「8月ジャーナリズム」という言葉を耳にする。「8月限りの際物」という揶揄したニュアンスがある。それでも8月いっぱいは、戦争を回顧し戦争の悲惨を思い起す報道を期待したい。そのことを通じて、ふたたび戦争を繰り返さない誓いが、この国の再生の原点であったことを思い起こそう。危険な政治家によって、その原点に揺らぎが見えるこの夏においてはなおさらである。
赤旗が、「2014年夏 黙ってはいられない」という連載をしている。益川敏英、山極寿一といった著名人が、常ならぬこの夏を語るという企画。昨日(8月24日)は、山田洋次さんが登場した。その中に印象に残る一節がある。
ぼくは旧満州で戦前の軍国主義の教育をシャワーのように浴びながら育った世代です。あの頃の日本人は中国、朝鮮の人たちに恐ろしいような差別意識を持っていた、中国の兵隊が殺されるのは当たり前だし朝鮮の娘さんが慰安婦になっていることは小学生のぼくまでが知っていて、それを当たり前のことのように考えていた。あの恥ずべき差別意識は、資料では残されていないし残しようもないけど、それがあの戦争の根底にあったことを、戦争は他民族に対する憎しみや差別視というおぞましい国民感情をあおり立てることから始まることを、ナチスのユダヤ人排斥の例を引くまでもなくぼくの世代は身にしみて知っているのです。差別され迫害された側の記憶はいつまでも消えないということを、戦後生まれの日本の政治家はよく考えなければいけない。
相手国や国民を、憎み、侮蔑し、差別する感情がなければ戦争はできない。また、そのような差別意識の醸成は、戦争の徴候であり周到に仕組まれた準備でもありうる。
「右翼」の鈴木邦男氏が、今年の8月15日の靖国神社の光景を次のように描写している(要約)。
地下鉄九段下駅を降りて、靖国神社まで…道の両側に、ビッチリと「店」が並んでいる。食べ物やみやげ物を売ってる店ではない。いわば、「思想」を売っている店だ。いや、自分たちの「主張」を売っている店だ。「中国・韓国は許せない。10倍返しだ!」「歴史教科書はおかしい。変えろ!」「全ては憲法のせいだ! 改正しよう! 署名をお願いします」…と。
ギョッとする光景に出会った。女性が声を張り上げて、朝日新聞を攻撃していた。慰安婦問題で嘘ばかり書いている朝日は廃刊にすべきだ、と。「朝日は、そんなに日本が憎いのですか!」と。…「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦はなかった」…と、エスカレートする。「戦争中に虐殺したり、レイプしたりする兵隊は1人もいなかった。ましてや慰安所などなかった」。そして、こう言ったのだ、「日本兵は世界で一番、道徳的な兵隊です!」
改憲の動きがあるし、集団的自衛権もあるし、ヘイトスピーチデモもある。書店に行くと、反韓・反中の排外的な本ばかりが並んでいる。「国のためなら戦え!」「中国・韓国なんか、やっちまえ!」
何ともやりきれない光景である。安倍政権誕生以来の光景に見えるが、このような光景を生む土壌が安倍政権を誕生させたのか。かなりやばい、この夏の風景。
しかし、このような動き一色でない。昨日(8月24日)の毎日朝刊に、ホッとするような、励まされるような投書を見つけた。
「すばらしい憲法9条大切に」という表題。投書者は山口県岩国市の60代の主婦。お名前の「詩代」にふさわしい文章。
7月29日の本欄に「憲法9条は一国では持っている意味がない」という投書がありました。本当ですよね。こんなにすばらしい憲法なのですから、まわりの国にも「戦争をしない国」の信念を伝えて、日本と同じ憲法9条を持ってもらうように努力しましょう。日本しか持っていないから役に立たないなんていわないで、頑張りましょう。
抑止力というのは、自分の方が上だという上から目線の見方で、相手は良い気はしません。こちらがこれだけ力があると見せれば、相手はまだ上を目指します。そして日本は、またその上の抑止力を考えなければいけません。
きりのない抑止力競争より、周囲の国を戦争をしない国に巻き込んでいくことの方が資金もかかりません。近隣国と話し合いをし、仲良くしていきませんか?
安倍首相お願いします。
私は、子供も孫も戦争には絶対に行かせません。
この短い文章で、9条の精神を余すところなく解き明かしている。
近隣諸国と話し合いをし仲良くしていこう。差別意識をもつことの恥ずかしさを確認しよう。そして、私も、「子供も孫も戦争には絶対に行かせません」と誓おう。
今年の夏、去年までとは違う風景がある。例年以上に「8月ジャーナリズム」にこだわらずにはおられない。
(2014年8月25日)
8月21日の毎日朝刊に、「靖国問題の核心を認識」という会社員(東京・56才)氏の投書が掲載されていた。これを読んで、私も少し違った角度から「靖国問題の核心」を見たとの印象をもった。
靖国を語るときには襟を正さざるを得ない。ことは国民皆兵の時代の夥しい兵士の戦死をどう受け止めるべきかがテーマである。無数の若者が赤紙1枚で戦地に送られ、非業の死を遂げた。一人一人の死につながる家族があり、友人があり、地域がある。
その死が悲惨であっただけに、遺族や友人など戦死者を悼む者は、その死を無駄な死だったとは思いたくない。その死を忘れさることなく、多くの人にその死を記憶してもらいたい。できることなら、その死を意義あるものと認めてもらいたい。その強い気持ちは、痛いほどよく分かる。
問題は、戦死の意味が戦争の意味と切り離せないことにある。兵士個人の戦死の意味付けが、国家の戦争の意味付けと分かちがたく結びついているこのだ。死者を悼む遺族の気持ちが戦争や戦争を起こした体制の肯定にすり替えられる危険。靖国問題の本質はその辺りにある。
靖国は、一見遺族の心情に寄り添っているかのように見える。死者を英霊と讃え、神として祀るのである。遺族としては、ありがたくないはずはない。こうして靖国は遺族の悲しみと怒りとを慰藉し、その悲しみや怒りの方向をコントロールする。
あの戦争では、「君のため国のため」に命を投げ出すことを強いられた。神国日本が負けるはずのない聖戦とされた。暴支膺懲と言われ、鬼畜米英との闘いとされたではないか。国民を欺して戦争を起こし、戦争に駆りたてた、国の責任、天皇への怨みを遺族の誰もが語ってもよいのだ。
靖国は、そうさせないための遺族心情コントロール装置としての役割を担っている。死者を英霊と美称し、神として祀るとき、遺族の怒りは、戦争の断罪や、皇軍の戦争責任追及から逸らされてしまう。合祀と国家補償とが結びつく仕掛けはさらに巧妙だ。戦争を起こした者、国民を操った者の責任追求は視野から消えていく。
56才会社員の投書氏は、こう語っている。
「終戦の日の本紙の元自民党幹事長の古賀誠氏へのインタビューを読み、改めて靖国問題の核心を認識できました。それは1978年に宮司の独断で行われたA級戦犯の合祀をもとの形に戻して、天皇陛下もかつてのように靖国神社にお参りしていただきたいという、極めて明快な発言でした。」
「A級戦犯を祀る靖国」は、靖国が戦争責任を一身に背負う図としてこの上なく分かり易い。しかし、このことが靖国の本質ではないと私は常々思っている。「A級戦犯の合祀を取り下げ」てその代わりに「天皇が参拝できる靖国」が実現したとすれば、それこそが靖国神社の本質的な姿なのだと思う。そして、その本質はより危険なものなのだと思っている。
「私の伯父も若くしてフィリピンで戦死し靖国に祭られています。きっと天皇陛下万歳と言って散っていったに違いありません。というか、そう叫ぶしか自らの死を受け入れられなかったと思います。そしてその伯父の魂は、天皇陛下に参拝していただいてこそ安らぐのではないかと思えてなりません。」
かくて、天皇の戦争責任は糊塗され免罪され、むしろ「悪役・A級戦犯」に対峙する善玉として、遺族と民衆の気持ちに沿った天皇像が描かれる。その天皇の参拝こそが靖国という死者の魂の管理装置の本質的な姿だと思われる。
「私自身も、無謀な戦争をして伯父を戦場に送った人々が一緒に祭られている神社を素直に拝めません。戦後70年という節目に当たる来年こそ、この問題に整理をつけ、陛下も首相もお参りに行ける神社になっていただきたいと願う次第です。」
いかにも実直そうなこの投書氏には、A級戦犯の戦争責任は意識にあっても、天皇の戦争責任の認識は露ほどもない。靖国とは確実に、このような遺族やその周囲の心情に支えられている。根無し草ではなく、確実にこれを支える民衆の存在がある。違憲と言い、外交上かくあるべしと言ってもなかなか通じない。遺族の心情は無碍に排斥しがたい点において、反靖国派はたじろがざるを得ない。ここが、靖国派の強みの源泉である。
しかし、辛くても、困難でも、遺族の心情に配慮しつつ、逃げることなく、この投書氏にも語りかけなければならない。
あなたの伯父さんを死なせた戦争を始めたのは当時の国家ではありませんか。赤紙一枚で戦場に狩り出したのも国家、「死は鴻毛より軽きと知れ」と国民の命を軽んじたのも国家。そして当時、国家はそのまま天皇と置き換えてもよい存在だったではありませんか。天皇を頂点とした国家こそが、かけがえのない国民一人ひとりの戦死に、あなたの伯父さんの死に責任を取らねばならないのではありませんか。
A級戦犯各人が責任ありとされた行為を重ねた当時、その上に天皇が君臨していたではありませんか。あなたの伯父さんを死に追いやった最大・最高の責任者は天皇ではありませんか。「この問題に整理をつけ」とは、A級戦犯の合祀を取り下げての意味と理解します。「陛下も首相もお参りに行ける神社になっていただきたいと願う次第です」は、結局は戦犯の上に君臨していた天皇を免罪することになりませんか。若かりし伯父さんが天皇にどのような思いを抱いていていたかはともかく、伯父さんを戦死に追いやった最高責任者の免罪が本当に伯父さんの死を意味づけることになるのでしょうか。
(2014年8月24日)
今日は処暑。処とは、足と台とを組み合わせて、床几に落ちついている様を表す会意文字だという。処暑とは、暑さ落ち着くの意なのだろう。あるいは、処分・処断の処と解せば、暑さの始末がつくという意味であろうか。
旧暦でのこととはいえ残暑の厳しさも心なし和らいできているよう。夏も終わりに近い。
日本中が自然の猛威になすすべも無く翻弄された今年の夏。報じられている各地の災害はまことに傷ましい。それと較べれば些細な私事であるが、私も自然界による逆襲を受けた。
クロスズメバチの襲撃に遭って、痛い目にあったことは前のブログでお知らせした通り。たいしたことにならず、ホッとしていたら、追い打ちをかけるように、今度はキイロスズメバチに指と上唇の2カ所を刺されてしまった。その痛さはクロスズメバチの比ではない。釘を打ち込まれるようだという表現があるけれど、たしかに釘をバチンと打ち込まれればこんな感じかもしれない。指の付け根を刺されたら、みるみるうちに手全体は無論、前腕の半分ほどがパンパンにふくれあがった。焼き芋に5本のウインナーソーセージをぶらさげたよう。上唇のほうは、鼻の下だけが思いっきりはれあがって、カモノハシのようになり、よほど注意をしないとよだれが垂れるままのだらしない状態となった。
今でこそ余裕をもって報告できるが、刺されたときは深刻だった。これで三回目、合計7匹のスズメバチの毒を受けたことになるのだ。「もうダメかも知れない。アナフィラキシーショックで入院か」という思いが頭をかけめぐった。
しかし、クロスズメバチに刺されたときに学んでいたことが役に立った。水道水で徹底的に洗い流して、氷でひやした。痛いやら怖いやらでビクビクものだったが、またもや、冷静沈着な行動をとった私の勝ち。
3日間はふくれあがったが、後は徐々に回復。2日ほどは食事をするのが嫌になるほど痛かったが、3日以降は痒くて痒くてたいへん。でも、それだけのことだった。
ハチ毒に対するアレルギーは人それぞれ、場合によりけりらしいので、絶対に次回も安心できるとおもわない。油断大敵と厳しく自戒している。
スズメバチといえども、むやみやたらに攻撃するわけでは無い。巣に対する攻撃にたいして自衛の個別的自衛権を発動するするだけのことらしい。私が刺された状況に照らして、その説明は十分納得できる。クロスズメバチの場合はうっそうとしたウツギの大枝を切ってドサリと下に落としたときに刺された。キイロスズメバチの場合はツバキの上にからまったヤブガラシを引っ張りおろすために、ユッサユッサと揺らしたときに刺された。いずれも、一族の城に対する侵略への自衛措置である。
ちょうどイスラエルがガザで虐殺ともいえる攻撃をしている時期だったので、妙にスズメバチに同情する心がわきおこって、憎んだり怒ったりする気持ちにはなれなかった。「突然驚かしてゴメンね」と言ってみたが、通じてはいなかったようだ。
そんな同情心を持つにいたったのにはもう一つ理由がある。前回攻撃されたクロスズメバチの巣を見つけたのだ。愚かなことに、クロスズメバチは地面に直接、直径40センチほどの穴を掘って、その中に巣を作っていたのだ。近づくと兵隊蜂がワンワンと飛び出してきた。これだなと思って、蚊取り線香に火をつけて放り込むと、あたりまえのことだが、ますます大勢で飛び出してくる。位置の確認はできたが、内部構造まではわからない。そうこうしているうちに、台風11号による大雨が降った。土砂が穴を覆ってしまい、スズメバチの巣は閉じ込められてしまった。大雨という自然災害にはさしものスズメバチもなすすべが無かったとみえる。可哀想なことに、全滅した様子。できることなら、私がやったんじゃ無いとスズメバチに伝えて、誤解を解きたいと心から思う。
ところで、巣の作り方の教訓は子孫に伝わるのだろうか。来年は目立たない崖に、横穴を掘るべきであって、垂直に掘り下げる巣作りは危険だという死活的に重要な教訓は伝承できるのだろうか。伝承できなければ、クロスズメバチ一族の未来に希望はない。
人間はスズメバチとちがって、言い伝えたり、本に書き残したり、映像化したり、教訓を残す方法をたくさんもっている。
ところが、戦争に懲りたはずのこの日本が、またもや戦争ができる国になりそうな事態を迎えている。本当に人間はスズメバチより利口なのだろうか。せっかく手にした教訓と教訓伝承の手段は役に立たないのだろうか。
もしかしたら、本当に痛みを体験した者だけにしか、教訓は伝わらないのではなかろうか。スズメバチに刺された痛さだって、人に伝えることは難しい。戦争の悲惨さも同じことなのかも知れない。
しかし、人間が学びを積み重ね、伝承できないスズメバチと同じであってはならない。人間が虫けらのように殺されていくのが戦争だ。どんなに困難なことだとしても、その悲惨さと、繰り返してはならないとする教訓を、あらん限りの知恵を発揮して伝承しなければならない。
まだまだ間に合う。今一度の戦争はなんとしても防がなければならない。痛い目にあって、スズメバチから得たこの夏の「痛い教訓」。
(2014年8月23日)
同期の友人から、便りをいただいた。ワープロで印字したものではない。「水茎うるわしく」とは言えないものの、手書きの便りは暖かい友情を感じさせる。内容は、『DHCスラップ訴訟』の被告準備書面に目を通しての感想。大局を見る視点の参考に値するものと考え、了解を得てその一部を紹介する。
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先日は、久しぶりにお目にかかって楽しかった。お元気そうでなにより。
私も弁護団の一員だが、東京には遠いし、若くもない。パソコンの操作も不得手だ。訴訟の方針は優秀な若手にお任せでよいと思っている。信頼できる学者のアドバイスも期待できるようだし、安心はしている。
それでも、もちろん気になって原被告双方の書面はよく読んでいる。今回の被告の反論を展開した準備書面も拝読した。その感想を述べておきたい。
結論的には、説得力のある精緻な内容の展開になっているし、訴訟としては圧倒的に有利な立場にあることを確認できて喜んではいる。しかし、正直のところ、今回の準備書面は私の考えていた内容とは少し違う。違和感がある。
ことの本質は、澤藤君の批判が果たして違法と烙印を押されるようなものなのかという一点にあるのだと思う。君は、財界の一端を担う吉田が政治家渡辺に多額のカネを渡したことを「カネで政治を買うもの」と批判した。いったいこの批判を違法などといえるのだろうか。最終的には、それだけが論点だ。
吉田の行動が違法か合法か、君の指摘が正確か否かは、二の次、三の次の問題に過ぎない。吉田が渡辺にあれだけの大金を渡したのだから、「カネで政治を買う」ものと批判されて当然ではないか。むしろ、君の問題提起は、違法どころか、重要で意義のあるものだと思う。そのことをもっと前面に押し出してもらいたい。
訴訟の争点が、大金を拠出したことについての吉田の意図や動機、あるいは吉田の行為の違法性の有無に絞り込まれるようなことがあってはならない。吉田の意図や動機がどうであろうとも、吉田のカネの出し方が政治資金規正法上適法であったとしても、澤藤君の批判を違法として封じることはできないと思う。この点を十分に意識してもらいたい。
今回の準備書面への違和感はその点にある。民主主義を守る土台としての「批判の自由」の意義をもっと前面に出してもらいたかった。少し、横着に言えば、吉田の行為が合法か否かは問題にならない。君の批判の内容が真実であるか否かも本来問題にはならないはずではないか。吉田が自らの手記で発表した行為が、君のような批判の対象となることは当たり前のことで、仮に君の批判の表現に誤った推測が含まれていたとしても、批判が許されないことにはならない。
民主主義を守るためには君がしたような批判が必要なのだ。その批判をきっかけに、真実の解明が進んだり、国民の議論が深まることが期待できるのだから、批判の言論そのものに保護すべき意義がある。けっして、批判が全面的に正確であることを要求すべきではないと考える。
そのような立場から、裁判所に「批判の自由」の意義や尊さを理解してもらえるように、この点を整理した書面を作成して提出してもらいたい。それが私の意見だ。参考にしていていただけたらありがたい。(後略)
(2014年8月22日)
昨日(8月20日)の『DHCスラップ訴訟』法廷後の集会で、ジャーナリストの北健一さんが報告した。主に語られたのは、スラップの威嚇作用と、それによる言論の萎縮効果である。萎縮効果は、当該被告にだけではなく、その周囲から社会一般におよぶことの危惧が強調された。「恫喝に屈してしまえば萎縮効果は際限なく広がる」のだ。
会場発言でも、かつてスラップと闘って勝った経験者が、勝利をしながらも提訴されたことによる不愉快、手間暇、金銭的負担、膨大な時間の浪費、精神的負担を語った。スラップからの早期の被害者解放の手立ての確立や、スラップ提訴者に対する制裁の必要が共通認識となった。
DHCとその会長吉田は、私たち弁護団が確認しているだけで、損害賠償請求等の10件の提訴と、出版物販売等禁止仮処分命令1件の申立をしている。仮処分事件は7月17日東京地裁民事9部の合議体によって申立を却下されているが、他は未解決。
各件の個別の請求内容もさることながら、この提訴の数自体が、あたるを幸いの濫訴というほかはない。この10件の提訴によって、DHCは「自分を批判すると提訴の危険を伴うぞ」と多くの人を威嚇し、警告を発して恫喝しているのだ。
誰だって、11件目の訴訟当事者にはなりたくない。だから、多くの人が筆を抑える。DHCのやり方を不愉快と思いつつ、現実に提訴されたときの煩わしさを避けた方が賢明と判断する。これが、DHCの付け目だ。かくて、言論の萎縮効果は蔓延する。
今日になって、その実例を教えられた。まず、下記の通知を紹介したい。個人のブログへのコメントである。作成名義の真正は定かでないが。
全文はこちらを参照していただきたい。
http://norisu415.blog.fc2.com/blog-entry-2057.html#comment5598
通知は「ブログ記事の削除要請の件について」と標題するもの。2014年8月19日付で株式会社ディーエイチシー総務部法務課杉谷義一名義(会社を代表するものではなく、一課員という立場としか考えようがない)の文書である。
「今般、貴殿は、本ブログ記事において、全体として弊社代表者を侮辱し、また、自ら「証拠もなしに」と何らの調査・取材も行っていないことを認めながら、弊社代表者が、「強烈な保身意識」のもとで渡辺議員を「警告、恫喝、口止め」している、「吉田のコメントは、念には念のヤクザの恫喝ではないのか」などと平然と書き、そのような人物が代表取締役会長をつとめている弊社の社会的評価を低下させ、弊社の名誉を著しく毀損しています。」
「弊社代表者」に対する意見を一方的に侮辱扱いし、独自の調査・取材がなければ意見・論評を行ってはならないとの決め付けは不当というほかない。また、「そのような人物が代表取締役会長をつとめている」ことを自認しながら、このことが公開されると会社の社会的評価が低下するというのは、諒解しがたい。
侮辱とは個人の名誉感情を害することであり、名誉毀損とは事実を摘示して社会的な評価を害することをいう。この通知は、その両者の区別を認識していない。また、代表者の個人の利益を守る趣旨でなされたものなのか、会社の評価を守る趣旨でなされたものなのか文意が明白でない。会社を代表した文書であるのか、代表者個人を代理した文書であるのかの性格が分明でないことからの混乱であろう。あるいは、会社と会社代表者が渾然一体となっていることがDHCの社内の実情なのかも知れない。
「貴殿が記事の削除に任意に応じて頂けない場合には、やむなく法的対応を検討せざるを得ませんので、できましたらそのようなこととならないよう何卒宜しくお願い致します。なお、本ブログ記事同様に、弊社代表者および弊社の名誉を毀損し或いは侮辱する記事を掲載した他のブログにおきましては弊社の指摘により記事の削除をして頂くことで円満解決しておりますことを、念のためお伝えしておきます。」
削除に応じなければ法的措置をとる旨を申し向けて、訴訟の負担の懸念から削除させようとするこの通知は、恫喝そのものといえよう。削除に応じればそれ以上の手段をとらないとの「飴」と、訴訟負担という「鞭」でブロガーを従わせようとしている。
もっとも、他のすべてのブログについて、「指摘」がなされ自主的な削除により「円満解決」したという趣旨であるとすれば、明らかな虚偽である。私のブログには何の「指摘」もなく訴訟が突然提起されているし、他にも無警告で訴訟が行われた例は確認されている。
さて、こんな申入を受けたら、あなたならどうする。
普通ならスパム扱いだろう。当たり前の感覚では、「警告、恫喝、口止め」「吉田のコメントは、念には念のヤクザの恫喝ではないのか」くらいで、訴えられるとは考えない。せっかく書いた記事を、これくらいのことで削除することはあり得ない。
権力や金力への批判こそジャーナリズムの真骨頂と考えている立場からはなおさらのこと。このような「強烈な保身意識」からなされた「警告、恫喝、口止め」に対しては、屈することはできないと考えるのが当たり前だろう。
ところが、ことDHCについては、この「当たり前」が通用しない。現実の問題として、DHCから「警告、恫喝、口止め」がなされると、抵抗することにはなかなかの覚悟が必要なのだ。
この申しれを受けたブロガーは、現実にどう対応したか。下記をお読みいただきたい。(ブログの特定は避けたかたちでの引用にしている)
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「本ブログが(株)DHCから恫喝を受けました。」
「一瞬、ただのスパムコメントかと思ったが、どうやらDHCは同様の手法で会社に不都合なブロガーに圧力をかけて回っている様だ。だとしても、こんな場末のパンピーブログにまで恫喝してくるとは、DHCとはケツの穴の小さい会社である。余程不都合な内容だったのだろうか(笑)。
笑ってばかりもいられない。と言うのも、DHCの恫喝はただの脅しではなく刃が付いている可能性が高いからだ。実際、東京弁護士会の澤藤弁護士が、本ブログと似た様なことをブログに書き、つい最近DHCから2000万円の慰謝料を求めて訴訟を起こされている。」
「さて、本ブログはどう対処しようか。訴訟を起こされて多額の慰謝料を支払う判決が下される様なエントリーとは思えないが、現実問題として本当に裁判を起こされても面倒だ。ついては、一時的に当該エントリーのDHCに関する記述を削除しようと思う。
もちろん、削除前のエントリーは保存しておく。澤藤弁護士の訴訟結果を待ち、澤藤弁護士が勝訴したら再アップしようと思う。」
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同じように、DHCから恫喝を受けたブログは無数にあるものと推察される。このブログの場合には、「本ブログが(株)DHCから恫喝を受けました」と宣言しているから、たまたま目についたもの。ひっそりと記事の削除に応じていれば、誰の目も届かないところで、DHCの「警告、恫喝、口止め」が成功を収めていることになる。これは、由々しき問題ではないか。言論が恫喝に屈しているのだ。
このブロガー氏は、気骨のある人とはお見受けする。DHCからの恫喝に不愉快をに明言しているのだから。そのブロガー氏も、「DHCの恫喝はただの脅しではなく刃が付いている可能性が高い」ことを考慮せざるを得えない。「訴訟を起こされて多額の慰謝料を支払う判決が下される様なエントリーとは思えない」と考えつつも、「現実問題として本当に裁判を起こされては面倒だ。やむなく一時的に当該エントリーのDHCに関する記述を削除しよう」という判断に至る。
残念ではあるが、「恫喝に屈してしまえば萎縮効果は際限なく広がる」の好例となった。「澤藤弁護士の勝訴の暁の再アップ」を期待するのみである。
明らかに、経済的強者の濫訴が言論の萎縮を招いている。昨日の法廷での私の陳述の一節を繰り返しておきたい。
「仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告ら(DHCと吉田嘉明)を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。」
その危機は遠くにではなく、既にそこにある。
(2014年8月21日)
本日は『DHCスラップ訴訟』の事実上の第1回口頭弁論期日。被告代理人と支援の傍聴者で法廷が埋まった。そこでの被告陳述と被告弁護団長の意見陳述を下記に掲載する。
次いで、弁護士会館での報告集会。弁護団長・光前弁護士からの解説のあと、ジャーナリストの北健一さんと、メディア法の田島泰彦教授(上智大学)が、スラップに関する実践的な報告をされた。
すべてが、この上ない充実ぶりで、法廷と集会が、優れた「劇場」と「教室」になった。教室は人権と民主主義を学ぶ場。劇場は、学んだものの実践の場。両者とも、生き生きと志あるものがつどう空間。
応訴の運動を、「劇場」と「教室」にしよう。
まずは、楽しい劇場に。
演じられるのは、
人権と民主主義をめざす群像が織りなす
興味深く進行するシナリオのない演劇
誰もがその観客であり、また誰もがアクターとなる
刺激的な空間としての劇場。
そして有益な教室に。
この現実を素材に
誰もが教師であり、誰もが生徒として
ともに民主主義と人権を学ぶ教室。
今日が、開演であり、始業に当たる日。
ハッピーエンドでの卒業の日まで
充実した「劇場」と「教室」にしよう。
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『DHCスラップ訴訟』2014年8月20日期日
被告本人澤藤統一郎意見陳述
私は、被告という立場に置かれていることにとうてい納得できません。どう考えても、私に違法と判断される行為があったとは思えないからです。
私は、憲法で保障されている言論の自由を行使したに過ぎません。しかも、その言論とは、政治とカネにまつわる批判の言論として社会に警告を発信するものなのです。政治資金規正法に体現されている「民主主義の政治過程をカネの力で攪乱してはならない」という大原則に照らして、厳しく批判されるべき原告吉田の行為に対して、必要な批判をしたのです。
政治資金規正法は、その第1条(目的)において、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるように」としています。まさしく、私は、「不断の監視と批判」の言論をもって法の期待に応え、「民主政治の健全な発達に寄与」しようとしたのです。
私の言論の内容に、根拠のないことは一切含まれていません。原告吉田嘉明が、自ら暴露した、特定政治家に対する売買代金名下の、あるいは金銭貸付金名下の巨額のカネの拠出の事実を前提に、常識的な論理で、原告吉田の行為を「政治を金で買おうとした」と表現し批判の論評をしたのです。
仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようであれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告らを模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。
また、仮に私のブログによる表現によって原告らが不快に感じるところがあったとしても、彼らはそれを受忍しなければなりません。原告両名はこの上ない経済的強者です。サプリメントや化粧品など国民の健康に直接関わる事業の経営者でもあります。原告らは社会に多大の影響を与える地位にある者として、社会からの批判に謙虚に耳を傾けるべき立場にあります。
それだけではありません。原告吉田は、明らかに法の理念に反する巨額の政治資金を公党の党首に拠出したのです。しかも、不透明極まる態様においてです。この瞬間に、原告らは、政治家や公務員と同等に、拠出したカネにまつわる問題について国民からの徹底した批判を甘受すべき立場に立ったのです。これだけのことをやっておいて、「批判は許さない」と開き直ることは、それこそ許されないのです。
原告らの提訴自体が違法であることは一見して明白です。貴裁判所には、このような提訴は法の許すところではないと宣告の上却下して、一刻も早く私を不当な責任追及を受ける被告の座から解放されるよう要請いたします。
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被告弁護団長弁護士光前幸一意見陳述要旨
1 本件は、民主主義の根幹を揺るがす「政治とカネ」に関する論評の差止め請求、損害賠償請求事件である。被告が論評を発表した手段は、いまや市民にとって極めて一般的な方途となったインターネット上のブログである。また、被告が論評で取り上げた題材は、現金だけでも8億円が動いた有力政治家と大実業家の交際状況であり、現金を供与したのは、健康食品業界で飛ぶ鳥を落とす勢いのDHCオーナー原告吉田会長、受け取った政治家は、みんなの党の代表者であった渡辺喜美氏である。社会の耳目が集まるのも当然である。
2 本件裁判は、憲法32条が保障した裁判を受ける権利を濫用した違法な訴え、スラップ訴訟である。その根拠は、本日提出した準備書面1の第2?第4、さらに第6(これは、原告らが先般提出した準備書面1への反論)で詳細に論じているが、その骨子を述べれば、原告吉田と渡辺代議士が週刊誌や記者会見で明らかにした事実は、サプリメントの規制緩和という国家政策をカネの力で左右しようとするもので、政治資金規正法に違反する疑いが強く、このような経済的強者による法の無視、民主主義の冒涜行為に対しては、同法が、市民の厳しい「監視と批判」を期待し求めていること、被告の論評は、この法の要請にしたがい、原告吉田や渡辺代議士が明らかにした事実のみを掲げ、これを基礎として、原告吉田の行為を厳しく批判したにすぎないものであること、ところが、批判された原告らは、何の事前交渉もないまま、被告に対し、高額の損害賠償請求と論評の撤回を求める裁判を提起し、しかも、同様の訴訟を同時・多発的に(被告において判明しているものだけでも、当裁判を含めて10件)提起しており、とうてい、訴訟のまともな利用方法とは言い難いということである。法曹であれば、原告らの訴訟提起の異様さは、誰もが気づくことであり、自らのフィールドがこのように汚されることに、危惧や嫌悪を超えた義憤を感じるであろう。
3 原告らが、本訴状の作成にあたり参考にしたであろう、この種訴状のひな形、例えば、判例タイムズ1360号の4頁以下には、東京地裁プラクティス委員会執筆にかかる名誉棄損訴訟の解説があり、その24頁に、本訴状とよく似たウェブ掲載文書に対する名誉棄損訴状のひな形が出ているが、このひな型では、「第5 本件各記述削除の必要性」の項で、ウェブに掲載された記述の削除を事前に求めたが、これに相手が応じないことから裁判を提起したという事情が記載されている。このひな型に記載されているとおり、真に権利回復を求めるのであれば、提訴前に当該論評の取扱いをめぐって相手方と事前交渉(削除要求)するのが常識的である。ましてや、本件の被告は弁護士である。何の事前接触もなく、文字通り「十把一絡げ」に論評差し止めの裁判を提起するのは、あまり褒められたやり方ではない。
4 わが国においても、経済的格差の拡大が社会問題化しているなか、この種訴訟は、数年前からスラップ訴訟として問題となっている。立憲主義の要をなす司法制度が、経済の格差により、一方では利用が困難となり、他方では本来の機能を逸脱する不当な目的で利用され始めているからである。
前述のとおり、本訴訟は、政治的論評に対する名誉棄損事件として、その正当性が問題とされた事件であるが、被告準備書面1の第5で述べているとおり、被告が、その論評の基礎として掲げたものは、原告吉田が雑誌に寄稿した手記や渡辺代議士が記者会見で述べた事実のみであり、2007年9月9日の最高裁判決以降のわが国の最高裁や下級審の各裁判例に照らせば、論評の公共性、公益目的性から、いかに原告らの社会的評価を低下させたとしても、明らかに正当性が認められる言論である。勿論、この被告論評の当否は、国民、一人、一人がその思想・信条に基づいて判断すべきことで、裁判所が証拠調べの結果により黒白をつけられるべき性質のものではない。
5 裁判所が名誉棄損の要件判断で、原告らの請求を棄却するのは容易であろう。しかし、被告として敢えて求めたいのは、裁判所が、本事件をスラップ訴訟防止の橋頭保とすべく、訴権濫用についての十分な審理を遂げ、本件訴訟の実態を踏まえた適切、果敢な判断を早期に下すことである。
以上
(2014年8月20日)
東京「君が代」裁判(4次訴訟)の準備書面を起案中である。今回は、被告の積極主張への反論。その一部を紹介したい。弁護団会議の議論を経ての起案だが、最終稿ではない。
被告(都教委)は「日の丸・君が代」が国旗国歌として法制化されたことを、「日の丸・君が代」強制の根拠の一つに挙げている。そもそも、国旗国歌法は「日の丸・君が代」にどのような法的効果を付与したのだろうか。その問題意識からの論稿の一部である。
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政治学的あるいは社会学的に、あらゆる集団の象徴(シンボル)には、対外的な識別機能と対内的な統合機能とがある。日本国の象徴である国旗国歌にも、国際場裡において日本を特定するための対外的な識別機能と、国内的な国民統合機能とがある。
国旗国歌法は、識別機能にだけ着目して、統合機能を有することを意識的に避けた立法であるというほかはない。
統合機能は、当該の集団が共有する理念と結びついてのものである。著名な例としては、フランスの三色旗(トリコロール)において、その成立の過程はともかく、各色が自由・平等・博愛(友愛)という理念を象徴するものと理解されて、そのような理念における国民統合の機能を担ってきた。
翻って、「日の丸・君が代」の場合はどうであろうか。天皇の御代の永遠を言祝ぐ歌と、天皇の祖先とされる太陽神を形象した旗である。戦前には、天皇制国家の国旗国歌として、みごとな統合的機能を発揮した。旧時代の旧体制に、あまりにふさわしい国旗国歌であっただけに、1945年国家の原理が根源的に転換した以後、日本国憲法をもつ国家にふさわしくないとする見解には、耳を傾けるべき合理性を否定し得ない。「ふさわしくない」とは、「日の丸・君が代」が分かちがたく結びついている統合機能上の理念についてのことである。
かつての、「日の丸・君が代」が有した国民統合機能の理念が現行憲法に照らしてふさわしくないことには疑問の余地がない。それでもなお、「日の丸・君が代」は、過去の国民総体の記憶と切り離して、新しい何らかの理念と結びついて国民統合の機能をもちうるだろうか。被告の立場はこれを肯定するもののごとくである。
しかし、国民の記憶に、「日の丸・君が代」と天皇制や侵略戦争との結びつきは払拭しがたい。その結果、国旗国歌法が「日の丸・君が代」に対して、現行憲法に適合的な新たな理念を象徴するものとして、何らかの統合的機能を付与したと理解することには無理があるというほかはない。
国旗国歌法の提案と審議の過程では、およそ「日の丸・君が代」の統合的機能の内実や理念について語られることはなかった。むしろ、慎重に避けられたといってよい。そのようにして、「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法が成立している。このことは、国旗国歌の対外的識別機能は認められても、対内的な国民統合の機能は認めがたいといわざるを得ない。
したがって、「日の丸・君が代」が国旗国歌として法制化されたことが、国民への「日の丸・君が代」ないしは国旗国歌強制に何らの意味をもつものではないというべきなのである。
以上のとおり、「日の丸・君が代」についての被告の主張も、原告主張への反論も失当という以外にない。
(2014年8月19日)
本日、安倍晋三首相の資金管理団体である晋和会の会計責任者と安倍晋三首相本人の両名を被告発人として、政治資金規正法違反の告発をした。
告発事案は、晋和会の政治資金収支報告書の寄付者の「職業」記載に、16か所の「虚偽記載」があること。「虚偽記載」は、故意だけでなく重過失を含むものと定義されている。会計責任者が刑事責任の対象となった場合、原則として資金管理団体の代表者の監督責任も問われることになる。
監督責任者としての被告発人安倍晋三の刑が確定すれば、公民権停止となる。その場合、公選法99条によって当然に議員としての地位を失う。議員でなくなれば、首相の座も失うことになる。
本日午前11時、醍醐聰さんと私と神原弁護士とで、東京地検に告発状を提出してきた。今後の成り行きを注目したい。
告発状の全文を紹介する。
なお、下記URLを開いてもらえば、同文をクリーンな書式で読むことができる。
http://article9.jp/documents/告発状.pdf
2014年8月18日
告 発 状
東京地方検察庁 御 中
告 発 人 醍 醐 聰
同 湯 山 哲 守
同 斎 藤 貴 男
同 田 島 泰 彦
告発人代理人弁護士 澤 藤 統一郎
同 阪 口 徳 雄
同 神 原 元
同 藤 森 克 美
同 野 上 恭 道
同 山 本 政 明
同 茨 木 茂
同 中 川 素 充
被 告 発 人 ○ ○ ○ 美
同 安 倍 晋 三
告 発 の 趣 旨
被告発人○○○美ならびに同安倍晋三に、それぞれ下記政治資金規正法違反の犯罪行為があるので、この事実を申告するとともに厳正なる処罰を求める。
被疑事実ならびに罰条
1 被告発人○○○美は、2011(平成23)年当時から現在に至るまで政治資金規正法上の政治団体(資金管理団体)である「晋和会」(代表者 安倍晋三、主たる事務所の所在地 東京都千代田区永田町2?2?1 衆議院第一議員会館1212号室)の会計責任者として、同法第12条第1項に基づき同会の各年の政治資金収支報告書を作成して東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣に提出すべき義務を負う者であるところ、2012年5月31日に「同会の2011(平成23)年分収支報告書」について、また2013年5月31日に「同会の2012(平成24)年分収支報告書」について、いずれも「寄附をした者の氏名、住所及び職業」欄の記載に後記「虚偽記載事項一覧」のとおりの各虚偽の記載をして、同虚偽記載のある報告書を東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣宛に提出した。
被告発人○○○美の以上の行為は同法第25条第1項3号に該当し、同条1項によって5年以下の禁錮または100万円以下の罰金を法定刑とする罪に当たる。
2 被告発人安倍晋三は、資金管理団体「晋和会」の代表者として、同会の会計責任者の適正な選任と監督をなすべき注意義務を負う者であるところ、同会の会計責任者である被告発人○○○美の前項の罪の成立に関して、同被告発人の選任及び監督について相当の注意を怠った。
被告発人安倍晋三の以上の行為は、政治資金規正法25条第2項に基づき、50万円以下の罰金を法定刑とする罪に当たる。
3 虚偽記載事項一覧
2011(平成23)年分 (2012年5月31日作成提出)
・寄付者小山好晴について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「NHK職員」あるいは「団体職員」
・寄付者小山麻耶について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者周士甫について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
(以下略)
2012(平成24)年分 (2013年5月31日提出)
・寄付者小山好晴について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「NHK職員」あるいは「団体職員」
・寄付者小山麻耶について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者周士甫について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
(以下略)
4 本件虚偽記載発覚の経緯
本件の発覚は、NHKの職員(チーフプロデューサー)である小山好晴が有力政治家安倍晋三(現首相)の主宰する政治団体(資金管理団体)に政治献金をしていることを問題としたマスメディアの取材に端を発する。
「サンデー毎日」本年7月27日号が、「NHKプロデューサーが安倍首相に違法献金疑惑」との見出しを掲げて報道した。同報道における「NHKプロデューサー」とは小山好晴を指し、「NHK職員による安倍首相への献金の当否」を問題とするものであった。また、同報道は小山好晴の親族(金美齢)の被告発人安倍晋三への献金額が政治資金規正法上の量的制限の限度額を超えるため、事実と認定された場合は脱法行為となる「分散献金」を隠ぺいするために小山好晴からの名義借りがあったのではないかという疑惑を提示し、さらに、政治資金収支報告書上の寄付者小山好晴の「職業」欄の「会社役員」という表示について、これを虚偽記載と疑う立場から検証して問題とするものであった。
小山好晴が「NHK職員」であることは晋和会関係者の知悉するところである。政治資金規正法(12条第1項1号ロ)によって記載を義務付けられている「職業」欄の記載は、当然に「NHK職員」あるいは「団体職員」とすべきところを「会社役員」と記載したことは、被告発人安倍晋三に対するNHK関係者の献金があることをことさらに隠蔽する意図があったものと推察される。
「サンデー毎日」が上記記事の取材に際して小山好晴らに対して「会社役員」との表示は誤謬ではないかと問い質したことがあって、その直後の7月11日晋和会(届出者は被告発人○○)は小山好晴の「職業」欄の記載を、「会社役員」から「会社員」に訂正した。しかし、小山は「会社員」ではなく、訂正後の記載もなお虚偽記載にあたる。
晋和会(届出者は被告発人○○)は、7月11日に寄付者小山麻耶(小山好晴の妻・金美齢の子)についても、「会社役員」から「会社員」に訂正している。この両者について、原記載が虚偽であったことを自認したことになる。
さらに7月18日に至って、晋和会(届出者は被告発人○○)は、自ら、後記「虚偽記載一覧」に記載したその余の虚偽記載についても訂正届出をした。合計16か所に及ぶ虚偽記載があったことになる。
告発人において虚偽記載を認識できるのは寄付者小山好晴についてのみで、その余の虚偽記載はすべて政治資金収支報告書の訂正によって知り得たものである。当然に、訂正に至らない虚偽記載も、訂正自体が虚偽である可能性も否定し得ないが、告発人らは確認の術を持たない。
5 本件各記載を「虚偽記載」と判断する理由
政治資金規正法第12条第1項・第25条第1項の虚偽記載罪の構成要件は、刑法総則の原則(刑法第38条第1項)に従って本来は故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合も含むものとしている。
その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識した場合の記載」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものである。
告発人らは、被告発人○○に、寄付者小山好晴の職業欄記載については、故意があったものと思料するが、構成要件該当性の判断において本件の他の虚偽記載と区別する実益に乏しい。
刑法上の重過失とは、注意義務違反の程度の著しいことを指し、「わずかな注意を払いさえすれば容易に結果回避が可能であった」ことを意味する。本件の場合には、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」ことである。
本件の「虚偽記載」16か所は、すべて被告発人○○において訂正を経た原記載である。小山好晴の職業についての虚偽記載を指摘されて直ちに再調査の結果、極めて容易に誤記であることの認識が可能であったことを意味している。すべてが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」という意味で、注意義務違反の程度が著しいことが明らかである。
以上のとおり、被告発人○○の行為は、指摘の16か所の記載すべてについて、政治資金規正法上の虚偽記載罪の構成要件に該当するものと思料される。
なお、被告発人○○の犯罪成立は、虚偽記載と提出で完成し、その後の訂正が犯罪の成否に関わるものでないことは論ずるまでもない。
6 被告発人安倍晋三の罪責
政治資金規正法第25条第2項の政治団体の責任者の罪は、過失犯(重過失を要せず、軽過失で犯罪が成立する)であるところ、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければならない。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべきは当然だからである。
被告発人安倍において、特別な措置をとったにもかかわらず会計責任者の虚偽記載を防止できなかったという特殊な事情のない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督の刑事責任も生じるものと考えるべきである。
とりわけ、被告発人安倍晋三は、被告発人○○が晋和会の2012(平成24)年分の政治資金収支報告書を提出した約半年前から内閣総理大臣として行政府のトップにあって、行政全般の法令遵守に責任をもつべき立場にある。自らが代表を務める資金管理団体の法令遵守についても厳格な態度を貫くべき責任を負わねばならない。
なお、被告発人安倍晋三が本告発によって起訴されて有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から5年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を失う。その結果、被告発人安倍晋三は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失う。
また、憲法第67条1項が「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」としているところから、衆議院議員としての地位の喪失は、内閣総理大臣の地位を失うことをも意味している。
そのような結果は、法が当然に想定するところである。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受せざるを得ない。本件告発に、特別の政治的な配慮が絡んではならない。臆するところなく、厳正な処罰を求める次第である。
7 本件は決して軽微な罪ではない
政治資金規正法は、政治資金の流れについての透明性を徹底することにより、政治資金の面からの国民の監視と批判を可能として、民主主義的な政治過程の健全性を保持しようとするものである。
法の趣旨・目的や理念から見て、政治資金収支報告書の記載は、国民が政治を把握し監視や批判を行う上において、この上なく貴重な基礎資料である。したがって、その作成が正確になさるべきは、民主政治に死活的に重要といわざるを得ない。それ故に、法は刑罰の制裁をもって、虚偽記載を禁止しているのである。
本件16か所の「虚偽記載」(故意または重過失による不実記載)は、法の理念や趣旨から到底看過し得ない。特に、現首相の政治団体の収支報告は、法に準拠して厳正になされねばならない。
被告発人らの本件行為については、主権者の立場から「政治資金規正法上の手続を軽んじること甚だしい」と叱責せざるを得ない。
告発人らは、我が国の民主政治の充実とさらなる発展を望む理性ある主権者の声を代表して本告発に及ぶ。
捜査機関の適切厳正な対応を期待してやまない。
以上
添 付 資 料
疎明資料(すべて写) 各1通
1 晋和会2011(平成23)年分政治資金収支報告書 訂正以前のもの
2 同上訂正後のもの
3 晋和会2012(平成24)年分政治資金収支報告書 訂正以前のもの
4 同上訂正後のもの
5 「サンデー毎日」2014年7月27日号
委任状 4通
先日、ある集会にお招きいただき、改憲問題についてお話しをしたときのこと。
現行憲法の、「国民の三大義務」が話題になって、大要次のような発言をした。
「三大義務」とは、納税と教育と労働とに関するもの。しかし、近代立憲主義が貫徹している日本国憲法では、正確な意味での「国家に対する国民の憲法上の義務」はありえない。納税の義務を定めている憲法30条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」は、「適正な法律の定めによらなければ課税されない国民の権利」を定めたものと読むべきだろう。憲法27条1項の「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」も、義務よりは雇用機会創出を求める国民の権利規定であろう。
教育に至っては、かつては国家のイデオロギー刷り込みを受容すべき臣民の義務であったが、現行憲法26条は国民の教育を受ける権利を明確化して、権利義務の関係を逆転させた。「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務」は体系的には違和感のある規定。
現行憲法が第3章を「国民の権利及び義務」としたのは、旧憲法第2章「臣民権利義務」に引きずられたからに過ぎない。いまも「三大義務」などというのは、旧憲法時代の「臣民の三大義務」(納税、兵役、教育)の言い回しを踏襲したからなのだろう。旧憲法時代には、憲法上の「三大義務」でよいだろうが、現行憲法体系においては本来的な憲法上の義務を考える必要はない。教える必要も覚える必要もない。」
これに関連して、会場から質問が出た。
「旧憲法には、納税、兵役の両義務については根拠規定があったが、教育の義務についての定めはなかった。にもかかわらず、『臣民の三大義務』と並べられた根拠はどこにあるとお考えですか。」
私が、常識な回答をする。「憲法と同格の教育勅語による義務と考えてよいのではないでしょうか。」「ほかには根拠を知りません。」「1872(明治5)年の学制発布はどうでしょうか。」
さらに、質問者が発言した。「教育勅語自体が、法源として臣民の義務の根拠になるということが理解しにくいのです。また、学制発布は太政官布告として教育制度を定めるものですが、就学の義務を設定するものではないはずです。」
言葉を交わしてみれば、明らかに質問者の方がよくものを知っている。むしろ、こちらが教えてもらいたい。その場では、「お互い調べて見ましょう。わかったことがあれば、当ブログに出しましょう」で終わった。その後この件については、私にはこれ以上の知見の獲得はない。
本日、その質問者から丁寧なメールをいただいた。次のような内容。
「その後出張やら遠出があったためにご報告が大変遅くなりましたことをお詫び申し上げます。Oと申します。
先日、ご質問させていただいた件についてです。
奥平さんの著書にはこうあります。
大日本帝国憲法下のもと、「『臣民の三大義務』なるものが語られていた。このうち兵役・納税の二つは、憲法典にあげられていたが、もうひとつの『教育の義務』は、憲法典はおろか、どんな法律にも、その根拠規定を有していなかった。それは単なる勅令(明治憲法九条にもとづき天皇が発する命令)によって設定されていたものである。」(奥平康弘『憲法?』一九九三年、有斐閣、437頁)
旧憲法下の1886年小学校令第三条では、「児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス」と定められています。
また、1900年(第三次)小学校令に「学齢児童保護者ハ就学ノ始期ヨリ其ノ終期ニ至ル迄学齢児童ヲ就学セシムルノ義務ヲ負フ」とあります。
義務教育制度がどの段階で成立したというかは、正直のところ難しく、1886年とみる説、1900年とみる説がありますが、花井信『製紙女工の教育史』は後者をとっています。
教育勅語(1890年、もちろん「勅語」であり、明治天皇の個人的見解を述べたものにすぎません)において、「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ?器ヲ成就シ…」とあるのが、子どもには勉強をする義務がある(道徳的義務?)ととれなくもありませんが、それでいくと子どもの勉強する義務は「夫婦相和す」のと同等の義務であり、「臣民の三大義務」の一つというには根拠薄弱です。
いずれにせよ、どうして「兵役、納税、教育」が臣民の三大義務と語られるようになったのか。私にはよくわかりません。
お返事がおそくなりましたことを重ねてお詫びします。」
Oさん。丁寧なご教示、ありがとうございます。教育勅語を臣民の教育を受ける義務の根拠とすることへの疑問のご指摘、なるほどと思います。
あらためて、私見を申し上げれば、「臣民の三大義務」は、その内容や根拠が厳密である必要は全くなかったものだと思います。権力の思惑として、臣民の道徳観念支配の小道具として通用すればよいだけの話。これを争う国民が想定されているわけではなく、裁判上の義務概念としての厳密性や、論理的な説得力も不要だったのだろうと思います。その意味では、どんな根拠でもよかったのではないでしょうか。もちろん教育勅語でも、です。
もっとも、誰が、いつ頃から、どのような意図で、どのように「臣民の三大義務」を語り始めたのか、とりわけ、「教育を受ける義務」を言い始めたのか。旧天皇制政府の民衆支配の歴史の問題としては、興味の尽きないところです。
また、何かわかれば、教えてください。
(2014年08月17日)
今ならまだ間に合う。
明日では遅すぎる…かも知れない。
だから、今、声を上げなければならない。
今は、そのような「前夜」ではないか。
「前夜」に続く茶色の朝、
「改憲」が実現する悪夢の日。
歴史の歯車が逆転して、
いつかきた道に迷い込み、
その行きつく先にある、
「取りもどされた日本」。
69年前、
戦争の惨禍というこの上ない代償をもって、
われわれ国民は、主権と人権と、なによりも平和を手に入れた。
それまでの大日本帝国とは断絶した、
新しい原理に拠って立つ新生日本国を誕生させた。
「前夜」とは、
その新生日本国の原理が蹂躙される「恐るべき明日」の前夜。
邪悪な力による逆行した時代到来の前夜。
断絶し封印されたはずの過去が、新たなかたちでよみがえるその日の前夜。
訣別したはずの過去において、
主権は天皇にあった。
天皇は神として神聖であり、
天皇の命令は絶対とされた。
君と国とが主人であり、
この地に生きるものは「臣民」であった。
臣民には、恵深い君から思し召しの権利が与えられ、
臣民はそのかたじけなさに随喜した。
国が目指すは富国強兵。
強兵こそが富国の手段で、
富国こそがさらなる強兵を可能とする。
「自存自衛」、「帝国の生命線防衛」の名の下、
侵略戦争と植民地の拡大が国策とされた。
そのための国民皆兵が当然とされた。
学校と軍隊が、国家主義・軍国主義を臣民に叩き込んだ。
国定教科書が、統治の対象としての臣民に、服従の道徳を説いた。
排外主義と近隣諸国民にたいする優越意識が涵養された。
男女平等はなく、家の制度が国家的秩序のモデルとされた。
このような理不尽な国家を支えた法体系の一端は、
大日本帝国憲法
刑法(大逆罪・不敬罪・姦通罪)
陸軍刑法
海軍刑法
徴兵令
讒謗律1875(明治8)年
集会条例1880(明治13)年
新聞紙条例1875(明治8)年
保安条例1887 (明治20年)
集会及政社法1890(明治23)年
出版法1893(明治26)年
軍機保護法1899(明治32)年
治安警察法1900(明治33)年
行政執行法1900(明治33)年
新聞紙法1909(明治42)年
治安維持法1925(大正14)年
暴力行為等処罰法1926(大正15)年
治安維持法改正1928(昭和3)年
軍機保護法全面改正1937(昭和12)年
国家総動員法1938(昭和13)年
軍用資源秘密保護法1939(昭和14年)
国家総動員法改正1941(昭和16)年
国防保安法1941(昭和16)年
治安維持法改正1941(昭和16)年
言論、出版、集会、結社等臨時取締法1941(昭和16)年
戦時刑事特別法1941(昭和16)年
議会制の終焉を告げる大政翼賛会の結成は
1940年(昭和15年)10月。
その後1年余で、太平洋戦争が勃発した。
今、歴史の歯車の逆回転を意識せずにはおられない。
日本国憲法が払拭したはずの旧体制の残滓が復活しつつあるのではないか。
自民党は、憲法改正草案を公表した(2012年4月)。
この草案自体が既に悪夢だ。
立憲主義を崩壊させ、日本を天皇をいただく国にし、
堂々の国防軍をつくろうという。
そして、「表現の自由」圧殺を公言するもの。
特定秘密保護法とは、
「国民には国家が許容する情報だけを知らせておけば足りる」
という思想をかたちにしたもの。
国民が最も知らねばならないことを、知ってはならないと阻むもの。
国民の知る権利の蹂躙は、民主々義の根幹を破壊すること。
そして、議会制民主々義を形だけのものとすること。
衆参両院の議員は、この悪法の成立に手を貸したのだ。
さらに、だ。
2014年7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定。
憲法の平和主義は後退を余儀なくされてはいるが、
専守防衛の一線で踏みとどまっている。
今、自衛隊が外国で闘うことはできない。
これを突破しようというのが、集団的自衛権行使容認。
防衛大綱は見直され、海兵隊能力が新設される。敵基地攻撃能力にまで言及されている。「軍国日本を取り戻す」まで、あと一歩ではないか。
法律だけでは、戦争はできない。
他国民への憎悪をかきたてなければならない。
それには、教育とメデイアの統制が不可欠なのだ。
大学の自治も教育の自由も邪魔だ。
権力の煽動に従順な国民が必要で、権威主義の蔓延こそ権力の望むところ。
排外主義を撒き散らすヘイトスピーチ大歓迎なのだ。
「憲法を守ろう」という声には、
「政治的」というレッテルを貼って萎縮させることも。
着々と、再びの悪夢の準備が進行しつつある。
いまこそ、あらゆるところで、声を上げよう。
その「恐ろしい明日」を拒絶するために、
今なら間に合う。声を上げられる。
明日では手遅れ、になりかねないのだから。
(2014年8月16日)