民主主義とは、民意を実現する政治のこと。その「民意」というものを考えたい。民意に基づく政治の大切さだけをいうのであれば、2500年も前から明らかにされている。よく知られている論語顔淵編の次の一節。
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。
私なりに訳せば、以下のとおり。
子貢が孔子に政治の要諦を尋ねた。
「経済を充実させ、軍備を怠らず、民意の支持を得ることだね」
「その三つとも全部はできないとすれば、まずどれを犠牲にしますか」
「そりゃ、軍備だね」
「残りの二つも両立は無理だとすれば、どちらを犠牲にすべきでしょうか」
「経済だよ。民生の疲弊はやむを得ないが、民衆の信頼がなければそもそも国家が成り立たないのだから」
孔子の時代の「民の信」とは、民衆の意思では取り替えることのできない為政者への包括的な信頼ということでしかない。民主主義社会では、具体的な民意を政治に反映することが必要だ。それができない為政者は、遠慮なく取り替えられなければならない。
はたして安倍政権の政策は、そのような意味で民意を反映し、民意の支持を得ているだろうか。むしろ、遠慮なく取り替えられるべき事態を迎えているのではないか。少なくもその兆しが見える。いくつかの世論調査の結果が、その証しである。
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本日の「朝日」朝刊に集団的自衛権に関する世論調査の結果が掲載されている。その大要は以下のとおり。
☆集団的自衛権について
「行使できるようにする」 29%
「行使できない立場を維持する」 63%
★「集団的自衛権を行使できるようにする」賛成者(29%)の中で、
そのためには
「憲法を変える」 56%
「解釈を変更する」 40%
その場合近隣諸国の理解が
「必要」 49%
「必要ない」 46%
☆今の憲法を
「変える必要がある」 44%
「変える必要はない」 50%
☆憲法9条を
「変える方がよい」 29%
「変えない方がよい」 64%
☆自衛隊を国防軍にすることに
「賛成」 25%
「反対」 68%
☆非核3原則を
「見直すべきだ」 13%
「維持すべきだ」 82%
☆武器輸出の拡大に
「賛成」 17%
「反対」 77%
朝日自身の解説を抜粋して紹介する。
集団的自衛権について「行使できない立場を維持する」が昨年の調査の56%から63%に増え、「行使できるようにする」の29%を大きく上回った。憲法9条を「変えない方がよい」も増えるなど、平和志向がのきなみ高まっている。安倍内閣支持層や自民支持層でも「行使できない立場を維持する」が5割強で多数を占めている。
安倍晋三首相は政府による憲法解釈の変更で行使容認に踏み切ろうとしているが、行使容認層でも「憲法を変えなければならない」の56%が「政府の解釈を変更するだけでよい」の40%より多かった。首相に同意する人は回答者全体で12%しかいないことになる。
一方、国内では憲法9条を「変えない方がよい」も昨年の52%から64%に増え、「変える方がよい」29%との差を広げた。武器輸出の拡大に反対が71%→77%、非核三原則を「維持すべきだ」も77%→82%。自衛隊の国防軍化に反対も62%→68%と増えた。有権者が1年足らずの間に軍事力強化に対する不安を強めている様子がうかがえる。
改憲の是非についても、今の憲法を「変える必要はない」の50%が「変える必要がある」の44%を上回った。朝日新聞社の調査で改憲反対が多数を占めるのは1986年の調査までで、次に改憲是非を聞いた97年以降は賛成が多かった。
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テレビ朝日「報道ステーション」が、3月29・30日実施した調査結果は以下のとおり。
☆集団的自衛権
日本は、憲法第9条で、他国から直接攻撃を受けた場合のみ、武力行使することができるとされています。あなたは、これを変えて、日本と密接な関係にある国が攻撃を受けて、協力を求められた場合も、集団的自衛権を使って、自衛隊を海外に派兵して武力行使できるようにする必要があると思いますか、思いませんか?
「思う」 35%
「思わない」 45%
「わからない、答えない」 20%
☆解釈改憲
安倍総理は、憲法を改正しないで、第9条の解釈を変えることで、海外での武力行使ができるようしようとしています。あなたは、憲法を改正せずに、解釈でできるようにすることを、支持しますか、支持しませんか?
「支持する」 22%
「支持しない」 56%
「わからない、答えない」 22%
☆閣議決定
安倍総理は、憲法第9条の解釈を、内閣として決めることで、変えることができると主張しています。野党は、まずは国会での議論が必要だと主張しています。あなたは、内閣が決める前に、国会で議論することが必要だと思いますか、思いませんか?
「思う」 84%
「思わない」 7%
「わからない、答えない」 9%
☆武器輸出
安倍内閣は、国際環境の変化に対応するためなどとして、日本製の武器関連製品の外国への輸出を厳しく制限してきた、これまでの武器輸出三原則に代わって、新たな取り決めを検討しています。検討されている新たな取り決めでは、これまでの原則、輸出禁止に代えて、内閣が、日本の安全保障に役立つかどうかなどの政治判断を重視して、武器関連製品を、輸出するかどうかを決めることとしています。あなたは、この新たな取り決めを、支持しますか、支持しませんか?
「支持する」 24%
「支持しない」 47%
「わからない、答えない」 29%
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また、4月1日付産経は、自社が行った世論調査の報道に、「憲法改正の賛否が逆転 反対47%が賛成38%を上回る」と見出しを付けている。記事の大要は以下のとおり。
産経新聞社とFNNの合同世論調査で、憲法改正の反対派(47・0%)が昨年4月以降初めて賛成派(38・8%)を上回った。
安倍晋三首相が改正に積極的な発言をしていた昨年4月は「賛成」(61・3%)が「反対」(26・4%)を引き離していたが、改正に慎重な公明党への配慮から発言を控えるようになると、賛成派は徐々に減少。今年1月には「賛成」(44・3%)と「反対」(42・2%)が拮抗していた。
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朝日が解説するとおり、民意は確実に平和指向・憲法擁護の方向にある。
産経の結果を再確認すれば、以下のとおり昨年4月から今年1月、そして今回の3月調査へと劇的な変化である。
憲法改正反対 26.4%⇒42.2%⇒47・0%
憲法改正賛成 61.3%⇒44.3%⇒38・8%
民意は、安倍の「積極的平和主義」の暴走に大きな不安を感じて、「安倍ノー」を突きつけつつある。靖国参拝、消費増税、原発再稼動、原発輸出、非正規恒久化、さらにNHK人事、TPPである。それでもまだ安倍内閣の支持率が比較的高いのは、アベノミクス幻影という皮一枚の効果に過ぎない。
「民無信不立」は、「民に信ぜられることなくば立たず」と読みたい。政権も、政党も、政治家も、民意を獲得し民意の支持なくてはやっていけないのだ。猪瀬直樹や渡辺喜美が好例である。そして、各世論調査の結果は、安倍晋三もこれに続きそうな予兆なのだ。
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。
下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年4月7日)
産経に「中高生のための国民の憲法講座」という連載コラムがある。昨日(4月5日)その第40講として「首相の靖国参拝と国家儀礼」と標題する百地章さんの論稿が掲載されている。
この方、学界で重きをなす存在ではないが、右翼の論調を「憲法学風に」解説する貴重な存在として右派メディアに重宝がられている。なにしろ、「本紙『正論』欄に『首相は英霊の加護信じて参拝を』と執筆した」と自らおっしゃる、歴とした靖国派で、神がかりの公式参拝推進論者。その論調のイデオロギー性はともかく、学説や判例の解説における不正確は指摘されねばならない。とりわけ、中学生や高校生に、間違えた知識を刷り込んではならない。
同論稿は、「首相の靖国参拝について考えてみましょう」から始まる。論旨は、首相の靖国参拝は「政教分離以前の国家儀礼」であって、どこの国でも行われている。政府の公式見解もこれを合憲とし、最高裁も違憲判断をしていない。目的効果基準を適用すれば合憲と見るべきだが、論争の対象となることは好ましくないので、一日も早く憲法を改正すべきだ、というもの。日本国憲法下での公式参拝合憲論を説きつつも、最終的には改憲という苦しい結論となっている。
この論稿を真面目に読もうとした中学生や高校生は、戸惑うに違いない。百地さんは、靖国公式参拝容認という自説の結論を述べるに急で、政教分離の本旨について語るところがないのだ。なぜ、日本国憲法に政教分離規定があるのか、なぜ公式参拝が論争の対象になっているのか、についてすら言及がない。通説的な見解や、自説への反対論については一顧だにされていない。このような、「中高生のための解説」は恐い。教科書問題とよく似た「刷り込み」構造ではないか。
いくつか、指摘しておきたい。
第1点。百地さんは、「憲法解釈について最終的判断を行うのは最高裁判所です(憲法81条)。しかし、首相の靖国神社参拝について、最高裁が直接、合憲性を判断した判決はありません。」という。これは、明らかな誤りとの指摘を慎重に避けつつ意図的な誤解を誘う、不正確な記述である。百地論稿では、あたかも司法は首相の公式参拝問題にまったくなにも言っていないごとくであるが、決してそうではない。すくなくない公式参拝問題についての裁判例はあり、類似事件については最高裁大法廷判決もある。司法は、明らかに違憲論に与している。
「すべて司法権は、最高裁判所および法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する(憲法76条1項)」とされ、最高裁判例のない分野では下級裁判所(高裁・地裁)の判決が尊重されなければならない。高裁レベルでは内閣総理大臣の公的資格による靖国神社参拝は違憲と述べた判決は以下のとおり、複数存在する。
これまでの靖国参拝違憲訴訟には、住民訴訟と違憲国賠訴訟の2類型がある。
前者が「岩手靖国参拝違憲訴訟」であり、後者が「中曽根参拝違憲訴訟」(3件)と「小泉参拝違憲訴訟」(7件)である。そして今、各地で「安倍参拝違憲訴訟」の提起が準備中である。
住民訴訟は客観訴訟として原告の権利侵害の有無にかかわらず、自治体の財務に関わる違憲違法を争うことができる。これに対して、国家賠償訴訟を提起するには、首相の参拝行為の違法と過失だけでなく、原告となる者の権利または法律上保護される利益侵害の存在が必要とされる。憲法判断ではなく、この点がネックとなっている。
岩手靖国違憲訴訟仙台高裁判決(1991年1月10日)は、憲法判断到達にさしたる困難なく、その「理由」において、最高裁判例とされる目的効果基準に拠りながら、首相と天皇の靖国公式参拝を違憲と明確に判断した。今のところ、この判決が靖国参拝に関する憲法判断のリーディングケースと言ってよい。また、国家賠償訴訟では憲法判断に到達することに苦労しながらも、中曽根公式参拝関西違憲訴訟 大阪高裁判決(1992年7月30日)などでは、これも「理由」中の「違憲の強い疑いがある」との判断を得ている。
第2点。靖国公式参拝問題での最高裁の判断はまだないが、近似の事件として靖国神社への公費による玉串料奉納を違憲とした愛媛玉串料訴訟大法廷判決(1997年4月)がある。違憲判断に与した多数意見が13名。合憲とした少数意見はわずかに2名だった。その少数意見組の一人が、現在日本会議会長の任にある三好達である。
同事件でも被告側(愛媛県知事)は、「靖国神社や護国神社への玉串料などの奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様の世俗的な社会儀礼に過ぎない」と弁明した。しかし、最高裁は次のようにこれを斥けた。
「玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において、宗教上の儀式が執り行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。」
注目すべきは次の一節である。
「本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。」
ここには目的効果論における「目的」の捉え方の指針が示されている。国や自治体が行う行為に複数目的があった場合、世俗的な儀礼の目的のあることをもって、宗教的意義を否定することはできない、としているのである。このことは、玉串料奉納にだけあてはまるものではない。公式参拝には、より強く妥当すると言えよう。
「安倍首相の公的資格における靖国神社参拝は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた国家的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。」との最高裁判決が予想されるところなのである。
第3点。百地さんは「昭和60年(1985年)8月に中曽根康弘内閣が示した「首相の靖国神社公式参拝は合憲」とする公式見解があります」という。これは、公式参拝合憲化を狙って、「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)をつくり、その「報告書」に基づいての見解である。愛媛玉串料訴訟の最高裁大法廷判決以前のものであり、岩手靖国参拝違憲訴訟高裁判決もなかったときのもの。こんなに古いものを持ち出さざるを得ないのだ。
靖国懇は、最初から結論の見えていた懇談会であることにおいて、安保法制懇と同様のもの。その靖国懇の報告とて、単純に公式参拝合憲の結論を出したわけではない。最終報告書の中に、次のような文章もある。
「靖国神社がたとえ戦前の一時期にせよ、軍国主義の立場から利用されていたことは事実であるし、また、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、時としてそれに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられたことも事実であるので、政府は、公式参拝の実施に際しては、いささかもそのような不安を招くことのないよう、将来にわたって十分配慮すべきであることは当然である。」
「靖国神社への参拝という行為は、宗教とのかかわり合いを持つ行為である。したがって、政府は、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社参拝に当たっては、憲法第20条第2項(信教の自由)との関係に留意し、制度化によって参拝を義務づける等、信教の自由を侵すことのないよう配慮すべきである」
「討議の過程において、靖国神社公式参拝の実施は過度の政治的対立を招き、あるいは、国際的にも非難を受けかねないとの意見があった。政府は、この点についても、そのような対立の解消、非難の回避に十分努めるべきであろう。」
第4点。百地さんは、首相の靖国参拝を国際儀礼として、「国際社会では、互いに自国のために戦った戦没者の勇気を称え敬意を表する。これはたとえ旧敵国同士であっても同じ」としている。あたかも、靖国神社は、国際的にどこにでもある普遍的な戦争犠牲者追悼施設と描いている。とんでもない。
靖国神社は墓地ではない。戦争犠牲者への追悼の施設でもなく、極めて特異な軍事的宗教施設なのだ。天皇への忠誠を尽くしての死者を英霊として「敬意の対象」とし、顕彰することを本質とする。そのために、戦没者を祭神として祀る宗教施設である。歴史観、戦争観、天皇観において、宗教法人靖国神社は、かつての別格官幣社の立場をまったく変えていない。到底、どこの国にもある施設ではない。外国元首に参拝を要請することなどできる場所ではないのだ。
第5点。中学生、高校生には、なによりも戦争の惨禍を学んでもらわねばならない。日本の軍国主義が、日本国民と近隣諸国に、いかに多大な犠牲を強いたかを。その軍国主義の精神的な主柱として靖国神社の存在があったことを。国民の精神的な支配の道具として、神権天皇制や国家神道があったことを。その徹底した反省から、日本国憲法が制定され、国家神道を厳格に排除するために政教分離の原則が明記されたことを。
そして、戦後レジームからの脱却を呼号する安倍政権の靖国公式参拝の実行は、歴史の歯車を逆回転させようとするものであることを。それ故に、近隣諸国や西側諸国からさえも、反発を買っているものであることを。
産経と百地先生に教えられた生徒は、日本国憲法の精神を理解できぬまま成長し、世界に孤立することにならざるを得ない。
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冬のあいだのできごと
小石川植物園の小道にハトの羽が散乱している。近くにいたアマチュアカメラマンの言によると、オオタカが襲ったのだ(オオタカは今では明治神宮や皇居でも営巣が見られるといわれている)。日本庭園の池に真っ白なサギが置物のように立っていて、見ているとサッと首を伸ばして魚を咥えている。東京の「冬のできごと」はこれくらいなもの。
ところが、ニコライ・スラトコフによるとロシアの「冬のあいだのできごと」は次のように繰りひろげられる。
「冬のあいだに森のなかでおきたことは、すべて雪がおおいかくした。いいことも、わるいこともぜんぶ、雪だまりのなかにかくされてしまった。・・しかし、春になって、あともどりするときがやってきた。早春のあたたかい陽気は、まず四月にふった新しい雪をとかした。それから順番にとかしていった。三月の雪、二月の雪、一月の雪、一二月の雪・・。そこで、冬のあいだのできごとが、ぜんぶ表面にあらわれた。つみかさなっていたもの、かくされていたものが、すべてすがたをあらわしたのだ。・・ほら、これは冬のおわりにタカがひきさいたカラスの羽。これは雪の下にあったエゾライチョウとクロライチョウのねぐらの穴のあとだ。このなかでライチョウたちは、とてもさびしい冬をすごした。
ここには、モグラの雪のトンネルがあった。なんと、モグラは雪の中で虫をさがしていたんだ!まつぼっくりは、イスカがおとしたり、リスがかじったもの。ヤナギの小枝はウサギがかみきったものだ。これは、オコジョがしめころして、うちすてたトガリネズミだ。そして、これはモモンガのしっぽ。テンの食べ残しだ。
まるで、読み終えた本のおわりのページからはんたいにめくりながら、さし絵を見ているようだ。風と太陽が、白い本のページを最後までめくっていく。まもなく表紙、つまり地面があらわれる。・・足もとの大地、それは、すぎさった日のできごとがつみかさなってできている。」(ニコライ・スラトコフ著「北の森の十二か月」福音館書店)
ニコライ・スラトコフ(1920?1996)はソ連時代のナチュラリストで動物文学者。ペテルブルグの南東にあるノブゴロドの森で自然観察し、数多くの著作を発表した。ロシアの自然は今でもこうした営みを繰り返しているのだろうか。
東京の空にオオタカがもどってきた。喜ぶべきことだろうか。ノブゴロドの森とちがって、餌食になったハトの羽はアスファルトに阻まれて、大地に積み重なっていくことはない。東京はコンクリートとアスファルトの建設をやめるつもりはない。オリンピックは、ようやく作りあげた葛西臨海公園の森さえつぶそうとしている。
オオタカは、スズメやハトやカラスのように都会で人間と共生していくのか。それとも里山に出没し始めたイノシシやシカやサルと力を合わせて、東京を武蔵野の森に変えようとしているのだろうか。
(2014年4月6日)
3月31日自民党「安全保障法制整備推進本部」第1回会合。集団的自衛権行使容認論への反発を宥和するための落としどころとして、高村正彦副総裁が「限定的な集団的自衛権行使容認論」を提案した。
さっそく、昨日(4月4日)の読売社説が賛成論を述べている。「集団的自衛権限定容認論で合意形成を図れ」というタイトル。産経の社説はまだないが、4月3日の「正論」欄に、百地章の「集団自衛権の『日本的定義』正せ」という意見が掲載されている。高村提案には直接触れていないものの、読売社説と同旨である。安倍政権は、保守勢力の支援をえて、この線での閣議決定による「解釈改憲強行突破」路線を歩もうとしている。
本日の東京新聞社説が、これに真っ向から異議を唱えている。タイトルは「集団的自衛権 『限定容認』という詭弁」。手厳しい批判となっている。
ほかに目についたのは、北海道新聞(4月3日)。「集団的自衛権 限定容認論は通らない」
「憲法が許容する必要最小限度の自衛権の範囲に、一部の集団的自衛権行使も含まれると憲法解釈を改めるのが柱だ。」「憲法解釈変更の突破口だけ開いておけば、後はいくらでも拡大解釈できると考えているのだとすれば、憲法軽視もはなはだしい。」
河北新報(4月5日)。「集団的自衛権/限定容認、歯止めにならず」
「集団的自衛権行使を容認する憲法解釈の見直しに向け、まずはハードルを低めにして、風穴を開けることを優先するということなのだろう。」
琉球新報(4月5日)。「集団的自衛権 『限定』で本質隠すな」
「歴代内閣が積み重ねた解釈を国民的議論も尽くさず、憲法改正の手続きも経ずして変える暴挙は許されない。『限定』といった言葉で議論の本質を隠してはならない。」
おそらくは、96条先行改憲論への賛否で見られた、「読売・産経の政権擁護論」対「地方紙の良識」の対抗パターンが、再度繰り返されることになるのだろう。あのとき、国内世論の大勢を決めたのは圧倒的多数となった地方紙の論調だった。
両論の代表として、「読売」と「東京」の論理を対比させてみよう。
☆高村提案に対する総括的評価
読売:現行の憲法解釈と一定の論理的整合性を保ちつつ、安全保障環境の悪化に的確に対応する。そのための、説得力を持つ理論と評価できる。
東京:限定的なら認められる、というのは詭弁ではないのか。政府の憲法解釈は長年の議論の積み重ねだ。一内閣の意向で勝手に変更することは許されない。
☆高村提案の位置づけ
読売:幅広い与野党の合意を形成し、国民の理解を広げて、新解釈の安定性を確保するには、バランスの取れた現実的な手法と言える。
東京:違憲としてきた集団的自衛権の行使を、一内閣の判断で合憲とすることには公明党や自民党の一部に根強い慎重論がある。限定容認論は説き伏せる便法として出てきたのだろう。
☆これまでの政府解釈との整合性
読売:自衛権は必要最小限の範囲内にとどめるとの現行解釈を継承しながら、一部の集団的自衛権の行使はこの範囲内に含まれる、とする抑制的な解釈変更となる。
東京:たとえ限定的だったとしても、政府の憲法解釈を根本的に変えることにほかならない。このやり方がいったん認められれば、憲法の条文や立法趣旨に関係なく、政府の勝手な解釈で何でもできる。憲法が空文化し、権力が憲法を順守する「立憲主義」は形骸化する。
☆砂川判決を論拠とすることへの評価
読売:「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置はとりうる」との砂川事件に関する1959年の最高裁判決を根拠としている。(それ以上の肯定論の言及はない)
東京:いかにも無理がある。個別的自衛権を有するかどうかが議論されていた時代の判決を、集団的自衛権の行使の一部を認める根拠にするのは「論理の飛躍」(公明党幹部)にほかならない。
☆あるべき今後の議論の方向
読売:今後、議論すべきは、行使を限定的に容認する範囲や条件だ。抽象論でなく、具体的な事例に即した論議が求められる。
東京:限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。立憲主義の危機にあることを、すべての国会議員が自覚すべきである。
読売の論理の出発点は、「集団的自衛権は憲法上行使できないとの現行解釈は誤りであり、全面的に行使を容認すべきだという主張も根強い。理論的にも、十分成り立とう。」という極端なところにある。これを前提とした議論なのだから、通説的な理解とはほど遠い。読売や産経とはなかなか、意味のある意見交換自体が難しい。
一方、東京は「集団的自衛権をめぐる議論の本質は、日本が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国のために武力行使することが妥当か、長年の議論に耐えてきた政府の憲法解釈を、一内閣の意向で変えていいのか、という点にある。」と争点を押さえている。
両社説を読み比べて浮かびあがってくる論争の現実的な焦点は、「限定された容認」が武力行使への歯止めとしての有効であるか否かである。東京は、「限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。」とし、読売は「限定容認論によって、集団的自衛権行使の歯止めや条件を明確化することが有効である」という。
この論争における勝敗は自ずと明らかである。集団的自衛権行使否定論は、それなりの明確性をもった議論になっているが、「限定容認論」の外延の不明確さは覆うべくもない。そもそも「限定容認論」は、全面容認論では国民の納得を得られないとして出てきた苦肉の策ではないか。その出自自体が「限定」の不明確、伸縮自在をものがたっている。読売が、「今後、議論すべきは、行使を限定的に容認する範囲や条件だ。抽象論でなく、具体的な事例に即した論議が求められる。」というのは、不明確を自認していることにほかならない。「具体的な事例に即して、個別に判断」せざるを得ないのは、基準が不明確だからなのだ。しかも、その判断の主体は時の政権でよいというのでは、憲法論になっていない。
読売社説では、つまりは高村提案では、憲法の平和主義がないがしろにされざるを得ない。「限定容認論」とは、どこまで限定するかについての程度について、原則をもたない「限定の程度を無限定とする容認論」にほかならないのだから。
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春の妖精たちの一番美しいとき
ハッカクレンの開きかけのたぐまった傘のような芽が土の中から出てきた。昨年は伸びきる前に虫に囓られ、ある日クシャリと折れていた。それなのに強いものだ、今年も芽吹いた。
ニリンソウの白い小梅のような花が咲いている。一輪伸びた花の下の托葉の上に豆粒のような蕾が控えて、行儀よく咲く順番を待っている。
雪割草の花は終わって、その横で薄紫色のショウジョウバカマの花が首を伸ばしている。
ハナイカダは折りたたんだ葉をやっと開いたばかりなのに、よくみると、そのうえに芥子粒のような蕾を付けている。たいした花じゃなくても、葉っぱの上にくっついた花を咲かせるだけでじゅうぶん珍重される。
ヤマユリも何本か芽を出した。昨年花をつけすぎて、疲れたんだろうか。今年はとうてい花を咲かせられないような一枚葉もたくさんある。それでもいい。2年や3年はお待ちしましょう。
ルイヨウボタンもクリーム色の芥子粒のような蕾を先端に付けて、スックリと立ち上がった。たいそう地味な花だけれど、その渋いところが気に入っている。
おや、花びらがとれて蘂だけになったサクラが集まって落ちていると思ったら、ヒトリシズカの花芽だ。黒褐色の葉っぱの上に白い木綿糸を束ねたような花穂が出ている。
これらはみんな小さな者たち。かがんでよく見ておかないと、春の妖精たちの一番素晴らしい時を見逃してしまう。
腰を伸ばして、上を見ると、3日前に盛りを迎えていたソメイヨシノは、雨と風に吹かれて無残な姿になってしまった。半月前に春の先駆けですとばかりにキリリと咲いていたキブシの花もあっという間にほうけて、葉っぱがぐんぐん出てきている。大きい者たちの美しいときも一瞬だ。
そのキブシの可愛らしさについて、宇都宮貞子さんは次のように書いている。「この莟の穂は前年の9月というともうちゃんと出来ていて、細いのが3,4センチ丈にチョロリと垂れ、何かの虫の尻尾のようだ。・・その白い粒のついた撚り糸みたいな穂を中社のおばあさんに見せると、『マメンブチ(キブシ)がへえもう来年の花をだんどってる(用意している)』といった」「長野辺の里山では、キブシは大体4月中旬に盛りとなる。時により、場所により、この花穂の下がった景色を枯れ枝に雫を綴っていると感じたこともあるし、冬ざれ山で淋しいものだから、ブラリ簪を沢山さしておしゃれしているな、と思ったこともある。木々の芽は外套を脱ぎ始めてはいるが、まだ裸木にしかみえないのだ。少しでも青いのは低い連中で、マユミやミヤマイボタ、ノバラの幼い葉ぐらいなのである。キブシのすだれの奥から、ツツピン・ツツピンとシジュウカラの愛らしい早口歌が降ってくる」(「春の草木」新潮文庫)
(2014年4月5日)
春は、卒業式と入学式の季節。それぞれの人生の節目と再出発の、キラキラ光る美しい時。ところが、東京の公立校では、「日の丸」と「君が代」の強制の季節。そして処分の季節だ。少しも美しくない。今年も4人に懲戒処分が発せられた。これで、「日の丸・君が代」強制に服さないことを理由とする処分は461件となった。
懲戒処分を受けた者には、服務事故再発防止研修の受講が命じられる。本日、水道橋の東京都教職員研修センターで、その再発防止研修が強行された。私たちは、これに抗議して、センターの門前に集まって抗議と要請を行い受講者を激励する。
早朝8時半、マイクを握って研修の責任者に申し入れを行う。
「行政機関としての都教委と研修センターに、抗議と要請を申しあげたい。また、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様にもお願いしたいことがある。聞いていただきたい。
本日、服務事故の再発を防止するための研修が予定されているが、いずれの受講者も服務事故を起こしたとの認識はない。もとより、反省とは無縁である。再発防止のためとする研修は、体罰やハラスメントの不祥事を起こした職員には必要であろうが、自らの思想・良心に忠実な行動をした本日の受講者には、まったく無意味で、本来研修は無用である。むしろ、本日の研修受講予定者は、教員としての職業的倫理観と責任感の高い尊敬に値する教育者である。模範に値すると言っても決して過言ではない。
この人たち対して、再発防止研修に名を借りた恫喝は思想良心の自由に対する直接の侵害である。また、その誤りを糺そうと説得を試みることは、行政による思想転向の強要にほかならない。いずれも憲法19条に違反する。また、子どもたちの教育を受ける権利の侵害にもなる。
行政機関は憲法を遵守しなければならない。その憲法は、思想良心の自由を保障している。思想良心の自由の保障は、国民に対してどんな行動も自由だとしているわけではない。しかし、こと国民が国家をどのように位置づけるかについては、絶対の自由が保障されなければならない。国旗国歌への敬意表明の強制は、国家主義否定の思想を侵害することではないか。各個人の歴史認識によって、日の丸・君が代が象徴している大日本帝国の時代を受け容れがたいとする思想を否定してはならない。
戦争の惨禍から新たな国をつくろうとした日本国民は、戦前の国家主義を清算することを新たな国家の礎として憲法を制定した。国家は誤りを犯す、ということが最大の教訓ではなかったか。国家は、特定の価値観をもってはならない。とりわけ、教育の場で、国家に都合のよいイデオロギーを子どもたちに押し付けてはならない。それが憲法の命じる大原則である。
10・23通達と、通達に基づく職務命令、そして職務命令違反を理由とする懲戒処分は、思想良心の侵害であり、子どもたちの教育を受ける権利の侵害でもある。それだけではない。再発防止研修という名の嫌がらせも、思想良心の侵害なのだ。
これまで、あなた方研修センターは、教職員に対する思想良心侵害実施実務の脇役だった。なによりも、懲戒処分の累進加重制度が圧倒的な重みをもつ弾圧手段だった。再雇用拒否も過酷な制裁だった。ところが、行政には甘いことで知られている最高裁も、さすがに累進加重制度を転向強要システムと認めて、これは違法とした。つまり、懲戒処分の制裁効果は最高裁によって縮減された。代わって、服務事故再発防止研修が、「怪しからん教員への嫌がらせ手段」として主役の座に躍り出た。
いま、あなた方の一挙手一投足が注目の的となっている。今日の研修におけるあなた方のやり方が歴史の審判を受けることになる。
400年前のキリシタンに対する踏み絵は、九州の天領や各藩で大規模に行われた。その実施には大勢の役人が動員されている。今、あなた方は、キリシタン弾圧の役人と同じことをやっている。
戦前の憲兵や特高警察は、多くの弾圧立法に基づいて、国家に反逆する者、天皇に逆らう者、私有財産制度を否定する者を徹底的に取り締まった。今、あなた方は、特高や憲兵と本質において変わらないことをやっている。
キリシタン弾圧の役人も憲兵や特高も、残虐非道な極悪人だったわけではない。その時代の常識人として、その時代の常識に基づいて忠実に任務を実行していただけなのだ。いや、使命感に燃えて国家社会のために働いていたとも考えられる。今、あなた方も同じ立ち場にある。任務だからという言い訳は、歴史の審判に耐えられない。
とは言っても、あなた方が、命じられた本日の研修実施任務を放棄することは難しいだろう。だから、申し上げたい。せめて、本日の研修受講者に敬意をもって接していただきたい。あなた方は、自身の行為には忸怩たる思いを抱かねばならない。そして、処分の不利益を覚悟で、自らの思想良心を貫いた教員には、敬意の念を持っていただきたい。それが、せめてもの罪滅ぼしだと認識していただきたい。
私の要請はそのことに尽きる。」
実際は以上のように整然とはしゃべれなかった。時間の制約もあった。早朝、頭も口も滑らかには回らない。言いたかったことを整理して文章にしてみれば、以上のとおり。
(2014年4月4日)
将を射んとすればまず馬を射よ、という。泥棒を縛るには、あらかじめ縄を綯う。城を落とすには掘りを埋めなければならない。だから、馬が射られるまでは将は討たれない。縄が綯いあがらぬうちは泥棒も安泰だ。掘りの深いうちは、城は落ちない。
憲法を変えるには、その手続を定める国民投票法の整備が必要だ。国民投票法が整備されないうちは憲法改正手続は動き出せない。この整備が完成すると、掘りが埋められて城は裸になる。もちろん、掘りが埋められることが即落城を意味するものではないが、城攻めの重要な手立てが整ったことを意味する。国民投票法の整備は、憲法改正への重要な地均しであり、一里塚である。
その国民投票法は2007年5月に既に成立している。正式名称を「日本国憲法の改正手続に関する法律」という。憲法改正に必要な手続きである国民投票に関して規定するので、一般に「国民投票法」と略称される。「改憲手続法」といった方が、実態をよく表していると思うのだが。
国民投票法が成立したのは第1次安倍内閣当時のこと。一応の成立はしたものの、下記の「3つの宿題」が積み残しとされた。与野党の議論が折り合わなかった問題を付則に記載されたもの。与野党の摺り合わせと折り合いがなければ、憲法改正案の国会発議はできないのだから、必然的に幅の広い与野党合意が必要となる。
(1) 公職選挙法の選挙権年齢や民法上の成年年齢を、国民投票権年齢の原則に合わせて18歳に引き下げることについての可否
(2) 公務員や教員の国民投票運動規制の可否
(3) 国民投票対象を改憲以外の課題にも拡大することの可否
宿題の期限は、法律の施行日から3年後の2010年5月だったが、結局、宿題はできなかった。それが、今国会で、曲がりなりにもなされようとしている。
本日(4月3日)、与野党8党は憲法改正の手続きを定めた国民投票法改正案を今国会中に成立させることで合意した、という。与野党8党とは、自民、公明、民主、維新、みんな、結い、生活、新党改革。8党そろって合意文書に署名し、衆院に議席を持たない改革を除く7党が、来週8日(火)に共同で法案を衆院に提出する、と報じられている。
自民党の船田元・憲法改正推進本部長は3日、7党合意後の記者会見で「いつでも国民投票ができる状況をつくり上げた」と胸を張った(時事)。そんなところで、胸を張ってもらっても迷惑千万。
三つの宿題は、次のように解決するようだ。
(1) 憲法改正国民投票の投票権年齢は原則18歳ではあるが、公選法の選挙権年齢や民法の成人年齢が18歳に変更になるまでは20歳とされている(付則3条)。これを、国民投票年齢と選挙権年齢とのリンクを切断して、施行後4年間は20歳以上、これを過ぎれば18歳以上と確定させる。
また、公職選挙法を改正して選挙権年齢も2年以内に「18歳以上」とすることをめざす。但し、民法の成年年齢の引き下げは今後の検討課題とした。
(2) 公務員が憲法改正案に対する個人的な意見の表明や賛否の勧誘は認める一方、労働組合による組織的な運動をどう規制するかは検討課題とした。
(3) 国民投票対象の拡大については合意が得られなかった。
法案の共同提出に反対したのは、共産・社民の二党のみ。両党は壊憲に反対の立場なのだから、改憲への地均しに賛成できるはずがない。
まだ法案の審議が始まってもいない段階で、成立までどう転ぶかは分からない。とはいえ、なにしろ「8党合意」なのだから、この合意に基づく改正法案が成立することの可能性の高さは認めざるを得ない。安倍晋三らは「これで掘りが埋められる」「改憲への地均しができあがる」とほくそ笑んでいることだろう。
しかし、声を大にして言っておきたい。国会の多数意見と民意とは大きく異なることを。このことを見誤ると、安倍政権は猪突して自爆する。国会の議席は、民意を反映していない。政権を支える自民党の議席は、小選挙区制のマジックがもたらした虚構の多数でしかない。しかも、民主党不人気の反動で得た「一過性大量支持」から1年余。そのメッキが剥がれつつあることは、ますます民意との乖離を拡げつつある。決して、民意は改憲を望んでいない。改憲手続法の整備は無用である。震災からの復興も、福祉の充実も、もっともっと他にしなければならないことがあるはずではないか。
(2014年4月3日)
「ヨッシー日記」と標題した渡辺喜美のブログがある。そこに、3月31日付で「DHC会長からの借入金について」とする、興味の尽きない記事が掲載されている。興味を惹く第1点は、事件についての法的な弁明の構成。これは渡辺の人間性や政治姿勢をよく表している。そして、もう一点は、DHC吉田嘉明のやり口に触れているところ。こちらは、金を持つ者への政治家の諂いと、金で政治が歪められている実態の氷山の一角を見せてくれる。いずれにせよ、貴重な読み物である。
渡辺の法的弁明は、一読して相当に腹の立つ内容。おそらくは、弁護士の代筆が下敷きにある。「本件は法の取り締まりの対象とはならない」という挑戦的な姿勢。政治倫理や、政治資金の透明性の確保などへの配慮は微塵もない。要するに刑事制裁の対象となる違法はないよ、という開き直りである。法的に固く防御しているつもりで、政治的には却って墓穴を掘っている。
ここでの渡辺の「論法」は、「吉田嘉明から渡辺喜美が、みんなの党各候補者の選挙運動資金調達目的で金を借りたとしても、その借入を報告すべき制度上の義務はなく、法律違反の問題は生じない」ということに尽きる。謂わば、法の隙間の処罰不能な安全地帯にいるのだという宣言である。
もちろん、「政治倫理の確立のための国会議員の資産等の公開等に関する法律」には違反している。この法律は、「(第1条)国会議員の資産の状況等を国民の不断の監視と批判の下におくため、国会議員の資産等を公開する措置を講ずること等により、政治倫理の確立を期し、もって民主政治の健全な発達に資することを目的とする。」として、政治家の資産と所得の公開を求めている。しかし、これには処罰規定がない。倫理の問題としては責められても、強制捜査も起訴も心配しなくて済む。
では、公職選挙法上の選挙運動資金収支として報告義務の違反にはならないか。渡辺は、「選挙資金として(渡辺から吉田に対する)融資の申し込みをしたというメールが存在すると報道がありました。たとえそれがホンモノであったとしても法律違反は生じません。」と開き直る。自分の選挙ではないからだ。報告義務を負うのは各候補者であり、各陣営の会計選任者だからということ。
では、政党の党首が選挙運動費用として党員候補者に使わせる目的で金を借りたら、その借入の事実を政治資金収支報告書に記載すべきではないか。これも、「党首が個人の活動に使った分は、政治資金規正法上、政治家個人には報告の義務はありません。そのような制度がないということです。個人財産は借金も含めて使用・収益・処分は自由にできるからです」とここでも開き直っている。
もっとも、渡辺がDHCの吉田から借りた金を、党の政治資金や候補者の選挙運動資金として貸し付ければ、その段階で、借り入れた側に、借入金として報告義務が生じる。この点はどうしても逃げ切れない。8億の金がどう流れたのか、調査の結果を待って辻褄が合うのかどうか検討を要する。
今の段階では、「一般的に、党首が選挙での躍進を願って活動資金を調達するのは当然のことです。一般論ですが、借り受けた資金は党への貸付金として選挙運動を含む党活動に使えます。その分は党の政治資金収支報告書に記載し、報告します。」という、開き直りでもあるが貴重な言質でもあるこの言葉を胸に納めておこう。
いずれにしても、みんなの党は総力をあげて渡辺の8億円の使途を追求しなければならない。でなければ、自浄能力のない政党として国民の批判に堪え得ず、全員沈没の憂き目をみることになるだろう。
興味を惹くもう1点は、政治家と大口スポンサーとの関係の醜さの露呈である。金をもらうときのスポンサーへの矜持のなさは、さながら大旦那と幇間との関係である。渡辺は、「幇間にもプライドがある」と、大旦那然としたDHC吉田嘉明のやり口の強引さ、あくどさを語って尽きない。その結論は、「吉田会長は再三にわたり『言うことを聞かないのであれば、渡辺代表の追い落としをする』、と言っておられたので今回実行に移したものと思われます。」というもの。
それにしても、渡辺や江田にとって、大口スポンサーは吉田一人だったのだろうか。たまたま吉田とは蜜月の関係が破綻して、闇に隠れていた旦那が世に名乗りをあげた。しかし、闇に隠れたままのスポンサーが数多くいるのではないか。そのような輩が、政治を動かしているのではないだろうか。
たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。
同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。
サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
これが、おそらくは氷山の一角なのだ。
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椨の木(タブノキ)
私がひそかにトトロの木と名付けている大きな木がある。高さも幅も20メートルぐらいのパラソル型で、巨大なブロッコリーがドンとおいてあるようにみえる。宮崎駿の映画「となりのトトロ」ができてから、全国で多くの巨樹が「トトロの木」と名付けられている。たいていは杉やケヤキ。私のは、椨(タブ)の木。
タブは珍しい木というわけではないが、見てはいてもこれと意識していない人が多いと思う。クスノキ科である。遠くからみれば色の濃いどっしりとしたクスノキと思うかもしれない。中国、台湾、沖縄 、九州、四国、本州の暖地に生える照葉樹である。寒い東北地方では比較的暖かい海岸近くにヤブツバキなどと一緒に生えている。日本古来の森林の原植生を構成する樹である。シイやカシやクスノキやツバキそれにタブノキなどの暗い森が昔の日本の照葉樹林帯を覆っていたのだろう。各地でクス、しほだま(潮玉)、イヌグス、ヤマグス、タマグス(玉樟)、モチノキ、タモなどいろいろな呼び名でよばれている。
タブノキは役に立つ木である。古く、大木を断ち割って丸木舟を作った。建材、家具材としても貴重なものであった。皮や葉は乾燥させて、粉に曳いて、仏壇に供える線香の原料とした。八丈島特産の黄八丈の樺色の糸はタブの皮を染料として泥染めされた。
タブノキ教教祖といわれる宮脇昭・横浜国立大学名誉教授は東日本大震災後に、海岸線にタブノキの「森の長城」を築こうとしている。タブノキは海水にも強いし、根が深く張るので松と較べればずっと防潮の役に立つ。
水だけでなく防火の役にも立つ。1976年山形県酒田市は1000軒を焼失する大火にみまわれた。その時、西側にあった2本のタブの大木によって、江戸時代からの豪農、豪商であった本間家は類焼を免れた。被災後、酒田市は「タブノキ一本、消防車一台」といって、タブ、モチ、シイなどの常緑樹の植樹を推奨した。
タブはことほど素晴らしい木なのに、丸木舟や線香や黄八丈とともに現代日本人の記憶から失われようとしている。
私のタブノキはたった1本で立っている。あと1カ月もすると、花祭りの時期を迎える。枝々の先に燭台のような花穂を立ち上げる。薄緑色の小さな地味な花穂がオレンジ色の薄紙の苞で大切に包まれている。遠くからみると、木全体がオレンジ色の花で覆われたようにみえる。花穂と同時にでてくる新葉も橙色をして、ピカピカ輝いているので、あの花盛りの木は何の木だろうと思われる。このころのクスノキも黄緑色の花と新葉で覆われるので、美しく目立つ。これら照葉樹は5月には花を咲かせ輝きながら、同時に古い葉を落とす。秋の落葉樹の美しい落ち葉のような風情はなくて、人はただ重たく嵩張る落ち葉掃きにうんざりして、切り倒そうかなどと物騒な考えがわいてくる。
モミジやサクラのような落葉樹はかろやかさ、明るさ、儚さで現代人の好みにあう。それにひきかえ、常緑照葉樹は暗く重厚なので敬遠されるようだ。神社仏閣の神樹はたいてい常緑樹で、見る人を圧迫し、萎縮させ、畏れ多く近づきがたい気分にさせる。地球や生命の永続と自己の卑小さを思い起こさせ、厳粛で敬虔な気持ちにもさせる。私のタブノキはまだその域にはほど遠く、大きなブロッコリーのようで可愛らしい。いつか幹がコブコブになって、雷にうたれた主幹が折れて、脇から出た何本もの萌芽が若葉をつけて、木全体が小山のようになって、しめ縄なんか張られるのを想像する。でも私がその姿を見ることはない。
(2014年4月2日)
陽光燦々の4月。東京周辺は花満開。ここにもあそこにも、桜、桜、桜。気がつかなかったが、こんなにも桜が多かったのか。桜だけではなく、辛夷も桃も椿も、春の花が咲き誇っている。
美しい季節とは裏腹に、一夜明けて今日からは消費税8%の世界に。そして「武器輸出3原則」から「防衛装備移転3原則」へ変更の閣議決定。地教行法改正に自・公の合意成立と、政治は美しくない。
当ブログは、2年目の始まり。また、連続更新を目指して書き続けていくことになる。
「憲法」のキーワードでグーグル検索をすると、検索ページに700万件がヒットする。「澤藤統一郎の憲法日記」はトップページ(12件)に位置して現在11位のランク。すぐ目の前に、「憲法会議」と「キーワード・憲法-(赤旗)日本共産党中央委員会」の背中が見える。当面はこの両者に、追いつき追い越すことが目標。来年の4月1日に再度のご報告をしたい。
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さて、集団的自衛権行使容認の問題。
安倍政権の解釈改憲路線に自民党内の反発が強かった。その反発を吸収するために、総裁の直属機関として「安全保障法制整備推進本部」が立ち上げられ、昨日(31日)その第1回会合が開かれた。衆参156人の議員が参加したという。
この席で、高村正彦副総裁が講師を務めて、「限定的な集団的自衛権行使容認論」の線を出し、その理由づけとして「砂川事件最高裁大法廷判決(1959年)」を持ち出し、判決の論理を根拠として政府の限定的な憲法解釈変更が可能だと説明したとのこと。
この「論理」は、近々予定されている安保法制懇の答申の内容として報道されており、安倍首相も国会答弁で口にしている。おそらくは、これが着地点と予定されたところなのだろう。出席した議員からは目立った異論は出なかったという。
今後は、高村解説の「『必要最小限度の範囲』には、集団的自衛権行使の一部が入りうる」という、「集団的自衛権行使限定容認論」をめぐって議論がかわされることになる。
高村解説はいかにも苦しい説明。砂川事件最高裁判決からそこまでを読み取ることは困難だろう。同訴訟で争われたのは、旧安保条約に基づいて日本に駐留する米軍が、憲法9条2項で「保持しない」とされた戦力に当たるか否かである。原審東京地方裁判所の伊達判決はこれを肯定して違憲判断をし、跳躍上告審の最高裁はこれを逆転した。その説示部分の中心は以下のとおりである。
「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」
これを素直に読めば、「9条2項の法意が自衛のための戦力の保持をも禁じたか否かについては判断しない」「外国軍隊の駐留は日本の侵略戦争の火種にはならないから禁じられた戦力に当たらない」というもの。ヘンな理屈ではあるが、集団的自衛権行使容認とは無縁である。そもそも、安保条約は集団的自衛権の行使を前提に締結されたものではない。
また、判決に、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。」との一節がある。これが、個別的自衛権の論拠とされることはあり得ても、集団的自衛権の論拠とはなしえない。経過は、訴訟における争点の射程距離も、裁判所を含む当時の訴訟関係者すべての認識も、集団的自衛権論とは無縁であったことをものがたっている。これを、あとからの解釈としてこじつけることがどだい無理なのだ。
むしろ、心強いのは、世論調査での国民の意思は冷静で、最近の毎日の調査では以下のとおりである。
憲法解釈変更 反対64% 賛成30%
集団的自衛権行使 反対57% 容認37%
安倍政権は、実は政権自身にとっても極めて危ない橋を渡っているといわざるを得ない。
(2014年4月1日)
日民協ホームページの間借り生活に別れを告げて、引っ越し先として当ブログを開設したのが昨年の4月1日。その日から数えて、本日が365日目に当たる。この間一日の休載もなく、365日間連続して更新した。この面倒なブログにお付き合いいただいたありがたい読者とともに、一周年連続更新を祝うこととしよう。
間借りは窮屈でいけない。みすぼらしくとも、自前の持ち家が精神的にはのびのびとしてよろしい。せっかくのブログが、大家への気兼ねで、卑屈に筆の鈍ることがないとも限らない。一国一城望むじゃないが、せめて持ちたや自前のブログ。
365日書き続けての実感として言っておきたい。ブログとは、言論戦におけるこの上ない貧者の武器である。誰もが手にしうるツールとして、表現の自由を画に描いた餅に終わらせず、表現の自由を実質化する手段としての優れものである。まことに貴重な存在なのだ。
当ブログも、発足当初しばらくは日に3桁のアクセスにとどまっていた。しかし、おいおいアクセス数はアップして、「宇都宮君、立候補はおやめなさい」の33回シリーズ後半では、毎日7000?8000人の読者を得た。多くの人からの共感や支持、励ましに接することもできた。これを紙に印刷して配布するなどは、個人の力では絶対に不可能。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。
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「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
さて、「徳洲会・猪瀬」5000万円問題が冷めやらぬうちに、「DHC・渡辺喜美」8億円問題が出てきた。2010年参院選の前に3億円、12年衆院選の前に5億円。さすが公党の党首、東京都知事よりも一桁上を行く。
私は、「猪瀬」問題に矮小化してはならないと思う。飽くまで「徳洲会・猪瀬」問題だ。この問題に世人が怒ったのは「政治が金で動かされる」ことへの拒否感からだ。「政治が金で買われること」のおぞましさからなのだ。政治家に金を出して利益をむさぼろうという輩と、汚い金をもらってスポンサーに尻尾を振るみっともない政治家と、両者をともに指弾しなければならない。この民衆の怒りは、実体法上の贈収賄としての訴追の要求となる。
「DHC・渡辺喜美」問題も同様だ。吉田嘉明なる男は、週刊新潮に得々と手記を書いているが、要するに自分の儲けのために、尻尾を振ってくれる矜持のない政治家を金で買ったのだ。ところが、せっかく餌をやったのに、自分の意のままにならないから切って捨てることにした。渡辺喜美のみっともなさもこの上ないが、DHC側のあくどさも相当なもの。両者への批判が必要だ。
もっとも、刑事的な犯罪性という点では「徳洲会・猪瀬」事件が、捜査の進展次第で容易に贈収賄の立件に結びつきやすい。「DHC・渡辺喜美」問題は、贈収賄の色彩がやや淡い。これは、知事(あるいは副知事)と国会議員との職務権限の特定性の差にある。しかし、徳洲会は歴とした病院経営体。社会への貢献は否定し得ない。DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。
DHCの吉田は、その手記で「私の経営する会社にとって、厚生労働行政における規制が桎梏だから、この規制を取っ払ってくれる渡辺に期待して金を渡した」旨を無邪気に書いている。刑事事件として立件できるかどうかはともかく、金で政治を買おうというこの行動、とりわけ大金持ちがさらなる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない。
もうひとつの問題として、政治資金、選挙資金、そして政治家の資産状況の透明性確保の要請がある。政治が金で動かされることのないよう、政治にまつわる金の動きを、世人の目に可視化して監視できるように制度設計はされている。その潜脱を許してはならない。
選挙に近接した時期の巨額資金の動きが、政治資金でも選挙資金でもない、などということはあり得ない。仮に真実そのとおりであるとすれば、渡辺嘉美は吉田嘉明から金員を詐取したことになる。
この世のすべての金の支出には、見返りの期待がつきまとう。政治献金とは、献金者の思惑が金銭に化したもの。上限金額を画した個人の献金だけが、民意を政治に反映する手段として許容される。企業の献金も、高額資産家の高額献金も、金で政治を歪めるものとして許されない。そして、金で政治を歪めることのないよう国民の監視の目が届くよう政治資金・選挙資金の流れの透明性を徹底しなければならない。
DHCの吉田嘉明も、みんなの渡辺喜美も、まずは沸騰した世論で徹底した批判にさらされねばならない。そして彼らがなぜ批判されるべきかを、掘り下げて明確にしよう。不平等なこの世の中で、格差を広げるための手段としての、金による政治の歪みをなくするために。
(2014年3月31日)
ときおり講演の依頼をうける。拙い話しを聞いていただけることをありがたいと思って、日程の都合がつく限りお引き受けしている。
本日は、那須南九条の会からのご依頼あっての講演。事前の要望に沿って、三題噺とした。頂戴したお題は、「集団的自衛権」「大本営発表」そして「日光東照宮の三猿の教え」。
以下はそのレジュメ。やや長文だが、大意を掴んでいただけるものと思う。
ど こ へ 行 く の ? ニッポン
三題噺で語る「那須南九条の会」憲法と特定秘密保護法学習会レジュメ
与えられた3個のお題
1 「集団的自衛権」 ?平和の問題
2 「大本営発表」 ?知る権利と民主主義の問題
3 「日光東照宮の三猿の教え」 ?主権者としての姿勢の問題
☆ そして、三題共通の土台を形づくる立憲主義について
1.集団的自衛権行使容認で平和はどうなるの?
ー日本は誰と何処で何をやろうというのだろうか
※ 「集団的自衛権」とは?
それは、「自衛」の権利ではなく、「人のケンカを買って出る権利」のこと。
「自国が攻撃されなくても、同盟国が攻撃された場合には一緒に闘う」宣言
例1 「義によって、その敵討ちに助太刀いたす」 武士の倫理
余話 敵討ちの倫理性 法然上人(勢至丸)9歳時出家の逸話
例2 「よくも俺の舎弟に手を出したな。俺が倍返しだ」 ヤクザの掟
集団的自衛権の説明はこのフレーズが一番分かりやすい
例3 南ベトナムが北から叩かれた
⇒アメリカが北爆を開始し地上戦を開始する 大国の論理
例4 アメリカ軍が世界のどこかで攻撃を受けた
⇒日本が自分への攻撃と見なして戦争に加わる 子分の義理
※ 集団的自衛権は大戦後の国連憲章51条に突然書き込まれた用語。
※ 以来、「集団的自衛権」は、大国の軍事干渉の口実として使われてきた。
今日本は、「けなげにも親分に売られたケンカを買おう」としている。
※ アメリカは好戦国家である。1960年以後の主なアメリカの武力行使
キューバ侵攻・ベトナム戦争・ドミニカ共和国派兵・カンボジア侵攻・ラオス侵攻・レバノン派兵・ニカラグア空爆・グレナダ侵攻・リビア空爆・イラン航空機撃墜事件・パナマ侵攻・湾岸戦争・ソマリア派兵・イラク空爆・ハイチ派兵・ボスニアヘルツェゴビナ空爆・スーダン空爆・アフガニスタン空爆・コソボ空爆・アフガニスタン戦争・イラク戦争・リベリア派兵・ハイチ派兵・ソマリア空爆・リビア攻撃…。
※ 常に、アメリカの戦争に巻き込まれる危険を背負うことになる。
60年安保反対運動が盛りあがった背景には、「アメリカとの軍事同盟は日本の平和にとっての脅威」という国民の共通認識があった。集団的自衛権行使容認論のきっかけには、米国から日本に対する要請がある。
※ これまでの政府(内閣法制局見解)の憲法解釈の確認。
*「憲法9条(2項)がある以上、日本が『戦力』をもつことはできない」
(9条2項抜粋「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」)
*「しかし、国家にも自衛権はある。まさか、憲法は自衛権を否定してはいないはず。したがって、自衛のための実力は『戦力』にあたらず、自衛隊は憲法違反の存在ではない」?自衛隊は戦力ではない。
*「もっとも、自衛隊が合憲であるためには、飽くまで自衛のための実力でなくてはならず、専守防衛のための装備・行動に限定される」
* 自衛権とは、「(1)急迫不正の侵害があること、(2)他にこれを排除して国を防衛する手段がないこと、(3)必要な限度にとどめること」の3要件が必要。
* 自国が攻撃されていないのに、他国(同盟国)が攻撃されたとして一緒に闘うことは自衛の範囲を超えている」
*「だから、日本国の集団的自衛権は、国際法上国家の権利としてあるけれども、その行使は憲法の制約があって認められていない」
※ 集団的自衛権論争をめぐって今争われているのは、
日本の平和と安全を守るために、
(1)「日本は厳格に専守防衛に徹するべき」なのか
(2)「専守防衛の枠を取っ払って、必要あるかぎり、
世界のどこででも同盟国とともに戦うべき」なのか。
そのどちらを選択すべきかの問題。
※ 現在の(1) の立ち場を(2)の立場に変更するには、
A 憲法を改正する
B 憲法を改正せずに、憲法の解釈を変更する
C まず憲法改正手続(憲法96条)を改正して、次に9条を改正する
(憲法改正発議の要件を、国会議員の「3分の2」から「過半数」に)
※ 安倍政権は、まずC策の実現を目指した。しかし、「やりかたが姑息」、「裏口入学のような手口」、「立憲主義を理解していない」と評判悪く頓挫。
今は、B策を狙っている。そのために、内閣法制局長官を最高裁判事に転出させ、自分のいうことを聞く小松一郎元駐仏大使を後任に抜擢するという異例の人事を行った。また、この4月に安保法制懇の答申を得て、閣議決定で政府解釈の変更しようとしている。これには、自民党内部からも批判の声が高い。
※ 憲法9条は、満身創痍ではあるがけっして死文化していない。自衛隊は飽くまで「自衛のための実力」であって、軍隊としては動けない。自衛隊の装備も編成も行動も、専守防衛の大枠は外していない。
戦後68年、自衛隊は戦闘で他国の兵士を殺していないし、殺されてもいない。イラクに派遣されても、戦闘行為には加われなかった。
※ だからこそ、現政権にとっては、9条が邪魔なのだ。自民党「日本国憲法改正草案」(2012年4月)は、国防軍の設置を明言している。
また、解釈改憲で集団的自衛権行使を認めれば、専守防衛の枠がはずれる。この意味は大きい。
⇒「憲法改正手続が厳格だから、解釈を変えてしまえ」 これは禁じ手
※ 日本国憲法は戦争の惨禍に対する反省から生まれた。反省とは、負けたことの反省ではなく、戦争の悲惨さを繰り返さないこと。二度と戦争をしないこと。再び加害者にも被害者にもならないこと。「戦争と文明とは共存できず、文明が戦争を駆逐しなければ、戦争が文明を駆逐してしまう」そう言った、日本国憲法制定をになった良識ある保守政治家たちの言葉を噛みしめなければならない。
2.大本営発表が国民を導いた結末は何だったの?
ー神州不滅神話と1億総玉砕ーNHKのあり方と現実
※「営」とは軍隊の所在地。司令官が所在する営が「本営」。大元帥である天皇が所在する陣営だから「大本営」。戦時に天皇の指揮下に設置された最高統帥機関を指す。日清戦争以来、戦争・事変の度に設置された。太平洋戦争開始以来戦況に関する情報は一元的に「大本営発表」としてNHKから放送された。それ以外の情報は流言飛語とされて、厳重な取り締りの対象となった。
第1回の大本営発表は、1941年12月8日午前6時の対米英開戦を告げるもの。同7時に、NHKラジオによって以下のとおり報道された。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
この日、NHKは「ラジオのスイッチを切らないでください」と国民に呼び掛け、9回の定時ニュースと11回の臨時ニュースを大戦果の報で埋めつくした。「東条内閣と軍部はマスコミ(NHK)を最大限に利用し、巧みな演出によって国民の熱狂的な戦争支持熱をあおり立てた」
その後、NHKの大本営発表は846回行われ、NHKと大本営発表との親密な関係は、戦時下の日本国民の意識に深く刻みこまれた。
※「大本営発表」は、「情報独占」と「情報操作」の代名詞となった。戦争遂行に国民を鼓舞する目的のプロパガンダであったから、勝ち続けているはずの日本が、転進・玉砕を余儀なくされ、やがて本土の空襲・艦砲射撃をうけ、原爆投下にいたって、敗戦となる。
※情報を一手に握っていた上層部は、敗戦必至を知りながら、これを隠して戦意を煽り続けて膨大な人命を失った。真実を知る術のない国民はこれを批判できなかった。
※情報を一手に握る地位にある者は、自分に都合のよいように情報操作が可能。握りつぶす、改変する、誇張する、取捨選択して一部だけを出す。権力を持つ者に情報が集中し、集中した情報を操作することによって権力は維持され強化される。
※「神州不滅」は神話の世界のスローガン。天皇の祖先が神であり、天皇自身も現人神であるという信仰に基づいて、天皇が治めるこの国は、他国とは違った特別の神の国である。だから、最後には神風が吹いて戦争には必ず勝つ、とされた。
※大本営発表の結末は、1945年8月15日の玉音放送となった。このときの「大東亜戦争終結ノ詔書」にも「神州ノ不滅ヲ信シ」(神州の不滅を信じ)と書き込まれている。
※日本の国民は身に沁みて知った。国民には正確な情報を知る権利がなければならないことを。日本国憲法は、「表現の自由(憲法21条)」を保障した。これはマスメディアの「自由に取材と報道ができる権利」だけでなく、国民の真実を「知る権利」を保障したものである。
※情報操作(恣意的な情報秘匿と開示)は、民意の操作として時の権力の「魔法の杖」である。満州事変・大本営発表・トンキン湾事件・沖縄密約…。
※民主主義の政治過程は「選挙⇒立法⇒行政⇒司法」というサイクルをもっているが、民意を反映すべき選挙の前提として、あるべき民意の形成が必要。そのためには、国民が正確な情報を知らなければならない。主権者たる国民を対象とした情報操作は民主主義の拠って立つ土台を揺るがす。戦前のNHKは、その積極的共犯者であった。
※戦前のNHKは、形式は国営放送ではなく社団法人日本放送協会ではあったが、国策遂行の役割を担った事実上の国営放送局だった。大本営発表に象徴される戦争加担の責任は免れない。その反省から、1950年成立の放送法は、NHKを国策追従から独立した「公共放送」と位置づけた。
※敗戦、富国強兵がスローガンだった時代、あらゆる局面での権力の集中と教化が国策に合致するものであった。戦後は、議会も行政も司法も天皇大権から独立した存在となった。教育も国家の統制を排する建前の制度となった。放送もそうだ。公共放送は、国営放送でも国策放送でもない。国家から独立し、国家からの統制に服することなく、戦前大本営発表の垂れ流し機関であった愚を繰り返してはならないとするのが、放送法の精神である。
※にもかかわらず、今年1月25日の籾井勝人新NHK会長の就任記者会見における「政府が右というときに、左というわけにはいかない」という発言は、NHKの戦前戦後の歴史や教訓に学ばず、再びの大本営発表の時代を招きかねない危険を露呈したもの。「今後は口を慎めばよい」という類の問題ではない。籾井氏が、およそNHKの会長職にふさわしからぬ人物と判明した以上は、辞職していただく以外にはない。この重責は、それにふさわしい人格が担うべきなのだから。
3.秘密保護法で私たちの日常生活はどうなるの?
ー日光東照宮の三猿の教え
※ 本来三猿の教えとは、「悪いものは見るな(よいものだけを見よ)、悪いことは聞くな(よいことだけを聞け)、悪いことは言うな(よいことだけを口にせよ)」という教訓。論語の「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」が元ネタとされる。しかし世俗には、「見ざる。聞かざる。言わざる」と見て見ぬふりをすることが、無難な処世訓として定着している。いじめを見ても見ぬふりをし、なにも言わないことが賢い生き方だというもの。
※「不正に目をつぶらず、聞き耳を立てて、臆することなくものを言う」。これが、あるべき主権者の姿勢。その反対の「見ざる。聞かざる。言わざる」は、為政者にとってこの上なく好都合な御しやすい国民。
※ 戦前の軍機保護法、国防保安法などの軍事法制は、国民に「見ざる。聞かざる。言わざる」を強制するものだった(「戦争は秘密から始まる」「戦争は軍機の保護とともにやって来る」)。さらに治安維持法がこれに輪を掛けるものだった。
※ 特定秘密保護法がいま、戦前の軍事法・治安法の役割を果たそうとしている。
重罰化、広範な処罰、要件の不明確さがその特徴である。
*重罰による「三猿化」強制強化⇒内部告発の抑止
・自衛隊法の防衛秘密漏洩罪 懲役5年
・国家(地方)公務員法違反 懲役1年
・特定秘密保護法 懲役10年
*未遂・過失も処罰
*共謀・教唆・扇動も処罰
*将来、更に法改正で重罰化の可能性
※たとえば「独立教唆罪」
気骨あるジャーナリストの公務員に対する夜討ち朝駆け取材攻勢は、秘密の暴露に成功しなくても、(「国民のためにその秘密を教えてもらいたい」「お断りする」とされた場合)犯罪となりうる。
※民主主義にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」では、時の政府に不都合な情報はすべて特定秘密として、隠蔽できる。国民はこれを検証する手段をもたない。国会も、裁判所も。
※国民にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」という秘密保護法制は、罪刑法定主義(あらかじめ何が犯罪かが明示されていなければならない)との宿命的な矛盾。地雷は踏んで爆発してはじめてその所在が分かる。国民にとって秘密保護法もまったく同じ。強制捜査を受け起訴されて、はじめて秘密に触れていたことが分かる。
※国がもつ国政に関する情報は本来国民のものであって、主権者である国民に秘匿することは、行政の背信行為であり、民主々義の政治過程そのものを侵害する行為である。これを許しておけば、議会制民主々義が危うくなる。裁判所への秘匿は、刑事事件における弁護権を侵害する。人権が危うくなる。
※特定秘密保護法の基本的な考え方は、「国民はひたすら政府を信頼していればよい」「国民には、政府が許容する情報を与えておけばよい」「その国民には、国会議員も、裁判官も含まれる」ということ。これは民主々義・立憲主義ではない。いかなる政府も、猜疑の目で監視しなければならない。とりわけ、危険な安倍政権を信頼してはならない。
※特定秘密保護法は、2013年12月6日に成立し、同月13日に公布された。
「公布の日から一年を超えない範囲内において政令で定める日」が施行期日とされている。政府は、それまでに政令・規則等を整備するとしているが、私たちは、それまでに、危険なそして評判の悪い、この法律を廃止したい。
4.日本国憲法と立憲主義
※日本国憲法は、その成り立ちにおける二面性をもっている。
(1) 人類の叡智の積み重ねが到達した人権と民主主義擁護の普遍性
(2) 戦前の負の歴史を繰り返さないとする固有性
※上記(1)は市民革命を経た18世紀以来の、自由主義・個人主義の近代憲法の原則。
上記(2)は、大日本帝国の侵略戦争と植民地主義を反省する歴史認識の凝縮。
※その両面を意識しつつ、主権者である国民は、為政者に対する命令として憲法を制定した。人権と民主主義と平和を擁護しさらに輝かせるために、である。
今、そのすべてが攻撃を受けている。「集団的自衛権」による解釈改憲のたくらみと「特定秘密保護法」の制定はその象徴的な事件。このままでは、「大本営発表」の時代の再来を迎えかねない。私たちは、「日光東照宮の三猿の教え」を「見ざる、聞かざる、言わざる」と曲解せず、主権者として、目を光らせ、人の意見にも耳を傾け、ものを学び、意見を交換し、そして行動しよう。
それこそが、日本国憲法が想定する主権者の在り方である。
なお、澤藤は毎日「憲法日記」というブログを書き続けています。
新バージョンで開始以来、明日(3月末)で365日連続更新となります。
時々、お読みいただけたらありがたいと思います。よろしくお願いします。
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。
「2万筆までもう一息! 3月24日現在、署名が第二次集約で19,212筆」とのことです。
下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年3月30日)
今日は、学生時代の気のおけない仲間が集まっての同期会。
50年前お互い何の肩書もない同じ若者として、利害打算のない付き合いをした仲間。そして今、定年を過ぎた年になって、肩書を外し鎧を脱いで、昔に戻っての再度の利害打算のない付き合い。何の遠慮もなく、気兼ねもなく、心おきなく話の出来る楽しい半日だった。
それぞれ自分の生きてきた分野についての話しが尽きない。違う分野の人たちの話しに耳を傾けることはとても楽しい。昔から気のあったこの仲間には、金持ちも有名人もいない。しかし、みんながそれぞれの分野でそれぞれのやり方で社会を支えてきた。一人一人が、個人の尊厳の担い手なのだ。
私のブログもひとしきり話題となった。話題の中心は当然のことながら「宇都宮君おやめなさい」のシリーズについて。私の解説は、「『澤藤がケンカをはじめたようだが、どちらに理があるかを見極めよう』というのは友人の態度ではない。『あの澤藤が本気で怒っているのだから、友人として澤藤に味方しよう』と言ってもらいたい。そういう友人の支えがあったから、私もルビコンを渡ることができた。今は、気分爽快」というもの。
ところで、3月27日「毎日」朝刊の「そして名画があった」欄に、「武士道残酷物語」(今井正)が取りあげられていた。1963年4月の封切りだそうだ。今日集まった仲間が学生生活をはじめたころのこと。映画の原作は南條範夫の小説「被虐の系譜」(講談社)。映画では、現代のサラリーマン物語りが出て来るが、これは原作にはないそうだ。
南條は小説の中でこう書いている。
「本来は利害関係に基づく主従関係は、滅私奉公と言う美称を被(かぶ)せられて、次第により深く固定観念化してゆき、終に、利害を離れた没我的服従心にまで育て上げられていった」
この映画を紹介した玉木研二は、「扶持を喪って浪人の身となると言うことは、凡ての武士にとって、不断の脅威であり、最も恐るべき夢魔であった。これを避ける為には、いかなる屈辱も困苦も、受容しなければならない。」「競争の中で勝ち得たサラリー(扶持)と地位を失う恐怖、そして服従の心理は、昭和のサラリーマンとて無縁ではなかったに違いない。」と書いている。
その時代、私たちは受験競争と出世競争の間にある束の間の「間氷期」にあった。その後同時代を生きた多くは、「競争の中で勝ち得たサラリー(扶持)と地位を失う恐怖、そして服従の心理」の中で、生きてきたのではないか。
今日集まった仲間は、出世競争の意欲も服従の心理も欠いた面々。だから、思想や信条を超えて気が合うのだろう。
本日の東京の天気は上々。桜も咲いた。
銭湯で上野の花のうわさかな
佃育ちの白魚さえも花に浮かれて隅田川
花がほころべば、自ずと顔もほころぶ。春はよろしい。
50年前の仲間との交歓は、花の咲くころに初めて顔を揃えたあの頃に戻ること。
あれからの半世紀が平和であったことを有り難いと思う。人権も、民主主義も、もう少し高水準で推移したらよかったのに、とも。もっとも、この時代、私たちがつくってきたのだから、私たち自身の責任なのだが。
(2014年3月29日)