以下は、本日のCNN日本語版ネット配信記事。アメリカの銃「規制」問題についての最新事情をものがたっている。
「米ジョージア州で学校や教会などへの銃携行を条件付きで認める条項を盛り込んだ州法が23日、ネイサン・ディール知事の署名で成立した。
同法は銃の携行を認める場所について規定する内容で、許可証を持つ人物が銃を隠して一部のバーや教会、学校、行政庁舎、空港の駐車場やショッピング街など一部区域に持ち込むことも認めている。同法は7月1日から施行される。
署名式は同州北部エリジェイの屋外ピクニック場で行われ、出席者の多くは拳銃を携行していた。全米ライフル協会の帽子をかぶったり、「銃規制をやめろ」「銃は命を救う」などの横断幕を掲げる出席者もいた。
ディール知事は署名に当たり、「我々の自由を再確認する素晴らしい日」が来たと述べ、同法によって住民は家族を守ることができ、銃を携行できる場所が増えると強調。銃の持ち込みを認めるかどうかは教会やバーなどの所有者が決められるとした。
一方、反対派は同法を「銃どこでも法案」と呼んで批判していた。銃の持ち込みを認める範囲は当初の法案よりは狭められたものの、『これで米国一利用者の多い空港に銃が持ち込めることになり、学校では教室への銃持ち込みを認めるかどうかを巡って激しい論争が持ち上がる』(法案反対組織の幹部)と批判している。」
南部ジョージア州といえば、州都がアトランタ。かの「風と共に去りぬ」の舞台である。コカ・コーラ、CNNなどの企業本社所在地としても、犯罪多発地帯としても知られる。デルタ航空本社もここにあり、アトランタ空港は「世界で最も忙しい空港」という異名をとる。全米で最も銃規制が緩やかというフロリダに隣接してもいる。そのジョージア州での「銃どこでも法」の成立。
オバマ来日中だが、「アメリカのようにはなりたくない」と昔から思ってきた。私のイメージに沈潜しているアメリカの一面は、「差別の国」「格差の国」そして「暴力の国」である。「暴力の国アメリカ」を象徴するものが、「銃の社会」「銃の国」としての実態である。至るところに銃がある。いつ発砲されるかの不安から逃れられない。全米での銃所持率は57.7%に上るという。毎年1万人以上が射殺されている。いやしくも文明国、当然に銃規制の進展があるだろうと思っていたが、実はそうなっていない。ジョージアでの「銃どこでも法」の成立は、銃規制に逆行する全米の傾向をものがたっている。
銃規制に反対する思想は、「自衛のための武力は必要」、「自衛手段を備えることは権利」というもの。「『凶器としての銃』に対抗する手段としての護身の銃」を手放すことはできない、との信念である。
敷衍すれば、こうではないか。殺人や傷害、強盗・恐喝・脅迫の手段となる銃(悪い銃)と、身を守る手段としての銃(良い銃)とがある。「銃は命を救う」「住民は家族を守ることができる」「我々の自由を再確認する素晴らしい日」という発言は、良い銃が必要だし、良い銃が社会に充ちることこそが望ましい、という発想である。あるいは、銃が世に満ちれば、悪い銃は使えなくなるに違いない、というあまりに近視眼的な発想。
もちろん、銃に良いも悪いもない。どの銃にも殺傷力があるだけ。銃は本来的に危険な凶器である。使い手次第で、その危険性が現実化して、悪い銃になる。「良い銃こそ、世に満ちよ」という願いで、規制を解かれて世に出される大量の銃のうち、その一部は確実に「悪い銃」として使われる。
また、はたして銃が世に満ちれば悪い銃が使えなくなるだろうか。昨年9月、「銃の所持と殺人の間には、確実な統計的関連性がある」とする研究報告が、米国医師会雑誌に発表されている。「研究は30年間、全米50州を対象に行われたもので、銃の所持率が1%上がるごとに、殺人率が0.9%上がるとされている」という(AFPの記事http://www.afpbb.com/articles/-/2968025?pid=11340935)。
この結論は常識的なものだが、統計数値に支えられて説得力は大きい。この度のジョージアの立法も、確実に殺人率を上げることに貢献するだろう。
「国家権力に武力の独占をさせてはならない」として、人民からの武器剥奪に抵抗する思想に魅力を感じないではない。しかし、その思想の妥当性は役割を終えた過去のものとなった。歴史的には国民が銃を持つ権利が意味をもっていたが、今や国民が武器をもたないで安全に暮らせる社会の実現こそが具体的な目標となるべきだ。治安の攪乱が、身を守るべき銃を必要とする。治安の確立が銃を必要ないものとする。真に身を守る手段は、銃ではなく、いま人に銃を持たせることになる要因としての、格差・貧困・偏見・憎悪の克服をこそ目指すべきであろう。
この議論は、一国における武装自衛主義と非武装平和主義との論争に通じる。歴史は、国民が武器をもたない社会の形成をめざして、ほぼ実現しつつある。次は、各国が武器を持つ必要のない国際社会を目指すべきが当然だろう。国防軍の増強ではなく、各国間の格差・貧困・偏見・憎悪・収奪を克服して、国家間、国民間の平和的な交流の促進が課題となる。
その先頭に日本か立つことによって「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
なお、アメリカの銃規制反対派の拠りどころは、合衆国憲法である。その修正第2条は、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」というもの。「人民が武器を保有しまた携帯する権利」とは、「良い銃」の保持が憲法価値にまで高められているのだ。とはいえ、この武器保有の権利も、国民の生命の保全や生活の安全などの他の憲法価値と衝突することとなれば、衡量しなければならない。既に、銃保有の自由が「殺人率」を高めて、国民の生命や社会生活の安全に桎梏となっていることが明らかとなっている以上は、銃規制の合憲性は当然と言うべきではないか。
(2014年4月24日)
本日(4月23日)、東京高裁第23民事部(鈴木健太裁判長)は、いわゆる「たちかぜ裁判」での控訴審判決を言い渡し、国に対して7350万円の損害賠償を命じた。
よく知られているとおり、事案の内容は、海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」に勤務していた1等海士(当時21歳)が2004年10月に自殺したことについて、上職隊員のいじめが原因として、遺族が国といじめの元凶であった隊員に、その責任を問うたものである。
いじめがあったことは一審以来明らかにされていた。一審判決(水野邦夫裁判長)も、いじめの事実は認定して、いじめによって被害者が受けた精神的被害については賠償請求を認容した。が、その額は弁護士費用を含めて440万円に過ぎなかった。いじめと自殺との因果関係を認めなかったからである。
不法行為制度では、違法(故意・過失)行為に起因する全損害の賠償が認容されるわけではなく、相当因果関係が認められる範囲に限定される。相当因果関係を画するのが予見可能性である。本件の場合には、死亡という結果についての損害賠償請求が認容されるためには、いじめと自殺との間に、相当因果関係あることが要求され、いじめの被害者の自殺が「予見可能」であったことの証明が求められる。一審では、予見可能性の認定に至らなかったが、本日の控訴審判決では一転してこれを認めた。そのため、被害者の死亡による財産的・精神的損害の一切について賠償が命じられた。原告側は誇らしげに「完全勝訴」の垂れ幕を掲げた。
横浜地裁の一審判決が、2011年1月26日。控訴審係属期間3年余は最近では珍しい長期審理。統計によれば、東京高裁では民事控訴審事件の80%近くが一回だけの口頭弁論で結審になっている。本件が長引いたのは、特殊な事情による。予見可能性を立証する証拠の存在についての内部告発があったからだ。その内部告発に裁判所が耳を傾けたことが、慎重な審理となり、認容額も一審の440万円から、7350万円に大幅増額された。なによりも、事実が明らかにされ、被害者を自殺に追い込んだ自衛隊の責任が明瞭となったことが遺族にとっては何ものにも代えがたい提訴の成果であったろう。予期せぬこととして、自衛隊の常習的ないじめ体質だけでなく、不祥事の隠蔽体質まで明らかとされた。控訴審判決は、「重要な文書を海自側が違法に隠匿したと認定、このことについて独立して20万円の賠償を認めた」ことが報道されている。
もし、内部告発がなかったとしたら…。おそらくは、早期結審によって控訴棄却判決となり、一審判決が確定していたであろう。勇気ある内部告発が、司法の正義に貢献したのだ。
問題の内部告発情報は、乗組員190人分のアンケートや事情聴取メモである。その中には、生々しいいじめの報告だけでなく、「自殺前夜に、被害者から自殺を示唆された」という聴き取りメモもあった。一審では国側は、そのすべてが破棄されて存在しないとしていたが、実は保管されていたことが内部告発で判明した。この内部告発者は、法務に携わり本件を担当した現役の三等海佐。
朝日の生々しい報道がある。この三佐が直接上司に発言したのは、2011年1月26日。一審判決の日の言い渡し時刻の直前だったという。懐には、ICレコーダーを忍ばせて、海自の幹部の一人である首席法務官の部屋を訪ねた。「説得に失敗したら、人生が破滅する――。覚悟のうえでの『直訴』だった」という。しかし、この説得が聞き入れられることはなかった。
三佐は情報公開を請求するが、海自は「アンケートは破棄」と回答。三佐は、その後の2012年2月遺族側弁護士に事情を打ち明ける。そして同年4月、「海自はアンケートを隠している」と告発する内容の陳述書を東京高裁に提出した。すると、同年6月海自は一転して「アンケートが見つかった」と発表。以後、審理の方向は大きく転換することとなった。
ところが、思いがけないことが起こる。2013年6月、海自から三佐に、懲戒処分手続きの開始を通知する文書が届くのである。三佐は、調査の関連文書のコピーを証拠として自宅に保管していた。海自はこれを規律違反だと主張し、三佐は「正当な目的であり、違反にあたらない」と争っている。今後、海自がこの件をどうするか、予断を許さない。
「公益通報者保護法」の制定が2004年6月、施行は06年4月1日からである。この法律の制定過程の議論では、過剰な期待を抱いたものだ。この法律は、我が国の文化史の画期となるものではないか。組織に埋没した個人の主体性を救い出すきっかけとなるのではないか。圧倒的な存在としての「組織」、その最たるものとしての「国家権力」に対して、個人に闘う武器を与えるものとなるのではないか…。期待したほどの法律はできなかったが、それでもこれは第一歩。これからは内部告発者が、「公益通報者」として保護される時代なのだと期待させるものはあった。あれから10年、個人と組織との力関係の変化は生じていない。
そのような社会において、本件の三佐には、無条件に敬意を表するしかない。ときどき現れるこの三佐のような「正義の人」が、社会の鑑である。一人一人を励ます貴重な存在でもある。私も、ささやかな組織への抵抗を経験して、この人の覚悟のほどがよく分かる。言うは易く行うは難いのだ。社会はこの人に感謝すべきである。表彰すべきが当然で、懲戒処分にするなどとはもってのほか。海自には、よくお考えいただかねばならない。
**********************************************************************
散歩をしよう。サクラが終わっても、いたるところ緑。
庭でタケノコを見つけた。丁寧に掘りあげて、茹でて、ありがたく頂戴することにしよう。長さ20センチ、直径5センチほどの小さなもので、汁の実ぐらいにしかならないが。
実はこのタケノコの親は、15年ほど前に、ブロック塀の下をかいくぐって隣から家宅侵入してきた不届き者だ。その都度、これを手打ちにしてきた。その隣にはアパートが建って、元の竹林は消滅したのだが、我が家の日当たりの悪い庭に侵入した分だけが生き残って、細々と命脈を保っている。ひょろりとした3本の「孟宗竹」が、毎年1、2本ほどのタケノコをやっとのことで顔を出す。それを情け容赦なく掘りあげるのである。気がつかない年には、細くスラリとした青竹が立ち上がって、そのまま命を全うすることもある。そんな年は、古竹を切って物干し竿にするのだ。猫の額ほどの庭だが、豪壮な話のタネにはなるので、この竹林は絶やすことなく大切にしようと思う。
さて、こちらは本当の庭園の話。東大本郷の三四郎池では、まわりの木に這い上ったヤマフジが今を盛りと、見事に咲き誇っている。花に絡まれた木が池の上に傾いて、池に映った藤色の美しいこと。きっと、ヤマザクラが終わった関東の里山をヤマフジの薄紫が飾っているのだろうと想像するだけでうっとりする。
東大の構内はいたるところで、大木のイチョウに可愛らしい小さな葉が出てきて賑やかだ。木の下には役目を終えた雄花が、歩道がみえないほどたくさん散り敷いている。トチノキも天狗の団扇のような大きな葉をゆったりと開いている。モミジもヤナギもマンサクもコブシもサンシュユも柔らかな葉を開いている。薄紫の花を枝の先にいっぱいつけた桐の木も空に向かって堂々と華やかだ。ハナミズキも白やピンクの花に飾られて、アピール満点だ。上だけではない。下を見れば、色とりどりのツツジが咲き始めている。郊外や山には行けなくとも、公園や街路の緑を眺めるだけで、気分が爽快になる。時間を見つけて散歩をしよう。
(2014年4月23日)
「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は、昨日(4月21日)NHKを訪れて籾井勝人会長の辞任を求め、同会長が4月中に辞任しない場合には、半年間の受信料支払い凍結を視聴者に呼びかける運動をスタートさせることを通告した。
その運動方針の概略が、同会のホームページに掲載されている。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/
受信料支払いの拒否ではなく、支払いの凍結。それも半年間と期間を区切ってのもの。その半年の間に籾井会長が辞任すれば、凍結を解除し遡って未払い分を支払う。仮に、その時期が半年経過後であっても、未払い分の清算を呼び掛けるという。よく練られた優れた運動方針であることを改めて確認して支持を表明したい。
運動として「優れた」方針という意味は3点に集約されよう。まず「運動に道理がある」、次いで「多くの人に参加してもらいやすい」、さらに「要求実現に実効性が高い」ことである。
まず、道理がある。運動目的の道理の存在についてはいまさら言うまでもない。そのポイントは、放送法の立法趣旨がNHKの権力からの独立の確保にあるにもかかわらず、安倍晋三の「お友だち人事」が立法の理念を極端に破壊していることにある。これを是正しようという、運動「目的」の正当性が大前提。そのことは当然として、いま、運動方針の吟味に際して問題とすべきは、運動の「手段」として社会的に是認さるべき道理を具備していること。それあって初めて、多くの運動参加者が自らの行動について正当性の確信をもつことができる。
「視聴者コミュニティ」の代表である醍醐聡さんは、「受信契約は一方的な義務ではない。NHKと視聴者の相互信頼からなる契約だ。籾井氏によって信頼が壊されているなかで、支払い凍結は当然の権利だ」と語っている(本日付赤旗)。まことにもっともな道理ある説明ではないか。NHK側の信頼関係損壊への視聴者の対抗手段として適切であって、「過剰な反応」だの、「権衡を失する」などという言いがかりを許さない。社会的な支持を獲得することに十分な道理をもっている。
なお、道理の上で大切なことは、良心的なNHK職員への配慮がなされていることである。会の名称が「NHKを激励する」との文言を含んでいる。籾井や百田・長谷川を激励する趣旨ではない。権力からの締め付けの中で、ジャーナリストとしての良心を貫こうとしている現場の職員との連携を大切にする立ち場からも、「半年間の支払い凍結」という運動手段は道理がある。
次いで、多くの人に参加してもらいやすいこと。おそらくこれが、再重要のポイントである。「受信料不払い」となれば、まなじりを決した決意が必要と考える人も少なくなかろう。「支払い凍結」であれば、気楽にいける。「半年間だけ」と期限を切っのものであれば、なおのこと運動参加のハードルは低いものとなる。多くの人が参加しやすくなっている。
「NHKに打撃を与える運動に参加するのだから何らかのリスクを覚悟しなければならないのではないか」とご心配の向きに、「大丈夫ですよ。覚悟などする必要はありません。心穏やかに『半年間の支払い凍結を』」と呼び掛けたい。
刑事弾圧のあり得ないことは4月18日の当ブログで、既に詳述したので繰り返さない。下記URLを参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=2496
そのブログに、民事的なことにも触れてはいるが、少し補充をしておきたい。
NHK受信料の支払い義務は受信契約締結の効果として生じるのだから、民事上の債務不履行という状態にはなりうる。借金の返済が遅滞している、家賃の支払いが滞っている、キャッシングの決済が未了となっている、などと同じ事態。「滞納になっている」のだ。だから、NHKから民事的な催告があることは当然のこととして予想される。それ以上の強硬手段として、民事訴訟の提起があるかといえば、ないと考えるのが常識的な判断。
NHKの側に立って考えてみよう。
「この件で、何万件も提訴して、訴状を送達して、第1回の口頭弁論期日を決めて、答弁書の提出を受けて、再反論して…、証拠を提出して…、半年の間に結審して、判決を取ることなどまず不可能だ。ましてや、判決に基づく強制執行などあり得ない。だから、訴訟費用と手間暇かけての提訴は、絶対にペイしない。せっかく手間暇かけての裁判の途中で半年経って任意に支払われたら、それで訴訟は終了なのだから。たくさんの人が支払い凍結となれば、膨大な訴訟コストでNHKは経済的な苦境に追い打ちを受けることになる。半年経っても支払わない人にだけ、選択的に提訴を考えるという方針を採った方が賢いやり方だ。」
だから、NHKの提訴は考えにくいが、なにしろ籾井会長を擁するNHKの経営陣である。コストを無視しての提訴が絶対にないとは言えない。万が一には提訴されることもありうるだろう。しかし、提訴されたところで大したことにはならない。貴重な経験と思っていただいて結構なのだ。衛星契約で、せいぜいが1万3000円程度の裁判なのだから。
催告がNHKから届いているかぎりは、慌てることはない。無視していてもよい。内容証明郵便による催告でも同じこと。しかし、裁判所から来た場合には、放っておいてはいけない。おそらくは、簡易裁判所からの督促手続としての「支払い命令」が先行すると思われる。これを放っておくと、確定判決と同じ効果が生じることになるから、異議の申立をすることになる。すると、正式裁判に移行する。1万円程度の裁判。NHKの方が辛いだろう。
仮に、NHKからの提訴があった場合には、多くの視聴者が共同して応訴することになるだろう。その場合には、視聴者側の言い分を堂々と述べることになる。受信契約は双務契約であるから、NHK側が自分の債務を履行していることが大前提でなくてはならない。放送法に定められた公共放送としての責務をきちんと果たしているかを問題としなければならない。籾井会長や、百田・長谷川などの経営委員の、人選や言動、あるいはその放送内容への影響などが裁判の焦点となるものと考えられる。安倍晋三の女性国際戦犯法廷取材番組への介入の事実も再度問題となろう。大裁判といってよい。到底半年で決着がつくはずもない。凍結期間半年が経過すれば、裁判も終了する。
そして、半年間の支払い凍結が、会長の辞任という要求実現に実効性の高い手段であることは、いうまでもない。籾井会長の辞任を勝ち取ることができたら、安倍改憲志向政権に大きな打撃を与えることができる。この運動是非とも成功させたい。NHKの権力からの独立性確保のために、民主主義の大義のために、NHK受信料支払い半年の凍結をお勧めする。
***********************************************************************
「人間の品質管理」を連想させる、キリンとライオンの殺処分
トゲのように心に刺さって忘れられない記事がある。「デンマークの動物園 今度はライオン四頭殺処分」という3月26日付け毎日新聞の報道。詳細はつぎのとおり。
2月9日、デンマークのコペンハーゲン動物園が、飼育していた1歳6カ月の健康な雄のキリン「マリウス」を殺して、ライオンの餌にした。それも、子どもを含んだ来園者の目の前で解体し、ライオンの檻に入れて食べさせた。インターネットサイトに載っている写真の、横たわった血だらけのキリンのうつろな目が正視に堪えない。
ほかの動物園や個人からの引き取りの申し出を拒否して、この処分を強行したので全世界から批判が殺到した。動物園側の主張は、「マリウスの遺伝子は繁殖という目的からすれば、平凡すぎた」「キリンの解体は来園者にとって遺伝的多様性を学ぶ機会である」「キリンの肉はもったいないのでライオンの餌にした」というもの。
さらに、園内のキリンが殖えすぎて(8頭)、近親交配を避けるため殺処分しなければならなかったと主張している。繁殖プログラムに参加しているヨーロッパの動物園団体も規約に則っているとして、この殺処分を支持した。果たして公開についても支持したのだろうか。これらの動物園のキリンの先祖は同系統で、マリウスはどこにもらわれていっても、健全な子どもの父親にはなれない。動物園のスペースは限りがあるので、遺伝子的にもっと価値の高いキリンのために場所を空けなければならないので、去勢しても飼うことはできないともいっている。
当然のことながら、動物愛護団体やたくさんの個人からは非難が殺到した。説明に当たった動物園職員はメールや電話で殺人予告を含む脅迫を受けた。解雇を要求する署名は「マリウス」の助命嘆願の4倍を超える11万通も寄せられたという。
話はこれで終わったのではない。その後の2月25日、その同じコペンハーゲン動物園がそのキリンを食べたライオンのうち4頭をやはり殺処分したという。理由は23日新しい遺伝子を入れるために、若い雄ライオンが搬入されてきたためである。年老いた16歳の雄と雌はこの若い雄と争いになるのを避けるため、また、老いた雄ライオンの子どもである2匹の子ライオンは新しく入る若い雄ライオンに殺される運命にあるため、一緒には飼育できないということらしい。理想的な若々しいライオン家族を作るため、4頭を殺して1頭を搬入したということである。気分が悪くなる。たとえ、ぬいぐるみ遊びでもこんなふうに簡単に気持ちの整理はつくものではない。子どもが古いぬいぐるみを、愛着なく平気で捨てて顧みなかったら、親は仰天するだろう。
しかし、どこの動物園でも飼育スペース確保のために余剰動物を殺処分するのは珍しいことではないらしい。ただ、コペンハーゲン動物園のように挑戦的、衝撃的にそれを公開するようなことはしない。動物園の飼育環境は良くなっているので、動物は長寿を全うする。繁殖技術も向上して、動物の数も増える。近親交配を避けるべく、動物園のあいだで動物の移動をするが、それも限界がある。動物園で生まれた子どもを自然に返すことは大変な困難を伴い、なかなかできることではない。とすれば、現代社会に動物園があるかぎり、コペンハーゲン動物園で起こった悲劇は無数に繰り返されることになる。コペンハーゲン動物園は「キリン」や「ライオン」という、目立って美しい生き物を公開殺処分して、動物園の現実をあらわにし、あえて警鐘を鳴らしたのかもしれない。
確かに、狭い檻の中をグルグル歩き回るクマを観るのは痛々しい。父親のシルバーバックが大きな背中で隠そうとしているゴリラの家族を覗くときはプライバシー侵害を恥じる気分になる。不機嫌そうにじろりと見返すハシビロコウの檻の前は「すみません」と言いながら素通りしたくなる。大きな羽をすぼめたオジロワシやエゾフクロウのしょんぼりした姿は見るに堪えない。たぶん、「見物させる動物園」の役割は終えつつあるのだろう。
だからといって、動物園がキリンを公開殺処分して、ライオンに食べさせる情景を見物させていいはずがない。「ブタやウシを殺して食べている人間が何を言うか、偽善者メ」といわれても、やはりこの殺処分には納得がいかない。合理的と情緒的の境界は明確ではない。人によって文化によってその境界は大きく異なる。殺処分はいいが、公開はいけないという人もいるだろう。コペンハーゲン動物園は非難されても、キリンの殺処分と公開に後悔の念はなく、合理的精神に則ってライオンの処分までつき進んだようにみえる。それとも、ひるんだが故にライオンの処分は公開しなかつたのだろうか。
「マリウス」と名前をつけて、慈しんできた生き物に対する惻隠の情というものはないのか。「マリウス」の生命に対する畏敬の念はないのか。公開で殺し、餌にするのは、「マリウス」の尊厳を踏みにじることにならないのか。抵抗できず、抗議もできない弱い生き物を人間の都合で安易に殺してよいはずはない。環境を破壊し、生息域を狭めてきた張本人の人間が「平凡すぎる遺伝子」とか「飼育スペースがない」といって動物を殺すのは傲慢すぎないか。だれにも「劣った遺伝子」を決め、選別する権利はないはずだ。
こんなに怯えた気分になるのは、動物園のキリンの次は「人間の品質管理」という悪夢が忍び寄っているのではという思いが浮かぶからだろうか。
(2014年4月22日)
本日(4月21日)からの3日間が靖国神社の春季例大祭。春秋の例大祭は、靖国神社でもっとも重要な祭事とされる。期間中の主行事が「当日祭」、「この日には、天皇陛下のお遣いである勅使が参向になり、天皇陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上されます」とのこと。その例大祭に、安倍首相は参拝はあきらめ、内閣総理大臣の肩書きを明記して真榊を奉納したという。真榊料5万円の支出は明らかに違憲だ。
靖国神社の例大祭の起源は、1869(明治2)年9月、兵部省が東京招魂社の祭典を定めた時に遡る。その際には、正月3日(伏見戦争記念日)、5月15日(上野戦争記念日)、5月18日(函館降伏日)、そして9月22日(会津降服日)の4日であった。要するに、例大祭のルーツは戊辰戦役での官軍戦勝の記念日であった。戦没者の慰霊よりは官軍の戦勝を記念するという靖国神社の基本性格をよく表している祭りの日の定め方。賊軍とされた側にとっては不愉快極まりない日程の決め方なのだ。
1879(明治12)年東京招魂社が改称して別格官弊社靖国神社に列格した際に、例大祭日は5月6日と11月6日の年2回と改められた。11月6日は会津降服日の太陽暦への換算の日である。5月6日の方は、その半年の間隔を置いた日。政府と靖国神社の、内戦における官軍戦勝へのこだわりが良く見える。会津の人々にとって、また、奥州羽越列藩同盟に参加した31藩の「敗者」側の人々にとって、靖国は飽くまで勝者の側だけの軍事的宗教施設であった。
その性格が変わるのが、日清・日露の戦役を経て後のこと。1912(大正元)年に、陸・海軍省は靖国神社の例大祭を4月30日(日露戦争勝利後の陸軍大観兵式記念日)と10月23日(同じく海軍大観艦式記念日)に改めた。ここに、軍事施設としての靖国神社は、内戦の軍隊に対応する宗教施設から、侵略戦争の軍隊に対応する施設に様変わりした。
さすがに戦後の宗教法人靖国神社が陸海軍の記念日をそのまま例大祭の日とすることは憚られたものか、現在の春秋の例大祭は、4月21日?23日と10月17日 ?20日となっている。
安倍首相は、その靖国神社春季例大祭に、「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書きを付して、真榊料5万円を奉納し、真榊を献納したという。
本日の共同通信配信記事。
「安倍晋三首相は21日、東京・九段北の靖国神社で同日から始まった春季例大祭に合わせ『内閣総理大臣 安倍晋三』の名で『真榊』と呼ばれる供物を奉納した。昨年末に参拝したばかりである上、23日に来日するオバマ米大統領が日本と中韓両国との関係悪化を懸念していることに配慮し、参拝は見送る方向だ。田村憲久厚生労働相や伊吹文明、山崎正昭衆参両院議長、日本遺族会会長を務める尾辻秀久元厚労相も真榊を納めた。
首相は昨年春と秋の例大祭でも真榊を奉納した。今回も同様の対応を取り、靖国参拝に反対する中韓両国と、自らの支持基盤である保守層の双方に配慮する」
朝日の記事
「安倍晋三首相は21日、靖国神社で始まった春季例大祭に神前に捧げる供え物「真榊」を「内閣総理大臣 安倍晋三」の名前で奉納した。閣僚ではこのほか、田村憲久厚生労働相も真榊を奉納した。
安倍首相は、中韓両国との関係や、日本と近隣諸国の不安定化を懸念する米国に配慮し、23日までの春季例大祭中の参拝は見送る方針。オバマ米大統領の来日を23日に控えていることも影響したとみられる。神社によると、真榊料は5万円で、21日までに納められたという。
菅義偉官房長官は21日午前の記者会見で「首相の私人としての行動に対して政府として見解を述べる事柄ではない。(日米)首脳会談にまったく影響がない」と述べた。
首相は昨年の春、秋の例大祭にも真榊を奉納している。就任から1年たった昨年12月26日には、靖国神社に参拝し、中国や韓国から非難を受けたのを始め、米国からも「失望」を表明され、外交上の問題になっていた。
首相は閣僚の靖国参拝を「自由意思」として容認している。今月12日には新藤義孝総務相、20日には古屋圭司拉致問題相がそれぞれ参拝した。」
いずれの記事も、海外からの批判に配慮して、「正式参拝したいところを我慢して、真榊奉納にとどめた」とのニュアンス。しかし、「正式参拝は問題だが、真榊奉納なら違憲の問題は起きない。海外からの批判も避けることができる」というわけではない。むしろ、公式参拝の違憲性については、最高裁の判例はないが、金銭の奉納については最高裁大法廷判例が明確に禁じているところ、とも言えるのだ。
サカキとは、モッコク科サカキ属の常緑樹。常緑樹には、ヨリシロとして神が宿るという信仰があって、神事に用いられる。「榊」という国字もそこから生まれた。榊立を用いて神前に捧げられる。
本来、真榊とは神前に供えるサカキのこと。靖国神社では、春と秋の例大祭でのみ、真榊の奉納を受けつける。安倍首相は第1次内閣の2007年も、昨年の春秋の例大祭でも真榊を奉納した。
愛媛県知事の靖国神社玉串料奉納を憲法の政教分離原則に違反するとした歴史的な愛媛玉串料違憲訴訟における最高裁大法廷の違憲判決(1997年4月2日)がある。玉串料も真榊料も、宗教団体への宗教的な意味合いを付された金銭の奉納である点では同じだが、玉串料よりは真榊料の方が習俗化から遙かに遠く、宗教的な色彩が濃厚と言わざるを得ない。
ちなみに、玉串料訴訟判決の15人の最高裁裁判官の意見分布は違憲13対合憲2だった。反対にまわった守旧派裁判官の名は覚えておくに値する。三好達と可部恒雄。とりわけ、当時最高裁長官だった三好達。いまは、右翼団体の総帥、「日本会議」の議長である。「最高裁長官」だからといって、超俗の公平無私な人格をイメージしたら大間違い。所詮は、俗の俗、偏頗の極み、右翼の使い勝手のよい人物でしかない。
愛媛玉串料訴訟の事案と、安倍真榊料奉納とを比較してみよう。
寄付者は、愛媛県知事と首相。
寄付を受ける者は、両者とも宗教法人靖国神社。
寄付の名目は、玉串料と真榊料。
寄付金額は、愛媛県知事が9回で合計4万5000円、安倍首相が1回5万円。
「玉串」と「真榊」の何たるかについての穿鑿は大きな意味をもたない。「賽銭」「献金」「布施」「供物料」「初穂料」「神饌料」「幣帛料」‥、何と名付けようとも。宗教的な意義付けをした金銭の授受があれば、愛媛玉串料訴訟の目的効果基準の法理が妥当する。
残る問題は、愛媛の事件では、玉串料は露骨に公費からの支出であった。これに対して、安倍首相や政府は、「真榊料の支出は私費から」「だから私的参拝」と言っているそうだ。しかし、麗々しく「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書きを付した真榊がその存在を誇示している。
純粋に私的な参拝というためのメルクマールとしては、三木内閣の靖国神社私的参拝4要件がある。「公用車不使用」、「玉串料を私費で支出」、「肩書きを付けない」、「公職者を随行させない」というものである。仮にポケットマネーからの真榊料5万円の支出であったとしても、明らかに、他の3要件ではアウトだ。
政教分離原則が求めているものは、政権と靖国神社との象徴的紐帯の切断である。靖国神社という特定の宗教団体が国から特別の支援を受けているという外観を作出してはならないのだ。靖国は国を利用してはならないし、政権も靖国神社信仰を利用してはならない。相寄る衝動をもつ両者だが、真榊料奉納を仲介とした結合を許してはならない。
折も折、本日東京地裁に273人の原告が安倍靖国参拝違憲訴訟の提訴をした。昨年12月の安倍首相の靖国神社参拝という違憲行為によって、それぞれの宗教的人格権や平和的生存権が侵害されたという訴え。1人当たり1万円の損害賠償と今後の参拝差し止めを求める内容。同種裁判の提起は4月11日の大阪(原告数546名)訴訟の提訴に続くもの。
安倍憲法破壊内閣に、靖国参拝違憲の判決を突きつけてやりたいものである。そして、同様の法理は参拝だけではなく、真榊料の奉納にも妥当するのだ。
(2014年4月21日)
1945年8月 6日
1954年3月 1日
2011年3月11日
以上は人類が永久に記憶しなければならない日。とりわけ、日本人である私たちにとって忘れることのできない日。
8月6日は、人類が核という自殺手段を手に入れたことをこの上なく残虐な方法で明示した日。3月1日は兵器としての核の威力が極限に達して、ヒロシマ型原爆の1000倍規模の水爆(「ブラボー」15メガトン)が爆発した日。そして、3月11日は核と人類が共存できないことが明らかとなった日。いずれの日にも日本人が犠牲となった。第五福竜丸の被ばくは原水爆禁止運動の起点となり、また今福島原発事故の放射線被害の教訓ともなっている。核兵器の脅威と、核の放射線被害の恐怖との結節点でもある。
今年は、その第五福竜丸の被ばくから60周年。本日は、記念行事のひとつとしての連続市民講座の第1回。公益財団法人第五福竜丸平和協会と明治学院大学国際平和研究所との共催での「いま水爆の時代を問う?核と向き合い明日へ」の4回シリーズのうちの「第五福竜丸被ばく・ビキニ事件をたどる。その国内的影響」。午後1時に開会して閉会は5時15分。たいへん充実した「講座」だった。いささかくたびれるほどのレベルの高さ。
最初に、20分余の科学ドキュメント「死の灰」が上映された。第五福竜丸の甲板に付着して持ち帰られた「死の灰」の分析と、ビキニ近海の放射線汚染を調査した俊鶻丸のドキュメント。当時の緊迫した雰囲気が伝わってくる。
俊鶻丸は、水産庁が企画した調査船。その第1次の調査航海は、54年5月15日に竹芝桟橋出港となっている。3月1日に被ばくした第五福竜丸が一直線に母港焼津に寄港したのが3月14日。16日に読売が「世紀のスクープ」記事を掲載。乗組員全員が東大附属病院で「急性放射能症」と診断されたのが3月20日である。3月下旬には水産庁がビキニ海域の総合調査企画を開始し、4月に各分野の科学者から成る調査顧問団を編成し、調査船に乗り込む調査団22名と報道班9名を人選、水産講習所の俊鶻丸に測定器具・分析器具、ガスマスクまでを積み込んでの出港であった。その迅速性に驚かされる。帰港は7月4日。
本日の講座の前半は、「被ばくと関わった科学者に聞く」として、当時直接に死の灰の分析に当たった池田長生さんと、俊鶻丸に乗り組み手製の測定器を駆使して環境放射線を測定した岡野眞治さんお二人の講演。お二人とも、もうすぐ90歳。直接お話を聞くことがでたことだけで貴重な体験であった。
「死の灰」の正確な分析と、俊鶻丸の海洋調査とは、「放射線など大したことはない」「日本は大袈裟に過ぎる」と言っていたアメリカに、恐怖の根拠を突きつけるものとなった。遅ればせながら55年2月に、アメリカも調査船タニー号を派遣するが俊鶻丸の調査結果を追認することとなった。
俊鶻丸の調査は、水爆実験への強力な批判の根拠となった。三宅泰雄博士(第五福竜丸平和協会・初代会長)は、次の言葉を残している。
「水爆実験に伴う多くの研究や観測、これらはいかにうまく水爆を使うかというための研究である。俊鶻丸のみが世界でただひとつ、いかにして人類を水爆の危険から守るか、というヒューマニズムに立脚した研究を行った」(「死の灰と闘う科学者」より)
本日の講座の後半はお二人の水産・海洋学専門家の講演と質疑。「ビキニ事件とマグロ」(水口憲哉さん)、「放射能雨と地球環境」(青山道夫さん)。パワーポイントを使っての詳細な講演だった。講演内容は、近々ブックレットとして出版される予定。加筆のうえ表やグラフを添えてのものとなるはず。楽しみに待ちたい。
本日の講演では、当然のことのごとくに、会場からの質問は福島第1原発事故による「海洋汚染」と「水産物の安全性」に集中した。過去の問題でもなく、将来のリスクとしての問題でもない。まさしく現在進行中の放射線被害の恐怖は、核と人類との共存があり得ないことをものがたっている。かつては、原水禁運動にも「原子力の平和利用」というスローガンが掲げられていた。3・11を経た今、兵器としての核利用も、原発としての核利用も、人間の手に負えぬものとの認識が多くの人に共有されている。
第五福竜丸平和協会が、被ばく60周年を記念して出版した記録集の「第五福竜丸は航海中」の帯に、「核なき世界に」としっかり書き込まれている。第五福竜丸の航海が目指すさきは、核兵器も原発もない世界なのだ。
次回の市民講座は、6月14日(日)午後1時30分より。場所は明治学院大学。テーマは、「ビキニ事件、日米関係への影響」、報告者と演題は以下のとおりである。
(1)公開外交文書に見る第五福竜丸被ばくビキニ事件と日米関係・市田真理(展示館学芸員)
(2)ビキニ事件の米政策への影響と日米関係・太田昌克(共同通信編集委員)
(3)ビキニ事件と経済界の動向・山本義彦(静岡大学名誉教授)
今回は専ら理系だったが、次回は社会科学系。これも充実したものになりそうだ。参加希望者は、第五福竜丸平和協会の下記ホームページから事前の申込を。
http://d5f.org/top.htm
(2014年4月20日)
最近、各地の自治体による、護憲運動や市民運動への冷たい仕打ちが目につく。安倍政権発足以来の時代の空気を反映するものとして不気味なことこの上ない。その口実が、「行政の政治的中立」である。これには警戒を要する。
このことを最初に意識したのは、神戸市が今年の憲法記念日集会への後援申請を拒否したという報道。この件については、「『政治的中立』という名目での政治的偏向」との標題を付して、3月13日の当ブログで取りあげた。その集会は内田樹氏の講演をメインとするもの。講演のテーマは、「憲法施行67周年、今あらためて憲法を考える」というだけの党派性の片鱗もないもの。しかも、同氏は地元・神戸女学院大学で長く教鞭を執った人ではないか。前例に鑑みて、主催の実行委員会は当然に後援の決定あるものと想定していた。不承認には驚いたようだ。断った市教委は、その理由を「『憲法』自体が政治的な要素を含むテーマである昨今の社会情勢に鑑み」と堂々と明示したそうだ。「憲法を考える」「憲法を守ろう」というごく当然の言動が政治的だと攻撃される時代なのだ。
長野県千曲市でも、東大の小森陽一さんの3月30日講演会(実行委員会主催)の後援要請を市長が「不承認」としている。同市では、07年3月の「九条の会」呼びかけ人の澤地久枝さん、同11月の経済同友会終身幹事の品川正治さん、08年3月の経済アナリストの森永卓郎さんの各講演会(いずれも千曲市9条の会主催)は、市も市教育委員会も後援していたのにかかわらず、である。ここでも、不承認の理由が「講演内容に政治的主張を含むと認められるため」「講演テーマは国論を二分する問題であり、政治的意見の分かれる典型的なもの…行政の中立性が保てない恐れがある」とされているという(3月7日付赤旗による)。
栃木県那須塩原市は、新潟県巻町での脱原発運動の実話をドラマ化した「渡されたバトン さよなら原発」上映会への後援を断った。同市は以前、同じ団体が催した憲法などに関する上映会や、原発関連でも内部被ばく対策など別の団体が催した5件は後援した、にもかかわらずである。従前の例に照らせば、明らかに方針が変わっているのだ。
「渡されたバトン さよなら原発」は、住民投票で原発建設計画を撤回させた新潟県巻町(現新潟市)のドラマで、映画制作会社インディーズ(東京都中央区)が社会的なテーマを扱ったシリーズの3作目。市民でつくる実行委員会は昨年11月、市に後援申請したが却下され、今年1月に後援なく開催した。実行委によると、市の取り扱い要領が「目的や内容に公共性があること」を名義後援の条件としており、「公共性があると明確に判断できない」と説明されたという(東京新聞)。原発問題や原発反対運動にかかわる問題を、「公共性がない」と切って捨てる神経は理解しがたい。当然のことながら、主催者も「那須塩原市は福島県に接しており、原発への関心は高い」と反発している。
そして、「千葉市も自主規制 平和集会 後援断る」という報道である。一作日(4月17日)の東京朝刊。記者の問題意識がよく反映した記事になっている。
「憲法や原発をテーマにした市民団体のイベントなどの後援申請を拒否する自治体が相次いでいる問題で、千葉市も4月から、平和に関する行事の後援などの申請要件を厳格化し、実質的に拒否していることが分かった。市ではこれに先立ち、1月の平和集会の後援を拒否していた。
市は、行事の共催や後援に関する基準を4月から変更した。従来は、共催や後援を見送るのは政治的・宗教的中立性を侵したり、営利目的のケースだったが、新たに平和関連行事を念頭に『一般的に論点が分かれているとされる思想、事実等について主観的考えを主張すると認められるとき』や『そのおそれのあるとき』を加えた。
市男女共同参画課によると、平和行事の定義は、戦争の悲惨さや平和の大切さを伝える行事。担当者は『東日本大震災以降、脱原発や憲法をテーマにした行事の後援申請が増えた。政治的中立性という従来の基準はあいまいで、判断に困る場合が出てきた』と説明している。」
千葉市は、「政治的中立性という従来の基準はあいまい」と言いつつ、もっと極端に、政治的中立性という口実での偏向姿勢を露わにしているのだ。
昨日(4月18日)赤旗は、『「平和憲法電車」中止ひどい」と報道している。こちらは自治体ではないが、地方の鉄道会社の方針変更による平和憲法への冷たい仕打ち。
「高知県の市民団体などがカンパを募り、土佐電気鉄道(本社・高知市)の路面電車に、『守ろう平和憲法』や『9条は世界の宝』と書いた車両を走らせていましたが、同社は今年から中止することを決めました。市民から批判の声が出ています。
平和憲法ネットワークなどが2006年から(途中2回中断)『平和憲法号』を、高知憲法会議などが昨年から『憲法9条号』をそれぞれ運行。憲法記念日の5月3日前後から終戦記念日の8月中旬まで高知市を中心に25・3キロの区間を走らせていました。80万円ほどの費用は市民カンパで賄ってきました。
土佐電鉄では、昨年の運行に対し市民から電話やメールで賛同の意見とともに、『意見広告ではないか』との指摘があったとして論議。国会でも憲法論議が高まっている時に『政治的と受け取られかねない』と判断し『走らさない』と団体に通告してきました」
「平和憲法電車」中止の理由が、国会での改憲論議と絡んでいることに注目せざるを得ない。
そして、昨日(4月18日)の毎日夕刊の報道である。「強制連行追悼碑:群馬県が『政治利用』と許可更新に応じず」という記事。「記憶 反省 そして友好」と刻まれている朝鮮人強制連行追悼碑の設置許可更新に県が応じていないという記事。全文を転記しておきたい。
「第二次世界大戦中の強制連行で犠牲になった韓国・朝鮮人を追悼しようと、群馬県高崎市の県立公園『群馬の森』に建てられた石碑を巡り、県が『政治利用されている可能性がある』として設置許可の更新に応じていないことが分かった。碑を管理する市民団体『追悼碑を守る会』は『平和と友好を誓った碑を撤去せざるを得なくなる』と懸念している。
市民団体が県の設置許可を得て、2004年4月に追悼碑を建立。高さ1.8メートルで、『わが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する』などと刻まれている。
県や守る会によると、12年から『碑文が反日的なので撤去して』との苦情が計約100件あった。その後、県は、12年の追悼集会で参加者が高校授業料無償化の対象から朝鮮学校を除外する政府方針を批判したことなどについて、『政治的行事を行わないと定めた設置許可条件に抵触する可能性がある』と問題視するようになった。
県は今年1月に『政治的発言と考えるか』などとの質問を出したが、守る会は『集会が丸ごと政治喧伝の場であったかのように決めつけている』として回答を拒否。碑の設置許可は10年間だが、県は更新申請を保留し、1月に期限が切れた。
守る会の猪上輝雄事務局長(84)は『韓国や中国との関係がぎくしゃくしているこの時代にこそ、碑の意味がある』と訴える。県都市計画課は『再度の回答要請も含めて対応を検討中』としている。」
問題の発端が「碑文が反日的なので撤去して」との「約100件の苦情」であったというのだ。県当局が、このような排外的な、歴史修正主義者たちの「意見」に振り回されている様子が情けない。しかし、群馬県は、設置許可更新の申請に回答を保留し、まだ拒否したということではなさそうだ。是非良識を発揮して着地点を見つけてもらいたい。
仮に、設置挙許可更新拒否、碑の撤去要求という事態に至るようなことがあれば、日韓、日朝間の大きな問題となるだけではない。国際世論から、「いまだに日本は、侵略戦争や植民地支配への反省をしていない」として指弾されざるを得ない。また、10年前には碑の設置を許可し、今設置許可の更新を拒否する、その姿勢の豹変ぶりが、軍国主義化、大国主義への路線変更と各国に印象づけられることにもなるだろう。
それにしても、「政治的中立」あるいは、「意見が別れている問題への支持支援拒否」という名目での、その実は「著しい政治的偏向」の動きには、その都度的確に抗議しなければならない。自治体にとって、「護憲」も「改憲」も、どっちもどっちの「政治的」イシューなのではない。自治体が支持・支援すべきは、「憲法擁護」「改憲阻止」「憲法の理念の実現」というテーマである。つまりは、平和・人権・民主主義に与する方向であって、「改憲」「排外主義」「差別」「反人権」ではない。基準はあくまで日本国憲法なのだ。憲法を遵守すること、憲法理念の実現に努力することは、自治体の責務と認識されなければならない。
(2014年4月19日)
本日の朝日の報道によれば、市民団体「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」が、「受信料支払いを半年間凍結するよう視聴者に呼びかける運動」を始めるとのこと。その運動方針に全面的に賛意を表明し支持を惜しまない。
報道内容は以下のとおり。
「就任会見での政治的中立性を疑われる発言などが問題になっているNHKの籾井勝人会長について、市民団体『NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ』は17日、籾井氏が4月中に自ら辞任しない場合、受信料を今後半年間支払わないよう視聴者に呼びかける運動を始める、と発表した。
醍醐聰共同代表によれば、同団体は21日にNHKの担当者と面会する予定。籾井氏に4月中の辞任を求めるとともに、籾井氏と全理事、経営委員会に対し、運動を起こすことを通知する。受信料の不払いではなく、あくまで『支払いの凍結』とし、籾井氏が辞任した場合は支払いを再開するとともに、滞納分も支払うよう呼びかける。」
運動には、なによりも道理が必要だ。多くの人の共感を得るための道理。それなくしては運動として成立する余地がない。運動の目標を達成することもおぼつかない。しかし、運動とは闘いでもある。道理だけでは必ずしも十分ではない。目標達成のための武器が必要だ。人を殺傷する本物の武器は逆効果、要求獲得のための手段・力が必要なのだ。まずは多くの人に問題を正確に知ってもらうこと。そして、運動への共鳴の声をあげてもらうこと。それが力となる。それだけではなく、社会的に許容された範囲での実力行使の武器が欲しい。
労働者は、労働条件改善の要求実現手段として、労働組合を結成して、団体交渉をするだけではない。実力を行使することによって目標を達成する。交渉力は、実力行使を背景とすることを源泉とする。要求は、口達者が交渉で勝ち取るものではない。とどのつまりは、どれだけの争議ができるかが交渉による妥結の水準を決める。団結権・団体交渉権だけではなく争議権を含む労働三権が、労働者自身による労働条件改善のためのワンセットの闘いの武器として憲法28条によって保障されている。
消費者運動では問題企業を糾弾するために、不買運動が呼び掛けられる。企業と闘う強力な武器として、不買運動は有効な実力行使手段である。
NHKの会長や経営委員辞任要求には十分な道理がある。道理だけはなく、受信料支払い凍結という要求獲得手段は、極めて大きなインパクトを持ちうる。受信料支払い凍結は、籾井会長辞任要求の手段としてだけに限定される模様だが、5月以降の半年間にどれだけの視聴者が参加するかが、闘いの成果の分かれ目となる。
この運動の特徴は、「受信料不払い」ではなく「半年間の支払い凍結」としている点にある。籾井会長が辞任すれば、その時点で遡って支払いを回復するとしているわけだ。凍結期間の半年を経過して、籾井会長がまだ居座っている場合にどうするか。報道では、会の方針は明確にされていないが、半年と期間を限定しているのは、運動としてはそれ以上の支払留保の継続を呼び掛けない意向だと忖度される。おそらくは、そこで凍結継続の是非は各人の意思に任される。事実上多くの人が継続することになるだろう。
しかし、運動としては、取りあえず半年の期間だけの受信料の凍結、すなわち支払いの留保の呼びかけなのだ。不払いよりもずっと参加のハードルが低い。「会長辞任までは無期限で凍結継続」と悲壮な覚悟を決めなくても、多くの人の参加を期待しうる。安倍政権による籾井会長人事への不快感や、NHKの公共放送としての在り方に疑念をもつ人は多い。このよう人に、格好の意思表明手段ではないか。なによりも、NHKにダメージを与えることが運動の主目的ではないことが明白とされている。現場スタッフの良心を大切にし、これを励まし、連携した運動を志す運動であることに意味が大きい。
訪問集金の視聴者は、今後半年の訪問による受信料集金への支払いを凍結する。口座引き落としであれば当面半年間の引き落としを止めることになる。その半年の間に、籾井会長辞任となれば、直ちに支払い凍結を解除し未払い分も支払うことにするということになるだろう。運動提起者の認識は、短期決戦ということと推察される。
ところで、「視聴者コミュニティ」のホームページのトラックバックに、次の記事を見つけた。
「今回の騒動で、個人的に不払いという形で抗議の意思を明らかにしてます。しかし、受信料不払い・支払い延期運動を団体が起こした場合、威力業務妨害罪に問われやすいよね。あの馬鹿な長谷川だって2ヶ月後には払ってる訳だし・・。この運動に賛同したいんだけど威力業務妨害罪は刑事事件にあたるから友人知人を誘いづらい。出来れば、法的に一切問題がないとの当局なり弁護士団体なりの御墨付きが欲しいと思います。」
これには、少し驚いた。どこかで、悪質な宣伝活動が行われているのかも知れない。籾井会長の「政府が右といえば左とは言えない」「従軍慰安婦はどこの国にもあったこと」発言を支持する勢力はあるのだから。会長辞任要求などはとんでもない、ましてや不払いの呼びかけなど、という動きがあってもおかしくはない。
当局からの「御墨付き」を得ることは無理である。弁護士団体の御墨付きは、間に合わない。私の言では「御墨付き」にはならないが、法律家の常識を以下のとおり述べておきたい。
NHK受信料の支払い義務は、NHKと視聴者個人との各受信契約締結の効果として生じている。支払い凍結は、受信契約を締結した視聴者についてのものであるから、民事上の債務不履行という状態にはなりうる。本件の場合金額は小さいものの、借金の返済が遅滞している、家賃の支払いが滞っている、キャッシングの決済が未了となっている、などと同じ事態。だから、NHKから民事的な催告があることは予想される。
催告を拒否しても、民事訴訟の判決がない限り強制執行はできない。では、民事訴訟はあり得るか。その可能性はないとは言えない。とはいうものの、訴訟コストを考えれば、半年の期間の支払い凍結に対する提訴は現実的には合理性を欠き可能性は低い。おそらくはあり得ないと考えるのが常識的だろう。
仮に、NHKからの提訴があった場合には、多くの視聴者が共同して応訴することになるだろう。その場合には、視聴者側の言い分を堂々と述べることになる。受信契約は双務契約であるから、NHK側が自分の債務を履行していることが大前提でなくてはならない。放送法に定められた公共放送としての責務をきちんと果たしているかを問題としなければならない。籾井会長や、百田・長谷川などの経営委員の、人選や言動、あるいはその放送内容への影響などが裁判の焦点となるものと考えられる。安倍晋三の女性国際戦犯法廷取材番組への介入の事実も再度問題となろう。大裁判といってよい。到底半年で決着がつくはずもない。凍結期間半年が経過すれば、裁判も終了する。以上が民事の問題。警察や検察が介入する問題ではない。
では、刑事的に問題となりうるか。絶対になり得ないと言ってよい。仮にこの受信料支払い凍結運動で、いささかなりとも警察が動くようなことがあれば、それこそ日本は警察国家と言わねばならない。世も末の全体主義、安倍政権の恐怖政治というほかはない。
おそらく、悪質な税金の不払いが犯罪となりうるという類推から、NHK受信料の滞納も刑事事件となりうるのではと心配の向きがあるのではないか。NHK受信料の不払いは、あくまで民事的な問題で、刑事上の制裁とは一切無縁である。
放送法に、「受信料不払いの罪」があるわけではない。その他NHKの受信料収入を刑事制裁をもって確保する特別の法律はない。受信契約なしでは受信料の請求すらできないのだから、税金の取り立てとはまったく異なるのだ。
では、刑法上の業務妨害となるか。刑法の規定は、以下のとおりである。
第233条: 虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
第234条 威力を用いて人の業務を妨害した者も、前条の例による。
「偽計を用い」た場合が偽計業務妨害、「威力を用い」た場合が威力業務妨害罪となる。偽計とは、「人を欺き(欺罔し)、あるいは人の錯誤・不知を利用したり、人を誘惑するほか、計略や策略を講じるなど、威力以外の不正な手段を用いることをいう」。威力とは、「人の意思を制圧するような勢力をいい、暴行・脅迫はもちろん、それまでに至らないものであっても、社会的、経済的地位・権勢を利用した威迫、多衆・団体の力の誇示、騒音喧噪、物の損壊等およそ人の意思を制圧するに足りる勢力一切を含む」(前田雅英編「条解刑法」)とされている。
本件の受信料凍結運動に、「偽計」の要素がないことは一見明白である。また、上記に明らかなように「威力」とは人の意思の制圧であって、受信料の支払いを留保することがNHKの職員の意思を制圧して放送業務を妨害することにはならない。集団での抗議行動が喧噪状態と捉えられるような場合には、威力業務妨害罪が弾圧法規として働く余地あることを警戒しなけれはならないが、単なる料金不払いが人の意思を制圧する行為にはあたらない。
威力業務妨害罪は粗暴犯的色彩の強いものとされており、判例上の具体例としては、暴行・脅迫、物の損壊・隠匿、多衆・団体の力の誇示(労働争議に関わるもの)、騒音・喧噪によるもの、その他(デパートの食堂に蛇20匹を撒き散らした。猫の死骸を事務机の引出に入れた。国税調査官の車の前に座り込んだ…)などからイメージの把握が可能である。また、その保護法益は、業務の平穏円滑な遂行と理解されており、不払い自体が放送業務の遂行を妨害するものではなく、この点からも犯罪は成立し得ない。
「半年間受信料凍結」運動への参加が刑事事件となることはあり得ない。その点は安心して、籾井NHK会長辞任要求の運動にご参加されたい。
*********************************************************************
カレル・チャペックさん、無い物ねだりはおやめなさい
カレル・チャペックは「園芸家12カ月」で無い物ねだりをしている。
「園芸家は文明によってつくり出された人種であって、自然淘汰の結果ではない。園芸家が、もし自然から進化したとしたら、外観がちがっていたはずだ。第一、しゃがまないですむように、カブトムシのような脚をしていただろう。そして、翅をもっていただろう。そうすれば、見た目もきれいだし、花壇の上を飛ぶことができたからだ。人間の脚などというものは、置き場がないときはどんなに邪魔っけなものか、しゃがまなければならないときには、どんなに不必要に長いものか、また、寄せ植えのしてあるサルヴィアや、アキレシアのシュートをふまずにまたいで、花壇のむこう側にとどかせたいときには、どんなに腹が立つほど短いものか、経験の無いものには想像もできない。・・ところが、園芸家のからだもほかの人間と同じように不完全に作られているので、できるだけの芸当をやる以外に方法がない。ロシアの踊り子のように片脚をあげて、爪さきでバランスをとって宙に浮かんだり、両脚を4メートルも開いて、チョウチョか鶺鴒のように軽く地面の上を歩いたり、1平方インチの場所に全身の重みをかけ、傾斜する物体のあらゆる法則を無視して平衡をたもちながら、あらゆるものを避けて、あらゆるところへ手をとどかせる」
全く同感だ。身体を動かすたびに、やっと出てきたばかりのチゴユリの芽を踏んづけたり、モミジの大切な枝をボキリと折ったりするので、舌打ちをしながら、悔し涙を流しながらそう思う。伸縮自在の腕と指がほしい。園芸家でなくとも、座ったまま電気のスイッチをきったり、開けたままのドアを閉めたりできたら、誰だってうれしいだろう。欲を言えば、物を運ぶとき何回も行ったり来たりしなくてすむように、腕が何本もあったらいい。ワープロ打ちながら、コーヒーを飲みながら、痒いところをかくこともできる。しかし、風呂に入ったときはそんな長い腕を何本も洗うのは大変だ。何本も手があったら、爪を切るのも一仕事だ。そう考えると、腕も指も少ない方がいいかもしれない。欲張りの心は揺れ動く。目は後ろにもあったらいい。でも後ろに眼鏡をかけるのは難しそうだ。コンタクトを入れるのはもつと大変だ。脚だって4本あれば、疲れたときには別の足で歩ける。食いしん坊は口が二つあったらと思うかもしれない。嘘つき政治家は滑らかな舌がもう一枚欲しいだろう。
と、人の欲望は限りを知らない。ところが現実は、年をとるとともに、今もっている能力でさえ日ごとに失われていく。目は遠くも近くも見えなくなる。色もぼんやりしているようだ。耳も低音が聞こえないらしい。少し歩けば、脚だけでなく全身疲れる。すぐにものにつまづく。平衡感覚も悪くなってきたようだ。ただ立っていてさえ、地震がきたのかとまわりを見回したりする。決定的なのは、記憶力の減退だ。アレ、コレ、アノ、ソノで会話しようとする。そんな自分に腹が立つ。新しいことは覚えられない。古いことは思い出せない。そうであるなら、増えた腕や脚の使い方はとうてい覚えられない。古い腕や脚にこんがらがって、イライラするばかりだろう。目が見えなくなったって、記憶のなかのものの方が美しいこともある。耳が聞こえなくたって、どうせたいしたことを言ってるわけじゃない。無い物ねだりはやめておいたほうがいいのかもしれない。
***************************************************************************
NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。
下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
***************************************************************************
NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年4月18日)
孟子は、人の性を善なるものと説いた。孟子公孫丑編の四端説の章に、次の有名な一節がある。高校時代に漢文の授業で習った。
「人みな人に忍びざるの心有り。…人みな人に忍びざるの心有りと謂ふ所以は、いま、人たちまち孺子の将に井に入らんとするを見れば、みな怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以にあらず、誉れを郷党朋友に要むる所以にあらず、其の声を悪みて然るにもあらざるなり。これに由りてこれを観れば、惻隠の心なきは、人にあらざるなり。羞悪の心なきは、人にあらざるなり。辞譲の心なきは、人にあらざるなり。是非の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり」(今里禎の読み下し)
次のような大意であろう。
「誰にだって、思いやりの心がある。だってね、ちっちゃい子が井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰だって、『あっ危ない、何とかしてあげなくちゃ』って思うだろう。その子の親に取り入ろうとか、周りの人たちに褒めてもらおうとか、なにもしなけりゃ悪口を言われるからってわけじゃない。だからね、思いやりの心というのは誰にでもあるんだ。これなくちゃ人間じゃない。悪を恥じる心も、譲り合う心も、善悪を判断する心もおんなじだ。」
その上で「四端」が説かれる。惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が、それぞれ仁・義・礼・智の各「端」(今里訳では、端を「芽生え」としている。「糸口」などという洒落た訳もある。)であるというもの。高校時代、よくは分からないながら、「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」「惻隠の心は仁の端なり」のフレーズが印象に残った。
「孟子」には、人が生来もっているはずの善として、惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が語られている。中でも、「惻隠の心」である。どう理解すればよいのだろう。
藤堂明保の「漢字源」によれば、惻とは「いつも心について離れない。ひしひしと心に迫る」の意という。「惻隠」は、「ひしひしといたわしく思う」とされている。広辞苑もこれによったか、「いたわしく思うこと。あわれみ」とある。「同情する心」、「痛ましく思うこと」、「慈しむこと」などとも解されているようだ。私には、「思いやり」の語が一番しっくりする。
今にして思う。孟子の説いている善とは、人の痛みへの共感のことではないのだろうか。子どもが井戸に落ちそうになれば、とっさに助けたいと思う。もし、落ちてしまえば、その子の苦しみは自分の苦痛となる。その子の母の嘆きは、自分の悲嘆でもある。人間の尊厳を尊重し、人間の尊厳の侵害に対して、侵害された人に寄り添い、共感をもってともに痛む心、それが「惻隠の心」ではないか。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」は今に通じる名言だと思う。
韓国の旅客船セウォル号が一昨日(4月16日)珍島付近で沈没し、多数の死者と行方不明者を出している。リアルタイムの報道に胸が締めつけられる。狂わんばかりに、わが子の安否を案じる母親の姿に心の痛まない者はない。
「船内にいる子どもからメッセージが届いた」という報道があった。沈没した船内に取り残されたという男子生徒から、兄に携帯電話の文字メッセージが届いた。生存者がおり、救出を求める内容で、「今ここは船の中、何も見えない。男子数人と女の子が泣いている。まだ私は死んでいない」と記されたものだったという。涙がこぼれそうになる。いま、韓国民だけでなく、日本国民も「惻隠の心」を感じている。ヘイトスピーチの連中も、人として同様であろう。
ところが、残念なことに、「惻隠の心」を持ち合わせていない人もいる。性善説が揺らぎかねない。
今月13日、米カンザス州オーバーランドパークのユダヤ教系施設で、銃撃によって3人が殺害された。犯人として逮捕されたのはフレージャー・グレン・クロス(73歳)。コミュニティーセンターの駐車場で14歳の少年と祖父を射殺し、さらに近くの高齢者介護施設の駐車場で女性1人を殺害した。白人至上主義者集団クー・クラックス・クラン(KKK)に関連する団体の元幹部で、極端な反ユダヤ主義活動家であり、黒人への嫌がらせを繰り返してもいたという。事件が起きた13日は、ユダヤ教の行事「過越の祭り」開始日の前日だった。地元テレビ局の映像には、逮捕された容疑者がパトカーの後部座席から「ヒトラー万歳」と叫ぶ姿が映っていた(CNNの報道)。
死亡した少年は、歌唱コンテストのオーディションに出場するため祖父の車でセンターを訪れていた。祖父は現役の医師。皮肉なことに、2人ともキリスト教徒だった。被害者の女性は、介護施設に入居中の母親を毎週末見舞っており、その施設の駐車場で撃たれた。視覚障害児の施設で作業療法士を務め、この人もカトリック教会に所属していた。
この犯人には、惻隠の情がない。彼がユダヤ人と思い込んだ3人に、それぞれの人生があり、家族があり、交流する人々がいることを考えられない。死への恐怖や、心の痛み、周りの人の悲哀に共感すべき心が失われている。井戸に落ちそうな子どもを救うはずの人間が、子どもを井戸に突き落としたのだ。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」というほかはない。
しかし、孟子の性善説も、次のように解釈されている。
「人間の本性が善である、という命題は、けっして現実の人間が善であることを意味しない。『性』を全面的に開花させるためには、人格完成のための努力が必要である。ここに実践倫理としての孟子独自の修養論が内省を中心として展開されるのである」(松枝茂夫・竹内好監修「中国の思想・孟子」)
国籍・言語・宗教・人種・性別・門地・職業・障がいの有無等の一切を捨象して、誰もが等しく人間としての尊厳を尊重されなければならない。「等しく」とは、「弱い立場にある者ほど手厚く」という意味でもある。自己と他者をともに人間としての尊厳あるものとする姿勢は、「性善」だからといって当然に現実化しているわけではない。その本来の善を開花させるために、人権尊重の教育が必要なのだ。徹底して差別を戒める教育が重要なのだ。惻隠の情の獲得は、具体的に心身の痛みを背負う人々と接触し、その人たちの痛みや嘆き苦しみ悲哀を身近に感じることが糸口であろう。そのことから、人間としての尊厳を傷つけられた者に対しての、共感能力が育つ。私は、現代の教養とは、人権侵害の被害に対する共感能力のことだと思っている。人権侵害に、敏感でありたい。
*******************************************************************
八重の「御室桜(オムロザクラ)」が世代交代で一重の桜に
昨日、恒例の根津神社のツツジ祭りへ行ってきた。まだ2分咲き程度で、入場券にプリントされた写真とはだいぶ様子が違っていたが、緑に混じった色とりどりのツツジは初々しく美しかった。見物客が少なくてゆっくり見られたこともなによりだった。
ツツジ山を下りたところによしず張りの植木屋の店が出ている。今年はもう絶対、植木は買わないと強い決意で、「見るだけ、見るだけ」と覗いてみると、シロ花のハナズオウと八重桜が私をがっちりとらえて、「つれてって、つれてって」と放してくれない。どうしたって運命的出会いには抗えるものではない。紫色のハナズオウはよくあるけれど、白は珍しい。八重桜は「キクシダレ(菊枝垂)」。これもなかなかお目にかかれるものじゃない。花は濃いめのピンクの八重咲き。小さな花弁がギッシリ集まってボール状になって、それが3から5花ぐらいづつかたまってぶら下がっている。何とも可憐である。置いて帰るわけにはいかない。
さて、帰宅して、花弁の数を数えてみたら、一花につき91枚、116枚、124枚と花を3つまで分解して数えたが、それ以上は根気が続かずやめてしまった。径3センチメートルの小花に大体100枚以上の花弁がついている。雌しべは1本、雄しべはかすかに3,4本。雄しべは花弁に変化してしまったのだ。真ん中の花弁は糸くずのように細くて小さい。こんな花弁数が極端に多い八重咲きをキク咲きという。
枝垂れない普通の「キクザクラ(菊桜)」は花弁が、100枚から180枚。「ケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)」は100枚から300枚。「ライゴウジキクザクラ(来迎寺菊桜)」は2段咲きで90枚から270枚。「フジキクザクラ(富士菊桜)」は2段咲きで300枚から400枚。トップクラスは「ヒヨドリザクラ(鵯桜)」で、2段咲きで280枚から450枚。以上は「日本の桜」(木原浩ほか著 山と渓谷社)からピックアップしたもの。ヤマザクラのような5弁花に飽き足らない人たちは、400枚もの花弁をもつようなサトザクラをつくりあげたのだ。おかげで春になると、ソメイヨシノやヤマザクラのシンプルな美しさとサトザクラの豪華さの前で、どちらがいいか心が引き裂かれる思いがする。
京都仁和寺の「御室桜(オムロザクラ)」は京都の春の最後を飾る遅咲きの八重桜。種類は「オムロアリアケ」。ヤマザクラの影響の見られるサトザクラで花弁が5から10枚のふっくりとした八重の白い花を咲かせる。
その御室桜について4月15日付け京都新聞は次のように報じている。
江戸時代に貝原益軒の「京城勝覧」(1718年)は「境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす」と記している。また、昭和初期の研究者香山益彦の「御室の桜」には「八重が多数を占める」と書いてある。ところが、今回調査したところ、212本のうち八重はわずか18本しかなかった。樹齢360年のサクラが枯れて植え変えられたわけではなく、大枝が枯れて、根もとからでてきた「ひこばえ」で世代交代を繰り返しているうちに、そこに咲いた花は一重になってしまったのだ。品種改良された八重のオムロアリアケが先祖返りしてしまったということらしい。
仁和寺の立部佑道門跡は「御室桜は枝が大きくなると枯れてゆく特性があるが、それもまた花の姿の一つ。桜から学んでいこうという気持ちがあるので、御室桜を新しい苗に植え替えるということはしない」と述べている。もっとも、2010年に芽の組織から苗木を作る研究が行われ、今年の4月11日143センチに成長したクローン桜の蕾が一輪開花した。それを報じた朝日新聞の写真を見ると、白いふっくりとした八重桜が映っている。
この話を聞けば、理研の小保方さんのスタップ現象もありうることかもしれない気分がしてくる。組織細胞にお酢をかけて、初期化すれば八重も一重も思いのままなんて、楽しいようでもあり、恐いようでもある。
(2014年4月17日)
サーチナというインタネットメディアがある。かつては「中国情報局」と言っていた。その名称は、サーチ (search) とチャイナ (china) を重ねた造語だという。中国の情報を主とするものだが日本語のメディア。そのメディアに昨日(4月15日)掲載された日本人記者の署名記事を知人からの転送で知った。内容は、大阪と東京の安倍靖国参拝違憲訴訟に関するもの。提訴の内容ではなく、提訴に対する中国人の反応を主としたもの。
タイトルは、「安倍首相の参拝差し止め訴訟、『首相を訴えることができるなんて嘘だろ?』の声=中国版ツイッター」というもの。記事全文は以下のとおり。
「第2次世界大戦の戦没者遺族や市民などが11日、安倍首相による靖国神社への参拝は違憲であると主張し、参拝の差し止めや、原告1人当たり1万円の慰謝料を求める訴えを大阪地方裁判所に起こした。華商網が報じた。
報道によれば、戦没者遺族や市民らは、安倍首相の靖国神社参拝は「憲法が保障する国民の平和的生存権を侵害している」とし、「戦争を美化する行為である」と主張している。また、報道によれば東京でも別の原告らが同様に訴えを起こす予定だ。
日本の首相による靖国神社参拝に対し、中国では非常に強い反発が起こることが常だが、日本の市民団体が安倍首相を訴えたことを中国人ネットユーザーはどのように感じたのだろうか。
簡易投稿サイト・微博に寄せられたコメントを見ると、『一部の日本人が良心的であることが分かった』など、日本国内から靖国神社参拝の差し止めを求める動きが見られたことを評価するユーザーが見られたが、中国人ユーザーの反応で目立ったのは“一国の首相を訴えることができること”に対する驚きの声だった。
確かに、時の権力者を訴えるなどと言うことは中国ではまずあり得ないことだ。そのため「中国の人民は高官を訴える勇気があるだろうか」、「首相を訴えることができるとはすばらしい!」などのコメントも寄せられ、非常に驚いている様子が見て取れた。
なかには「日本では民衆が首相を訴えることができるのか? 裁判所は受理するのか? これは嘘の報道じゃないのか?」というコメントまであった。
多くの中国人ユーザーが今回の訴訟を通じて、日中の政治体制や制度の違いを認識したことは間違いなさそうだ。中国には「陳情」と呼ばれる直訴システムがあるものの、陳情しても解決されないケースも多いと言われており、首相さえ訴えることができる日本の体制を羨んでいる様子を感じることができた。」
たいへんに興味深い。この記事で報じられている中国人の反応のひとつが、靖国違憲訴訟の提訴行動を通じて、『一部の日本人が良心的であることが分かった』という肯定的評価をしていることである。これは、貴重な収穫だ。
政府間の関係がこじれているときほど両国民の信頼関係形成が重要だ。おそらく中国人の目からは、日本人全体が安倍色に染まった均一の集団と見えているのだろう。しかし、実際はそうではないことを知ってもらうことが大切だ。我々も、中国が一色であるはずのないことを知らねばならない。
中国人・韓国人を原告として日本の各地の裁判所に提訴された数多くの戦後補償訴訟があった。原告となったのは、従軍慰安婦とされた人、炭坑や軍需工場に強制連行された人、大量虐殺された事件の奇跡的な生存者、遺棄毒ガスの被害者等々の「皇軍の残虐行為の生き証人」であった。重慶爆撃訴訟など、まだ係属している訴訟もある。中国や韓国の戦争被害者を支援し、その被害救済の訴訟を支えた多くの日本人の活動を誇りに思う。このような運動こそが、真の日中、日韓の友好の基礎となり、国民間の強固な信頼関係形成の土台となりうる。
日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、…この憲法を確定する」と宣言している。戦争の惨禍に向かいあうことこそ、憲法を大切に思う国民の責務である。その戦争の惨禍は、被害と加害の両面がある。加害責任に目をつぶらず、被侵略国の民衆の被害に寄り添うことは、なによりも不再戦の決意を新たにすることである。そして、それだけでなく、国境や民族を超えた人間としての連帯感を築く交流であって、やがて国家を克服することにつながる展望を切り開く質をもつものと思う。11日提訴の大阪訴訟と、21日提訴予定の東京訴訟がともに、法廷内だけではなく、国内外の世論に大きな影響を及ぼす成果をあげることを願う。
もうひとつ。中国の多くのネットユーザーが、「一国の首相を訴えることができることに驚いている」というニュースには、こちらが驚かざるをえない。そもそも司法本来の役割は、国家権力の横暴によって侵害された人権を救済することにあるのだから。国家や国家機関の高官を訴えられないでは司法ではない。
韓国では、国民が裁判所に政府高官を訴えたとて驚く人はない。韓国の憲法裁判所は、政府批判の提訴で溢れており、判決もその期待に応えている。
理屈の上からは、立法や行政が国民の人権に冷淡であるときにこそ、司法が人権救済機関としてその役割を果たすべく期待される。しかし、現実には、立法や行政の「民主化」の進んでいない社会では、司法も十分な機能を果たし得ない。軍政時代の韓国の裁判所は、政府に不利な判決を書けなかった。政治と社会の民主化が進んで、憲法裁判所も大法院(日本の最高裁に当たる最上級司法裁判所)も、ともに人権擁護の機能を果敢に果たしつつあり、間接的に立法や行政にも大きな影響力をもつ存在となっている。日本の裁判所の判断の臆病さに歯がみすることが多い私などには、羨望の的である。
中国の現状は、民主主義の成熟度において未熟といわざるを得ない。国家だろうが幹部だろうが党であろうが、あるいは企業であろうが、あらゆる段階の権力の横暴が人権を侵害すれば、司法の判断に服さねばならない。そして、司法の判断は尊重されなければならず、侵害された人権は救済されなければならない。
この点についても、安倍靖国参拝違憲訴訟が、瞠目の成果を上げることができるよう切に期待する。
(2014年4月16日)
4月12日の当ブログで、「竹富町の八重山採択地区協からの独立の意向を尊重せよ」と書いた。「尊重せよ」の宛名は、安倍政権であり、文科省であり、下村博文文科相であり、石垣・与那国の教育長らのつもりだった。
竹富町教委を支持して政権の不当を論じているのは私ばかりではない。多くの良識の一致するところといってよい。これに対して、産経・読売がタッグを組んだがごとく、瓜二つの社説を書いている。13日産経「竹富町の教科書 法の無視は認められない」、本日(15日)読売「竹富町の教科書 法改正の趣旨踏まえた対応に」というもの。安倍政権が攻撃されれば、産経・読売が反撃する。さながら、集団的自衛権の行使を彷彿とさせる。
中央紙には産経・読売に対抗する社説の掲載はない。4月11日付の沖縄タイムスが政府批判の立ち場から「八重山教科書問題ー政治介入に終止符打て」という渾身の社説を書いている。また、文科省から竹富町への是正要求に関して、3月15日付の琉球新報の「文科相是正要求 道理ゆがめる『恫喝』だ」というこれも気合いのはいった社説がある。両社説とも、客観的に見て格調高く、自説の根拠を具体的に展開して説得力に富む。両社説とも感動的ですらある。産経・読売のお粗末さとはまったく比較にならない。比べて読めば、一目瞭然である。
下記がこの4社説のURLである。是非、読み比べていただきたい。もうひとつ、併せて「沖縄の教科書―両方を使ってみては」という朝日のふやけた社説もどうぞ。沖縄地方二紙の格調が理解されよう。
産経http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140413/trl14041303060002-n1.htm
読売http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140414-OYT1T50106.html
沖タイhttp://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=66620
新報http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-221379-storytopic-11.html
朝日http://www.asahi.com/articles/ASG3G4J94G3GUSPT006.html
産経と読売とでは、多少の差がないわけではない。読売の方がほんの少しだけ反対論に目くばりをしている。独善的な断定調にも多少のぼかしが入っている。産経社説のこの独善の論調は、読者の要求に応えたものなのか、社説執筆陣が読者を先導しているのか。卵と鶏の関係はわからない。拠って来たるところはわからないながらも、産経だけを読んでいる人の精神構造はいったいどうなるのだろうと、他人事ながら心配せざるを得ない。心配のあまり、逐語的に反論を書かねばならないという意欲が湧いてきた。なお、産経批判はそのまま読売批判でもある。産経とほんの少しの差でしかない。五十歩百歩の差にも至らず、せいぜいが「五十歩六十歩」の程度、歩の進む方向はまったく同じである。
産経の社説は「主張」と称されている。4月13日の「主張」は、「竹富町の教科書 法の無視は認められない」との標題。以下、産経社説の部分々々を引用しながら全文を批判する。
「国の是正要求に従わず法改正の趣旨も歪(ゆが)めるのか。教科書採択で沖縄県竹富町教育委員会が、石垣市などとの共同採択から離脱を検討している。これを認めるべきではない。是正要求に従い、勝手な教科書使用をやめることが先だ。」
この出だし。なんと大上段で、なんと大袈裟なことか。滑稽極まる。国家権力から理不尽に人権を蹂躙された側に立って憤るのなら、どんな大声を発してもよい。地方の小さな町が、国の意向に従わないとして、権力の尻馬に乗る姿勢が恥ずかしくはないか。いじめに加担する卑怯な振る舞いというしかない。
しかも臆面なく、典型的な「お上は正しい」「お上のいうことには従え」論。さすがに産経の社説というべきか。本来、ジャーナリズムとは、まず「お上のいうことに本当に理があるのだろうか」「権力への抵抗には一理あるのではないか」を吟味しなければならない。「国の是正要求」は「国の要求」であるから従わねばならないものではない。国とて間違う、いや国も大いに間違うのだ。間違っているか否かの基準は日本国憲法である。憲法大嫌いな安倍政権であれば、大切な問題について間違う公算は極めて高い。是正要求の根拠とされているものには様々な疑義が提示されている。論点は具体的に明確化されているのだ。「法改正の趣旨」についても同様だ。これらの具体的な問題点に触れることがないままの、勝手な結論押し付けをやめることが先だ。
「小規模な市町村は、近隣市町村と共同で教科書を選ぶルールが、義務教育の教科書を配布するための教科書無償措置法で定められている。生活、文化など一体性のある広域で同じ教科書を使えば効率的な配布のほか、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携などメリットが大きいからだ。」
複雑な法体系を一面化しあるいは過度に単純化して把握することが間違いの第一歩である。場合によっては、誤導の論法ともなる。産経社説には教科書無償措置法しか言及されていないが、文科省の有権解釈によれば、地教行法上教科書採択の権限は各市町村の教育委員会にある。各市町村教育委員会の独立性が大前提で、小規模な市町村の便宜のために広域採択の制度ができたと理解すべきであろう。便宜のためであるべき制度が、メリットの享受よりもデメリットの桎梏が優るとなれば、制度利用に縛られるいわれはない。
広域採択のメリットはもちろんある。しかし、同時にデメリットも大きいのだ。広域化のメリットだけを語って、各市町村教育委員会の独立性喪失というデメリットを語らないのは不都合である。産経のいうようなメリットばかりであれば、強制の問題は生じない。事実、今回の法改正以前には、採択地区での教科書採択に強制は予定されていなかった。協議を尽くすべきことことが求められていただけ。
また、本来は、教科書を使う専門家としての現場教師の意見の集約や集団討議による意見反映がもっとも重要視されるべきなのだ。現場の発言の重視は、採択単位が小さいほど現実性を帯びる。現場の教師の影響力をできるだけ排除したいという政策的要求が広域採択の制度になった。「効率的な配布、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携」などのメリットは、当然に現場が考える。押し付けが正当化されることにはならない。
「竹富町の場合、石垣市、与那国町の3市町で八重山採択地区協議会をつくり採択してきた。平成23年夏の採択で協議会は、中学公民教科書に育鵬社版を決めた。だが竹富町は従わず東京書籍版の使用を24年度から始めた。地方自治法で最も強い措置の是正要求が出されたが、今年度も違法状態の教科書使用を強行している。」
これを過度の単純化という。むしろ、単純化を装った意図的な事実の曲解というべきであろう。この単純化への反駁として、少し長いが、「不審な経過」と小見出しを付された、3月15日付琉球新報社説の一節を引用する。
『そもそも竹富町教委の行為は正当な教育行政だ。それをあたかも違法であるかのように政府は印象操作している。
経過を振り返る。石垣・竹富・与那国3市町の教科書を話し合う八重山採択地区協議会会長の玉津博克石垣市教育長は2011年6月、教科書調査員を独断で選任できるよう規約を改正しようとして反対された。役員会で選任することになったが、玉津氏は役員会を開くことなく独断で委嘱した。
その調査員も、報告書では、保守色の極めて強い育鵬社版の中学・公民の教科書について「文中に沖縄の米軍基地に関する記述がない」などと難点を指摘。複数を推薦した中に育鵬社版は入れていなかった。
だが同年8月23日の採択地区協議会は、玉津氏の主導で育鵬社版を選ぶよう答申した。しかし竹富町教委は8月27日、選考過程における前述の不審な点を挙げ、育鵬社版でなく東京書籍版を選んだ。
一方、石垣・与那国2市町教委は育鵬社版を選定。3市町教委は8月31日に採択地区協議会を開き、再協議したが、決裂した。
9月8日、今度は3市町教育委員全員で協議し、多数決で東京書籍版を選んだ。だが文科省は「全員協議はどこにも規約がない」と、この選定を無効とした。
規約の有無を言うなら、玉津氏の調査員選任も規約にない手法だった。その点は問わないのか。
政府は同年11月、「自ら教科書を購入して生徒に無償で給与することは、無償措置法でも禁止されるものではない」との答弁書を閣議決定している。竹富町教委の行為は合法だと閣議で決めたのだ。それが自民党に政権交代した途端、違法になるというのか。』
迫力十分な叙述である。経過の説明は以上に尽きる。これへの反論は聞いたことがない。
「竹富町の共同採択離脱の方針は、9日に成立した教科書無償措置法改正に伴うものだ。採択地区の構成単位を「市郡」から「市町村」に変えたことを捉え町単独で採択できるとしている。沖縄県教委は要望を受け認める方向だ。
この改正は市町村合併に伴い、飛び地の自治体が共同採択するケースなどができ、不都合を解消しやすいよう見直したものだ。竹富町にはあてはまらない。」
この法改正の趣旨が最大の問題なのに、産経社説は、何とも迫力に欠ける。結論は明瞭だが、根拠の薄弱なことこの上ない。読者を説得する意思も能力もないことを露呈するのみ。
文科省が、ホームページに「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の一部を改正する法律案」について、下記URLに、概要、要綱、案文・理由、新旧対照表を掲載している。ここには産経の言い分に与するものはひと言もない。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/1344707.htm
産経の社説は、下村文科相の言い分を口移しにしただけのものだが、これについては、4月11日付沖縄タイムス社説が次のとおり反駁している。
『下村博文文科相は3月の会見で「(採択地区は)市町村教委の意見を尊重しながら、県教委が最終的に決定する」と明言。県教委が竹富町を分離しても「法の違反には当たらない」と述べた。
政府見解は腰の定まらない印象をぬぐえない。国の恣意(しい)的な法律運用がまかり通れば不当のそしりは免れない。』
法の解釈は、文理解釈が基本である。法の文言が明晰性を欠き、文理解釈が困難なときにはじめて、立法者意思などが忖度されて目的論的解釈などに頼らざるを得なくなる。本件では、そのような事情なく、法文は極めて明晰である。ややくどいが、産経の読者にもわかるように噛み砕いて、解説しておきたい。
改正前の教科書無償措置法12条1項は、「市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に」教科書用図書採択地区を設定しなければならないと定めていた。だから、採択地区は、論理的に、「市」「郡」という区域単独の場合と、「市および郡」をあわせた地域から構成される場合があり得たことになり、それ以外はなかった。つまり、市は単独で採択地区を構成することはできたが、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったのである。
改正法は、当該箇所を「市町村の区域又はこれらの区域を併せた地域に」と変更した。これによって、採択地区は、論理的に、「市」「町」「村」という各区域単独の場合と、「市および町」「町および村」「村および市」「市および町および市」を併せた地域から構成される場合があり得ることとなった。つまり、これまで、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったが、郡という区域単位を捨象することによって、町・村ともに、単独での採択地区となる資格を取得したのである。「飛び地の自治体が共同採択する不都合を解消しやすいよう見直す」こともあり得ようが、それにとどまるなどとは条文の読みようがない。「竹富町にはあてはまらない」などということに何の根拠もない。
「同法改正では、共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された。竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ。」
改正法が13条5項が、「共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された」ことは、指摘のとおりである。そのための法改正であった。反対解釈からは、改正前には、「共同採択地区で同一教科書を使う義務は存在しなかった」と言える。これまでの竹富町教委の行動に違法があったとは到底考えられない。今後は、県教委の承認があれば、竹富町の独立した教科書採択は可能となる。「竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ」などの言は児戯に等しい。役場の存在場所が自治体の独立性を蹂躙する理由にはならない。「共同採択が自然だ」などというふやけたことが何の根拠とも理由ともなり得ない。
「下村博文文部科学相は、採択の際に教科書の内容を吟味する調査研究が、小規模の教委では難しいことも挙げ、法の趣旨を竹富町教委に「しっかり伝える」としている。沖縄県教委も法を曲げないでもらいたい。協議会が育鵬社版を選んだのは、尖閣諸島を抱える地域性から、領土などの記述が詳しい内容を重視した結果だ。」
ここにいたって、本性露顕である。恐るべき「論理」といわねばならない。教育の本旨の何たるか、教育が行政から、なかんずく国家から独立していなければならないとする大原則に無理解も甚だしい。「小規模教委は大規模教委に付け」とするのは、教育の地方分権に対する露骨な敵対感情である。教育は国家統制から距離を置かねばならない。国より広域自治体の教育委員会、広域自治体よりは基礎自治体の教育委員会、さらには学校、そして教師一人一人の独立と、分権が理想である。産経社説の「論理」はその真逆なのだ。
「同社版の歴史や公民教科書に対しては「戦争を美化する保守系教科書」などと批判が繰り返されていた。いわれのない教科書批判にとらわれ、採択を歪めたのは竹富町や沖縄県教委の方である。法に従わぬ教育委員会に安心して教育は任せられない。国の責任で是正を果たしてもらいたい。」
まさしく、国家による教育統制が安倍政権の狙いであり、右往左往しながらも、下村文科省の狙いでもある。そして、産経・読売がその応援団となっている。
本日の読売社説の一節に、「竹富町教委だけが独自に異なる教科書を採択したのは、明らかに違法行為である。文科省が地方自治法に基づき、是正要求を発動したのは当然のことだった。是正要求に従おうとしない竹富町教委の姿勢は、教育行政を担う機関として、順法精神に欠け、許されるものではない」とある。沖縄タイムスや琉球新報社説を読めば、読売の異常さは明らかとなる。しかし、何百万もの読者に、「竹富町教委・違法」と垂れ流す読売の影響力に背筋が寒くなる。
最後に3月15日琉球新報社説の末尾を引用しておきたい。
『竹富町の教育現場では(教科書採択問題が生じて以来の)過去2年、問題は起きていない。仲村守和元県教育長によると、問題行動は皆無で学力は県内トップ級、科目によっては全国一の県をも凌駕(りょうが)する。静穏に教育が行える環境ができているのだ。子どもたちに無用な混乱をもたらしているのはむしろ文科省の方ではないか』
産経よ、読売よ。竹富町への無用な混乱の助長は余計なお世話なのだ。
琉球新報は、文科省から竹富町に対する違法確認訴訟をスラップ訴訟と警戒している。しかし、竹富町は、このスラップ訴訟の提起を恐れることはない。恫喝目的の提訴自体が不法行為を構成する可能性は高い。その場合には、応訴費用を反訴請求することも可能となる。
がんばれ竹富。叛骨の島。
(2014年4月15日)