澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

死もまた社会奉仕、あるいはまた政界浄化の政治貢献である。

(2022年9月3日)
 毎日新聞に毎月一回の大型コラム「時の在りか」。ベテラン政治記者伊藤智永の健筆で、知らないことを教えてくれる。本日は、「石橋湛山は国葬に反対した」。石橋湛山の山県有朋国葬反対を評価する立場からの、「安倍国葬」論である。さすがに読ませる。が、途中の違和感ある一文ですっかり白けた。

 「明治の元勲、山県有朋が83歳で病没したのは1922(大正11)年2月。時に37歳の雑誌「東洋経済新報」記者、石橋湛山(後の首相)は「死もまた社会奉仕」とコラムに書いた。」

 石橋湛山よくぞここまで書いたもの、また東洋経済よくぞこの記事を掲載したものと感嘆せざるを得ない。今、安倍晋三の死を「社会奉仕」「政治浄化への貢献」と、公然と論じるメディアは見当たらない。大正デモクラシー侮るべからずである。

 「山県の国葬予算に議員2人が反対したのも変化の表れだった。湛山は…親の葬式さえ出せない貧民が多いのに、彼らも納めた間接税で山県の葬式を行うのかという批判に賛成する。反対演説中、衆院議長は「他人の身上を論議するな」と制した。湛山は問う。国葬にすることがすでに山県への評価である以上、議長の整理は自己矛盾だ。それこそ国葬なるものの不自然さを示すものに他ならない、と。」

 「(山県)国葬当日は雨上がりで寒かった。1万人収容の仮小屋に数百人しか参列せず、議員数人の他は軍人と官僚ばかり。たまたま1カ月前、同じ東京・日比谷公園で行われた政敵、大隈重信の国民葬に30万人が詰めかけ、沿道に100万人が並んだ盛況との明暗を、毎日新聞の前身・東京日日新聞は『大隈侯は国民葬 きのうは<民>抜きの<国葬>で 中はガランドウの寂しさ」と伝えた。」

 このあたりは、面白い。伊藤自身の国葬に対する姿勢は、以下のようにまとめられている。

 「1883年の岩倉具視以下、戦前・戦中を通じて皇族・華族・元勲・軍人ら21人の国葬が行われ、大正末に国葬令も制定されたが、敗戦で失効。あくまで天皇主権国家の恩賜であり、国民主権の世では役割を終えた儀式だ。必要なら国民主体の新しい形で、趣旨や対象や条件を法制化するのが筋である。
 1967年、佐藤栄作首相(当時)が吉田茂元首相の葬儀を法的根拠なく閣議決定で「国葬」にしたのは、戦後も「臣茂」を公言した政治の師に対する弟子の恩返しだったらしいが、その後は例がない。やっぱり無理があったのだ。」

 ところが、唐突に、「そもそも天皇ご一家以外の国葬って何だ。」という一文に出くわし、ギョッとし、興醒めし、このコラム全体が色褪せてしまった。伊藤智永はよくもまあこんな文章を書いたものだし、毎日新聞はよくもまあこんな記事を掲載したものと嘆息せざるを得ない。戦後民主主義とは、「表現の自由」の現状とは、こんな程度のものなのだろうか。

 伊藤は「天皇ご一家」と書き慣れてるのだろうか。伊藤の筆はこのような表現に抵抗感はないのだろうか。「そもそも天皇ご一家以外の国葬って何だ」という言葉の響きには、「天皇ご一家の国葬ならあって当然」「天皇ご一家の国葬なら、全国民が弔意を表明しても当然」という立場を感じさせる。とうてい、自覚的主権者の文章ではない。

 天皇や皇族の葬儀なら国葬も当然、国民に弔意を要請しても(強制できるはずのないことは自明)不自然ではないなどと言ってはならない。それは主権者の言葉ではなく、自尊の矜持を捨て去った奴隷の言葉なのだから。権威主義的な政治支配には、このような奴隷の言葉を受容する被治者が必要でなのだ。安倍国葬も天皇の国葬も、主権者として、人権主体として原理的に拒否しなければならない。

 ところで、「週刊金曜日」(9月2日号)《編集委員から》欄の想田和弘コメントに、目が行った。
 「『ツィッターで、安倍氏国葬で黙祷を強制されたら、黙祷の時間どうしますか? 大喜利よろしく』と呼びかけた。すると、『壺を割る』だの『黙々と仕事』だの多数のアイデアが寄せられたが、最も多かったのは『赤木俊夫氏の冥福を祈る』という趣旨のものだった。あなたなら?」

 なるほど。安倍晋三の冥福を祈るよう命じられての黙祷で、実は安倍のために命を奪われたに等しい赤木俊夫さんの冥福を祈ろう、という提案。これぞ、究極の面従腹背。その立場如何にかかわらず、自尊の矜持を護る方法はあるものなのだ。

人権侵害の指摘は内政干渉ではない ー 国連ウイグル報告書への中国反発に思う。

(2022年9月2日)
 「鳥のまさに死なんとするや、その鳴くや哀し。人のまさに死なんとするや、その言うや善し」という。名言の一つだろう。人の引き際の言葉は、真実を語るものという意味だが、引き際にならなければ語りにくい真実もある、ということにもなる。

 私は何度か、定年間際の裁判官から思い切ったよい判決をもらった経験がある。裁判官が有形無形の圧力に抗してその良心を貫くのは、なかなかの難事なのだ。そしてこのことは、どうやら日本の裁判官に限った特別の事情ということでもなさそうだ。

 国連人権高等弁務官バチェレの5年の任期が一昨日8月31日までのことであった。正確にはその任期切れは、ジュネーブ現地時間深夜12時。その10数分前に、バチェレは中国の新疆ウイグル自治区における人権侵害疑惑に関する報告書を公表した。中国の有形の圧力に抗してのこと。事態は、幾重にも深刻といわねばならない。

 バチェレは今年5月23?28日に訪中し、滞在中に新疆の刑務所や職業技能教育訓練センターだった施設を視察し、任期中に報告書を発表する方針を示していた。その言は、かろうじて守られた。

 報告書は46ページ。中国政府の公式文書や統計、それに衛生画像やウイグル族・カザフ族らの男女40人へのインタビューなどを元に作られているとのこと。

 同報告書は、中国政府がテロ対策や「過激派」対策として、新疆ウイグル自治区で深刻な人権侵害を行っていると指摘した。中国政府には「恣意的に自由を奪われた人は直ちに釈放されるべきだ」「深刻な人権侵害の継続、または再発を防止するために迅速な対応が必要」として、13項目にわたる勧告がなされている。

 翌9月1日、国連のグテレス事務総長の報道官は定例記者会見で、この国連人権高等弁務官事務所の報告書で示された勧告を「中国政府が受け入れるよう事務総長は強く望んでいる」と明らかにしている。

 報告書は、多数のウイグル族らを収容した同自治区の「職業技能教育訓練センター」について、「(収容経験者への調査の結果)自由に退所できたり、一時帰宅できた人は一人もいなかった」と指摘した。ウイグル族らは「恣意(しい)的かつ差別的に拘束されている」とした上で、同センターへの収容は「自由の?奪だ」と批判。「人道に対する罪に相当する可能性がある」との見解を示した。

 報告書では、収容を経験した人たちのインタビューが紹介されている。2ヶ月から2年間に及ぶ期間の間、施設から出ることを禁じられたほか、手足を椅子に縛りつけられて通電した警棒で殴られたり顔に水をかけられながら尋問されたりしたという。さらに共産党を賛美する歌を「毎日、できるだけ大きな声で、顔が真っ赤になり血管が浮き出るまで」歌うよう強要されたという証言もあった。
 レイプを含む性的暴行があったと話す人もいた。何が起きたかの説明もないままに集団の前で「婦人科検診」が実施され、「年配の女性は恥じ、若い女子は泣いた」こともあったという。

 これに対する中国の反応が凄まじい。「でっちあげ」と「内政干渉」が反発の柱である。中国の張軍・国連大使は「政治的な目的を持って作られた嘘だ。人権高等弁務官は西側諸国の政治圧力に屈するべきではない」などと述べている。

 中国外務省の汪文斌副報道局長は1日の定例記者会見で「報告は偽情報のごった煮であり、違法かつ無効だ。OHCHRが一部の国外反中勢力の政治陰謀に基づいてずさんな報告をまとめたことは、改めてOHCHRが発展途上国を圧迫し、虐げる米国や西側勢力の共犯者となっていることを示す」と批判。報告書について「60カ国以上の国家が公表に反対した」と指摘し、「不法で無効」「海外の一部反中勢力の政治的なたくらみに基づくでっち上げの報告」「国連を代表するものではない」と主張した。国連側も、約40カ国から公表に反対する書簡を受け取ったとしている。

 なお、中国では同日、報告書について報じたNHK海外放送のニュース番組の放映が中断されたと報じられている。中国メディアはこの件について報道を行っておらず、国内では報告自体を抹殺する構えだという。

 中国が人権侵害の指摘に反発することは興味深い、やはり恥ずべきこととは思っているわけだ。だから、反論は「事実無根のデッチ上げ」だということになる。ならば、事実を全て公開すればよいではないか。あの天皇制帝国も、リットン調査団の調査を妨害することはしなかった。バチェレ報告に疑義があるなら、再度の国連調査を積極的に受け入れるべきだろう。

 そして、お決まりの「内政干渉批判」だ。国連加盟国である中国が、国連の人権活動に内政干渉というのは恥ずべき発言である。そもそも、人権とは国境を越えた普遍性に支えられた法的価値である。むしろ、国家と対峙し、常に国家による侵害に瀕している。その人権侵害国家が、人権擁護を使命とする国際機関に、介入するなという図式は克服されなければならない。

 国際法上は、1993年国連世界人権会議における「ウィーン宣言」が人権の普遍性を確認している。中国の国連に対する「内政干渉批判」は、臆面もなく人権後進国であることを曝け出しているに等しい。中国が世界から、大国にふさわしい敬意を求めたいとするなら、自国民への人権侵害は根絶しなければならない。少なくとも、「内政干渉批判」をあらため、他国のジャーナリストの取材も自由にさせるべきであろう。

「国恥の日」に、「統一教会広告塔安倍」「統一教会ベッタリ晋三」の国葬を思う

(2022年9月1日)
 9月1日、私が名付けた「国恥の日」である。1923年9月1日発生の大震災にともなう混乱の中で、軍と警察に煽動された関東一円の民衆が朝鮮人と中国人を集団虐殺した。侵略戦争と並ぶ日本近代史の汚点であり、国恥というほかはない。

 しかもこの国は以後99年間、この痛ましい被害とおぞましい加害の実態を検証しようとしてこなかった。この態度も国恥である。そして今、被害者たちを追悼する心ある人びとの営みに、敢えて水を差そうというのがこの国の首都の知事・小池百合子なのだ。首都の選挙民は、いまだにこんな人物を選任している。このことこそが本当の国恥なのかも知れない。

 以上のことは、ぜひ下記の過去ログをご参照いただきたい。

https://article9.jp/wordpress/?p=17481
https://article9.jp/wordpress/?p=11012

 さて、もう一つの国恥である。政府は9月27日に安倍国葬を強行するという。私は国葬そのものに反対だが、今回の国葬に反対の理由として分かり易いのは「統一教会ベッタリ」で「統一教会広告塔」である安倍の国葬だからである。「ウソつき晋三」の国葬でもある。こんな人物を国葬とは、これこそ国恥ではないか。

 安倍晋三とは、反共という政治信条で統一教会とベッタリ結びついた恥ずべき政治家である。統一教会信者票をとりまとめこれを動かしていた男。統一教会や勝共連合の幹部とズブズブの関係にあった政治家。実は、こんな輩の長期政権を許していたこの国の民主主義の実態こそが真の恥である。

 それにしても、不可思議なのは岸田文雄という人物の頭の中。昨日の記者会見で「統一教会との絶縁宣言」をしたはず。「関係を断つことを党の基本方針とする」とまで言った。にもかかわらず、 「統一教会ベッタリ晋三」の国葬は強行するというのだ。恥ずかしくないのかね。  

 この国恥、いや安倍国葬の企画については内閣府のホームページで概略を把握できる。URLは以下のとおり。注目しなければならない。

https://www.cao.go.jp/kokusougi/kkusougi.html

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故安倍晋三の葬儀の執行について
令和4年7月22日
閣 議 決 定
1 葬儀は、国において行い、故安倍晋三国葬儀と称する。
2 葬儀に関する事務をつかさどらせるため、葬儀委員長、同副委員長及び同委員を置く。
葬儀委員長は内閣総理大臣とし、同副委員長及び同委員は内閣総理大臣が委嘱する。
3 葬儀は、令和4年9月27日(火)、日本武道館において行う。
4 葬儀のため必要な経費は、国費で支弁する

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故安倍晋三元総理の葬儀について
1.葬儀の主催者 国
2.葬儀の名称 故安倍晋三国葬儀
3.葬儀の日程 令和4年9月27日(火)
4.葬儀の場所 日本武道館
5.葬儀委員長 内閣総理大臣
6.葬儀形式 無宗教形式
7.葬儀の費用 国費

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「故安倍晋三国葬儀」実施概要
令和4年8月 31 日
故安倍晋三国葬儀
葬儀実行幹事会決定
1.日時・場所
・令和4年9月27日(火)午後2時開式
・日本武道館
2.参列者
・現・元三権の長、現・元国会議員、海外の要人、立法・行政・司法関係者、地方公共団体代表、各界代表 等
・最大で約6000人程度
・案内状については9月初から順次発送する。
3.一般献花
・9月27日午前10時から午後4時までの間、日本武道館外に設ける献花台において、一般献花を実施する。
・献花用の花は各自で用意いただく。
4.葬儀当日の会場周辺の立ち入り制限
・国葬儀当日は、日本武道館周辺について参列者以外の立ち入りを制限する

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故安倍晋三国葬儀の当日における弔意表明について
令和4年8月 31 日
葬 儀 委 員 長 決 定
故安倍晋三国葬儀の当日には、哀悼の意を表するため、各府省においては、弔旗を掲揚するとともに、葬儀中の一定時刻に黙とうすることとする。

《NHK文書開示請求訴訟》次回口頭弁論期日・9月6日(火)11時、103号法廷で。

(2022年8月31日)
 NHKと森下俊三経営委員長の両名を被告として、NHKの報道姿勢と内閣任命の経営委員会のあり方を根底から問う《NHK文書開示請求訴訟》。その第4回口頭弁論が、以下の日程で開かれます。
 9月6日(火)午前11時
 東京地裁103号法廷

 今回の法廷では、原告主張の要約をパワーポイントを使って、原告代理人が説明いたします。原告のお一人浪本勝年さんの意見陳述もあります。ぜひ傍聴をお願いいたします。
 
 なお、今回傍聴券の配布はありません。先着順に入廷してください。余裕をもって時間までにお願いいたします。
 また、引き続いて報告集会を開催いたします。
  同日午後1時から、
  参議院議員会館102会議室で

こちらにも、ご参加下さい。資料を配付し法廷よりも時間をたっぷりとって、パワポの解説をいたします。

 この訴訟は、興味津々の進行となっています。提訴以前には意図的に隠蔽されていた問題の経営委員会議事録(「NHK会長を厳重注意した会議の議事録」)ですが、提訴後にそれらしきものが出てきました。いま、問題は「粗起こしの議事録草案」と言われる、「議事録みたいなもの」の取り扱いが問題となっています。

 放送法第41条は、経営委員会委員長(被告森下俊三)に経営委員会議事録の作成と公表を義務付けています。この「公表」の実行は、NHKがそのインターネットホームページ(NHKの公式サイト)に掲載して、視聴者の誰もが閲覧できるようにすることになっています。NHKは準備書面において、経営委員長(被告森下)の指示さえあれば、ホームページへの掲載に何の差し支えもないことを明言しています。

 放送法で義務付けられている経営委員会議事録の公表がなぜ実現しないのか。その責任は、NHK執行部にではなく、もっぱら被告森下俊三の側にあることが明白になりつつあります。放送法32条2項によって禁じられている番組編成に対する露骨な介入の違法を隠蔽しようという動機以外には考えられません。

 しかも、一定の場合、議事録公表義務には免除の規定がありますが、議事録作成の免除はありません。だから、「公表されてはいなくても、存在するはずの議事録を開示せよ」というのが原告の主張です。もし被告森下が議事録を作成もせず、公表もしないとなれば、明白で重大な法律違反です。任命した安倍内閣の責任も生じますし、現内閣には罷免事由になるものと考えます。

 そして、もう一つの問題は、「議事録みたいなもの」の原資料である録音データです。この資料は作成者の記載はなく、正確性を確認する術はありません。そこで、録音記録を出せと要求したら、何と、「消去しました」というのです。

 えっ? こんな大事なものを簡単に消去? いつ、誰が、どうして、誰の指示で消去したの? バックアップはあるはずでしょう? と問い質したのですが、大事なことはけっして回答しません。森下俊三、そりゃひどい。
 法廷では、この点をパワーポイントを使って、原告代理人が説明いたします。

 もとはと言えば、「クローズアップ現代+」の「かんぽ生命保険違法勧誘問題」報道に端を発した「会長厳重注意の議事録」隠蔽問題です。放送法違反の違法行為を重ねた被告森下俊三の責任だけでなく、これを選任した政権の責任問題が浮かび上がっています。そして、森下を罷免しない現政権の責任も。

 NHKが暴走することのないよう、放送法は、NHKの最高意思決定機関として経営委員会を置き、その重責を担う経営委員12名を「国民の代表である衆・参両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」という制度設計をしました。当然に良識を備えた経営委員の選任を想定してのことなのです。

 ところが、この経営委員の選任が、安倍政権以来ムチャクチャというしかないのです。政権の思惑で送り込まれた、明らかな違法をして恥じない経営委員たちが、今回の事件を起こしているのです。この訴訟は、その問題に切り込んでいます。
 ぜひとも、ご注目ください。傍聴にも、報告集会にもお越しください。

被疑者山上徹也の弁護人の発言はないのか。

(2022年8月30日)
 世は、安倍国葬と統一教会への対応で揺れている。岸田内閣の支持率は大きく低下し安閑としておられない事態となった。黄金の3年間どころではない。泥沼の政権運営となりつつある。

 何もしないことで支持率を保ってきた岸田政権だったが、決断して動いたことで世論の批判を招くことになった。安倍国葬と内閣改造である。その発端は、安倍晋三銃撃事件。銃撃犯山上徹也の動機は、統一教会への復讐であったという。なぜ、安倍銃撃が統一教会への復讐となるのか、その理由が明らかになるにつれて、統一教会批判が大きな世論となった。統一教会批判は、これとの結びつきを暴かれた安倍への批判にも跳ね返り、安倍国葬反対の世論が噴出した。慌てた岸田は、統一教会との結びつきを指摘された閣僚を挿げ替えようとしての内閣改造に失敗して、さらなる窮地に陥っている。

 あらためて確認しておこう。統一教会とは、宗教団体(カルト)であり、反共政治団体であり、かつ経済的収奪組織である。

 山上徹也は、安倍晋三銃撃という手段で、この三位一体構造を撃った。反共政治団体としての統一教会が反共政治家と緊密に結びついていたからこそ、安倍晋三銃撃が統一教会全体を撃つことになったのだ。

 その山上徹也の現在の動向を知りたいと思うのだが、まったく報道がない。現在鑑定留置中で、その期間は7月25日から11月29日までとされている。長い。そして、常識的にこの被疑者が刑事責任能力を欠如しているとは考え難い。

 まさか、検察側に山上を心神喪失者として起訴を避け、公開の法廷で安倍晋三と統一教会との癒着の立証を回避したいということではなかろう。とすれば、国葬が終わるまではできるだけの世論の静謐を保ちたいとの政権の思惑を忖度してのことなのだろうか。

 ともかく、間接的にもせよ、今山上が何を考えているかを知りたい。起訴前弁護を受任している弁護士がいるはずではないか。被疑者本人に代わって語るべきことはないのだろうか。

 近しい弁護士から教えられた。山上徹也の伯父(徹也の亡父の実兄)は、どうやら大阪弁護士会に所属していた29期の弁護士であるようだ。現在はリタイアしているが、信頼できる弁護人を紹介することは容易な立場だ。また、奈良弁護士会が複数の被疑者国選弁護人を推薦したとも聞く。

 弁護人が山上本人と接見して社会の様子を伝え、その意向を確認したうえで発言を控えているのならそれでよい。が、予想される裁判員裁判で、選任される裁判員が山上にとっては不本意な報道による思い込みにさらされないとも限らない。鑑定留置中に接見できるのは、弁護人だけである。被疑者のスポークスマンとして果たさなければならない役割もあるのではないか。

『DHCスラップ訴訟』「松の廊下事件」紹介 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第206弾

(2022年8月29日)
 本日は、私の誕生日。夏の終わりの誕生日、誰も気にする人とていない、のだが、「お誕生日おめでとうございます」の便りが届いた。 はて? 私の誕生日を知る人とてないはずだが…。たよりの末尾に、「2014年のお誕生日とは違う、よい誕生日でありますように」という一文。ああ、この方、『DHCスラップ訴訟』を細かく読んでくださったのだ。

 DHC・吉田嘉明から、私に2000万円の名誉毀損損害賠償請求の訴状が届いたのが2014年5月16日。その後当ブログで反撃に出たところ、2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。その、6000万円請求拡張記念日が2014年8月29日、はからずも私への高額な誕生日プレゼントとなった。

 この方の読後感も、「松の廊下事件」に言及している。献本差し上げた方からの暑中見舞い・残暑見舞いの中のこの本の感想が面白い。私と妻のことを知っている人は、口を揃えて「東京高裁松の廊下事件」のくだりが一番面白い、とおっしゃる。それは、そうかも知れない。その一節の抜き書き。

?東京高裁「松の廊下」事件
 反撃訴訟結審の日のこと、思いがけない小事件が出来した。私の妻・政子の筆になる一文を記録しておきたい。

 「閉廷します」と裁判官3名が正面扉の奥に消えると同時に私は素早く、傍聴席後ろにある出入り口の前に立った。
 6年余り、1回も休まずこの裁判傍聴に通っていたので、DHC吉田氏側代理人の今村憲弁護士と会うのは、これが最後の機会と思ったからだ。今村弁護士は、判決の法廷には姿を見せないし、いつも法廷が終わるとさっと消えるように法廷を立ち去ることも知っていた。
 いつもの通りそそくさと帰りを急ぐ今村弁護士の前に立ちはだかって、私は声を上げた。「今村さん、私は澤藤の妻です。今日で法廷が終わりなので、もうお会いすることもないでしようから、一言申し上げたいのです。…本当にこの6年間、大きな迷惑を被りました。こんな裁判の代理人をして、弁護士として恥ずかしくないのですか」と一気に言った。それに対して、今村弁護士は「ハア」と言いながら廊下に出ようとした。相手にしたくはないという感じ。
 続いて私も廊下に出て、しつこいと思いながらも「こんな事件の代理人をして恥ずかしくないんですか」と、再び言い募った。すると今村弁護士は、「仕事ですから」とだけ言いながら、脱兎のごとく駆け出した。私は思わず追いかけた。「あなたは仕事ならなんでもするのですか」「こちらにはたいへんな迷惑ですよ」と大声で言いながら、東京高等裁判所の長い広い廊下を大の男が逃げ、小さな白髪の私が追いかける珍妙なことになってしまった。
 おそらくこの人は、これまでこんな羽目に陥ったことが一度もないんだろう。でも逃げるんだから、きっとやましい思いはあるに違いない。そう思いながら追いかけた。弁護士が逃げるので同伴していたDHCの社員らしき人も必死について行く。
 それを私がわめきながら追いかける。法廷から出てきた私の息子が、これもなにごとならんと追いかけてくる。思い出せば思い出すほどにおかしい。
 今村弁護士も、きっと悪人じゃないんだ。他人には言えない事情があって代理人引き受けたんだろうなとは思ったが、それでもこんなことはやっちゃいけない。もう2度と、こんなみっともない仕事をすることがないようにと心から祈るばかり。
 息子(澤藤大河弁護士)には忘れられない情景になったろう。どんな事情があろうとも自分は、こんな恥ずかしいことはするまいと心に刻んだに違いない。

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DHCスラップ訴訟 」ースラップされた弁護士の反撃そして全面勝利

著者名:澤藤統一郎
出版社名:日本評論社
発行年月:2022年07月30日

≪内容情報≫
批判封じと威圧のためにDHCから名誉毀損で訴えられた弁護士が表現の自由のために闘い、完全勝訴するまでの経緯を克明に語る。

【目次】
はじめに
第1章 ある日私は被告になった
1 えっ? 私が被告?
2 裁判の準備はひと仕事
3 スラップ批判のブログを開始
4 第一回の法廷で
5 えっ? 六〇〇〇万円を支払えだと?
6 「DHCスラップ訴訟」審理の争点
7 関連スラップでみごとな負けっぷりのDHC
8 DHCスラップ訴訟での勝訴判決
9 消化試合となった控訴審
10 勝算なきDHCの上告受理申立て
【第1章解説】
DHCスラップ訴訟の争点と獲得した判決の評価 光前幸一

第2章 そして私は原告になった
1 今度は「反撃」訴訟……なのだが
2 えっ? また私が被告に?
3 「反撃」訴訟が始まった
4 今度も早かった控訴審の審理
5 感動的な控訴審「秋吉判決」のスラップ違法論
【第2章解説】
DHCスラップ「反撃」訴訟の争点と獲得判決の意義 光前幸一

第3章 DHCスラップ訴訟から見えてきたもの
1 スラップの害悪
2 スラップと「政治とカネ」
3 スラップと消費者問題
4 DHCスラップ関連訴訟一〇件の顛末
5 積み残した課題
6 スラップをなくすために
【第3章解説】
スラップ訴訟の現状と今後 光前幸一

あとがき
資料(主なスラップ事例・参考資料等)

https://nippyo.co.jp/shop/book/8842.html

石川啄木と難波大助と山上徹也と

(2022年8月28日)
よく知られた啄木の短い詩に、「ココアのひと匙」がある。

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき心を。

 明らかに、「おこなひをもて語らむとする心」を肯定したテロリストへの共感が詠われている。この詩には、「一九一一・六・一五 TOKYO」と付記があるが、同じ日付の詩に、「はてしなき議論の後」がある。「われらは何を為すべきかを議論す。されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD!’と叫び出づるものなし」という、あの鮮烈な言葉。こちらは、理論倒れで行動に出ることの出来ない軟弱な自分を責めている趣きがある。

 啄木がこの詩を編んだ1911年の1月18日、「大逆事件」の判決が言い渡されている。幸徳秋水以下24名が死刑となった。罪名は大逆罪、よく知られているとおり、「(天皇等に)危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」という条文。「危害ヲ加ヘントシタ」だけで死刑、未遂でも、予備・陰謀でも、死刑なのだ。他の刑の選択の余地はない。

 管轄は大審院、一審にして終審である。上訴はない。早々と1月24日に11名、25日に1名の死刑が執行された。他は、「天皇の慈悲による」特赦で無期刑に減刑という。恐るべし天皇制、恐るべし天皇制刑法とその運用。ムチャクチャというほかはない。

 こんな時代、「奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らむとする心」に共感を寄せつつも、「冷めたるココアのひと匙を啜りて、そのうすにがき舌触りに、われは知る、テロリストのかなしき心を」と唱うことが精一杯であったろう。

 啄木はかなり詳細に、大逆事件でっち上げの経過を知っていたようである。従って、啄木が共感したテロリストを秋水とするのは当たっていないようだ。

 むしろ、啄木没後の1923年、関東大震災直後の虎ノ門事件(1923年12月27日)における難波大助の方がテロリストのイメージに近い。当時の皇太子裕仁(摂政)をステッキを改造した仕込銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長車が軽傷を負ったが皇太子にはかすり傷も負わせなかった。それでも、死刑である。

 これは大事件だった。震災復興を進めていた第2次山本権兵衛内閣は引責による総辞職を余儀なくされた。警視総監から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の徒をかつて教育した責を負って職を辞した、と丸山眞男の「日本の思想」(岩波新書)の中に、「國體における臣民の無限責任」という小見出しで記されている。

 山上徹也は皇太子ではなく、元首相を銃撃した。こちらは既遂である。時代は変わった。難波大助に比較すれば、まともな裁判を受けることができるだろう。そして、今、世論の風当たりは山上にけっして厳しくなくなっている。

 さて、仮に石川啄木が今にあって山上徹也に、「われは知る、テロリストの かなしき心を」と共感を寄せるだろうか。私は思う。けっしてそんなことはない。あの時代の、あの天皇制の苛酷な支配下の大逆事件であればこそ、啄木は「テロリストへの共感」を詩にし得た。今の世、山上の行動への共感は詩にならない。

 今の世、まだ言葉は奪はれてはいない。奪われた言葉のかはりにおこなひをもて語らむとする心は、詩にも歌にもならない。
 やはり100年無駄には経っていないのだ。私はそう思う。銃撃に倒れた安倍晋三をいささかも美化してはならないにもせよである。 

「日の丸だけは我慢できない。日の丸を掲げた日本軍は、夫を息子を娘を殺した」

(2022年8月27日)
 本日午後、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」の総会。
 石原慎太郎都政下の悪名高い「10・23通達」発出以来、もうすぐ19年になる。石原慎太郎も今は鬼籍にある。思えば、なんと長い闘いを続けてきたものか。

 この間いくつもの裁判を重ねて、今は処分取消の第5次訴訟を東京地裁で闘っている。今日の総会には、この間の闘いの中心にいた人々が集まった。憲法を大切に思い、教育の理念を曲げてはならないと自覚した人々である。

 日の丸・君が代の捉え方は多様であり、運動参加者でもけっして一色ではない。だが、この旗と歌とが、かつての侵略戦争と残虐な加害責任の象徴であったことの認識は、共通のものだとは言えよう。朝鮮で、中国で、シンガポールで、ビルマで、仏領インドシナで、フィリピンで…。この旗と歌に鼓舞された天皇の軍隊が、暴虐の限りを尽くした。

週刊金曜日の最新(8月26日)号の巻頭に崔善愛さんが、「日の丸の加害責任」について書いている。全国平和教育シンポジウムでの栗原貞子の講演を引用してのもの。ちょうど50年前1972年の9月、日中国交回復のために田中角栄が北京を訪れた際の、「日の丸」に関するエピソードの紹介である。

 「田中角栄訪中の北京空港で大日章旗が引きおろされる事件が起きた。一人の高齢女性が捕まった。彼女は涙もふかず訴えたと言う。
 『国交回復は結構だが、あの日の丸だけは我慢できない。あの時、日本軍は夫を息子を娘を殺し、私は一人ぼっちとなった。それからの苦しみと悲しみは筆舌に尽くせない。どうか日の丸だけは……』と。
 この憎しみはアジア諸国民の日の丸館の一つの典型ではないでしょうか
 続けて栗原さんはこのように話した
 〈マスコミ始め国民が侵略戦争のシンボルだった日の丸君が代の犯罪性に沈黙し、大勢に順応しているとき、平和教育の中でこのことを教えるのは困難であります。国民の精神的支柱として再び日の丸・君が代・教育勅語を復活させる一方で、被爆国をとなえ、原爆の悲惨を訴えても、「ああ広島」と世界の人々は共感してくれません〉
 栗原貞子の思想を私は深く噛み締める」

 富国強兵・尽忠報国をスローガンに侵略戦争に明け暮れた天皇制国家。その野蛮な国家と分かちがたく結びついた「日の丸・君が代」である。戦後、日本国憲法制定後もなお、加害者としての戦争責任の自覚なく、自らの手で戦争犯罪者を処罰することもなかった我が国であり、国民である。

 本当に侵略戦争を反省し、我が国は生まれ変わったのだという主張をするなら、旧体制とあまりに深く結びついた「日の丸・君が代」を廃棄すべきであった。だが、これを捨てなかったことは、ことさらに「無反省」を誇示するものと受けとめられたであったろう。

 その思いが、北京での戦争被害女性をして、『「日の丸」だけは許せない。あの戦争のとき、「日の丸」を掲げた日本の侵略軍は、戦闘員でもない夫を殺し、息子を殺し、娘を殺し、私は一人ぼっちとなった。それからの苦しみと悲しみは筆舌に尽くせない。私の人生の不幸は「日の丸」によってもたらされた。どうか「日の丸」だけは、私の見えるところに持ちこまないで……』と言わせたのだ。 

 「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」という職務命令には服しがたいという教員は、この国に再び侵略戦争を起こさせてはならない。そのような兵士を育てる教育であってはならないと自覚した教員である。

 そのような教員の良心が、鞭打たれていることを知っていただきたい。

安倍国葬に反対します。ぜひあなたも、それぞれの立場から、声を上げてください。

(2022年8月26日)

安倍晋三氏の国葬に反対します。ぜひ、あなたも反対の声を。

 私たちは、1969年に最高裁の司法修習生となった同期の仲間です。1971年に弁護士や裁判官となって以来今日までの50年余、一貫して日本国憲法の理念を大切なものとする立場で職業生活を送ってきました。
 これまで、司法研修所卒業時の理不尽な同期生罷免と法曹資格回復の取り組みを振り返った「司法はこれでいいのか」の書籍出版を行ったり、気の合う仲間として忌憚なく話し合ってきましたが、初めての経験として、この仲間で意見をまとめて声明を出そうということになりました。
 その内容は、現内閣が閣議決定によって9月27日に執り行うとしている安倍晋三氏の国葬に反対するというものです。
 併せて多くの皆様に、それぞれの立場から、個人でもグループでも、「国葬反対」の声を上げていただくようお願いいたします。それぞれのご意見を、お手紙やビラやポスターにするか、メールやSNSやプログに掲載して、お知り合いにお伝えいただきたいのです。「安倍氏の国葬に反対する」という声が、全国到る所から湧き上がり響き合って大きな圧倒的世論となることが、戦争ではなく平和、独裁ではなく民主主義という声を力強いものとすることになると思うのです。それは安倍氏が進めてきた憲法破壊の政治と憲法改正の動きへの抵抗の力ともなります。
 私たちが、「安倍氏の国葬に反対する」理由は、以下のとおりです。

1 安倍氏の国葬は、国民に弔意を強制するものとして許されない
  国葬とは、全国民こぞって弔意を捧げるという意味づけの行事です。安倍氏国葬とは全国民にかわって国が同氏への弔意を表明することになります。国民一人ひとりが、国に束ねられて安倍氏への弔意を表明することにされてしまいます。全国民から徴収した税金を財源に費用を支出する点においても、全国民にこの儀式への参加を強制することにもなります。
  安倍氏の国葬については現に、弔意の押し付けはごめんだという多くの人たちがいます。そして、そのような人々の意見や心情は、憲法上の権利(「思想・良心の自由の保障」憲法19条)として、尊重されなければなりません。私たちもまた、各々の思想・良心に基づいて、このような形での安倍氏への弔意の表明を拒否します。こうした意見を無視する安倍氏国葬の強行は、到底容認することができません。

2 安倍氏の国葬は、岸田内閣による政治利用として許されない
  葬儀とは、死者を悼む人々が集う営みですから、本来私的なものであるべきです。同時に国葬そのものにも重大な問題があります。
  安倍氏が衝撃的な亡くなり方をしたことによって、いま同氏への批判を口にしにくい雰囲気があります。岸田内閣が、これを奇貨として、安倍氏への批判を封じるために国葬を画策したとしか考えることができません。そのことは、ひとりの政治家の死を、現政権が政治的に利用しようとするもので、道義的政治的に許されないものです。
  生前の安倍氏は首相として何を行ったでしょうか。教育基本法の「改正」、特定秘密保護法、共謀罪法、集団的自衛権行使を容認した「安保法制」諸法の強行採決は特に記憶に残るところです。権力に物言わせて、政治の私物化、ウソとごまかしの政治手法、行政情報の改竄隠蔽でも世を騒がし、モリ・カケ・サクラ・クロカワ・カワイ等々の不祥事を、不誠実な対応で未解決のままに放置した人物でもありました。戦後レジームの解消をとなえ、国家主義的・軍国主義的な政治姿勢が顕著であり、一面復古的な歴史修正主義者でもあり、他面新自由主義的な経済政策で格差貧困の社会を作った重い責任もあります。このような政治家について国葬を強行実施することに反対の声が広がりつつあることはごく自然なことと言わざるを得ません。

3 国葬は、法律の根拠を欠き財政民主主義に反するものとして許されない
  国のあらゆる財政支出には国会の議決に基づく法的根拠が必要です。この点を憲法は、「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」(憲法83条)と財政民主主義の原則を宣言し、「国費を支出…するには、国会の議決に基くことを必要とする」(憲法85条)と具体化しています。国葬に国費を投じてよいとする法的根拠はどこにもありません。
  戦前には、国葬令(勅令・1926年制定)が民間人の国葬の根拠となって、当然に国費の支出も可能とされていました。しかし、この勅令は日本国憲法に不適合なものとして「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力に関する法律」1条に基づき失効しています。その後、これを復活すべきとする議論はありません。
  岸田首相は、内閣府設置法上の内閣の所掌事務として「国の儀式」にあたるとして、閣議決定があれば実施可能としています。しかし、国葬令が失効しているにも拘らず、そんな解釈を認めてしまえば、国会の議決を無視した閣議決定でなんでもできることになってしまいます。行政府に対する議会の統制を強化してきた歴史の流れを無視し、憲法の財政民主主義をないがしろにする「岸田流解釈」はとうてい通用するものではありません。

4 安倍氏の国葬は、旧統一教会による被害の拡大に手を貸すものとして許されない。
  安倍氏銃撃事件はなぜ発生したのか。今、安倍氏本人と旧統一教会との深い関係が明らかにされつつあります。まだすべてが解明されたわけではありませんが、いま急ピッチでその全容が明らかになりつつあります。
  少なくとも、祖父岸信介氏以来三代にわたる安倍氏と統一教会との緊密な関係が国民の目に印象深く刻まれました。また、巨額の悪徳商法被害を出し、信者家族の生活を破壊した旧統一教会に対して、安倍氏や他の少なからぬ自民党議員が支援者・庇護者として振る舞っていたことも強い印象を刻んでいます。安倍氏が国葬にふさわしい人物なのかどうかについてはこの点からも強い疑問を抱かざるを得ません。
  安倍氏の国葬を強行すれば、今後の同氏と統一教会との関係、さらには自民党政治と統一教会とのつながりについての徹底解明を阻害することが危惧されます。
そして、名称をかえて現在もなお活動を続けている旧統一教会への追及そのものが放置され、そのことによって、さらなる国民への被害拡大につながることが強く懸念されます。

23期弁護士ネットワーク


 本日記者会見をしてこの声明を発表した。当初は23期だけの声明のつもりだったが、「それだけではややさびしい。賛同者も加えて」との発案があって、少しにぎやかになった。合計賛同者は118名である。

※ この声明を出した趣旨は、「この声明に賛同してください」「この指止まれ」ではありません。私たちは、雑談仲間の雑談の中から、安倍国葬反対の声明を出すことにしました。今やだれもが発信のツールをもつ時代。そのツールを活用して、いろんなグループで、あるいは個人で、それぞれに「安倍国葬に反対」の意志表明をお願いしたいのです。反対理由は、けっしてみんな同じということはなく、それぞれのはずでしょう。それぞれの立場から、それぞれの切り口で、至るところから、多様な「安倍国葬反対」の声を上げていただくよう是非お願いします。

※ 国葬反対の理由には、国葬そのものに反対と安倍国葬だから反対の二派があります。もちろんその折衷派もあります。ちょうど、国旗国歌そのものの強制に反対という原理派と、日の丸・君が代という特定の歴史と結びついた旗や歌だから反対との二派があるのによく似ています。どちらも、原理的に、あるいは具体的に国家と個人との関係を浮き彫りにしています。
  ご注意いただきたいのは、国葬に伴う黙祷や歌舞音曲停止という具体的な行為の強制を問題としているのではなく、国葬を行うということそれ自体が、国民に対する弔意の強制だということです。

※ もう一つ。「国葬は当たり前だ。やらなかったらばかだ」という政治家の発言がありました。私は、この種の発言を恐ろしいと思います。この国は、無謀な国策を止めることができません。理性的な民意を顧みて、立ち止まり振り返ることができないのです。戦争も、原発も、辺野古も、そして今始まった国防国家化も、「征きてし止まん」なのです。せめて、安倍国葬くらいは本当にやめてもらいたい。

「人を不幸にする自由はない」― 信教の自由を盾にする悪徳商法を許さない

(2022年8月25日)
 日弁連は、「消費者法講義」(日本評論社刊)を発刊している。2004年10月に第1版を出し、現在は第5版(2018年10月)となっている。消費者委員会の然るべき執筆者が担当するもので、ロースクールの教科書にもなっていると聞く。

 その第4版までには「宗教トラブルと消費者問題」の章が設けられていた。山口広弁護士が執筆し、これに私のコラムが付けられていた。コラムのタイトルは、「消費者事件の間口と奥行き」というもの。霊視商法弁護団を代表しての執筆であるが、今、あらためて統一教会の霊感商法に世の注目が集まっている。引用して紹介させていただく。


 1989年10月31日、オウム真理教の幹部が横浜法律事務所を訪れた。「われわれには信教の自由がある」との言に対して、坂本堤弁護士は「人を不幸にする自由はあり得ない」と切り返している。その3日後、坂本弁護士は家族とともに非業の最期を遂げ、この言葉が彼の遺言となった。人を不幸にする「宗教」はオウムだけではない。「宗教」を金儲けの手段として、善男善女から金品を巻き上げ利をむさぼる輩はあとを絶たない。犯罪性を指摘されると、彼らが呪文のごとく唱えるのが「信教の自由」である。

 その典型が霊視商法。真言宗の一派を名乗る宗教法人が大量にチラシを撒き、「3000円で特別の能力を持った霊能師が霊視鑑定をする」と集客する。霊視鑑定の結果、例外なく「水子の霊が憑いている」「種々の霊の崇りがある」ことになり、「この霊を供養しない限り不幸は去らない。さらに大きな不幸が来る」と除霊供養料250万円からの被害が始まる。東京都の消費生活センターが調査に乗り出したが、「信教の自由」の壁に阻まれた。「行政が宗教に介入するのか」「宗教弾圧だ」とまで言われたという。

 「信仰の自由」「宗教活動の自由」は憲法上の崇高な理念である。しかし、宗教団体が国家権力と対峙する局面と、宗教団体が私人(消費者)と向かい合う局面とを明確に区別して論じないと、同種悪徳商法を野放しにすることとなる。
 信教の自由はいささかも悪徳商法を許容するものではない。宗教の名による悪徳商法を糾弾し、消費者被害を救済するに際していささかの妥協も怯みもあってはならない。「人を不幸にする自由はない」は、信教の自由の限界を端的に表現した名言として記憶されねばならない。

 組織的な加害に対しては、個別的な被害救済だけではとうてい対応し得ない。とりわけ、この種の大規模事件においては、被害の拡大阻止ないし根絶も受任弁護士の責務となる。弁護団を結成し、集団で多面的な対応が必要である。世論へのアピールも欠かせない。1992年に結成された霊視商法対策弁護団は、憲法問題にも踏み込みつつ、刑事告訴、損害賠償訴訟、破産申立て、宗教法人法上の解散命令申立てなど考えられる限りの法的手続きを行い、被害救済と被害拡大阻止の両面で成功を収めた。「消費者事件」の間口の広さと奥行きの深さを象徴する事件であった。

[澤藤統一郎(弁護士)]

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