澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

他人の痛みへの共感能力を育てよう

孟子は、人の性を善なるものと説いた。孟子公孫丑編の四端説の章に、次の有名な一節がある。高校時代に漢文の授業で習った。

「人みな人に忍びざるの心有り。…人みな人に忍びざるの心有りと謂ふ所以は、いま、人たちまち孺子の将に井に入らんとするを見れば、みな怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以にあらず、誉れを郷党朋友に要むる所以にあらず、其の声を悪みて然るにもあらざるなり。これに由りてこれを観れば、惻隠の心なきは、人にあらざるなり。羞悪の心なきは、人にあらざるなり。辞譲の心なきは、人にあらざるなり。是非の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり」(今里禎の読み下し)

次のような大意であろう。
「誰にだって、思いやりの心がある。だってね、ちっちゃい子が井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰だって、『あっ危ない、何とかしてあげなくちゃ』って思うだろう。その子の親に取り入ろうとか、周りの人たちに褒めてもらおうとか、なにもしなけりゃ悪口を言われるからってわけじゃない。だからね、思いやりの心というのは誰にでもあるんだ。これなくちゃ人間じゃない。悪を恥じる心も、譲り合う心も、善悪を判断する心もおんなじだ。」

その上で「四端」が説かれる。惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が、それぞれ仁・義・礼・智の各「端」(今里訳では、端を「芽生え」としている。「糸口」などという洒落た訳もある。)であるというもの。高校時代、よくは分からないながら、「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」「惻隠の心は仁の端なり」のフレーズが印象に残った。

「孟子」には、人が生来もっているはずの善として、惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が語られている。中でも、「惻隠の心」である。どう理解すればよいのだろう。

藤堂明保の「漢字源」によれば、惻とは「いつも心について離れない。ひしひしと心に迫る」の意という。「惻隠」は、「ひしひしといたわしく思う」とされている。広辞苑もこれによったか、「いたわしく思うこと。あわれみ」とある。「同情する心」、「痛ましく思うこと」、「慈しむこと」などとも解されているようだ。私には、「思いやり」の語が一番しっくりする。

今にして思う。孟子の説いている善とは、人の痛みへの共感のことではないのだろうか。子どもが井戸に落ちそうになれば、とっさに助けたいと思う。もし、落ちてしまえば、その子の苦しみは自分の苦痛となる。その子の母の嘆きは、自分の悲嘆でもある。人間の尊厳を尊重し、人間の尊厳の侵害に対して、侵害された人に寄り添い、共感をもってともに痛む心、それが「惻隠の心」ではないか。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」は今に通じる名言だと思う。

韓国の旅客船セウォル号が一昨日(4月16日)珍島付近で沈没し、多数の死者と行方不明者を出している。リアルタイムの報道に胸が締めつけられる。狂わんばかりに、わが子の安否を案じる母親の姿に心の痛まない者はない。

「船内にいる子どもからメッセージが届いた」という報道があった。沈没した船内に取り残されたという男子生徒から、兄に携帯電話の文字メッセージが届いた。生存者がおり、救出を求める内容で、「今ここは船の中、何も見えない。男子数人と女の子が泣いている。まだ私は死んでいない」と記されたものだったという。涙がこぼれそうになる。いま、韓国民だけでなく、日本国民も「惻隠の心」を感じている。ヘイトスピーチの連中も、人として同様であろう。

ところが、残念なことに、「惻隠の心」を持ち合わせていない人もいる。性善説が揺らぎかねない。

今月13日、米カンザス州オーバーランドパークのユダヤ教系施設で、銃撃によって3人が殺害された。犯人として逮捕されたのはフレージャー・グレン・クロス(73歳)。コミュニティーセンターの駐車場で14歳の少年と祖父を射殺し、さらに近くの高齢者介護施設の駐車場で女性1人を殺害した。白人至上主義者集団クー・クラックス・クラン(KKK)に関連する団体の元幹部で、極端な反ユダヤ主義活動家であり、黒人への嫌がらせを繰り返してもいたという。事件が起きた13日は、ユダヤ教の行事「過越の祭り」開始日の前日だった。地元テレビ局の映像には、逮捕された容疑者がパトカーの後部座席から「ヒトラー万歳」と叫ぶ姿が映っていた(CNNの報道)。

死亡した少年は、歌唱コンテストのオーディションに出場するため祖父の車でセンターを訪れていた。祖父は現役の医師。皮肉なことに、2人ともキリスト教徒だった。被害者の女性は、介護施設に入居中の母親を毎週末見舞っており、その施設の駐車場で撃たれた。視覚障害児の施設で作業療法士を務め、この人もカトリック教会に所属していた。

この犯人には、惻隠の情がない。彼がユダヤ人と思い込んだ3人に、それぞれの人生があり、家族があり、交流する人々がいることを考えられない。死への恐怖や、心の痛み、周りの人の悲哀に共感すべき心が失われている。井戸に落ちそうな子どもを救うはずの人間が、子どもを井戸に突き落としたのだ。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」というほかはない。

しかし、孟子の性善説も、次のように解釈されている。
「人間の本性が善である、という命題は、けっして現実の人間が善であることを意味しない。『性』を全面的に開花させるためには、人格完成のための努力が必要である。ここに実践倫理としての孟子独自の修養論が内省を中心として展開されるのである」(松枝茂夫・竹内好監修「中国の思想・孟子」)

国籍・言語・宗教・人種・性別・門地・職業・障がいの有無等の一切を捨象して、誰もが等しく人間としての尊厳を尊重されなければならない。「等しく」とは、「弱い立場にある者ほど手厚く」という意味でもある。自己と他者をともに人間としての尊厳あるものとする姿勢は、「性善」だからといって当然に現実化しているわけではない。その本来の善を開花させるために、人権尊重の教育が必要なのだ。徹底して差別を戒める教育が重要なのだ。惻隠の情の獲得は、具体的に心身の痛みを背負う人々と接触し、その人たちの痛みや嘆き苦しみ悲哀を身近に感じることが糸口であろう。そのことから、人間としての尊厳を傷つけられた者に対しての、共感能力が育つ。私は、現代の教養とは、人権侵害の被害に対する共感能力のことだと思っている。人権侵害に、敏感でありたい。
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     八重の「御室桜(オムロザクラ)」が世代交代で一重の桜に
昨日、恒例の根津神社のツツジ祭りへ行ってきた。まだ2分咲き程度で、入場券にプリントされた写真とはだいぶ様子が違っていたが、緑に混じった色とりどりのツツジは初々しく美しかった。見物客が少なくてゆっくり見られたこともなによりだった。

ツツジ山を下りたところによしず張りの植木屋の店が出ている。今年はもう絶対、植木は買わないと強い決意で、「見るだけ、見るだけ」と覗いてみると、シロ花のハナズオウと八重桜が私をがっちりとらえて、「つれてって、つれてって」と放してくれない。どうしたって運命的出会いには抗えるものではない。紫色のハナズオウはよくあるけれど、白は珍しい。八重桜は「キクシダレ(菊枝垂)」。これもなかなかお目にかかれるものじゃない。花は濃いめのピンクの八重咲き。小さな花弁がギッシリ集まってボール状になって、それが3から5花ぐらいづつかたまってぶら下がっている。何とも可憐である。置いて帰るわけにはいかない。

さて、帰宅して、花弁の数を数えてみたら、一花につき91枚、116枚、124枚と花を3つまで分解して数えたが、それ以上は根気が続かずやめてしまった。径3センチメートルの小花に大体100枚以上の花弁がついている。雌しべは1本、雄しべはかすかに3,4本。雄しべは花弁に変化してしまったのだ。真ん中の花弁は糸くずのように細くて小さい。こんな花弁数が極端に多い八重咲きをキク咲きという。

枝垂れない普通の「キクザクラ(菊桜)」は花弁が、100枚から180枚。「ケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)」は100枚から300枚。「ライゴウジキクザクラ(来迎寺菊桜)」は2段咲きで90枚から270枚。「フジキクザクラ(富士菊桜)」は2段咲きで300枚から400枚。トップクラスは「ヒヨドリザクラ(鵯桜)」で、2段咲きで280枚から450枚。以上は「日本の桜」(木原浩ほか著 山と渓谷社)からピックアップしたもの。ヤマザクラのような5弁花に飽き足らない人たちは、400枚もの花弁をもつようなサトザクラをつくりあげたのだ。おかげで春になると、ソメイヨシノやヤマザクラのシンプルな美しさとサトザクラの豪華さの前で、どちらがいいか心が引き裂かれる思いがする。

京都仁和寺の「御室桜(オムロザクラ)」は京都の春の最後を飾る遅咲きの八重桜。種類は「オムロアリアケ」。ヤマザクラの影響の見られるサトザクラで花弁が5から10枚のふっくりとした八重の白い花を咲かせる。

その御室桜について4月15日付け京都新聞は次のように報じている。
江戸時代に貝原益軒の「京城勝覧」(1718年)は「境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす」と記している。また、昭和初期の研究者香山益彦の「御室の桜」には「八重が多数を占める」と書いてある。ところが、今回調査したところ、212本のうち八重はわずか18本しかなかった。樹齢360年のサクラが枯れて植え変えられたわけではなく、大枝が枯れて、根もとからでてきた「ひこばえ」で世代交代を繰り返しているうちに、そこに咲いた花は一重になってしまったのだ。品種改良された八重のオムロアリアケが先祖返りしてしまったということらしい。

仁和寺の立部佑道門跡は「御室桜は枝が大きくなると枯れてゆく特性があるが、それもまた花の姿の一つ。桜から学んでいこうという気持ちがあるので、御室桜を新しい苗に植え替えるということはしない」と述べている。もっとも、2010年に芽の組織から苗木を作る研究が行われ、今年の4月11日143センチに成長したクローン桜の蕾が一輪開花した。それを報じた朝日新聞の写真を見ると、白いふっくりとした八重桜が映っている。

この話を聞けば、理研の小保方さんのスタップ現象もありうることかもしれない気分がしてくる。組織細胞にお酢をかけて、初期化すれば八重も一重も思いのままなんて、楽しいようでもあり、恐いようでもある。
(2014年4月17日)

「安倍靖国参拝違憲訴訟」提訴への中国での反応

サーチナというインタネットメディアがある。かつては「中国情報局」と言っていた。その名称は、サーチ (search) とチャイナ (china) を重ねた造語だという。中国の情報を主とするものだが日本語のメディア。そのメディアに昨日(4月15日)掲載された日本人記者の署名記事を知人からの転送で知った。内容は、大阪と東京の安倍靖国参拝違憲訴訟に関するもの。提訴の内容ではなく、提訴に対する中国人の反応を主としたもの。

タイトルは、「安倍首相の参拝差し止め訴訟、『首相を訴えることができるなんて嘘だろ?』の声=中国版ツイッター」というもの。記事全文は以下のとおり。

「第2次世界大戦の戦没者遺族や市民などが11日、安倍首相による靖国神社への参拝は違憲であると主張し、参拝の差し止めや、原告1人当たり1万円の慰謝料を求める訴えを大阪地方裁判所に起こした。華商網が報じた。

報道によれば、戦没者遺族や市民らは、安倍首相の靖国神社参拝は「憲法が保障する国民の平和的生存権を侵害している」とし、「戦争を美化する行為である」と主張している。また、報道によれば東京でも別の原告らが同様に訴えを起こす予定だ。

日本の首相による靖国神社参拝に対し、中国では非常に強い反発が起こることが常だが、日本の市民団体が安倍首相を訴えたことを中国人ネットユーザーはどのように感じたのだろうか。

簡易投稿サイト・微博に寄せられたコメントを見ると、『一部の日本人が良心的であることが分かった』など、日本国内から靖国神社参拝の差し止めを求める動きが見られたことを評価するユーザーが見られたが、中国人ユーザーの反応で目立ったのは“一国の首相を訴えることができること”に対する驚きの声だった。

確かに、時の権力者を訴えるなどと言うことは中国ではまずあり得ないことだ。そのため「中国の人民は高官を訴える勇気があるだろうか」、「首相を訴えることができるとはすばらしい!」などのコメントも寄せられ、非常に驚いている様子が見て取れた。

なかには「日本では民衆が首相を訴えることができるのか? 裁判所は受理するのか? これは嘘の報道じゃないのか?」というコメントまであった。

多くの中国人ユーザーが今回の訴訟を通じて、日中の政治体制や制度の違いを認識したことは間違いなさそうだ。中国には「陳情」と呼ばれる直訴システムがあるものの、陳情しても解決されないケースも多いと言われており、首相さえ訴えることができる日本の体制を羨んでいる様子を感じることができた。」

たいへんに興味深い。この記事で報じられている中国人の反応のひとつが、靖国違憲訴訟の提訴行動を通じて、『一部の日本人が良心的であることが分かった』という肯定的評価をしていることである。これは、貴重な収穫だ。

政府間の関係がこじれているときほど両国民の信頼関係形成が重要だ。おそらく中国人の目からは、日本人全体が安倍色に染まった均一の集団と見えているのだろう。しかし、実際はそうではないことを知ってもらうことが大切だ。我々も、中国が一色であるはずのないことを知らねばならない。

中国人・韓国人を原告として日本の各地の裁判所に提訴された数多くの戦後補償訴訟があった。原告となったのは、従軍慰安婦とされた人、炭坑や軍需工場に強制連行された人、大量虐殺された事件の奇跡的な生存者、遺棄毒ガスの被害者等々の「皇軍の残虐行為の生き証人」であった。重慶爆撃訴訟など、まだ係属している訴訟もある。中国や韓国の戦争被害者を支援し、その被害救済の訴訟を支えた多くの日本人の活動を誇りに思う。このような運動こそが、真の日中、日韓の友好の基礎となり、国民間の強固な信頼関係形成の土台となりうる。

日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、…この憲法を確定する」と宣言している。戦争の惨禍に向かいあうことこそ、憲法を大切に思う国民の責務である。その戦争の惨禍は、被害と加害の両面がある。加害責任に目をつぶらず、被侵略国の民衆の被害に寄り添うことは、なによりも不再戦の決意を新たにすることである。そして、それだけでなく、国境や民族を超えた人間としての連帯感を築く交流であって、やがて国家を克服することにつながる展望を切り開く質をもつものと思う。11日提訴の大阪訴訟と、21日提訴予定の東京訴訟がともに、法廷内だけではなく、国内外の世論に大きな影響を及ぼす成果をあげることを願う。

もうひとつ。中国の多くのネットユーザーが、「一国の首相を訴えることができることに驚いている」というニュースには、こちらが驚かざるをえない。そもそも司法本来の役割は、国家権力の横暴によって侵害された人権を救済することにあるのだから。国家や国家機関の高官を訴えられないでは司法ではない。

韓国では、国民が裁判所に政府高官を訴えたとて驚く人はない。韓国の憲法裁判所は、政府批判の提訴で溢れており、判決もその期待に応えている。

理屈の上からは、立法や行政が国民の人権に冷淡であるときにこそ、司法が人権救済機関としてその役割を果たすべく期待される。しかし、現実には、立法や行政の「民主化」の進んでいない社会では、司法も十分な機能を果たし得ない。軍政時代の韓国の裁判所は、政府に不利な判決を書けなかった。政治と社会の民主化が進んで、憲法裁判所も大法院(日本の最高裁に当たる最上級司法裁判所)も、ともに人権擁護の機能を果敢に果たしつつあり、間接的に立法や行政にも大きな影響力をもつ存在となっている。日本の裁判所の判断の臆病さに歯がみすることが多い私などには、羨望の的である。

中国の現状は、民主主義の成熟度において未熟といわざるを得ない。国家だろうが幹部だろうが党であろうが、あるいは企業であろうが、あらゆる段階の権力の横暴が人権を侵害すれば、司法の判断に服さねばならない。そして、司法の判断は尊重されなければならず、侵害された人権は救済されなければならない。

この点についても、安倍靖国参拝違憲訴訟が、瞠目の成果を上げることができるよう切に期待する。
(2014年4月16日)

竹富町の八重山採択地区からの独立の意向を尊重せよ・再論

4月12日の当ブログで、「竹富町の八重山採択地区協からの独立の意向を尊重せよ」と書いた。「尊重せよ」の宛名は、安倍政権であり、文科省であり、下村博文文科相であり、石垣・与那国の教育長らのつもりだった。

竹富町教委を支持して政権の不当を論じているのは私ばかりではない。多くの良識の一致するところといってよい。これに対して、産経・読売がタッグを組んだがごとく、瓜二つの社説を書いている。13日産経「竹富町の教科書 法の無視は認められない」、本日(15日)読売「竹富町の教科書 法改正の趣旨踏まえた対応に」というもの。安倍政権が攻撃されれば、産経・読売が反撃する。さながら、集団的自衛権の行使を彷彿とさせる。

中央紙には産経・読売に対抗する社説の掲載はない。4月11日付の沖縄タイムスが政府批判の立ち場から「八重山教科書問題ー政治介入に終止符打て」という渾身の社説を書いている。また、文科省から竹富町への是正要求に関して、3月15日付の琉球新報の「文科相是正要求 道理ゆがめる『恫喝』だ」というこれも気合いのはいった社説がある。両社説とも、客観的に見て格調高く、自説の根拠を具体的に展開して説得力に富む。両社説とも感動的ですらある。産経・読売のお粗末さとはまったく比較にならない。比べて読めば、一目瞭然である。

下記がこの4社説のURLである。是非、読み比べていただきたい。もうひとつ、併せて「沖縄の教科書―両方を使ってみては」という朝日のふやけた社説もどうぞ。沖縄地方二紙の格調が理解されよう。

産経http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140413/trl14041303060002-n1.htm
読売http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140414-OYT1T50106.html
沖タイhttp://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=66620
新報http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-221379-storytopic-11.html
朝日http://www.asahi.com/articles/ASG3G4J94G3GUSPT006.html

産経と読売とでは、多少の差がないわけではない。読売の方がほんの少しだけ反対論に目くばりをしている。独善的な断定調にも多少のぼかしが入っている。産経社説のこの独善の論調は、読者の要求に応えたものなのか、社説執筆陣が読者を先導しているのか。卵と鶏の関係はわからない。拠って来たるところはわからないながらも、産経だけを読んでいる人の精神構造はいったいどうなるのだろうと、他人事ながら心配せざるを得ない。心配のあまり、逐語的に反論を書かねばならないという意欲が湧いてきた。なお、産経批判はそのまま読売批判でもある。産経とほんの少しの差でしかない。五十歩百歩の差にも至らず、せいぜいが「五十歩六十歩」の程度、歩の進む方向はまったく同じである。

産経の社説は「主張」と称されている。4月13日の「主張」は、「竹富町の教科書 法の無視は認められない」との標題。以下、産経社説の部分々々を引用しながら全文を批判する。

「国の是正要求に従わず法改正の趣旨も歪(ゆが)めるのか。教科書採択で沖縄県竹富町教育委員会が、石垣市などとの共同採択から離脱を検討している。これを認めるべきではない。是正要求に従い、勝手な教科書使用をやめることが先だ。」

この出だし。なんと大上段で、なんと大袈裟なことか。滑稽極まる。国家権力から理不尽に人権を蹂躙された側に立って憤るのなら、どんな大声を発してもよい。地方の小さな町が、国の意向に従わないとして、権力の尻馬に乗る姿勢が恥ずかしくはないか。いじめに加担する卑怯な振る舞いというしかない。
しかも臆面なく、典型的な「お上は正しい」「お上のいうことには従え」論。さすがに産経の社説というべきか。本来、ジャーナリズムとは、まず「お上のいうことに本当に理があるのだろうか」「権力への抵抗には一理あるのではないか」を吟味しなければならない。「国の是正要求」は「国の要求」であるから従わねばならないものではない。国とて間違う、いや国も大いに間違うのだ。間違っているか否かの基準は日本国憲法である。憲法大嫌いな安倍政権であれば、大切な問題について間違う公算は極めて高い。是正要求の根拠とされているものには様々な疑義が提示されている。論点は具体的に明確化されているのだ。「法改正の趣旨」についても同様だ。これらの具体的な問題点に触れることがないままの、勝手な結論押し付けをやめることが先だ。

「小規模な市町村は、近隣市町村と共同で教科書を選ぶルールが、義務教育の教科書を配布するための教科書無償措置法で定められている。生活、文化など一体性のある広域で同じ教科書を使えば効率的な配布のほか、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携などメリットが大きいからだ。」

複雑な法体系を一面化しあるいは過度に単純化して把握することが間違いの第一歩である。場合によっては、誤導の論法ともなる。産経社説には教科書無償措置法しか言及されていないが、文科省の有権解釈によれば、地教行法上教科書採択の権限は各市町村の教育委員会にある。各市町村教育委員会の独立性が大前提で、小規模な市町村の便宜のために広域採択の制度ができたと理解すべきであろう。便宜のためであるべき制度が、メリットの享受よりもデメリットの桎梏が優るとなれば、制度利用に縛られるいわれはない。
広域採択のメリットはもちろんある。しかし、同時にデメリットも大きいのだ。広域化のメリットだけを語って、各市町村教育委員会の独立性喪失というデメリットを語らないのは不都合である。産経のいうようなメリットばかりであれば、強制の問題は生じない。事実、今回の法改正以前には、採択地区での教科書採択に強制は予定されていなかった。協議を尽くすべきことことが求められていただけ。
また、本来は、教科書を使う専門家としての現場教師の意見の集約や集団討議による意見反映がもっとも重要視されるべきなのだ。現場の発言の重視は、採択単位が小さいほど現実性を帯びる。現場の教師の影響力をできるだけ排除したいという政策的要求が広域採択の制度になった。「効率的な配布、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携」などのメリットは、当然に現場が考える。押し付けが正当化されることにはならない。

「竹富町の場合、石垣市、与那国町の3市町で八重山採択地区協議会をつくり採択してきた。平成23年夏の採択で協議会は、中学公民教科書に育鵬社版を決めた。だが竹富町は従わず東京書籍版の使用を24年度から始めた。地方自治法で最も強い措置の是正要求が出されたが、今年度も違法状態の教科書使用を強行している。」

これを過度の単純化という。むしろ、単純化を装った意図的な事実の曲解というべきであろう。この単純化への反駁として、少し長いが、「不審な経過」と小見出しを付された、3月15日付琉球新報社説の一節を引用する。
『そもそも竹富町教委の行為は正当な教育行政だ。それをあたかも違法であるかのように政府は印象操作している。
 経過を振り返る。石垣・竹富・与那国3市町の教科書を話し合う八重山採択地区協議会会長の玉津博克石垣市教育長は2011年6月、教科書調査員を独断で選任できるよう規約を改正しようとして反対された。役員会で選任することになったが、玉津氏は役員会を開くことなく独断で委嘱した。
 その調査員も、報告書では、保守色の極めて強い育鵬社版の中学・公民の教科書について「文中に沖縄の米軍基地に関する記述がない」などと難点を指摘。複数を推薦した中に育鵬社版は入れていなかった。
 だが同年8月23日の採択地区協議会は、玉津氏の主導で育鵬社版を選ぶよう答申した。しかし竹富町教委は8月27日、選考過程における前述の不審な点を挙げ、育鵬社版でなく東京書籍版を選んだ。
 一方、石垣・与那国2市町教委は育鵬社版を選定。3市町教委は8月31日に採択地区協議会を開き、再協議したが、決裂した。
 9月8日、今度は3市町教育委員全員で協議し、多数決で東京書籍版を選んだ。だが文科省は「全員協議はどこにも規約がない」と、この選定を無効とした。
 規約の有無を言うなら、玉津氏の調査員選任も規約にない手法だった。その点は問わないのか。
 政府は同年11月、「自ら教科書を購入して生徒に無償で給与することは、無償措置法でも禁止されるものではない」との答弁書を閣議決定している。竹富町教委の行為は合法だと閣議で決めたのだ。それが自民党に政権交代した途端、違法になるというのか。』
迫力十分な叙述である。経過の説明は以上に尽きる。これへの反論は聞いたことがない。

「竹富町の共同採択離脱の方針は、9日に成立した教科書無償措置法改正に伴うものだ。採択地区の構成単位を「市郡」から「市町村」に変えたことを捉え町単独で採択できるとしている。沖縄県教委は要望を受け認める方向だ。
 この改正は市町村合併に伴い、飛び地の自治体が共同採択するケースなどができ、不都合を解消しやすいよう見直したものだ。竹富町にはあてはまらない。」

この法改正の趣旨が最大の問題なのに、産経社説は、何とも迫力に欠ける。結論は明瞭だが、根拠の薄弱なことこの上ない。読者を説得する意思も能力もないことを露呈するのみ。
文科省が、ホームページに「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の一部を改正する法律案」について、下記URLに、概要、要綱、案文・理由、新旧対照表を掲載している。ここには産経の言い分に与するものはひと言もない。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/1344707.htm

産経の社説は、下村文科相の言い分を口移しにしただけのものだが、これについては、4月11日付沖縄タイムス社説が次のとおり反駁している。
『下村博文文科相は3月の会見で「(採択地区は)市町村教委の意見を尊重しながら、県教委が最終的に決定する」と明言。県教委が竹富町を分離しても「法の違反には当たらない」と述べた。
 政府見解は腰の定まらない印象をぬぐえない。国の恣意(しい)的な法律運用がまかり通れば不当のそしりは免れない。』

法の解釈は、文理解釈が基本である。法の文言が明晰性を欠き、文理解釈が困難なときにはじめて、立法者意思などが忖度されて目的論的解釈などに頼らざるを得なくなる。本件では、そのような事情なく、法文は極めて明晰である。ややくどいが、産経の読者にもわかるように噛み砕いて、解説しておきたい。

改正前の教科書無償措置法12条1項は、「市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に」教科書用図書採択地区を設定しなければならないと定めていた。だから、採択地区は、論理的に、「市」「郡」という区域単独の場合と、「市および郡」をあわせた地域から構成される場合があり得たことになり、それ以外はなかった。つまり、市は単独で採択地区を構成することはできたが、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったのである。

改正法は、当該箇所を「市町村の区域又はこれらの区域を併せた地域に」と変更した。これによって、採択地区は、論理的に、「市」「町」「村」という各区域単独の場合と、「市および町」「町および村」「村および市」「市および町および市」を併せた地域から構成される場合があり得ることとなった。つまり、これまで、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったが、郡という区域単位を捨象することによって、町・村ともに、単独での採択地区となる資格を取得したのである。「飛び地の自治体が共同採択する不都合を解消しやすいよう見直す」こともあり得ようが、それにとどまるなどとは条文の読みようがない。「竹富町にはあてはまらない」などということに何の根拠もない。

「同法改正では、共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された。竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ。」

改正法が13条5項が、「共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された」ことは、指摘のとおりである。そのための法改正であった。反対解釈からは、改正前には、「共同採択地区で同一教科書を使う義務は存在しなかった」と言える。これまでの竹富町教委の行動に違法があったとは到底考えられない。今後は、県教委の承認があれば、竹富町の独立した教科書採択は可能となる。「竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ」などの言は児戯に等しい。役場の存在場所が自治体の独立性を蹂躙する理由にはならない。「共同採択が自然だ」などというふやけたことが何の根拠とも理由ともなり得ない。

「下村博文文部科学相は、採択の際に教科書の内容を吟味する調査研究が、小規模の教委では難しいことも挙げ、法の趣旨を竹富町教委に「しっかり伝える」としている。沖縄県教委も法を曲げないでもらいたい。協議会が育鵬社版を選んだのは、尖閣諸島を抱える地域性から、領土などの記述が詳しい内容を重視した結果だ。」

ここにいたって、本性露顕である。恐るべき「論理」といわねばならない。教育の本旨の何たるか、教育が行政から、なかんずく国家から独立していなければならないとする大原則に無理解も甚だしい。「小規模教委は大規模教委に付け」とするのは、教育の地方分権に対する露骨な敵対感情である。教育は国家統制から距離を置かねばならない。国より広域自治体の教育委員会、広域自治体よりは基礎自治体の教育委員会、さらには学校、そして教師一人一人の独立と、分権が理想である。産経社説の「論理」はその真逆なのだ。

「同社版の歴史や公民教科書に対しては「戦争を美化する保守系教科書」などと批判が繰り返されていた。いわれのない教科書批判にとらわれ、採択を歪めたのは竹富町や沖縄県教委の方である。法に従わぬ教育委員会に安心して教育は任せられない。国の責任で是正を果たしてもらいたい。」

まさしく、国家による教育統制が安倍政権の狙いであり、右往左往しながらも、下村文科省の狙いでもある。そして、産経・読売がその応援団となっている。

本日の読売社説の一節に、「竹富町教委だけが独自に異なる教科書を採択したのは、明らかに違法行為である。文科省が地方自治法に基づき、是正要求を発動したのは当然のことだった。是正要求に従おうとしない竹富町教委の姿勢は、教育行政を担う機関として、順法精神に欠け、許されるものではない」とある。沖縄タイムスや琉球新報社説を読めば、読売の異常さは明らかとなる。しかし、何百万もの読者に、「竹富町教委・違法」と垂れ流す読売の影響力に背筋が寒くなる。

最後に3月15日琉球新報社説の末尾を引用しておきたい。

『竹富町の教育現場では(教科書採択問題が生じて以来の)過去2年、問題は起きていない。仲村守和元県教育長によると、問題行動は皆無で学力は県内トップ級、科目によっては全国一の県をも凌駕(りょうが)する。静穏に教育が行える環境ができているのだ。子どもたちに無用な混乱をもたらしているのはむしろ文科省の方ではないか』
産経よ、読売よ。竹富町への無用な混乱の助長は余計なお世話なのだ。

琉球新報は、文科省から竹富町に対する違法確認訴訟をスラップ訴訟と警戒している。しかし、竹富町は、このスラップ訴訟の提起を恐れることはない。恫喝目的の提訴自体が不法行為を構成する可能性は高い。その場合には、応訴費用を反訴請求することも可能となる。
がんばれ竹富。叛骨の島。
(2014年4月15日)

日本国憲法9条を保持する日本国民にノーベル賞を

「憲法9条にノーベル平和賞を」という運動が話題になっている。憲法9条にノーベル賞という発想だけでなく、一人の主婦の発案からはじまった運動としても話題性十分。

ノルウェーのノーベル賞委員会から、署名を集めた市民実行委員会や推薦人の大学教授らに、2014年のノーベル平和賞候補として正式に受理したとの通知が届いたと報じられている。今年の候補は278件で、10月10日に受賞者が発表されるという。

「この活動は神奈川県座間市の鷹巣(たかす)直美さん(37)が発案し、昨年1月から署名活動を始めた。市民実行委が昨夏発足、推薦資格のある大学教授らに呼びかけた。今年2月1日の締め切りまでに学者ら42人が賛同し、約2万5000分の署名と共に応募した。」
「受賞資格は個人または団体のため『憲法九条を保持する日本国民』としてノミネートされている。実行委メンバーは『改憲を目指す安倍政権を、国際的な力で穏便に止められる手段だと共感を得た。多くの人が平和憲法を尊び、危機感を持っていると実感した』と話している。」(東京新聞)

「憲法9条を世界遺産に」という大田光さんの著書がある。古賀誠元自民党幹事長の「9条は平和憲法の根幹で、世界遺産だ」という話題の発言もあった。こちらの方が普通の発想。だが、ユネスコに世界遺産登録申請の具体的な運動が起きたことは聞かない。一人の主婦がノーベル平和賞の受賞を目指す運動を始めたこと、それがノミネートの段階まで漕ぎつけたことに脱帽するしかない。

しかもこの発案者の発想は、極めて真っ当なのだ。「『戦後70年近くも日本に戦争をさせなかった9条に(平和賞受賞の)資格がある』とひらめいた。安倍政権が改憲への動きを活発化する中、『受賞すれば9条を守れる』と思ったことも大きかった (1月3日東京)」という。しっかり応援をしたい。

もっとも、多少の引っかかりを感じないわけでもない。「憲法9条にノーベル賞を」という発想は、ノーベル賞のもっている権威を前提に、憲法9条に権威のお裾分けをいただこうというものではないか。はたして、ノーベル平和賞とは、そんなに権威ある存在だろうか。また、憲法9条とは、ノーベル平和賞よりも権威のないものなのだろうか。

私の記憶では、佐藤栄作の受賞がノーベル平和賞のイメージを決定づけている。キッシンジャーが受賞し、オバマが受賞したこのノーベル平和賞の政治性は覆いがたい。はたして、ノーベル平和賞はその権威において、日本国憲法9条を凌ぐものだろうか。

ところで、法の歴史において、近代立憲主義の嚆矢となったものはアメリカ合衆国憲法(1787年)であり、輝かしく基本的人権を宣告したのはフランス人権宣言(1789年)である。ともに、過去の遺産ではなく、いまだに実定法として生きている憲法の一部である。

合衆国憲法は、後に「権利章典」部分を修正条項として付加して今日に至っている。フランスの第5共和国憲法は統治機構部分を有してはいるが、独自の人権宣言部分をもたない。前文で「1946年憲法で確認され補充された1789年宣言によって定められた、人権および国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する」として、1789年人権宣言の各条項に基づいて違憲立法審査権を行使しているとのことだ。

これらこそノーベル賞ものであり、世界遺産当確と思うのだが、アメリカ人やフラン人にしてみれば、合衆国憲法も、人権宣言もノーベル賞よりも権威ある存在として、ノーベル賞にノミネートという発想にはならないにちがいない。日本国憲法9条が、合衆国憲法や人権宣言のごとくに、歴史的にも地理的にも尊敬を勝ち得、やがてはノーベル賞など足元にも及ばない権威を獲得する日の来たらんことを願う。

なお、ひとつ提案がある。憲法第9条が受賞した場合、授賞式に臨む日本国民の代表者を選任しなければならない。これまで運動を担ってきた関係者とは別に、「9条を保持する日本国民」の代表としてふさわしい人物を。

戦争責任者の長男である天皇は、「9条を保持する日本国民」の代表としては、最もふさわしからぬ存在である。9条破壊に専念している安倍もその資格を欠く。

そこで、一般国民の中から、もっともふさわしい「9条国民代表」を選任するための大イベントを企画してはどうだろうか。年齢・性別・国籍・居住地・職業等の属性一切関係なく、日本国民としての自覚だけを要件とすればよい。そして、9条についての思いを作品にして、募集するのだ。論文・散文・小説・詩・短歌・俳句・絵画・彫刻・工芸・写真・動画・作曲・落語・浪曲・能・狂言…。要するに何でもよい。大会場で、自薦他薦のスピーチ大会を開催して、投票で代表を選任する。いかがだろうか。

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          安倍晋三の「観桜会」に思う
樋口一葉に「闇桜」という作がある。幼い頃から隣どおし、兄妹のように育った二人の物語。この二人は伊勢物語の「筒井筒」のように結ばれることはない。
娘は「一粒ものとて寵愛はいとど手の内の玉かざしの花に吹かぬ風まずいといて願うはあし田鶴の齢ながかれとにや千代となづけし親心にぞ見ゆらんものよ栴檀の二葉三つ四つより行く末さぞと世の人のほめものにせし姿の花は雨さそう弥生の山ほころび初めしつぼみに眺めそはりて盛りはいつとまつの葉ごしの月いざよう」と美人薄命を暗示される。終章、男はなすすべもなく、病床の娘の手をとりて、「風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて夕やみの空鐘の音かなし」でおわる。何ともじっれたい話。

坂口安吾の「桜の森の満開の下」は山賊の話。「この山賊はずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖ろしくなって気が変になりました」。そんな男が、例のとおり身ぐるみはごうとした女のあまりの美しさに、身も心も奪われて女房にしてしまう。ところが、この女が「外面如菩薩内心如夜叉」で、男は都に出て悪逆非道を尽くすことを強いられる。盗み、殺し、贅を尽くした都暮らしを続けるが、いつしかむなしさを感じた山賊は山に帰ろうと決意する。女はいやがるが、仕方なく山へ帰ることに同意する。花びらが一面に散り敷いた桜の木の下にたどり着いたとき、背負ってきた女が「鬼」に変わっているのに気づいた山賊は、女をくびり殺してしまう。「彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変わったことが起こったように思われました。すると、彼の手の下にはふりつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も、伸ばしたときにはもはや消えていました。あとに花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。」悪い女に迷った男のよくある話。しかし、男は繊細で感じやすい人間であり、救いがある。

次は国家権力による「桜の利用」。「桜・・それはすこやかに輝く命の花であった。そこに死の翳などの入りこむ余地はなかった。その花を、明治政府のかつての志士の幸運な生存者たちである薩長の軍事官僚たちが、勝手に武人の花、死の花に変えてしまった。明治中期、九段坂上に、戊辰・西南の内戦での戦死者たちを祀った招魂社(現・靖国神社)を建立した際、その社前に桜が植樹され、明治後期の二度の外征での若い死者たちもここに合祀されて、桜は『九段の花』として軍事国家時代の国民に深く印象づけられた」(「桜と日本人」小川和佑著)

周知のとおり、東京の開花宣言の標準木は靖国神社の境内にある。その花の盛りが過ぎたころの4月12日、新宿御苑で安倍首相が「観桜会」を催した。14000人の人が招かれ、盛大なものであったと報じられた。その席で、安倍は「給料の上がる春は八重桜」と、信じがたい駄句を披露している。

安倍は、可能であれば、九段の靖国神社に参拝し、靖国での観桜会をしたかったであろう。新宿御苑の観桜会はこれに代わるものだが、美しい「八重桜」もことのほか迷惑顔。そして、心なし安倍の駄句に赤面した風情だった。悪逆を尽くした山賊も、その害悪と責任の大きさにおいて、靖国に合祀されている戦犯には足もとにも及ばない。その戦争に無反省な安倍晋三らにも。

花は、確かに人を狂わせる。一葉のえがく余りにも繊細でか弱い人たちのようでもなく、坂口安吾のえがく孤独で内省的ではあるが残虐な山賊のようでもなく、そして安倍晋三のごとく臆面もなく策と思惑を露わにしてのことでもなく、美しいものを美しいとして、こころしずかに花見をしたいものである。
(2014年4月14日)

カジノ解禁法案に反対する

賭博は犯罪である。単に違法な行為というだけのものではない。国家が刑罰権を発動して制裁を科する必要があるとされているのだ。その本質において、互いに相手の財産を奪い合う醜い行為であり、やがては身を滅ぼす行為でもある。単純賭博罪(刑法185条)、常習賭博罪(同186条1貢)、賭博場開張図利罪(同186条2項)。博徒結合図利罪(同)と類型化され、富くじの発売も、発売の取次も、授受も犯罪(同187条)とされている。

「賭博は、お互い負ければ取られることを覚悟でのゲームだ。大人の娯楽として、刑罰をもって禁圧するほどのことはあるまい」という意見は、昔からある。賭場を開帳して、寺銭を稼ごうという有力者の声が大きい。しかし、賭博の実態が、その禁圧の必要性を確認し続けてきた。

ダンテの「神曲」では、賭博を行う者は、「他人の不利を自己の利とせし」罪によって地獄に堕ちている。最高裁は、「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」と説明している。賭博とは、マクロに見れば参加者から収奪するシステムにほかならない。宝くじもおなじ。

賭博あるいは博打は、人を不幸にする。賭博の公認は、大規模に不幸な人をつくり出す。横文字にして、賭博や博打をギャンブルといい、賭場をカジノと言い換えても、事情はまったく変わらない。

昨今は、賭博の経済効果が喧伝されている。そして、イメージを一新しようと、「IR」などと言葉をもてあそぶ。IRとは、定着しているInvestor Relationsの略語ではなく、Integrated Resortの訳語、カジノを中心とした複合型娯楽施設のことだそうだ。「統合型リゾート」の訳されている。その狙いは、賭博の本質が発散する胡散臭さをカムフラージュすることにある。

超党派の「IR議連」が立ち上げられ、議員立法で「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案」が昨年12月に提出された。認可業者が、国の認定を受けた地域でカジノを中心とする「特定複合観光施設」を設置・運営できるとするもの。その法案の審議が連休明けから動き出すと観測されている。

法案の推進母体となっている「IR議連」の正式名称は、「国際観光産業振興議員連盟」。最高顧問として安倍晋三、麻生太郎、石原慎太郎、小沢一郎などのおぞましい面々が並ぶ。業界の利権とのつながりが懸念され、それあらんか、維新の会がことのほか熱心だ。

経済紙誌に、「1兆円の市場規模」「いや、年間で総額400億ドル(約4兆円)の売り上げを期待」「ラスベガス、マカオに次ぐ巨大施設建設を」「ロビー活動活発化」「お台場に」「大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま)に」「震災からの復興の目玉に」と、景気のよい話と危ない話しとが踊る。博打奨励の尻尾を隠して、「海外の観光客を誘致してお金を落としてもらい、国内の雇用を増やし、経済を活性化させる」などと「大義」が説明されている。とりわけ、2020年の東京五輪招致がカジノ設立のチャンスと捉えられている。業界には、これ以上ない美味しい話し。庶民には不幸のばらまき。
 
もちろん、カジノ解禁法案に反対の世論は健在である。特に注目されているのが、弁護士の動き。昨日(4月12日)、「多重債務者の支援に取り組んできた弁護士らが、法案に反対する団体を設立し、全国で反対運動を行なっていくことなどを確認した」ことが報道されている。

彼らは、社会問題としての多重債務問題のおおきな一因として、ギャンブルやギャンブル依存症があることを、深刻に受けとめてきた。これまでは、競馬、競輪、パチンコ、宝くじの類である。「ギャンブルで借金を作り、家族や仕事を失う悲惨な人たちを私たちは見てきました。そうした犠牲を基に経済活性化を目指す国でいいのでしょうか」という代表(新里宏二弁護士・仙台)の言葉が紹介されている。人の不幸に向かいあってきた弁護士グループの言葉として重い。IRの公認は人の不幸に輪をかけることになる。

これから、国会議員に反対を訴えていくほか、大阪・沖縄・東京・仙台など、カジノの誘致を検討しているといわれる自治体に対して、具体的な反対運動を行なっていくことを確認したという。

カジノは、人を不幸にする。人を不幸にしての経済振興はあり得ない。また、カジノ誘致には、基地や原発の誘致と同じ匂いがする。基地や原発に依存した経済の二の舞となることが目に見えている。

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           「ローズマリーの庭」
イングリッシュガーデン愛好家のバイブル「ローズマリーの庭にて」の著者ローズマリー・ヴィアリー(1919?2001)は四月について以下のように書いている。

「ガーデニングに関心のある者にとって、春とは、大地の温度が上昇するときを意味する。道端に雑草が生えてきたらいよいよ種のまき時だ。わざわざ寒暖計で測定しなくても、まいたものは必ず発芽してくれる。それともう一つ、大地の匂いが良い年はすべてのものの生育が良好と期待していい。」

「四月とは名ばかりの寒い日が続いたのでヘッジロウ(生け垣)には春の気配は全く感じられない。葉を落とした灌木の枯れ枝がそう思わせるのだ。が、そうみえるだけで生き物たちは本格的な春に備えて着実に活動を始めている。注意していれば生け垣に沿って早足で駆けていくウサギの後ろ姿を見かけるはずだし、枯れ枝と紛らわしいのでわかりにくいだけで、ウズラたちも何やら忙しそうだ。『三月の声を聞くといてもたってもいられなくなる』といわれる活発な野ウサギたちにいたっては、長い後ろ足を最大限に生かして野原をぴょんぴょん飛んで跳ねている」

90年代に日本ではイングリッシュガーデンブームが巻き起こった。およそ似て非なるものであることは承知しながら、みな競って、日本の狭い庭にカタカナ名前の花苗を植え、装いを凝らしたものだ。雑誌や写真誌もイギリスの広大な庭に咲きそろった美しい花壇の写真を載せた。「キングサリ」の黄金色のアーチや「ホワイトガーデン」、「香りの庭」に夢中になり、英国庭園ツアーに大挙した。

その有名な庭園のひとつ「バーンズリーハウス」のオーナーが、高名な女性ガーデンデザイナーのローズマリー・ヴィアリーさんだった。「バーンズリーハウス」は英国でも特に美しいコッツウォルズ地方にある。コッツウォルズ特産の蜂蜜色のライムストーンで300年以上前に建てられた、典型的な英国の美しい屋敷である。その庭をローズマリー・ヴィアリーさんが30年以上かけて、手作りで造りあげ公開していた。4エーカーというから5000坪ほどの庭である。広大ではあるが、手に負えない広さではない。憧れにぴったりの、田園地帯の「良きイギリスの庭」だったと思う。生前のローズマリーさんに会った人たちは彼女の気取らない実直で穏やかな人柄に魅了されたようだ。目の前に造り上げられた美しい庭を見、彼女の数々の著作に触れれば当然なことだ。「聖地」を訪れる「巡礼者」は全世界から引きも切らなかったことと思われる。

私も写真で見たキングサリのアーチに魅せられて、せめて黄色い藤の花房を見上げてみたいものだと、苗屋から買ってきては何本も枯らした思い出がある。白い花や香りのある花に関心が向くようになったのも、それからのことである。

「毎年四月下旬には野生のパルサティラ・バルガリス(セイヨウオキナグサ)を観に行くことにしている。石灰岩がむき出しの西向きの急斜面に何千、何万というブルーの花が咲き乱れるのである。崖の下から見上げるようにすると一番よく見える。花は6センチほどの短い茎に隠れて見にくいからである。・・この素晴らしい花畑の地主はグロスターシャー自然保護トラストからの要請で、花が咲き出してから種子が完全に地面に落ちるまでのあいだ、家畜を一帯に近づけないと約束したそうである。トラストはこのような自然を後世に伝えていくための地道な活動を全英五十箇所で行っている。そのほか成人向けの教育プログラムと子ども向けの自然観察など、その活動は幅広く、頭が下がる思いだ。」

ここに出てくるトラストとは、英国において歴史的名所や景勝地を保護するために1895年設立されたボランティア団体、通称「ナショナル・トラスト」のこと。現在27万ヘクタールの田園地帯、960キロメートルの自然海岸、300カ所余りの歴史的建造物、230カ所余りの庭園が寄贈され、買い取られたりして、保有、公開されている。「ピーターラビット」の著者ビアトリス・ポターの保存した湖水地方やチャーチル首相が幼い頃過ごした邸宅チャートウェルなどが有名である。

このように書いたローズマリーさん亡きあと、「バーンズリーハウス」は残念ながら、ナショナルトラストの保有するところとはならなかった。ホテル業者に売却されて、宿泊客と食事をする客だけに庭は公開されているという。聖地が冒涜されたような、少々切ない気持ちになりながら、ガーデナーとしてのローズマリーさんの夢の結実の庭園がどのような形でも長く受け継がれていきますようにと切に願う。
(2014年4月13日)

竹富町の八重山採択地区からの独立の意向を尊重せよ

参議院事務局企画調整室編集・発行の「立法と調査」誌(2014年4月号、№351)に、「教科書無償化措置法の改正ー問われる共同採択制度」という論稿が掲載されている。執筆者は、「参議院文教科学委員会調査室 平井祐太」氏。2014年3月14日に執筆されたもの。A4・10頁の分量だが、経過と論点が要領よくまとめられている。しかも、私の印象では客観的で公平。これを紹介しながら、竹富町への育鵬社教科書の押しつけの不当と、八重山採択地区からの独立の意向を尊重すべきことを論じたい。

なお、下記のURLで、PDF化された同論稿を読むことができる。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20140401011.pdf

同論稿は「教科書採択制度の概要」「沖縄県八重山採択地区における教科書採択問題」「本法律案の提出」「本法律案の概要」「論点」と解説し、今回八重山における教科書採択問題に対応する必要からの最小限の法改正案の提案に至った事情が述べられている。注目すべきは、文科省が法案を作成した当時から、「採択地区設定単位の柔軟化」が意図されており、竹富町の「八重山採択地区」からの離脱のあり得ることが想定されていたということである。

周知のとおり、2012年度から使用する中学校公民教科書の採択に関して、石垣市と与那国町が育鵬社本を採択し、竹富町は東京書籍本を採択している。

「問題の発端は、平成23年8月23日、八重山採択地区の採択地区協議会(各教育委員会の教育長・教育委員1名、PTA連合会代表、学識経験者の計8名で構成)が、中学校公民教科書について、育鵬社版の教科書を選定・答申した(引用者註ー5対3)ことに始まる。答申を受け、石垣市・与那国町は同社の教科書を採択した一方、竹富町は東京書籍版の教科書を採択し、同一採択地区内で異なる教科書が採択される事態が生じた。この事態を受け、8月31日、八重山採択地区協議会規約に規定される同協議会役員会(3市町の教育長により構成)において再協議が行われ、竹富町に対し、採択地区協議会の結果どおりの採択を行うよう要請された。一方、9月8日には、沖縄県の求めに応じ、3市町の教育委員全員で構成する地区教育委員協議会が開催され、東京書籍版の「選定」を多数決で決定した。これに対し、石垣市教育長と与那国町教育長が、上記の協議会は何ら法的根拠を有しないものであり、その協議は無効である旨の文書を文部科学省に提出するなど、事態は複雑化していった。これに対し、文部科学省は、9月15日、沖縄県に対し、採択地区協議会の規約に従ってまとめられた結果に基づき、同一教科書を採択するよう求める文書指導を行っ(た)」

留意すべきは、「9月8日には、3市町の教育委員全員で構成する地区教育委員協議会が開催され、東京書籍版教科書の「選定」を多数決で決定」しているのだ。地区協議会と教育委員協議会との判断が捩れたことになった。

この事態に、「10月26日の衆議院文部科学委員会において、中川文部科学大臣(当時)より、教科書の無償給与についての考え方が示された。
…文部科学省としては、8月23日に出された八重山採択地区協議会の答申及び8月31日の同採択地区協議会の再協議の結果が協議の結果であって、それに基づいて採択を行った教育委員会、これは石垣市と与那国町ということになるわけですが、これに対しては教科書の無償給与をすることになるものというふうにまとめていきたいというふうに思っています。 協議の結果に基づいて採択を行っていない教育委員会、これは竹富町になるわけですが、これについては、国の無償供与の対象にならないということでありますが、地方公共団体みずから教科書を購入して生徒に無償で供与するということまで法令上禁止されるものではないという解釈が法制局の方からも出てまいりましたので、これに従って淡々とやっていきたいということであります。」

その結果竹富町は、教科書の無償給与を得られないことにはなったが、東京書籍版教科書の採択は認められた。これで、一件落着のはずだった。ところが、ことは淡々とは進まなかった。安倍政権の誕生で事態は急変する。国家主義万歳、歴史修正主義大好きの政治家たちが、なんとか竹富町にも育鵬社教科書を押し付けたいと画策をはじめたからだ。

それが、文科相から沖縄県に対する是正要求となり、さらには前代未聞の本年3月14日付竹富町に対する直接の是正要求ともなった。そして、本年2月28日国会提出の、「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の一部を改正する法律案」である。

その法案提出の動機は、「自由民主党内においては、平成24年11月に設けられた教育再生実行本部教科書検定・採択改革分科会が、採択地区内で採択する教科書について意見が違った場合の対応について法制度で規定するための検討を行い、12月に発表した中間取りまとめにおいて、教科書無償措置法と地教行法の法的な整合性を図る旨が明記された。さらに、平成25年6月には、教育再生実行本部教科書検定の在り方特別部会が、議論の中間まとめを発表し、教科書採択の権限と責任が十分果たされるよう徹底を図ることを求めた。」

「その一方、こうした中、文部科学省は、平成25年11月、『教科書改革実行プラン』を策定し、同プランに基づいた、教科書制度全般の改革を表明した。特に教科書採択については、『共同採択について、構成市町村による協議ルールを明確化』、『市郡』単位となっている採択地区の設定単位を『市町村』に柔軟化…が記載された。」

この「柔軟化」に関する条文の変更は以下のとおりである。

これまでの教科書無償措置法第12条1項(採択地区)の文言は「都道府県の教育委員会は、当該都道府県の区域について、市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区(以下この章において「採択地区」という。)を設定しなければならない。」というもの。
改正法では、この条文中の「市若しくは郡」が「市町村」に変更された。

法改正の趣旨は、「採択地区内で教科書が一本化できず、教科書の無償給与ができない事態の発生を防止すること等を目指し」とされている。八重山地区協議会内の自治体間で同一教科書採択の合意調整ができない現状を打破するには、竹富町に意に沿わぬ教科書の採択を強制するだけが方法ではない。文字どおり、「採択地区の設定単位を柔軟化」すれば済むことではないか。そのことによって、竹富町にも教科書の無償給与ができることになる。これこそ、住民自治団体自治の尊重であり、子どもたちの学習権を充足させる王道というべきであろう。

同論稿の「論点」には、「柔軟化」問題について、次のように述べられている。
「本法律案により、採択地区の設定単位が市町村となることで、より柔軟な採択地区の設定が可能となることが期待される。この点について、八重山教科書問題において、沖縄県教育委員会が、八重山採択地区から竹富町を分離することへの見解を文部科学省に対して求めたところ、同省は、今回の改正後においても、採択地区については教科書の調査研究が可能か、地理的に近接しているかなどの諸条件を踏まえ決定されることが必要で、八重山採択地区の分割は適当でないとの見解を示した。下村文部科学大臣も、今回の法改正はあくまで飛び地の解消が目的であり、共同採択の協議が難航した場合に採択地区の分割を可能とすることが目的ではないと述べている。しかし、本法律案が成立すれば、竹富町が八重山採択地区から分離することに、『法律上の問題はない』との声もある。本法律案によって、沖縄県が採択地区を分割して問題を解消することは法的に可能なのか等、確認していく必要があろう。」

前述のとおり、改正法は12条1項の文言を「市若しくは郡」から「市町村」に変更した。その趣旨は、「柔軟化」である。各教育委員会が不本意とする教科書の採択を強要されることを防止するための工夫の余地を拡げるということだ。

市町村立の小中学校においては、採択地区の設定は、都道府県教育委員会が、市長村教育委員会の意見を聴いて行うものとされている。もし、沖縄県教委が、竹富の八重山地区協から独立の意向を無視した場合には、軋轢が生じる。しかし、昨日(4月11日)の報道によれば、竹富町教育長は八重山地区協議会からの独立を表明、「沖縄県教委の諸見里明教育長は『町の判断を尊重する』と容認する方針」とのこと。今度こそ一件落着なのだ。

改正法の施行は、「平成27年4月1日から施行する。ただし、第12条第1項…の改正規定は、公布の日から施行する。」とされている。

「公布の日」とは、閣議決定を経て改正法が官報に掲載される日のことをいう。院の議長から内閣を経由して形式上天皇に奏上された日から30日以内に公布の手続をしなければならない。官報掲載がなされ次第、沖縄県教委は、竹富町教委の意向を確認して、採択地区再設定の手続を粛々と行えばよい。これで「違法の疑い」は完全に解消される。

文科大臣がこれに異を唱えるのは、大人げなくもあり、地方自治への不当な介入でもある。さらに、沖縄の県民感情を逆撫ですることにもなろう。よけいなことはしないことだ。
(2014年4月12日)

閣議決定での「集団的自衛権限定容認」は禁じ手だ

人は様々である。それぞれに密かな愉しみがある。他人から見れば、なんとたわいもない些事。「それがどうした」と、一蹴される類のもの。

最近の私の愉しみは、ときどきグーグルで「憲法」というキーワード検索を試みること。その検索のトップページに当ブログがあれば安心する。その順位があがればニンマリする。絶対に誰からの共感も得られない、理解を分かち合うこともできない、そのようなささやかで密やかな愉しみ。

本日午前中、「憲法」のキーワードで、グーグル検索をかけてみたところ、ヒット数は「約9,370,000件」となっている。そのトップページに並ぶトップテンは以下のとおり。
1位 日本国憲法(政府運営サイトe-Govの公式憲法典条文)
2位 憲法のニュース検索結果
3位 憲法 – Wikipedia
4位 日本国憲法 – Wikipedia
5位 法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生- 国立国会図書館
6位 澤藤統一郎の憲法日記 – article9.jp
7位 憲法とは-コトバンク- Kotobank
8位 憲法会議
9位 憲法 – キーワード(赤旗)- 日本共産党中央委員会
10位 法学館憲法研究所

グーグルがどういう基準で、配列の順位を決めていているのかは知らないし、想像もつかない。それでも、憲法会議と共産党を抜いた。小さく「万歳」をしよう。

1位のe-Gov「日本国憲法」は不動の位置を確保している。これを抜くことは不可能だろう。挑戦の対象はまずは「国会図書館」である。そして、次はWikipediaだ。これを抜くことができたら…、別になんと言うこともないのだが。コツコツと毎日ブログの掲載を継続して、より多くの人に読んでもらえるようになりたいものと思う。

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グーグルの「憲法」検索で本日2位の座を占めている「憲法のニュース検索結果」の内容は、本日(4月11日)午前4時22分配信のNHKニュース、「憲法解釈変更で容認は立憲主義に反する」というもの。

「政府が右と言えば、左と言うことはできない」という会長をいただくNHKである。首相が「集団的自衛権行使容認という憲法解釈変更を閣議決定で」とやる気満々に、「右」を指し示している。敢えてこれに水を差して、「憲法解釈変更で集団的自衛権行使容認は立憲主義に反する」と、「左」の立場からのニュースを流してもよいのだろうか。あのときと同様に幹部が官邸に呼びつけられて、「放送法を遵守せよ。それ以上のことは言わない。言わなくてもわかっているだろう」と安倍晋三から言われることにならないか。あるいは、わざわざ安倍が乗り出さなくとも、籾井会長レベルで、「放送法遵守の観点から徹底調査する」何てことにならないだろうか。NHKには、一々心配がつきまとう。

NHK報道の内容は、昨日(4月10日)夕刻に、日弁連が主催した「シンポジウム 集団的自衛権と憲法ー『積極的平和主義』を問う」の報道。正確な報道は、安倍政権の基本政策に道理のないことを明らかにすることになる。

シンポジウムは、北澤俊美氏(元防衛大臣)の基調講演とパネルディスカッション。パネラーは、北澤氏の他は、阪田雅裕氏(元内閣法制局長官)、谷口真由美氏(全日本おばちゃん党)、半田滋氏(東京新聞論説委員)。村越進日弁連新会長も、危なげない挨拶をしていた。

NHKが取材に来ていたことは知らなかったが、ネットでは次のとおりの報道とされている。

「集団的自衛権と憲法について考えるシンポジウムが10日夜、都内で開かれ、防衛大臣や内閣法制局長官の経験者が、『憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認するのは立憲主義に反する』などと批判しました。

シンポジウムは、日弁連=日本弁護士連合会が開いたもので、最初に、北澤俊美元防衛大臣が講演しました。

この中で、北澤元防衛大臣は、安倍総理大臣が集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈の変更に意欲を示していることについて、『憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使を容認することは立憲主義に反し、自衛隊にとっても死活問題だ。たとえ総理大臣であっても過去の解釈と整合性のとれない変更をすることは許されない』と批判しました。

続いて行われたパネルディスカッションでは、集団的自衛権の行使を容認する根拠として昭和34年に出された「砂川事件」の最高裁判決が引用されていることが議論になりました。パネリストの1人で、元内閣法制局長官の阪田雅裕さんは、『当時は、国際法上、集団的自衛権の概念も明確ではなかった。これまで議論になったこともない判決を根拠に憲法解釈の変更を正当化するのは不可解だ』と指摘しました。会場を訪れた女性は、『安倍政権に危機感を感じ、憲法の勉強を始めました。子どもや孫を戦争には行かせたくないので反対の声を上げていきたい』と話していました。」

NHKの報道は立派なものではないか。第一線の現場はがんばっている、ということがよくわかる。会長と、経営委員だけがおかしいのだ。

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シンポジウムでは、淡々と語った阪田さんの発言に重みがあった。

「私は、防衛政策の在り方に発言する立場にはない」とし、「私が言いたいことは、立憲主義を大切にすべきだということに尽きる。憲法9条2項に整合的な解釈として、集団的自衛権行使容認の余地はない。集団的自衛権を容認するのであれば、96条に定められた改正手続きを経て国民が憲法を改正する道を執るべきで、内閣の解釈変更で憲法が許さないことをやってしまおうということは、立憲主義に反するし、法治国家にあるまじきこと」

「違法な戦争はできない。合法的な武力の行使には二通りしかない。個別的自衛権の行使か、集団的自衛権の行使か。憲法9条2項は、戦力の不保持を明記している。これは、自衛のための最小限度の実力組織の保持と、個別的自衛権の発動に限っての武力行使を認めたものと読むべきで、集団的自衛権行使は認めないことと表裏をなしている。集団的自衛権行使を容認したら、自衛隊は他国の軍隊とまったく同じになってしまい、憲法9条の存在意義がなくなってしまう」

「これを限定容認なら、ということはできない。これまで積み重ねられてきた歴代内閣の整合的な憲法解釈を崩してしまうもの。安保法制懇の答申にもとづいてという手法も姑息だ」

専守防衛に徹すべきだという真摯な論調は力強く貴重なものと思う。

昨年(2013年)の4月?5月は、96条先行改憲論に反対する統一戦線的論調が世論に浸透して、安倍政権のたくらみを潰した。今年は、集団的自衛権行使容認論批判だ。とりわけ、「限定的容認論」なら落としどころではないか、という自民・読売的論調への徹底批判が必要だ。たまたま、本日(4月11日)の毎日社説が、「集団的自衛権 限定容認論のまやかし」である。世論調査の動向を見ても、うん、今年も勝てそうだ。

ところで、日弁連や、在京3弁護士会が主催する、市民向け公開シンポジウムは一切費用を取らない。無料というだけではない。さすがに、いつも充実した内容。

下記のサイトが今後のイベント一覧を掲載している。近々、袴田事件の報告集会もある。特定秘密保護法に関して西山太吉氏の対談も予定されている。是非、霞ヶ関の弁護士会館に足を運んでいただきたい。
http://www.nichibenren.or.jp/event.html

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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。

下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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    NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
 ※郵便の場合
  〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
 ※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 ※ファクスの場合 03?5453?4000
 ※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
    http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
  *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
  *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
  *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年4月11日)

「安倍靖国参拝違憲訴訟」提訴は、4月11日大阪・4月21日東京。

「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京ニュース」の「第0号」をメールで送信いただいた。提訴前の準備段階なので「0号」なのだろう。A4・4頁の立派なレイアウト。会の熱意と意気込みが伝わってくる。支援と激励の立ち場を明確にして、内容をご紹介したい。

第1ページが、会の事務局長による「提訴します」宣言。2頁に原告代表の関千枝子さんが「わたしはなぜ原告になったか」の記事。そして、3頁に弁護団の2名の弁護士が「司法の場でともに闘う決意」を述べている。4頁が提訴スケジュールと、4月21日当日の提訴報告集会の呼び掛け。また、大阪からの「先陣を切っての提訴」予定の報告もある。

大阪の提訴は、明日(4月11日)の予定。下記のURLに、以下のお知らせがある。
http://www.geocities.jp/yasukuni_no/

「安倍首相靖国参拝違憲訴訟・関西」いよいよ提訴!
4/11 訴訟団出発集会!
安倍内閣の戦争国家推進の前に立ちはだかろう!!
関西第一次訴訟団=原告団・弁護団・サポーター、圧倒的“元気”で出発です。
「靖国の亡霊」を生かしてはならない。二度と靖国の神にされてはたまらない!

2014年4月11日・スケジュール
2:45大阪地方裁判所正面玄関前集合
提訴3:00?  提訴後記者会見
訴訟団結団・提訴報告集会
日時4月11日(金)6時30分?
場所エル大阪・南館102号(地下鉄・京阪「天満橋」西300m)
引き続き 二次訴訟原告 募集中

そして、東京の提訴は、4月21日の予定。こちらは「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京」が立ち上げた下記のホームページに、「原告になりませんか」という呼びかけがあり、訴訟委任状のダウンロードもできる。
http://homepage3.nifty.com/seikyobunri/

安倍首相の靖国神社参拝が憲法違反であることを確認する訴訟に加わりませんか?
原告を募集しております。原告は無理という方は、支援者になることも出来ます。

「ニュース・0号」の末尾、提訴報告集会への参加呼びかけ文を転載する。
 2013年12月26日、安倍晋三首相が靖国神社を参拝しました。
 礼装し、公用車で靖国神社に向かい、「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳し、正式に昇殿参拝しました。これは公式参拝であり、日本国憲法20条(政教分離)に明らかに違反をしております。
 2014年4月21日に、170名以上の原告が具体的な形で安倍首相に批判の声を届けるべく、安倍靖国参拝違憲訴訟を東京地方裁判所へ提訴します。
 この訴訟は違憲を確認し、将来にわたる公式参拝差し止めを求める裁判ですが、「政教分離」だけでなく、平和的生存権はもちろん、「秘密保護法」成立の強行、「集団的自衛権」「武器輸出」推進、その他社会全般に及ぼうとしている安倍内閣の危険な政治を総合的に問う訴訟になればと願っています。
 提訴の日はアメリカよりオバマ大統領が来日する前日に当たります。また靖国神社でもっとも重要な祭事である春季例大祭の初日に当たります。この国が人の住むにふさわしい平和な国になるように、平和憲法を護り世界の平和の先頭に立つ国になるように、訴訟団(原告、支援者、弁護団)一同、思いを一つにして勝利したいと願い、その戦いを東京から世界へと発信します。
 つきましては、その気持ちを分かち合うべく提訴の日に、呼びかけ人・弁護団と共に報告集会を持とうと思います。
 万障繰り合わせの上、お越しいただきたくお願いいたします。
 原告以外であっても関心ある方はぜひご参加くださり、皆様の共なる連帯を願っています。
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 原告第2次募集のお知らせ
 2014年4月1日より、原告第2次募集をします。応募要領は第1次と同じです。委任状も同じもので結構です。ご応募ください。

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安倍首相の靖国神社参拝が、公的資格において行われたもので、目的効果基準によっても、政教分離原則に反するものであることは自明と言ってよい。

周知のとおり、最高裁判例は厳格分離説を採らず、相対分離を前提として、目的効果基準にもとづく「国家および地方公共団体に禁じられる宗教的活動」の範囲を明らかにしようとする。不満は残るところだが、訴訟実務においてはこの枠組みを受容せざるをえない。その最高裁判例の立ち場からも首相の靖国参拝は明らかに違憲なのだ。

目的効果基準において許容されない国の宗教的活動とは、「当該の行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉になるような行為」である。

安倍は、神道という宗教の特定宗教施設である靖国神社において、拝殿に昇殿して、祭神と宗教的な意味付けをされた礼拝対象に対し、宗教専門職の神官に先導されて、神道形式の作法に則って礼拝をしている。これが、「目的が宗教的意義をもち」の要件を充足していることは明らかだ。仮に、安倍が参拝の目的は「戦没者遺族の心情の慰藉という世俗的なもの」と弁明しても、宗教的意義を排除することにはならない。

また、安倍が首相として、靖国神社に参拝することの効果は、宗教法人靖国神社を国家に特別な結びつきあるものとするものであって、象徴的意味において、靖国神社を、援助、助長、促進することになり、反面他の宗教や宗教団体を、圧迫、干渉することになるものである。この点も、極めて明白である。

提訴の目的は、なによりも安倍参拝の違憲性を明確にすることにあろう。大阪からの記事の抜粋だが、「これまで、中曽根首相靖国参拝違憲訴訟では福岡高裁で『継続すれば違憲の疑い』があると指摘され、小泉首相靖国参拝違憲訴訟では福岡地裁で「憲法違反」の判決が出ています。また、大阪でも、2006年9月30日小泉首相靖国参拝訴訟(二次訴訟・台湾原住民が原告として提訴)で、高裁段階で初の違憲判断を示しています」。

安倍参拝によって各原告が侵害された法的保護に値する利益とは、まずは「宗教的人格権」である。「静謐な宗教的環境のもとで信仰生活を送るべき法的利益」と構成された宗教的人格権は、自衛官合祀拒否訴訟の一・二審において、法律上保護に値する利益として認められている。しかも、今回提訴では、安倍の憲法総体に対する攻撃の一環としての靖国神社参拝の位置づけにふさわしく、平和的生存権その他の被侵害利益構成の工夫があるはず。

原告団と弁護団の皆様に、敬意とエールを送りたい。
(2014年4月10日)。

本郷三丁目交差点での訴え?集団的自衛権行使容認ノー

本日(4月9日)夕刻、地元「本郷湯島九条の会」などが本郷三丁目交差点で集団的自衛権問題で街頭宣伝活動を行った。これまで、特定秘密保護法についての訴えは何度も行ってきたが、集団的自衛権のテーマについては初めての行動。

久々に、街頭宣伝行動でマイクを握って、家路を急ぐ人々に、ショートフレーズで語りかける。

今、安倍内閣は、憲法解釈を大転換して、集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとしています。これは、憲法の平和主義を根底から突き崩すたいへん危険なたくらみとして到底見過ごすことができません。

歴代の自民党政権は決して憲法を大切にしようという姿勢ではなかった。それでも、「我が国では、憲法9条の制約があって集団的自衛権の行使は許されない」ということで一貫してきました。これまで何度も確認されてきた憲法解釈を投げ捨てて、集団的自衛権を認めようというこの乱暴なやりかたは、安倍内閣の暴走という以外に言葉がありません。

自衛権とは、自国が攻撃されたときに、やむを得ずこれに反撃する権利をいいます。現実に攻撃がなされていること、実力で反撃する以外に方法がないこと、反撃の程度が過剰にわたらないことの3点が要件とされています。

ところが、集団的自衛権とは自国が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されたら、それを自国への攻撃と見なして、攻撃された国と一緒に戦争ができるという権利のことです。謂わば人のケンカを買って出る権利のことを言います。自分が攻撃されているわけではないのですから、本来の意味での自衛権ではありません。

日本と軍事同盟を結んでいるアメリカは世界に軍隊を展開しています。現実にたくさんの戦争をしてきました。そのアメリカが世界のどこかで攻撃を仕掛けられたら、それがどこであろうとも日本も一緒になって攻撃を仕掛けた国を相手に戦うことができるということなのです。

「義務ではないから選択肢が増えただけで差し支えないじゃないか」などと言ってはいけません。これまで日本がアメリカの戦争に巻き込まれずに済んだのは、我が国が集団的自衛権の行使はできないという憲法上の大原則をもっていたからです。この貴重な原則を投げ捨てれば、日本は参戦を拒否できなくなります。

これまで、集団的自衛権はアメリカやソ連などの超大国が、目下の同盟国から要請を受けたとして軍事介入をする口実に使われてきました。いま、安倍政権は、日本をアメリカのケンカを買って出て、世界で戦争のできる軍事大国に育て上げたいのです。

あの戦争の惨禍から再出発した日本は、再びの戦争を絶対に繰り返すまいとして平和憲法を打ち立てました。平和憲法は、その前文で、誰もが平和に生きる権利があることを確認し、憲法9条で、戦争を放棄し、「陸、海、空軍、その他の戦力はこれを保持しない」と宣言しています。

戦力を持つことのできない日本が、どうして自衛隊を持てるのでしょうか。政府は、一貫して、「自衛隊は戦力ではない」と言い続けてきました。日本は、憲法で禁止されている戦力は持てないが、国に自衛権はある。自衛のための実力は戦力ではない。そのように説明してきました。これは、半分はまやかしですが、半分は真実と言えることでもあるのです。

自衛隊はあくまで、自衛のための実力なのですから、専守防衛に徹する編成や行動が強いられます。自衛の範囲を超えた武器、たとえば空母や大陸間弾道弾などの武器を持つことはできません。ましてや、自国では使えるはずのない核兵器も持てません。海外派兵はできませんし、カンボジアやイラクに派遣された自衛隊が、軍事作戦に従事することはありませんでした。

ところが、集団的自衛権を行使できるということになれば、専守防衛の原則が崩れます。軍備にしても、海外派兵にしても、歯止めがなくなります。これは、憲法の平和主義の原則が、まったくの骨抜きになることと言わざるを得ません。

安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を叫んでいます。明文改憲、軍事力強化、特定秘密保護法、教育の国家主義化など、多方面での暴走が進んでいます。その中で、今最も重大なものが、集団的自衛権行使容認の閣議決定のたくらみなのです。

憲法の制約があって集団的自衛権の行使はできないとされているのですから、筋から言えば憲法改正以外に手段はないはずです。しかし、憲法改正の手続は国民投票で過半数の賛成を得なければならないのですから、安倍政権にその自信はありません。それなら、憲法を変えるのではなく、解釈を変えてしまおう。その発想が解釈改憲であり、閣議決定による集団的自衛権行使容認なのです。

憲法改正を実現するには厳重な手続的要件が定められています。それをすり抜けて、「国会の発議も、国民投票での過半数も得ることなく、一内閣の閣議決定だけで、憲法改正と同じことをやってしまおう」。これが安倍内閣のたくらみなのです。

政府の憲法解釈は、専門家集団としての内閣法制局が担当してきました。長年にわたる内閣法制局が担当した政府答弁の積み重ねで、「自衛隊が合憲であるためには専守防衛に徹しなければならない」「我が国では、憲法の制約があって集団的自衛権の行使はできない」という憲法解釈の見解が確定したものになっています。

安倍内閣にとってはこの内閣法制局見解が邪魔、なんと内閣法制局長官を最高裁判事に栄転させて、自分の言うことをよく聞くことを試し済みの、外務官僚小松一郎さんを後任に据えるという、異例の人事を行ったのです。やり口が姑息、汚い、と批判が噴出しています。

安倍内閣の手口の汚さはそれだけではありません。自分の言うことを聞きそうな権力迎合の人物だけを集めて、「安保法制懇」をつくり、集団的自衛権行使容認の可否について諮問をしているのです。答申の内容は分かりきっています。識者の意見を聞いたという形を整えて、閣議決定を行おうというのです。

安倍内閣のこのように姑息な手口は、今急速に国民の支持を失いつつあります。2月以来のあらゆる世論調査において、改憲反対の世論が急速に伸び、凋落した改憲賛成派を圧倒しています。朝日、毎日の調査だけはなく、読売や産経の調査結果も同様なのです。集団的自衛権行使容認派は永田町でこそ多数かも知れませんが、決して全国では多数派ではありません。

うららかなのどかな春の平和を大切にしたいものです。今日の平和を明日に続けましょう。私たちの今日の安全・安心と、子どもたちの未来のために、平和憲法の擁護を訴えます。閣議決定による憲法解釈の変更は禁じ手です。そんなことで平和を失うようなことがあってはなりません。

集団的自衛権行使容認の閣議決定ノー。安倍内閣ノー。その声を大きくしようではありませんか。
(2014年4月9日)

政治資金の動きはガラス張りでなければならない

本日(4月8日)の、朝日・毎日・東京・日経・読売・産経の主要各紙すべてが、みんなの党・渡辺喜美の党代表辞任を社説で取りあげている。標題を一覧するだけで、何を言わんとしているか察しがつく。

 朝日新聞  渡辺氏の借金―辞任で落着とはならぬ
 毎日新聞  渡辺代表辞任 不信に沈んだ個人商店
 東京新聞  渡辺代表辞任 8億円使途解明を急げ
 日本経済  党首辞任はけじめにならない
 読売新聞  渡辺代表辞任 8億円の使い道がまだ不明だ 
 産経新聞  渡辺代表辞任 疑惑への説明責任は残る

各紙とも、「政治資金や選挙資金の流れには徹底した透明性が必要」を前提として、「渡辺の代表辞任は当然」としながら、「これで幕引きとしてはならない」、「事実関係とりわけ8億円の使途に徹底して切り込め」という内容。渡辺の弁解内容や、その弁明の不自然さについての指摘も共通。

毎日の「構造改革が旗印のはずだった同党だが最近は渡辺氏が主導し特定秘密保護法や集団的自衛権行使問題など自民党への急接近が目立ち、与党との対立軸もぼやけていた。いわゆる第三極勢自体の存在意義が問われている。」と指摘していること、東京が「『みんなの党は自慢じゃないけど、お金もない、組織もない、支援団体もない。でも、しがらみがない。だから思い切った改革プランを提示できる』と訴え、党勢を伸ばしてきた。党首が借入金とはいえ8億円もの巨資を使えるにもかかわらず、『お金がない』と清新さを訴えて支持を広げていたとしたら、有権者を欺いたことにならないか」と言及していることが、辛口として目立つ程度。これに対して、産経は「新執行部は渡辺氏にさらなる説明を促し「政治とカネ」の問題に率先して取り組み、出直しの第一歩にしてもらいたい」と第三極の立ち直りにエールを送る立ち場。

もの足りないのは、巨額の金を融通することで、みんなの党を陰で操っていたスポンサーに対する批判の言が見られないこと。政治を金で歪めてはならない。金をもつ者がその金の力で政治を自らの利益をはかるように誘導することを許してはならない。

DHCの吉田嘉明は、その許すべからざることをやったのだ。化粧品やサプリメントを販売してもっと儲けるためには、厚生行政や消費者保護の規制が邪魔だ。小売業者を保護する規制も邪魔だ。労働者をもっと安価に使えるように、労働行政の規制もなくしたい。その本音を、「官僚と闘う」「官僚機構の打破」にカムフラージュして、みんなの党に託したのだ。

自らの私益のために金で政治を買おうとした主犯が吉田。その使いっ走りをした意地汚い政治家が渡辺。渡辺だけを批判するのは、この事件の本質を見ないものではないか。

政治資金規正法違反の犯罪が成立するか否かについては、朝日の解説記事の中にある、「資金提供の方法が寄付か貸付金かは関係なく、『個人からのお金を政治資金として使うのであれば、すべて政治資金収支報告書に記載する必要がある』として、違法性が問われるべき」との考え方に賛意を表したい。

仮に、今回の「吉田・渡辺ケース」が政治資金規正法に抵触しないとしたら、それこそ法の不備である。政治献金については細かく規制に服するが、「政治貸金」の形となれば一切規制を免れてしまうことの不合理は明らかである。巨額の金がアンダーテーブルで政治家に手渡され、その金が選挙や党勢拡大にものを言っても、貸金であれば公開の必要がなくなるということは到底納得し得ない。明らかに法の趣旨に反する。ましてや本件では、最初の3億円の授受には借用証が作成されたが、2回目の5億円の授受には借用証がないというのだ。透明性の確保に関して、献金と貸金での取扱いに差を設けることの不合理は明らかではないか。

主要6紙がこぞって社説に掲げているとおり、事件の幕引きは許されない。まずは「みんなの党」内部での徹底した調査の結果を注視したい。その上で、国会(政倫審)や司法での追求が必要になるだろう。

政治と金の問題の追求は決しておろそかにしてはならない。

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      向島(墨堤)のあのご婦人はまぼろしであったのだろうか
花の季節は忙しく、疲れる。天気模様を見ながら、仕事のあいまをぬって、チャンスを逃さないように、果敢に出かけなければならない。とかく気ぜわしい。

今日は「江戸の花見」。墨堤(ぼくてい)へ繰り出した。吾妻橋を墨田区側に渡って、隅田川の河岸の遊歩道に下りた。下水臭い匂いが鼻につくが、10分もすれば慣れて気にならなくなる。広々とした隅田川の流れとどこからもみえるスカイツリーをバックにした青空のおかげだ。川の両岸を飾る主役のソメイヨシノは盛りをとうに過ぎてしまったが、風に舞う花びらと散り敷いたピンクの道路は別の美しさがある。人が少なく、名残の春をしみじみ味わえる。

隅田川沿いには3本の遊歩道がある。1本は川岸の小道。ジョギングやイヌの散歩道。2本目は小道から2メートルほど高いところを通る幅1間ほどの道。高い位置にあるので、浅草(台東区)側の桜並木もスカイツリーもよく見える。テント張りの出店も出ている。道端にソメイヨシノがずらりと植えられていて、盛りの頃の人出は歩くのも難しかったろうと想像される。その外側に2車線の車道が走っている。

その車道を隔てて、3本目の小道がある。それが今日のお目当て。ソメイヨシノだけでは花の季節が短すぎることに気がついた墨田区公園課がその3本目の小道に39種76本のサトザクラを植えた。こちらはやっと咲き始めた品種がならんでいる。真っ白な「白妙」、ふっくらとした薄いピンクの「一葉」、黄色い「鬱金」、緑色の「御衣黄」など珍しい花が植えられている。

もともと隅田川堤に桜を植えたのは8代将軍徳川吉宗であった。隅田川の水質保全と水害対策のため、向島の堤に桜を植えたといわれている。「江戸名所花暦」(岡山鳥)に「隅田川は江戸第一の花の名所にして、此花は享保の頃、依台命(たいめいによって)植えし処の物にして、今も枝を折ることを禁ずるは、諸人のしる所なり。堤曲行にして木母寺大門へ向かう所、左右より桜の枝おいかさなりて、くものうちに入るかと思うばかりなり。」と記されている。また、「東都第一の花の名所にして、彼岸桜より咲き出でて一重、八重追々に咲きつづき、弥生の末まで花のたゆることなし」とも書かれているので、上野とならぶ江戸の三大名所、隅田川堤や飛鳥山でも花は一か月は咲き続けていたと思われる。

その古いサクラの名前や図は伝えられているが、現物は失われてしまったものが沢山ある。それを研究者や園芸家が見つけ出したり、再生させる懸命の努力を続けてきた。墨田区公園課もその努力を引き継いで、3本目の小道に結晶させようとしている。あと5年もすれば、一か月といわず二か月も咲き続ける桜の名所が出来上がるだろう。但し、残念なのは、この3本目の道の上を首都高向島線が通っていること。騒音と圧迫感はサクラの美しさも、花見の風情も吹き飛ばしてしまう。

その高速道路の暗い影の下で、夢のような薄いピンクのサクラ「衣通姫(そとおりひめ)」の前に佇んでいると、年配のご婦人が突然、「ここに防空壕がありまして、東京大空襲の時、14歳の私は焼夷弾が花火のように降ってくるのを見ていたんです」と話しかけてきた。マスクをかけたくぐもった声が「隅田川には毎日毎日たくさんの死体が流れてきたんです」とつづける。「何もかにもみんな焼けて、亀戸の向こうまでずっと見渡せました」「70年が夢のようです。せめてスカイツリーが建ったのを見れたのがよかったと思います」と、耳を近づけなければ聞こえないような声で話す。目だけが、強く光っている。

しばらく話を交わして別れて、言問橋の上で隅田川の波間に漂う都鳥が鳴き交わす声を聞いていると、あのご婦人が実在の方であったのか自信がなくなってきた。桜に酔った日のまぼろしではなかったか。
(2014年4月8日)

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