ち向かわなければならない」「民主や自由があってこそ人民を守ることができる」とも述べたという。そして、台北市内では民主団体によって天安門事件犠牲者を追悼する集会が開催された。
習近平共産党指導部は、事件を「動乱」と認定して民主化要求運動を武力で抑え込んだ対応をいまだに正当化し、さらに国内民主化運動をおさえこもうと躍起である。4日早朝、天安門広場やその周辺には制服姿の警察官や武装警察官が多数配備された。厳戒態勢を敷き、市民の追悼や抗議活動を監視しているという。強権を発動しなければ、治安を維持することのできない脆弱さを抱えているのだ。
一見、中国と台湾が対立しているように見えるが、実は、民主主義を求める勢力と、これと敵対し弾圧する勢力とが対立している。民主主義を求める勢力は中国本土では劣勢で弾圧されている。台湾では、民主主義を求める健全な勢力が多数派を占めており、虐げられている中国の民主主義勢力に手を差しのべているのだ。
周知のとおり、中国指導部の頼総統に対する非難のボルテージは高い。先月の総統就任時には祝辞を送らず、《台湾に『戦争と衰退』をもたらす『危険な分離主義者』》との物騒なメッセージを送って、台湾周辺をぐるりと取り囲む形での軍事演習の実施で威嚇をしている。《中国に逆らうと『戦争と衰退』が待っているぞ、中国からの台湾分離など唱えることの『危険』を知れ》と恫喝しているのだ。これこそ、野蛮な反社の姿勢ではないか。
「天安門」から、「08憲章」・「チベット・ウイグル」・「香港」、そして台湾と矛先は広がっている。自由に発言のできる立場にある者は、「天安門の母」や香港の市民に代わって民主勢力を弾圧する野蛮な中国共産党を批判しなければならない。小さな声も、無数に集まれば力になる。そうすれば、百年待たずして河清を実現できるかも知れない。
(2024年6月1日)
昨日の朝は、久々に爽快だった。言うまでもなく、「トランプ有罪」の報が飛び込んできたからである。この上なく耳に心地よい、市民による正義実現のニュース。法廷には、「ギルティ」の言葉が34回繰り返されて響いたという。12人の陪審員が、34件の業務文書偽造の各訴因について、全員一致で「有罪」と認定したのだ。
伝えられるところでは、検察はこの公判で、犯罪の動機を「2016年大統領選に不利な影響が生じないための被告人(トランプ)の工作」と強調したという。単なる「ポルノ女優との不倫の〈口止め料隠し〉」ではなく、民主主義の根幹を揺るがす「公正な選挙を冒涜する犯罪」と構成してのことである。アメリカ合衆国大統領候補者が、大統領選挙に不利と見て自らのスキャンダルを隠蔽するために金を積み、そのカネの使途を隠すために文書を偽造したのだ。12名の市民は、厖大な証拠に基づいてこの大統領候補の犯罪の成立を認め、前大統領に「ギルティ」を宣告した。
有罪の評決は、トランプにも意外だったのだろう。夕刊各紙に掲載された判決言い渡し直後のトランプの形相が凄まじい。血走った目が、衝撃の深さを物語っている。それでも彼は、型のとおり「恥ずべき不正な裁判だ」「民主党による政治的迫害だ」「バイデンが裏で糸を引いている」とコメントしている。いや、恥ずべきはトランプ自身ではないか。カネとウソと居丈高。みっともないこと、この上ない。共和党は、こんなのをまだ大統領候補にしておくのか。
一方、バイデンは落ちついて、「法を超越する存在はないという米国の原則が再確認された」「他の裁判と同じように選ばれた12人の陪審が、5週間証拠を調べ、慎重に検討した後、全会一致で評決に至った」「トランプは弁護の機会を与えられたし、上訴の機会もある。それが米国の司法制度のあり方だ」と述べたという。余裕綽々、この点はそのとおりである。バイデンも決して立派な政治家とは言えないが、トランプとの比較の限りでは、月とスッポン、提灯に釣り鐘である。
バイデンの言のとおり、いかなる権力者も服さざるを得ないのが、民主主義社会における「法」である。王も、皇帝も、大統領も、党も、主席も、総統も領袖も、金持ちも、人気者も、一人として例外はあり得ない。前大統領であり次期有力大統領候補であるトランプの「有罪」は、米国の民主主義いまだ地に落ちずという図柄である。これが、このニュースの心地よさの所以である。
私は、アメリカ帝国主義こそ人類最大の害悪だと思い続けてきた。が、同時にアメリカ市民の民主主義の良き伝統には敬意を払ってきた。中国共産党は大嫌いだが、中国の風土と文物、人々には畏敬の思いを拭いがたい如くに、である。
この度の「トランプ有罪」は、アメリカの市民社会に根差した民主主義の伝統の発露として敬意を評したい。さらに、トランプが起訴されているその余の3件のいずれにも、有罪の評決と厳しい科刑を期待したい。トランプとは、今やアメリカの民主主義の健全さ如何を示すリトマス試験紙である。彼が、受刑者として収監されることによって、アメリカの民主主義の成熟性を示すことになる。中国やロシアでは考えられない、権力を抑制してこその法の存在であり、民主主義なのだ。そのような目で、今後のトランプの刑事裁判に注目したい。
(2024年5月12日)
「法と民主主義」2024年5月号【588号】は連休前に発刊されたが、このブログでの紹介が遅れた。本号の特集タイトルは、以下のとおり熱い。
●あらためて問う《政治とカネ》― その理念と規制改革の方向
時宜に適った充実した内容であり、只野雅人・石村修両氏をはじめとする適材の執筆陣の力のはいった論稿が揃っている。
◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆政治資金と民主主義 … 只野雅人
◆会社による政党への寄附 ── 八幡製鉄事件最高裁判決・再読 … 石村 修
◆政治資金の統制の論理 ── 政治資金規正法の盲点 … 加藤一彦
◆政党もコンプライアンスの導入急務── 自民党各派の政治資金パーティー問題の経過と現状 … 栗原 猛
◆政治資金パーティーという「企業献金の抜け道」を塞げ … 立岩陽一郎
◆民主主義の理念貫徹のための選挙制度改革── 小選挙区制の弊害と改革の方向 … 小松 浩
◆政治資金と納税義務 ―― 自民党キックバック、裏金への課税 … 岡田俊明
◆政治資金と納税義務 ―― 納税者の怒りと運動の視点 … 浦野広明
◆主要各国における政治寄付関連制度(国会図書館作成資料)
私のリードは、下記のURLでお読みいただきたい。
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202405_01.pdf
民主主義の理念に敵対するものとして、資本の論理がある。利潤の追求をその本質とする企業は、儲けのためにはなんでも買う。カネは票を買い、政策を買い、政治を買うのだ。かくて、放置されている限り、カネは強力な武器となって民主主義の理念を侵蝕する。民主主義は、このカネの力を徹底して規制しなければならない。
同時に、政治資金の流れは、徹底して可視化されなければならない。政治資金収支報告の内容を透明化するとともに、有権者が関心をもって監視し意見を表明することが必要である。政治家の腐敗の程度は、有権者全体の民主化度の反映なのだ。
特集以外の記事は、以下のとおりで。
◆緊急掲載
岡口基一弾劾裁判の手続と判決の問題点 … 児玉晃一
◆司法をめぐる動き〈93〉
・NHK情報公開訴訟での一審判決報告 … 澤藤大河
・3月の動き … 司法制度委員会・町田伸一
◆連続企画・憲法9条実現のために(51)
岸田改憲と憲法審査会の動向 ── 「戦争への道」=改憲を葬り去る時 … 高田 健
◆メディアウオッチ2024●《グローバルパートナーって何だ?》
「裏金」問題の陰で「戦争国家」への道 円安、生活苦、この国をどうする? … 丸山重威
◆改憲動向レポート〈№58〉
憲法改正問題とは「関係のない自民党派閥による裏金問題」と発言した
馬場伸幸日本維新の会代表 … 飯島滋明
◆インフォメーション
・ブックレット「『国会議員の任期延長改憲』その危険な本質?軍事大国化の中での憲法審査会の動向?」のご案内
・国の指示権を拡大する「地方自治法の一部を改正する法律案」の廃案を求める法律家団体の声明
◆時評●平和的共存への道に希望を … 松田幸子
◆ひろば●改憲問題対策法律家6団体連絡会議事録整理班の活動 … 久保木太一
お申し込みは、ぜひ下記の「法と民主主義」ホームページから
「法と民主主義」(略称「法民」)は、日民協の活動の基幹となる月刊の法律雑誌です(2/3月号と8/9月号は合併号なので発行は年10回)。毎月、編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、人権、平和、司法、原発、ジェンダー、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入(1冊1000円)も可能です。よろしくお願いします。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
(2024年5月4日)
産経の社説は「主張」という。産経自らが、「憲法改正、靖国神社参拝、領土問題などについて、日本の国益のもとにハッキリとした論説を展開しています」と、その姿勢を説明している。「日本の国益のもとにハッキリとした論説」とは、「真正右翼の言説」という意味。「これがハッキリとした右翼の主張」なのだ。ときおりこれを見ていれば、いま右翼が何を問題とし何を言いたいのか、ほぼ見当がつく。その意味で便利で存在価値ありなのだが、カネを払って読むほどの内容はない。ネットで斜め読みするだけで十分である。
最近、産経らしい「主張」のタイトルが以下のように続いている。安倍なきあとの右翼の危機感の表れなのかも知れない。
(4月27日)皇位継承と皇族数 「正統の流れ」確認された
(4月29日)昭和100年式典 日本を挙げて開催したい
(5月1日)天皇陛下即位5年 重きお務めに感謝したい 伝統守り男系継承を確実に
(5月3日)憲法施行77年 国会は条文案の起草急げ 内閣に改憲専門機関が必要だ
内容はタイトルだけで推察されるとおり。基本姿勢の一つは「国体思想」であり、もう一つが「軍事大国化」。両々相俟って「国益論」となり、「改憲・靖国・領土」という具体的トピックに盛り込まれる。
「国体思想」とは、愚にもつかない天皇崇拝のこと。「思想」というほどの論理性も体系性もなく、今の世にはアナクロニズムというしかない代物。天皇教というべき蒙昧なかるとに過ぎず、統一教会の原理講論と五十歩百歩というところ。
天皇とは、調和のとれた美しい憲法体系中に埋め込まれた、本来あってはならない異物である。体系に馴染みようがない。憲法体系を人体になぞらえば、盲腸か腫瘍にあたると言えよう。憲法体系の調和を撹乱し、この異物を摘出しない限りは憲法の体系性が完成しないのだ。
憲法は、すべての人の生まれながらの平等を基本原理として体系化されている。しかし、天皇は生まれだけでその地位に就く。人の平等性という原理を破壊する存在なのだ。天皇を貴しとするところから、相対的な賤なる存在が生まれる。その意味で天皇制は差別の根源である。あらゆる差別の廃絶のために、天皇制を廃棄しなければならない。
「軍事大国化」は、富国強兵のスローガンをもって語られた大日本帝国の国是であった。大日本帝国は、「軍事大国化」の大方針を掲げて、台湾・朝鮮・満州へと侵略を重ねた。平然と、他国の領土を「日本の生命線」とうそぶいて恥じなかった。対中戦争の膠着を打開するとして対英米蘭にまで戦争を仕掛けて、壮大な失敗を犯した。日本国憲法はその失敗の教訓から生まれ、徹底した平和主義・国際協調主義を採用した。これを再び戦前に戻してはならない。
ところで、最近の産経社説の中で、最もあからさまに国体思想の臭みを放っているのが、5月1日掲載の「天皇陛下即位5年 重きお務めに感謝したい 伝統守り男系継承を確実に」である。
産経は天皇を、あたかも主権者の如く、またあたかも聖なる存在の如く、崇め奉っている。これは、危険な兆候と言わねばならない。
産経は、「天皇は、憲法第1条で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定める日本の立憲君主の立場である。国と国民の安寧を祈り、さまざまなお務めに励まれてきた陛下に深く感謝申し上げたい」と言う。ことさらに、憲法第1条の後段、「この(象徴たる)地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」を引用から省いての作文が解せない。天皇の地位は、飽くまで主権者である国民の意思にもとづく限りもので、言うまでもなく天皇制廃絶の憲法改正は可能である。このような政体をことさらに「君主制」という必要はない。
産経社説から伺える右翼の問題意識は、男系男子としての天皇の「正統性」への固執と、血統の断絶に対する恐れとである。つまらぬことではないか。天皇は、人権と民主主義、そして平和と国際協調を調和のとれた体系とする憲法に必然の存在ではない。天皇の血統が途絶えて天皇制がなくなっても、憲法の人権も民主主義も平和主義も、何の影響も受けることはない。当然のことながら、日はまた東から昇り、季節はめぐる。稲も枯れることはなく、鳥もさえずり続けるのだ。
(2024年5月3日)
本日、77回目の憲法記念日。擬人化すれば、日本国憲法は77歳となった。この間、部分的にも明文改憲はなかった。誕生以来本日まで、1字の損傷もなく、憲法は擁護された。これは、主権者である国民の憲法を支える強い意思が保守勢力の改憲策動を阻止したことを意味する。その意味では日本国憲法の喜寿を祝い喜ぶべきではあろう。本日は、めでたい日である。
とは言うものの、手放しで喜んでよい憲法状況ではない。確実に解釈改憲の策動が進行している。憲法の空洞化といってもよい。とりわけ、憲法の平和主義への攻撃と侵蝕は看過しがたい。9条は危殆に瀕している。安倍政権の集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更以来今日まで、政府の憲法無視は甚だしい。就任前はハトと思われていた岸田が今はタカの本領を発揮している。安保3文書の閣議決定、敵基地攻撃能力保有、軍事費倍増、戦闘機まで含む殺傷兵器の輸出解禁、日米軍事同盟の質的強化等々、明らかに憲法の平和主義をないがしろにする大軍拡路線が進行中である。
憲法とは、主権者から為政者に対する命令である。権力行使を有効に制約しなければ憲法の存在意義はない。いま、政権には憲法遵守の誠実さはなく、邪魔な存在として解釈を変更して違憲な権力行使を行い、さらには明文改憲の意図を隠そうともしていない。
かくして、憲法に従うべき義務を負う権力者が、憲法改正を唱える異常事態が常態化するに至っている。さらに憂うべきは、自・公の与党勢力だけでなく、維新や国民という一部野党までもが、改憲勢力の一翼を担っている。喜寿の憲法は必ずしも安泰ではない。
喜寿を迎えた日本国憲法について、もう一つの感想がある。今日まで明文改憲を阻止し得たと言うことは、その反面、より良い憲法改正をなし得なかったということでもある。憲法は保守勢力と進歩勢力との、暫定休戦協定という政治的意味をもっている。進歩の勢力が強くなれば、憲法は大いに改正を重ねてしかるべきものなのだ。
日本国憲法は立派な憲法ではあるが理想の憲法ではない。当然のことながら、不磨の大典でもあり得ない。人権・民主主義・平和という理念を充実し実質化する方向に、真の意味での「憲法改正」を進展させなくてはならない。にもかかわらず、日本国憲法は、人権にも民主主義にも敵対し平和主義にも危険な「天皇制という異物」を抱えたまま喜寿を迎えた。憲法制定以来今日までの長きにわたって、日本の主権者はこの憲法上の異物を摘出できていない。
日本国憲法の喜寿は、まずはその無事を確認して祝したいが、それだけでは足りない。明文改憲と解釈改憲の両者を最大限警戒するとともに、より良い憲法へ向けての「真の改正」の必要を確認する日としたい。異物を摘出し、部分的な治療を重ねることによって、日本国憲法は大いに若返り活性化するに違いない。
(2024年4月30日)
新聞とネットで拝見する限りだが、NHKの朝ドラ「虎に翼」の好評が続いているようだ。結構なことである。だが、喜べないこともある。このドラマがとんでもない反動裁判官の実像隠蔽や美化になりかねないことだ。ドラマと史実を混同してはならないという当然の警告が必要であって、今後何度もこの点を繰り返さねばならないことになろうかと思う。
このドラマに、桂場等一郎なる人物が出てくる。このドラマのある紹介記事では統一郎という私の同名となっており、なんとなくその人物像に親しみを感じてしまいそう。これがくせもの。くわせもの。
桂場等一郎は、このドラマの第1話から登場するのだという。戦後、新憲法制定の直後に、主人公猪爪寅子が「憲法14条に基づき、女性にも裁判官任官の道が拓けた」と考えて、当時の司法省に採用願いを提出する。その際の面談の相手となった人事課長が桂場等一郎。つまり、人事行政を行う官僚としての裁判官という立場。これが、ドラマではモノの分かった好人物に描かれている模様なのだ。
この桂場等一郎のモデルが、石田和外と聞いて驚いた。石田和外とは、本来がパージとなるべき戦前の亡霊のごとき思想判事だったが、戦後典型的な司法官僚として出世し5代目の最高裁長官となった男。疑う余地とてなき反動として知られた人物である。
任期中に名を馳せたのは、民主的な若手裁判官の自主的集団であった青年法律家協会裁判官部会を弾圧したこと。当時は、ブルーパージと呼ばれた。その高圧的な姿勢に接して、私は反権力に生きることを決めた。私にとっての、忘れることのできない憎むべき「反面教師」である。
定年退官後は「英霊にこたえる会」の初代会長となった。さらに「元号法制化実現国民会議」の議長ともなる。これが、「日本を守る国民会議」に改称し、現在の「日本会議」となっている。右翼の親玉となった元最高裁長官なのだ。
寅子のモデルである三淵嘉子(当時は和田姓)が新憲法制定後に、任官資格が「大日本帝国男子に限る」とされていた裁判官の採用願いを提出したこと、当時の司法省人事課長が石田和外だったことはおそらく史実なのだろう。しかし、石田の姿勢がどうだったかは分からない。桂場等一郎の人物像は、飽くまでドラマでの設定に過ぎない。
現在ドラマでは、寅子の父が大規模な疑獄に巻き込まれて逮捕され起訴されるという大事件に遭遇している。この疑獄のモデルが帝人(帝国人造絹絲)事件で、政争に絡んだでっち上げとして知られた事件。16名の被告人全員が一審無罪で、検事控訴なく確定している。その無罪の判決書を左陪席として起案したのが石田和外。
ハテ? 三淵嘉子の父の経歴には逮捕も起訴もないというから、ドラマはことさらに桂場等一郎の出番を作ったことになる。おそらくは、これから等一郎裁判官の善玉としての活躍を描くことになるのだろうが、この等一郎の美化には、警戒を要する。ドラマの等一郎の美化が、右翼反動の石田和外美化につながりかねないのだから。「寅に翼」全面礼賛というわけにはまいらぬ。
(2024年4月26日)
宮沢博行という衆議院議員が議員バッジを外して辞職願を申し出、昨日(4月25日)の衆議院本会議で許可となった。この辞職は、週刊文春に「妻子がありながら別の女性と金銭的援助を伴う同居をしていた」と報じられてのこと。これをメディアは、「パパ活辞任」と言っている。自民党全体が裏金まみれの疑惑を抱えているこの時期の「パパ活」スキャンダルとして目を惹かざるを得ない。
この人、コロナ禍の緊急事態宣言下での「パパ活」同棲の事実があったことを認め、さらにコロナ禍が明けると出会い系サイトに「ひろゆき 49歳 東京都 自営業」のプロフィールで登録して露骨な書き込みで女性を物色していことも認めた。デリヘル嬢が連夜宮澤の自宅を訪ねている写真も掲載されたという。
ハテ? 既視感のある報道ではないか。2023年8月の「週刊文春」に踊ったタイトルが「オレはエッチをガマンできない」「木原誠二官房副長官は違法風俗の常連だった!」というもの。木原は「ナカキタ」という偽名を名乗って違法デリヘル(事実上の売春)に浸っていた。文春記者が木原氏の写真を見せたところ、複数のデリヘル嬢が「接客したことがある」と認めたという。
その一人の証言が、木原の「世の中、コロナ下なんだけど、俺はエッチを我慢できないからさぁ」(同誌2023年8月10日号)
さすが、同窓の先輩。宮沢博行に比較して、みっともなさでは、木原誠二に一日の長がある。先輩と比較すれば、宮沢の醜行ぶりも、その規模イマイチというところ。しかも、宮沢には木原のように権力を振りかざして捜査に介入などという悪質さにも欠ける。
にもかかわらず、宮沢は辞職を余儀なくされ、木原は議員として生き延び今なお党の要職に就いてさえいる。この差はどうしてなのだろうか。
私が宮沢博行という政治家の存在を知ったのは、一連の裏金問題が話題となって以来のこと。2023年に防衛副大臣に就任するも、安倍派による組織的な裏金作りが発覚して副大臣を辞任。2023年12月、政治資金パーティーのキックバックに関して以下のように公然と派閥幹部を批判して注目を集めた。
「派閥の方から、かつて収支報告書に記載しなくて良いと指示がございました。3年間で140万円(その後の党の調査で132万円と判明)です。はっきり申し上げます。しゃべるな! しゃべるな! これですよ」
さらに、2024年1月には、「清和政策研究会(安倍派)は、解散すべきである。わたしは派閥に残り、派閥を介錯(かいしゃく)する。安倍派を介錯する」と安倍派の解散を求める声を上げていた。
党や派閥の幹部の不興を買うことを覚悟しての発言だが、悲しいかな、彼には有力な庇護者がいなかった。確証はないが、スキャンダル報道の情報源にもその辺の事情が絡んでいて実は潰されたのかも知れない。一方、自民党の木原誠二・幹事長代理は、よろけつつも命脈を保っている岸田首相の側近として知られる。この差は大きい。
ところで、宮沢も木原も、同じ自民党議員で東大法学部の卒業。宮沢が97年卒で、木原は4年先輩の93年だという。だから、何と言えるだろうか。
「東大法卒の品性とは、こんなみっともないもの」「東大出ってホントにみっともないやつばかり」「政治家の一皮剥いた本性をあらわしている」「自民党議員のレベルはこの程度」「男なんてみんなこんなもの」
少ないサンプル数で全体を決めつけることは間違いだが、このような印象は拭えない。少なくとも、「東大法卒だから品性立派とは限らない」「みっともない東大出も珍しくはない」「一皮剥いたらこんな本性の政治家もいる」「自民党にはこんな低レベルの議員も複数いる」「こんな男性も少なくない」とは言えるのだ。選挙では、人物をよく見極めよう。もうすぐ衆院議員の補選だし、都知事選も近い。
(2024年4月21日)
既に初夏、ツツジが美しく、今日初めて鯉のぼりを見た。上野公園では何台かの神輿が練っていた。6月20日の都知事選告示まであと2か月、投開票は7月7日。この時期に至ってなお、有力候補の出馬表明はまだない。
いまだに革新側の候補者の名が上がらない。いったいどうしたことだろうか。候補者選定のまずさと準備の不足から、目も当てられない都知事選が繰り返されてきた。今回もこの時期に候補者すら決まらないのでは絶望せざるを得ない。そう思っていたら、突然状況が変わった。今回こそはチャンスなのだ。何とかこのチャンスを活かせないか、希望をつなぎたい。
衆院補選(東京15区)への出馬の噂があった小池百合子だが、同補選には乙武洋匡を立候補させたとき以来、小池百合子の都知事三選出馬は確実で当選も間違いなかろうと言われてきた。今、その事態が大きく揺れている。小池百合子は、はたして都知事選に立候補できるだろうか。仮に立候補したとして、当選できるだろうか。状況を大きく変えたのは、小池百合子の学歴詐称問題の再燃である。もちろん、小池自身の身から出たサビ。
人間、ウソはよろしくない。見栄のための小さなウソが、引っ込みつかずに大きなウソを重ねなくてはならない羽目となる。小池百合子の学歴詐称がその最悪のお手本。普通人の感覚からは本人もさぞ苦しかろうと思うのだが、あの顔を見ていると案外そうでもないのかも知れない。かつては、「ウソつきは安倍のはじまり」と言われ続けてきたが、今や、「ウソつきは小池のはじまり」「ウソにウソが重なる小池のウソ」「終わりの見えない小池のウソ」と言わねばならない。安倍も小池もウソをついて平然としておられるのは、天性の資質なのだろう。
これまで、黒木亮、石井妙子、北原百代等々の関係者や取材者、あるいはアラビヤ語の達者からの解説で、小池百合子主張のカイロ大学卒業は真っ赤なウソと納得してきた。それに加えての、この度の小島敏郎告発である。同氏は小池百合子の側近であったとされる。事実、東京都の特別顧問であり、都民ファーストの会東京都議団政務調査会事務総長の肩書も持っていた。その人物が、小池の経歴詐称と隠蔽工作を天下に公言している。
小島敏郎の説明は立証として完璧なものではないにせよ、具体的で関係者の実名も出している。もし虚偽なら直ちに反論可能な内容だが、これを虚偽と反論する関係者はいない。樋口高顕千代田区長がその典型。小池と一緒に反論するのではなく、逃げ回っているのだという。以下は、文春オンライン 4/17(水) 16:12配信の記事である。
月刊「文藝春秋」5月号に掲載された「『私は学歴詐称工作に加担してしまった』小池百合子都知事元側近の爆弾告発」。この手記の中で学歴詐称工作に加担した一人と名指しされる現千代田区長の樋口高顕氏(41)が、月刊「文藝春秋」の発売日である4月10日から12日まで区役所に登庁せず、13日の公務をドタキャンするなど、行方不明となっていたことが「週刊文春」の取材で分かった。
今や小池百合子の学歴詐称は、万人の常識となっている。誰もが、内心では小池百合子をウソつきと認めている。しかし、実は彼女のカイロ大学卒業という経歴の真否はさほどの重要事ではない。問題は、このウソを突き通すために、際限なくウソにウソを重ねていく彼女のやりくちである。これでは、政治家としての彼女の言動のすべてを疑わざるを得ない。ウソつきは政治家失格だが、とりわけ民主主義社会においては、ウソつきと烙印を押された政治家の政治生命は終わったも同然である。
さて、夏の深まりとともに、小池百合子の正念場が近づきつつある。もし、小池が政治家人生を継続するつもりなら、都知事選の告示日である6月20日には立候補を届けなければならない。その際に、「カイロ大学卒業」の経歴にこだわり続けるのか、それともきれいさっぱり清算するのか。ここがロードスだ、さあ跳べ。だが、どう跳ぶべきだろうか。
無難なのは、学歴として「関西学院大学社会学部中退」、あるいは「カイロ大学中退」と記載すること。こうすれば、選挙犯罪として立件されることはなくなる。しかしそれでは、これまでウソをついてきたことを自ら認めることになる。刑事訴追は避けられても、政治家としては致命傷だ。自ら墓穴を掘ることになる。
さりとて、立候補届に「カイロ大学卒業」と書き込めば、確実に公職選挙法上の経歴詐称として刑事告発されることになる。そうなれば、あの怪しい「卒業証書」(アラビヤ語の表題は「証明書」に過ぎず、「卒業の証明」にはなっていないそうだが)も押収され徹底的に実況検分されることにもなり、口先だけでごまかし通すことはできなくなる。小池百合子よ、さあ、どうする。さあ、さあ、さあ、さあ。
公職選挙法235条1項は、(虚偽事項の公表罪)として、「当選を得…る目的をもつて公職の候補者…の身分、職業若しくは経歴、その者の政党その他の団体への所属、…に関し虚偽の事項を公にした者は、2年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処する」と定める。
小池自身が、「当選を得る目的をもって、経歴に関し虚偽の事項を公にした」場合は、「2年以下の禁錮または30万円以下の罰金」に処せられる。のみならず、有罪が確定すれば、公民権停止ともなる。仮に当選しても、議席を失うことにならざるを得ない。政治家人生の終焉というべきであろう。
なお、黒木亮、石井妙子、北原百代、そして小島敏郎の各言論は、明らかに小池百合子の社会的評価を根底から損なう名誉毀損表現となっている。カイロ大学卒業の学歴が真実であれば、小池百合子は直ちに名誉毀損での刑事告訴をするか、民事的な損害賠償請求の提訴をすべきである。これだけのことを言われっぱなしで、何の法的措置もとらないのは、不自然極まりない。もちろん、「カイロ大学卒業が真実であるとすれぱ」という仮定の話ではあるが。
ちなみに、名誉毀損の提訴は、実に簡単だ。訴状を書き上げるのに半日はかからない。他方、被告とされた側の応訴は実務的に面倒限りない。真実性あるいは真実相当性を主張立証しなければならないのだから。そのゆえに、かつては武富士が名誉毀損訴訟を濫発した。10年ほどを経てDHC・吉田嘉明がこれを真似た。いずれも、スラップ専門弁護士の積極的助力あってのことである。今、猪瀬直樹や松本人志が同様の提訴している。弁護士としてこういう訴訟を引き受けるのは楽な仕事なのだ。小池が提訴を躊躇する理由はない。提訴依頼を引き受ける弁護士探しに困難もなかろう。それでも、提訴を躊躇しているのは、訴訟での審理の結果、却って学歴詐称が立証されかねないと恐れているからと憶測するしかない。
(2024年4月20日)
昨日のこと、「大阪・関西万博のミャクミャク像損壊容疑で書類送検」というニュースが話題となった。その話題性は、大阪・関西万博の悪評ゆえのもの。
税金の無駄遣いとして悪評高く、不人気極まる「大阪・関西万博」の公式キャラクターが、あの不気味な「ミャクミャク」。その巨大なモニュメントが、大阪市役所入り口に置かれている。寝そべった姿ながら、台座を含めて幅4メートル、高さ2.5メートル、奥行きは2メートル、重さ約1トンの強化プラスチック製の代物で昨年12月に設置したものだという。
3月13日の未明、この像の顔部が何者かにぶん殴られて幾つかの傷が付けられた。被害額(修理費用)は33万円ほどだとという。府市合同で作られている万博推進局が被害届を出し、器物損壊として大阪府警(天満署)が捜査に乗りだした。誰もが、万博の開催を快しとしない人物の犯行と考えた。
このモニュメントは、盛り上がらない万博開催に、何とか機運を盛り上げようと、市庁舎の正面玄関前に設置されたもの。それが損壊された。傷付けられたのは、単なる強化プラスチック製のモニュメントではなく、万博に向けた機運でもあった。
損壊発見当時、大阪府の吉村洋文知事は自身のXに《ミャクミャクのモニュメント(市役所前)が何者かによって破損されました。どんな理由があったとしても、これは暴力行為であり、犯罪行為です。許されるものではありません。残念です》と書き込んでいる。「どんな理由があったとしても」という一文は、万博推進に反対の意思表示としての損壊行為と考えてのこと。おそらくは、思い当たることが多々あるのだろう。横山英幸市長も報道陣に《非常に残念。警察と連携して厳正に対処していきたい》と述べている。両者のコメントに共通するのは、《残念》の思いである。
この事件、3月25日に被疑者が出頭し、昨日(4月19日)の書類送検となった。報道では、被疑者は「大阪府寝屋川市の病院職員の男性(45)」とされている。
天満署の発表では、この男性は近くにあった鉄製看板(高さ約115センチ、幅約28センチ)を何回もたたきつけて、ミャクミャク像の「顔」の部分を損壊したとされている。立て看板も御難だが、ミャクミャクへの怨恨も相当なものと印象をもたざるを得ない。顔を殴りつけているのだ。
関心は犯行の動機に集まる。どの報道も、「酒を飲んで酔い、終電を逃してイライラしていた。ミャクミャクを傷つけて発散しようと思った」と被疑者本人が述べているとしている。天満署が発表した以上の報道は見当たらない。被疑者の出頭は弁護士にともなわれてのことで供述は当たり障りのない内容になっているが、ハテ? なぜ八つ当たりの対象がミャクミャクであったのか、なにゆえかくも盛大にほかならぬミャクミャクの顔をぶん殴る気分となったのか、興味を禁じえない。
「飲酒を過ごして終電を逃し、そのためイライラした」だけならよく分かる。が、それゆえになぜ、ミャクミャクをぶん殴りたくなったのだろうか。日頃からミャクミャクを快く思っていなかったのではなかろうか、あるいは寝そべって人を小馬鹿にしたミャクミャクの「表情」にカッとしたのだろうか。もしかしたら、維新や大阪府市の万博推進に確信的な反対意見があって、酔余の行動に表れたのかも知れない。
器物損壊は微罪である。自ら出頭しており、示談もできているだろう。送検した天満署は、区検に対して起訴を求める「厳重処分」の意見を付けたそうだが、起訴猶予になることはほぼ間違いなく、これ以上の報道もなかろう。それでも、ミャクミャクに対する思いは本人に聞いてみたいところ。
ところで、世にマスコットキャラクターは数多あるが、ミャクミャクほど評判の悪いものはあるまい。まず、一見して不気味である。異形の妖怪にも愛敬のあるキャラクターは多い。しかしなにゆえにか、ミャクミャクは徹頭徹尾薄気味が悪いばかり。なるほど、維新の不気味さ、薄気味の悪さを体現するものと考えれば納得はできよう。
ミャクミャクの不気味さの根源は、まずあの眼の数である。哺乳類も鳥類も爬虫類も、そして恐竜だって眼は二つ。どこを見ているのか見当がつく。それ以上の数の眼には馴染みようがない。いったいどこを見ているのやら、何を考えているのやら、つかみどころなく、さっぱり分からない。ここが気味の悪さの原因であろう。維新もどこを向いて、何を見、何を考えているのか分かりようがない。ミャクミャクの不気味と維新の気味悪さは重なっているのだ。
ミャクミャクを不気味とする感性は、私だけでのものではない。以下は、ネットで拾った声の数々。
「大阪・関西万博」の公式キャラクターデザインの最終候補作品が「怖い」「気持ち悪い」「パクリ?」「グロい」と話題になっています。
「万博のミャクミャクは気持ち悪い。妖怪大戦争のどこかに潜んでいそうな感じしかない。良さが全く分からない。」
「犯罪レベルの気持ち悪さ」大阪万博「ミャクミャクのしずく」キャンペーン開催も「不気味ポスター」に非難轟々
不気味すぎて無理…「ミャクミャクのしずく」キャンペーンのポスター《「ミャクミャクのしずく」完全に動脈と静脈から吹き出る血が気持ち悪い》
《…す、すごいセンスのポスターだなぁ…。箱の中に体液と眼球を入れといたら腐敗し、腐敗ガスで蓋が開いて飛び散ったみたいな図になってる。しかもグッズが「ミャクミャクのしずく」って、その腐敗体液のしずくだろうか。大阪万博って何から何まで何がしたいんだ》
《万博ロゴやミャクミャクに嫌悪感を抱く人は少なくない。特に『ミャクミャクのしずく』は犯罪レベルの気持ち悪さ。一瞥しただけでPTSDを患いそうだ。開幕が近づくにつれ、万博ハラスメントが増長しないか不安だ》
東京五輪・パラリンピックの図柄入りナンバープレートに比べ、万博特別仕様は圧倒的に不人気。ミャクミャクをイメージした白地に赤い水玉のデザインに、SNSで《血しぶき飛んだみたい》と批判的な声が多く上がっていた。
「2025年大阪・関西万博」開催まで1年を切り、「機運盛り上げ」が目立つようになってきたが、国民からは「ミャクミャクまみれ」に食傷気味の声があがっているようだ。
「万博さんも、盛り上げようというのはようわかりますけど、大阪は地下鉄も在来線も新幹線もバスも、ミャクミャクだらけ。言ってはなんですけど、『もうええわ』です」
《集合体苦手(蓮とか)な人には、この万博ミャクミャクの周りにある、ブツブツした発疹みたいなデザイン、きつい》《飛行機もミャクミャクしてんのかよ》《大阪まで行けない新幹線に大阪万博のラッピングとは》
海外の方の声をご紹介させていただきます。《人形にすると子供たちは泣く》《これは核放射線によって作られたものなのか》と言う人もいます。
ミャクミャクに罪はなけれどもこの評価。なんともはや。
(2024年4月13日)
4月1日から始まったNHK朝ドラ「虎に翼」が大きな話題になっている。法曹関係者やジェンダーに関心のある向きにだけではなく、多くの視聴者の好意的な評価を得て、視聴率も好調だという。私は一切テレビを観ないのだが、何人もの友人から「面白い」「お勧め」と声をかけられた。女性として日本で最初の弁護士となり裁判官ともなったのが三淵嘉子。その人をモデルにした主人公の学生時代を描いた筋立ては、ほぼネットでつかんだ。
本日の毎日新聞夕刊5面(芸能)が、大きく紙面を割いて「『虎に翼』に飛躍の予感 『はて?』が導く分かりやすさ」と見出しを付けた担当記者座談会。絶賛に近い評価と言ってよい。20代、30代、40代の各芸能記者が、声をそろえて、分かり易く楽しく面白いと強調して共感している。時宜を得た、幸運なドラマである。主人公寅子が、理不尽な場面で発する「ハテ?」は、早くも今年の流行語大賞候補とも何度も聞かされた。
もう30年も前のこと。教科書問題に取り組んでいる弁護士から、「今、教科書作りでの保守と革新のせめぎ合いの主たる舞台は、歴史でも公民でもない。実は家庭科なのだ」と聞かされたことがある。
父と母がそろった家庭、夫婦の性別役割分担が安定的に固定している家庭像が、保守陣営と文科省のお望みの家庭なのだという。家庭科教科書には、そのような押しつけが厳しく、挿絵や写真はそんな家庭像ばかり。未婚の母や、離婚した夫婦を前提の家族が肯定的に描かれることはあり得ないのだとか。
現在なお、「2025年度から中学校で使われる教科書の検定」において、「家庭科の教科書を申請した全3社が、家族のあり方や多様性について考えさせる記述を盛り込んだ。一方、文科省は「学習指導要領が示す内容に照らして、扱いが不適切である」として、いずれも修正を求める「検定意見」をつけた。「同性カップルなど多様化する家族の形を紹介した記述が「不適切」と指摘され、教科書が同時代を描く難しさも浮き彫りとなった」(「毎日」)と報じられている。
かつては、家父長制が社会構造における最も基底的な秩序維持の単位であった。個人の尊厳よりは社会秩序の安定を優先する体制派の思考からは、家父長制の秩序崩壊は即ち社会秩序の崩壊を意味する。社会総体の秩序とは、いうまでもなく天皇を頂点とする国体を意味する。家父長制が下から国体を支え、国体が上から家父長制を擁護してきたのだ。
そして今なお、保守派の家父長制への親和性が高い。国体的な社会構造へのノスタルジーが確実に強く存在している。差別に慣れ、秩序を受け容れる民衆こそが、権力に好都合な望ましい被支配層であるからだ。そんな中での、家父長制への抵抗ドラマ「虎に翼」の企画はグッドジョブであり、その視聴率好調はグッドニュースである。
本日の「毎日」夕刊5面には、記者座談会と併せて、ペリー荻野(コラムニスト)の「NHK朝ドラ『虎に翼』 長い『語り』にはワケがある」という一文が掲載されている。「女性が意見を言えない環境で、主人公の心情を伝える語りの多さは必然なのだ」という趣旨。そうなのかどうかはさて措き、この人も寅子に感情移入している。
そのコラムの最後が、「これから寅子は、数々の困難に立ち向かうはずだ。その姿を見守り、応援したいと思う。そして、さまざまな妨害に遭う女子部の仲間や、当時、無数にいたであろう『寅子になれなかった女性たち』のことも思う。令和の今、『寅子になれなかった女性』は皆無になったのか? 答えられないもどかしさも忘れないようにしながら。」と結ばれている。この指摘、大切な視点だと思う。
「寅子と志を同じくしながら寅子になれなかった女性たち」は、戦前だけのことではなく、今なお、数多くいる。東京大学の今年度の新入生計3126人のうち、男性は2480人であるのに対し、女性は2割の646人だという。これが、今なお残るジェンダーギャップの現実である。これを踏まえて、同大の入学式における学長式辞は、こう述べている。
「東京大学の入学者の性別には、大きな偏りがあります。そして、その偏りは文科よりも理科でさらに大きくなっています。その基礎には、そもそも受験する女性が少ないという状況もあります。東京大学が、女性のみなさんをはじめ多様な学生が魅力を感じる大学であるか、多様な学生を迎え入れる環境となっているかについても、問わなければなりません。」
なお、「寅子」の命名は、「五黄の寅」の年(1914年)の生まれからだとされている。実は、私の亡父も同年の1月1日生まれである。当時の旧制中学を卒業後に進学を希望しながら、経済的事情で叶わずに株屋に就職せざるを得なかった。その目からは寅子の境遇と進学は羨ましい限り。父の就業先は不景気で倒産。ようやく盛岡市の吏員として職を得たが、2度の陸軍への徴兵と海軍への徴用。終戦時は30代で、就学の機会を得なかった。「何ものかになろうとしてなれなかった多くの男性たち」もいたのだ。人の志を潰す構造的差別は性別だけでなく、貧富の格差でもあった。
また、一言しておきたい。「令和の今」という、筆者の何げない一言。私には大きく引っかかって違和感を禁じえない。時代を表す言葉として、どうして天皇と関連の「令和」なのだろうか。女性差別も家父長制も、天皇制を支え天皇制に支えられてきた。無数の小さな家父長の権力と権威の上に、大きな天皇の権力と権威が築かれていた。その天皇制を国民生活に刷り込もうという明治政府新発明の小道具が、一世一元の元号だった。女性差別の非を論じるコラムに「令和の今」は、あまりに不用意と言わざるを得ない。日本社会の構造的差別の根源にあるのものが天皇制である。無意識にもせよ令和を使うことは、守旧派の術中に陥っていることではないか。
ついでにもう一言。ドラマの中で、寅子が、同級生から「法律とは何かもわかっていないくせに」と言われて、「法律とは、私たちが守らなければいけない規則」と答える場面がある。ハテ? この回答にはシラける。法が差別を強制しているときに、「法律とは、私たちが守らなければいけない規則」と言ってしまえば、差別を容認することではないか。それでは法は役に立たないし、法を学ぶ意味はない。法を克服する対象として学ぶ姿勢がなければ、寅子が法律家を目指すはずはない。
きっとこれから、寅子は抵抗者として法を見、法を武器に差別と闘う姿勢を学びとっていくことになるのだろう。