(2022年9月16日)
時事通信9月世論調査(9?12日)の結果が大きな話題となっている。政権・与党に危機感をもたらしているという。そんな情勢なのかね。
同調査では、岸田内閣の支持率が前月比12.0ポイント減の32.3%と急落し、昨年10月の政権発足後最低となった。不支持率は同11.5ポイント増の40.0%で、初めて不支持率が支持率を上回った。その逆転差8ポイント。
各紙が「内閣支持32%、発足後最低」「内閣支持急落、迫る『危険水域』」と報道している。黄金の3年の幕開けどころではない。内閣の命運が危ない、この支持率の低下は、政権がもつやもたざるや、すれすれの危険水域だという。
その原因は明確である。何よりも安倍国葬の強行、それとセットになった旧統一教会と自民党との癒着の表面化。さらに、その両者についての内閣と与党、とりわけ岸田首相の説明不足に国民が苛立っている。
政権は、情勢不利と見て国会論戦を恐れ、野党の臨時国会開会請求を無視した。しかし、その姿勢に国民の批判が集まっているとの読みで、9月8日の閉会中審査に応じた。この日衆参両院の議運で、それぞれ短時間ではあったが、首相の「ていねいな説明」が行われた。また、同日自民党が所属国会議員と教団の接点に関する点検結果を公表した。時事の世論調査は、そのあとに行われたものだけに、政権・与党には衝撃が大きい。もう何の切り札もないのだから。
一般に、内閣の危険水域とされる支持率は30%割れだという。こうなると、首相の求心力低下に拍車が掛かり、政権維持が困難になるとされる。今32%の支持率が、上昇に転じる好材料は何もない。何しろ、首相のていねいな説明とは、「同じことのていねいな繰り返し」で、「他人事みたいな作文の朗読」だと見破られてしまった。万事休すではないか。
国民は今、国葬をきっかけに安倍晋三という人物の生前の所業を思い出している。憲法論よりは、「こんな男を国葬か」「とうてい国葬に値しないだろう」「これを国葬にというのは何らかの魂胆あるに違いない」という気分なのだ。
さらに、自民党と統一教会との癒着だけでなく、それを隠し誤魔化そうという政府・与党の姿勢に、国民は怒っている。加えてコロナだ。物価高だ。10月初旬まで、国会は開かない。政権は、あっという間に危険水域に突っ込むことになるだろう。
時事調査では、安倍晋三国葬「反対」が51.9%、「賛成」は25.3%。いやしくも国葬である。国民の圧倒的多数の賛意がなければ、国葬のかたちにもならない。少なくも90%を超える「賛成」があって当然なのだ。ところが、国民の過半数が「反対」という。反対派が賛成派の2倍を超えているというのだ。こんな国葬はあり得ない。
なお、朝日新聞の調査(9月10、11日実施)では、国葬「賛成」38%、「反対」56%。NHKの調査(9月9?11日実施)でも「評価する」32%、「評価しない」57%。同じようなもの。
そして、統一教会問題である。時事調査では、首相の旧統一教会問題への対応を「評価しない」が62.7%を占め、「評価する」は12.4%だった。首相や議員の説明に関しても、「納得できない」が74.2%、「納得できる」が5.5%。無党派層では「納得できない」が76.5%に上ったという。惨憺たる事態というほかはない。民意は、政権・与党を信認していない。
各紙は、与党内は危機感に覆われつつある、政権末期の雰囲気と報じている。こういうときには、与党内に足を引っ張る輩が現れる。弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂という類い。本日、その役割を引き受けて登場したのが、二階俊博・元幹事長である。TBSのCS番組収録で、こう語ったそうだ。
「長年務めた総理が亡くなったのだから、黙って手を合わせて見送ってあげたらいい。こんなときに議論すべきじゃない」「(国葬が)終わったら、反対していた人たちも必ずよかったと思うはず。日本人ならね」
これは聞き捨てならない。「日本人なら、今は反対していても、国葬終われば必ずよかったと思うはず」とは、「終わったあとも国葬よかったと思わないのは、日本人ではない」ということである。これは、国葬反対の日本の過半数を「非国民」と罵ることにほかならない。
二階はさらにこうも言ったという。
(立憲民主党の執行部が欠席する考えを示したことについて)「欠席しようがしまいが国葬に関係ない。世の中にあんまり賢くないなということを印象づけるだけだ。欠席する人は後々長く反省するだろう。選挙で取り戻すのは大変だ」
ヘーエ、この人賢いんだ。私は、賢くない人の側に立ちたい。そして、徹底して、非国民であり続けよう。
(2022年9月15日)
ネットを開いたら、デイリースポーツ 2022/09/14 22:04のタイムスタンプで、「ひろゆき氏 国葬反対派に時論『例え反社の人でも葬式くらいは静かに礼節』『村八分でも葬式手伝う』」という記事が、目に入った。
時論は持論の間違いだろうが、たいしたことではない。問題は、こんなつまらない意見を拡散するスポーツ紙の姿勢である。面白くもオカシクもない、ひねりも落ちもない、安倍国葬反対論に対する、たどたどしい揶揄。こんなものを取り上げて報道するいかほどの意味があるというのか。
「ひろゆき意見」がどんな背景や奥行きをもったものかは論じようがない。報じられている彼のツイッターの文言だけに反論しておきたい。
デイリースポーツが報じる「ひろゆきツィッター」は以下の3件のようだが、(2)と(3)は、同じ1件のツィッターの一部なのかも知れない。
(1) 「同意しない人も多いと思いますが、、」「例え反社の人でも葬式ぐらいは静かに送ってあげる礼節を持つべきだと、おいらは考えます」「昔から日本人は村八分であっても葬式の手伝いはしてました」「『酷いことをした人だから葬式を妨害していい』と言える人は、誰にも迷惑を掛けずに生きてきた人なのかな?」
(2) 「人の葬式に行かない人は、黙って行かなければいいだけです。『行きません』とわざわざ言う必要はないと思います。遺族と参列者に失礼です」
(3) (反対デモなどについて)「『国葬に反対だけど、葬式は静かに見守る』という大人の対応をすべきかと。安倍氏の国葬に反対という意思表示は表現の自由で守られるべきですが、葬式で集まって騒ぐのは不道徳」
ひろゆき意見は、庶民の私的な葬儀と国家が行う国葬とをことさらに混同させて、私的な葬儀についての社会常識やマナーをもって、国葬という政治権力の暴走に対する批判の言論を封じようというもの。私的な葬儀は参列者だけで完結するが、国葬は全国民を巻き込んで弔意を求めるものである。私的な葬式と、権力作用としての国葬。これを混同してはならない。
実は、その意識的混同こそが政権のねらいなのだ。日本社会に根強くある、死者への批判は遠慮すべきだとする社会意識を利用しようという魂胆。安倍国葬を強行しても、死者を鞭打つことになる反対論は口にしにくいものとなるだろう、だから世論が大きく国葬を批判することにはなるまいという読み。
さすがに政権は、恥ずかしくて、このようには言わない。政権の言えないホンネを露骨に口にする、政権の走狗というものが必ず出てくる。いま、その役割を果たそうというのが、ひろゆき意見にほかならない。
「同意しない人も多いと思いますが、…例え反社の人でも葬式ぐらいは静かに送ってあげる礼節を持つべきだと、おいらは考えます」
おいらだけではない、だれだってそう考える。同意しない人も多い…はずはない。他人の葬式を静かに送ってあげる礼節を否定する者はない。7月12日に行われた安倍晋三の葬儀を妨害したり非難したりする者は皆無だったではないか。にもかかわらず、まるで国葬反対派が礼節を持たざる人々と言わんばかり。
「昔から日本人は村八分であっても葬式の手伝いはしてました」「『酷いことをした人だから葬式を妨害していい』と言える人は、誰にも迷惑を掛けずに生きてきた人なのかな?」
ひろゆき意見は、安倍晋三を「反社」にたとえたり、「村八分」を例に出す。死者に対して、失礼と言えば失礼な言辞。もしかしたら、本心は安倍晋三を軽侮し揶揄しているのかも知れない。
ひろゆき意見の悪質さは、唐突に『酷いことをした人だから葬式を妨害していい』と、あたかも、安倍国葬反対派が、言論の行使を超えて『実力による葬儀の妨害』を企図しているかのごとくにすり替えていることに見える。こういう、相手の言っていないことで、攻撃してはならない。
「人の葬式に行かない人は、黙って行かなければいいだけです。『行きません』とわざわざ言う必要はないと思います。遺族と参列者に失礼です」
個人の葬儀なら、失礼か失礼でないかだけの問題。しかし、国葬の是非は大きな政治的なテーマになっている。安倍晋三の葬儀を国葬として行うべきかどうか、そのことについて、一人ひとりの国民が主権者として賛否を問われている。明確に賛否を表明することは、失礼か失礼でないかを超えた、主権者としてのあるべき姿勢である。
「『国葬に反対だけど、葬式は静かに見守る』のが大人の対応」なら、その大人は主権者としては未成熟。実は、権力にとって御し易い「こんな未成熟な大人」が大半だったから、政権私物化甚だしい安倍長期政権を許したのだ。
そして、最後にまた出た「葬式で集まって騒ぐのは不道徳」。だれも国葬を実力で妨害して騒ごうなどと企図していない。こういう詭弁で、論争相手を貶めようとしたのが、生前の安倍晋三だった。ひろゆき意見は、まるで生前の安倍晋三の国会答弁である。泉下の晋三、クシャミをしているに違いない。
(2022年9月14日)
まあ、そう煙たがらずに少し聞け。
人間てものはだな
互いに、助けあい与えあい支えあって生きてもきたが、
また一面、奪い合い争いあって暮らしてもきた。
人の世の歴史には、光もあれば闇もある。
自然に生まれた無数の小さな人間の集団の中で、
強欲で狡猾で力の強いものが集団を支配する構造が生まれ、
その支配者が酋長とも族長とも呼ばれるようになったな。
盗賊のカシラや頭目・親分、あるいはボスとおんなじだ。
酋長・族長などがまた、
互いに闘ったり陥れたりを繰り返し、
一番腕力が強く、一番ずる賢いヤツが、
人の世の深い闇で人を蹴落として生き残った。
そいつら生き残りが、王や、皇帝を名乗るようになった。
なに。王も女王も皇帝も天皇も、
もとはといえば、頭目・親分、あるいは酋長や族長なのさ。
それが、人を殺し、人をだまし、人を陥れて、王になった。
奴らは一人の例外もなく
血塗られたその歴史を偽装した。
王位は、神から授かったとか、
民衆の支持を受けたとか、慈悲深かったとか、
神話を作って嘘八百をならべたな。
暴力で脅して民衆を支配するだけでなく、
宗教やら、神話やら、文学やら芸術やら、
ありとあらゆる支配の方法が動員された。
支配の道具としての法まで持ち出されたな。
さらには、道徳や倫理までが拵え上げられた。
服従こそが立派なことだと民衆に教え込んだわけだ。
だから、王座の骨格は、剣と血でできている。
それを、戦利品で飾りたてた王宮の中に据え、
人目を惹こうと奇抜な衣装をまとった王や女王が座る。
冠を戴き、ジャラジャラとアクセサリーを引きずり、
音楽でカムフラージュして
民衆に見映えを整えたものが王位だの皇位だのという代物。
だから、王も女王もテンノーも
野蛮な昔の残り滓。
遅れた国の残り滓。
バカバカしくも、
「安倍国葬はニセモノだが、
さすがにイギリスの女王の葬儀は、
これこそホンモノの国葬だ」
なんて持ち上げる論調が
メディアのなかに明らかに生まれつつある。
チャンチャラおかしくはあるのだけれど、
王政が拵え上げた「王政を支える文化」が、
こうも民衆を捉えてしまったのかという
不気味な話でもある。
(2022年9月13日)
きょうは、青空に白い雲がゆっくり泳いでいます。その青空を仰ぎながらの「本郷湯島九条の会」の街頭宣伝です。私は、「九条の会」の石井彰です。安倍晋三氏の「国葬」に反対しています
宣伝行動の始まる前に、中年のご婦人が私たちの用意した「安倍国葬反対」のプラスターを見て、「ほんとにそうよ。何でこんな人に敬意だの弔意だのしなけりゃなんないの。冗談じゃないよ」と言って息巻いていました。まことに、おっしゃるとおりです。国葬反対は、今や大きな世論となっています。
安倍晋三氏の「国葬」に反対する理由の核心にあるものは、「国葬」をおこなうことそれ自体が、全ての国民に安倍晋三氏に対する弔意を強制する意味をもつことになるということです。「国葬」に伴う黙祷や歌舞音曲停止という具体的な行為の強制があってはならないのはもちろんのこと、全ての国民がこぞって弔意を表明すると意味付けられた儀式の挙行は、明らかに弔意を表したくないという国民の内心を傷付けます。全ての国民が費用負担を強いられることにも納得できるはずはありません。
日本国憲法は、個人の尊厳を最高の価値としています。そのことを定める憲法13条は日本国憲法の核心部分です。この核心部分をものの見事に崩落させて、国の意思によって、特定の人物に対する弔意を強制するのが、「国葬」なのです。
安部晋三元首相が2022年7月8日に奈良市で銃撃で殺害された事件そのものが民主主義社会においてあってはならない所業であり、絶対に許されない行為であることは言うまでもありません。しかしこの事件をきっかけに、自民党が統一協会・国際勝共連合と半世紀にわたって深い癒着の関係にあったことが露呈しました。その自民党の中心に安倍三代、岸信介・安倍晋太郎・安倍晋三がいました。この三代が、韓国発祥の統一協会・国際勝共連合に「日本という国を売り渡していた」ことが明らかになったのです。
その安倍氏を「国葬」にすることは日本人の理性の欠如を世界に示すことにほかなりません。その結果、「国葬」とは、安倍氏の葬儀であるよりは、日本という沈殿した国の葬儀になっしまったのではないでしょうか。
「国葬」を実施するのかやめるのか。それはカゲロウの国になるのか、理性・民主主義国家への道を歩むのかの分水嶺です。「国葬」反対の世論を全国で圧倒的に広げようではありませんか。
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皆さま、月に一度の街頭宣伝です。「本郷湯島九条の会」の澤藤が最後にお話しをさせていただきます。もう少しの時間、耳をお貸しください。
予定されている安倍晋三の国葬、轟々たる反対世論を押し切って、まだ政府は撤回しようとしません。無理をしてでも、やってしまおうという姿勢です。
国葬反対の理由は、先程来、いくつも語られてきました。その多くは、国葬そのものが違憲であり、あるいは立憲主義に反し、あるいはこの度の国葬が手続き的に許されない、というものです。しかし、分かり易いのは、「国葬反対」論よりは「安倍国葬反対」論です。端的に言えば、「ウソつき晋三に国葬はふざけている」というフレーズ。
国葬の対象となるには、国民がこぞって敬意を表するにふさわしい人、それゆえに国民の大多数が弔意を表明したいという人でなくてはなりません。そのような人を具体的に想定することは困難ですが、少なくとも、安倍晋三が国葬にふさわしい人物でないことは明白ではありませんか。
彼は、少なくとも国会で118回のウソをついたことが明らかになっています。ウソつきを国葬にしてはいけません。
彼は政治を私物化したとして悪名高い人物です。彼は、忖度という政治文化を蔓延させました。安倍政治とは、公文書の偽造・隠匿・改竄、ウソとゴマカシで特徴付けられています。要するに、安倍晋三とは尊敬に値する人物ではなく、道義的にも政治的にも廉潔性を欠いた、薄汚い唾棄すべき人物なのです。こんな汚い人物が国葬にふさわしくないことは明らかではありませんか。
内政外交に安倍晋三が遺したのは負のレガシーばかり。アベノミクスで格差と貧困を拡げ日本経済を衰退させました。アベノマスクでは無能無策をさらけ出して国家財政に巨額な負担を負わせ、ウラディーミルのお友達としてどこまでも駆けて駆けて駆け抜けた無能な外交手腕。
何よりも、彼は改憲論者でした。日本国憲法を敵視し、とりわけその平和主義をせせら笑って攻撃し、核共有論さえ語っていた人物です。とうてい、国民こぞって敬意を表明し、その死を悼むことのできる人物ではありません。
しかも、彼は3代続いた年季のはいった統一教会との同志ではありませんか。筋金入りの反共というイデオロギーで結びついた同志。その関係が今暴かれつつあります。
無理を承知で、こんな人物の国葬を強行しようというのは、現政権に魂胆があるからです。安倍政治の悪政を国民に忘れさせ、国民からの批判のトゲを抜き、安倍政治を国民に承認させ、安倍晋三が果たせなかった改憲を実現するための安倍政治承継の魂胆。それは、改憲への道筋を付けようとするものにほかなりません。
安倍晋三の死を政治的に利用しようというたくらみを許容することはできません。どのような死に方をしようとも、安倍晋三の生前の所業をごまかしてはならない。ウソつき晋三を国葬という化粧で塗り込め、その罪を覆い隠すして、改憲策動に利用しようというたくらみを決して許してはなりません。
ですから、皆さん。国葬参加者を注視しましょう。いったい誰が、なんのために、ウソつき晋三の国葬に参加するのか。これだけ違憲・違法と評判の悪い国葬に、敢えて出席するのか。どの政党、どの政治家、どの首長、どのジャーナリスト・経済人が出席するのか見極めようではありませんか。
街頭から、もう一度「安倍国葬反対」と呼びかけて、ここ本郷三丁目交差点での本郷湯島九条の会の訴えを終わります。
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[本日のプラスター]★「国葬」反対、モリ・カケ・サクラ・クロカワイ。★国民不在「国葬」反対。★人類の理想・戦争放棄の9条。★「国葬」反対、政治の私物化許すな。★「国葬」イントク・カイザン・コウブンショ。★軍事費12兆円、アメリカの盾、捨て石ゴメンデス。★「国葬」反対ウソの答弁118回。
(2022年9月12日)
本日、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第6回ロ頭弁論期日。
まだ準備書面交換による応酬が続いているが、次回(11月24日午後4時)には主張の段階が終わって、立証の段階にはいる目途が付きそうな状況。
形式的な手続の後に、原告15人のなかのお一人が、口頭で約10分間の意見陳述をした。満席の法廷に切実な訴えの声がよく響いた。その全文を掲載しておきたい。
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原告意見陳述要旨
原告 (K高校定時制)
私は、2017年春の卒業式に卒業生の担任として出席し、「国歌斉唱」時に起立しなかったことで戒告処分とされました。「10・23通達」が出されてから3度目の処分でした。
最初の処分を受けた2004年4月の入学式の当日は、腸から出血し、自分はどうなってしまうのだろうと思いました。その後も、卒業式や入学式が近づくと気分が落ち込み、体調に異変が生じました。2度目の処分を受けた卒業式のときは、「君が代」が始まったときに激しい背中の痛みを覚え、自分はどうしても立てないのだと観念して着席しました。
2016年4月にK高校定時制に異動し、3学年の担任になりました。定時制は通常4年間で卒業しますが、3年間で卒業できる制度があり、私はその年度の卒業式に担任として出席しました。卒業式が近づくと何度も校長室に呼ばれました。職務命令にも処分にも苦しみますが、なぜ「君が代」のときに立てないのかを説明することは、それよりもさらに苦痛です。
私は、かつて勤めていた私学での経験から「君が代」を歌えなくなりました。
その学校は神道を理念とした女子高で、入学式の前日には、近所の神社でお祓いを受けることになっていました。
しかし、毎年、数人の新入生が神社の参拝を拒みました。この儀式は入学の前提とされていたため、神社参拝をできない生徒は入学を取り消されるのです。生徒が4月に入ってから入学する高校を失うという深刻な事態を目にしながら、私にはなす術もありませんでした。
入学した生徒にも難関が待っています。体育館の壇上の神棚の上には常時「日の丸」が掲げられ、入学式・卒業式はもとより、元旦の拝賀式をはじめとして、天長節、紀元節などの儀式の都度、「君が代」を歌わせられます。それだけでなく、毎朝の朝礼では祝詞をあげて、明治天皇御製の歌を歌わせられます。そこでの神様は天皇、“現人神”でした。別の神様や宗教を信仰する生徒たちは、何かと抵抗しました。それを抑えて、素直に祝詞をあげ、歌を歌うよう“指導”するのが私たち教員の仕事でした。加えて、「良妻賢母教育」の名のもとに髪型や制服の着方などの生活指導も「取り締まり」と言った方がいいような仕方で行われました。こんな関わり方をしていて、生徒と心を通わせることなどできません。教師になった喜びとは無縁でした。
強制されている生徒たちは、毎日嫌な思いをしていたでしょう。でも、自身の内面に根拠も必要性も感じないことを、生徒たちに強いている私も苦痛でした。「お給料をもらっているから仕方がない」と、自分に言い聞かせる日々を過ごすうち、“頭痛と出血で立っているのもやっと”という状態になりました。医師からは、転職するしか治す方法はないと言われ、都立高校の採用試験を受けました。
こうして、ようやくストレスから解放されて18年余り。私学での悪夢を忘れていた私を、再び過去に引き戻したのが「10・23通達」でした。入学式・卒業式の式場で「君が代」の伴奏が響き渡ると、いやおうなくあの私学の体育館の光景が脳裏に浮かび、身動きができなくなりました。それが初めての不起立でした。
約10年をかけた、処分取り消しを求める東京「君が代」裁判一次訴訟の結果、最高裁判決で戒告処分が容認された一方、減給処分は「重きに過ぎる」ことを理由に裁量権の逸脱・濫用として取り消されました。
また、この問題の解決に向けてすべての関係者が真摯かつ速やかに努力するよう求める補足意見が付されました。
これを見て、話し合いができるのではないかと期待し、私たち原告団は、毎年、都教委に話し合いの場を待ってくれるよう、要請を続けてきました。しかし、都教委は今日まで一向に応じてくれません。
2019年には、ILO/ユネスコから、この問題の解決に向けて、式典の在り方や懲戒処分の決め方について、教員団体との対話を求める勧告が出されました。それでも、未だに都教委は話し合いを拒否し続けています。今年、ILO/ユネスコは、先の勧告の実施が遅々として進まないとの認識の下、「地方当局向けの適切な注釈や指導も併せて行うことを勧告する」という、より踏み込んだ再勧告を公表しました。かつて最高裁判事として、“起立斉唱の職務命令は違憲・違法”という反対意見を書いた宮川光治弁護士は、この報に触れて「日本はいまだに国際基準から外れることをしていて、恥ずかしい」と述べています。
現在、私は再任用教員として勤務していますが、2017年に戒告処分を受けたことを理由に“年金支給開始年齢に達したら任用しない”と予告されています。しかし、再任用は単年度ごとに「従前の勤務実績等に基づく能力実証を経た上で採用する」という制度です。何年も先の合否を告げること自体が制度の趣旨に反しています。再任用打切りの事前告知を受けた定年時、私の業績評価は最高位の「A」でしたが、選考課の職員は「業績評価は再任用選考とは関係ない」「あなたが裁判で勝てば、それなりに対応します」と言い放っています。裁判所の判決という強制力が働かない限り、彼処分者は排除するということです。
1歳上の原告の川村さんは、私と同様「再任用打切りの事前告知」を受けていましたが、この春、ついに再任用不合格とされました。しかも、彼女は「再任用職員採用選考」の通知に明記されている面接すら受けておらず、適正な手続きを経て合否が判定されたとは到底考えられません。さらに、秋に申し込んだ産休代替などの臨時的任用職員の要項が2月になって突如変更され、処分歴を書く欄が設けられた新たな申込書を提出させられました。これは、処分された教員を狙い撃ちにしたものという他はありません。
ご理解いただきたいのは、「戒告という最も軽い処分」の重さです。処分を受けて6年も7年も経っても不利益が続き、最終的には戒告を理由に誠を切られるのです。こうした処遇は、他の教職員に対する見せしめの効果を発揮しています。私たちが裁判をしなければならないのは、他に手段がないからなのです。
「10・23通達」は、都教委の意に沿わない教員を排除する装置として、導入されました。それまで、都立高校の運営は合議でなされてきましたが、命令と処分という運営手法に変えられたのです。都教委にしても、校長にしても、あるいは一般の教員にしても、上に立つには楽でしょう。しかしそれはもはや、子どもを育てる教育の場ではなく、管理と選別の機関でしかありません。今では、学校教育に関わるあらゆることの決定のしかたに、上意下達の体制が浸透しています。「10・23通達」に続いて、職員会議での挙手採決を禁止する通達が出されました。校長の一存で方針が決定され、私たちはただそれを実行するだけの存在になりました。この体制しか知らない世代の教員がすでに過半数を超えた今では、議論すらありません。公論が封じられた学校で、疑問も不満も封じ込められています。
本来学校は、日本国憲法がめざす平和で民主的なこの国の、主権者となるにふさわしい人間を育てる役割を担っています。そのために、目の前の生徒に何か必要か、どうすればいいのかを考え、行動することが教員の責務ではないでしょうか。それとも、唯々諾々と、不当な職務命令にも従わなければならないのでしょうか。
都立高校の教育が「10・23通達」の呪縛から解放され、本来の教育を取り戻せるよう、裁判官の皆様の、勇気ある判断を、心から期待いたします。
(2022年9月11日)
遠つ国のことよ
とあるオバアサンがおっての
先祖伝来えらく金持ちで
キンキラ着飾って
チヤホヤされていたが
あっけなく、ぽっくりと
3日前に亡くなった
96歳だったそうな
そのオバアサンの仕事はの
なんとまあ、今の世に女王なんだと
このオバアサン、大真面目に
女王という仕事をやっていたようだ
照れもせず、恥ずかしがることもなく…
この国の国民も、大真面目に
女王という仕事をやらせていた
むかしむかしのことではない
21世紀の今の話だ
むかしむかしの世にはの
世界中に、王や、女王や、
皇帝やらがはびこっていた
テンノーなんてものもあってな
わけもなくむやみに
エラそーにしていたものよ
世の中が少しずつひらけて
人が少しずつ賢くなるにつれて
王も、女王も、皇帝も
少しずつ影をうすくし
無用の長物となって消えていった
遠つ国のオバアサンはその生き残りよ
化石みたいなものさね
この国にも化石みたいなテンノーがおって
化石どうしの付き合いには年季がはいっている
こっちの化石が、あっちの化石に、
「深い悲しみと哀悼」を述べたということだ
「世界の多くの人々の悲しみは尽きません」
「国民を導き、励まされました」
「数多くの御功績と御貢献に心からの敬意と感謝」
なんて言うとる。そりゃ口が過ぎる。
女王にしてもテンノーにしても、
その地での一番の
悪辣で、狡猾で、腕力が強かった
そういうやつの末裔というわけだ
その先祖は、
神話を捏造し信仰を利用した大嘘つき
化石ならぬ身が、
遠つ国の女王に弔意なんて
そんな恥ずかしいことをしてはならぬ
たぶらかされてはならぬ
(2022年9月10日)
明日(9月11日)の沖縄は選挙一色。この選挙結果は全国的に重要な意味を持つ。注視せざるを得ない。
7月参院選の後は、政権にとっての「黄金の3年」が始まると言われた。この間、国政選挙がない。政権は、世論を気にせずに思い切ったことができる。あわよくば、この間に改憲も…、とさえ言われてもいた。が、この3年のスタートの現実は、政権にとっての黄金どころではない、土砂降り泥沼の2か月である。内閣支持率も、自民党支持率も急速に低下している。主要メディアの一部には、「(政権与党は)解党的出直しを迫られている」との見解さえ見られる。
その世論の動向が、明日の沖縄の諸選挙で確認される。この沖縄の選挙結果は来年4月の統一地方選を占う。その統一地方選の結果は、「黄金の3年」のメッキを剥がすことにもなる。「3年」持たずして、総選挙必至となるかも知れない。
明日投開票される沖縄選挙のハイライトは任期満了に伴う知事選。《沖縄県内最大の政治決戦》と言われている。玉城デニーの再選をかけた選挙戦。立候補者は下記の3名。
玉城デニー・現職=「オール沖縄」(立民、共産、れいわ、社民、社大、新しい風・にぬふぁぶし)推薦
佐喜真淳・新人=自民、公明推薦
下地幹郎・新人
もともと主要な争点は、《辺野古新基地建設の賛否》や《経済対策》であった。これに、統一教会や安倍国葬問題がどう影響するか。
知事選だけでない。注目されるのが、1議席を争う県議補欠選(那覇市・離島区)。
県議補選にはいずれも新人で前那覇市議の上原快佐(カイザ)他の4人が立候補している。県議会の定数は48。玉城県政の与党24(共産・立憲・無所属)、野党(自民・公明)21、中立3と色分けされていた。与党県議の一人が、那覇市長選(10月16日告示、23日投開票)に立候補するため辞職し、那覇市・南部離島選挙区(被選挙数1)で補選となった。補選に立候補のカイザは、「オール沖縄」の前那覇市議。与党議席半数維持のために、勝たねばならない選挙。
さらに、任期満了に伴う宜野湾市長選。前回2018年と同じ顔ぶれ。再選を目指す現職の松川正則=自民、公明推薦=に、「オール沖縄」勢力が支える元県高校PTA連合会会長の仲西春雅=立民、共産、れいわ、社民、社大、新しい風・にぬふぁぶし推薦=が挑む。
そして、本部(もとぶ)、大宜味(おおぎみ)、伊是名(いぜな)の3町村では首長選があり、5市と19町村の計24市町村で議員選が投開票される。24市町村の総定数348に対し418人が立候補している。
以下は、赤旗の本日の記事である。
(現地に応援で張り付いた小池晃書記局長は、)岸田自公政権が宮古島・石垣島に続き、沖縄本島にまで自衛隊ミサイル部隊の配備を計画していることを告発。「沖縄を二度と戦場(いくさば)にしてはならない。憲法9条を守り抜くとの願いをデニーさんとカイザさんに託してほしい」と呼びかけました。
デニー知事は「誰もが希望をもってみんなで支え合う沖縄の政治をさらに前進させていく」と強調しました。
カイザ氏は、日本の政治が憲法を守っていないと述べ、「権力に歯止めを掛ける存在がいないと、ますます暴走してしまう。そのような日本にさせないために憲法を必ず守っていく」と力を込めました。
明日の投開票の結果に期待したい。
(2022年9月9日)
私が山口俊一。昨日(9月8日)の衆院閉会中審査、あの質疑を取り仕切ったのが議運委員長の不肖私。徳島を地盤に現在11期目。麻生派ですよ。これまで、パッとした業績はありませんが、突然に有名になっちゃった。どう見ても頼りない総理を、鋭い野党の攻勢から私が守ったわけだから、我ながらの大きなお手柄。
この日の審議の議題は「安倍元首相の国葬儀について」だった。本来は、どうすれば立派な国葬儀ができるかの知恵を寄せ合う議論をするはず。どうすればより深くより暖かく、元首相に対する敬意と弔意を示す儀式とするか。建設的で、提案型の諸意見集約の場とすべきが当然のこと。
ところが、野党の側は元首相に対する敬意と弔意のカケラもない連中ばかり。質問とは名ばかりの国葬儀への嫌がらせ。不肖私が割ってはいらなければたいへんなことになっていたはず。
議題が「安倍元首相の国葬儀」だということは、旧統一教会問題の議論をすべき場ではないということ。安倍元首相と統一教会との関連がいかに親密なものであろうとも、統一教会問題の議論は論点ずらしではないか。いや、安倍元首相と統一教会との関連が極めて親密なものであるからこそ、ここを野党に衝かせるわけにはいかんのだ。
だから、総理が危なくなれば、「本日の議題は国葬儀」と、不肖私がレフリーの身でクリンチを繰り返す。野党やその支持者には面白くなかろうが、これも闘いの一場面。ハラハラしていたはずの、政権も自民党も、そして統一教会も、胸をなで下ろしたろう。
立憲民主党泉健太の舌鋒は、さすがに鋭い。「自民党と旧統一教会との関係を考えた場合に、安倍元総理は最もキーパーソンだったのではないか」と、総理に迫った。これに対する総理答弁が、いかにも頼りない。余計なことを口にしての時間稼ぎという狙いが見え見えだから、なおさらだった。
「本人が亡くなられたこの時点において、実態を十分に把握することは限界がある」「自民党として丁寧に説明しなければいけない。それぞれの点検結果について、取りまとめを行い、説明責任をしっかり果たしていこうという作業を進めている」とまあ、誰が聞いても下手くそな論点ずらし。
「限界はあろうが、可能な限り調査する」なら分かるが、「限界があるから一切調査しない」って、いったいそりゃなんだ。これで、納得しろと言うのが無理な話。だから、私の出番が必要なのだ。泉に対して、「本日の議題は国葬儀だ」「それをよく踏まえてのご質問を…」と何度かのブロック。質問の腰を折って、それなりの効果があったと思うね。
委員長席で聞いていても、総理の答弁は、今まで小出しに言ってきたことを繰り返しただけ。そして、聞かれたことにははぐらかし。どう考えても、ひいき目に見ても、「丁寧な説明」にはなっていない。野党も国民も納得できるはずはない。
でも、本日の日刊ゲンダイが不肖私を、《岸田政権の新たな守護神誕生だ》と持ち上げてくれたことは、ややこそばゆい。我が党は人材豊富なのだ。入れ替わり立ち替わり、新たな政権擁護の立役者を生み続ける。
共産党の塩川鉄也もしつこかった。「国政選挙における安倍氏と統一教会の関係についてはどう考えるか」と、安倍と統一協会との関りを明らかにせよと追及して、明らかに総理を困らせていた。だから、私は、総理の顔を見ながら、「直接議題と関係ないことには、お答えいただかなくて結構でございます」と、恩を売っておいた。総理は、「安倍氏がなくなられているいま、関係を調査することには限界がある」との主張を繰り返すばかり。正直のところ、こりゃダメだね。
安倍国葬を検討するに際して、安倍と統一協会の関係の究明を避けて通ることができないことくらいは分かりきったこと。安倍晋三が統一協会の広告塔の役割を果たし、統一協会の活動を側面支援し、国政選挙において統一協会の組織票配分を差配していた。みんな知っていることだが、そんなことを総理に答弁させるわけにはいかない。だからこその私の働き。
昨日から今日のメディアの論調は、不肖私が、安倍元首相と統一教会の密着性を却って浮き彫りにし、閉会中審査を契機に国葬反対論がさらに拡大することが避けられない情勢だという。おそらくはそのとおりだろう。それでよいのだ。何よりも私の知名度が上がることが大事なのだから。悪名は無名に優る、というではないか。
(2022年9月8日)
猪瀬直樹が、朝日新聞社と三浦まり(上智大学教授)両名を被告に1100万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起した。一昨日(9月6日)のこと。これがスラップではないかと、話題になっている。
6月12日、東京・JR吉祥寺駅前で参院選の街頭演説の際、維新の応援弁士であった猪瀬が隣にいた東京選挙区の候補者海老沢由紀=落選=の肩や胸元付近を手で触っている動画が交流サイト(SNS)上に拡散した。この行為をセクハラと報じられたことによって名誉を傷つけられたとするのが、猪瀬の主張。猪瀬は同月17日、自身のツイッターで「軽率な面がありました」と投稿したそうだ。が、どこで気が変わったか、朝日とコメンテーターを訴えたのだ。
報道では、訴状では《 朝日新聞は6月17日付の電子版記事に、猪瀬の行為について「間違いなくセクハラではないでしょうか」などと批判する三浦のコメントを掲載した》とし、これが名誉毀損と主張されている。
朝日の電子版を見ると、問題とされたのは『「たとえ本人がよくても…」 演説中に女性触った猪瀬氏、その問題点』と題する記事。その中での三浦コメントの主要部分は次のとおりである。
「映像では、胸に触れていたように見えました。間違いなくセクハラではないでしょうか。その場では女性本人も拒絶することができない、そういう瞬間だったと思います。
今回の猪瀬氏は応援弁士の立場。応援してくれる人に対して、この立候補予定者は余計に立場が弱く、抗議しにくい背景があります。
(立候補予定の女性本人は16日午後、「まったく気にしてませんでした」「胸にあたってもいない」などとツイート)
たとえ、本人がよくても、見ていた人たち、特に若い女性にとっては、立候補しようとする人はセクハラを我慢しないといけないという誤ったメッセージになってしまいます。」
私は、このコメントを適切で立派なものと思う。このような言論を妨害してはならない。到底、違法を追及されるような内容ではない。しかし、猪瀬の主張は、《海老沢氏本人がセクハラではないとの見解を示していることなどから「三浦氏の発言は事実ではない」というもの》と報じられている。以上を前提に、猪瀬の提訴はスラップであるのか、そうではないのか。
スラップとは、法律用語ではない。法や訴訟が社会の中でどのような役割を果たしているのかについての言わば法社会学的な概念であって、厳密な定義があるわけではない。だが、正当な言論を萎縮せしめる効果を狙っての民事訴訟というダーティなイメージに満ちた用語ではある。
法的問題として捉える以前に、憲法感覚やジェンダー感覚、社会的良識が問われねばならない。国政選挙の女性候補者が、同じ政党の男性候補者の応援演説で、女性候補の身体を触るという奇妙な行為に及んだ。その不審で無神経な行為に「間違いなくセクハラではないでしょうか」という批判が果たして不適切だろうか。非難に値するものであろうか。
三浦コメントも指摘しているとおり、女性の身体を触ったのは、同じ党に所属する著名な年配の男性応援弁士。これにセクハラ抗議の声を上げることの困難さは言わずもがな。とすれば、この女性が猪瀬をかばってなんと言おうとも、猪瀬の行為を批判する言論は、適切なものでこそあれ、到底非難に値するものではない。
法的にはどうであろうか。猪瀬の行為は動画にも写真にも記録されている。隠しようも誤魔化しようもない。三浦は、その動画を観て、猪瀬の行為を「映像では、胸に触れていたように見えました。間違いなくセクハラではないでしょうか」と述べたのだ。
常識的には、「映像では、胸に触れていたように見えました」は《事実の摘示》で、「間違いなくセクハラではないでしょうか」は《意見の表明》である。
名誉毀損訴訟では、《事実の摘示》と《意見ないし論評》の区別が重要になる。
これは、判例に定着している「公正な論評の法理」にもとづくもので、「名誉毀損記述」となる文章を「事実の摘示」と「論評(ないし意見)」とで構成されているとして、そのどちらかに区分する。裁判所の対応の姿勢は「事実摘示」の名誉毀損言論に対しては厳格であるが、「論評(ないし意見)」の表明には頗る寛容である。論評・意見の表明の自由は幅広く認められ、極端な人格攻撃をともなわない限り、論評(ないし意見)は自由と考えてよい。
事実の摘示としての「映像では、胸に触れていたように見えました」には、当該記述の「真実性」ないしは、真実であると信じたことの「相当性」が問われる。その立証あれば、違法性が阻却され、あるいは過失がないとして、請求は棄却されることになる。「映像では、胸に触れていたように見えました」の真実性立証が困難なはずはない。ましてや、相当性においておやである。
そして、「間違いなくセクハラではないでしょうか」は、「映像では、胸に触れていたように見えました」という真実たる事実を前提にした《意見の表明》であって人格攻撃の要素などもない。この部分の有責はあり得ない。
結局のところ、猪瀬側に勝ち目のない訴訟と評せざるを得ない。そのことを猪瀬自身が知らぬはずもない。ではなぜ、敢えて提訴か。自分に対する批判の言論に対する萎縮効果を狙ってのものと考えるしかない。これがスラップである。
むしろ本件は、明らかに法的・事実的な根拠を欠いた民事訴訟の提起とされる可能性が高い。猪瀬がその根拠を欠くことを知りながら提訴におよんだか、あるいは、通常人であれば容易にそのことを知り得たのに敢えて提訴におよんだと認定されれば、この民事訴訟提起自体が不法行為となり、猪瀬に損害賠償が命じられかねない。それが判例のとる立場である。
猪瀬は今、危ない橋を渡り始めたのだ。
(2022年9月7日)
安倍晋三の統一教会葬はないのだろうか。あるいは、勝共連合葬。もちろん葬儀の挙行は自由だ。安倍晋三の政治信条を支持する人々が任意に葬儀に参列してその真情からの弔意を表明し、献花し、献金すればよい。安倍晋三の政治信条を支持しない人々にはなんの迷惑もかからないし、なんの憲法問題も生じない。その場合、弔辞は、安倍晋三とともに統一教会に親密だった細田博之が読むことになろうか。
国葬となれば話はまったく別だ。全国民を弔意の表明に巻き込むことになる。さまざまな憲法問題が生じる。国会での論議が不可欠である。予算も決算も明らかにしなければならない。そもそも、嘘とゴマカシ、政治の私物化で知られる人物の国葬適格性が問題とならざるを得ない。
そんな安倍国葬が、政府の予定のとおりに強行されるとして、世論の糾弾を押して、いったい誰が出席するといのだろうか。共産党に続いて、れいわ新選組が安倍国葬出席拒否の方針を表明した。山本太郎は会見で「れいわとして出席しない。(政府は)法的根拠がないものをごり押ししようとしている」「閣議決定だけで国会を事実上、形骸化させるようなことは絶対に許してはいけない。政府の裁量だけで決めるのは独裁国家だ」と強く非難。「それほどやりたいなら、自民党と旧統一教会の合同葬にしてほしい」とまで述べたという。なるほど、安倍晋三には、自民党と統一教会の合同葬がふさわしいのかも知れない。
まさか、社民党が出席とはならないだろう。準与党というべき維新と国民は、ボイコットできまい。問題は立憲だ。出欠については「(閉会中審査の)結果を見極めた上で判断」とのことだが、権力の横暴に対する抵抗の姿勢が問われる問題として、見守りたい。
なお、この問題「党議拘束」とは無関係。出欠は、議員や被招待者各個人の主体性にもとづく判断による。自民党からも公明党からも、出席ボイコットあってしかるべきだろう。下記のような事態となれば、何とも痛快なのだが。
「(山県有朋の)国葬当日は雨上がりで寒かった。1万人収容の仮小屋に数百人しか参列せず、議員数人の他は軍人と官僚ばかり。たまたま1カ月前、同じ東京・日比谷公園で行われた政敵、大隈重信の国民葬に30万人が詰めかけ、沿道に100万人が並んだ盛況との明暗を、毎日新聞の前身・東京日日新聞は『大隈侯は国民葬 きのうは<民>抜きの<国葬>で 中はガランドウの寂しさ」と伝えた。」(伊藤智永・毎日「石橋湛山は国葬に反対した」)
そして、国外からの要人は弔問に来日するのか。これも見込み違いとなりそうだ。
主要各国の首脳の顔が揃いそうにもない。アメリカからバイデンは来ない。トランプだってその気配もない。シンゾーとどこまでも駆けて行くことを誓った親友ウラディーミルもそれどころではない。習近平も来ない。金正恩が来れば弔問外交の目玉になろうがあり得ない。イギリスも、フランスも、イタリアも、首脳は参列しない。ドイツのシュルツ首相も来ない。せめてメルケルが来れば話題ではあろうが、これとて来ない。
あれっ? 「地球を俯瞰する外交のアベ」と自讃したこともあった安倍晋三のはずだったが、棺を蓋いてこと定まれば、こんな程度のことなのだ。全ては晋三の不徳の至りで、自己責任なのだろう。結局、安倍国葬実施の一つの根拠とされてきた「弔問外交」は“絵に描いた餅”と言われる事態である。
やっぱりやめよう 金食い虫の安倍国葬。